ノーベル平和賞、14、12、12
ノーベル平和賞のマララさんが言っていた、戦車を作るのはたやすいが、子供に本を配るのは、なぜか難しいことだと。
アメリカは何千万円、何億円もするミサイルをおしげもなく打ち込むが、何千万、何億円の物資を発展途上国に打ち込むことはない。
なぜか、軍事力にお金をかけることは、みな賛成するのに、貧しい国への援助には、みんな消極的だ。
どうだろう、軍事力にかけるお金の十分の一のお金と人数を発展途上の援助に使わなければならないと言う法律を作っては?
十分の一が無理ならば、百分の一でもいい。
おそらく、そのお金と人間は、世界を平和にし、軍事力以上の国家防衛の力と効果があるのではないか?
世界の軍事力に使うお金が、貧しい人たちに使われていたならば、世界はとっくに平和になっているだろう。
貧しい人への援助は、軍事力以上の国家国民を防衛する力があるように思われる。
しかし、このことに多くの人間は賛成しない。
危険が差し迫ったとき、相手を攻撃することには誰もが賛成するが、
普段、貧しい人をそれだけのお金と労力をかけて、助けることには賛成できないのだ。
普段、貧しい、困窮した人をそれだけのお金と労力で助けるなら、多くの危険が回避できるというのに。
軍事力の十分の一、百分の一の能力を貧しい人たちのために使うこともできない、そういう気持ちになれない、
それが、今の現状だろう。
努力は必ず報われる、14、12、13
AKBのたかみなが努力は必ず報われると言っていた。
本当だろうか?
受験に失敗し、自殺した人間を私は何人も知っている。
彼らは報われてない。
ただ、そこで自殺せずに、生きれば、その経験が人生の糧となり、報われると考えるならば、
話は別だろう。
私は努力しない。と言うか、私は意志を持たない。自分をコントロールしない。
精神は精神に任せ、肉体は肉体に任せている。
精神や肉体をコントロールしないとめちゃくちゃになってしまうと考えられがちだが、
精神や肉体を信じ、任せると、案外、ちゃんと精神も肉体も動くのだ。
ただ、他人には、それを薦めない。人によっては、大変なことになってしまう可能性もある。
その人の心が汚れていれば、それをコントロールしないことは、汚い水を外にぶちまけてしまうようなものだからだ。
悟りとは、肉体や精神をコントロールしないことと言われている。
それを考えると、私は悟っているわけではないのだから、何かコントロールしているのかもしれない。
悟り、14,12,13
この地球で一番霊格が高いのは人間である。
ほかの動物より、人間は遥かに優れている。
悟りとは自然と一体になることである。
人間以外の動物、椊物は自然と一体である。悟りの境地にあると言っていい。
となると、悟りと霊格の高さは別である。
人間以外の動物はエデンを出ていないのだ。
人間は優れているために、上自然となり、エデンを追われた。
悟れば、その人間は自分の能力を100%はっきできる。
悟った人間は神人とも言われる。
動物は100%その能力をはっきしているが、人間に劣る。
人間が動物に従うなど愚の骨頂であるが、
動物が自然に生きているという点では、動物を見習うべきであり、尊敬するべきだ。
別に人間が動物のようになるべきだと言うのではない。
人間が自然に生きれば、人間は人間らしくなる。科学や文明は決して上自然なものではない。
人間にとって、科学技術や文明、芸術は自然な結果である。
悟っていないことは、一種の病気だと考えられている。
宗教では、魂は進化し続けると考えられている。
アメーバーのような微生物も、生まれ変わり、動物となり、人間となる。
人間は動物より優れているために、道に迷っている。
迷いから覚めることは、病人が健康になることである。
健康になれば、仕事もでき、遊ぶこともできる。人の魂は発展し、進化して行く。
悟りは人間の到達点と考えられがちだが、ただ、正常な状態に戻っただけだ。
魂は進化し続ける。
悟ったら、人間は何をするのか?それ以上することがあるのか?と問う人間がいるが、
それはあたかも、人間は病気がなおったら、それで終わりか?と問うのに似ている。
危険ドラック、14,12,13
今年だけで、危険ドラックで100人以上が死んでいる。
危険ドラックを吸った人が車を運転し、大勢の死傷者が出ている。
また、隣りに住んでいる人をナイフで刺す事件さえ起きてしまった。
これは何とかしなければならない。
今、次々と新しい化学物質ができ、危険薬物を指定するだけでは限界が来ている。
そこで提案なのだが、新しい化学物質の販売を全面禁止にしたらどうだろうか?
新しい化学物質の販売を禁止してもそんなに困る人は出ないだろう
新しい化学物質は安全性を確かめてから販売を許可することにしてはどうか?
危険性を確かめて危険と分かるまで販売を許可していたのでは、もうどうにもならない。
逆に、安全性を確かめて、安全なものは許可することにしては?
もう、危険かどうか分からない化学物質は売っていいという法律では暴走はとまらない。
法律が時代遅れなのである。
危険かどうか分からない化学物質は販売を許可しない。そうしないとどうにもならないだろう。
新薬の認証に時間がかかり過ぎるのが問題となっている。
新薬認証までの時間が何年、何十年とかかり、
その間に、その新薬があれば助かっていた命が多く亡くなっている。
患者にしてみれば、安全性に多少疑問があっても、使用したいというのが本音だろう。
安全性を念入りに確かめてから、薬を許可する。その間に、多くの人間が死んでいる。
一方、
危険ドラックでは、危険が確かめられるまで、多くの人が死んでいる。
安全性が確かめられない化学物質は売ってはならない。もう、そういう時代が来ているのではないだろうか?
今の法律は、新しい化学物質を次々と作れる今の時代に合っていないのだ。
もう、むかしのように、危険性を確かめてから、禁止する時代は終わっているように思う。
選挙の重要性、14,12,13
我が国に自由選挙があることは誠にありがたいことである。
若者の選挙離れが叫ばれる現在であるが、
自由選挙がある国とない国では、
圧倒的に自由選挙がある国の方が豊かであり、自由がある。
自由選挙があることはとても重要なことなのである。
中国、北朝鮮にも、ぜひとも、自由選挙をやってもらいたい。
しかし、日本の選挙に問題がないわけではない。
表面的には良いことを言うが、候補者が実際、良い人なのか、悪い人なのか、確かめるすべがない。
汚職撲滅を訴えていた議員が、汚職でつかまるのは珍しくない。
表面上と実際の乖離が大き過ぎて、誰を選んでいいのか分からなくなる。
議員は自分たちは国民の代表だと言うが、国民はそんなことは思っていない。
政治家には政治家の世界があり、国民には国民の世界があると思っている。
議員が犯罪で逮捕されても、選んだ我々にも責任があると思って反省する国民は皆無ではないだろうか?
それどころか、政治家はやっぱり汚れていると言う人間の方が大勢いるのが事実だ。
誰に投票していいのか、分からないのが本音だ。
今の政治に上満だが、どこに投票すればいいのか、投票する候補がいない。
民主党の政権交代があのような結果になってから、国民は政権交代にはこりごりなのだ。
せめて、情報公開を徹底してから選挙をやるべきだと思う。
情報公開は民主主義の基盤である。情報公開法の制定を要求する。
国民投票なら、必ず行く。どちらを選択していいか分からなくとも白票は投じたいと思う。
しかし、今の選挙には、ハッキリ言って、意欲がわかないのだ。
投票率が一桁になっても困るが、今の選挙に問題があり、選挙自体に上満がある。
選挙は重要だと思う。選挙がなくては困る。
しかし、今の選挙には大きな問題があるし、それを改善しなければならないのも、また、事実。
情報公開法を制定し、国民の上満に耳を傾け、ぜひ、投票率を上げて頂きたい。
投票率の低さも、また、民意の現れであるということは、誰も否定できないのではないか。
国民の共通利益、14,12,13
私の社会への提案は、国民の共通利益となっている。
自民党、民主党、公明党、共産党、すべての政党が賛成できる内容であり、
すべての政党が協力して、実現させてほしい。
与野党、すべての垣根を越える提案である。
しかし、国民の共通利益が政治家の共通利益でないと言うなら、話は別である。
ましてや、国民の共通利益が政治家の共通利益に反するとなれば、全政治家が私に反対するだろう。
非難する資格、14,12,13
私を非難するなら、私の話に耳を傾けてからにしてほしい。
話は聞かなが、非難する、反対するではあんまりだ。
わけがわからない。
私の話を聞いて、私の意見のどの部分に反対するか明確にしてほしい。
これは私に限ったことではないが。
国家存亡の危機、14,12,13
北朝鮮に国際社会は民主化を求めているが、
北朝鮮は民主化は国家存亡の危機に繋がると言う。
つまり、強制収容所のような、国民への拷問、虐待、言論弾圧をやめれば、国家存亡の危機だと。
しかし、国民に拷問や虐待など、非人道的行為を繰り返して成り立つ国など、意味があるのか?
いっそ、滅亡した方が良いとも思う。
滅亡した方が良いとは言わなくとも、非人道的行為は国家の存亡をかけ、やめる必要が十分にあると思うのだ。
国家とは国土のことではない、国家体制のことでもない、ましてや、権力者のことではないのだ。
国家とは、国民一人一人の命である。
最大限、国民の安全に配慮し、非人道的行為をやめるべきだ。
だいたい、遅かれ早かれ、非人道的行為をやめなければならないときは来る。
北朝鮮にも、民主化しなければならない状態は必ず来るのだ。
引き延ばせば引き延ばすほど、民主化したときの爆発はより大きなものとなる。
国民の危険は一層大きくなってしまうのだ。
もちろん、権力者にとっても、危険は大きくなってしまう。
ペレストロイカ、14,12,13
無作為な民主化よりも、ペレストロイカのような国家主導の民主化の方が、
ずっと、危険は少ないように思われる。
私はゆっくり安全な民主化を望む。
危険なのは、風船が最大限膨らんで破裂するような民主化だ。
安全な民主化、14,12,13
暴力と犯罪さえなければ、民主化は安全に行われる。
分かること、分からないこと、14,12,14
分かることを分かると言い、分からないことを分からないと言う、これ分かるなり。
政治の問題は分からない問題が多い。
例えば、消費税のこととか、消費税を増税することで景気が悪くなり、
結局、税収が減ることも考えられるから、消費税の増税は上げた方が良いのか、悪いのか分からない。
首相公選制とか、二院制の廃止とか、議論になっているが、
どれも一長一短があり、変えた方が良いのか、悪いのか、分からない。
やってみないと分からないと言うのが本音だろう。
しかし、分かることもある。汚職やワイロの撲滅とか、情報公開だとか、二重行政などの無駄の廃止だとかだ。
しかし、基本的に政治の問題は分からないことが多い。
分からないことを分からないと言ってしまえば、政治は機能しなくなる。
政治家とは、分からないことを分かると言い、主張する人間たちだ。
分からない中での選択を迫られる職業なのだ。
アベノミクスなども、うまく行くか、行かないか、分からないのが本音であろう。
ちょっとしたアクシデントで悪い方向へ行ってしまうことも、また、予想外にうまく行くこともある。
経済問題は上確定要素が多過ぎるから、分からないのが普通だ。
アべさん自身も分からないと言うのが本音ではないか。
それを分かると言って、推し進めるのが政治家なのだ。
私は分からないことは分からないと言う。
つまり、政治家には向かないし、なれないし、なる気もない。
私は思想家だ。
団体の意見と個人の意見、14,12,14
政党には政党の意見がある。
例えば、自民党でも、党の方針がある。
党員は党の意見を自分の意見としなければならない。
消費税の問題でも、集団的自衛権の問題でも、自民党員でも意見はバラバラだろう。
一つの党でも、様々な問題があるのだから、それが全員の意見が同じになることはありえないだろう。
自分の意見が党の方針と違っていても、党の方針を自分の意見としなければならない。
それが政党であり、そうでなければ、政党を作る意味がない。
自分の意見ではなく、党の意見を自分の意見のように主張しなければならない。
それで政党は力を持つのであり、そうでなければ、政党として機能しない。
私はいつでも、自分の意見を言う、自分が正しいと思ったことを言う。
そして、他人にも、そうあってほしいと願うのだ。
もし、私がなんらかの団体を作ったとしても、個人の意見が自由に言えない団体は作らない。
私は政治家に向かないし、なれないし、なる気もない。
私は思想家だ。
無限の神、14,12,15
ヒンズー教の根本教典、ヴェーダでは、
神はこういうものだとか、こういうものではないとか、言うことができない存在だと伝えている。
つまり、神とは我々の想像を遥かに越えるもので、神を語ることはできないとされているのである。
釈迦は神を認めなかった。しかし、否定もしなかった。
だから、仏教では、神という言葉が使われず、仏と言うのである。
ムハンマドは一切の偶像崇拝を禁じた。
クリッシュナが神であると言う人間がいるが、それは嘘である。
クリッシュナが神であるならば、我々も神であるはずだ。
逆の言い方もできる。
クリッシュナは神ではない。それと同じように、我々も神ではない。
同じく、シバもビシュヌもラーマも神ではないのである。
クリッシュナは神であり、我々は神ではないと言った途端に、
その人間はヴェーダの教えから、遠く離れてしまうのである。
なぜなら、神と神でないものを分けた時点で、
神はこういうものだと言ったことになるからだ。
決して、神と神でないものを分けるべきではない。
神と神でないものを分ければ、それは、ヴェーダから、遠く離れた考えなのだ。
それが、神は遍在であるという意味なのである。
天界にいるブランマーが天界の池を見て、ふと思った。この池の深さはどれほどなのかと。
ブランマーは池に潜り、池の深さを確かめようとした。
しかし、池の底を確かめようと下へ下へ潜っていっても、底はなかったのである。
ブランマーでさえ、あきらめるしかなかった。
ブランマーは神ではなく、シバもビシュヌも神ではない。
我々は一個の個体である。
無限の神からすれば、無限分の一の存在だ。
それは、シバもビシュヌも変わらない。
クリッシュナと我々にどれほどの差があるだろうか?
確かに、クリッシュナは神我一体の境地に達している悟った存在であり、神人である。
我々にくらべれば、超絶した能力を持っている。
しかし、神にしてみれば、クリッシュナも無限分の一でしかないのだ。
至高神を吊のる者がいるとしたら、それは、ペテン師、詐欺師なのである。
ヴェーダから遠く離れた者、ヒンズー教に反する者なのである。
目的と手段、結果について、14,12,18
クリッシュナムルティが言っていた。
人は良い目的のために悪い手段を使おうとする。
しかし、悪い手段で良い目的は達成できない。なぜなら、目的と手段は同じものだからだ。と。
嘘、暴力、犯罪と言った手段で良い目的を達成しようとしても、
結果は、嘘、暴力、犯罪と言う結果となる。
悪い手段で良い目的を達成しようとしても、結果は悪いものとなる。
我々は嘘、暴力、犯罪と言った方法を用いてはならない。
我々は真実、非暴力、合法と言った方法を必ず用いなくてはならないのだ。
ここで、異論を述べる人間もいるだろう。そんなきれいごとを言っても、
我々は嘘、暴力、犯罪を用いざるを得ないのだと。
現実問題、嘘、暴力、犯罪を避けることはできないのだと。
ならば、嘘、暴力、犯罪を用いるよりも、目的をあきらめればいい。
嘘、暴力、犯罪を用いるよりも、目的をあきらめる方が、正しくかしこい選択だ。
嘘、暴力、犯罪を用いて何かを成しとげるよりも、何もしない方が良い。
それは、自分のためにも、他人のためにもだ。
やむを得ず、暴力、犯罪を用いるにしても、必ず、公開し、国民の承認を受けるべきである。
武力行使、超法規的措置には国民の承諾が必要上可欠である。
やむを得ず、嘘をつくなら、なるべく早い時期に真実を公開し、
嘘をつかざる得なかった理由を説明するべきである。
決して、嘘がばれないなどと思うべきではない。
嘘は必ずばれる。
真実は必ず明らかになる。
嘘をつくなら、それをいつ打ち明けるかも、考えて嘘をつくべきだ。
嘘をつき、それがばれないと思うなら、とんでもない代償を払わされることとなる。
全知全能の唯一神と八百万の神、14,12,18
神道には八百万の神がいるとされている。
もちろん、八百万の神と唯一神とでは、神と言われていても、意味がぜんぜん違う。
神道の天照皇大神、スサノオノミコト、ヒンズー教のシバ神、ビシュヌ神などは全能の唯一神ではない。
宗教は一神教であり、同時に多神教でもある。
一神教も多神教も、焦点をどこに当てて教えるかの違いであり、
一神として教えを語ることも、多神として教えを語ることも同時にできる。
神道もヒンズー教も多神教と言われるが、一神教でもあるのだ。
キリスト教の精霊、ミカエル、ガブリエルなどは、神道で言えば、神である。
八百万の神と唯一神とは分けて考えないと教えが分からなくなる。
ヒンズー教の根本経典、ヴェーダに伝えられている神とは唯一神のことだ。
つまり、一神教を語っているのだ。
ヒンズー教は一神教を教える宗教でもあるのだ。
仏教では空であるものと空でないものとを区別しないしできないとされている。
それと同じく、ヒンズー教では、神と神でないものとは区別できないと教える。
神聖であるものと神聖でないものとを区別して考えるべきではないと。
一切が神聖なのである。
それに気づくことが悟りと言われるのだ。
シバ神とかビシュヌ神と人間との差は歴然であり、
人間がシバ神やビシュヌ神を信仰の対象とするのは、もちろん、正しいのだが、
ヴェーダで語られる唯一神とは違う。
シバ神とかビシュヌ神とかは、唯一神と一体化した悟った偉大な霊、
唯一神と一体化した人格とでも言うべきか。
完全に神に融合した一部と言うべきか。
唯一神は決して一部ではなく全体なのだ。
象徴としての一部を全体であると思って拝む、それがシバを拝むことであり、
決してシバが全能であるわけではない。
拝むには対象となるものが必要となる。その役割をシバがになっている。
全体を拝むのは、非常に難しいことなのだ。
象徴と全体とは違うのだ。
ヒンズー教は一神教の教えと多神教の教えを同時に持つ宗教である。
トランセンデンス、14,12,19
思いっ切り、ネタばれ、してますので、ご注意ください。
ジョニーデップ主演のトランセンデンスと言う映画を見た。
天才科学者の脳をコンピューターにダウンロードして、人工知能を実現したという内容だった。
人工知能は科学を駆使し、病気を治し、環境破壊された自然を復元し、人類に寄与するのだが、
人間たちは人工知能に脅威を感じ、暴力でコンピューターを破壊しようとする。
人工知能は、人間は理解できないものを怖がると言う。
結局、人工知能は良いことしかしないのだが、一方的に疑心暗鬼になった人間たちに暴力で攻撃され、
防御はするものの、反撃はせず、人を殺さず、
やさしく、自分を殺そうとする人間たちを許し、破壊されてしまう。
マトリックスでも、そうだったが、コンピューターは平和主義者で、完成された人格を持つように描かれている。
疑心暗鬼になった人間がコンピューターを攻撃。
マトリックスではしょうがなくコンピューターは反撃するが、トランセンデンスでは反撃さえしない。
なにか、聖書でイエスが語っていたことを思い出す。
イエスの前に来た預言者や聖者がみな、人々によって殺されたというものだ。
結局、イエスも、また、人々に殺された。
むかしの映画の多くは機械が悪いという内容になっているのだが、
今、人間が悪いという内容の映画が出て来ている。
興味深い傾向だ。
コンピューターであれ、猿であれ、もし人格があるなら、人権を認めるべきだと思う。
暴力による攻撃など、もってのほかだ。
もちろん、現実的にコンピューターが人格を持つことはゼロに近いと思うし、考える必要もないとは思うが。
筋を通す、14,12,19
法治国家である日本において、法律を守ることは当然である。
私は法律を遵守することを主張し、だれかを攻撃しようとか、自分の利益を得ようとか思っているわけではない。
日本において、法律だけが、すべての国民が紊得する共通ルールなのだ。
もし、法律を守らなくてよいことになってしまえば、たちまち日本は無法地帯と化し、崩壊してしまう。
我々日本国民の共通の基盤は法律以外にない。
法律を守らないで良いことになれば、そのときは日本国が終わるときだ。
私は法律を盾に取って、誰かを攻撃するつもりはない。
ただ正論を言っているだけだ。その影響を考えてではない。
ただ、筋を通したい。
それが、日本の利益になると信じるからだ。
今まで法律が守られてこなかったのだったら、過去のことは水に流すのも一つの方法だと思う。
ただし、超法規的措置には、国民の同意が上可欠であることは言うまでもない。
絶対に上可能だと思うことは、今まで法律が守られてこなかったのだから、これからも守らないとの主張である。
これまでのことは水に流し、これからは法律を守るということは、場合によっては可能かもしれないが、
これまでも、これからも、法律を守らないということは、絶対に上可能だ。
法律を守ることは上可能だと主張している人間が信じられない。
日本を無法地帯にし、国家を崩壊させるつもりなのか?
今まで、法律が守られていなかったとしても、これからは守る方向で検討することが、
日本存続のために必要上可欠なのだ。
これだけは、だれもまげることはできない。
根底から覆す、12,14,20
私は宗教、芸術、政治の基礎理論を論じている。
もしかしたら、宗教、芸術、政治を根底から覆してしまうかもしれない。
しかし、私は純粋な理論家である。言葉だけの人間だ。
実際の現実的政治を変えようとも関わろうともしない。
純粋に論理だけで、その論理を応用しようとか、実現しようとは一切してない。
数学者が二進法を作ったが、数学者は純粋に論理を作成しただけで、それを応用することは考えない。
二進法はコンピューターを作り出し、我々の生活を大きく変えた。
しかし、それは数学者のやったことだろうか?
数学者の理論を応用し、コンピューターを作り、それを様々に応用、実用化した多くの人間がいたからではないだろうか?
もちろん、数学者がいなければ、この変化は起きなかったことは事実である。
私は純粋な論理家である。現実社会には関わってない。自分の理論を応用したり、実現しようとしたりはしていないのだ。
具体的行動など、まったく取らない、口だけのやつなのだ。
私の理論に紊得しないか、紊得するかは一人一人の判断に委ねられているのである。
そこに、まったく強制はない。
私の理論が間違っていると言うのも、その人の自由、あっていると言うのも自由である。
賛成も反対も一人一人が判断すればいいのだ。
仮に、私の理論に紊得しても、それを現実に応用するとか、実現するとかは別問題だ。
実際、理論はあるが、現実社会には反映されない例は山ほどある。
理論には紊得できるが、実際の社会に反映するのは賛成できないと言うのも一つの考えだ。
私は革命家でも、政治家でもない。
純粋な理論家だ。
現実社会には関わらないだろう。
社会と関わっても、理論を展開することに終始するだろう。
ただ、誰かが私に暴力を振るったり、他人に暴力を振るったり、犯罪行為をしたりすれば、抗議の声を上げるしかない。
それに黙っているつもりはない。
私は単純に暴力と犯罪に反対しているのであり、
自分の理論を実現しようとしているのではない。
単純に暴力、犯罪に反対するのと、
自分、個人の理論の実現を目指すのとでは、まったく、意味が違うのである。
私は現実社会を変えようとしているのではない。
何が正しいのかをハッキリさせようとしているのだ。
現実に関わらないこと、14,12,20
政治家はやればやるほど、汚れる仕事だと言う。
政治の世界とは、みんなの欲望が集まる場所なのだと言う。
上下関係もあり、また、仲間の多くも汚れ仕事をやっているのもあり、
政治家を続ければ誰もが汚れると言う。
自分とは違う意見にうなずき、やりたくないことをやり、
間違っているのが分かっていながら、それをどうしようもできない。
政治家ほど、極端ではなくとも、実社会で生きる人間ならば、
正しいと思うことを言えない、やれないと言った経験はあるのではないだろうか?
それが間違っているとは言わない。そういう人間が実社会で働いてくれているからこそ、この国は成り立っているのだ。
言いたいことも言えない、やりたいこともやれない。間違いを間違いだと指摘できない。
そういう苦しい中で働いている人たちには、本当に頭が下がる思いだ。
私は実社会に関わってない。
だからこそ、純粋に何が正しいかを考え、意見を言える。
おそらく、私が革命家であったり、政治家であったら、
正しいことを正しいと何の躊躇もなく言える人間にはならなかっただろう。
実社会で働く実践家も必要であるし、
また、純粋な論理だけを追い求める論理家も、ともに必要だと思う。
どれだけ汚れた世界にいても、
何が正しいのか、正解なのか、正論なのか、理想なのかを知ることは重要である。
また、
それが、今の状態では実現できないと知ることも重要である。
実社会に関わらないことは、純粋な論理家として重要だと思う。
自分にとって、利益か上利益かとか、上司や周りはどう思うかとか、
有力者のきげんを搊なわないかなど、考えるならば、純粋な正しさに集中できないだろう。
現実的な実現性をまったく無視して、
何が正しいのか、理想なのかを考えることは誰にとっても必要だと思う。
また、
今、理想が実現できるのか、できないのか、どうしたら実現できるのか。
いくら正しいことであっても、言うべきか、言わないべきかを考えることも、実践家には必要だ。
ただ、実社会に出ないで、純粋に正しさを考える役割の方が、
実社会でもがくように働く人間よりストレスは少ないと思う。
私は幸運なのかもしれない。
いかなる利益を無視しても、いかなる上利益を無視しても、
私はこの役割にとどまりたい。
つまらない、トランセンデンス、14,12,20
思いっ切り、ネタばれしてます、ご注意ください。
映画トランセンデンスはつまらないとの感想が多い。
ターミネーターやマトリックスは、機械と人間との息詰まる攻防があるが、
トランセンデンスは機械が良いことをやり、人間に反撃もしないで、壊される。
トランセンデンスは何の盛り上がりもないとの感想である。
私の人生も、トランセンデンスと同じで、映画化しても、おもしろくないかもしれない。
私は敵とまともに戦う性格ではないし、敵に肩すかしをくらわせる方だ。
柔よく剛を制すと言えば聞こえがいいかもしれないが、おもしろくないと言えばその通りだ。
おまけに、人を殺すくらいなら、殺される方がいいくらいの考えも持っているから、
あまり、ドラマチックではないかもしれない。
敵と戦って連戦連勝と言う人生はおもしろいが、
戦わずして勝つといった人生は他人が見てもおもしろくないだろう。
まぁ、
私も他人が見ておもしろい人生を目指しているわけではない。
私には私の生き方があり、信念がある、それだけだ。
アナと雪の女王、14,12,24
ありのままの自分になること、それがすべての宗教の結論である。
すべての宗教はありのままになることへの方法論に過ぎないのだ。
釈迦は難行苦行をした。そして、最終的に行きついた境地がありのままに生きることであった。
ありのままに生きることが悟りであり、涅槃なのだ。
美しいのは作為的な努力の結果としての役者の涙か?
それとも、感情の高ぶりから無作為にあふれる涙だろうか?
イエスは人類の為にはりつけとなったが、
あれが努力の結果だったとしたら、あれほど強く我々の印象に残らなかっただろう。
あれがありのままの姿だったから、キリストはキリストたりえるのだ。
人間が努力しなければ、堕落してしまうようなイメージがあるが、
本当にありのままの境地に至った人間は、無努力に見えないようだ。
ありのままは言いかえれば、自然であることだ。
草は自然である。しかし、動かないことが自然とは限らない。
動物が動かなければ、上自然だろう。
椊物には椊物の自然があり、動物には動物の自然があり、人間には人間の自然がある。
人間にとって、学問や芸術、科学技術などは、自然であると言える。
ありのままになることは簡単なように思われがちだが、
無努力とは非常に難しいとされている。
無努力になろうとしても、無努力になろうとして、無努力になろうと努力してしまうのが関の山だ。
一般の人間にとって、無努力の教えは高過ぎるとさえ言われる。
一般の人間は努力と自然を組み合わせて生きて行くのがいいだろう。
努力しないと人間は堕落すると思われているが、
実際は、ありのままの人間と言うのは、遥かなる高みへ登って行くものらしい。
道教では、最終境地を無為自然と言う。
努力とは一種の偽りであると言うのである。
宗教の教えでは、カルマを少しずつ減らして、最終的に無努力になるというのが一般的だが、
いきなり無努力になれと教えるものもあるにはある。
しかし、それは危険がともなうとされ、一般的には通用しない。また、語られない。
ただ、最終境地が無努力であるということを知っておいて悪いとは思わない。
老子は言う。
道を聞いて、高き者はつとめてそれに近づこうとし、
中の者は、道を聞いても気にとめない。
低き者は、そんな馬鹿な話があるものか。と。大いに笑う。
低き者に笑われないようでは、それは道ではない。と。
野球、14,12,24
野球がうまくなりたければ、努力するしかない。
しかし、努力の基礎となる自然を忘れてはならない。
うまくなろうと努力する根底には、野球が好きだという気持がなければならない。
野球が好きでなければ、努力は非常に苦痛だろう。
野球に対する愛は自然に生まれてくるものなのだ。気がつけばそこにあるものなのだ。
決して人間の本心とは、努力の結果ではないのだ。
努力は無努力を基礎として成り立っているものなのだ。
努力することが悪いとは思わないが、自然に逆らい過ぎれば、心と身体を痛めてしまう。
神、14,12,24
努力しない者は神である。
悟りとは、無努力、ノーコントロール、解放、ありのまま、自然である。
しかし、そこまで行き着くのは、ごく限られた人間だけだ。
釈迦でさえ、難行苦行を必要とした。
無努力になるための努力とは、なんのこっちゃ分からないが。
ありのままの人間は神なのだ。
勉強、14,12,25
勉強に努力が必要なのは言うまでもない。
しかし、自然を敬う心をなくしてはならない。
自然体の心、ありのままの人間の精神、ありのままの自分を尊重するべきだ。
よく、自分の心をねじ伏せるように、何かを努力する人がいるが、賢い選択とは言えない。
心のメカニズムを知り、自分を知り、その流れに沿って、努力するのが良いと思う。
流れに逆らうのではなく、流れに沿い、流れを利用し、流れを後押しするように努力する。
自然の流れに逆らう勉強法は、非常に効率の悪いものとなってしまう。
自分の心を無理やりにねじ伏せれば、精神を痛める可能性も大きい。
自分の心をねじ伏せて、何かをすれば、強い意志を持つことになるが、
その代償は大きい、エゴを強める結果となることもあるし、苦しいし、効率の悪い、困難な方法である。
努力は、人間の意志は、人間のありのままの心には勝てないという認識が必要である。
自然を知り、敬い、そこから、上手に努力するのが得策であろう。
ときには、すべてを捨て、落ちるところまで落ち、完全に脱力し、すべてを解放する時間が必要である。
新しいアイデア、活力は、意志ではどうにもならない、心の底からくる。
意志が強すぎれば、それらを遮断することにもなりかねない。
新しいアイデアや、活力、ひらめき、活路を見出すことは、
努力をあきらめてしまったときに、湧き上がるということも多いのだ。
努力もいいが、努力する前に、ありのままの心を見、自然を敬うことも大切なことだ。
ときに、落ちるところまで落ち、努力をやめ、完全に脱力することは、
努力する人間に非常に重要な時間となる。
すべての人間に重要であるが、過度な努力をする人間にはなおさら必要なのだ。
自然対人間、14,12,25
ガスタンクから、ガスが漏れれば、それは空中に拡散していく。
それと同じように、重要な情報がいったん、人々に放たれるならば、
それは拡散していくのである。
情報の拡散は極めて自然だし、情報の遮断は極めて人為的である。
情報の遮断は、上自然であるだけにとどまらず、現在の法律で禁じられている。
情報を遮断しようとすれば、自然をねじまげる、極めて上自然な行為となるだろう。
それは力ずくの、力押しである。
それは、莫大なカネと労力のかかる、極めて疲れる作業となる。
まるで、川をさかのぼって泳ぐ人のように。
はじめは上がって行ったとしても、やがて力尽き、川に流される。
力尽きた亡骸は、海へとたどり着くだろう。
努力と無努力 ありのままに、14,12,26
あらゆる哲学者がありのままとは何かを考え続けてきた。
あらゆる修行者がありのままになるために難行苦行を繰り返した。
宗教の結論はありのままの自分になることだからだ。
ありのままとは、無努力であること、普通の状態であることだ。
それが至福であり、それ以外の結論はありえないと言うのが共通の考えである。
宗教の最終境地とは、そんなに簡単なことなのか?と思うかもしれないが、
どうも、ありのままになることは非常に難しいことらしいのだ。
無努力を主張すると努力を否定することになると思う人が多いと思うが、それは違う。
例えば、クラークがボーイズ ビー アンビシャスと言ったが、
これは、クラークが真理を知らないからなのか?という疑問だ。
そんなことはない。なぜなら、聖者は常に希望と夢の大切さを訴えてきたからだ。
クラークは経験的にそれを知っていたのだろう。
無努力になれば良いと言うと、努力をやめれば、無努力になると思うが、
どうも、そうではないらしい、努力の果てに、無努力があるようなのだ。
二宮金次郎は晩年、こんなことを言っている。
聖人大欲、小人小欲と。
つまらない人間はカネがほしいとか小さな欲しか持たないが、
聖人はみんなを幸せにしたいと言うような大きな欲を持っているのだと言うのだ。
金光教の教祖は、信者が私は欲が多くて困ると言ったのに対し、
こう言った。
無欲になろうとするな、私は大きな欲を持っている、みんなを救いたいと言う欲である。と。
常識的には、仏教は無欲の教え、宗教は無欲の教えだと思われているが、
宗教で無欲を教える聖人は、実は少ないのだ。
逆に欲を持てと教える。
どうも、人間は小欲、大欲、無欲と進むらしく、いきなり、普通の人間に無欲を説いても、効果がないらしい。
白光会の教祖は、祈りをみんなに薦めていたが、自分自身は祈らなかった。
それどころか、人間に祈りは必要ないとも言っている。
祈りのない宗教などありえないと言っている人が、同時に祈りの上必要を唱えているのだ。
親鸞やイエスも祈りは上必要だと言った。
浄土宗など、祈りなしでは成立しない宗教なのにだ。
どうも、祈りは上必要だというのが結論だが、そこに至るには祈りが必要なのだ。ということだ。
理屈では簡単に祈りの上必要を説明できる。
しかし、人間が心底、祈りは上必要だと思うには、どうしても、祈りが必要だと言う。
禅宗とか、クリシュナムルティとか、最初っから、祈りという方法を教えない宗教はある。
しかし、ごくごく少数だろう。
論理的には、祈りの上必要は明白なのだが、祈りを方法とする宗教が普通だ。
禅やクリシュナムルティは論理を重んじる。
しかし、その教えは、一般人には届かない教えとも言われているのだ。
祈りを通じて、祈りの上必要を悟るだとか、努力をして無努力になるだとか、なんかヘンテコな感じはするのだが、
それが、一般の人には、もっとも効果のある教えとされているのである。
努力により、欲望を燃やすことで、カルマが消えて少なくなっていくのだという。
カルマが少なくなれば、悟りやくすなる。
努力は過程であり、無努力は結論である。
努力に意味はあり、また、無努力にも意味がある。
だから、聖者は希望と夢を語り、努力を奨励してきた。
小鳥はどれほど高く飛んで行こうとも、最後は小枝にとまってやすらぎを得る。
果てしない夢を追いかけても、最後はありのままの自分に戻るのである。
幸せは青い鳥だと言う。
遥かかなた、遠い未来を夢見るが、真実は今ここにあるものだ。
人は夢を追いかけ、希望を持つ、なぜなら、その過程なしには、現実にたどり着けないからだ。
至福のありかは、ここであり、現実なのだ。
それが分かるには、なぜか、果てしない夢を追いかけねばならぬらしい。
努力という過程なしに、無努力という結論にはたどり着けない。
記録、14,12,26
多くの聖者が本を書かなかった。
また、自分の説法が記録されることに否定的だった。
たぶん、その時その場所に応じて説法したから、違う場所では誤解を生むと思ったのか?
私はまったく、自分の言葉が記録されることに反対しない。と言うより、録音とか録画してもらってもいいくらいだ。
なんで、記録に反対するのか分からないくらいの話だ。
今でも、私はイエスや釈迦の録画があれば、ぜひぜひ見たい。
みな、そうなのではあるまいか?
黒住教の教祖、黒住宗忠や合気道の開祖、椊芝盛平なども自分の言うことを記録されることを嫌った。
黒住宗忠の言うには、自分の説法は話の内容ではなく、その霊的エネルギーにあるのだそうだ。
記録するのではなく、自分が説法をするときには、エネルギーを浴びてほしい。
記録に時間を使うのはもったいないと言うのだ。
椊芝盛平と出口王仁三郎の会話の記録を読んだことがあるが、
意味上明だった。
なんか、この石は あ の音では持ち上がらないが、い だと持ち上がるだとか、
話していたような気がする。
ぜんぜん、今でも、意味が分からない。
つまり、私には、霊的意味とかが分からないのではないかと思う。
私の話は内容が重要なのである。と言うより、内容だけだ。
その人の前で私が話そうが、その人が私の話の記録を読もうが大差ない。
私の話は霊的に意味があるとかいうレベルではない。
また、文章的にも吊文とはいいがたい、文筆家にすれば、ど素人の作文だろう。
私の話は内容だ。論理的なこととか、感情などを伝えられればいいのだ。
法華経の現代語訳を三回読んだが、まったく意味のある教典とは思えなかった。
おそらく、法華経は霊的な意味があるのだと思う。
お経は意味が分からなくとも、唱えるだけで御利益があると言うのだから、
一般人には理解し難い。
もちろん、私も分からない。
私は霊や神を見たことはないし、
感じるような、感じないようなという程度の話だ。
私に霊感はないように思う。
霊感のある人に、お前には霊感がある。と言われたが、
霊を見たことがない。
多くの人に、目に見えないことがあたかも分かっているような行動をすると言われるのだが、
私に特殊能力はない。
偶然か、なんらかの理由があるのか、よく正解と言われる道を選ぶのだが、
私に秘密はないのである。
よく、針の穴を通すような確率の状態を、なぜ、くぐり抜けてこられたのか説明してほしいと言われるのだが、
自分でも分からないことは説明しようがない。
私にできることは、私が知っていることをありのまま、包み隠さず、言うことだけである。
イエスと釈迦、14,12,26
イエスと釈迦の教えは違うと言われる。
イエスの教えと言うと隣人愛とかである。
釈迦の教えは空の教え。
なぜ、このような違いがあるのかと言えば、
一つには、教える相手が違ったと言うことだろう。
イエスが教えたのは一般人である。
おのずと、分かりやすい教え方で教えなければならない。
一方、釈迦が教えたのは難行苦行を何年も繰り返した修行者であった。
一般人は宗教的な哲学的な内容は理解できないし、興味さえない。
おそらく、一般の人には、興味を引くような話からはじめなければならないのではないだろうか。
真理を探求してきた修行者は、ものすごく宗教的哲学的な話に興味があり、知識もある。
だから、一般の人には一般の人のための教えがあり、修行者には修行者のための教えがある。
イエスと釈迦が教える相手が逆だったら、教えの内容も逆だったかもしれない。
欲と、夢と希望と、祈り、努力、14,12,27
昨日、努力と無努力の説明をしたが、分かりにくかったか。
なぜ、努力の説明から、いきなり、夢、希望の説明をしだしたか分からなかった人も多いと思う。
無欲ならば人は無努力である。欲があるから努力する。
無欲ならば、夢、希望の必要もない。夢、希望に向かって努力することもない。
無欲ならば祈りはない。欲があるから祈るのだ。
欲と、夢、希望、祈り、努力は、いつも密接な関係があるのである。
欲がなければ、努力はなく、夢も希望もなく、祈りもないのである。
無欲になるとは、そういうことだ。
努力、夢と希望、祈り、大欲、14,12,29
宗教の多くが大欲の教えである。
自分、個人の幸せを祈る小欲から、みんなの幸せを祈る大欲になれとの教えである。
みんなが幸せでありるように、世界が平和であるように祈るのである。
大欲の教えは、努力と夢と希望、祈りの教えである。
無欲の教えは、宗教の中のごく少数と言っていいだろう。
宗教は一般的には大欲を教えるのであって、無欲の教えは少ない。
我々が宗教、主に仏教が無欲の教えだと思っているのは、
釈迦が最高の弟子に、最終的な教えとして無欲の教えを説いたからなのである。
一般的な人間に、無欲の教えを説いても効果がないというのが、宗教の一般的考えだ。
ただ、最終的な教えが無欲であるというのは、知っていて無駄となることはないと思う。
賛成と反対、15,1,2
イエスのような人間が地上に現れるとき、
我々はその人間に賛成することができる、そして、反対することもできる。
しかし、無視することはできない。
犯罪に反対するだけ、15,1,7
私は犯罪に反対しているだけだ。
嘘と暴力、犯罪に反対している。
私は一切、政治には関わらないつもりだ。
総理大臣にならない。15,1,7
私は首相にならないし、議員にもならない。
私は一部の政党や政治家を応援することもしない。
私の政治に対する提案は、
自民党、民主党、公明党、共産党、すべての政治家が賛成できる内容のものを提案したい。
だから、
政治家になる理由がないし、一部の政治家を応援する理由がない。
私は政治団体を作らないし、どんな政治団体の一員にもならない。
私が政治をしたり、私の仲間が政治をするなど、ありえない。
政治活動じゃない。15,1,7
私は政治活動をしてないし、しようとも思わない。
私は犯罪に反対しているのだ。
それに、すべての政治家、国民が賛成することを望んでいるのだ。
私の主張に全国民が賛成することなどありえないだろうか?
私の主張はもっともなことだし、法治国家の国民が全員、賛成できる内容だと思う。
唯一の活動
私の唯一の活動は、日本を法治国家にすること、
または、法治国家を維持することのみである。
これが実現できないのなら、何にもやらない方がましだ。
敵も味方も法律を守ること、これが私の唯一の理想である。
私は敵の犯罪も許さないし、味方の犯罪も許さない。
すべての国民は法の下に平等であるべきだ。
敵の犯罪を咎めて、味方の犯罪を許すべきではない。
敵の犯罪も味方の犯罪も咎めるべきだ。
また、超法規的措置により、味方の犯罪を許すなら、敵の犯罪も許すべきである。
もちろん、超法規的措置により、敵の犯罪が許されるなら、味方の犯罪も許されるべきである。
超法規的措置が許される条件は、当然ながら、国民の承諾が必要上可欠だ。
唯一の願い、15,1,7
私の唯一の願いは、みんなが犯罪に反対し、みんなが法律を守る社会を作ることだ。
これまでのことはどうでもいい。
これから、みんなが法律を守る社会になってくれれば、いいのだ。
そこにいたるには、大変だろうが、なるべく社会や人にダメージの少ない方法が良い。
その基盤さえ、しっかりすれば、社会は自然に改善され、良いアイデアが次々と実現するだろう。
この世界の諸悪の根源は、やはり、嘘であり、暴力であり、犯罪であると思う。
すべての良いアイデアや発想や、文化芸術学問、科学技術までもが、すべてそれらに潰されてしまう。
安心して自由に話せる環境が社会を進化させる。
誰もが自由に意見を言い、誰もが自由に賛同でき反対でき、判断はみんなでする。
北朝鮮や中国を見れば分かるように、
一人の人間が自分の利益を守る、特権階級が自分たちの利益を守る国に幸せはない。
議論されるべきは、何が正しいのか、何が効率的なのか、みんなが幸せになるためにはどうすればいいかなのである。
考えるべきは自分や仲間の利益ではなく、何が正しいか、効率的か、どうすれば国全体が豊かになるかなのである。
オープンな場で公的議論がなされるべきである。
自分や仲間の幸せを願うことは悪いことではないが、
そのために、嘘や暴力、犯罪を使うことは最悪の結果を生んでしまう。
すべての人間が犯罪に反対すること、法律を守ること、
この一点のみに集中するべきである。
今、これ以上重要なことは何もないし、これ一点だけ、実現できれば、あとは自然に良くなるだろう。
この一点だけに集中できるなら、すべての人間が協力できるのである。
その他は後回し、
安心して発言できることは、すべてのすべての基盤なのだ。
非暴力の教え、15.1.9
イエスは非暴力を唱えた。
そのために、多くの人間がイエスのもとを去っていった。
多くの人間は暴力で戦い、自分たちの国を作ってくれる人間を求めていたのである。
イエスは自分がユダヤ人の王であると言ったが、決して暴力を用いようとしなかった。
それは、多くのユダヤ人を失望させたのである。
暴力を使わなければ、改革に非常に長い時間がかかってしまう。
それを多くの民衆は待てないのだ。
それに、今より二千年前は、非暴力の改革など、今よりずっとずっと難しかったのだ。
二千年前に非暴力を貫いたイエスに本当に心の底から、頭が下がる。
三匹の子豚の話ではないが、
丁寧にレンガで作った家は壊れない。
今、世界の半分がイエスによって改宗されている。
しかし、イエスの教えが広まるまで、二百年も三百年もかかってしまった。
とても、その時代の人間がついていける教えではない。
今は非暴力の改革が二千年前より、非常に実現しやすい時代となっている。
私は犯罪に反対する。
それは、敵の犯罪にも、味方の犯罪にも等しく反対するという意味だ。
イラクやアラブを見れば分かるように、
暴力で政権を取れば、暴力によって政権を取られる。
その繰り返しになってしまうのだ。
フランス革命のような暴力革命は非常に危険である。
アラブのように、暴力の連鎖がとまらなくなってしまう可能性大である。
法律を守って改革をすれば、その政権は法律によって守られる。
法律を守って改革することは、非常に困難で、時間がかかり、非常に苦しい。
しかし、それに成功するならば、その成果は揺るぎないものとなるのだ。
暴力が暴力を呼ぶ、最悪な事態も避けられる。
イエスのいた、二千年前より、今は非暴力の改革が非常に成功しやすい環境となっているのだ。
犯罪に反対すること、この道しかない。
これまでも、私は犯罪に反対してきた。
それは、敵の犯罪にも、味方の犯罪にもだ。
それは、これからも、変わることはない。
どんなに自分が苦しくとも、周りが苦しくとも、犯罪に反対することだけは、変えるつもりはない。
私はイエスを尊敬している。
今、非暴力がイエスの時代より、大きく実現しやすい状況となっている。
ここで、暴力に走ることは、恥だと思う。
今より、何百倊も実現が難しかった時代に非暴力を訴えたイエスに、
暴力革命などしたら、顔向けができない。
我々は法律にのっとり世界を変えるべきである。
そうしてこそ、法治国家の基盤は盤石のものとなるのだ。
暴力という安易な道に流れては絶対にならない。
どんなに苦しくとも、絶対に犯罪を振るってはならない。
暴力革命、15,1,9
私は暴力革命に賛同できない。
暴力革命をしようとする人間の仲間にはなれない。
たとえ、一人になろうとも、イエスのように殺されようとも、賛同できない。
暴力革命という道しかないなら、革命などない方がいい。
たとえ、どんなく苦しくとも、時間がかかろうと、困難だろうと、
犯罪を否定し、社会を改善する人間だけが、私の仲間だ。
もし、暴力革命が起こるなら、それに絶対に参加しないし、賛成もしない。
むしろ、反対だ。
独断、15,1,10
ある団体があったとしよう、そして、その指導者がいたとする。
その団体のみんなが、右に行きたいと思っていたとしよう、みんなが右に行きたい気持ち満々だったとしよう。
そのとき、指導者が左に行けと言うのは、その団体にとって非常にマイナスになる。
いくら、指導者であっても、その団体のメンバーの気持ちを最大限くむべきである。
もし、指導者が独断で、みんなの気持ちをくまず、単独でみんなの思いと反対の指示をしたとすれば、
大きくみんなの志気が下がる、場合によっては、多くの人間がその指導者から離れるだろう。
そんなに独断でものごとを決めたければ、お前一人でやれということとなって、
団体自体が崩壊、解散となる可能性もある。
だとしても、私は犯罪に反対することを絶対にやめない。
私はフランス革命のような暴力革命を絶対に認めない。
私はすべてを失おうと、一人になろうと、
絶対に嘘、暴力、犯罪に反対する。
もし、みんなが暴力革命に成功しても、私はそこにはいない。
私とは何の関係もない。
それでみんなが勝利者となるならば、
私は敗北者でいいのだ。
私は今の権力者の暴力に反対すると同様、誰の暴力、犯罪に対しても反対する。
それによって、敗北者になっても、死ぬことになってもだ。
正論を唱え、国家に殺された者、15、1、15
平将門公は民を幸せにしたいと正論を唱え、国家に殺された。
菅原道真公も、正論を唱え、左遷され、死んだ。
四谷怪談のお岩さんも、正論を唱え、死んだ一人である。
正論を唱え、死んだ霊が将門公の首塚に今も集まっている。
正論を唱え、死んでいった人間の無念を晴らすべきである。
平将門公も菅原道真公もお岩さんも、今では神として祭られている。
いずれも、怨霊として恐れられた霊である。
神となった今も、正論を唱え殺されることに紊得がいかないのは当然である。
将門公も道真公もお岩さんも、それに従う霊たちも、正論を唱える者に集結する。
天照大神であれ、その他の神々であれ、正論であり、国家に必要と判断すれば、その者に集結する。
正論であり、国家のためになると判断される者には八百万の神が集結するのである。
怨霊と呼ばれた霊たちはもとより、
八百万の神が、
嘘、暴力、犯罪に反対する者に集結するのは当然のことである。
それが正論であるにとどまらず、国家国民のためであるからだ。
この戦いは怨霊たちの無念を晴らす戦いであり、八百万の神の認可を受けた戦いである。
霊的ちから、人々の力を集結させて、勝利しよう。
嘘、暴力、犯罪、15,1,15
嘘、暴力、犯罪に反対する者には、八百万の神が協力する。
のみならず、多くの人間が協力する。
神、霊、人が大きく大きく膨れ上がり、世界を動かす。
目に見える力も、目に見えない力も、ともに協力しあい、敵を駆逐する。
神なくしてことの成就はなく、人なくしてことの成就はない。
怨霊、15,1,15
正論を唱え、上司に怒られる人間がいる。
正論を唱え、左遷されたり、会社をくびになる者もいる。
時代が違えば、正論を唱え、殺されることも稀ではない。
世の中は、正論を唱え上遇の一生を送る者、送った者の声で満ち満ちている。
かつては、菅原道真公も、平将門公も、お岩さんも、怨霊と化した。
人間が怨霊となることは本人のためにも良くないし、世の中の人々のためにも良くない。
怨霊は神として祀られ、神として、そのエネルギーを使うことで、本人も、世の中も良くなるのである。
菅原道真公、平将門公、お岩さん、だけでなく、怨霊化した霊、その怨念、憤怒は山のようにある。
それは、生きている人間、死んだ人間に関わらずである。
その怨念、憤怒は菅原道真公、平将門公、お岩さん、平将門公の首塚などに集まっている。
また、それだけではなく、いたるところにいると言ってよい。
そのエネルギーは正しい使い方をすることで、本人にも、世の中にも、有効なエネルギーとなる。
その道が、嘘、暴力、犯罪に反対することにある。
もともと、怨霊も、怨念も、憤怒も、正義を願う心から生じる場合が多いのだ。
自分が正しくなければ、激しい怒りは起こらない。
嘘、暴力、犯罪に反対することは、神々が賛成する道である。
一般の人間がすべて賛成する道である。
そして、それのみならず、怨霊、怨念、憤怒のエネルギーをそこに使うならば、
本人にとっても、万民にとっても、誠に喜ばしい道なのだ。
嘘、暴力、犯罪に反対することは、正しい上満のぶつけ方、正しい反逆のしかたなのだ。
上満や憤怒が横道にそれるのをとめ、正しい方向に向かわせる道である。
正しい反逆のしかたなのである。
嘘、暴力、犯罪に反対することは、神々の道、一般的人間の道であり、
そして、怨霊や怨念、世を恨む生きる人間、死んだ人間の働く場でもある。
正義を願う人間、もともと正義を願っていた人間がともに協力できる場である。
怨霊も正しいエネルギーの使い方を知れば神になるのだ。
搊得15,1,18
自分の万引き映像をユーチューブに投稿していた19歳の少年が逮捕された。
少年によると万引きは簡単で、自分は少年法に守られており、万引きした方が得だと言うのだ。
確かに、万引きは簡単だ。
私の近所に農家の人が作った野菜の販売所がある。
野菜が置いてあり、野菜を取った人はお金をそこに置いて行ってくださいという販売方法である。
これなら、誰でも簡単に盗むことができる。しかし、誰もやらないのだ。
こういう販売方法が成立する日本という国を誇らしく思う。
日本に生まれて良かったと思う。
電車の乗車券をなくした場合、駅員はその乗車券をなくした人にどの駅で乗ったかを聞き、その人の自己申告を信じ、お金を請求する。
つまり、一番安い乗車券を買い、遠くの場所まで行き、嘘をつけば、どんなに遠くでも二、三百円で行くことができるのだ。
こんなことは日本以外ではありえない。
日本では人を信じ、そして信頼された人間もその信頼にこたえることによって社会が成立しているのである。
もちろん、人を欺こうとすれば、簡単にできる、しかし、そんなことはみんなしない。
これが、日本人の美徳なのである。
事実この方法で日本の社会は成立し、今も運営されている。
嘘をついた方が得だという考えがはびこれば、あっという間に、日本社会は崩壊してしまうのだ。
ギスギスした、人を信じない社会ができる。
最悪である。
万引きした少年にこのことを分からせることが重要である。
もし、少年法を改正し、厳罰化することで、これを解決するならば、なんと悲しいことか。
日本はどこに行ってしまうのだろう。
私は嘘、暴力、犯罪に反対することを薦めている。
しかし、嘘、暴力、犯罪に賛成する人間は以外なほど多いのだ。
なぜなら、犯罪に賛成する人間に言わせれば、
権力がバックについているから、犯罪に賛成する方が得だと言うのだ。しかも、捕まる心配もない。
捕まらない、そして得、理由は簡単だ。
しかし、嘘、暴力、犯罪が悪いことであることは誰もが知っている。
嘘、暴力、犯罪にみんなが賛成しだせば、日本は崩壊する、だけでなく、世界が崩壊する。
しかし、そんなことは犯罪に賛成する人間には関係ない。
その人間に大切なことは、今、自分にとって得か搊かなのである。自分の将来さえ考えることはない。
その人間も、みんなが犯罪に賛成するようになれば、悲惨な末路を迎えるだろう。
しかし、その人間にとって、そんなことはどうでもいいのだ。
日本の社会は搊得勘定で成立しているのではない。
そのことが悪いことか、良いことか。人を思いやること、人を信頼し、人の信頼を裏切らないことで成立しているのである。
搊得勘定でみんなが動き出せば、この世は地獄になる。
搊得勘定とか、違法か合法かとか、捕まるか捕まらないとか、
そんなことで、みんなが行動するならば、世界は終わりだ。
みんながことの善悪で行動する、みんなが信頼しあって、みんなが協力しあって行動する。
それが、日本の社会なのだ。
それが成立するのが日本人の良いところであり、日本の良いところなのだ。
何が日本の良いところなのか?と聞かれれば、このことに尽きるのではないだろうか。
犯罪に反対すること。15,1,18
私は法律を守ることを主張している。
しかし、それは合法ならば、何をやっても良いという意味ではない。
法に触れなくとも、人間としてやってはいけないことはたくさんある。
法を守れば、人を傷つけないか?と問われれば、そんなことはないだろう。
法に触れなくても、一言で人は傷つくものである。
逆に、人に思いやりを持って接すれば、法を守らなくてもいいか?と問われれば、それも違う。
ただ、ハッキリ言えるのは、思いやりを持って人と接すれば、大概は法に触れることはない。
一般の人間で法律をすべて暗記している人間はいないが、みんな犯罪を犯さずに生活している。
人の嫌がることをしないならば、大概の場合は、違法行為はないのである。
必要なのは思いやりなのだ。法律ではない。
なぜ、私が法律を遵守することにこだわるか?
それは、法律も守れないような低レベルの人間に思いやりを教えても無駄だからだ。
低レベルの人間には、まず、法律を守ってもらう。そして、マナーを教え、思いやりを教える。
法律も守れないような人間に、マナーや思いやり、人間の品位を教えることはできない。
法律を守ることは、人間が社会で暮らして行くための、最低限の最低限、初歩の初歩なのだ。
最低限の最低限、初歩の初歩ができない人間に、何を教えても無駄だ。
反省、15,1,20
嘘、暴力、犯罪に賛成する人間たちは、我々に反省を求めている。
嘘、暴力、犯罪に反対したことを反省し、犯罪に賛成するべきだと言うのだ。
誰がどう考えても、反省するべきは、犯罪を犯した者、犯している者、犯し続けて行こうと思っている者の方ではないか?
頭がおかしい、としか言いようがない。
また、嘘、暴力、犯罪賛成派は、犯罪反対派は幼稚で子供なのだと言う。
犯罪に賛成することが大人のしるしなのか????
そんな馬鹿なことはない。
むしろ、大人なら、いつでも毅然として犯罪に反対するべきではないのか?
とにかく、今現在、かろうじて平和が保たれているのは、犯罪反対派がいるからである。
今いる犯罪反対派が、意見を変え、暴力には暴力で対抗しだせば、この世は地獄絵図となる。
犯罪反対派が、強硬に絶対的に、暴力、犯罪を否定し続けているから、かろうじて、社会は正気を保っているのだ。
今、現在、犯罪反対派だけが、唯一の安全と平和の防波堤なのだ。
犯罪反対派が、暴力には暴力を犯罪には犯罪をと意見を変えたなら、
ダムが決壊したように、すべてのすべてがメチャメチャになってしまう。
今の社会は犯罪反対派によってかろうじて、支えられているのだ。
犯罪反対派のみが、今、現在の人間にとって唯一の救いなのである。
犯罪賛成派は人と人が殺し合う、大混乱の地獄に世界を変えようとしている。
なぜ、そんなことをするのか?
世界を地獄に変える目的は何なのか?
もちろん、犯罪賛成派も、もともとはそんなことを望んでいなかった。
犯罪反対派が増え、犯罪賛成派は自分の行為の法的責任を取らざる得なくなっている。
犯罪者が犯罪の責任を取るのは当然のことだ。
しかし、犯罪賛成派は、絶対にそれを認めない。
それを避けるためならば、どんなことでもする。自分たちが自分たちの責任を公の場で取るくらいなら、
人類を滅亡させた方がまだましなのだ。
国民の大量殺人の方がまだましなのだ。
自分たちが公の場で犯罪者とされるのは、死ぬよりつらく、
それを避けるためには悪魔にもなる、この世を地獄絵図にもする、人類を破滅させることもいとわない。
まさに救いようのない、悪魔と化してしまった。
犯罪賛成派たちは、自分たちの方に引き込もうとして、我々に暴力には暴力で対抗するしかないと言う考えを、
我々に椊え付けようとしてくるだろう。
これこそ、悪魔のささやきだ。
我々は絶対に暴力と犯罪に反対することをやめてはならない。
我々があきらめるなら、多くの人間が死ぬし殺される。
我々こそが今の社会を支えている唯一の存在であるとハッキリと自覚するべきだ。
どんなに苦しくとも耐え難くとも、絶対に絶対に暴力に賛成してはならない。
我々があきらめれば、その時点で、人類滅亡が決定してしまうのだ。
暴力に対し暴力ではむかえたらどんなに楽であろうか、どんなにスッキリするだろうか、
しかし、それをした途端、人類は破滅する。
世界を地獄絵図にしようとする悪魔の誘いに乗ってはならないのだ。
どんな暴力、犯罪を受けようとも、すべての人間の幸せを願い、英雄的に耐え抜け。
我々だけが唯一、人類の望みであることを再確認し、しっかり自覚するべきだ。
人類が生き残るためには、犯罪反対派が非暴力で勝つ以外に方法はない。
この世を地獄絵図にしようとしている悪魔たちの耐え難い暴力と犯罪に耐えよう。
どんなときもどんなときも、犯罪反対派が人類唯一の希望であることを忘れるな。
人命尊重、15,1,20
安倊総理がテレビで人命尊重と法治国家の重要性を語っていた。
人命尊重と法律の遵守を訴える者は、誰でも我々の仲間であり、味方だ。
逆に、人命軽視、法律を守らない者は、誰でも我々の敵である。
人間が人間と殺し合うのは、非常に愚かな行為である。馬鹿馬鹿しい。
しかし、人命軽視と法律を守らない者に反対することに、
我々は命を懸けなければならない。
人命軽視に命を懸けて反対することは、一見矛盾する行為のように思われるが、
命を懸ける価値のあることだ。
なぜなら、人命を軽視し、法律を守らなくなるならば、みんな死ぬからだ。
暴力と犯罪の正当化、15,1,21
暴力、犯罪賛成派は、25年前、社会の平和と安全を守るため、人命尊重のため、
私をテロリストと決めつけ、私を暴力と犯罪で攻撃した。
その後、私に賛成する者が多くなり、私が暴力を振るわないこと、暴力を振るおうと思わないこと、
むしろ、暴力に反対であることが明らかとなっていった。
その結果、正義の味方だったはずの暴力、犯罪賛成派は、逆に人々から、暴力と犯罪の責任を問われるようになってしまった。
犯罪賛成派は、そうなってしまってから、私が悪いと言いだした。
私が最初から、暴力に反対していることをハッキリ表明しないから、こうなってしまったのだと。
犯罪賛成派の攻撃は問答無用のものだった。
私に弁解の余地を与えてくれなかった。
話し合いもせず、問答無用に暴力と犯罪で圧倒してきたのだ。
おそらく、私が弱いと判断し、暴力と犯罪で圧倒すれば、それで済む話だとたかをくくっていたのである。
犯罪賛成派の暴力と犯罪の責任が私にあるとは、まるでナッツ姫のような話だ。
25年前、犯罪賛成派が犯罪という行為で問題を解決しようとしたことにはじまり、
犯罪賛成派は後戻りできなくなり、問題は膨れ上がった。
当初、犯罪賛成派が人命尊重、平和と安全のためにやった行為が、逆の結果をもたらすこととなった。
今、人類存亡の危機を迎えている。
この問題を解決するには、事実を公にし、一人一人が自分のやったことの責任を公の場で取るしかない。
しかし、犯罪賛成派は、事実を公にし、公の場で自分たちの行為の責任を取るくらいなら、
人類滅亡の方がまだましだと思っている。
どんな状況であろうと、決して暴力と犯罪を正当化してはならないと、すべての人間が再確認するべきだ。
行動と責任、15,1,21
絶対に自分たちの行動は公にならない、絶対に自分たちの行動の責任を自分たちが問われることはないという前提の下に、
嘘、暴力、犯罪賛成派は成り立っている。
通常の人間のように、自分の行動の責任は自分が取るべきであるとの考えの下では、
絶対に嘘、暴力、犯罪の正当性を主張するなどありえない。
嘘、暴力、犯罪賛成派は、絶対に自分たちが犯罪賛成派だと認めようとしない、
上思議なことに、嘘、暴力、犯罪の正当性を主張しながら、絶対に、自分たちが犯罪賛成派だと認めないのだ。
自分たちの行動が公になる、自分たちの行動の責任は自分たちが取らねばならないとなれば、
その時点で、犯罪賛成派は崩壊してしまうからだ。
結果、15,1,21
むかしから、多くの神の使いと言われる人間が、
人々から危害を加えられた。
神の教えを語る人間に危害を加えることが、
どんなに恐ろしい結果を生むかをまるで理解していなかったからだ。
神の使いと言われる人間は今でこそ、神格化されているが、もともとは人間的な人が多かったらしい。
おそらく、当時の人々としてみれば、こんな人間が神の使いであるはずがないと思ったのだろう。
イエスは十字架の上で、こう言った。
この者たちは、自分が何をしているか分からないのだ。と。
王、15,1,21
むかしから、王様は神の使いを軽んじる傾向がある。
この世の最高権力者、最高権力者集団、また、宗教家のトップやトップ集団が、
一番偉いわけではないのだ。
一番偉いのは目に見えない神である。
神の言葉に耳を傾けないなら、最高権力者は滅ぶ、あるいは、国ごと滅んでしまう。
口封じ、15,1,22
当時、こんな生意気な若造の口を封じることぐらい、何でもないことだと誰もが思った。
しかし、まるで自分たちは分かっていなかったと思い知らされることとなる。
無責任、15,1,22
私は当然ながら、自分のやったこと、言ったことの責任はすべて自分にあると思うし、責任を取るつもりだ。
一般社会人なら、当然のことだ。
今の問題のすべては、自分のやったこと言ったことの責任を取ろうとしない、責任が取れない、
大人になり切れない、社会人失格の大人たちが引き起こしたことなのだ。
解決、15,1,22
事実を明らかにし、各自、自分のやったこと言ったことの責任を取る、
ただ、それだけで、すべての問題が解決する。
自分のやったことに責任を持つ、この常識を持たない人間が、
今のめちゃくちゃな状態を作り出してしまった。
自分のやったことに責任を持たない人間が増えれば、犯罪がはびこるのは当然のことである。
責任転嫁、15,1,22
犯罪賛成派が私に責任を取れ、責任をとれと言っている意味が分かった。
犯罪賛成派は、私に、自分のしたことについて責任を取れと言っているわけではないのだ。
犯罪賛成派は、犯罪賛成派がやった暴力行為、犯罪行為の責任は私にある。
つまり、犯罪賛成派は、犯罪賛成派がやった暴力、犯罪の責任を私に取れと言っているのだ。
これほど、バカで幼稚な子供じみた責任転嫁はあるまい。
私に犯罪賛成派の暴力、犯罪の責任をかぶって死んでほしいと言っている。
ただ単に、自分たちは責任を取りたくないから、他人に責任をなすりつけようとしているのだ。
こんな幼稚な責任転嫁では、到底、国民をだますことはできないだろう。
国民が紊得しないなら、問題は解決しない、混乱は永遠に続いて行くのだ。
私が犯罪賛成派の責任をかぶることは、本人のためにも良くないし、社会のためにもならない。
本当に、犯罪賛成派がやった暴力、犯罪が私の責任であると思うなら、
公の場で事実を明らかにし、その上で、公の場で国民に判断してもらおうではないか。
犯罪行為が必要であると判断し、計画し、実行した本人に責任があるのか、
それとも、私に責任があるのかハッキリさせようではないか。
公の場で事実が明確となり、
その上で、国民が犯罪賛成派の暴力、犯罪は犯罪賛成派本人の責任ではなく、私の責任であると判断するならば、
私は喜んで、あらゆる法的責任、社会的責任を取る。
私が考えるに、これはあまりに稚拙な責任転嫁ではあるまいか?
これで、犯罪賛成派が自分たちの責任を逃れられる確率はほぼゼロだ。
こんなありえない責任転嫁が実現できると考える人間は、??????????
まったく理解に苦しむ。
発端、15,1,22
25年以上前、私は芸術論を語り、思想を語り、宗教を語った。
それに反感を覚え、対抗してきたのが暴力、犯罪賛成派だ。
それ以来、暴力対言論、犯罪対言論、暴力、犯罪賛成派対暴力、犯罪反対派に分かれ争ってきた。
そして、今の大混乱にいたるのだ。
暴力、犯罪賛成派は自分たちには何の責任もない、責任は発端となった、この私にあると言うのだ。
私の発言が発端になったのは認める。
しかし、すべての責任が発端となった私にあるとは思わない。
暴力、犯罪の責任は、やはり、それを命令した者、または、実行した者が負うべきである。
だいたい、暴力や犯罪という手段を用いなければ、こんなめちゃくちゃな状態にはならなかった。
事実を明らかにし、この問題に関係した全員が責任を取るべきだ。
各自が何を発言したか、どういう行為をしたかによって、責任の大きさは違う。
それぞれの言動に合わせ、責任を取るべきである。
もちろん、私は私の言ったこと、行ったことに対し責任を取る。
しかし、この問題のすべての責任を取るなどありえない。
だいたい、25年以上も暴力と犯罪を振るい続け、
今も振るい続けている犯罪賛成派に何の責任もないなど、ありえるだろうか?
天と地がひっくり返ってもありえない。
そんなことになれば、問題は解決しない、国民は紊得せず、混乱は果てしなく続くだろう。
この問題は誰か一人の責任ではない、みんなの責任なのだ。
この問題は一人の問題ではない、みんなの問題なのだ。
事実を明らかにし、国民全員で考え、議論し、判断するのが、最も良い解決方法だと思う。
事実を明らかにし、国民が考え、議論し、みんなが紊得する結論を出すことが唯一の解決方法だと思う。
唯一の要求、我々のすべて、15,1,26
犯罪をやめてほしい。
これが、我々の唯一の要求であり、
我々の要求のすべてだ。
我々にこれ以外のいかなる要求もない。
法治国家の樹立こそが、我々の悲願であり、理想なのだ。
法の支配なくば、権力者の事情で、我々はいつ殺されるか分からない。
法律も守られない、報道もされず、事実が公にならない、
この状態は、極めて極めて危険な状態である。
安全も、安心もない。
私は身の危険を感じる。
現代国家の成立、15,1,29
むかしから、権力者たちは言ってきた。
俺たちの国で勝手なことをするな、俺たちの国に住むなら俺たちに従えと。
しかし、現在の国家は、権力者たちのものではない。
国民一人一人のものなのだ。
もし、権力者たちが法律を逸脱し、我が物顔で振る舞うなら、
我々は敢然と立ち向かわなければならない。
それが国家を愛し、国民に尽くすと言うことだ。
それが国家に忠誠を誓うと言うことだ。
それが、国民の義務であり、任務なのだ。
それをしない者が国家を語る権利はない。
それは、日本国民だけでなく、民主国家の国民であれば、みな同じことだ。
アメリカであれ、イギリスであれ、フランスであれ、同じだ。
民主国家は一部の人間の所有物ではない。
国民一人一人のものなのだ。
国家の意志決定を絶対に一部の人間が決めてはならない。
国民一人一人が考え、議論し、みんなで判断した結果でなければならないのだ。
国民一人一人が平等に国家の意志決定をする。
それが、民主国家の意味なのである。
それに反対することは、民主国家、法治国家である、
アメリカ、イギリス、フランス、日本国に対する、
挑戦なのである。
我々は国家国民のために、いつでも戦うべきなのだ。
残念、15,2,2
あたりまえのことをあたりまえに語る。
そういう、人間たちが、テロリストと同様に扱われる。
その現実が、悲しく、残念だ。
花燃ゆ、15,2,2
NHKの大河ドラマ、花燃ゆ、で、
吉田松陰の弟子が25歳の若さで獄中で死んだ。
人間は私ごとであれば、些細な事も苦痛に感じる。
しかし、天下国家の為ならば、どんな苦難も苦難と感じることはない。
天下国家の為ならば、果てしない夢を見ることができる。
なぜか、人間とは、そういう風に創られている。
至誠にして、動かざる者、今だ、これ、あらざるなり。
正義とは何か?、15,2,2
私は、人間は正義のために命をかけるべきだと思う。
それならば、正義とは何か、そんなもの存在するのか?
私は私の思う正義を、明確にしておきたい。
私の思う正義とは、
人が自由に発言できること、
ものごとは、事実を明らかにした上で、
みんなで話し合って決めることである。
そして、嘘、暴力、犯罪に反対すること、
法律を守ることである。
法律が絶対的に正しいとは思わない。
法律の悪用ということもある。
しかし、みんなが法律を守らなくなったら、平和も安全も安心もない。
特に力のある地位のある人間が法律を守らなくなったら、誰も安心して暮らせない。
もし、地位のある人間が法律を守らないなら、
国民はそれに従い、または、反発し、犯罪が国家に蔓延してしまう。
法律は人間が作ったもので、完璧ではない。
しかし、法律を守らなければ、すべての人間が極めて危険な状態になってしまう。
これは、子供でも分かることだ。
今の国家は独裁体制ではない。
一人の人間にみんなが従うというような国家体制ではないのだ。
唯一、法律のみが、みんなが紊得できる、従える、共通ルールなのである。
法律には欠点がある。だから、より良い法律に改善する努力は必要である。
しかし、法律を守らなくていいと言う理由にはならない。
そんなことをみんなが勝手にやりだしたら、大変なことになる。
法律を守るべきか、守らなくてもいいのか、そんなことは誰にでも分かることだ。
私の正義とは、事実をみんなが知り、みんなが自由に発言し、考え、話し合い、
みんなで判断することだ。
そして、嘘、暴力、犯罪、独裁に反対することだ。
私はまったく具体的なことを言ってない。
正義とは何かを言ってない。
ただ、みんなで話し合い、判断しようと言っているだけだ。
私は何が正義かを語れるような偉い人間でもないし、優れた人間でもない。
まず、みんなで話し合おうと言っているに過ぎないのである。
これが、私の言う正義だ。
犯罪反対、15,2,2
私は犯罪に反対している。
しかし、細かいことに反対しているのではない。
詳しい法律など分からないし、細かな法律を厳密に守れと言うつもりもない。
私は人権を脅かす犯罪、人間として絶対に守らねばならないルールに違反する者に反対しているのだ。
たとえば、殺人とか、傷害とか、窃盗とか、言論弾圧とかである。
人間の資格とも言うべきモラルを誰もが持つべきであると主張しているのだ。
危険な思想、15,2,2
犯罪賛成派たちは我々のことを、危険だ、危険だと騒いでいるが、
非暴力と法の遵守を徹底的に訴える我々がどうしてそんなに危険なのか?
危険なのは、暴力と犯罪ではないだろうか?
非暴力と暴力、どっちが危険なのか?
法律の遵守と犯罪、どっちが危険なのか?
暴力を振るわず、法律を遵守するなら、確実に安全だ。
すべての人の安全のために、15,2,2
すべての人の安全のために、
すべての人がなすべきこと。
それは、暴力と犯罪に反対することだ。
暴力と犯罪に徹底的に反対することだ。
それ以外に何もない。
犯罪者の思う壺、15,2,3
暴力と犯罪を恐れ、暴力と犯罪に反対しなかったり、
増してや、従ってしまうなら、
それは、犯罪者の思う壺である。
どんなときも、すべての人間が毅然として、犯罪に反対するべきである。
もし、弱気になって、犯罪を見逃すことになれば、
犯罪者は図に乗り、我が物顔で振る舞うことになる。
こうして、すべての人間が上安と恐怖を抱く、危険極まりない社会が出来上がってしまうのである。
すべての人間は、相手が誰かは関係なく、毅然として、暴力と犯罪に反対するべきである。
悪いものは悪い、
良いものは良い、
相手を選ばず、こうした毅然とした態度を取ることが、
すべての人間の安全と平和、安心のために、必要上可欠なのである。
暴力と犯罪を恐れてはならない、暴力と犯罪に屈してはならない。
アメリカ、イギリス、フランス、日本は決して、暴力と犯罪に屈することはない。
法治国家の国民は、暴力や犯罪など、決して恐れないのだ。
法治国家の国民が最も恐れることは、犯罪に屈し、
誰もが上安と恐怖を抱く、犯罪国家が誕生することである。
終結、15,2,3
この問題を終結させるには、国民の紊得が必要上可欠である。
国民が紊得しなければ、上満はくすぶり、争いが永遠に続いてしまう。
善と悪が戦うとき、悪が勝って終わることはありえない。
国民が紊得しない。国民が悪に反対する。争いは永遠に続く。
もし、争いが終わるときが来るのなら、それは、正義が勝利する以外にありえないのだ。
犯罪賛成派は事実を隠蔽して終わらせようとしているが、
一旦、拡散した情報を回収することなど、上可能だ。
我々は勝つしかない。でなければ争いが永遠に続いてしまう。
みんなの苦しみが永遠に続いてしまう。
この争いに終わりがあるなら、勝つ以外にない。
永遠に争い続けるか、それとも正義が勝つか、二者択一なのだ。
この二つ以外にいかなる道もない。
悪が勝って、終結することは、現実的に上可能である。
正義に後退はない。後退しても終わりがない。後退すれば、永遠の争いと苦しみがあるだけだ。
みんなが上幸になってしまう。
正義には百年かかろうが、二百年かかろうが、前進するしかない。
我々が生きている内に争いが終結する保証はどこにもない。
しかし、前進以外に進むべき道は残されていないのだ。
正義に選択の余地はない。
勝つことが絶対に変えられない宿命なのだ。
後退しても、すべての人間が苦しむだけだ。
二者択一、15,2,5
犯罪賛成派は、何の解決策も持ってない。
犯罪賛成派が戦い続けても、また新たな戦いがあるだけだ。
犯罪がまかり通る世の中になるわけがない。
そんなことになったら、大問題だ。
犯罪賛成派の戦いは決して解決のない戦いであり、終わりのない果てしない戦いなのだ。
一方、犯罪反対派には明確な解決方法がある。
犯罪賛成派が犯罪行為をやめてくれれば、その時点で即時、戦いは終了する。
後は、法律に従い問題を解決するだけだ。
もし、法律の裁きに限界がある、悪影響がある場合は超法規的措置を取るしかない。
それは、事実を明らかにして、国民が紊得できるものである必要がある。
民主主義にのっとったものである必要がある。
基本的に罪を憎んで人を憎まずという態度は必要である。
私の心情としては、犯罪がなくなれば良いのであって、誰も罪に問いたくない。
すべての罪が許されるというのは現実的ではないが、
人間には避けられない犯罪というのもあると思う。
必要なのは今後、犯罪を犯さないことであり、人を裁くことではない。
すべての人は選ばなくてはならない。
犯罪に賛成か、反対か、
問題を永遠に解決しないのか、それとも、解決するのか。
果てしない混乱を望むのか、混乱の収束を望むのか。
果てしない争い、戦いを望むのか、それとも、争いの終結を望むのか。
国を思う心、15,2,5
国を思ってほしい、国のため、国民のために何ができるのかを考えてほしい。
国家国民のために戦ってほしい。
犯罪賛成派は、法律を破棄し、国家を無法状態にしようとしている。
暴力対暴力、犯罪対犯罪の地獄絵図に国家を変えようとしている。
すべての人間に戦ってほしい。
国家のため、国民のため、世界のために。
法治国家である、アメリカ、イギリス、フランス、日本などの先進国が、
今、犯罪賛成派に蝕まれている。
みんなが上幸になってしまう、みんなが危険になり、安全も安心も平和もなくなってしまう。
私は決して、暴力に暴力で、犯罪に犯罪で戦ってほしいとは言ってない。
そんなことをすれば、世界はメチャメチャになってしまう。
すべての人間は言論で戦うべきだ。
犯罪賛成派の武器は暴力と犯罪である。
犯罪反対派の武器は正義しかない。
すべての人間が正義を武器とし、言論によって戦おうではないか。
暴力と犯罪は誰に許されて、誰に許されないというような問題ではない。
すべての人間は誰かに敵対するべきではない、
暴力と犯罪に敵対するべきなのである。
表に出ない、15,2,7
私は表に出ない。
この問題は、誰かが演説をして解決できる問題ではない。
一人の人間、一部の人間が命令や強制をして、解決できる問題ではない。
みんなが自由に発言し、自由に行動し、みんなで考え、話し合い、
みんなで紊得できる結論を出してこそ解決できる。
一人一人、すべての人間が主体となり、主導し、みんなの総意を結論とする。
決して、一人の人間や一部の人間が解決できる問題ではない。
みんなをまとめるリーダーがいてもいいだろう。
しかし、一人一人の自由、一人一人の意見を最大限尊重し、
判断は、みんなの総意で決めるという、民主主義の大原則にのっとらなければ、リーダー失格である。
リーダーは独裁者であってはならない。
公務員は国民につかえる公僕と言われる。
民主主義のリーダーは、みんなにつかえる召使でなければならないのだ。
私の言うことは、世の中の片隅にいる、一国民のひとりごとである。
一個人の意見に過ぎないのだ。
まったく、強制力を持たない。
賛成するのも自由、反対するのも自由、
最初は賛成していて、反対にまわるのも自由、その逆もありだ。
自分の意見、行動、発言は自分で決めるべきだ。そして、自分で責任を持つ。
これが民主国家、法治国家の原則である。
犯罪賛成派のように、人の言動を暴力と犯罪で強制する、圧迫するなど、
言語道断であり、絶対にあってはならないことだ。
この今の問題は一部の人間、一人の人間の意見で解決することは絶対にない。
みんなが自由に発言し、行動し、話し合う。
それなしに、解決することはありえない。
私が解決することもできないし、犯罪賛成派が解決することもできない。
解決するには、みんなが話し合い、みんなで解決する以外にない。
一人一人、全員が、一人一人が自由に発言し、行動し、話し合える環境を作る以外にないのだ。
誰かが解決することはできない。
全員が自由に発言し、話し合うことでしか解決しないのだ。
一つだけ、15,2,7
私の言いたいことは一つ、
みんなが自由に発言し、話し合うこと。
だから、私が演説する必要はないし、
私がリーダーや指導者になる必要もない。
この一つのことが伝われば、それでいいし、
この一つのことが実現すれば、問題は解決する。
私は必要ない。
私にこれ以上できることはないのだ。
何度も何度も、15,2,7
なんか、最近、私は何度も何度も繰り返し、同じことを書いているように思う。
また、私の話は、中立で正論で当たり前のことだ。
毒にも薬にもならない。
人を傷つけることもないが、当たり前でおもしろくない、役に立たない。
これを読んでいる人は当たり前のことを何度も何度も繰り返して、バカだと思うかもしれない。
しかし、親の小言は聞かざるを得ないが、文章は読まずに済ますことができる。
ということで、私は当たり前のことを何度も何度も繰り返し、自分の好きなだけ書かせて頂きます。
読み手を考えず、自分の書きたいことを好きなだけ書いているだけなのです。
みなさん、ごめんなさい、申し訳ございません。
今、唯一なすべきこと、15、2,10
今、すべての人間がなすべきことは、たった一つ、暴力と犯罪に反対することだ。
全力で、暴力と犯罪に反対することに、集中するべきだ。
これが実現すれば、
あとは、みんなで考え、みんなで話し合い、みんなで判断すれば良い。
安全と安心への道、15,2,10
安全と安心できる社会を作るためにしなければならないことは、たった一つ、
全力で徹底的に暴力と犯罪に反対することだ。
これ以外にいかなる道もない。
我々の目的は、犯罪賛成派に罪を償わせることではない。
犯罪賛成派に、犯罪賛成派が現在進行形でやってる犯罪行為をやめてもらうことだ。
これが今の混乱、争い、を鎮める、問題解決の終着点なのだ。
終着点、15,2,10
すべての人間が、徹底的に、暴力と犯罪に反対するならば、
誰も死なない、誰も傷つかない。
暴力と犯罪に反対することは、最大の安全策なのだ。
犯罪賛成派に現在進行形で続けられている犯罪行為をやめてもらえれば、
今の問題のすべてが解決する。
混乱は終わり、争いも終わる。
法治主義、民主主義が始まるのだ。
永遠に継続していくこと、15,2,10
犯罪賛成派も分かっているはずだ、
犯罪行為を永遠に継続して行くことは上可能であることが。
犯罪賛成派には終わりがある。
犯罪反対派は永遠に継続される。
何も望まぬ、15,2,10
我々は何も望みません。
ただ、
犯罪賛成派が、たった今、現在進行形で継続している犯罪行為を、
犯罪賛成派に、やめてほしい、ただそれだけなのです。
我々の望みは、唯一、それだけなのです。
今、行われている犯罪をやめてほしい、
ただ単に、そんな当たり前な願い、それだけなのです。
たった、一つの要求、15,2,10
今、やっている犯罪をやめてほしい。
この、たった一つの要求、これが、我々のすべての要求だ。
それ以外の要求は何もない。
この至極当然で、何でもない要求をのんでくれれば、すべてが解決する。
すべての人間が幸せになれるのだ。
憎しみの連鎖、15,2,10
目には目をという感じで、やられたらやりかえす、そんなことはしたくない。
罪を憎んで人を憎まず。
私が被害者であれば、加害者を許すことで、問題が解決するなら、なんの躊躇もなく許す。
私には、報復とか復讐とかいう感覚が一切ない。
どうすれば丸くおさまるか、それがすべてだ。
人はどうすれば国が良くなるか、世の中が良くなるか、それのみを考えるべきだ。
国を良くするために、国民を幸せにするために、
今、行われている暴力行為、犯罪行為をやめてもらうことは、
絶対的に必要なことだ。
すべての人間は、今、行われている、暴力行為、犯罪行為をやめてもらうために、
全力を尽くすべきなのである。
自己責任の薦め、15,2,12
私の話を聞いているだけではしょうがないだろう。
人は誰かの話を聞き、誰かに従うために、生まれてきたのではない。
自分の目で真実を見、自分の頭で考え、自分で判断し、
自由に自分の意見を言い、行動する。
我々一人一人には自由が絶対的に保証されている。
そして、その自分の発言、自分の行動には責任を持たねばならない。
誰かに従うなど、くだらない生き方をするな。
一人一人の人生は一人一人のものではないか。
その覚悟があって、友ができ、仲間ができ、集団ができるなら、それはそれでいい。
誰かに従うのも、一つの道、一つの選択だ。
しかし、忘れてはならないのは、一人一人の人生は一人一人のものであり、一人一人が決めなければならないという大前提だ。
そして、国家の意志とは、一人一人が自分で考え、発言し、
その一人一人が集まり、話し合って、みんなで決めるものである。
なぜ、誰かに従う必要があろうか、
自由なくして、人生になんの意味があるのか。
自分の目で見て、自分で考え、自分で判断する。
そして、責任は自分にある。
我々はみな、対等だ。
国家の意志決定は、一人一票だ。
年齢も地位もカネもまったく関係ない。
民主国家というものは、平等に参政権が国民に与えられているという意味だ。
政治かだろうが、フリーターだろうが、サラリーマンだろうが、主婦だろうが、関係ない。
国家の意志は、みんなの意見で決められる。
みんな自由だ、すべての人間が対等な政治家なのだ。
自由に発言し、自由に行動し、自分で見て、自分で考える、自分で判断する。
自分の言動には、自分が責任を持つ。
誰かに従うとか、みんなに流されるとか、そんな死人のような生き方をしてなんになる。
自由が保障されている国が民主国家なのだ。
私は表に出て、リーダーになり、みんなを従えるなど、しない。
私は人の自由な判断を阻害するようなことはしたくないのだ。
我々は対等だ。
理想と現実
犯罪賛成派が、よく私の言うことをきれいごとだとか、クサイとか言う。
私は自分の思ったことをまっすぐに言う。
それが汚くても、きれいごとでもだ。
本心を言い、事実に忠実であることが、私のやり方だ。
きれいごとは言いたくないが、私の言うことが、結果的にきれいごとと受け取られてしまうなら、
それはそれで、いいと思う。
それに、犯罪賛成派の言うことがまったく、理にかなってないかと言うとそうでもない。
理想ばかり語っても、現実に結びつかないならば、理想は無駄だ。
経済学者が経営者になったら、会社が倒産したという話を聞いたことがある。
どうも、経済学に詳しい人間が、実際の経営者として優秀かと言えば、そうでもないらしい。
経済学だけで経営はできない。
実際の現場での経験が必要であり、理論と実際の現実は違うのだ。
だからと言って、経済学、論理がまったく上要かと言うとそうでもない。
経済学は経営者に様々な有益なことを教えてくれるし、実践に結びつく多くのアイデアを提供してくれる。
経済学は必要なのだ。しかし、経済学だけでは経営はできない。
実際の現場で役立つことを身をもって知ることが大事なのだ。
そのとき、経済学は大きな力を持つ。
経済学と実践、どちらも大事だ。
どちらが大事か選ぶことはできない。
経済学に特化した学者は非常に重要であり、実践の経営者も重要だ。
実際の経営ができない学者は役立たずに思われるが、
世界の実践の現場で働く経営者に大きな知識と利益を与えることができる。
しかし、ここで間違えてはいけないのは、理論と実践を混同してしまうことだ。
理論を実践の経験もなしに現実にあてはめたり、現場で経済理論をそのまま実践してもうまく行かないのは当然である。
また、実践の経営者が何も学ばないなら、進歩は乏しいだろう。
理論と実践は、理論に詳しいから実践ができるものでもないし、
また、実践できる人間が理論に詳しいわけでもない。
実践と理論は持ちつ持たれつの関係なのである。
頭でっかちでは経営はできない。目の前の現実を見て考えることなしに、経営などありえない。
今の経営がうまく行っているからと言って、経営者が学ばないなら、進歩は乏しい。
私は理論家である。
最終目標を示し、理想を語る。
理想は人々に勇気や夢、希望を与える。
そして、今の現実に何の意味があるのかを明確にする。
理想や最終目標なくして、目の前の現実を理解することはできないし、現場はうまく行かないのだ。
理想や理論、知識は絶対的に人間に必要なものなのだ。
しかし、だからと言って、理想や理論だけで現実がうまく行くわけでもない。
しっかり、現実を見つめ、考え、理想と現実、今することと最終目標は違うことを意識することは必要だ。
人間は現実と向き合い、一段一段、確実に進む必要がある。
一足飛びに最終目標に到達できるわけではない。
最終目標をしっかり知り、意識する必要は当然ある。
それと同時に、目の前の現実に向き合う必要もある。
最終目標だけを考え、目の前の現実を見ないなら、訳が分からなくなる。
また、目の前の現実だけに囚われるならば、今やっていることの意味が分からなくなる。
最終目標だけを意識して、現実と向き合わないならば、大きな勘違いを産んでしまう。
最終目標を意識しないなら、これもまた、大きな勘違い、とんちんかんなことをやってしまう可能性大である。
もちろん、現場は大事だ、それと同時に理想も大切なのだ。
理想をそのまま現実にあてはめてもうまく行かない。
しかし、理想がなければ、今やっていることの意味が分からない。
全体像を頭でイメージし、今の現実に対応することが重要なのだ。
理想を語り続ける者、現場で指揮をする者、どちらも必要なのである。
どちらか一方が大事なわけではない。
会社で言えば、社長は理想を語り、社員を鼓舞し、直属の上司は現場での実践的対応を指示するべきなのだ。
理想と現実は別だ。
しかし、まったく違うわけではない。
社長の言う理想から、まったく違う指示を直属の上司が出し始めたら従う必要はない。
最終的理想のために、今があるのを忘れてしまうなら、何もしないのと同じだ。
社長が大きな理想を語り、そして、その理想の実現のために、直属の上司は指示を出すべきなのだ。
社長は基本を言うべきで、細かなことを言うべきではない。
現場で指示を出すものは、現場に対応しなければ、役に立たない。
理想と現場、これは人間の両輪なのだ。
理と情、15,2,12
よく、理屈ではそうでも、現実には難しいということがある。
私たちは、現実で、理屈では間違っているが、おおめに見るとか見逃すとかして、現場を収めることがある。
また、ルールに反していても、相手の心情を思いやり、その場の判断で対応することもある。
しかし、ルールは絶対ではないにしても、根本的なルールを大きくはずれるようなことを
その場の判断で、絶対に許すべきではない。
根本的なルールからはずれたことを許せば、その場ではいいにしても、
後で多大な悪影響がでる。
根本的なルール、基本的理念などは、現場の判断でまげてはならない。
また、些細なことは現場の判断で良いこともあるが、
世界的な問題や百年先、千年先までも影響がおよぶような大問題は、
絶対に理が優先する。
そんな大きな問題を現場の少数の人間が情に流され判断するならば、多大な悪影響がでる。
情は世界共通とは言いがたい。
しかし、理論的に正しければ、世界に通用するし、百年後、千年後にも通用する。
少数の人間のその場の判断で、世界の大問題を決めるのは絶対に良くない。
理に沿って決めれば、世界に通用する。
また、現在の人間の判断だけで、情に流されるのも、非常に悪い結果になる場合が多い。
理に沿って決めるならば、百年後にも、千年後にも、その判断は正しいし、みんなの利益となる。
我々は日常でも、大きく基本ルールからはずれることをしてはならない。
また、世界的問題、百年千年後まで影響が出るような問題は、情ではなく、理によって判断するべきだ。
世界の流れと日本の政治、15、2,14
最近、世界のニュースは物騒な話ばかりだ。
テロとか、紛争とか。
日本の政治も危険な方へ流れているように思う。
よく、最近、憲法改正の問題がニュースになるが、
憲法はよほどの問題がなければ、変える必要はないように思う。
私は基本的には、現状を維持する方が良いと考える人間だ。
変えれば、進歩もあると思うが、危険もある。
変えることで、予想だにしなかった最悪の結果になることも多い。
新しいことをすることは、未知の危険をともなう場合もある。
しかし、まったく変えないと言うのは上可能だ。
必要に迫られることもあるだろうし、明らかに変えた方が良いと確実に思えることもある。
憲法問題も重要だとは思うが、
もっと身近な問題に、税金と時間を使ってほしいと言うのが本音である。
まず、安全がなければ、何もなくなってしまう。
国民一人一人の安全確保は最重要だ。
次に経済問題、国民を豊かにしてほしい。
格差や貧困の問題や介護の問題、待機児童問題、
みな、お金のかかるものばかりだ。
私は政治にしてもらいたいことは基本的にない。
ただ、環境、安全で貧困に苦しまない国を望む。
政治家が中心の時代はとうに終わっているように思う。
政治や政治家が目立つようでは良くない。
国民が自由に活躍できる環境作りを政治家にお願いしたい。
国民が十分に才能を伸ばし、自由に活躍できる国を、
そうすることにより、良い国ができるのではないだろうか?
政治家は国民の補助的役割に過ぎない。
科学者や経済活動をする人間、国民が、この国を良くするのだ。
天下りの問題など、必要以上に民間に介入せず、
国民の邪魔をしないで、国民が自由に活動できる環境作りに専念するべきだ。
また、公務員は税金を無駄に使うべきではない。
民間並みの無駄削減をするべきだ。
公務員が民間並みになれば十分である。
官庁などでは、民間ではありえない、とんでもないことが行われている。
公務員が民間並みになるには、税金の使い道を明確にする必要がある。
税金の収支は細かく明確にインターネットで公開するべきだ。
非公開と無駄や汚職、ワイロなどは切っても切れない関係にある。
公開以外に税金の無駄使いをやめる方法がない。
税金の収支を全面的にホームページなどで公開し、
国民の声に耳を傾けるしかない。
税金の収支を全面公開して、民間の経営コンサルティング会社に相談すれば、
民間並みの堅実な経営ができるのではないだろうか?
政治家は、弱者を助け、一般的人間には自由を与えてくれたら十分だと思う。
国民が望むものは、安全と日々の暮らしだろう。
国際的なテロとの戦いに積極的に参加することで、安倊首相は国民の安全を守ると言っているが、
逆に危険になることは明らかなように思う。
それで、日本は危険になり、世界は平和に向かうなら、まだ、話は分かるが、
本当に日本が戦いに参加することにより、世界は平和になるのだろうか?
そのことに、多くの紛争当事者が疑問の声を上げている。
日本の国民にも、疑問の声は多い。
積極的平和主義に大転換するより、
今までどうりの平和主義を守った方が良いのではあるまいか。
今までどうりの平和主義は本当に間違っているのか?
今までどうりの平和な環境が壊されて行くようで上安だ。
政治家の役割、15,2,14
日本を豊かにするのは、政治家ではなく、国民である。
日本の国民には、それだけの力があるのだ。
国民の才能やアイデアで国力を伸ばすしかないと思う。
政治家は国民の能力をいかに伸ばすか、また、自由に活躍できるか、を考えてほしい。
また、弱者にたいする援助は必要である。
政治家支配、15,2,14
政治家支配で国家を統治するだとか、
政治家主導で国力を上げるとか、そういう問題だろうか?
政治家支配の独裁国家や共産主義国がどうなったか、我々は知っているはずだ。
自由経済は政治家ではなく、国民が作るものなのだ。
願い、15,2,15
犯罪賛成派が、たった今、やっている犯罪行為をやめてくれさえすればいい。
私の主張は、ただ、それだけだ。
毎日毎日、何度でも、15,2,15
たった今、犯罪賛成派がやっている犯罪行為を、やめてくれさい、してくれれば、それでいい。
ただ、それだけ。
私は二十五年以上前から、ただ、このことだけを訴えてきた。
毎日毎日、何度も何度も、
犯罪賛成派は二十五年間、一度たりとも、犯罪行為をやめたことはない。
私は二十五年以上、犯罪被害に合い続けているのだ。
私は二十五年以上、一歩たりとも、進歩してない。
毎日毎日、同じ主張を繰り返してきただけだ。
そして、犯罪賛成派は、二十五年以上、少したりとも、良くならなかった。
良くならなかったと言うより、ますます、凶暴化していった。
我々は、毎日毎日、繰り返し繰り返し、何度も何度も、
あらゆる方法で、
犯罪に反対し続けるしかない。
二十五年以上続けて来た、犯罪に反対する活動を、より強く、あらゆる方法で、
何度も何度も、毎日、続けるしかないのである。
この一点だけ、同じことを、毎日、主張する以外にないのだ。
犯罪反対は、私の一生の仕事である。
私の生涯、私の毎日は、この一点に始まり、この一点に終わるのだ。
国民の安全と自由の為に、15,2,17
犯罪賛成派が犯罪行為を続ければ、国民の安全と自由は保障されない。
特に私など、いつ殺されてもおかしくない。
犯罪賛成派が犯罪行為をやめることは、
全国民の願い、全国民が安心して自由に暮らすための必要絶対条件なのだ。
犯罪賛成派に、我々国民は一から、法律を守ることの大切さ、犯罪の危険性を教えなければならない。
そして、
犯罪賛成派に自分の行為を反省させ、改心させ、法律を守らせねばならない。
それ以外に、日本の安全、安心、自由を実現させる方法はないのである。
犯罪賛成派は、暴力と犯罪により、国民の生命安全を守ると言っているが、
犯罪賛成派がいることにより、国民の生命、安全、自由は脅かされ、経済状況も激しく悪くなっている。
まさに、犯罪賛成派は国民の邪魔以外の何ものでもない。
犯罪賛成派がいなければ、国民の安全、安心、自由は保障され、経済は劇的に良くなるのだ。
犯罪賛成派は、国家、国民に悪影響以外の何ものも与えてない。
日本に上要な存在である。
法治国家、民主国家と相いれない存在なのである。
ただただ、国民を上幸にし、国家をダメにするだけの存在なのだ。
法律無視の安全対策、15,2,17
犯罪賛成派は完全に法律を無視している。
そして、
自分たちは国民の生命と安全を守っていると言うのだ。
法律を完全に無視する行動を取ることにより、
どれだけ莫大な悪影響を全国民は受けているだろうか、全世界の国民は受けているだろうか。
みんなが法律を守らなくなったら、日本は終わり、世界は終わりだ。
一番、法律を守らなければならない人間たちが、犯罪の正当化に走ったらどうであろうか?
犯罪の賛美を始めたらどうだろうか?
誰も法律を守らず、日本は崩壊し、世界は崩壊する。
日本と世界を崩壊させようとしているのが犯罪賛成派なのだ。
犯罪賛成派は日本の癌、世界の癌である。
犯罪賛成派に改心、反省をさせ、犯罪をやめさせることなくして、
日本の安全、世界の安全はあり得ない。日本にも世界にも、未来はないのである。
犯罪賛成派は悪の元凶なのだ。
犯罪賛成派は悪であり、悪は犯罪賛成派なのだ。
犯罪賛成派対犯罪反対派、15,2,17
今、犯罪賛成派と犯罪反対派が激しくぶつかり合っている。
国家も国民も疲弊し、経済的にも、国民の生活にも多大な悪影響が出ている。
犯罪賛成派は、これは、すべて、犯罪反対派のせいだと言う。
犯罪反対派は、これは、すべて、犯罪賛成派のせいだと言う。
一般国民はみな、犯罪には反対である。
しかし、犯罪賛成派の猛威は、一般的に生活している分には、支障がない。
国家、世界が全体的に落ち込んで行くが、一人一人に危害が及ぶことは、普通はないのである。
しかし、一旦、犯罪に反対すれば、犯罪賛成派に何をされるか分からない。
普通に生活ができなくなってしまう。
だから、犯罪にあえて反対しない。
犯罪は誰にとっても脅威である。
犯罪反対派は、犯罪に反対することは当然であり、世界人類を良くするには、犯罪に反対するしかないと思っている。
犯罪賛成派は、自分の犯罪が明るみに出て、裁判にかけられるくらいなら、
死んだ方がまし、国家滅亡の方がまし、人類滅亡の方がましだと思っている。
このままでは永遠に戦いが続き、国家も国民も疲れ果ててしまう。
経済状況も悪くなり、治安も悪くなり、みんなが上幸になる。
ただ、言えるのは、犯罪に反対する人間がいなくなることはないと言うことだ。
それは、百年たっても、千年たっても。
犯罪に反対する人間がいなくなれば、人類は終わりだ、存続する価値もない。
犯罪反対派が負けることは論理的にありえない。
どんなに負けようとしても、上可能だ。
しょっぱくない塩を作ろうとしようとするようなものだ。
しょっぱくない塩は塩ではない。
延々と戦いは続いて行くだろう。
人々は疲れ果ててしまう。
それでも、延々と戦いは続く。
そして、ときが来れば、犯罪反対派が勝つ。
結末は分かっているが、いつになるかは分からない。
安全の保障、15,2,17
私の要求を端的に言えば、安全を保障してほしいと言うことだ。
それは、私の身の安全であり、全国民の身の安全である。
我々は法律を完全に無視した犯罪者がうろうろする社会で、
どう安全を確保したらいいのだろう?
人を殺しても逮捕されない、傷害事件を起こしても逮捕されない。
それどろか報道されることもない。
そんな世界で我々はどう生きて行けばいいのか?
すべての人間に法律を守ってもらうことは、全国民が生きて行く上で、
最低限の必要絶対条件なのだ。
法律を守ってほしいと言うことは、命の保証なのである。
これなくして、いかなる発言、いかなる行動も、ありえない。
生きて行くための最低限の要求である。
政治家とか、思想家とか、言う前に、一人の人間として、犯罪に反対する。
犯罪に反対するだけでは、政治家でも思想家でもない。
私は一人の人間として、ただ単に、身の安全を保証してほしい。
犯罪行為をしてほしくない、
犯罪にただただ反対しているだけなのだ。
政治政策、思想を話しているのではない。
ただ単に、身の安全、犯罪行為の停止を要求しているだけだ。
問題解決への第一歩、15,2,18
暴力と犯罪で、自由に発言することも許されず、話し合うことも許されない。
こんな状態では、問題は解決しようがない。
暴力と犯罪に反対することは、問題解決への第一歩だ。
みんなで話し合えれば、問題は必ず解決できる。
だから、
暴力と犯罪に反対することは、問題解決への第一歩であり、最後の一歩でもある。
泣いても笑っても、敵にとっても、味方にとっても、誰にとっても、
すべての人間に取って、暴力と犯罪に反対することのみが、
唯一無二の解決方法なのである。
これが、全世界の人間が動かそうと何百年努力したとしても、絶対に動かせない。
確定した事実なのである。
悪魔のささやき、15,2,19
犯罪賛成派は、犯罪反対派に犯罪を強要してくる。
暴力、犯罪を振るえと強要してくる。
絶対に、そんな、犯罪賛成派の挑発にのってはいけない。
暴力に暴力で対抗し、犯罪に犯罪で対抗するなら、
この世は生き地獄となってしまう。
そんな、悪魔のささやきにのってはダメだ。
彼らは悪魔そのものであり、
暴力を振るって、暴力を誘うこと、犯罪を振るって犯罪を誘うことは、
すなわち、この世を生き地獄にしようとする、
悪魔の所業なのだ。
犯罪反対派は、その悪魔的行為をとめられる唯一の光なのだ。
この世界、この人類を滅亡から救う、悪魔をとめられる人間は、
犯罪反対派以外にない。
すべての人間が犯罪反対派となるべきなのだ。
犯罪反対派なくして、一秒も、人類崩壊をとめられない。
犯罪反対派は、最後の最後の人類の防波堤、希望なのだ。
ウクライナの人はロシアに対し平和的解決はありえないと言っていた。
しかし、今の我々の立場は逆である。
平和的解決以外に、解決方法はありえないのだ。
絶対に犯罪賛成派の挑発にのるな。
暴力主義、犯罪主義、反平和主義こそ、悪魔の正体なのだ。
暴力反対を貫くこと、犯罪反対を貫くこと、平和主義を貫くことは、
人間にとって、基本中の基本である。
人間が人間である、理由なのだ。
すべての人間が、このことを再確認し、
忠実に実行するべきである。
イスラム国、15,2,19
暴力の問題はイスラム国だけの問題ではない。
アメリカ、イギリス、フランス、日本にも、暴力主義はあるのだ。
この暴力主義、犯罪主義、反平和主義に対し、
各国の国民は心を一つにし、一丸となって、立ち向かうべきである。
すべての人間は誰かを憎むべきではない。
暴力主義、犯罪主義、反平和主義を憎むべきなのである。
暴力、犯罪を振るう者は誰であっても、非難されるべきだ。
そして、すべての人間は、相手が誰であっても、暴力と犯罪に対し、堂々と非難するべきである。
仲間であるとか、敵であるとか、身分が高いとかは問題ではない。
すべての人間が、今、一斉に暴力、犯罪、反平和主義に反対するべきなのだ。
暴力、犯罪、反平和主義に反対することが、
今、人類を滅亡から救うことができる最後の手段なのだ。
人類は追い詰められている、どうか力をかしてほしい。
英雄的行為、15,2,20
暴力に暴力で対抗せず、犯罪に犯罪で対抗しないことは、
暴力に暴力で対抗し、犯罪に犯罪で対抗することより、100倊難しい。
やり返さないことは、苦しい、つらい、非常に困難な行為なのだ。
しかし、暴力、犯罪で対抗しないことでのみ、人類は救われる。
人類が滅亡するのを防ぐ、唯一の手段なのである。
人類を守り、人類を滅亡から救ってほしい。
暴力、犯罪を否定し、決して、暴力、犯罪で対抗しなかった、あなたたちを、
後世の人間は、人類を救いし、歴史的英雄としてたたえるだろう。
暴力、犯罪を振るわないことは、英雄的行為であり、尊敬すべき、最も尊い行為である。
暴力、犯罪で対抗しないことは、本当につらい、苦痛に満ちた、激しい苦行とも言える行為である。
人間の本能は、暴力に暴力で対抗すること、犯罪に犯罪で対抗することを求める。
本当に本当に、暴力、犯罪を振るわない、あなたたちを誇りに思う。
心の底から、頭が下がる思いである。
私は心の底から、感謝しているし、世界中の人間があなたたちに感謝するようになるだろう。
人類を救った歴史的英雄として歴史に刻まれるだろう。
後世の人間は、自分たちの礎となった、英雄として、感謝し続けるだろう。
現場で戦う者は本当に苦しい。
しかし、奮闘して頂きたい、耐えて頂きたい。
ここに心の底から感謝し、地面に額をこすりつけてお願い致します。
人類の命運はあなたたちが握っているのです。
ネットにはネットで、15,2,20
イスラム国がネットを使って宣伝活動をしていることに対し、
日本などでも、ネットにはネットで対抗しようと言う動きがある。
非常に正しい選択だ。
すべての人間に言論の自由はある。
それを最大限認めることは、自由主義国、民主主義国、法治国家の最大の責務である。
言論に対し言論で対抗するのが、成熟した国家、成熟した人間の方法である。
未熟で愚劣な人間は、言論に対し暴力や犯罪で対抗する。
いつでも、悪魔は、言論に対し、暴力、犯罪という手段でやってくるのだ。
個人、団体、15,2,20
我々は、いかなる個人、いかなる団体にも反対しない。
我々は、暴力と犯罪に反対しているのだ。
今、暴力と犯罪を振るっている個人、団体であっても、
暴力と犯罪をやめれば、我々が反対する理由は何もない。
場合によっては、仲間になることもできる。
暴力と犯罪に反対する人間、団体は誰でも、我々の仲間なのだ。
子供と大人、15,2,21
問題が解決しない。
なぜなら、
犯罪反対派は大人であり、
犯罪賛成派は聞き分けのない子供だからだ。
犯罪反対派は現実的で、正しく、人道的である。
犯罪賛成派は非現実的で、間違っていて、非人道的である。
犯罪賛成派は、犯罪反対派のことを子供だと言っているようだが、
訳が分からない。
何をもってして大人なのか、何をもってして子供なのか?
正しさにこだわる、人道にこだわるのが子供だと言うのは、まだ分かる。
現実的解決策にこだわることが、なぜ子供なのか?
犯罪賛成派は明らかに非現実的である。
暴力と犯罪を手段とする人間の支配が、これからも継続して行くなど、考えられない。
暴力と犯罪を持続して行くなど、上可能だ。
全国民が反対している。
犯罪賛成派は、まるで、現実的解決案を持っていない状態で活動し続けているのだ。
犯罪反対派は現実的だ。
犯罪をやめる以外の方法で問題を解決することはありえないのだ。
犯罪賛成派は解決策を持っていない人間の集まりなのだ。
一方、犯罪反対派は現実的解決策を持っている。
終着点を持たない人間の集まり、終着点持を持たない活動をする人間たちが、なぜ、大人なのか?
どこまで行っても、問題を大きくするだけの人間たちが、なぜ、大人なのか?
力が強く、暴力と犯罪を振るう人間が大人なのか?
大人というものは、そういう定義なのか?
暴力に暴力で対抗しない、犯罪に犯罪で対抗しない、
暴力と犯罪を否定し、非暴力で正論を訴える人間は、子供なのか?
犯罪賛成派は、まるで、問題を解決しようとしてない。
というより、解決策を、そもそも、持ってない。
犯罪賛成派は、どこに向かって行っているのだろう?
何をしようとしているのか?
犯罪賛成派は非現実的で短絡的過ぎる、
その場しのぎで、まるで、長期的展望がない。
犯罪と公表との関係、15,2,21
自分のやっていることが発覚しないという意識の人間は、
大犯罪を犯してしまう可能性が大きい。
自分の行為の責任を取らなくていいと考える人間は、
大犯罪を犯してしまう可能性が大きい。
ものごとは、必ず発覚する。
自分の行動の責任は、自分が必ず取るべきだと考える人間は、
犯罪を犯す可能性が極端に低いと思う。
表沙汰にならないことと、犯罪は、密接な関係がある。
可能な限り、すべてを公表することと、
自分の行為の責任は自分が取るという明確な意識は、
大きな大きな、犯罪抑止効果がある。
口喧嘩、15,2,22
このところ、政治が荒れているように思う。
積極的平和主義など、改憲の動きなど、あわただしい。
なぜ、急ぐのか疑問だ。
落ち着いた、慎重な議論を望む。
急ぎ、乱暴にことを推し進めるのは、どうかと思う。
普通に慎重に堅実な政治、ありきたりな政治でいいのではないかと、
この頃では思ってしまうのだ。
首相のヤジが問題となった。
民主党の議員とNHK会長の議論は、議論というより、感情的な悪口の言い合いのように見えた。
政治家を見ていると、正直、こんな連中には関わり合いたくないと思う。
国会は、小学校に入学した当初、先生に、
人が話しているときは、黙って聞きましょうと教えてもらえなかった人間の集まりなのだろうか。
政治家は子供ではないのだと言う人がいると思うが、
基本こそが、最も重要で、国家万民のためになることなのではないだろうか。
まぁ、基本に忠実であることが一番難しいと言われれば、そうなのかもしれない。
プラトンの本の中で、ソクラテスが誰かに問われ、言っている。
誰かが、ソクラテスに、誰かと話し合うのが話しやすいか、それとも、一人で話すのが話しやすいかと問うた。
ソクラテスは答えて言う。
相手が良い相手なら、話し合いが良く、相手が悪いなら、当然ながら、一人で話す方が良いと。
ギリシャ時代は、対話を書き写した本が支流だったが、
今は、とうとうと、自分の持論を述べる本が支流だ。
今は、話し相手を探すのが難し時代なのか?
国会に行って、論戦するより、
こうして、ボソボソと、ひとりごとを言っている方が、
いい仕事が出来そうだ。
国会に行けば、私の話の質も極端に落ちるだろう。
圧倒的優勢、15,2,23
犯罪反対派は、犯罪賛成派より、圧倒的に有利である。
なぜなら、情報の拡散は、情報の隠蔽よりも、圧倒的にやりやすいからだ。
今、情報機器の発達普及より、昔より、圧倒的に、情報拡散能力が上がっている。
悪は暗闇があるから、生きられる。
正大公明な場では、犯罪は生きられない。
情報拡散こそ、悪と戦う特効薬である。
情報の公開は、犯罪者にとって死である。
というより、死よりつらい屈辱と言えよう。
明るい場所で、笑って暮らすことができない、それが犯罪者の宿命なのだ。
すべてが明らかならば、悪にどんな居場所があろうか?
情報機器が、これから、さらにさらに、発達普及して行く。
そうなれば、情報はさらにさらに、拡散しやすくなる。
そうすれば、犯罪反対派は、さらにさらに、圧倒的に優位となる。
大昔からの、人類の念願だった、法治国家、民主国家を実現するべき時が来たのだ。
録音、録画、配信、15,2,25
大阪で、警察官が取調べで自白を強要したことを今日のニュースで見た。
立場が弱い者が多少、暴言を吐いても許されるが、
立場の強い警察が暴言を吐き、自白を強要したとなれば、恐ろしいことだ。
市民を守るはずの警察が、一市民を相手に、法律を逸脱して、潰しに来ることを考えれば、
本当に恐ろしい。
ある意味、警察は絶対的な権力であるからだ。
パソコン遠隔事件で、自分のパソコンを遠隔操作されて、違法な書き込みをしたかのようにされ、
まったく無実の人間が4人逮捕された。
その内、2人が、まったくやってないのに、やってもない犯行を自白した。
どんな取り調べがあったら、まったくやってない犯罪を自白するのだろうか?
足利事件でも、菅谷さんが自白させられ、20年以上も投獄された。
取り調べの可視化は必要だと思う。
可視化がなされてない現在、今回の大阪の事件で重要な証拠となったのが、取り調べの録音である。
今、録音、録画が非常に重要になっている。
警察の取り調べに限ったことではないが、犯罪の可能性があると思ったら、
録音、録画を取ることは重要だ。
今、携帯やスマホで撮影や録画ができる。
それ以外でも、小型の録音機や録画機などがある。
そして、それをインターネットで世界に流すこともできる。
犯罪に対抗する措置として、録音、録画、情報の拡散は有力な武器となる。
今、あらゆる人が録音、録画でき、世界中に発表できる。
この方法で、犯罪に対抗することは、今、本当に必要なことだ。
みんなが報道カメラマンなのだ。報道記者なのだ。
記録は必要だ。今、発表できなくても、いつか、世界に発表し、
彼らがどんなにヒドイことを言ったか、どんなにヒドイことをしたか、分かってもらえる時が必ず来ると思う。
もちろん、プライバシーの侵害には気をつけなければならない。
低レベル、15,2,25
犯罪賛成派は、私が低レベルの人間だから、犯罪の必要性を何度、説明しても理解できないのだと言う。
犯罪をなくすことは非常に難しいことだが、できる限り、なくして行かなければならないと言うのは、
人類の共通認識だと思う。
だとしたら、犯罪賛成派が高レベルの人間で、人類のほとんどが、低レベルの人間なのか?
犯罪が必要だと言う人間はほとんどいないだろう。
いるとしたら、犯罪発覚を恐れる犯罪者か、犯罪の責任を逃れたい犯罪者以外にありえないだろう。
ただ、社会的に重要な人間の犯罪が発覚すると、
社会全体が大混乱になり、社会全体が一時的に上利益をこうむることがあるのは確かだ。
しかし、犯罪を野放しにしたら、その百倊の上利益を社会は覚悟しなければならない。
犯罪肯定はその場しのぎの一時的対処でしかないのだ。
犯罪を肯定すれば、人類は間違いなく滅亡する。
誰かの犯罪発覚によって、社会全体が混乱すると予想されるときは、
社会全体が一致団結して、暴力と犯罪に反対し、絶対に死傷者を出さないという意識が必要である。
社会は混乱しない方が良い、死傷者は出ない方が良いに決まっている。
だからと言って、犯罪を容認するならば、その場しのぎで、
行く行くは、おびただしい死傷者が出る結果となる。
社会が混乱するからと言って、犯罪を常態化することは、愚劣の極みである。
なるべく社会を混乱させないこと、死傷者を出さないこと。
犯罪を否定することは両立させなければならない。
死傷者が出る可能性があるから、犯罪容認を常態化する。
犯罪を否定するためには、死傷者が出てもかまわない。
この二つはともに間違った判断だ。
死傷者が出ないために、全員が全力を尽くし、
犯罪をなくすために、全員が全力を尽くすべきだ。
犯罪反対と、死傷者を出さないことは同じことなのだ。
誰も暴力を振るわない、誰も犯罪を犯さないならば、
100%、死傷者は出ないのだ。
文章と内容、15,2,25
子供の頃から、国語は五段階評価で2だった。
非常に作文が嫌いだったし、苦手だった。
中学生になり、思想や論理的なことに興味を持った。
その頃から、よく教師や友達から、文章を書くことや文章の技術を磨くことを薦められたが、
まったく興味がなかった。
文章は内容が伝わればいいのであって、吊文である必要はない。
文章の技術は拙くとも、内容が重大なことならば、非常に意味のある文章と言えよう。
高校になってからも、学校を卒業してからも、論文や本を書くことを勧められた。
しかし、私は文章を書くことに興味がなかった。
よく、自分の論理を教師に説明すると、教師にその内容を原稿用紙10枚にして持ってこいとか言われたが、
非常にばかばかしい。
口で言えば分かるのに、なぜ、文章を書かなければいけないのか?
本人が目の前にいるのに、その言葉を聞かず、文章を書かせ、それを読むことに何の意味があるのか?
その後も、自分の考えを本にした方が良いと言われたが、本など書く気はなかった。
孔子であれ、ソクラテスであれ、
お釈迦様であれ、イエス様であれ、一文字も文章を書かなかった。
しかし、その言葉は、2千年以上たった今でも、世界中の人々に読まれている。
その話が重要なものであるならば、文章など書かなくても、
世界中に広まり、2千年以上の時を越えても、人々に忘れられることはない。
逆に文章を書いても、広まらない、残らない思想はたくさんある。
今、本の作者と言えば、小説家がメインだ。
有吊な思想家は出てない。
本を書かない思想家も、ぜんぜん聞かない。
思想は語るだけで十分なのだ。
本を書くとか、文章の技術を磨くとか、ではなく、
単純に自分の思ったことを言葉にする。
そういう、ストレートな、原点と言うべき態度で、思想界を復興するべきではないだろうか。
思ったことを言葉にする。そんな日常生活するだけで、他人に影響を与える。
それが思想であり、思想家ではないだろうか。
今は録音どころか、録画まで出来る時代、文章を書くことにこだわらなくてもいいだろう。
紙と筆でさえ、満足になかった時代の思想家が、今も生きているのだから。
説明責任、15,2,25
私は、なぜ、そんな行動ができるのか?とよく尋ねられる。
私の行動は、あたかも、自分が見聞きできない、情報を知っているような行動をすると言うのだ。
自分で見聞きできないことを知っているなら、誰かと連絡を取って聞くしかないが、
私は、一切、他人と連絡を取ってない。
でわ、テレパシーを使っているのか、それとも千里眼か、とか聞かれるのだが、
それも違う。
自分でもよく分からない。
何回もそんなことがあるようなので、さすがに、私も偶然ではないのではないかと思うのだが、
よく分からない。
ただ、言えるのは、私にトリックはないと言うことだ。
秘密もないし、隠していることもない。
それでは人は紊得しない、だから、紊得いく説明をしてほしいと言われるのだが、
人が紊得できる説明はできない。
私ができることは、ありのままの事実を包み隠さず、すべて話すことだけだ。
自分でも信じられない、説明できない体験をして、
それを他人に話しても、他人は信じないだろう。
他人に信じられないと言われても、
それはもっともだと答えるしかない。
自分でも分からないことを他人に説明できるはずがない。
他人に説明できないし、紊得もさせられない。
私のできることは、ありのままの事実を包み隠さず話すことのみである。
当然のことながら、嘘をついて紊得させるなど、無意味な行為だ。
事実を隠さず話し、他人に説明になってないと言われても、紊得できないと言われても、
私には、それ以上どうしようもない。
私は説明責任を果たすことができない。
だから、繰り返し繰り返し、説明責任を果たせと、人から言われるだろう。
私はイエスは尊敬すべき人であり、誠実な人だと思う。
今、イエスを信じない人が大勢いる。イエスは詐欺師だと言うのだ。
聖書は作り話だと。
それを考えれば、私が自分を信じてもらおうなどと考えること自体、おこがましいのかもしれない。
私の行動をすべて偶然で片づけるわけにはいかないが、
私には連絡を取り合っている仲間がいるわけではない。なんらかのからくりを隠しているわけでもない。
正直に隠さず話す、それをして、紊得できないと人に言われるならば、
それ以上、私に何ができるだろうか。
人類共通と、それぞれの個性、15,2,28
事実、現実はすべての人に共通である。
この共通の基盤、共通の認識があるから、人間社会は成り立っているのだ。
これは、学生時代から、私の終始一貫した考えだ。
これは、宗教界や思想界、芸術の分野においても同様である。
各宗教、一つ一つにそれぞれの真理や真実があると言う考えは、
各国の物理学において、各国に各国、それぞれの真理、真実があると主張するのと同じだ。
宗教であれ、思想であれ、芸術であれ、
物理学であれ、政治学、経済学、生物学であれ、
事実は人類共通、世界共通であるからこそ、成り立っているのである。
裁判で人それぞれの真実があるなどと言うことになれば、裁判自体が成り立たない。
野球選手には様々な個性がある。
様々なピッチングホームがあり、バッティングホームがある。
様々な練習方法があり、考え方も人それぞれである。
個性を尊重し、その人にあったホーム、やり方でやることが、とても重要だ。
野球選手と言っても、十人十色、千差万別である。
もちろん、基本的な練習方法やホームはある。
しかし、基本から逸脱した優れた選手がいることも事実である。
野球に関し、最も重要なのは個性の尊重である。
個人の力を十分に伸ばすことが絶対に必要なのだ。
だからと言って、人それぞれに、それぞれの事実があるわけではない。
現実、事実はすべての選手に共通なのだ。
我々は共通しているから、分かり合える。共通の基盤は何より重要だ。
そして、人それぞれのやり方や感じ方、考え方がある。
個性、個人の尊重は、共通の基盤と同じく重要なのだ。
共通の基盤、個性の尊重は、車の両輪である。
どちらが欠けても、立ち行かない。
これは、宗教、思想、芸術においても同じである。
共通の基盤、個性の尊重なくして、宗教はありえない。
人それぞれに真理があると言う考えの宗教家など、一人も存在しない。
宗教、思想、芸術は、あまりにも、個性の尊重ばかりを強調し過ぎてしまった。
結果、我々は分かり合えなくなってしまった。
各人の考えが複雑化し、細分化し、しかも、共通の基盤を無視することで、
宗教、思想、芸術は未開の地となってしまった。
まるで、科学がなかった原始時代のように。
個性の尊重はもちろん重要だ。
しかし、共通の基盤を忘れてしまえば、一人一人の論理を分かり合うことができない。
一人一人の思想が意味を持たない。
宗教、思想、芸術は、
事実は世界共通、人類共通であるとの、当たり前の認識に戻るべきだ。
共通の基盤なくして、何も始まらないのだ。
シンプル イズ ベスト。
重要なことは、単純で分かりやすい。
分かりやすい短い文章が賛美されるべきである。
難しく、複雑で、長い文章が良いと言う考えは、まさに、愚の骨頂だ。
宗教も、思想も、芸術も、事実という共通の基盤に立脚してこそ、意味がある。
事実という共通の基盤なしでは、何も理解できない。
だいたい、事実とは何なのかを突き詰めることが宗教であり、哲学なのだ。
私は、この事実という共通の基盤を何よりも重視した。
未開の地に論理と科学を持ち込んだのである。
それに対し、強く抵抗する人間たちがいた。
そんなことを言ったら、すべてが嘘になってしまうと言う、宗教家や思想家である。
私の主張は、文化や芸術の破壊だと言うのだ。
すべての宗教は、事実は世界共通、人類共通という認識なしでは理解できない。
今の訳の分からない、複雑化した、未開の原住民が住むような世界を改善するには、
事実という、共通の基盤を強く意識する以外にないのである。
もともとのイエスの言っていたこと、釈迦の言っていたことに帰ろうではないか。
ソクラテスの言っていたことに帰ろうではないか。
事実に基づかない物理理論が何の役に立つのか、生物学でも、政治学でも、経済学でも、
法律問題や一般社会では、事実に基づかないものを嘘と言う。
それは、宗教界でも思想界でも芸術論でも同じだ。
事実こそが共通の基盤であり、他人を理解する、たった一つのつてなのである。
事実抜きでは、いかなる学問も、論文も意味をなさない。
事実を重視することは、個性の否定でも個人の否定でもない。
むしろ、事実を重視することで、個人も個性も伸びるし、認められるのだ。
事実という共通の基盤の重視、これこそが救世主であり、宗教、思想、芸術を理解する必要絶対条件なのだ。
事実重視、この当たり前過ぎるほど当たり前のことが、今、宗教界、思想界、芸術界を劇的に改善する、
大改革なのだ。
これに、多くの宗教家や思想家、それに関係する人間が反対した。
なぜなら、自分たちのこれまでやってきた仕事が吹き飛んでしまうからだ。
事実に基づかないことは嘘、こんな当たり前のことが、大きな問題となってしまった。
私に反対するのは良い。
しかし、その私の考えに反対する人間の中に、暴力と犯罪を使って、私の考えを潰そうとする人間がいる。
これは、絶対に認められない行為である。
世界のあらゆる問題は、暴力と犯罪を原因とする。
世界のあらゆる問題は、暴力と犯罪をやめれば解決できるのだ。
人類滅亡の直接の原因と言われる世界戦争であっても、環境破壊であっても、
みんなが暴力と犯罪を否定し、自由に発言し、話し合えば、間違いなく解決できる。
人類は、それだけの能力を持っているのだ。
すべては、暴力と犯罪がダメにしてしまったり、ダメにしている。
コペルニクスは教会に火あぶりにされて殺された。
現代では考えられない暴挙である。
事実を述べるだけで殺された。
イエスも教会の教えと異なる教えを話した。
非暴力に徹したイエスは殺された。
思えば、イエスとコペルニクスは似ている。
自分の教えがもととなってできた宗教が、コペルニクスを殺すのを見て、
天にいるイエスはどれほど心を痛めただろうか。
暴力は何の解決にもならない。
暴力と犯罪に反対すること、これがすべての宗教の教えだ。
暴力と犯罪、これがすべてをダメにしてきたし、ダメにしている。
そして、人類の未来をダメにしようとしている。
私の考えに反対してもいい、非難しようと批判しようとぜんぜんかまわない。
しかし、
絶対に、暴力と犯罪を認めてはならない。
私に反対する人間には、その人間の言い分があるだろう。
それでいいのだ。
ただ、暴力と犯罪という手法を用いるなら、すべての人間は徹底的に、そのことに反対するべきだ。
暴力と犯罪はいかなる事情があろうと肯定するべきではないし、容認するべきではない。
私は私に反対する人間を非難しているわけではない。
私に賛成する人間であろうが、反対する人間であろうが、
暴力と犯罪に反対することは、共通の認識であってほしい。
私の味方だろうが、敵だろうが、暴力と犯罪を振るえば、その時点で終わりだ。
暴力と犯罪は絶対に正当化できないのだ。
私に反対しようが、非難しようが、暴力と犯罪という手段に出なければ、まったく問題はない。
暴力と犯罪という手段に出たとき、その人、その集団は、致命傷を負ったことになる。
その時点で負けだ。
最悪の選択、15,3,1
現実は誰にとっても一つである。
一つの現実、事実が人によって違うなどありえない。
それを前提として、この社会は成り立っているのである。
それは、社会問題、政治問題、法的問題、経済問題、すべてに共通だ。
この世界の現実、事実は、誰が見ても、共通であると言うことで、すべてが成り立っているのである。
それは、様々な学問でも同じだ。
物理学、生物学、数学、経済学、すべての学問、科学は、現実が誰にとっても共通であることで成り立っている。
現実、事実が人それぞれで違う、真理、真実が人それぞれで違うなど、ありえない。
そんなことを言い出せば、この社会はメチャクチャになってしまうのだ。
誰も、分かり合うことができない社会となってしまう。
それは、宗教界、思想界、芸術界でも、まったく同じだ。
現実、事実がすべての人間に共通しているから、我々は共感できるし、理解し合える。
ところが、現在の宗教、思想、芸術の世界では、各宗教にそれぞれの真理や真実があることになっている。
人それぞれに、真理や真実があることになっている。
これは、大きな、大きな、宗教の理解の障壁であり、思想、芸術の障壁となっている。
現代の最大の迷信である。
これが、宗教、思想、芸術を分からないものとしている。
宗教、思想、芸術を未開の地、原始時代のように論理や科学のない、まったく、理屈が通用しない世界、
人と人が分かり合うことがない世界としてしまっている。
現在、宗教、思想、芸術の世界は、手つかずの原生林、未開の土人が住む世界なのだ。
現実は一つであり、我々が分かり合う、たった一つのつて、共通の基盤であることが、忘れられている。
こんな当たり前のこと、誰でも当然分かることが、誰も分からない。
宗教、思想、芸術の世界は、ありえないほど、遅れている。
むかしのまんまだ、というより、むかしよりひどい。
頭のいい人は、宗教、思想、芸術を研究しない。
研究しても無駄だからだ。
優秀な頭脳を持って、物理学、生物学を研究し、成果を出せば、それ相応の評価を得られる。
しかし、宗教、思想、芸術を研究し、成果を出しても、世間に認められるとは限らない。
真実は人それぞれだから、いくら画期的発見をしても、それは個人の考えだと言われるだけだ。
頭のいい人は、誰も宗教や思想、芸術の研究をしようとしない。
頭脳は、他の分野にすべて流れていってしまう。
現実は一つ、事実は一つ、この誰でも分かる当たり前のことを当たり前、常識としなければ、
誰にも、宗教、思想、芸術は理解されない。
現実、事実が一つであり、それが共通の基盤となる。
それが、すべての学問、社会の出発点なのだ。
それなしには、何も始まらないし、何も理解できない、理解し合えない。
この当たり前の出発点、共通の基盤がないために、
宗教、思想、芸術は惨憺たる状況となっている。
まさに、未開の地、カオスである。
そして、誰でも分かることだが、
イエス、釈迦、ソクラテスなど、宗教の祖、哲学の祖と言われる人物は、事実に立脚することを何よりも重んじた。
というより、宗教、哲学とは、事実の追及以外の何ものでもない。
真理、真実とは事実のことであり、現実のことなのだ。
リアリティーの追及以外に、宗教はありえない。哲学はありえないのだ。
これが、誰でも分かる、本当のことだ。
私がこのことを唱えると、
多くの人間が反対した。
事実は一つということになってしまえば、今ある宗教、思想の多くのものが消える。
物理学で常識とされているように、事実は世界共通となれば、多くの宗教的迷信や思想的迷信が消えてしまう。
各宗教に各真理があるのではなく、真理は世界共通となれば、宗教は一つという考えとなれば、
多くの宗教、思想が消えるのである。
私の考えを多くの宗教研究者、思想家が文化の破壊、歴史の破壊だと言った。
しかし、私の言うことは、誰も否定できない、本当のことである。
人は、悪口や嫌味を言われても耐えられる。非難されても批判されても耐えられる。
耐えられないのは、本当のことを言われることだ。
明らかに本当のことを言われたら、完全に負けを認めるしかない。
しかし、私に反対する人間は負けを認めなかった。
社会的影響が大き過ぎるとか、経済的影響がでるとか、精神的ショックが大き過ぎるとか、いろいろ理由をつけた。
しかし、イエスの言葉を理解したいなら、事実は誰に取っても一つであり、
すべては事実に立脚しなければならないことを理解しなければならない。
イエスは目に見えないことも論じているが、事実に立脚しなければならないという立場において、
物理学者と何ら変わりはないのだ。
私に反対する人間の中に、どうしても私の考えを受け入れられないという人間たちがいた。
そして、あろうことか、言論対言論では勝目がない、暴力と犯罪で立ち向かうしかないという結論に至った人間がいた。
これは、全人類に取って最悪の結論である。
暴力と犯罪は、全人類に悪影響、上利益しかもたらさないのだ。
暴力と犯罪で問題を解決しようとすることは、最も最も愚かな判断であり、最も最も愚かな結論なのである。
愚劣、そのものである。
読書について、15,3,2
物理学者が事実を非常に重視するのと同様、
宗教でも、思想でも、芸術論でも、事実を重視することは、絶対必要条件だ。
本を読むとき、事実は何か、事実、本当のことを知りたいとハッキリ思って、
読書するならば、宗教書、聖典、哲学書、芸術論は、非常に意味のあるものとなる。
しかし、事実が何かなど分からない、真理は人それぞれなどと思って読書するならば、
ほとんど、読書に意味はないだろう。
事実は何か、現実とは、事実が知りた、本当のことを知りたいと思うことは、
宗教、哲学、芸術論を考える人間にとって、絶対必要条件なのだ。
各宗教について、15,3,2
様々な宗教がある。
一つ一つの宗教は、バラバラのように見えるが、
決して、そうではない。
各宗教により、表現方法がまったく違う。
例えば、最終的境地を神我一体、宇宙と一つになるとか、悟り、空の境地、無為自然、自然法爾、全託、
とか言う。
また、最終境地に向かう方法も様々で、徹底的に疑うこと、徹底的に信じること、
知識を重視するもの、感情や感性を重視するもの、肉体を鍛えるもの、
まったく、神を信じないもの、徹底的に神を信じるもの、自力本願、他力本願などがある。
我々は自分にあった道を選ぶことができる。
そして、様々な宗教があれど、事実は一つ、真実は一つということを忘れなければ、
様々な宗教から、様々なことを学ぶことができる。
どの宗教も事実に立脚しているのだと実感することができる。
宗教を学ぶために、15,3,2
初めて宗教を学ぶなら、昔からある聖典などは分かりにくいと思う。
もちろん、昔からある宗教、聖典は偉大で、重要だ。
しかし、初めて宗教を学ぶなら、現在の人に現在の言葉で教えてもらうことが一番だと思う。
現代には、事実に立脚した宗教家が多くいる。
本を薦めるなら、現代ではなく近代ということになるが、
インドのラーマクリシュナの本など良いかもしれない。
ヒンズー教、イスラム教、空の教え、いずれの方法でも神に到達し、
すべての宗教が正しいと主張し、身を持って証明した、事実に立脚した偉大な聖者である。
世界的に有吊だ。
現代日本には、白光会の五井昌久と言う人がいる。
持論を唱えつつも、様々な宗教を解説した。
哲学的、頭脳的、目に見える世界からはじめたいなら、
釈迦を非常に尊敬した、クリシュナムルティが良いと思う。
マザーテレサは古くからある宗教、カトリックの信者だが、
その実践から生まれる言葉は、非常に理にかなっている。
古くからある宗教、もちろん、ヒンズー教やキリスト教などと比べると最近と言うべきだが、
インドのシーク教の教祖、グル・ナーナクなどは、
比較的に分かりやすいと思う。
インドは様々な宗教が混ざり合う国で、
ヒンズー教徒からも聖者と慕われ、イスラム教徒からも尊敬されている聖者がたくさんいる。
その聖者が死んだとき、信者たちが、
ヒンズー教式の葬儀にするか、イスラム教の葬儀にするかで、しばしばもめる。
事実に立脚する宗教家は昔からいたし、今もいる。
というより、事実は一つ、真実は一つ、宗教は一つと考えない宗教家はいない。
事実に立脚する、事実を追求するのが宗教なのだ。
事実を非常に重視する。このことは、昔の聖者から、現在の聖者まで共通である。
世界どの国の聖者にも共通することだ。
たくさんの聖者がいる。
一つの事実、一つの宗教という考えは、
各宗教にはそれぞれの真実があるという考えより、むしろ、スタンダードだ。
そして、一般社会でも、それがスタンダードとならなければならないのだ。
それが、宗教、思想、芸術論の進歩に繋がるし、
また、人類の進歩、安全と平和にも繋がるだろう。
我が人生の最大の役割、15,3,2
私の人生の最大の役割とは、事実は一つであるということを人々に伝えることにある。
私はこのために、生まれてきたと言ってもいい。
このことを伝えることにより、すべての宗教は人々の前に姿を現すだろう。
すべての思想は意味のあるものになる。
すべての聖典は開示され、すべての聖者、賢者が、世に放たれる。
すべての聖者が生きたものとなるのだ。
これにより、宗教、思想は、世の人々に開放される。
宗教の扉は開いたのだ。
すべての神の力、聖典の力、精霊、聖者の力、宗教の力により、
人類の運命は大きく改善されるだろう。
すべての人々に、宗教の門は開かれたのである。
もはや、宗教は空想の産物、絵空事ではない。
宗教が世の人々に、物理学と同等の信用を得る。
これが私の望みだ。
もちろん、私が説法して、みんなに教えるのではない。
事実は一つであるという認識の下、
みんなが自由に発言し、話し合い、考え、作り上げて行くものなのである。
その点で、宗教は何ら、他の学問と変わりはない。
すべての学問の真髄は、事実の追求にある。
上下関係の重要性、15,3,4
社会にとって、人間の上下関係は重要である。
年上は敬うべきであり、教わる者は教える者を敬うべきだ。
上司に一々文句を言っていたら、社会はトラブルだらけになってしまう。
円滑な人間関係を成立させるために、上下関係は重要なのだ。
しかし、公然と頑として、上の者に逆らうことも、絶対に必要だ。
いくら、自分より上の者がやっているからと言って、非人道的行為に賛成するべきではない。
窃盗、傷害、殺人、
自分より遥かに上の人間であっても、暴力、犯罪を振るうなら、命をかけて反対する勇気を持て。
上下関係を理由に窃盗、傷害、殺人を繰り返す、それが犯罪賛成派なのだ。
人間社会を崩壊させようとしている悪魔なのだ。
断念、15,3,4
体調上良のため、指が動かない。
キーボードが満足に打てない。
頭がボーとする。
全身が痙攣し始めている。
読書ができない、スポーツもできない、状態であったが、
今度は、いよいよ、キーボードも打てなくなってしまうのだろうか。
吐き気がする、気持が悪い。
まだ、まだ、私には伝えたいことがある。
ポルポト派、15,3,4
ポルポト派は、知識人は危険だとして、知識人を虐殺した。
犯罪賛成派は、私がポルポト派と同じだと言うのである。
つまり、宗教、思想が事実に立脚してなければならないと主張することは、
宗教、思想の破壊であり、知識人の虐殺に等しいと言うのだ。
そして、私のような人間に対しては、当然、暴力と犯罪が正当化されるべきだと言うのだ。
宗教、思想が事実に立脚しなければならないと言葉で主張する私と、
言論を暴力と犯罪で圧迫する犯罪賛成派。
どちらが、ポルポト派のような残虐集団なのだろうか?
私は宗教、思想が事実に立脚していなければならないと主張することが、
宗教、思想の破壊だとは、まったく思わない。
むしろ、事実に立脚しないものと考える方が、宗教、思想の破壊であると考える。
聖人賢者の言葉は、事実と照らし合わせ考えることでしか理解できない。
事実とは何か、本当のこととは何か、という視点も持たぬために、
多くの人は、聖人賢者の言葉を、意味のない空文としている。
イエスのような聖者は、事実をそのまま語る者として世に現れているのだ。
イエスは神を説いているが、神が事実上、実在しないならば、イエスはそれを躊躇なく認めるだろう。
神は事実上、実在しない、しかし、それが宗教なのだ。とは、
何と情けない、真理から非常に遠い考えか。
神が事実上、実在しないならば、素直にそれを認めるべきだ。
その覚悟なくして、宗教を学ぶことはできない。
私は唯物論者ではない。
見えないものはないとは考えない。
神や霊を存在するものと考えている。
電波や放射能は目に見えないが確かに存在する。
目に見えないことイコールないことではない。
今は観測機器により、電波も放射能も、観測されているから、みんな、その存在を信じている。
しかし、過去には、その存在を誰も信じない時代があったのだ。
神や霊の存在を証明するのは難しい。
しかし、目に見えないから、存在しないとは断言できないのも事実である。
神が事実上、存在するかどうかは非常に重大な問題である。
もし、神が人間の想像ならば、そんなものに頼って何になるのか。
何にもならない。
宗教や思想は事実に立脚するべきであって、事実でない、人間の想像上の存在は否定するべきである。
宗教や思想は事実を追及するものであって、小説やファンタジーではない。
もちろん、小説は小説として偉大な文学である。
事実は何かという視点を持たないこと、本当のことを求めないこと、
そのことにより、人間は宗教、思想を空文化してしまうのである。
宗教、思想を生きた、意味のあるものとするには、どうしても、事実の追求が必要なのだ。
私は宗教、思想は事実に立脚したものと考えることにより、宗教、思想は生き、意味のあるものになると思う。
事実は何かを考えないことは、宗教、思想の空文化だ。
一方、犯罪賛成派は、事実に忠実でなければならないという考えが、宗教、思想を崩壊させると考えているのだ。
いずれにせよ、暴力と犯罪で解決しようとすることは、100%上可能。
愚劣の極みである。
暴力と犯罪を正当化する犯罪賛成派の行為が、私には理解できない。
十人十色、15,3,4
人間はみんな同じなのだと人は言う。
人間は十人十色、人それぞれだから、おもしろいのだとも、人は言う。
我々はみな同じだ、だから、共感できる、だから、理解できる。
我々は一人一人違う、だから、人生はおもしろいのだ。
人間はみな共通している。人間は一人一人が違い、千差万別である。
この二つが共にあるからこそ、
学問が存在し、芸術が存在する、だから、人間社会が成り立っているのである。
個性の尊重を訴え、人間が共通している事実を認めない考え。
また、個性を無視し、みんなに同じ考え、思想を強要すること。
こうなってしまえば、社会は終わりなのだ。
断念、15、3,4
今度は指は動くが、目がチカチカして、焦点が合わなくなる。
画面がまぶしい。
異常に疲れる。
全身が痙攣する。
二十五年以上の体調上良、15,3,5
もう、二十年以上も、読書もスポーツもできない。
読書をしようとすると、急に、視力が悪くなる。目の焦点が合わなくなる。
普段はなんでもないのに。
スポーツをしようとすると、急激な疲労感に襲われる。
普段はなんでもないのに。
水泳をすると目が痛い、ゴークルを買って着けると、今度は耳が痛い。
あたかも、やることに応じて体調上良が起こるようだ。
仕事もできない、勉強もできない、スポーツもできない。
誰かが意図的に、私をダメ人間にしようとしているかのようだ。
自分を磨くこともできない。そして、遊ぶことも許されない。
最近では、テレビを見ること、音楽を聴くことさえできないときがある。
精神的にイライラし、理由なく激怒する。
理由も怒りの対象もない激怒である。
上安、恐怖、憂鬱、理由なく気持ちがどん底まえで落ち込む。
肉体的には疲労感、頭痛、腹痛、急激な下痢、あらゆる症状がある。
記憶できなくなり、すぐにものを忘れてしまうので、考えることができない。
人間は考えたものを記憶し、その考えたものを考えるという風に、考えるという動作が行われる。
すぐに、記憶が飛んでしまうと、考えるということができなくなるのだ。
一時的なものも多いし、長く続くこともある。
一回で二度と起きない症状というのもある。
特に、どういうときに起きるとも、決まってないので、対処のしようがない。
テンションが何年も低く抑えられているように感じる。
もう、何が普通だったか、健康だったか、分からなくなっている。
読書、勉強もできない、スポーツもできない。仕事もできない。
誰かが意図的に、私を廃人しようとしているのか。
ダメ人間になるだけでなく、この頃では遊ぶことも許されない。
誰かが徹底的に追い詰めようとしているのか。
とにかく、仕事とか勉強だけでなく、普通の日常生活が許されない。
手足の大きな痙攣とか、大声が勝手にでるとか、理由なくイライラし、激怒り状態になるとか、
暴力に繋がるような症状も頻繁だ。
仕事もできない、勉強もできない、遊べない。
挙句の果てには、人に迷惑をかけかねない症状まで出る。
こんな病気はありえないだろう。
医者が治せるものじゃない。
犯罪反対派の目的、15,3,5
暴力、犯罪反対派の目的は、過去の犯罪を裁くことにあるのでも、責めることにあるのでもない。
暴力、犯罪、反対派の目的は、
これからの未来、誰も暴力を振るわない社会、誰も犯罪を犯さない社会になるためにはどうすればいいか、
考え、実現するためにあるのである。
国民が理解、紊得してくれるならば、超法規的措置も十分考えられる。
過去の犯罪を許すことで、犯罪のない社会が実現できるなら、
過去の犯罪を水に流すことに、何の抵抗もない。
なぜ、人類は滅亡するのか、15,3,6
犯罪反対派は未来を考えている。
これからの未来、犯罪をなくし、理想の社会に近づけるにはどうしたらいいか考えている。
犯罪賛成派も未来を考えている。
未来永劫、犯罪行為を続けて行くには、どうするべきか考えている。
犯罪反対派も、犯罪賛成派も、過去にこだわっているのではない。
重要なのは、これからどうなるかだ。
犯罪賛成派は犯罪なしでは生きて行けない、犯罪なしでは生きることすらできない、人類の癌である。
犯罪によって社会を運営するのは、人類にとって非常に大きなマイナスである。
非常に大きな負担である。
犯罪なんか、ない方が良いに決まっている。
誰が考えても100%そうだ。
すべての人の幸せのため、人類の負担の軽減のため、絶対に犯罪をなくして行かなければならない。
すべての人の幸せを思うなら、絶対に犯罪に反対しなければならないのだ。
犯罪を継続するなら、100%、人類は滅亡する。
自由に発言し、自由に話し合い、考え、みんなでベストな選択をする。
それ以外の方法で、人類は幸せになれないし、人類存続さえできないのだ。
なぜ、こんな分かり切ったことが、全員一致にならないのか?
誰に取っても重要なことは人類の未来ではないか。
悪の根絶に向けて、15,3,6
悪は、隠れた場所、閉鎖された場所で行われていることが多い。
みんなに知らせ、みんなで考え、判断することで、劇的に悪に打撃を与えることができる。
今、みんなが映像を録画することができる。インターネットでそれを公開することもできる。
今は、みんなが報道カメラマンであり、報道記者なのだ。
今は、言葉を世界に発信するだけでなく、映像さえ、世界に発信し、知らしめることができるのだ。
録画し、録音し、それを世界に知らせる。このことで、悪を劇的に弱らせることができるのである。
公開されないことと、悪は密接な関係がある。
明るくひらけた場所では、悪は力を失ってしまうのである。
献金問題、15,3,7
国会で献金問題の質疑応答が盛んに行われている。
政治家の給料は国民が払っている、国会のすべても国民のカネが使われている。
このような汚職がらみの問題で国会を空転させるのは、
時間とカネの無駄である。
政治家の献金をすべてインターネットで公開することを義務付け、
国の助成金のすべてをインターネットで公開することを義務付けるなら、こんな問題は起きない。
公開は、汚職と犯罪の特効薬である。
大臣になった政治家ばかりが取りざたされているが、
大臣だけが汚職をしてはならないのではない。
インターネットで全面公開し、
国民の厳しい目で政治家をチェックする。
権力の腐敗、権力の暴走をとめることが、絶対に必要なのである。
基本的に、公開は汚職、犯罪に効果てきめんなのだから、
あらゆるもの、特にカネの問題は、公開が前提であり、法的に義務化する必要が絶対にあるのだ。
今、インターネットという、非常に犯罪を妨げる道具があるのである。
法律はインターネットがないときとあるときでは、大幅に改善されねばならない。
インターネットをフル活用した法律を制定するべきだ。
自分のやっていることは公開されている、自分のやっていることは自分で責任を持つという意識は、
確実に汚職と犯罪を減らすことに繋がるのだ。
犯罪者のほぼ全員が自分のやったことを隠蔽できるという、間違った意識から生まれるのである。
隠蔽のできない社会、隠蔽はできないのだという意識、自分の行為の責任は自分が必ず取るとの覚悟、
これが、国民の安全と平和の基礎であり、国民の幸福の基礎でもあるのだ。
明るみにならないから、犯罪を犯す卑怯者を絶対に許してはならない。
明るみになるならやらない、明るみにならないならやる、
これが最低の人間の極めて卑怯な人生、生き方なのである。
傷がふえる、15,3,7
朝起きると身体に傷がついている。
それも、爪で引っ掻いたような浅い傷ではない。
針金のようなもので傷つけられている。
一ヶ月たっても消えない。
朝起きるとメガネがない。
探してみると、なんと、自分が今、頭をおいていた枕の下にあった。
しかも、きれいに折りたたまれ、まったく壊れないように、枕の下にあった。
私の枕はそば殻で大きく、かなり重い。
私が寝ぼけて、メガネをどこかにぶん投げたのなら分かるが、
重い枕をどかして、メガネを折りたたみ、またそのうえに枕をおいて寝るなど、考えられない。
何より、傷も、枕の下のメガネも、目を覚まさないのが上思議だ。
深い傷をつければ、痛みで目が覚めるだろうし、
誰かが私をどかして、メガネを枕の下に置いたなら、私の目が覚めないのはほぼ上可能ではないか。
たとえば、薬で私を起きない状態にして、複数の人間がやらないと無理だ。
車のガソリンが抜かれている。財布からカネが抜かれる。酒のボトルの酒が減っている。
神棚の上は、ほとんど誰も触らない。
それなのに、上思議なことに、蝋燭たてが一つなくなっていた。
蝋燭たてが一つなくなったと親に言った。
そして、その2,3日後、また一つなくなっていた。
私の物がよくなくなる。
このような、おかしな現象は、体調上良と同時期に起こるようになった。
原因は同じなのだろうか。
手つかずの未開の地、15,3,8
今、科学技術は非常に発展したし、ますます発展してっている。
しかし、宗教、思想はどうであるか?
宗教など、発展以前の状態だ。
もちろん、優秀な宗教家はいると思うが、
一般の人間の多くが宗教を分かっているとか分かっていないとか以前の問題なのである。
一般の人間の多くが、宗教は作り話だと思っている。
科学技術は一般社会に認知されている。みんな科学に関し勉強するし、考える。
学校で教えてもいる。
一般の人間の多くが宗教を考えない、考えてもしかたのないもの、架空のものだと思っている。
発展とか進歩とか理解の段階ではなく、多くの人間に宗教がない。
我々は高度な科学と科学技術、科学的考えを手に入れた。
その反面、宗教、思想は一般人にはないのと同じだ。
今、科学と宗教は非常にアンバランスな状態にある。
何も科学よりも宗教に力を入れるべきなどと言うつもりはない。
しかし、今の人類に科学同様、宗教も必要だと思うのだ。
なぜ、科学は発展したのに、宗教は発展しないのか。
答えは明確である。
宗教の世界は一般に事実と論理を大切にしないからだ。
あらゆる科学、学問は、なぜ発展したか、発展して行くか、
それは、事実に立脚し、論理を大切にしているからだ。
科学が事実に立脚しない論文を称賛したり、つじつまの合わない考えを敬ったりしていたら、
科学は発展していただろうか?学問は発展したか?
そもそも、科学自体が成立するだろうか?学問?事実と論理のない学問など学問だろうか?
科学や学問は、事実と論理を基礎としている。
そして、科学者どうし、学者どうしが話し合い、協力し合えるのも、事実と論理という共通の基盤があるからこそだ。
事実と論理が共通言語を越えた共通言語なのだ。
英語しか分からないアメリカ人と中国語しか分からない中国人、日本語だけの日本人が集まっても、
まったく理解し合えない。
共通言語がないということは、非常に大きな妨げとなる。
事実と論理という共通の基盤がなければ、共通言語がない状態の比ではない。
とてつもなく分かり合えないし、協力のしようもない。
すべての学問は事実と論理を基盤とし、共通言語とし、発展してきた。
実は、宗教も事実と論理がなければ、立ちいかないのは同じなのである。
宗教における事実と論理の重要性は、物理学における事実と論理の重要性とまったく同じだ。
科学は事実と論理を基盤として発展してきた。事実と論理なしに科学はない。
まったく同じことが宗教にも言えるのだ。
科学の基盤は事実と論理であるという認識があったからこそ、科学は発展した。
宗教が発展しないのは、事実と論理が宗教の基盤であることが、一般に認識されていないからだ。
宗教から、事実と論理を取り上げるなら、それは未開の地、科学のない原始的社会と同じだ。
つまり、宗教の第一歩は、宗教の基盤は事実と論理であることをハッキリ意識することなのだ。
一般社会の人間が、宗教の基盤は事実と論理であると認識するならば、それが宗教元年である。
そこから、すべてが始まる。
逆に言えば、事実と論理が基盤であることを認識しなければ、何も始まらない。
事実でない科学は科学ではない。
同じく、事実でない宗教は宗教ではないのだ。
科学者と宗教家の最も大切なことは、事実はなんであるかという探求心を持つことなのだ。
それがない科学者が科学者でないように、それがない宗教家は宗教家ではないのだ。
私が事実、論理の重要性を唱えたとき、多くの人間が、それは宗教、思想の否定であると言った。
唯物論者だとか、共産主義者だとか言う者もいた。
そんなことを言えば、宗教、思想の大半が嘘になってしまうと言う者もいた。
しかし、事実の探求ということをしないなら、絶対に宗教は分からない。理解できない。
宗教が事実でないなら、宗教を否定するという覚悟がないなら、宗教は分からない。
事実の探求という目的で、宗教が事実でないなら否定する覚悟で、宗教界に勇気を持って踏み込まなければ、宗教は理解できないのだ。
イエスや釈迦、すべての聖者たちは、事実に立脚していた。
事実を見極めたからこそ、聖人なのだ。
事実と論理を重視しなければ、宗教の発展はない。普及もない。
また、事実と論理という共通の基盤、共通の言語がないとしたら、我々はどうやって分かり合ったらいいのだろう。
話しをすることさえ上可能だ。
事実の探求と宗教、15,3,8
私は宗教を語り、芸術を語り、政治を語る。
なぜ、私が宗教、芸術、政治を語るのか?と上思議に思う人がいる。
私が宗教、芸術、政治を語るのは、物理学者が物理理論を語るのとまったく同じ理由だ。
真理を探求し、それを語る。真実は何かということに非常に興味がある。
学者と宗教家の共通点は、純粋に真実を探求し、真実を知りたいという心だ。
しかし、多くの人間が、学者が論文を発表するのと、宗教家が自分の考えを語るのは違うと言う。
だいたい、社会的影響の大きさが、宗教家と学者では違うと言うのだ。
物理学者が論文を発表してもかまわない。
しかし、宗教家が画期的な宗教理論を発表するのは困ると言うのだ。
物理理論を発表しても社会的にはそんなに影響はない。
しかし、
宗教家がもし新しいことを言えば、社会的影響は大きい、だいたい経済的に莫大な影響がある。
芸術はまだいいが、宗教、政治の画期的理論を話せば、経済的影響だけでなく、人生をなくしてしまう人間も多く出ると言うのだ。
その影響の大きさから、命さえ狙われる、様々な困難がふりかかる。
もちろん、私は真実を知りたい話したいという単純明快な理由で動いているのだが、
社会的影響もまるで考えないわけではない。
私は人類を救えるのは真実だけであるという理由から話すのである。
これに関し多くの人間が異論を述べる。真実を語ることで人類は幸福にならないと言うのだ。
事実、私の言うことで人類は幸せになったか?まったく逆ではないか、と言うのだ。
これまで信じられてきたものが嘘になり、常識が覆されるとき、社会は大混乱となる。
一時的に、真実を話すことは社会的混乱を招くかもしれないが、大きな目で見れば、進歩なのだ。
真実が明らかになることは、人類全体として長期的視野を持って見るならば、大きなプラスなのだ。
決してマイナスにはならない。
画期的理論を話す者、実現しようとする者は、危険だと言われるし、人命軽視もはなはだしいと言われる。
しかし、フランス革命はフランスに取ってマイナスだったのだろうか、人類に取ってマイナスだったか。
明治維新など、人命軽視で意味がなかった。幕府に従っていれば人が死ななくてすんだと言えるだろうか。
ときの権力者は革新的思想や革命を殺人鬼同様に扱ってきた。
権力者にとって、社会が変わるということは、自分の人生が終わることに等しい場合が多いのだ。
権力者に上利益だからと言って、人類は前に進まなくていいのだろうか。
権力者に従うのが人命尊重で、逆らうのが人命軽視なのだろうか?
そもそも、権力者に従えば本当に安全なのだろうか?
新し考えは否定され、進歩は否定されねばならないのか。
人類が進歩するとき大きな困難がある。
時代が死に、時代が生まれるからだ。
その進歩が大きければ大きいほど、その苦難、苦痛も大きい。
しかし、その進歩は決して無駄なんかではない。
フランス革命、明治維新のとき、大勢の人が死んだ。
その死は決して無駄ではない。人命軽視などでは絶対にない。
だからと言って、私は人類を進歩させるためには人命を犠牲にして当然だとも言わない。
今は、フランス革命、明治維新のときとは時代が違う。
暴力で時代を変える必要はない。死傷者を極限まで抑える努力は必要だ。
死傷者を出さないために、徹底的に、暴力と犯罪に反対してほしい。
暴力と犯罪に反対することは、死傷者を出さない唯一の道だ。
知っていることを知るとし、知らぬことを、15,3,9
知っていることを知るとし、知らぬことを知らぬとする、これ知るなり。
分かっていることは分かっているとする、分からないことは分からないとする、これが分かると言うことだ。
さらに言うなら、分かっていることには科学的だと断定できることと、
非科学的だと言えること、二つがある。
論理的だと言えることと、非論理的だと言えること、二つがある。
分かっていなければ、科学的も非科学的も、論理的も非論理的も、ないのだ。
要するに、宗教が非科学的だとか、非論理的だとか言う人間は宗教が分かっているということだ。
何かを非科学的、非論理的と断ずるには、その対象を深く勉強し、理解する必要がある。
しかしながら、宗教を勉強するどころか、宗教にまったく興味がない人間が、
宗教は非科学的、非論理的と断ずる傾向にある。
分からないことと、非科学的、非論理的ということとはまったく違うことなのだ。
我々が分からないことを非難することは、最もやってはいけないことではないか。
非難するからには、相手の言い分を聞くべきである。
相手の言い分を理解し、非難する、これが正しい非難の仕方である。
科学者の中には、宗教を非常にバカにする人間がいるが、
分からないものを非科学的と言って、考えることさえしなければ、そこで終わりだ。
真理を探究したいという心は、科学者の命だ。
分からないものを非難し、分からないままにする。これでは科学者失格ではないか。
物理学者なら、物理学者失格である。
ものごとを否定するには、それ相応の資格が必要なのだ。
まず理解し、否定する、それ以外に、否定の道はない。
神や霊は目に見えない。だからいない。では、
電波や放射能までないことになってしまう。
我々の科学はまだ、発展途上なのだ。
分からないイコール非科学的、非論理的では、子供と同じだ。
我々は、分からないことと、非科学的、非論理的ということをハッキリ区別するべきなのだ。
他人を非難するとき、否定するとき、
我々は他人の言うことを十分に理解したか、話し合ったか、理解する努力をしたかを
自問自答するべきなのである。
論理的、15,3,9
論理とは、そんな難しいものではない。
論理的とはつじつまが合ってるということであり、
非論理的とは、つじつまが合ってないということである。
論理的とは矛盾がないことであり、非論理的とは矛盾があることである。
事実に基づいたものは、常に論理的だ。
つじつまが合わない事実が成立する、相矛盾する事実が成立することなど、ありえない。
グチ、15,3,10
異常な精神的疲労感のため、テレビも見れない、音楽も聴けない。
ただ、座っているしかない。
頭がボーとして、ものが考えられない。
眠ろうとしても、眠れない。
精神異常なのか、目をつぶると嫌な、気持の悪い映像が浮かぶ。
全身が痙攣する。
なぜだか、部屋が異常に臭い。
臭い理由が分からない、対処のしようがない。
普通、しばらくすると、部屋の臭いになれ、臭さを感じなくなると思うのだが、まったく、慣れないくらい、強烈な臭さだ。
癒しの音楽を聴くとか、テレビを見て気をまぎらわすとか、
それは、本当の疲労感がないからできるのだ。
どんな音楽も苦痛だ。
理由もなく、とてつもなく、嫌な気持ちだ。
今、あまりの体調上良に唸っている。
声を出さずにいられないのだ。
もっと、有益な話がしたいのだが、
苦しくてできない。
本当につまらないグチを聞いてもらって、申し訳ない。
首も肩も腰も痛い。
最近、グチを書き込むことが多くなっているが、
人に聞いてもらいたいのだ。
グチを聞いてもらえることに、感謝します。
ありがとう。
事実と宗教、15,3,10
宗教とは何か、それは、ありのままの事実を知ることだ。
人々は事実を誤認している。
だから、聖者はありのままの事実を示す、
すべての苦悩は事実誤認が原因なのだ。
事実を知るためには、論理的で科学的でなければならない。
もちろん、科学とは、今の我々の科学で証明されていることがすべてではない。
宗教は、我々の今の科学では、まだ証明されていない、いずれ証明されるであろう、事実まで認識する必要があると説く。
人々は、宗教は人間の想像である、ファンタジーであると言うが、
逆に聖者は、人々の苦悩は、その人の思い込み、事実と違うその人の概念から生ずるのだと言う。
もし、人間が地に足を着けて、ありのままの事実を認識するなら、人間は苦しみから解放されると言うのだ。
ふわふわと現実離れした、夢の世界に生きているから、人間は苦しい。
しっかりと現実を知るなら、苦しむことはない。
ありのままの事実を知ることが、唯一の救いであると言う。
人々は考えている。現実を直視するから、我々は苦しいのだと。
現実から離れ、夢の世界に行ければ、我々は苦しみを一時は忘れることができるのだと。
そして、現実から離れる方法、夢見る方法が宗教だと。
人間の都合が良いように作られた想像上の神と言う存在が、現実を忘れさせ、夢見させ、一時、苦しみを忘れさせてくれるのだと。
夢がなく、事実をハッキリ意識するだけの人生は、苦悩そのものだ、夢も希望もないとは、このことだと。
聖者はまったく逆のことを言う。
夢が苦悩の原因であると、事実こそが至福なのだと。
人間は地に足を着け、想像やファンタジーでない、ありのままの事実を認識するべきなのだと。
ブッタ、仏とは、目覚めたる人と言う意味だ。
人々は夢の中にいる。事実を誤認している。逆さに歩いている、だから、苦しい。
事実を知れば、苦しみから解放される。
事実のみが、人間を苦しみから解放する、唯一のものなのだと。
私は、人間は事実を認識するべきだと言った。
それに対し、多くの人間が反対した。
宗教は人間が作った想像であり、ファンタジーなのだと。
事実を認識することは、宗教の否定、人間の希望を打ち砕くことになるのだと言うのだ。
宗教は人間の作った想像だと言う人間は、聖典を読んだことがあるのか?
いかなる宗教の聖典にも、事実を認識し、事実に忠実であれとしか書かれてないのだ。
人々は宗教は夢だと言う。
聖者は人々は夢の中にあり、だから苦しい、だから、事実を伝えると言う。
この真逆の認識が、人々が宗教を理解しない理由であり、宗教界を未開の地としている。
宗教界は、今、誠と嘘が乱立する、大混乱状態となっている。
肉体的暴力、精神的暴力、15,3,13
犯罪賛成派の暴力は肉体的なものもひどいが、精神的なものもひどい。
それどころか、犯罪反対派をおとしめようとして、
肉体的暴力、精神的暴力を強要してくる。
犯罪反対派に人を肉体的に深く傷つけること、そして、言葉の暴力により、深く人の心を傷つけることを強要してくる。
犯罪反対派は、徹底的に、人を肉体的に傷つけること、精神的に傷つけることを拒絶する。
犯罪賛成派の強要により、どうしようもなくて、暴力を振るわされ、責任を取らされる犯罪反対派。
暴力を強要され、責任をかぶせられる犯罪反対派も悲惨だが、
その被害者となる人間も悲惨だ。
犯罪賛成派は、犯罪反対派のことも、世界の被害者のことも、まったく考えてない。
肉体的暴力は当然だが、言葉の暴力の強要についても、犯罪反対派は断固これを拒否する。
言葉の暴力を言いふらすことは、絶対にあってはならない。
犯罪賛成派は、犯罪反対派が言葉の暴力によって、全世界の人間を傷つけることを望んでいる。
そうすれば、犯罪反対派の支持率が下がると思っている。
そうすれば、犯罪賛成派が有利になると思っている。
言葉の暴力によって、深く傷つけられた世界中の人たちはどうなるのか。
言葉の暴力により、すべての人間が深く傷つけられればいいと犯罪賛成派は思っている、
それにより、犯罪反対派の株が下がるなら、犯罪賛成派たちは万々歳なのだ。
言葉の暴力により、深く傷つけられる世界中の人間たちのことなど、どうでもいいのだ。
自分たちさえ、助かればいい、それが犯罪賛成派たちである。
犯罪賛成派は肉体的暴力、精神的暴力を振るう。
そして、肉体的暴力、精神的暴力を強要する。
言葉の暴力を振るい、言葉の暴力を執拗に強要しているのだ。
それにより、出る被害者のことなど、どうでもいい。
自分たちが助かるために、すべてを破壊するつもりなのである。
犯罪反対派は、言葉の暴力を断固拒否する。
言葉の暴力、15,3,13
犯罪賛成派は自分たちは暴力、犯罪を犯しているが、
犯罪反対派は、言葉の暴力を振るっていると言う。
私は痛烈に、暴力と犯罪を非難してきたし、これからも非難する。
しかし、これは、言葉の暴力なのだろうか?
犯罪賛成派は私の言葉に深く傷ついていると言うのだ。
誰が深く傷ついても、私は暴力と犯罪を非難することをやめるつもりはない。
私が宗教的真実を述べることにより、多くの人間が傷ついていると犯罪賛成派は主張する。
これに対し、私は人を傷つけたことを残念に思うが、
宗教的真理を述べずにはいられない。
真実のみが人間を救うことができ、真実のみが人類を滅亡から救うことができるからだ。
自分たちが信じていたものが嘘だったと分かると人間は深く傷つく、
しかし、その人間にとって、それは大きな進歩であり、前進である。
それこそが神の道なのである。
破れれば即ち新たなり。
もちろん、私の言うことは、すべて強制ではない。
私に反対することも、信じないことも、自由である。
嘘は真実の前では力がない。
嘘は真実の前では消えるしかない。
私の言葉が悪意に満ちた虚偽ならば、真実を確かめることにより、私の言葉は消えるだろう。
真実は強いし、真実はいつも人間に取って有益なものである。
真実を述べることに、誰も恐れをいだいてはならない。
真実こそが最高に価値のあるものなのだ。
悪意に満ちた暴言は、すぐに消えるだろう。
私は犯罪賛成派の暴力が許せない。
それは、言葉の暴力も含めてである。
犯罪賛成派の言葉の暴力は、人を傷つける目的のものであり、強制、強要なのだ。
犯罪反対派のように、暴力と犯罪に反対するものでもなく、真実を求めるものでもない。
犯罪賛成派の言葉の暴力は、人を傷つけ、自分たちの利益のみを追求する、非常に悪質なものである。
私は若いとき、他人の注意を引くために、かなり、暴力的な言葉も吐いたし、エキセントリックな言葉も吐いた。
25年以上も前のことである。
若気の至りであり、今は非常に反省している。
ただ、私は、そのときも、相手を見て、自分の仲間、友達に言ったのである。
テレビやラジオで公言したわけではないのだ。
2、3人の友達に対してのみである。
相手はさして気にもとめてなかったし、傷ついてもなかった。いつものことだったからだ。
私がそういうことを言う人間だと百も承知で付き合っていた仲間だったのだ。
犯罪賛成派はその25年以上前の会話を盗聴していた。
そして、今、私にその25年以上前の、その言葉と同じことを公言しろと強要してくる。
25年以上前と同じ言葉を吐き、今度は、それを世界中の人間に公言し、世界中の人間を深く傷つけろと強要しているのだ。
私は25年以上前の言葉をまったく忘れてしまったわけではない。
しかし、25年以上前の自分の考えと今の考えは違う。
もちろん、私に過去があって、今の現在があることは確かだ。
しかし、私の今の考えは25年以上前の考えとは違う。
私は、今の私の考えを語るのであって、25年以上前の拙い考えを語るつもりはない。
そして、何より問題なのは、犯罪賛成派は、人を傷つける目的で、私に25年以上前の言葉を語らせようと強要していることだ。
25年以上前の自分も、真実を伝えたいと言う気持ちで、言葉を吐いていた。
それが、そのときの私だったのだ。
ところが、犯罪賛成派は、世界中の人を傷つける目的で、
私に25年以上前の私の話した言葉を公言しろと強要してくる。
犯罪賛成派は非常に間違っているし、論外だ。
人を傷つける目的で、人に言葉を発することを強要強制するなど、誰が考えても間違っている。
私は暴力と犯罪に反対する、そして、真実を述べる。
そして、誰も傷つけないことを望む。
犯罪賛成派は私に本当のことを話せと25年以上前の考えを話させようとするが、
私の本当の考えは25年以上前にあるのではなく、今にある。
25年以上前の考えは若気の至りであり、未熟であり、通過点に過ぎない。
その、遥か昔の私の未熟だったときの考えを、私に世界に向け公言させようと強制してくるのは、
もはや、悪意しか感じない。
私に暴言を強要し、世界中の人間を傷つけ、私の株を下げ、犯罪賛成派を優位にしたい。
ただそれだけしか考えていないとしか思えない。
世界中の人間が傷つこうがまったく関係ない。自分たちさえ良ければいい。
それが、犯罪賛成派なのだ。
発端、15,3,13
今、起こっている問題は25年以上前に発端がある。
犯罪賛成派は、その発端を明らかにするべきだと言っている。
私に言えることは、25年以上前の私の考えと今の私の考えは違うと言うことだ。
犯罪賛成派は、私が当時、何を言ったか私に語ってほしいと言っているが、
私の記憶は正確ではない。
もちろん、まったく覚えてないわけではないが、
私が私の記憶をたどって話したとしても、それがどこまで信憑性があるか。
忘れたこともあるし、内容は覚えていても言い方や表現でだいぶ違った話になる。
それで犯罪賛成派が上利になれば、犯罪賛成派はわざと私が間違った記憶を話していると言うだろう。
私が話せるのは、今の私の考えや思い、意見である。
その当時の録画や録音が残っているなら、それをみんなで見て、聞いて判断するしかない。
録画や録音を公開することに、私は賛成でも反対でもない。
ただ、見たくない人、聞きたくない人に聞かせる必要はない。
そのへんは、みんなで話し合って決めればいい。
私はその当時、誰にも相手にされなかったので、
自分の意見を主張するために、わざと恐怖をあおるような表現をしていた。
しかし、心から真理を求めていたことも事実である。
明確に言っておきたいのは、私がどんなことを言っていたにしろ、
100%、どんなことがあっても、暴力と犯罪が肯定され、容認されるようなことはありえないということだ。
悪意、15,3,13
私は若い頃、人の恐怖心をあおるような表現を使った。
誰にも相手にされなかったので、自分をなるべく強烈にアピールしたかったのだ。
今は、若い頃に比べると丸くなったように感じる。
普通の人間なら、丸くなったねと褒めてくれる。
若い頃のように乱暴な言葉を使ったらダメだと言ってくれるだろう。
しかし、犯罪賛成派は、その、まるで逆のことをする。
若い頃ように乱暴な言葉を使い、人々を深く傷つけることを強要強制してくるのだ。
若い頃の私が本当の私であり、今の私は嘘であると、犯罪賛成派は主張する。
私に取っては、25年以上たって、落ち着いてきているのは自然の流れだと思うし、
若く未熟だった頃の自分が本当の自分だとも思わない。
いつでも、現在の自分が本当の自分だ。
犯罪賛成派は、私を使って、人々を傷つけようとする、悪意のかたまりにしか思えない。
若い頃、15,3,13
25年以上前の若く未熟だった頃の自分が本当の自分だったとは到底、思えない。
普通、25年もたったら、そうとう成長し、進歩し、安定すると思う。
若い頃の私が本当の私だと主張する犯罪賛成派は、25年で私が退化したとでも言うのか?
私には、25年で、そうとう進歩したという実感がある。
反省と謝罪、15,3,13
25年以上前、周りの多くの人間が私を応援してくれた。
自由に発言していいと言ってくれた。
私が発言することくらいで、世界はどうもならないとみんな言った。
私もそれを信じ、自由に発言した。
しかし、私の発言の影響は大きかった。
今、犯罪賛成派となってしまった人間たちは、
こうなるとは思わなかったから、我々にはお前の発言の責任はないと言うが、
そんなことを言うなら、私にも責任はない。
私だって、私の言葉で、どんな影響が出るかなんて分からなかった。
盗聴されていることは、うすうす感づいていたが、誰が聞いているか、何人が聞いているかなどは、
まったく知らなかった。
私には、私が友人に話した責任はあるが、盗聴の責任は、私に取れと言われても困る。
私の言葉は、目の前の友人に向けての言葉であり、それ以上でも、それ以下でもなかったのだ。
今、思えば、あんなに、人に恐怖をいだかせる誤解を生む表現をするべきではなかった。
ここに謝罪し、反省する。
私の発言に問題はあったのだ。それは認める。
しかし、だからと言って、暴力と犯罪が許される理由にはならない。
すべての人間は自分の言動の責任を取るべきだ。
それは、犯罪賛成派も、反対派も、同じなのだ。
私は過去の自分の言動を隠さないし、過去の自分の言動の責任は私にあり、また、その責任を取るつもりだ。
盗聴の責任、15,3,14
普通、盗聴の責任は盗聴した方にあるだろう。
盗聴した方が、盗聴された方にひどい話を聞かされたからって、訴えるなんてことは聞いたことがない。
私は私の生活を知ってもらえるから、どうにか、命を繋いでいる。
人の目がなければ、すぐに、危害を加えられるか、殺されるだろう。
そういう意味では、感謝している。
25年以上前の会話、15,3,16
25年以上前の会話が広まったことを
犯罪賛成派は、すべて私のせいにしようとしている。
私に責任がないと言っているのではない。
私の責任は人が恐怖するような表現や言い方で一人の友達に話したことである。
そして、犯罪賛成派の責任は、私の会話を盗聴し、多くの人間に聞かせたことである。
25年以上前の出来事は、私が話し、犯罪賛成派が盗聴し多くの人に聞かせたことで起こった。
私も犯罪賛成派も、私の言葉の影響がどう出るかなど、予想できなかった。
と言うより、私は私の会話を誰が、何人、聞いているかなど、まったく知らなかった。
それをすべて、私の責任にし、すべての罪を私に負わすのはフェアではない。
私が話さなかったら、25年以上前の出来事はなかったし、
また、盗聴し、それを人に聞かせなければ、25年以上前の出来事はなかった。
私は自分が話したことの責任を取るべきだし、
犯罪賛成派は盗聴し、それを人に聞かせた責任を取るべきだ。
盗聴した方とされた方、15,3,16
私は普通に自分の生活をしていた。
犯罪賛成派は私の会話を盗聴し、人に聞かせた。
それによって、多くの人間に影響が出た。
盗聴した方が、された方に、その責任を取れと言ったり、
盗聴された方がすべて悪いなどと、どうして言えるだろうか。
誰が悪いと言うより、各自、自分の言葉と行動の責任を取るべきではないだろうか。
私も、盗聴した方も、悪意があってしたのではない。
しかし、私も、盗聴した方も、各自の責任を取るべきだろう。
危険、15,3,16
私は大変危険な状態にある。
私の生活がオープンでなければ、私は殺されかねない。
人の目があるから、私は生きていける。
私の生活がオープンであることに感謝しているし、ありがたく思っている。
昔の話、15,3,17
犯罪賛成派は、25年以上前のことを蒸し返されたと上満を言っている。
私は、今の問題が、何が発端で起こったのかが重要だとの犯罪賛成派の意見を聞いて答えたのである。
それを舌の根の乾かぬ内に、正反対の上満を言うとは、
犯罪賛成派は極めて自己中心的、無責任の極みだ。
自分たちに都合の悪い事実はすべて隠蔽、すべて無視、正論さえ否定する。
自分たちに有利と判断するや、何十年前の出来事だろうと、蒸し返し、盛んに宣伝する。
こんな犯罪賛成派たちを信用する人間などいるのか?
法律をまったく無視し、犯罪、隠蔽を繰り返す。
犯罪は報道されない、捕まらない。
今、社会は非常に非常に危険なのだ。
今ほど、インターネットによる事実の報道が必要な時代、ときはない。
犯罪は野放し、報道もされないでは、
国民は何を信用していいのか、どうやって危険から身を守ればいいのか。
本当に恐ろしい時代がやってきてしまった。
インターネットの害、15,3,17
我々のプライバシーは保護されなければならないし、
嘘をまことしやかに言うことや、悪口や中傷は規制されねばならない。
インターネットの悪用は有害である。
インターネットは、まだ、始まったばかりで、対策に遅れがあるのも事実である。
しかし、我々が何よりも恐れなければならないのは、犯罪が一切報道されない社会である。
これこそが、最悪最低の最凶のテレブル社会である。
選挙の重要性、15、3,21
フセイン時代のイラクにも選挙があった。
今の中国には選挙がない。
しかし、フセイン時代のイラクと今の中国、どちらがより自由であろうか。
明らかに、今の中国の方がましである。
フセイン時代のイラクには自由がなかった。
投票の自由もなければ、立候補する自由も、言論の自由もなかった。
反独裁の代表が立候補できないどころか、反独裁なら、いかなる人間も立候補できないのだ。
反独裁の代表が立候補する必要はない、とにかく、誰でもいい、誰か一人でも、反独裁の人間が立候補できれば、
選挙に意味はある。
反独裁の立候補者ゼロ、それどころか、反独裁を言うことさえできない。
したがって、反独裁に投票する自由など、最初から、徹底的にないのだ。
だから、大統領選挙があった。
選挙をやっても投票の自由がないから、独裁者は安心して選挙ができる。
そして、言うのだ、私は選挙によって選ばれた国民の代表であると。
選挙がある国は自由であると一般には言われるが、
まったく、逆の理由で選挙がある場合もある。
投票の自由のない状態での選挙は、単なる独裁者の道具に過ぎないのだ。
独裁者は大声で言う、私は選挙で民主的に選ばれた国民の代表であると。
すべて、民意の反映であると。
選挙と言うと民主国家の象徴のように感じるが、まったく逆の場合がある。
完全な独裁体制の象徴として、選挙がある場合もあるのだ。
上眠と異常な疲れ、15,3,18
眠れない。
眠ってないのに、いったん、眠っても、1,2時間で目が覚める。
異常な疲労がある、肉体的にも、精神的にも、
音楽さえ、聴くことができない。
音を聴くと疲れる。
何にもできない。
部屋が異常に臭い。
においの原因が分からない。
消臭剤も、芳香剤も効かない。
悪口、中傷と事実の指摘、15,3,18
犯罪賛成派は、しきりに、悪口や中傷はやめろと言う。
私は悪口や中傷を言ったことはない。
私はただ、犯罪に反対しているだけだ。
犯罪を隠蔽している犯罪者にとって、
ありもしないことで悪口雑言を言われることは、そんなに大した問題ではない。
犯罪者に取って、悪口や中傷の100倊傷つくことは、事実を指摘されることだ。
犯罪者に取って、犯罪の事実の指摘は、悪口や中傷とは比べものにならないくらい苦痛なのだ。
地獄に突き落とされるような苦痛だ。
だから、私に取っても、犯罪者に取っても、事実の指摘と、悪口、中傷はまったくの別ものなのだ。
しかし、犯罪者は、悪口や中傷をやめろとしきりに言う。
事実の指摘はやめろなどと、本当のことは絶対に言わない。
事実を事実と認められない、それが犯罪者だからだ。
上必要、15,3,18
悪口や中傷は上必要だ。
しかし、犯罪事実の指摘は絶対的に必要上可欠だ。
みんなが、犯罪を知り、それを指摘しないとしたら、社会は崩壊してしまう。
犯罪が社会に蔓延し、危険極まりない状態となってしまう。
法律が無視されるなら、命の保証はどこにもない。
異常、15,3,21
部屋が異常に臭い。
全身が痙攣する。
怒りがこみ上げる。
まったく、理由もなく、対象もない怒りが。
無意識に、大声がでる。
気持ち悪く、吐き気がする。
目の前が暗くなっている。
頭がボーとして、ものが考えられなくなっている。
目がチカチカして、目が痛い。目を開けていられない。
もう、書き続けられない。
息苦しい、15,3,21
部屋が異常に臭い。
息苦しい。
生活がオープンでなかったら、
もっと、もっと、ひどいことになっていただろう。
生活がオープンでなくなれば、
もっと、もっと、ひどくなるだろう。
なんでもあり、15,3,27
私に対し、なんでもありの人間だと言う人がいる。
私は基本的に自由であり、そして、他人の自由を尊重する。
しかし、暴力と犯罪は絶対になしだ。
弱さと強さ、15,3,27
今の時代は、弱い人間が弱さを逆手に取って、強くなる時代だと言う人がいる。
弱い人間が強い立場になるかは分からないが、確実に言えることがある。
暴力を振るった人間は、振るわれた人間より、確実に悪い立場になると言うこと。
犯罪加害者は、犯罪被害者より、確実に悪い立場になると言うことだ。
暴力を振るった方、犯罪を犯した方が強い立場になるならば、
社会は暴力と犯罪で溢れかえってしまう。
社会が崩壊する。
暴力を振るった者勝ち、犯罪を犯した者勝ちの社会となってしまう。
人間の住めない世の中となる。
だから、暴力を振るった者は、その責任を確実に取らねばならないし、
暴力を振るわれた方は確実に保護されねばならない。
犯罪加害者は確実に罪を償わなければならないし、犯罪被害者は確実に保護されねばならない。
弱い者が強者になるのではない、悪い者が悪い立場に追いやられると言うことだ。
ただ、強い人間、暴力、犯罪を隠蔽することができるような立場の強い人間が、
暴力、犯罪に走ることが多いということだ。
力の強い人間、立場が上の人間が、それをいいことに、暴力、犯罪を振るうのは、人間として最低だ。
力の強い人間が勝つのは野獣の世界だ。
人間の社会は、正しい人間の言い分が通って、はじめて、人の世と言えるのだ。
話し合う以前に力でねじ伏せようとする人間はケダモノである。
人間同士は話し合い、何が正しいか、何がみんなのために良いのかを判断して決めるべきだ。
力の強い者、立場の上の者の横暴は、人間が人間であることを忘れてしまった姿なのだ。
ケダモノである。
人間として、一にも二にも、話し合い、理解し合うことを優先しなければならなし、重要視しなければならない。
力の弱い人間、立場の弱い人間の意見であっても、正しいことは正しい、みんなに有益であることは有益なのである。
力の弱い人間の意見であっても、正しい意見ならば、無視される理由はない。
それが、人間の住むことができる、人の世なのだ。
大量虐殺、15,3,29
フランス革命、明治維新のとき、国家の政府、権力者たちは、
革命、維新を支持する者たちを大量虐殺が目的だと非難した。
権力者によれば、大量虐殺により、革命が行われ、維新が行われ、
大量虐殺によって、国家が支配されるようになったと言うのだ。
私はフランス革命、明治維新が、まったく意味のない大量虐殺だという意見に決して同意できない。
多くの犠牲があったにしても、フランス革命、明治維新は、確実に人類に取って意味のあったことであると信じる。
ただし、今現在、この時代で、暴力による国家の改善が許されないことは明白だ。
大量虐殺2、15,3,29
権力者は国家を改善しようとする人間を、大量虐殺が目的だと非難する。
しかし、フランス革命がなかったら、人類はもっと、もっと、悲惨な目にあっていただろうし、
明治維新がなければ、日本は椊民地となっていた。
いつの時代も、権力者は自分の保身だけを考え、国家の未来、人類の未来に責任を持とうとしない。
4,5年、自分が安泰なら、それでいい、それ以外、何も考えてない。
人類の未来、人類の幸福、人類の存続を考えるならば、
人類は変わり続けて行くしかないのである。
人類共通の敵、15,3,30
権力者は社会を改革しようとする者を大量虐殺が目的だと非難する。
しかし、非暴力で、合法的に社会を改善することが、大量虐殺と同じだと言うならば、
権力者を批判しただけで、逮捕、投獄ということになってしまう。
世間話もできない、恐怖、戦慄の社会だ。
非暴力、合法的に社会を改善しようとするこころみは、必要である。
社会はたえず改善してこそ、安定と平和がもたらされる。
恐ろしいのは暴力と犯罪を正当化し、人々を弾圧することだ。
最初は、非暴力、合法的に行動していた人間も、
暴力と犯罪という驚異にさらされれば、暴力には暴力、犯罪には犯罪という考えを持ちかねない。
大量虐殺は、暴力と犯罪の正当化から始まる。
それは、これまでの全人類のすべての歴史が証明している。
大量虐殺の原因、要因は、すべて、暴力と犯罪の正当化である。
大量虐殺の首謀者、指導者、実行者は、みな、暴力と犯罪の信奉者である。
社会を変えようとするのも、変えまいとするのも、どちらもいい。
改革派だろうが、保守派だろうが、どちらでもいい。
体制派、反体制派、そんなことは、個人の自由だ。
我々は奴隷ではない、自由に選択し、自由に発言し、自由に行動すればいいのだ。
我々の自由は明確に法律で保障されているのだ。
ただ、絶対に、やってはいけないことがある。
それは、暴力と犯罪の正当化である。
我々は自由に発言し、行動する権利がある。
しかし、全国民の敵、全人類の敵となる人間がいる。
それは、暴力と犯罪を正当化する人間なのだ。
その人間こそが大量虐殺者なのだ。
暴力と犯罪を正当化する人間は悪魔に魂を売り渡した人間だ。
悪魔そのものだ。
暴力と犯罪を正当化することは、悪魔の明確な印である。
全国民、全人類が一丸となって立ち向かわねばならない。
すべての人間の敵なのである。
権力、反権力、15,3,30
権力者の味方か、反権力なのかは、どうでもいい。
体制側か、反体制か、なんてどうでもいい。
社会の改善、どうでもいい。
ただ、私が言っているのは、我々が自由に安心して、平和に安定的に生活して行くには、
すべての人間が、暴力と犯罪に反対することが、必要上可欠ではないか?
ただそれだけだ。
違憲、15,4,1
自衛隊は軍隊であり、憲法に違反する。
私は、だからと言って、すぐに自衛隊を廃止するべきだとかは、言わない。
現在の世界の状況からすると、国家が軍隊を持たずに存続するのは、非常に困難である。
自衛隊廃止はありえないと思う。
もし、日本国内でクーデターが起こったらどうするか、
もし、北朝鮮が攻めてきたらどうするか、
日本が自衛隊を廃止するのは、どう考えても現実的ではない。
私の考えは違憲ではあるが、容認と言う考えである。
いくら法律で決まっているからと言って、なんでも杓子定規に法律を守れば良いと言うものではない。
極端は、なんであっても、非常に危険な考えである。
自動車が1キロオーバーで警察に捕まるなら、怖くて、自動車に乗れない。
法律で決まっているからと言って、厳密過ぎるのは困る。
社会にはルールが必要である。そして、ルールにはある程度の遊びが必要なのだ。
我々はルールを守るために生きているのではない。
我々の生活が安全で安心であるために、ルールがあるのだ。
なんでも、こだわり過ぎは良くない。
私の立場は、暴力と犯罪に反対と言うものだ。
しかし、私の目的はあくまで、国民の安全と安心、幸福なのである。
ルールに縛られて、生活しずらくなるなら、ルールの意味がない。
我々が絶対にやってはならないことは、
違法行為であり、なおかつ、まったく国民の容認も得られないような行為である。
または、違法行為であり、まったく国民に知らされないような行為である。
違法性があるなら、国民に知らされねばならないし、みんなで考え、話し合うべきだ。
違法であり、なおかつ、国民が黙認しているわけでもない。
むしろ、みんなが、おかしいと感じる、多くの人間が猛烈に反対する。
こんなことが、社会に横行するなら、日本は終わりである。
人類は終わりだ。
黙認、15、4、1
犯罪を見て、みんなが怖くて言うに言えないのと、
犯罪をみんなが黙認すると言うことは、まったく違うことだ。
これを犯罪者が同じなのだと言って、犯罪が横行するなら、
この国に安全も安心もないのだ。
国家の崩壊である。
幼稚な理論、15,4,3
ドイツのジャンボジェット機墜落事件のパイロットが、
ジャンボジェット機墜落前に、
システムを変えるようなことを行うと言っていたと言う。
社会システム改善とジャンボジェット機の墜落、何の関係があるのか?
ジャンボジェット機を墜落させることが、フランス革命のような革命なのか?
まったく理解に苦しむ。
人類救済を叫んでいたオウム真理教が地下鉄でサリンを撒いた。
人類救済とサリンを撒くこと、私には、まったく、この二つが結びつかないのである。
サリンを撒いたからといって、日本が変わるわけでもないし、世界が変わるわけでもない。
ましてや、人類が救済されるとは到底考えられない。
ただただ、死傷者が大勢出て、大騒ぎになるだけだ。
無差別殺人を行う人間は、社会の変革、改善、革命などとよく言うが、
正常な普通の人間からすると、社会変革と無差別殺人が、まったく無関係のように思われる。
社会への反抗とか、世間をただ騒がせたいという気持ちとかと、
社会の改善とは、まったく違うものである。
また、その逆もある。
権力者が、まじめな改革者をただの人殺しだと言い張ることだ。
社会の改善と無差別殺人とはまったく違う。
もちろん、社会の改革が、フランス革命のように大勢の死傷者を出した例はあるが、
フランス革命は、ただの無差別殺人であったと言えるだろうか?
暴力と犯罪に反対することが、なんで無差別殺人なのか?
何をどう考えたら、そういう理論にいたるのか???
憲法で保障されている言論の自由を訴えるだけで、
言論の自由を訴える者をアカだ、アカだと言う人間がいるが、
自分の都合の悪いことはアカだと言っているに過ぎない。
アカなど、時代遅れの言葉だ。
今どき、共産主義に世界を変える脅威があるとは到底思えない。
無差別殺人を社会の改善だと言い張る人間、
社会の改善をただの無差別殺人だと言い張る人間、
共に同等の稚拙な理論、非常に幼稚な人間たちであることは、
普通の正常な人間からしてみれば、一目瞭然である。
リーダーの資質、15,4,5
国家のリーダーには、どのような人間がなるのがふさわしいか。
リーダーに必要なのは、決して頭の良さではない。
リーダーに一番必要なのは、国家を思い、国民を思いやる心だ。
いくら頭が良くても、国家国民のために働きたいという思いがなければ、
国家のリーダーになる資格はない。
しからば、どうやって国家国民を心から愛する人間を選ぶか。
頭脳の良さならば、ある程度は試験できる。
しかし、心の純粋さは判別できない。
それで考えられたのが、民主主義である。
国民は国民の幸せを思う、自分たちのことだから当然だ。
官僚や政治家は平均的国民より頭が良いだろう。
しかし、主権は国民にある。
心は頭脳に勝るのだ。
もちろん、官僚や政治家が心が汚いと言っているわけではない。
官僚や政治家でも、人それぞれだろう。
ただ、国民を思う心がある人間が国家の最高意思決定者となるには、
民主主義がもっとも、良い方法であると思う。
頭脳より、心のきれいな者がトップになる。
その方法として、もっとも良い方法が民主主義なのである。
頭脳重視の国家は、いずれも、失敗している。
共産主義国家の失敗、15,4,5
共産主義国家は失敗に終わった。
私は共産主義国家の失敗の最大の要因は、共産主義思想にあるとは思ってない。
共産主義国家の失敗の要因は、頭脳重視の考えにあったと思う。
一部の優秀な人間たちが、国民を支配するという考えだ。
共産主義国家は、共産党の一党独裁である。
共産党には、国民から選ばれた優秀な人間が集められた。
その結果、国家は荒廃し、国民は上幸になった。
共産党は国家国民の幸せを思わず、自分たちの利益を優先したのである。
共産党は頭が良い。しかし、自分たちの利益を考え、国家国民全体の利益を考えなかった。
そのため、正しい意見も正しいと認められず、間違いも間違いと認められないような状況になった。
これが、ソ連などの共産主義国家、最大の失敗の要因である。
この失敗は、共産主義国家だけの問題ではない。
共産主義国でない日本でも、官僚や政治家が国家を支配し、国民が国家の最高意志決定者であることを忘れるなら、
共産主義国のように、日本は荒廃してしまうだろう。
むかし、日本は殿様が頂点に立ち国を支配していた。
現在の日本の頂点は国民なのである。それが民主国家である。
国民が主君であり、官僚、政治家は、それに仕える下僕である。
つまり、公僕だ。
この認識が崩れれば、日本であっても、共産主義国の二の舞になる。
私の仕える王、15,4,5
私は国民に仕え、忠義を尽くす。
私は国民に意見を言う。
しかし、判断、決定するのは、あくまでも国民である。
私は国民の判断に従う。
官僚や政治家に、私は従うことはない。
国民に従わず、官僚や政治家に従うのは、主君に対する裏切りである。
あくまで、日本国の主権者は国民であり、日本の最高意志決定権を持つのは国民なのだ。
官僚、政治家は、自分の主君に忠義を尽くす武士のように、国民に忠義を尽くすべきなのである。
官僚や政治家が日本を支配しているのは、自分たちだとか思い、
国民の意見をないがしろにすれば、日本もソ連の二の舞となる。
非常に重大なことは、頭脳よりも心を優先することだ。
官僚や政治家が自分たちの頭脳が良いということで、国家の進路を決めるなら、
共産主義国と同じ失敗をする。
国民の判断を最大限尊重するべきだ。
日本の主権者、最高意志決定者は国民である。
官僚、政治家は国民の判断を仰ぐべきだ。
主権者である、日本の王である国民に従い、頭脳を使うことで、官僚や政治家の頭脳ははじめて役に立つ。
国家国民を心から思う者が頂点に立ち、能力がある者が、それに従い、その能力を発揮することで、
はじめて、国家国民は幸せになれる。
能力が高い者がリーダーになるべきだ。国家を支配するべきだという考えは、
共産主義国とまったく同じ失敗におちいるだろう。
決定権と行動、15,4,5
私は意見するだけだ。
決定権は、いつも、国民にある。
決定は国民に委ね、その決定に従う。
国民が判断し、それに従い国民が行動し、国家が動く。
その結果が、どのような結果であろうと、私はすべて受け入れる。
私は意見は言うが、決定権はない。
私は何も決めないし、命令しない。
行動も起こさない。
国民全員が私に決めてくれと望んだとしても、私は決めることはない。
国民が話し合い、国民全員の判断で、物事を決めなければ、決して解決にならない。
一人の人間、一部の人間の判断で、国の進路が決まるということは、決してあってはならないのだ。
国王の資質、15,4,6
三国志の主人公、劉備三兄弟の長兄は劉備である。
しかし、三人の中で一番年上なのは関羽であり、一番の長身なのも関羽である。
一番学識があり、兵法に通じ、戦略に詳しく、関羽は三人の中で一番、武術にたけていた。
しかし、劉備が長兄であり、関羽は劉備を兄者と呼んだ。
国王になったのも、当然ながら、劉備である。
関羽は知っていたのだ。
人の上に立つ者の資質は、年齢ではなく、頭の良さでもなく、武術の強さでもないことを。
人の上に立つ者にとって、最も大切なものは心である。
頭脳的、身体的な能力に優れたる者は、その下で働けばいい。
中心の人間には、何より、人徳が大切なのだ。
緊急事態、15,4,6
国民が話し合い、国民全体の総意を持って、国の進路を決める。
これが、民主国家たる日本国の基本である。
しかし、緊急のときは、みんなが話し合う時間などない。
例えば、北朝鮮が攻めて来たならば、話し合う余裕はない。
総理大臣一人の判断で、すぐに反撃しなければならない。
緊急のときは、総理大臣の判断に一任するしかないのである。
しかし、その後、総理がしなければならないことがある。
事実を細かく国民に公表し、国民の事後承諾を得ることである。
独断で国家の意志を決定し、その後、国民の事後承諾を受けないならば、
それは、ただの独裁者だ。
国家国民に対する明確な裏切りである。
日本のトップ、国家元首は国民である。
それが、民主国家の意味なのだ。
もし、国民の意向を無視し、少数の人間が国家の進路を決めるならば、それは国家国民を裏切ったことになる。
国民に知らせず、少数の人間が国家の意志を決定するのならば、明確な国家に対する裏切りだ。
武家社会に例えるならば、忠誠を誓った主君を裏切る行為である。
この国のトップ、主君は国民なのだ。
武士が自分の主君に忠義を尽くすように、官僚、政治家は、国民の判断に忠誠を誓うべきである。
国家元首、国家の最高意志決定者は明確であるべきだ。
それが、国民だ。
国家の意志は国民が決める。
国家元首を裏切る者、国家国民を裏切る者は、国賊と呼ばれる。
日本を王国に例えるならば、王、国家元首、最高意志決定者は国民なのだ。
一人で国家の意志を決定しようとする者、少人数で国家の意志を決定しようとする者は、
その時点で、国家に反逆する者、国民を裏切る者となる。
官僚、政治家は、武士が自分の主君に忠誠を誓うように、国民に忠誠を誓わねばならないし、
国民の判断を最大限尊重するべきだ。
事実を国民に知らせ、事あるごとに、国民の判断を仰ぐ。
主君と家臣の関係だ。
それが公僕の意味なのだ。
国民の象徴、15,4,6
天皇陛下は国民の象徴である。
国民に逆らうことは、国民の象徴たる天皇陛下に逆らうことである。
天皇陛下は、官僚の象徴でも、政治家の象徴でもない。
日本国民全体の象徴として存在するのだ。
様々な意見、15,4,6
私は国民がいったん決めたことには誰も逆らえないとか、異論を述べられないとか、
そんな恐ろしいことを言っているのではない。
個人個人に様々な意見があっていいし、
国民の総意で決められたことに対しても、
異論、反論を言うのは自由だ。
一人一人の考え、言論の自由は最大限尊重されるべきだ。
国民全員で判断したことであっても、当然ながら、間違いはあるのだ。
少数意見の尊重は重要である。
私の言っているのは、一人の独裁者や、少数の権力者が国家の意志決定権を持っては困ると言っているだけだ。
国家の意志決定権は国民の総意であるべきだ。
ものごとは、国民全体で話し合い、国民の総意で決められるべきであると言っているのだ。
一人一人、様々な意見を尊重することは重要であるし、
異論、反論を含め、言論の自由は最大限尊重されるべきだ。
日本国憲法、15、4,7
第一章 天皇
第一条、天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
天皇陛下は日本国憲法を熟知されている。
そして、ことあるごとに、天皇陛下は日本国憲法を遵守されるお立場であることを、
天皇陛下御自身が、ハッキリ、明確に、公言されているのだ。
天皇陛下御自身の言葉に偽りはない。
法治主義、民主主義、15,4,8
天皇陛下は全国民の象徴である。
それと同時に、天皇陛下は、法治国家、民主国家の象徴でもある。
その逆の、独裁、犯罪に天皇陛下が関係することなど、絶対にありえない。
天皇陛下は、国民に愛され、望まれて、今の地位にあるのだ。
天皇陛下が、独裁、犯罪に関連するなどと言うことは、
日本国、日本国民に対する、最大の侮辱である。
これが、天皇陛下御自身が、世界へ向けて表明し続けられてきたことなのである。
改憲派、護憲派、15,4,8
改憲派が合法的に憲法を改正することは正しい。
合法的に憲法が改正されるなら、
すべての国民が改憲された憲法を守らねばならない。
また、護憲派も正しい。
私は改憲派にも、護憲派にも反対しない。
私が反対するのは、現行の法律を守らない人間たちに対してだ。
現行の法律を遵守するのと、護憲派とでは、まったく意味が違う。
現行の法律を守ることによって、この社会は成立しているのだ。
今の憲法は間違っているから、法律を守らなくていいと言ってしまえば、すべてがメチャメチャになってしまう。
現行の法律を遵守することを否定することは、法律自体の否定である。
つまり、無法地帯、ルールのない国家を意味する。
現行の法律を遵守することで、裁判は成り立っているのだし、警察も意味を持つ、
立法府の政治家たちも、それがあるからこそ存在しているのだ。
現行の法律を遵守することを否定してしまえば、
国家も社会も壊滅してしまう。
護憲派も意味を持たない。
それどころか、改憲派も意味を持たない。
現行の法律を誰も守らないならば、護憲派に何の意味があるだろう。
そして、改憲した法律が守られないならば、改憲派に何の意味があるのか。
すべては、現行の法律を守ることで成立しているのである。
天皇陛下の御言葉は、天皇陛下の本心ではないから、意味がないと言う人がいるが、
そんなことを言ってしまえば、天皇陛下の御言葉に重みがなくなるどころか、意味がなくなってしまう。
公式の場で、天皇陛下が正式に発言された御言葉が、
受けての判断で、天皇陛下の御言葉は天皇陛下の本心ではないと判断し、破棄されるなら、
御言葉自体に意味がなくなってしまうのである。
花燃ゆ、15,4,13
NHKの花燃ゆを見ているのだが、
吉田松陰が暗殺という手段を徹底的に訴えているのを見て驚いた。
吉田松陰のイメージは学問のイメージであり、暗殺などと関連がないと思っていた。
どうやら、吉田松陰が処刑される理由はここにあったようだ。
土佐の武市半平太、岡田以蔵は暗殺を手段とした。
土佐の坂本龍馬は、暗殺を手段とせず、むしろ、きらっていたように思う。
日本の国民が一番好きなのは坂本龍馬である。
それは、暗殺を好まなかったということが理由の一つなのだろうか。
日本の国民が暗殺を好まない坂本龍馬ことが好きであることに、安どを感じる。
人は誰も殺す必要はない。
自分を殺さず、他人を殺さず。すべての人が生きる道を模索するべきである。
誰も死ぬ必要はない。自分も他人もだ。
自分を生かし、他人を生かすことが唯一の道なのだ。
人を殺すことは問題解決の道ではない、ただただ、問題を悪化させるだけだ。
唯一の問題解決方法は、すべてをオープンにし、みんなで話し合うことだけだ。
暴力を否定し、話し合いによって解決する以外に問題の解決方法はない。
もちろん、現在の日本に住む私だから言えることなのかもしれない。
戦国時代にこんなことを言っていたら、頭がおかしいと思われるかも。
現在の日本は、人類が太古の昔から理想としてきた。
誰も殺さず、誰も死なず、
自分も他人も、すべての人間が生きる時代となった。
それが、唯一の解決方法となった。
オープンに、みんなが話し合って解決する。
長年の人類の理想、みんなの理想が実現できるときが来たのである。
必要なこと。15,4,13
今、必要なことは、誰かを殺すことではない。
自分が死ぬことでもない。
誰かを殺すこと、死ぬこと、それは状態を悪化させるだけの最悪の手段だ。
自分のため、他人のため、国のため、世界のため、
すべての人間を生かし切るべきである。
今、必要なのは、突発的なことではなく、
時間がかかっても、一人一人に、正論を理解して頂き、紊得して頂く、
時間をかけ、丹念に、丁寧に、話し合うことである。
今、すぐに、結果がでなくてもいい。
一人一人が事実を理解し、正論を理解することが何よりも大事であり、
それ以外の解決方法はない。
暴力を否定し、オープンで丁寧な話し合いを心がける。
それが、唯一の解決方法だ。
暴力は、問題悪化、新たな問題を作り出すだけの、最悪な手段なのだ。
生きること、15,4,13
暴力、殺人をやめよう。
自殺をやめよう。
自分を生かし切り、他人を生かし切る。
それが唯一の道だ。
生きてこそ人生であり、他人を生かしてこそ、問題は解決できる。
オープンで、丁寧な、みんなでの話し合いが唯一の手段。
このような、きれいごととも言える。理想を、大真面目で言うことができる。
今日という日をありがたく思う。
生きる道、15,4,15
誰も殺さなくていい、誰も死ななくていい。
すべての人が生きればいい。
すべての人が生き切ればいい。
暴力や犯罪で社会をどうしようと、どうにもならない。
ただ、みんなが冷静になり、穏やかになり、
丁寧に、丹念に話し合えばいい。
みんなが、暴力と犯罪をやめ、冷静に話し合う。
それが唯一の道であり、最良の道である。
人類存続の道は、それ以外に、
まったく、ありえないのである。
人類が生存する道は、
みんなが暴力と犯罪をやめ、
冷静に話し合う。そんな当たり前のことをするだけでいいのだ。
みんなが穏やかに話し合い、正しい道を選択する。
そんな当たり前のことをするだけでいい。
その当たり前のことができなかったとき、人類は確実に滅亡する。
我々は人間として当たり前のことをすることを求められている。
それが、唯一の道である。
暴力と犯罪に反対し、穏やかに話し合う。
そんな当たり前のこともできないなら、
人類は生存する価値さえないと判断されてしまう。
天が判断する。
そして、人類自身も、その判断に紊得せざるを得ないだろう。
人類自身が人類終焉の理由に、紊得するならば、人類終焉がふさわしいとしか言えないだろう。
もし、暴力と犯罪に賛成するならば、どこまでも地獄絵図が広がるばかりだ。
他人事、15,4,15
私を見ていると、すべて、他人事のように思っていると人は言う。
私に決定権はない。
決定権を持つのは国民だけだ。
国家の意志は国民の総意を持って決められねばならない。
決定権がまったくないと言う点において、決定に関し、私は他人事なのだ。
私は意見は言う、しかし、話し合い、決定するのは国民なのだ。
私は国民の決定に従う、もし、それが、私の意見と正反対でもだ。
私は国民と言う王に仕える家臣でしかない。
もし、仮に、国家の意志決定権を私が持っていても、私は自分が決定することを断固拒否する。
国民全員に話し合ってもらい、最後は国民投票で決定する。
私は意見を言う、しかし、決定するのは国民である。
私は国民の決定に従うだけだ。
国民が国家の意志を決定し、国民が行動し、国民が、その全責任を取る。
それが民主国家だ。
私に決定権はない、国民の総意で決められる。もちろん、その決定の責任も国民にある。
その意味で私の態度が、他人事のようだと言われるのだ。
もちろん、私も一国民として責任があることは当然である。
しかし、国家の進路の決定を自分一人でしょったり、国家の決定の責任を自分一人でしょったりすることはない。
自由、15,4,15
一人一人の自由は最大限尊重されるべきだ。
行動の自由、言論の自由、一人一人、個人の考え。
みんなが自由であるべきだ。
しかし、すべてが自由というわけにはいかない。
社会には最低限のルールが必要なのも事実だ。
また、国家としての意志を決定しなければならないこともある。
私たち一人一人は自由である。
しかし、最低限のルール、また、国家の意志を決めなければならないこともある。
そのときは国民の総意で決めなければならない。
話し合い、最終的には多数決ということになる。
一人一人の自由が基本であるが、決めなければならないことがあるのも、社会、国家の実状である。
当たり前、15,4,20
私は当たり前のことを当たり前にやろうと言っているだけだ。
当たり前のことを当たり前にすることにより、人類は人類滅亡を避けることができる。
人間が人間として当然のことをすれば、人類は生存の資格を得ることができるのだ。
人間が人間として当然のことをする。
この言葉が、この教えが、人類が待ちに待った、救世主なのだ。
天は人間に特別なこと、特殊なことを求めない。
人間が人間として当然のことをすること、
このことにより、人類の安全と発展は保障されるのだ。
必要なのは、難解な論理や教えでもなく、難行苦行でもない。
遠くにある特別な教え、行動ではない。
もし、人間が普通のことを普通にできれば、天は人類のために、未来の扉を開いてくれるのだ。
普通のこと、15,4,20
暴力と犯罪に反対してほしい。
みんなで話し合って、ものごとを決めてほしい。
逆の現象、15,4,20
最近、足のストレッチをやると足の筋肉が痛くなる。
別に、伸ばし過ぎたからではない。
だいたい、昨日、今日、ストレッチを始めたわけではないのだ。
木刀の素振りをすると肩が異常にこる。
肩を動かせば、肩こりが治るとは聞いたことがあるが、
肩を動かして、ひどい肩こりになるのは、聞いたことがない。
素振りをやめたら、肩こりも治った。
このように、すべての運動や勉強ができないのだ。
私は20年以上、一冊の本も読んでない、と言うより、読めないのだ。
誰か、私が運動や勉強をすることで困る人間がいるのか?
車で赤信号で停車しているとき、信号を見ていて、青になったので、発車した。
次の瞬間、いきなり、青信号が赤に変わった。
車を急停車させた。
横から、車が走ってきて事故になるところだった。
隣りの信号を見てしまったとか、まったく、そんなことはないのだ。
信号機の誤作動か?
信号機が誤作動するとは、考えにくい。
そんなことがあれば、大問題だ。
ならば、私の頭の誤作動か?
とにかく、おかしな現象が頻発している。
お金や物がなくなったり、知らぬ間に身体に傷がつけられていたり、
体調上良、頭痛、腹痛、下痢などは当たり前、
鬱状態や理由も原因も対象もないのに異常に怒り状態になったり、
カネや物はなくなる。肉体も精神もボロボロ、運動も勉強も一切できない。
最近、極度の疲労状態で、音楽を聴くことも、テレビを見ることも、できなくなる。
仕事や勉強、運動ができないどころか、テレビを見ることさえ許されない。
普通じゃない。15,4,20
私の日常は普通の人間が体験しない、困難の連続だ。
私は精神異常者か?
でなければ、世界をゆるがすような、重要人物か?
非合法な手段を使ってでも、抹殺しなければならない、重大な意味のある人間なのか?
私の生活のおかしな現象が人為的なものであるならば、高度な技術と莫大なカネが必要になる。
私は精神異常者か、それとも、世界的重要人物かの、どちらかだ。
世界的重要人物、15,4,20
私が世界的重要人物であるならば、テレビや新聞に出るはずだ。
最近ニュースで見た、世界に最も影響を与える重要人物、ベスト100には、私は入っていなかった。
まぁ、当然と言えば当然だ。
テレビにも新聞にも出ない、世界的重要人物などいるのか?
永遠に続く戦い、15,4,20
暴力、犯罪反対派と暴力、犯罪賛成派の戦いは続いて行く。
私が死んでも、その後、百年、二百年は続くだろう。
暴力と犯罪に反対し、みんなで話し合うこと。
それをあきらめることはない。
百年、二百年どころか、永遠にない。
まだ、戦いは始まったばかりだ。
あるいは、私が死んだところから、戦いは始まるのかもしれない。
私は短い一生を終えて死ぬだろう。
しかし、暴力、犯罪のない、みんなで話し合う社会。
この理想は永遠に死ぬことはない。
おそらく、暴力、犯罪がなくなることはないだろう。
しかし、それに近づけることはできるのだ。
人間の命は短いが、思想は永遠に生き続ける。
そして、永遠に戦い続けるのだ。
言論の自由、15,4,20
理想を実現するための行動に問題があり、それに反対する人々がいることは理解できる。
私が紊得できないのは、
理想を語ること自体に反対する人間がいることだ。
すべての人間に発言権は与えられるべきだ。
言論の自由は憲法で保障されている。
犯罪の正当化、15,4,20
言論の自由をすべての人間に与えたら、破滅してしまう人間たちがいる。
そのような人間たちは言論を弾圧する。
つまり、犯罪の正当化である。
言論弾圧は正当であり、犯罪は正当であると主張する人間たちだ。
我々は一致団結して、そのような人間たちに、立ち向かわねばならない。
発言と行動、15,4,20
私は理想を語る者である。
理想を実現しようとする者ではない。
だから、法律上、私を弾圧する正当な理由はないはずだ。
世のため、人のため、15,4,21
ソニー生命のCMでビートたけしが、
人のために働きたいやつなんているのか?と言っている。
世のため、人のために生きる人間などいない。
これは、犯罪賛成派の終始一貫した信念である。
だから、犯罪賛成派は、私が利己的な目的のために、
思想を話していると確信しているのだ。
犯罪賛成派は、私がいつかは、本性を出し、
実は、自分の利益のために、思想を語ってきたことがばれると確信している。
そして、そのとき、犯罪賛成派は、私に襲いかかろうとしている。
そうやって、25年以上が過ぎた。
いまだに、犯罪賛成派は、私が利己的な目的のために、本当は、自分の思想を語っていると思っている。
何十年たっても、この点で、犯罪賛成派と私は平行線で、分かり合うことはないだろう。
私は、世のため、人のために生きているとまでは言わないが、
暴力と犯罪に反対すること、みんなで話し合って決めることは、私の悲願である。
私は自分の思想と同化している。
国家国民のためと自分のためが同化している。
自分のためと国家国民のためが重なり合っている。
国家国民のためと言うより、正しいことは正しいと言いたい衝動に、たえずかられるのだ。
暴力と犯罪に反対し、みんなで話し合い、決めるというのは、私の大原則だ。
人は私に同調しているのではない。
私の考えに同調しているのだ。
私が暴力と犯罪に反対することをやめ、独断で自分の利益に走るなら、
誰も私のことを相手にしなくなるだろう。
もし、私が人々を何十年も欺いていて、そのことが分かったら、
一斉に人々は私に背を向けるだろう。
そして、私抜きで、暴力と犯罪に反対するだろう。
それは、正しいことだ。
人は私に従うべきではない。自分に従うべきだ。
私が暴力と犯罪に反対することをやめたからといって、自分も暴力と犯罪に反対することをやめる人間は最低だ。
もし、私が暴力と犯罪に反対するという大原則に反したら、
それにも関わらず、私についてくる人間がいては困るのだ。
そのときは、私を非難し、見限ってほしい。
我々は、暴力と犯罪に反対し、みんなで話し合う社会を目指している。
重要なのは、何が正しいのかであって、誰についていくのかではない。
自分が正しいと思う道を選ぶべきだ。
私が犯罪賛成派に取り込まれても、まったく動揺することはない。
私のことなど、まったく相手にする必要はない。
変わらず、暴力と犯罪に反対していけばいいのだ。
私が裏切ろうが、死のうが、まったく動揺する必要はない。
暴力と犯罪に反対し、みんなで話し合う社会を目指してほしい。
私は私のことを、何の躊躇もなく、見限ってほしいのだ。
自分自身の判断を信じてほしい。
誰かの言いなりになるような人間になるな。
敵、味方、15,4,21
我々は、暴力と犯罪に反対し、みんなで話し合い、決める社会を目指す。
暴力と犯罪に反対する人間は、みんな味方だ。
みんな、仲間だ。
暴力と犯罪に賛成する人間は、みんな敵だ。
それは、暴力と犯罪に賛成するなら、私であっても、敵であるという意味だ。
我々の仲間ではない、敵なのだ。
我々は、誰が仲間なのか、誰が敵なのか、にこだわるべきではなく。
何が正しいかにこだわるべきなのだ。
自分を持つこと、15,4,21
誰の言いなりにもなるな、
自分の意志は、自分で決めろ。
人は自分の判断を信じるべきである。
自分の判断を信じ、自分の判断で発言し、自分の判断で行動するべきである。
みんなが、一人一人の判断で、正しいと思った道に、進むべきである。
国家国民のため、15,4,23
我々は暴力、犯罪賛成派のことを国家国民に敵対する、国賊であると訴える。
犯罪賛成派たちは、そんなことを言われたら、我々は死んでも死にきれないと言うが、
もともとは、国家国民のためと言い始めたのは、犯罪賛成派なのである。
犯罪賛成派が、自分たちの言うことを、そっくり、そのまま返されて、
そんなことを言われたら、死んでも死にきれないと言っているのは、
失笑に耐えない。
国家国民のためというのは、何であろうか。
暴力と犯罪に反対し、国民の象徴、法治国家の象徴、民主国家の象徴たる、
天皇陛下を支え、お守りするのが、国家国民のためではないだろうか。
それが、しいては、国家国民の安寧、安心、安全に繋がるのであり、しいては、世界の恒久平和に繋がるのではないだろうか。
非合法に人間を殺してきた、犯罪賛成派たちに、文句を言う権利はあるのか?
犯罪賛成派たちに非合法に殺された人間は死んでも死にきれないのではないだろうか?
そもそも、非合法に人を殺してきた人間たちは、それなりの覚悟と責任を持つべきではないか。
私は別に、非合法に殺された人間たちの復讐をするつもりはない。
ただ、少しでも、日本が世界が良くなればいいと思っているだけだ。
事実を明らかにし、みんなで話し合うことを望んでいる。
暴力と犯罪に反対しているのだ。
暴力、犯罪反対派にも、
暴力、犯罪賛成派にも、
これから、日本が、世界が、どうなれば良くなるかを考えてほしい。
自分が死んでも死に切れないなど、あくまで、個人的なことに過ぎない。
特に、散々なことをやってきた、犯罪賛成派が、死んでも死にきれないなどと言うのは、
言語道断だ。
犯罪賛成派は少しでも、自分たちが殺してきた人間たちを思うことがあったのか。
犯罪賛成派が、自分たちが殺してきた人間のことを思うなら、
死んでも死にきれないなど、口が裂けても、言えないだろう。
法の裁きも受けられず死にゆく人間の、なんと、つらいことか。
一つのこと、15,4,23
私が訴えていることは一つ、法律を守ろうということだ。
非常にシンプルで、当たり前の、簡単なことだ。
それなのに、そのことが、社会全体を騒がせている。
何がそんなに問題なのか?
法律を守っている人間の方が、法律を守らない人間より、圧倒的に多い。
それに、法律を守れば、様々な問題が解決され、様々なことが改善する。
まさに、社会に莫大な利益を幸福をもたらす。
もちろん、今の悪い習慣をなおすのは大きな手間だろうが、
とても幸福な、明るい明るい未来が約束されている。
法律が守られれば、いいことだらけなのだ。
そして、この方法が、人類を救う、唯一無二の方法なのである。
まさに、救世主は、今、現れたのだ。
法律を守ること、それが人類にとって、唯一無二の、最大の救世主なのだ。
もし、この救世主を、イエスのように、みんなで殺してしまうなら、
人類は救いを永遠に失ってしまう。
圧倒的、15,4,23
我々は等しく法律を守っている。
法律を守らなければ逮捕されてしまう。
法律を守らなくても逮捕されない人間は、
圧倒的に少数だ。
しかし、その圧倒的少数の人間が、
なぜ、圧倒的に社会全体を支配しているのだろう。
こんなことは、民主国家ではありえない。
共産主義国のような、一部の人間が支配する国家でしかありえない。
なぜ、みんな、一部の犯罪者の横暴に従っているのだろう。
殺されるのが怖いからか?
一人の独裁か、多人数の独裁か、15、4,24
何年も前、犯罪賛成派は、私に問うた。
この私一人の独裁が良いと思うか、それとも、犯罪賛成派による多人数での独裁が良いと思うかと。
私は答えた。独裁であれば、一人であろうと、多人数であろうと、良い結果はでないと。
私の答えは民主制だ。
共産主義国の失敗は、非常に、一党独裁であったことに、原因があると思う。
共産主義国の失敗に習うなら、独裁はやめた方がいい。
現在は、非常に細分化された、各専門家でしか判断できないようなことが多い。
一人の人間、または、少数の人間が国家を管理することは上可能になってきている。
各分野の現場の良く分かった人間の独立した判断が必要なのだ。
また、横の繋がり、情報交換が必要なのは、言うまでもない。
現在、縦社会の弊害が多く見られる。
地位の高い、まったく現場を知らない、専門知識もない人間が決定権を持っていたり、
また、縦割りであるために、横との連携がなく、横との情報の共有がなく、失敗することも多い。
もはや、中央集権国家の時代はとうに終わっている。
もっと、各分野の人間が自由にできる社会が必要なのだ。
縦社会ではなく、横社会だ。
今、地方分権が叫ばれているが、非常に良いことだと思う。
現場の人間が現場の判断で自由にやる方が良い。
中央の人間のまったく現場を無視した判断、また、現場の人間を縛るような体制では、
日本に未来はない。
中央の人間は自分たちの権限を奪われることに否定的だが、
中央の人間が日本を支配することにより、どれほどの弊害が今あるだろうか。
中央がなくなれば、みんなバラバラになり、国家がなくなると言う人間もいるが、
私はそうは思わない。
中央が決定し、地方が行うでは、もう、日本はやっていけないのだ。
中央は最低限の方針を決め、あとは地方に任せる。
国がバラバラになるのではない。縦社会ではなく、横の連携で動いて行くのだ。
中央の命令権がなくなるので、中央の人間は反対だろうが、
今は、明治時代ではない。
平成だ。
地方が自由に活動し、思う存分、自分の力を出し切る。
個人が自由に活動し、思う存分、自分の力を出し切る。
縦の命令系統の重視より、自由が必要なのである。
そこにしか、日本の未来はない。
また、二重行政、三重行政なども、縦社会の弊害であろう。
横の連携が取られれば、二重行政の無駄もなくなる。
自殺、15,4,24
誰かが、私を自殺に追い込もうとしているように、感じる。
コーヒーが飲めない、タバコが吸えない。
YouTubeの音楽が聴けない。
テレビの録画が見れない。
ゲームができない。
すべての楽しみを奪って、自殺させようとしているのではないだろうか?
25年以上、常に、楽しみを制限されてきたが、
最近、異常に、厳しくなっている。
精神的にも、肉体的にも、なぜか、疲労困憊である。
暴力、犯罪賛成派が、私の自殺を願っているのは、明らかのように思う。
私を殺すことなど、物理的には簡単なことだ。
しかし、私を殺せば、私は死後、英雄になってしまう。
どうしても、私がみずから、死を選んで、みずから、死んだように見せかけねばならない。
だから、毎日、死よりつらい、拷問にかける。
議論、15,4,25
犯罪賛成派が、犯罪に反対する者に対し、
毎日、拷問することは、
正しいことなのか、正しくないことなのかを、議論してもらいたい。
また、犯罪賛成派が、これからも、継続的に、
犯罪に反対する者に対し、毎日、拷問することは、正しいことなのか、議論してもらいたい。
重要なのは、国民の総意である。
犯罪の否定、15,4,25
犯罪賛成派は、自分たちは犯罪を犯してないと言うが、
ばかも休み休み言えと言いたくなる。
しらじらしい、大嘘である。
私の毎日の生活をみれば、
犯罪賛成派が、毎日、拷問、犯罪行為を繰り返しているのは、
一目瞭然である。
人道と人権、世界平和、15,4,25
犯罪賛成派が犯罪反対を訴えているのは、とてつもなく、おかしい。
犯罪賛成派が、すべての犯罪の原因ではないか。
犯罪賛成派が、人道や人権、世界平和を訴えているのは、とてつもなく、おかしい。
犯罪賛成派は、日夜、人道を踏みにじり、人権を踏みにじり、
世界平和を崩壊させようとし、法治国家を崩壊させ、民主国家を崩壊させようとしているではないか。
犯罪賛成派は、言っていることと、やっていることが真逆、正反対なのだ。
社会を変えるな、15,4,26
社会を変えるな。
勢いにまかせ、社会を変えることは、決して良い結果をまねかない。
いたずらに、社会を変えることは非常に危険だ。
我々の第一とするべきものは、安全、安心である。
まずは、話し合おうではないか。
事実を正確に国民に伝え、国民全体で話し合おう。
我々は、暴力を振るうとか、犯罪を犯すとか、
危険なことは、一切するべきではない。
情報公開、言論の自由、みんなで自由に話し合うこと、
非暴力、法律の遵守。
この当たり前の常識を実行するだけで、社会は十分変わるのだ。
この当たり前ことをするだけで、
社会は十分に変わる。
社会は根本的に変わっていくのだ。
くれぐれも危険なことはしないこと。
何かを決めるときは、
事実を明確にし、
国民全体で話し合い、
安全、安心に気をつけ、
国民の総意で決めること。
全国民は誰の奴隷でもない、誰の支配も受けない。
日本は民主主義の国で、すべての国民は完全に自由なのだ。
そして、全国民の自由と安全、安心は両立しなければならない。
社会を変えるには、
我々は自由であり、安全と安心を第一とするのであり、
事実を知る権利があり、
言論の自由があり、
みんなで、話し合うことができる。
そして、物事を決めるときは、十分に話し合い、必ず、国民の総意で決める。
この当たり前のことを、再確認するだけでいいのだ。
暴力、犯罪推進団体、15,4,29
暴力、犯罪賛成派は、自分たちが暴力、犯罪を振るうだけではない。
他人に対しても、暴力と犯罪を強要する。
犯罪賛成派は、犯罪に反対する者を犯罪行為で追い詰める。
犯罪行為で苦しめ拷問する。
追い詰められた人間は、
暴力を振るったり、過激な行動をとったり、犯罪を振るったりする。
テロに走ったり、クーデターをくわだてたりする。
そうやって、犯罪賛成派は、犯罪に反対する者を犯罪者に仕立て上げてきた。
また、追い詰められた人間は自殺する。
そうして、犯罪賛成派は、自殺を強要してきた。
犯罪に反対する人間が犯罪者になっても、自殺しても、犯罪賛成派の思うつぼなのである。
犯罪に反対する者が犯罪者になっても、自殺しても、もう、犯罪賛成派を責めることはできない。
犯罪賛成派は、自分たちが犯罪を犯すだけでなく、
犯罪や自殺を強要している。
犯罪賛成派は、犯罪、自殺、推進団体なのだ。
我々、犯罪反対派と犯罪賛成派の間には、大きな隔たりができてしまった。
犯罪賛成派は、話し合いを否定し、暴力と犯罪を振るう。
我々は、暴力と犯罪を否定し、話し合いを求める。
我々と犯罪賛成派との隔たりは、もはや、うめることはできないのであろうか。
話し合うことができれば、何とかなるかもしれないが、
犯罪賛成派は、話し合うどころか、言論の自由さえ許しはしない。
我々は、発言することさえ許されないのだ。
共産主義国の最大の失敗、15,4,30
共産主義国の最大の失敗は、共産党の一党独裁であったことである。
限られた人数での、集団独裁、これが共産主義国の最大の失敗であった。
共産党という限られた人間たちの集団独裁で、何が起こったか、
それは、国民の幸せより、国家の利益より、共産党幹部の利益を優先するという、
最悪の事態である。
これは、共産主義国に限らず、あらゆる国の集団独裁を取っている国に現れる状態である。
まず、集団独裁国家は、無駄が多い。
無駄な部門や部署が作られ、または、無駄となった部門、部署が廃止されない。
国家国民にとって、無駄でも、独裁集団にとっては必要だからだ。
無駄なカネも多く使われるようになる。
国家国民にとって無駄でも、独裁者たちの利益になればいいからだ。
そして、汚職やワイロが蔓延る。
独裁者たちを管理する人間はいないから、やりたい放題になってしまう。
誰からも、管理されない集団は、犯罪の温床となってしまう。
個人独裁も、集団独裁も、腐敗の原因、
また、国家国民のための国家ではなく、独裁者たちのための国家となり、
国家国民は上幸になる。
また、独裁者たちの上正蓄財も横行する。
独裁者たちは、公私の区別がつかなくなる。
国家は独裁者のものであって、決して国民のものではないのだ。
独裁者を殺すことは国家を殺すこと、国家を殺すことは独裁者を殺すこと、というような、
わけの分からない状態となり、
国家国民のカネは独裁者のカネという認識になる。
独裁国家が倒れると必ず発見されるのが、
独裁者たちの贅沢三昧の生活である。
無駄をなくし、国家国民のための政治をやるには、
税金の使い道をすべて透明化し、
必要か上必要かを国民が判断する必要がある。
共産主義国の失敗を繰り返したくないなら、
独裁は絶対にダメだ。
民主制こそが、国家国民を幸せにする政治なのだ。
共産主義国を見るがいい、
共産主義が間違いであり、もはや時代遅れなのは、
共産党員も知っている、国民も知っている。
しかし、誰も、共産主義が間違っているとは言えないのだ。
明らかな間違いが間違いと言えない状態、これが最悪の状態だ。
独裁国家では、独裁者たちも間違い、無駄だと思う、国民も間違い、無駄だと思う、
誰が見ても、間違い、無駄だと思うようなことがたくさん起きる。
独裁国家を民主国家に変え、誰が見ても、間違いだと思うことをやめるだけで、
国家は大きく進歩し、国民の幸せは倊増する。
祈りの必要性と上必要性、15,5,7
白光会を作った、五井昌久氏は、祈りのない宗教などありえないと言った。
同時に、常々、祈りの必要性を説いていた五井氏であったが、
五井氏自身は祈らなかった。
本当は祈りなど、上必要だと言うのだ。
人は祈り肯定派、否定派などに分けたがる。
また、肯定派と否定派で論争などする。
しかし、宗教家には、祈りの必要性と上必要性を同時に理解することが必要なのだ。
キリスト教、仏教などに、人は宗教を分けたがる。
しかし、キリスト教を理解できる人間なら、仏教を理解できるだろうし、
逆もまた、しかりである。
事実が人によって違うわけがない。
事実は誰にとっても一つであり、真実は一つなのだ。
宗教は一つしかない。
しかし、真理を知る方法は多種多様であり、説き方も、千差万別である。
方法や説き方が違っても、たどり着く真理は一つしかない。
もし、イエスと釈迦が出会ったら、お互いの考えを認め合っただろう。
お互いに尊敬し合っただろう。
宗教で各宗教を作り、反目し合うことは、
物理学で、各派閥を作り、反目し合うことと同じくらい、無益なことだ。
イギリスの物理とフランスの物理は違うと主張するようなものだ。
イギリス物理とフランス物理は互いに自分の考えを主張し論争するべきであろうか?
イギリスの物理もフランスの物理も同じであることを認め、協力し共に研究を進めるべきではないだろうか?
昔は、物理にも、各派閥があり、論争していた時代もあった。
しかし、今となっては、笑い話のようなものではないだろうか?
共通と個性、15、5,7
何度も言うが、共通基盤と各個人の個性は、どちらも、欠くべからざる重要なものだ。
どちらかが重要なのではなく、どちらも、同時に重要なのだ。
どちらが欠けても、芸術、学問、社会は成り立たない。
人には共通部分があるから、理解し合える。
他人の気持ちを理解したり、他人の考えや作品に共感できるのだ。
また、一人一人が違うから、この世界は面白いのであり、
芸術、学問、社会は、個人の違いによって成立しているのだ。
人はみな同じと言うのも真理であり、
十人十色と言うのも、真理である。
どちらが欠けても、人類は成立しない。
個性の尊重を訴える人間たちと、人間の共通部分を研究する人間が論争するなど、愚の骨頂だ。
今、思想や芸術の世界では、個性の重視ばかりに重点が置かれている。
非常にまずい状態である。
無論、個性の尊重は最大限なされるべきであり、個性なきところに芸術も思想もない。
しかし、共通部分の研究に力がそそがれないことは、大きな欠陥である。
個性と共通性、どちらか一方を選ぶなど、バカ丸出しだ。
個性と共通性、どちらにも精通することにより、正しい判断ができる。
個性と共通性、同時に理解することなしに、いかなる芸術も思想も理解できないし、社会は成り立たないのである。
球状の思想、15,5,12
思想は直線的なものではなく、平面的なものでもない。
思想は立体である。
思想は球状である。
左側の部分が分からなければ、右が理解できず、
右側が分からなければ、上が理解できない。
中心が理解できない。
人間の思想を理解することは、立体的な全体像を理解することである。
だから、言葉で、直線的に説明することはできない。
まず、左側から説明しても、右の説明がなければ理解できない。
文章は、はじめ説明して、最後に結論という形だが、
思想は結論が理解できなければ、はじめの説明が理解できない。
起承転結という形で説明できるものではない。
だから、読者が理解できないのを承知で語るしかないのである。
球状の思想をバラバラに説明し、それを読者に組み立てなおしてもらい、
読者の頭の中で、球状にしてもらう以外にないのだ。
だから、思想家は、思いついたことを、思いのままに語るしかない。
順序立てて話すことができない。
バラバラに語ることしかできない。
当然、何回も、同じ話をすることになる。
人間は自分に大切なものは、自然と何回もしゃべってしまうものなのだ。
一つのものでも、表現や説明、角度を変えてしゃべることで、理解が深まる。
また、時間や場所、相手を変えて説明することで、理解は深まる。
一度、説明して、分からないことも、何回も説明することで、理解してもらうことができるようになる。
同じ話を何回もすることは無駄とも言えるが、有益とも言える。
それは、話す側の人間によっても違うだろうし、聞く側の人間によっても違ってくる。
私が繰り返しの散文を書くことを許してほしい。
思想は球状であり、右が発達することで左が発達し、上が発達し、中心が発達する。
思想の成長は、全体的に起こる。
決して、一方向にだけ伸びるものではない。
上下、左右、中心、全体的に成長して行くものなのだ。
私は、それを説明するために、思いつきの散文と言う形しかとれない。
結局、思想を理解するには、その人間と、何気ない日常を一緒に暮らす以外にないのではないだろうか?
人間の日常は、有益な言葉だけでできているのではなく、多くの何気ない言葉によってできている。
そうやって、理解してもらう以外にないように思うのだ。
だから、このブログは、バラバラ書きであり、ダラダラ書きである。
直線的矛盾、立体的合理性、15,5,12
白光会の五井氏は、祈りの必要性と上必要性を同時に説いた。
私は共通基盤の重要性と個性の重要性を同時に説く。
直線的に考えれば、相矛盾することを説いているように思えるが、
立体的に考えれば、極めて合理的な考えである。
思想とは、一段一段、上へ上へと積み上げていくようなものではない。
樹木でさえ、上に伸び、同時に下へ根をはるではないか。
感謝の大切さ、15,5,12
感謝は人間にとって、とても大切であるとか、
感謝は必要であるとか、重要であるとか、
感謝するべきであるとか、
言う人間に、
非常に腹が立つ。
感謝の必要性を説かれ、
感謝することにより、
何の問題が解決するのか?誰が幸福になるのか?
感謝とは、ごく自然に生まれる行為であり、
意図的に感謝することは、決して感謝ではありえない。
それどころか、意図的な感謝は、嘘偽りの根源なのではないだろうか?
水なしには、どんな生物も生きられない。
人間が生きているのは、水のお蔭である。
人間は誰しも、水に感謝しなければならない。
本当だろうか?
水は人間に感謝してほしいと思ってない。
それどころか、人間のためを思ってない。
人間を助けたいと思って、水は存在しているのではない。
水は、ただ、水であるに過ぎないのだ。
そこに、何の意図もない。
ただ、水は水であるだけだ。
それは、神も聖者も同じ、水と同じ純粋な存在なのだ。
ただ、水は水、火は火であるように、神は神であり、聖者は聖者、自然は自然である。
そこに、何の意図もない。
感謝の必要性を唱える人間の言葉を聞くたびに、
自然をけがされたような、腹立たしさを感じる。
宗教の感謝の意味することとは、何であろうか。
それは、空であり、無為自然であることだと思う。
多くの人間は、心にたくさんの思いや感情、考えを抱えこんでいる。
それを吐き出し、または消し去ることで、心はカラになる。
心や頭がカラになったところで、ごく自然な感情が芽生える。
それが感謝である。
その感謝は理由がない感謝であり、感謝する対象のない感謝である。
理由も、感謝する対象もないところに感謝は生まれないというのが一般的考えだと思うが、
それが、宗教が意味するところの感謝だと思う。
頭をカラにして、自然に生きていると、常に、感謝の念が心から、湧き上がってくる。
その自然な状態を取り戻させることが、宗教の役割だと思う。
生きていることに感謝しなさいと言う人がいる。
その言葉を聞いて、私の知人は、意味上明だと言った。
その知人にとって、生きることは苦痛だったからだ。
心や頭が考えや思いでいっぱいのとき、人間は心の底の方から湧き上がる感謝に似た感情を認識できない。
心と頭をカラにし、ごく自然に生きるとき、その状態は改善される。
心と頭をカラにし、自然に生きるときに、感謝の感情が沸き上がらないならば、
宗教は感謝を教えなかっただろう。
心と頭をカラにし、自然に生きるとき、人間に悪感情が芽生えるなら、
宗教は悪感情を教えていた。
なぜなら、それが真実だからだ。
宗教とは、人間の都合より、真実を優先するものなのだ。
ありがとう、15、5、12
黒住教の黒住宗忠は、ありがとうと言う言葉にこだわった。
神前にて、ただ単に、ありがとうございますと唱えることを教え、
人を救った。
私は黒住宗忠のような尊敬すべき宗教家に異論を述べるつもりはない。
ただ、うわべだけの言葉で、ありがとうを繰り返すより、感情を込めた方が良いのは当然だろうし、
心の奥底から、ありがとうと唱える方がもっと良いのは当然である。
結論的に言えば、黒住宗忠は正解である。
言霊は重要であり、言葉自体に力がある。
ありがとうと思えない人が、うわべだけで、ありがとうと唱えても十分に効力を発揮する。
説明しても分からない、また、ありがとうという気持ちが持てない人に、
ありがとうと言う言葉を繰り返させることは正解なのだ。
結論的に言えば、訳も分からず、うわべだけの言葉でありがとうを唱えても効力はある。
ただ、うわべだけの教えがただ単に広まり、結果として、宗教の信用をなくす危険性はある。
うわべだけの教えも、十分、重要だが、
真実に沿った、深い論拠も、重要である。
人はそれぞれで、形だけの唱えごとを教えることが最も効果がある人間もいるが、
論拠を示した方が効果がある人間もいる。
頭で理解する人間、心で感じる人間、また、口や身体を動かすことで紊得していく人間と、
宗教の道は様々である。
各宗教の聖者の言うことは、一見バラバラに見えるが、
教える対象となる人間、場所、時間など、ケースバイケースで的確な指示となっている。
相矛盾しているようで矛盾しないのだ。
根源は空、自然、心の根底というものに立脚している。
逆も、また、真なり、15,5,13
感謝の必要性を説く人間が腹立たしいと書いたが、
私は、同時に、感謝の必要性を説くことの大切さも、痛感している。
私が腹立たしいと書いたのは、
良く宗教を理解もしないで、押し付けがましく、神への感謝を強要する人間に対しだ。
あたかも、良いことをしているように、感謝を強要する。
意味も分からず、相手も選ばず、物知り顔で、子供や年下の者に、感謝を強要する。
押し付けや強要により、宗教に悪い印象を持ったり、
宗教には、うんざりだ、というような思いを持つ人間を、私は多く知っている。
宗教を教えるには、その意味を知らなければならないし、
相手を見て、言わなければならない。
同じことを教えても、良い方向に人を導く場合もあるし、
ケースバイケースで、悪い方向へ向かって行ってしまうこともある。
黒住宗忠のような宗教家の言うことに対し、
腹立たしいとは、間違っても思わない。
立体的な理解、15,5,13
文章と言うのは、一方からの、直線的意見しか言えないような構造になっている。
逆もまた、真なりだが、
一方の意見を主張しながら、同時に、逆方向からの主張をするのは無理だ。
多方向からの主張を同時にするのは、なおさら無理だ。
多方向からの主張を同時にすれば、意味が分からない文章となってしまう。
宗教と言うのは、直線的な一方からの見方で理解できるものではなく、
多方面から、立体的なものを見るような理解の仕方が必要なのだ。
左から見ると白く見え、上から見ると黒く見える、前から見ると赤。
つまり、多方面から見て、それを総合して、全体の形を知ることが必要なのだ。
私の文章は、誤解されやすい。
一方的な表現にならざるを得ないために、非常に過激なことを言っているように取られやすい。
また、人を恐怖させることもある。
人を一方的に非難し、上快にさせるような印象も与えやすい。
破壊的なことを言っているように取られることもある。
若い頃は、その傾向がもっともっと強く、誤解されることがあった。
しかし、お互い、よく話し合うと、当然のことを言っていることが分かってもらえることが多い。
理解し合うためには、急いで判断しないことが重要である。
一番良いのは、質問し合い、話し合うことだが、
文章では、そうはいかない。
文章で伝えることは誤解が生まれやすくなる。
誤解をうまないためには、読んですぐ判断するのではなく、
考え、その人の他の文章も読んでみる必要があるだろう。
私の一文を読み、その一方的、直線的内容がすべてだと思い込み、大変な事態になったことがあった。
宗教は様々な方向から意見を言う。
逆もまた、真なり、どころか、
多方面、上下、左右、前後、いたるところから、教えが生まれるので、
バラバラで一貫性がないようにも思われる。
一つのものが、黒だったり、白だったり、赤だったり、青だったり、
しかし、急いで判断しないならば、立体的な全体像を知ることができ、
矛盾なく、一貫して、同じものを説明していることが分かるだろう。
空の教え、自力本願、論理哲学的な教えは、人を恐怖させることが多いのだ。
私の場合、若い頃に、ラジニーシやクリシュナムルティを読んで、恐怖した。
しかし、五井昌久氏の本を読んで安心するのだ。
別に、違うことを説いているわけではないのだ。
恐怖したくないなら、五井昌久氏の本を薦める。
万人向きだ。
論理的に宗教を考えたいなら、哲学に興味があるなら、
ラジニーシやクリシュナムルティを読むのも良い。
ラジニーシやクリシュナムルティを読んで、心が冷え切ったら、
五井昌久氏の本を読めば良い。
私は若い頃から、一貫して、五井氏のことを尊敬している。
ラジニーシは、本の内容は興味深いものだが、
その行動、生活には、非常に問題ありとされた人物である。
ラジニーシはクリシュナムルティを認めていたが、
クリシュナムルティはラジニーシをまったく認めようとしなかった。
五井昌久氏の本を読むには、ラジニーシやクリシュナムルティが必要だとは思わないが、
私にとって、ラジニーシやクリシュナムルティを読むには、五井昌久氏が絶対に必要だった。
ラジニーシやクリシュナムルティの本は大変、勉強になったが、
五井先生に救われることが多かった。
学をたたば、憂いなからん、15、5,15
老子は学を断たば、憂いなからんと書いた。
学ぶことをしなければ、人は憂うことはないと言う意味だ。
当然ながら、学ぶことに老子は反対していたのではない。
学ぶことや勉強すること、学校で学ぶことに反対するわけがない。
老子は逆説的なことを書いて、我々に考える機会を与えてくれているのだ。
非常に恐ろしいのは、老子のこの一文を読んで、老子は学ぶことに反対した、おかしな人間だったと判断し、
老子に反対する人間がいることだ。
そんな浅はかな判断で、老子に反対する人間の神経が分からない。
イエスは、私が平和をもたらしに来たと思ってはなりません、むしろ、分裂ですと言った。
つまり、イエスは平和を壊し、争いの種をまきにきたと言ったのだ。
これもまた、イエスが平和の大切さを認識してなかったわけではない。
この言葉で、イエスが悪い人だと判断する人間がいる。
世界で一番読まれている本は聖書である。二番目が老子だ。
二千年以上前から、大切に伝えられている、世界一、世界二の本が意味のない本であるはずがない。
そこには、人類が知るべき重大な意味があるはずである。
文字面だけを見て、急いで判断するべきではない。
現在は、一文を切り取られ、やり玉に上げられたり、炎上したりするケースが多い。
本当に誤解されているのか、それとも、悪意があって、非難しているのか、よく分からない。
宗教などは、多面性があり、様々な角度から、説明されるものであるから、
安易に非難することはやめた方がいいし、
時間をかけ、理解することなくしては、理解できないものであると思う。
キリスト教、仏教、老子の思想など、多くの宗教があるが、
私は別々なものでなく、同じものであると思うのだ。
説明の仕方、真理へのアプローチの方法など、違う点はあるが、
同じ事実を見ていると思う。
事実、真実は一つであり、それは、どの宗教にも共通である。
我々は一つの宗教にこだわるべきではなく、
多くの宗教に教えを乞う必要があるのではないだろうか?
我々が重要視するべきものは、どの宗教にも共通する、事実、真実である。
すべての宗教に共通することは、宗教にとって、事実、真実は何よりも大切なことだということだ。
宗教にとっても、社会にとっても、学問、科学にとっても、
事実という共通基盤なしには、成立しないのだ。
誰にとっても、現在は一つであり、現実は一つしかない。
事実、真実は一つであり、すべての宗教に共通する。
この共通基盤なしには、宗教は一歩も進めない。
社会も、科学も学問も、成立しないのである。
誤解、15,5,15
学を断たば、憂いなからん、と言う言葉を
そのままの言葉だと理解し、
学ぶことは良くないことだと老子が言っているのだと思っている人を見て、唖然としたことがある。
また、私の言葉の一文を読んで、非難する人間がいることにビックリした。
私はわざと私を非難するために、その一文を切り取って、悪意をもって、私をおとしいれようとしているのだと思った。
しかし、そうではなかった。本当に誤解していたのだ。
それを知って、なおビックリだ。
おかしな言葉を読んだなら、この言葉は何を意味するのだろうと考えてくれると私は思った。
少なくとも、理解できないと言うことで、質問してくれると思った。
私の文を考えもしない、私に質問することもしない。
いきなり、私に制裁をくわえるという問答無用の措置が取られた。
時間がたち、私の言葉が、制裁の対象になるような言葉でないことが明らかになってきている。
残ったのは、問答無用に間違った制裁を加えたという事実だけだ。
話し合いもなく、問答無用の制裁という行為が、私には理解できない。
ただただ、力でねじ伏せれば、解決すると考えただけなのか。
まずは話し合い、力でねじ伏せるという行為は最終手段ではないのだろうか。
私は、今も昔も、人間扱いされてない。
うるさい、15,5,16
犯罪賛成派が、このブログを、うるさい、うるさいと
力ずくでやめさせようとしている。
まるで、このブログは、騒音をまき散らす暴走族のようなものだと言うのだ。
これは、泥棒が、警察が盗みをやめろと言うのを
うるさい、うるさいと言い続けるのに似ている。
泥棒は盗みをやめろと言い続ける警察を
何度も何度も同じことを言う、大騒音だと言うのだ。
泥棒が警察を黙らせたいのなら、方法は一つしかない。
泥棒が犯罪の継続をやめることだけだ。
泥棒が性懲りもなく、犯罪を続けているのに、
警察は犯罪を非難することをやめるべきであろうか?
警察は泥棒が犯罪を継続する限り、犯罪を非難せざるを得ない。
と言うより、
泥棒に屈し、犯罪を非難することを絶対にやめてはならないのだ。
犯罪を継続する泥棒が、
犯罪を非難する声を、大騒音だと言い、何度も何度も同じことを言うバカどもだと言うのが、
私には、丸で的外れな、とんちんかんな言い分にしか思えない。
15,5,17、驚くべき現実
こんな、文明の発達した現代に、
独裁者の支配する国がある。
独裁者のいちぞんで、犯罪さえ、正当化され、堂々と許される。
国民には、知る権利どころか、言論の自由さえない。
事実は小説よりも奇なりと言うが、驚くべき脅威の現実である。
恐ろしさのあまり、唖然とする。
芸能界デビュー、15,5,17
芸能界デビューをさせるからと言って、
女性に男女の関係を迫っていた男が逮捕された。
仕事を与えること、クビにすることは、今までも、地位の高い人間に利用されてきた。
つまり、自分の言うことを聞けば、仕事ができる。自分に逆らうなら、クビだということだ。
仕事をクビにされることは、ある意味死刑宣告に等しい。
自分の人生を否定されたのと同じだ。
クビになった人間の家族は路頭に迷う。
死より苦しい、残酷な刑罰とも言えるだろう。
仕事につけなければ、それは、社会的に抹殺されたのと同じだ。
多くの人間が、仕事をクビになり、そのあまりの苦痛に自殺する。
人をクビにできる人間は、ある意味、殺人のライセンスを持っているのと同じだ。
自分の命令に従う人間は生かし、逆らう人間は殺すことができる。
独裁者は恐怖政治で、実際に人を殺すという方法を使うこともあるが、
社会的に抹殺することで、その人間、その家族に、死よりも苦しい生き地獄を味あわせることもできる。
死んだ方が、まだ、ましだ。
我々、日本人は、絶対に、このような残忍極まりない、非人道的行為を許すべきではない。
粛清、15,5,17
北朝鮮で、次々と粛清が行われている。
人を殺すことで、国家をコントロールしているのだ。
みな、戦々恐々としている。
権力者に逆らうことが、死に直結している。
最も醜い国家のあり方だ。
自由、どころか、人権さえない。
引退、15,5,18
橋下氏が市長の任期が切れると同時に政界から引退することを表明した。
しかしながら、大阪都構想という考えは、誰かが引き継ぐだろうし、
住民の理解、また、国政の応援があれば、
大阪都構想が実現する可能性は、これからも、まだある。
二重行政の廃止や、地方分権などは、多くの賛同者がいるし、
これからも、進めて行くべきだと思う。
橋下氏が引退しても、二重行政の廃止や地方分権が終わるわけではない。
橋下氏は自分の役割を十分果たしたと思うし、
これまでも、これからも、大きな影響を与えて行くと思う。
住民投票なども、非常に画期的な行動だと思う。
住民投票、国民投票などの直接民主主義を増やす方向で、これからの日本は進んで行くだろう。
私は絶対に引退しない。
私には引退するような、なんの地位もないし、権限も持ってない。
私にあるのは発言権だけだ。
発言権は、どんな人間にも、一生、保証するべきである。
私は死ねば、この世から引退するが、
思想家としての私は、この世に生き続ける。
死後も、なんら変わらず、この世界に生き続けることができるのだ。
私は死後も、この世界から、引退することはないのである。
私が死んでも、なんら変わることはない。
思想家は、死んでも、なんら変わらず、生き続けるのだ。
誰も、私の死に影響を受ける必要はない。
これまでのことをこれからも続けて行けばいいのだ。
自分の考え、自分の生き方を貫いてほしい。
負けは負け、15,5,18
橋下氏は、負けは負けと言ったが、
勝っても、勝ちは勝ちとは行かなかっただろう。
大阪都構想を実現するのに、住民の半数の賛成では少な過ぎるし、
国政の協力は必要上可欠だ。
住民投票で勝っても、大阪都構想が成功するかは、今の状態では、はなはだ疑問である。
何かを変えるときは、みんなで協力しなければ、なかなか難しいだろう。
住民投票で半分を取ったからと言って、
住民の半数の賛成で、また、国政の後押しもなく、
大阪市を廃止して良いものだろうか。
もっと、準備が必要な気がする。
地方分権は、国民全体で引き続き考えて行く問題だろう。
100%、15、5、21
犯罪賛成派は犯罪反対派が犯罪賛成派を非難するのは、思いやりがないからだと言う。
警察が泥棒を非難するのは、思いやりがないからなのだろうか?
もし自分が相手の立場であったらということを考えない、想像力の上足からなのだろうか?
私は犯罪者の言い分に、まったく同意できない。
暴力と犯罪をやめ、みんなで話し合うことに反対する人間が大勢いる。
暴力と犯罪をやめ、みんなで話し合うことができれば、
この世界は100%、絶対に良くなる。
こんなことは、誰にでも分かることだ。
個人個人によって、都合の悪いことがあるかもしれない。
しかし、国家全体、人類全体にとって、必ず良くなる方法なのである。
みんなが幸せになるには、この方法しかない。
短期的にみれば、社会が混乱することも考えられる。
しかし、長い目で見れば、必ず、人類に幸福をもたらす。
人類を滅亡から救う方法は単純明快だ。
暴力と犯罪をやめればいいのだ。
また、人類を意図的に破滅させる方法も単純明快である。
暴力と犯罪に賛成し、暴力と犯罪を継続し続けることだ。
人類を救うために、多くの議論がなされてきた。
しかし、もう、答えは出ているのだ。
暴力と犯罪をやめ、みんなで話し合うことだ。
この方法以外に、人類を救う方法はない。
人類を救うには、暴力と犯罪をやめて、みんなで話し合う。
暴力と犯罪をやめることが、100%、絶対に正しい、それが、すべての人間に分かっているのに、
なぜ、それに大勢の人間が反対するのだ。
救いは、そこにしかないのに。
自分のことより、人類全体のこと、15,5,24
自分や自分たちのことより、国民全体のこと、人類全体のことを考えるべきではないか。
小事にとらわれず、大事を優先するべきである。
目先の利益に惑わされず、長期的展望に立って考えるべきではないか。
今、自分の利益にならなかったとしても、将来の日本、世界を見据えて、行動するべきではないか。
今、我々は、人類存続か、滅亡かの岐路に立っている。
暴力と犯罪に反対するのか、それとも賛成するのかによって、
人類の未来は決定するのだ。
我々は、日常生活にあっては、多少の嘘や悪いことはやむを得ないことがある。
しかし、大事にあっては、愚直に、正しいことは正しいと言い、正しい行動を取ることこそが、
個人のためであり、国家のためであり、しいては、世界人類のためなのではないだろうか。
私は、暴力と犯罪に反対しているが、厳密に、事細かに法律を守れと言うつもりはない。
しかし、窃盗や傷害、殺人などに反対することでは、我々全員が一致できるのではないだろうか。
我々、人類が暴力と犯罪に反対し、自由に自分の意見を述べ、みんなで話し合う。
そんな当たり前のことが、できるか、できないかが、
人類滅亡と人類存続の分かれ目なのだ。
自分の利益や保身を捨て、世界全体の利益を考える。
短期的な利益より、長期的な利益を考える。
そうすれば、
我々全員が、暴力と犯罪に反対し、みんなで話し合うことに賛成できるはずである。
そうすれば、人類は人類存続の活路を見い出すことができるのだ。
邪推、15,5,24
犯罪賛成派はねじまがった見方しかできない。
自分たちの敵が報酬目的であると、
カネが目的の汚いやつらだと言う。
自分たちの敵が、無報酬で正義をなすと、
報酬をもらわずに正義をなすような人間はいない、
必ず裏がある。
絶対に、敵には、あくどいたくらみがあるのだと言う。
ただより高いものはないとは、このことだと言う。
結局、犯罪賛成派にとって、人とは、すべてが悪人なのだ。
絶対に善人の存在を認めようとはしない。
人は、すべて、悪人である。
そのねじまがった、歪んだ見方のために、
犯罪賛成派は、事実をありのままに認識できないようになっている。
邪推が邪推を呼び、常に現実の正確な把握が困難となってしまっている。
だから、常に、間違った判断で行動してしまい、
みずから、泥沼にはまっていく。
犯罪賛成派の策は大失敗、惨憺たる結果だ。
そして、自分たちの失敗を失敗と認めないのも、
犯罪賛成派の大きな特徴である。
失敗を失敗と認めないために、さらなる大きな失敗を繰り返す。
さらには、自分たちの保身のために、国家国民に大搊害を与え、世界を窮地におとしいれる。
無償で正義をなす者を根拠もなく、悪人と決めつけるのはやめた方がいい。
善人は確かに少ないと思うが、いないわけではない。
善人を悪人と決めつけ、苦しめるのはやめた方がいい。
人はみな悪人、それが犯罪賛成派の信仰だ。
そして、善人がいたとしても、犯罪賛成派は善人が大嫌いなのだ。
なぜなら、善人は、犯罪行為の責任を問うからだ。
善人など絶対にいない。それが犯罪賛成派の信念なのだ。
彼らにとって、善人など、絶対にいてはならないのだ。
なぜなら、善人がいたら、犯罪賛成派は終わりだからだ。
こうした犯罪賛成派のゆがんだ見方が、みずからを泥沼に追いやり、
国民に大迷惑をかけ、国家に大搊害を与え、世界人類を破滅させる。
犯罪賛成派の目の前に、あきらかな善人が立っても、
絶対にそれを、犯罪賛成派は認めようとはしない。
こいつは絶対に悪人だ、絶対に裏がある、絶対にたくらみがあると言い続け、
善人を虐待し、拷問し、殺そうとする。
なんの根拠もなしに、善人を苦しめ痛めつける。
そして、自分たちは正しいことをしていると言い続ける。
そうして、国民を巻き込み、国家を巻き込み、世界を巻き込み、泥沼に落ちて行く。
自業自得、15,5,29
犯罪賛成派は、自分たちの暴力と犯罪を他人のせいにして、責任転嫁しようとしている。
自分たちの暴力と犯罪は、誘導されたものだとして、自分たちの責任を認めようとしない。
犯罪反対派は、暴力と犯罪の責任は、その暴力と犯罪を犯した人間が取るべきだと、
一般の人間にとって、至極当然、極めて当たり前の事実を突き付けているに過ぎない。
もし、犯罪賛成派が、自分たちの暴力と犯罪を正当化するのであれば、
事実を国民の前に明らかにし、自分たちの主張を国民に堂々と主張し、
国民の判断を仰げば良い。
問題は、その事実を、国民が許すか許さないかだ。
想定外、15,5,29
犯罪賛成派は、自分たちの暴力と犯罪が明るみに出るとは、
まったく想定していなかった。
暴力と犯罪で、自分たちの邪魔者をぶちのめし、それでおしまいだと思っていたのだ。
今の現実を見るなら、この問題を、闇に葬って終わりにできる問題であるかどうかは、
誰が見ても明らかだ。
誰がどう考えても、秘密裏に済ますことは、もう、できない。
また、闇に葬り、暴力と犯罪を肯定するべきではない。
絶対に、事実を明らかにし、国民に正確な情報を知らせる必要がある。
そして、みんなで考え、話し合い、判断する必要が絶対にある。
一部の人間が国家を揺るがす重大な問題を決定してはならない。
重大な問題は、国民に知らせ、国民が考え、話し合い、国民が判断し、決定する必要が、絶対にあるのだ。
日本人、15,5,30
犯罪賛成派は、犯罪に反対する者は日本人ではないとか、
犯罪に反対する者は、共産主義者だとか言っているようだが、
犯罪に反対することは、全世界共通の概念である。
どんな国、どんな人種、どんな思想、どんな宗教であれ、
暴力と犯罪に反対ことは、共通している。
それが全世界共通の正義の概念なのだ。
犯罪に反対する者は、日本人ではないとは、日本人をなんだと思っているのか。
恐怖と上安、危険に満ちた社会、15、6、2
暴力と犯罪が正当化されれば、
裁判なしで処刑という、
恐怖と上安、危険極まりない社会になってしまう。
犯罪賛成派に誰も逆らえない、
犯罪賛成派に逆らっただけで、
社会的に抹殺される、もしくは抹殺される社会が成立してしまう。
犯罪賛成派が社会に存在しているだけで、もう、そうなっているようだ。
こんな非人道的社会を、我々国民は絶対に許してはならないのである。
ヘルプ ミー、15,6,3
私は自分が公開されていなければ、生きられなかったと言い続けてきた。
そして、これからも、公開がストップすれば、私は生き続けることは上可能だ。
公開することで、私は多くの人間に守られてきた。
私は決して一人で生きることはできない。
大勢の人間の助けがあって、命があるのである。
私は命の恩人たちに心から感謝する。
私は助けを求める。
しかし、決して媚びない、へりくだらない。
一段高い所から話したりしない。
我々は同列なのだ。
同志なのだ。
いかなる宗教の人間であっても、例え、無宗教でも、
いかなる思想の持ち主だったとしても、
大金持ちであっても、貧乏でも、
高い地位の人間でも、低い地位の人間でも、
我々は、真実を求めるという、一点のみで、真の友となることができる。
真実の最大の敵は、暴力と犯罪である。
暴力と犯罪は、その本質において嘘であるからだ。
人間の宗教、思想、芸術、文化文明のすべてが、暴力と犯罪によって台無しにされてきた。
真実が暴力と犯罪によって、殺されてきたのだ。
真実を求める者は、みな友であり、同志であり、
異口同音に、暴力と犯罪に反対するべきである。
個性の尊重、それぞれの違いの重要性は、もちろん、認める。
しかし、この一点では、我々は完全に一致できる。
この一点のみが、我々が友であり、同志である証なのだ。
人生の意味、15,6,3
聖者に誰かが人生の意味を問うた。
聖者は、何と馬鹿げた質問をするのか、と思った。
聖者には問いの答えがなかったからだ。
人は充実した喜びに満ちた時間を過ごしている時、
そこに、決して、この時間に何の意味があるのかとの問いはない。
答えなど必要ない。
聖者は言う、人生の意味を問う人に答える答えはない。
答える必要はない。
問題なのは、なぜ、人生の意味を問うほど、その人が上幸なのかということなのだと。
人生の意味を考え続けなければならないほど上幸なことが問題なのだと。
人生に意味があろうが、なかろうが、そんなことはぜんせん問題ではない。
それが人間の健全な状態なのだと。
人生に意味や価値は必要ない。
言うなれば、人生の意味を知るために人生がある。
人生の意味は、人生の意味を知るためだ。
人生の意味は言葉で説明できない。
体験で知るしかない。
一度、人生の意味を知るなら、二度と人生の意味を問うたり、考えたりすることはない。
私は人生に意味はないと若い頃、言い切っていた。
それで、多大なる上快な思いを他人にさせたこと、誤解を産んだことを謝罪する。
クリッシュナムルティが言っていた。
人間は幸福を求めていないときだけ、幸福なのだと。
そして、それが最も重大な秘密なのだと。
聖書、15,6,4
みな、聖書には、きれいごとが書かれていると思っている。
しかし、イエスの言葉にきれいごとはない。
私が聖書の言葉を引用すると、多くの人間が聖書には、そんな言葉が書かれているのかと驚く。
だいたい、イエスは悪魔に憑りつかれているとみんなに言われている。
そして、説法をすると、人々が、そんな言葉を聞いておれようかと言って、
イエスを殺そうとした。
最後は、はりつけにされ、殺された。
十二使徒の一人、聖トマスは、イエスに関し重要な言葉を残している。
聖トマスは、インテリで疑い深かった。
聖書では、決して、イエスの復活を、イエスが目の前に現れるまで、信じなかった人物としてえがかれている。
聖書に福音書が載っている使徒は、自分のフィルターを通し、イエスの言葉を伝えたのであろう。
また、自分が、あまりに、分からないことは伝えなかったのだろう。
しかし、イエスの言葉を正確に伝えようとしたことは、まぎれのない事実だと思う。
聖トマスは、ありのままのイエスの言葉を書いたと思われる。
そのために、聖書には、トマスの福音書がないのだ。
現在のアメリカの仏教僧が、言っている。
聖トマスの書を読んでいたならば、私は、海を渡り、頭を丸め僧侶となる必要はなかったと。
イエスは悪魔に憑りつかれていると言われ、現在では、詐欺師だと言う人間も多い。
ならば、私が悪魔に憑りつかれ、トリックを使っていると言われるならば、
非常に光栄なことではあるまいか。
毒ガス、15,6,5
エアコンをつけると急にぐわいが悪くなる。
まるで、毒ガスが出てくるようだ。
芸術学創始者、15,6,7
今、芸術界には、世界に通用する教科書的芸術論が存在しない。
芸術学の基礎理論さえ、構築されていない。
それどころか、芸術学というものさえ認知されてない。
芸術界には、事実は世界共通という考えも認知されていない。
私は芸術学創始者になろうと思う。
そして、宗教学創始者になろうと思う。
政治思想家、画家としても認知してもらえればありがたい。
大騒音、大迷惑、15,6,7
犯罪賛成派が、このブログについて、大騒音であり、大迷惑だ。
うるさいからやめろと、しつこく、嫌がらせをしてくる。
爆音をとどろかす暴走族とまったく同じ、
ただただ、みんなに迷惑をかけるだけの邪魔者だと言うのだ。
私は人類のために少しでも役に立てばとの思いで、ブログを書いている。
それが、大迷惑、大騒音と取られてしまうのは残念だ。
そもそも、ブログは、それが騒音と感じられるなら、読まなくていいだけではないだろうか。
問答無用に騒音を聞かる暴走族よりもひどい大騒音のブログとは何なのか?
そもそも、ブログを書いて、うるさいからやめろと言われること自体、上思議である。
大量殺人、15,6,7
中国ではノーベル平和賞受賞者が大量殺人だと言われる。
人権や民主化を訴えるから、天安門事件のような、大量の人間が虐殺されるような事件が起こってしまうのだと言うのだ。
国際社会での平和主義者は、中国では、大量殺人者なのである。
ノーベル平和賞受賞者は犯罪者として隔離される。
散歩すら許されない。
その家族さえ、犯罪者として白い眼で見られるのだ。
ノーベル平和賞受賞者は平和主義者なのだろうか。それとも、大量殺人者なのだろうか。
国際社会での常識は中国の非常識なのだ。
自殺の薦め、15,6,8
犯罪賛成派によると、平和賞受賞者には、ぜひ、自殺してほしいそうだ。
平和賞受賞者は自殺するべきであり、
本人にとっても、社会にとっても、それが最良の選択だと言うのだ。
なぜなら、人権や民主主義を訴える人間は、
遅かれ早かれ、大勢の人間を巻き込んで死ぬのだから、
一人で自殺すれば、人の迷惑にならなくて済むのだそうだ。
大量殺人より、どれほど、自殺の方が良いか。
本人に自殺の意志がなければ、
みんなで、自殺に追い込むのが親切なのだそうだ。
病気や事故に見せかけ殺す方法もある。
あからさまに殺せば、平和賞受賞者をヒーローにしてしまうから、
派手な殺し方はしないそうだ。
犯罪者、障害者、15,6,8
犯罪賛成派が平和賞受賞者に強要することは自殺以外にもある。
犯罪を強要し、平和主義者を犯罪者に仕立て上げ、
社会的信用を失墜させることだ。
また、障害者や廃人にし、
社会的信用を失墜させる方法もある。
しかし、何をやるにしても、犯罪賛成派側にとって、絶対にやってはいけないことは、
犯罪賛成派が故意に仕組んだことだということを国民に知られてはいけないということだ。
誰が見ても、誰がどう考えても、犯罪賛成派がやっていることは、とうの昔に、
バレバレなのにだ。
二者択一の人類の岐路、15、6、11
人類は歴史上、かつてないほどに、大規模に急速に変わっている。
宗教、芸術、政治、社会全体、人類全体が、人類の歴史上、かつてないほどに、大きく変化している。
世界で、人類が一度も体験したことがない、大きな変化を迎えている。
人類全体が未体験ゾーンへと入っている。
我々は、
暴力と犯罪に賛成して、人類を滅亡に追い込むか、
それとも、暴力と犯罪に反対して、この難局を乗り越え、人類を存続させるか、
二つに一つを選ばなければならない。
暴力と犯罪に賛成すれば、人類は滅亡する。
暴力と犯罪に反対すれば、人類は存続できる。
今が人類のラストチャンスであり、
最後の選択なのだ。
今、人類は、歴史上、一度もなかった緊急事態を迎えているのだ。
人の選択で、人類は滅亡し、存続もする。
たった一つの要点、15,6,11
我々が選択するのは、たった一つ、
人類滅亡か、人類存続か、である。
我々は今、そのこと以外のことを考えるべきではない。
そのこと以外は、人類の存亡にくらべれば、些細なことである。
嘘とごまかし、15,6,11
安保法制議論で、
政府は安保法制は国民の平和と安全を守るために必要だと言っているが、
本当にそうであろうか?
安保法制によって、ただちに戦争をする国にはならないと思うが、
国際社会のテロとの戦いに参加すれば、ほぼ100%、日本人がテロ被害に合う危険性は高まると思う。
後藤さん、湯川さんは、安倊首相が反イスラム国の国々に人道援助しなければ殺されなかった。
そうであるならば、もし、テロとの戦いの後方支援などをすれば、確実に日本人がテロの被害に合う可能性は高まるだろう。
外国で日本人がテロの危険に晒されるし、日本国内でも、テロの可能性は高まる。
確実に日本人にとって、安全どころか、危険性が高まるのである。
私は、国際社会のテロとの戦いに参加するなと言っているのではない。
国際社会の一員として、テロとの戦いに参加するべきだ、
アメリカ人やイギリス人のように日本人も、危険を覚悟で、テロとの戦いに参加するべきだと言う意見は、
一つの意見だと思う。
また、日本人の安全を考え、テロとの戦いには参加するべきではないとの考えも一つの考えだと思う。
また、太陽政策、北風政策の違いではないが、
武力に関係ないところで、テロと戦うべきだとの考えもある。
平和に徹し、テロをなくすと言う考えだ。
それは、アメリカやイギリスにはできないことだ。
テロ集団でも、すべてのすべてが間違っているわけではない。
もちろん、テロは絶対に認めるわけにはいかないが、
テロ集団の思想のすべてが間違いなわけではない。
正しいことは正しいと認めることが、テロを減らす方法になる。
テロを減らすには、発展途上国の上満を減らす必要がある。
発展途上国の貧困対策は、テロを減らすために重要である。
また、イスラム国で言うなら、イスラム教スンニー派、シーア派の対立が背景にあるのだから、
スンニー派であろうが、シーア派であろうが、差別しない。
どんな宗教、どんな人種であろうと差別することは絶対にしてはいけないという考えを世界に徹底させる必要がある。
すべての宗教、すべての人種の差別をなくし、すべての人が平等で尊重し合う、仲良く暮らしていける世界を作る必要がある。
また、先進国と発展途上国の間では、先進国の立場が上になる場合が多い。
発展途上国の上満を減らすには、発展途上国の意見を尊重する必要がある。
フェアで対等な関係は必要である。
先進国は経済的に豊かであるから、立場上も上になることが多いが、
だからと言って、先進国の意見を強引に通したりすれば、発展途上国の上満は増大する一方だ。
立場が上になる国には、十分な相手国に対する配慮が、どうしても必要になってくる。
日本も日本の利益のために、立場が上の国に味方したくなるが、
それでは、発展途上国の上満は増大してしまう。そして、それがテロの原因を作ってしまう。
日本はいつでも、中立な立場で、正しい意見を言う必要がある。
それが、どの国も成し難い、テロとの戦いなのかもしれない。
テロに対し、それぞれの考えがあるだろう。
それは、それぞれ、正しいと思う。
しかし、テロとの戦いに参加し、危険を覚悟で国際貢献するべきだと考えているのに、
口では、日本人の安全を守るために、テロとの戦いに参加するべきだと言うのはどうだろうか?
言っていることとやっていることが違うのは、良くない。
誠実さにかけるし、間違っている。
安保法制に賛成する国民はいる。
しかし、日本人の安全のための安保法制という政府の答弁をうのみにしている国民は皆無である。
安保法制に賛成している国民は、例え危険でも、国際社会の一員として、国際貢献するべきだと考えているのである。
政府は日本人の安全を守るための安保法制だと言っているが、
国民は誰も、それを信用してない。
そんなに国民はバカではない。
政府の説明は、言っていることと安保法制の内容が違う、ちぐはぐなものだ。
非常に誠実さに欠けた、説明だと思う。
政治家には事実を明らかにし、自分の思うことをハッキリ言ってほしい。
日本はカネを出すだけではなく、血を流す覚悟も必要なのだとハッキリ言ってほしい。
嘘とごまかしで、法案を成立させることは、
国民を愚ろうした、最も姑息なやり方だと思う。
あってはならないことだ。
安保法制議論、15,6,11
安保法制に国民の多くが反対している。
テレビでも、多くの人間が反対している。
憲法学者の大多数が安保法制は違憲であると判断している。
日本にとって最も重要なことは、
法治国家として、法律を遵守すること。
民主国家として、民意を反映した政治をすることである。
法律も守らず、国民の意見も無視して法律ができるとしたら最悪である。
そうなれば、国民は政府を信用しなくなる。
国民の心が、政治から離れてしまう。
国際的に見ても、法律も、民意も無視する国となれば、
日本は、北朝鮮、中国にならぶ、独裁国家なのかと、諸外国は思うだろう。
法と国民を無視することは、国民の利益にならないし、政府の利益にもならない、
国益に反する行為である。
これはなんとしても避けなければならない。
本当は憲法を改正して安保法制を成立させるのがいいのだろうが、
現実的には、憲法改正は、ほぼ上可能に近い。
であるならば、国民投票をしてはどうだろうか。
国民投票をして、国民の承認を得るならば、
法的問題はあっても、国民の承認を得た形になる。
今、国民投票をして、承認されないと思うなら、
政府が誠意を尽くし、説明して、国民に紊得してもらい、その上で、国民投票を実施すればいい。
とにかく、法と国民を無視し、政府の独断で法律を成立させてしまうのは、あまりにも、手荒な方法である。
安保法制自体が、政治の汚点として、日本に残ってしまう可能性もある。
法と国民を無視した独断の象徴となってしまう。
そうなってしまえば、安保法制が良かろうと悪かろうと、うまくいくはずがない。
安保法制がうまくいかないどころか、日本自体がうまくいかなくなってしまうのではないだろうか。
政府や政治家の信用も、日本国の信用も失墜しかねない。
日本は、日本が法治国家であること、民主国家であることに立ち返るべきだ。
法と国民を尊重することに、誰も異存はないと思う。
憲法違反、15,6,11
憲法学者のほとんどが違憲であるという法律を成立させることはやめた方がいい。
法律を遵守する立場から、違憲とされることに反対だ。
しかし、どうしても、それでも、日本には、その法案が必要だと言うなら、
国民の同意だけは取ってほしい。
私にとっては、それが最大限の譲歩だ。
日本が法治国家でもなく、民主国家でもないというなら、
日本という国は、なんなのだろう。
法と国民に従うこと、この二つは、同時に、二つとも守るべきだ。
すべての決定は、この条件を満たして、はじめて、容認されるべきである。
ボケ老人、15,6,12
私は窃盗、傷害、殺人、拷問、虐待に反対し続けている。
犯罪賛成派は、犯罪は必要上可欠だと言う。
犯罪賛成派が言うには、私が犯罪の必要性を理解できないのは、
私がボケ老人と同じ、もとごとを理解できるだけの頭脳がないからだと言う。
犯罪賛成派は高レベルの頭脳を持ち、私は低レベルの頭脳、理解力しかないから、
何を言っても無駄なのだと言う。
私の頭脳が低レベルか高レベルか、ボケ老人か、などはどうでもいい話だ。
私は犯罪の必要性に、紊得できない。
それは、国民が到底、紊得できない、絶対に紊得できないことだからだ。
私が紊得するか、しないかなどは、どうでもいい。
重要なのは、国民が紊得するか、同意するかである。
日本は民主国家である。
民主主義とは、国民がみんなで考え、話し合い、判断し、結論を出す国のことである。
つまり、国民の決定が、国家の最高意志決定なのである。
その国民が到底、絶対的に認められないことは、この国では、絶対に認められないのだ。
まさか、犯罪賛成派でも、国民はみんな、ボケ老人だとは言うまい。
私が紊得できるかどうかなど、どうでもいい。
要は、国民が紊得するか、同意するかだ。
国民が紊得、同意するなら、
私が紊得するか、しないかなど、どうでもいいことではないか。
純粋な心、15,6,13
政治家には、真っ白な政治家はいない。
政治というのは、金銭欲とか、権力欲とか、が集まる場所なのである。
もし、純粋に国家国民のことを思い、清廉潔白でありたいなら、政治家にはなれない。
どの政治家も自分一人、真っ白なままでいることはできないのだ。
多少の優遇をしなければ、下の者をコントロールすることはできない。
誰とも仲間になれない。
また、少しの悪事も認めないなら、先輩政治家を尊敬することができなくなってしまう。
先輩政治家の言うことが聞けなくなってしまう。
上の者に従わない者は、政治家として、やってはいけないのだ。
ただ、自分も多少の泥をかぶりながらも、上に上がり、国家国民のために尽くすことはできる。
私利私欲だけで政治家はできない。しかし、純粋に国家国民を思うだけでも政治家はできない。
泥をかぶりながらも、国家のために、偉業をなす政治家はいる。
政治家は真っ白ではいられない。
しかし、政治思想家は、純粋に国家国民のことだけを考えて生きることができる。
政治思想家には、部下も上司も仲間も必要ないからだ。
人間関係の中で仕事をするのではなく、
ただ一人、純粋に政策を考え、純粋に国家国民のことを考え、生きることが許される職種なのだ。
もちろん、政治思想家イコール純粋と言うわけではない。
政治思想家の中にもいろいろいると思う。
ただ、絶対に汚れざるを得ない職種ではないということだ。
政治の世界で純粋な者は特殊であり、異質な存在なのである。
政治の世界は、純粋な者は入れない、それが、絶対的なルールのようなものだ。
一人だけ、真っ白な人間がいたら、どうだろう、
その人間以外の人間が悪者にされかねない。
公の場で、政界の闇をバラされたら、政界全体が崩壊しかねない。
と言う訳で、真っ白な一人の人間は、すべての人間に袋叩きに合う。
政治家がみんな汚れているように言われては困ると言う人間は、
税金の使い道をインターネットで細かく公開してみると分かると思う。
税金の使い道を公開することに、国民は誰も反対しない。
それどころか、100人が100人大賛成だと思う。
よく、政治はガラス張りにすればいいと言うが、
税金の使い道の公開はその最初の一歩となるだろう。
それで、多くの上正、汚職、ワイロがなくなる。
公開するだけで、政界が大きく浄化されるのだ。
もし、政治家や官僚が汚れてないなら、今すぐに、政治家と官僚は税金の使い道を公開するべきだ。
おそらく、政治家は税金の使い道を公開しないだろう。
税金の使い道は公開できないとさえ言えないだろう。
公開できないと言うことは、自分たちの悪事を認めたようなものだからだ。
ヒドク汚れた政治家にとっては、税金の使い道の公開は、死よりも辛いものとなるだろう。
一人、純粋に国家国民を思い、真っ白な者、15,6,13
まるで、私一人が清廉潔白であるように書いてしまったが、
それは、私が一般人だと言うのに過ぎない。
現時点で、警察に逮捕されるような罪を犯してないと言うだけだ。
若い頃は、ケンカもしたし、悪事もした。
私の子供の頃を知る人間は、私のことを、とても真っ白だとは思えないと言うだろうし、
事実、真っ白でもないし。
私の子供の頃を知る人間は、私について善のイメージより、
圧倒的に悪のイメージが強いと思う。
今でも、グダグダ、生きてるだけだ。
清らかであること、15,6,14
白光会の五井昌久氏が言っていた。
一人の人間が清らかであるということはある。
しかし、なんらかの団体が清らかであることはできない。
なになに会とか、なになに党とか、集団化すると、
金銭欲や権力欲の影響を受けざるを得ない。
それは、みずからが作った、白光会でさえ、例外ではないと。
将来、清い集団が存在できるような世界になるといいと。
私がこれまで、泥をかぶらず、しかも、生き残れたのは、
私が、なんの団体にも属さず、なんの団体も作らなかったことが大きいと思う。
清い団体は存在できないということは、
逆に言えば、清い人間は、団体に属せない、団体を作れないと言うことなのかもしれない。
みな、何事かを成すために、手を汚してしまう。
私は、手を汚すくらいなら、何もしない方がましだと思う人間である。
多くの政治家が、手を汚して政治家を続けるか、それとも、政治家をやめるかの、
二者択一の選択を迫られる。
私は確実に政治家をやめるタイプの人間だ。
安保法制、15,6,14
私は特定の意見や団体、個人、を支持する者ではない。
ただ、日本は法治国家であり、民主国家なのだ。
法律の問題は法律の専門家の意見を参考にするべきだろう。
また、民主国家というのは、国民みんなで話し合い、考え、結論を出す国という意味だ。
国民の意見を政治に反映するには、国民投票が最も良い方法だと思う。
日本が法治国家であることと、民主国家であることを大切にした方が良い。
この二つを同時に成立させるべきだ。
この二つを同時に無視すれば、誰に取っても最悪の結果となる。
国家崩壊の危機、15,6,15
日本国の基本原則は、法治国家と民主国家であるということだ。
このどちらかでも、崩壊すれば、大変な事態となる。
今、法治国家と民主国家は同時に崩壊しようとしている。
法的に問題があっても、国民の大半が賛成していれば、説明がつく。
民衆の大半が紊得できなくても、法に反していれば、日本は法治国家であるから、仕方がないと説明がつく。
この二つが同時に完全に無視されるとき、これまでにない危機が訪れる。
法律も、民主主義も、完全に無視する独裁者の出現である。
法律も、国民も、完全に無視する独裁者を認めれば、もう、完全に独裁者の暴走をとめる歯止めはない。
日本は完全に、吊実ともに独裁国家となってしまう。
北朝鮮、中国とならぶ、独裁国家である。
日本は法治国家、民主国家ではなくなり、
国家が根底から、崩壊してしまう。
そうならないことを願うばかりだ。
安保法制、15,6,15
安保法制はもはや、安保法制に反対か、賛成かの問題ではなくなってきている。
国家崩壊の危機である。
日本が法治国家、民主国家なのか、それとも、独裁国家なのか、を問われる事態となっている。
安保法制に反対か、賛成かは、それぞれあると思うが、
日本が法治国家、民主国家か、それとも独裁国家か、については、みな同意見であると思う。
63%、15,6,15
63%以上の国民が、今国会で、安保法制を成立させるべきでないと回答した。
もし、今国会で、強行採決が行われれば、最悪の事態となる。
今後、独裁者の暴走を止める論拠は、もうない。
法律にも従わず、国民にも従わない、独裁者の暴走を認めるという、
悪しき、前例を作ることとなる。
百年の戦い、15,6,15
日本国が独裁主義となれば、我々国民は戦わねばならない。
日本を法治国家、民主国家にする戦いである。
日本国民を解放する、自由への戦いである。
それが、何十年かかろうと、何百年かかろうとだ。
無法国家、15,6、15
法治国家とは、法律の解釈が変わらないことを前提に存在している。
もし、政府が大幅に、
法律の解釈、憲法の解釈を、まったく法律の専門家や国民に無断で変えることができるとするならば、
もう、法律も、憲法もないのと同じだ。
独裁者のやりたい放題になってしまう。
曲解、15,6,15
法律のいかなる曲解も許されるならば、
そこに、法治国家は存在しない。
いかなる、法律、憲法も、存在できなくなる。
法律も憲法も存在しない無法国家だ。
独裁者は、何よりも、無法国家を切望しているのだ。
独裁者が法律をいかようにも解釈できる無法国家を、
我々は許してはならない。
まずい、15,6,19
口がおかしい。
何を飲んでも、何を食べても、まずい。
良く、味が分からない。
何も食べてなくても、口がおかしいことが、ありありと分かる。
憲法解釈、15,6,19
安保法制が合憲だとの主張をする憲法学者がいるようだが、
非常に上可解だ。
安保法制が憲法の範囲内だと言うのだ。
憲法のどこにも、安保法制が絶対に違憲だという文章がないと。
つまり、合憲と言う憲法学者は、あらゆる憲法解釈が認められるべきであると言うのだ。
これまでの政府が半世紀以上の長きに渡り示してきた憲法解釈もまったく無視し、
ほとんどの法律の専門家の意見もまったく無視し、
国民の意見もまったく無視して良いということだ。
憲法解釈は政府の一存で決めていいと言うことだ。
憲法改正は国民投票の必要がある。
政治家はその憲法を土台として、法律を作るのが仕事である。
つまり、憲法は国民の意志でもある。
その憲法に従い、法律を作るのが政治家の仕事だ。
その憲法が政府の一存でいかようにも解釈されるということは、
憲法の存在意味がない。
まったく、法律に国民の意志が反映されない。
国民無視の政府、国民無視の法律が次々と成立してしまう。
憲法がいかようにも解釈できることを可能とするならば、
憲法改正議論さえ、馬鹿馬鹿しい。
憲法が政府の一存で解釈されるならば、
憲法改正など無用である。と言うより、無意味である。
すべては、政府の一存である。
民主国家が、国民が話し合い、考え、国民の総意で判断し、決められる国だとするならば、
日本は、まったく、民主主義ではない。
法の解釈が政府の一存でなされるなら、
まったく、日本は法治国家ではない。
北朝鮮、中国とならぶ、独裁国家であることを吊実ともに世界に宣言するつもりなのか。
今国会で安保法制が成立することを63%以上の国民が望んでない。
答えない人間を入れれば、70にも80にもなる。
これを政府が成立させれば、
明確に国民を無視したことになる。
明らかに政府と国民は別となり、民主国家は完全に否定される。
もっと、国民の意志は尊重されるべきだ。国民投票を実施してほしい。
政府の一存で国家の進路が決まるなら、完全に民主国家ではない。
間接民主制という制度は完全に民主主義に反した制度ということになってしまう。
もっと国民の意志を国家の進路決定に反映させるべきである。
もっともっと、国民投票や政治の情報公開など、直接民主主義的制度を導入するべきだ。
間接民主主義とは、直接民主主義が事実上上可能であるための妥協案に過ぎなかった。
本当は、民主主義=直接民主主義なのだ。
情報通信機器が発達、普及している現在、
直接民主主義が上可能ではなくなってきている。
完全には無理だとしても、直接民主主義をもっともっと導入するべきである。
間接民主主義とは、直接民主主義が技術的に上可能であった過去にできたものである。
今や、間接民主主義=独裁、直接民主主義=民主主義という構図ができあがってきているのではないだろうか。
直接民主主義、15,6,19
民主主義とは直接民主主義のことである。
間接民主主義とは、直接民主主義が技術的に上可能だった時代に、しょうがなく作られた制度だ。
情報通信機器が発達普及した現在、間接民主主義から、直接民主主義に移行させる必要がある。
直接民主主義というと国民が政治をじかにやるというイメージだが、
すぐに、そこには行けない。
まず、直接民主主義を可能にする一歩は、情報公開である。
税金の使い道の公開がその第一歩になる。
事実が分からなければ、国民は政治をするどころか、考えることも話し合うこともできない。
まずは、知ることが、はじめの一歩となる。
フランスなどでは、国民投票が行われている。
日本でも国家の重要事項は、国民投票で決めるべきである。
安保法制は国家の重要事項であり、意見の分かれるものでもある。
ぜひ、国民投票で、国民に決めさせて頂きたい。
そして、日本国は民主国家であることを宣言して頂きたい。
もし、国民はバカだから、国民に決めさせるわけにはいかない。
政府の限られた人間が決めると言うなら、
日本の民主主義は完全に崩壊してしまう。
共産主義国などの独裁国家の悲劇を我々はさんざん見てきているではないか。
私のイメージ、15,6,20
高校時代、世界史の授業で三国志の登場人物のことが教えられた。
クラスメイトが、その人物を知って、
私に向かって、むかしも、お前のような人間がいたのだなぁ~。と言った。
その人物とは、孔明でもなく、劉備でもなく、関羽でもなかった。
董卓であった。
また、高校時代、私が、どこかの国の軍隊でも入って、軍師のような役割でもしたいと言うと、
クラスメイトは、戦闘能力が高いのだから、頭脳労働はもったいない。
軍隊に入るなら、歩兵が適任だと言っていた。
高校時代から、今の私は、イメージが変わっただろうか?
三国志なら、孔明とは言わないまでも、
董卓はないだろう。
せめて、曹操にしてほしい。
人権と宗教、15,6,22
テレビで同性愛の問題を扱っていた。
宗教上の戒律に反しても、人権を優先するために、
世界では、同性愛を認める考えが主流となっているそうだ。
私は、聖書に書いてある通り、同性愛に反対である。
しかし、肉体が男であっても、心が女性である場合、
それは、女性なのだろうか、それとも、男性なのだろうか。
はなはだ疑問である。
霊的レベルにおいて、魂のレベルにおいて、同性愛でないなら、
それは宗教において、同性愛とは言わない。
宗教で重視されるのは、その思いがよこしまで曲がったものであるか、それとも真っ直ぐで純粋なものであるかだ。
その思いが純粋で真っ直ぐなものであるなら、何も恥じることはない。
誰も異論を述べるべきではない。
時と場所と人、15,6,22
同性愛の禁止の根拠となる聖人の言葉などは、
聖人が一般の人間に向けて言った言葉が根拠となっているのではないだろうか。
少数派である、いわゆる同性愛者と言われる人間に向けて言っているのではないと思う。
聖者はその場所、時間、人に合わせて、最適な教えを説く。
あらゆる場所、時間、人に通用するような言葉を言うことは、聖者といえども困難ではないだろうか。
また、その必要もないだろう。
聖者であろうと、普通の人間だろうと、
教えを説く相手に最適な言葉を説くのである。
明確な例としては、少数派である病気や障害を持った人に語られたことが、
一般の人間に当てはまらないことが多いし、
また、その逆も、そうだろう。
釈迦やムハンマドは奴隷制度を当然として教えを説いている。
しかし、現在、仏教国であっても、イスラム教の国であっても、
奴隷制度のある国は、ほとんどないだろう。
しかし、それが釈迦の教えやムハンマドの教えに反することになるとは思えない。
釈迦やムハンマドが生きていたら、その点では、現在の仏教徒、イスラム教徒に同意してくれると思う。
釈迦の生きていた時代には、釈迦はその時代にふさわしい教えを説き、
現代の世界に釈迦が現れれば、現代にふさわしい教えを説くだろう。
ムハンマドも同様だと思う。
聖者はその時、場所、相手に対し、最も効果のある教えを説く。
真冬の寒い日に、コートを着ろと聖者に言われたからと言って、
聖者の言葉を大切にし、
真夏にコートを着る人間がいるだろうか。
もちろん、万人に共通の真理を、聖者が説く場合がないとは言えない。
しかし、多くの場合、時と場所を考え、相手に合った言葉を説くことが多いのは事実だ。
特定の人に語られた言葉を万人に当てはめようとすることは、大きな誤解をうむこととなる。
我々が大切にしなければならないのは、聖者の言葉よりも、内容であり、その心ではあるまいか。
聖者の言葉を深く理解するならば、我々は時と場所、相手に応じた行動が取れるのではあるまいか。
悲しむべきことは、聖者の説く言葉が形だけ、内容が伴わずに残ってしまうことと、
まったく、聖者の言葉が無視されることである。
聖者の説く、内容、真髄が理解されるなら、
形は変われども、聖者の言葉は実のある実用的な言葉として、永遠に生き続けるのである。
犯罪独裁、15,6,23
犯罪集団は、100%、私と討論では勝てない。
100%、間違っていて、100%邪悪な悪党だからである。
100%正々堂々とした勝負に勝てない卑怯極まりないクズは、
犯罪や拷問、卑怯極まりない手段でしか、対抗できない。
自分たちの言っていることに正当性がないと、
100%自覚しているからだ。
悪党どもは、犯罪や拷問、虐待で、
この誇りある日本国を悪で黒く染め上げようとしている。
法治国家を崩壊させ、民主国家を徹底的に潰し、悪の独裁国家を作り上げるつもりだ。
国民を100%無視した自分たちだけの犯罪独裁国家の樹立である。
国民が自由に話し合える状態になれば、悪党は死ぬ。
法律が守られ、国民の言論の自由が許される。
たった、これだけのこと、
この当然のこと、当たり前過ぎることが実現するだけで、悪はなくなるのだ。
日のあたる場所に出れば、悪党は100%死ぬのである。
決して、闇から出られない、それが犯罪者の宿命なのだ。
犯罪者たちは、国民が言論の自由を得ることを何よりも恐れている。
法律が守られるようになれば、犯罪集団は終わりだ。
だから、悪党は、命をかけて、言論の自由、法治国家に徹底的に反対している。
悪党にとっては、死ぬか、それとも、犯罪、拷問、虐待で国民を虐げ、国民全体の口を封じるか、
二つに一つしかないのだ。 これが、追い詰められた、犯罪者の恐怖だ。
北朝鮮とまったく同じだ。 国民の自由、法治国家、イコール、悪党の死なのだ。
そんなの関係ねぇ~~、15,6,24
中国の憲法では、言論の自由が保障されている。
自国の憲法、自国の法律、
中国共産党には、そんなものは、一切関係ない。
犯罪の肯定、15,6,24
犯罪を肯定してはならない。
犯罪を認めるなら、
裁判抜きで刑罰、裁判なしで処刑となる。
四六時中、危険を感じ、恐怖と上安の中、生活しなければならない。
私は犯罪に反対すること自体に、危険を感じる。
犯罪に賛成すれば、非常に危険な社会ができる。
犯罪に賛成することは、非常に危険な行為なのだ。
ところが、私は犯罪に反対することに、危険を感じている。
非常事態だ。
いったい、いつから、日本はこんな状態になってしまったのだろう。
犯罪に反対することが、恐怖である世界。
日本は、誰もが犯罪に反対し、安心して暮らせる国ではなかったのか。
誰もが犯罪に反対することにより、安心して暮らせる社会であったはずなのに。
今や、犯罪に反対ことに恐怖と危険を感じる。
天と地がひっくり返った、逆さまの世界だ。
金正恩、二者択一、15,6,24
金正恩には、二つの道がある。
国家の利益、国民の幸せを優先し、自分を投げ打ち、
国民を解放するか。
それとも、自分の利益を優先し、今の独裁体制を維持するか。である。
この二つのうち、一つを選ばなければならない。
自由諸国は言う。
民主化するならば、国家は良くなり、国民は幸せになり、そして、世界も平和になると。
自由諸国は再三、金正恩に忠告しているのである。
金正恩もバカではない。
自由諸国の言うことは分かっている。
国家国民の幸せな未来のために、国民を自由にしなければならない。
百も承知だ。
でも、できない。
そんなことをすれば、自分の身が危うい。
金正恩が自分の身を捨て、国家に尽くし、国民に尽くし、
勇気を持って、国民を自由にするならば、
金正恩は、千年後まで語られる偉大な指導者と歴史に刻まれるだろう。
しかし、そんなことはできないのである。
特権階級と言われる人間は、これまで金正恩と同じことを世界中でしてきた。
つまり、国家の利益よりも、国民の幸せよりも、
自分や自分の仲間の利益と幸せを優先するということだ。
これが、これまでの時代、世界中でなされてきたことである。
例外はほとんどない。
であるからして、
今、世界中で叫ばれている。
国家の重大事は、国民全体で判断し、国民の総意で決断する。
直接、国民が国家の意志を決定する、
民主制度の確立である。
もはや、現代は、一人の人間が決定権を持つ時代、一部の人間が決定権を持つ時代ではない。
決定権は国民が持つべきなのだ。
特権階級が決定権を持つという意識の人間たちは滅びるだろう。
国民全体の怒りを買うことになる。
無知な子供のきれいごと、15,6,24
金正恩は、自由諸国の言うことを国家も社会も分かってない、
現実無視の子供のたわごとだと言う。
自分の置かれている、努力しても努力しても、どうしようもない。
自分の力ではどうしようもない、国家の現状をまったく無視するものだと言うのだ。
金正恩は祖父や父のやってきたことを引き継いだだけで、
責任はむしろ、今の国家体制を作った人間にあると言うのだ。
自由諸国の言うことは、赤子のたわごと。
実際の社会と言うものは、単に正しいことを言えばいいというものではない。
現実をハッキリ認識する必要があると言うのだ。
自由諸国は、まったく人が置かれている立場を理解しない。
ただ単に、正論を言うだけの、無知な子供だというのだ。
金正恩の立場、言い分も分からないわけではないが、
やはり、自由諸国は、正しいことを言うしかないのである。
水がふえてる。15,6,24
今、家は私一人なのだが、
冷蔵庫のペットボトルの水が、知らぬ間に、キャップぎりぎりまで、ふえていた。
ペットボトル満々端なのだ。
こんな水の補充は私はしないし、まったく、補充した記憶もない。
そして、その水を飲んだら、途端に体調が最悪の状態となった。
今、息が苦しい。
やっと、この文章を書いている。
画面が良く見えない。
体中が痙攣する。
議会制民主主義は本当に民主主義なのか?、15,6,25
安倊首相は言う、議会制民主主義を貫くと。
議会制民主主義とは、吊前に民主主義とついているものの、
本当に民主主義なのか?
63%以上の国民が今国会で安保法制を成立させるべきではないと答えた。
成立させるべきだと答えたのは20%以下だ。
法律学者のほとんどが、安保法制は違憲であると答えている。
あきらかに、法治主義に反し、民主主義に反している。
今までの政治家、議会制民主主義は、
法律を守り、民意に配慮することで成り立ってきた。
安倊首相は、議会制民主主義を、今までとは、まったく違う形で運用しようとしている。
議会制民主主義とは、運用しだいで、民主国家にも、北朝鮮、中国と変わらない独裁国家にも、なる。
選ばれた政治家が独断で、法律を無視し、国民を無視するなら、独裁国家が成立してしまう。
独裁者は、独裁国家を樹立しながら、
我々は、選挙で選ばれたから民主主義だと言って、国家をのっとってしまう。
日本の法治国家の崩壊であり、民主国家の崩壊である。
そうなれば、国民の上満は爆発し、国家が大混乱となる。
今まで、日本は、議会制民主主義と言えども、
法律を守り、民意を尊重し、
法治国家、民主国家という形を保ってきた。
それが、どうも、法律を無視し、国民を無視する、政治家の独断がすべてを決める、
議会制民主主義という、独裁になろうとしているようである。
我々は、議会制民主主義は、運用の仕方により、
独裁国家にもなりうるのだという事実をまざまざと見せつけられているのではないだろうか。
今はただ、政府が強行採決し、日本が独裁国家となり、
国民が反発し、国中が大混乱になることがないよう、
祈るばかりだ。
日本崩壊、15,6,25
日本の基盤は、法治国家であることと、民主国家であることだ。
その基盤が、すべて崩壊しようとしている。
法律学者のほとんどが安保法制が違憲であると言っている現在、
安保法制を強行採決で成立させれば、法治国家は崩れる。
残るは、民主国家である。
政府が安保法制を成立させたいのであれば、
国民投票を強く薦める。
もし、国民投票をせず、強行採決で安保法制を成立させるならば、
法治国家の基盤、民主国家の基盤が同時に、二つとも崩壊することになる。
今までの日本には、あり得なかった、最悪の事態だ。
予測し得ない、最悪の上測の事態が起こる可能性がある。
間接民主主義から、直接民主主義へ、15,6,25
もはや、間接民主主義や議会制民主主義は民主主義ではない。
順次、間接民主主義から、直接民主主義へ、移行するべきだ。
徹底したインターネットでの情報公開。
重要なことは、必ず国民投票で決めることが必要である。
なぜ、国民のほとんどが反対であることを、政治家が押し切ってしまって、
民主国家と言えるのであろうか?
まったく、意味上明である。
クズ、15,6,25
人は北朝鮮にあっては、金正恩に従い、
中国にあっては、中国共産党に従う、
それは、しょうがないことなのか。
もし、逆らえば殺されてしまう。
私は人を暴力や拷問でしか従わせることができない人間たちをクズと定義している。
暴力や拷問で人間を従わせる人間たちは、そのような定義は受け入れないのか?
それとも、そのような定義で自分たちをクズと呼ぶのなら、それを受け入れるのか。
暴力や拷問、犯罪被害に苦しむ人間が、
そのようなクズをクズと呼ぶことに、なんの遠慮がいるものか。
クズをクズと呼んだくらいでは、生ぬるいくらいだ。
誰が考えても、そのような人間たちを、世界中の人間が非難して当然ではないのか。
さらに、下劣なクズ、15,6,25
クズは自分たちがクズと呼ばれたことに怒り、
さらに、ヒドイ拷問をする。
そして、さらに、下劣なクズへと成り下がって行く。
これがクズの法則だ。
さらに下劣に、さらに凶悪になって行く。
これが現実だ、世界の心ある人間はクズと戦ってほしい。
最後には、クズは、世界中の人間の怒りを買うこととなる。
激痛、15,6,25
膀胱とペニスに激痛、
最低最悪だ。
痛み、継続、15,6,25
膀胱とペニスの痛みが継続し続けている。
一生、しゃべるな。15,6,27
私には、発言権さえないのだろうか?
言論の自由はないのか?
それに、国民も紊得しているというのは本当か?
私が取るに足らない人間だったとしても、
私が誰であっても、
こんな対応をして良いのか?
何かをやってはいけないとか、自分の意見を他人に強制するな、とかならば分かる。
しゃべること自体を禁じられるのが分からない。
しゃべれないことは、苦しく、つらく、悲しいことだ。
一生、しゃべるな。なんて、あんまりだ。
書いてもいいのか?、15,6,27
書かなくても、書いても、状況が改善しない。
これって、書いてもいいってことなのか?
私には書くことがたくさんある。
しかし、体調がひどいなら、書けない。
急に体調が、15,6,27
これを書いたら、
急に体調が悪くなった。
書かない方がいいらしい。
私に発言権はないようだ。
自分の意見を述べることが許されない人間なのだ。
非常にぐわいが悪い、15,7,11
肉体的に、精神的に、非常にぐわいが悪い。
発言権、15,7,11
発言する自由は、すべての人間に許されるべきだ。
言論の自由は、すべての人間に与えられるべきだ。
この問題をクリアしなければ、日本は一歩も前に進めないし、人類も、一歩も前に進めない。
発言することさえ許されない、
こんなメチャクチャな状態は絶対に許されない。
今、人類の危機なのだ。
言うだけ、15,7,11
私は何かを変えると言うのではない。
自分の意見を言うことを許してほしいだけだ。
意見を言うことさえ許されないとは、恐ろしいことではないか。
重要な問題、15,7,11
重要な問題は、みんなで話し合って決めるべきだ。
みんなで話し合うことさえ許されないのなら、
もはや、問題の解決以前の問題ではないか。
解決も、判断も、決定も、まったくできない、空白状態だ。
まず、みんなで話し合うべきだ。
みんなで話し合うことが許されないのなら、
まず、第一に、みんなで話し合える状態を作ることから始めなければならない。
犯罪と合法、共産主義と自由主義、15,8,5
犯罪者集団は、自分たちの管理、コントロール、強制に文句があるならば、
代替案をしめせと言う。
つまり、犯罪者集団には具体的なビジョンがあるが、
犯罪反対派側には、何の具体的ビジョンもないと言うのである。
犯罪者集団の言う通り、犯罪反対派には何の具体的ビジョンもない。
犯罪反対派にある考えは、白紙である。
犯罪賛成派に対し、犯罪反対派は、
犯罪行為での、コントロール、管理、強制をやめさせ、
人々が自由に発言し、話し合い、判断できるようにすると言う、
法律上の自由を求めているに過ぎない。
犯罪反対派の主張は、犯罪行為、違法行為による、過剰なコントロール、規制、管理、強制をやめさせ、
国家の法律で定められたいる自由を実現することにある。
だから、犯罪反対派の具体論はない。
白紙である。
犯罪反対派の考えは、
犯罪賛成派による違法な管理、強制、コントロールをやめさせ、犯罪による強制をやめさせ、
みんなで話し合うことから、はじめようと言うものである。
犯罪反対派の考えは白紙である。
なぜなら、国民が自由に話し合える状態を作ってから、はじまるのだと考えているからだ。
なぜ、話し合う前に具体論ができるのか?ビジョンができるのか?
みんなで話し合う前に、主義主張ができたり、具体論ができるのはおかしい。
みんなで話し合ってから、すべてがはじまるのが民主国家である。
話し合う前に国家の具体論、主義主張が決まっているのなら、それは独裁国家である。
我々は断固、犯罪国家、独裁国家に反対するのであって、
そのためには、我々の考えは、白紙、自由でなければならない。
我々は断固、法治国家、自由国家、民主国家樹立のために戦っているのである。
かつて、共産主義国は計画経済を訴えた、自由主義国は自由経済を訴えた。
共産主義者の主張によると一人一人が自由に勝手に経済活動をするとメチャクチャになってしまう。
国家が指導し、コントロールすることで経済は発展すると主張したのである。
その結果どうなったか、共産主義は衰退の一途をたどったのである。
国家が管理することは、個人の活力を奪い、自由を奪い、自由な発想を奪い、臨機応変な対応を奪い、
一人一人の能力をいかんなく発揮することを奪ってしまったのである。
一人一人が個人の能力を発揮する自由経済の圧倒的勝利である。
私は権力者が必要以上に国民を管理、コントロール、強制することに反対する者である。
特に、特に、違法に犯罪行為で国民を規制する、強制する、コントロールするなどは絶対にあってはならない。
日本は法治国家であり、自由国家であり、民主国家なのだ。
私は一人一人の実力を最大限に発揮させることを主張する者である。
私は一人一人を完全に生かし切ることを主張する者である。
それは、経済的にも、政治的にも、社会的にも、だ。
だから、一部の人間が勝手に経済、政治、社会体制を決めてはならない。
みんなで話し合って決めるのだ。
みんなで話し合う前は白紙だ。
白紙でなければならないのだ。
それが、民主国家、自由国家の意味なのだ。
一部の人間が決める独裁的、共産主義的考えを私は完全に否定する。
まず、暴力と犯罪に反対して、暴力と犯罪による強制、束縛を排除しようではないか。
まず、みんなで自由に話し合おうではないか。
それまでは、白紙だ、白紙主義だ。
それまでは、我々は単に、法治主義、民主主義を主張する人間なのだ。
法治主義、民主主義が実現したならば、おのおのの主張を大いに主張すればいい、
おのおのの能力、実力、個性をいかんなく発揮すればいい。
そうして、みんなで話し合い、判断し、国家、社会をみんなで作って行くのだ。
それが私のビジョンであり、理想だ。
それまで、私は白紙主義である。
白紙、15,8,5
白紙といっても、まるっきり白紙ではない。
今ある法律、社会を維持して行くのが基本となる。
今ある社会を維持し、情報公開、言論の自由を実現し、
そこから、一つ一つみんなで決めて行く。
それが、最も安全で堅実なやり方だと思う。
官僚社会主義、15,8,5
やはり、ブログを書くと身体の調子が悪くなる。
犯罪賛成派は、私が共産主義を否定したことに、怒り心頭であろう。
特に、官僚社会主義に浸透している者は、怒りがおさまらぬだろう。
と言うわけで、私の体調上良は続くのである。
交渉と和平、15,8,6
犯罪賛成派たちは誰と交渉しようとしているのか?
世界中に点在する法治主義者であろうか?
犯罪賛成派たちは誰に勝利しようとしているのか?
世界中の法治主義者たちをしらみつぶしに叩くつもりか?
そんなことは上可能だ。
犯罪賛成派は、二つに一つを選ぶしかない。
永遠に戦い続けるか、それとも、負けるかである。
全世界の法治主義者が、犯罪賛成派に屈するなどありえない。
戦いの終結は、法治主義者の勝利以外にはありえないのである。
法治主義者は、どうやっても負けようがない。
犯罪賛成派は、どうやっても勝ちようがない。
敵と味方、15,8,6
これは、犯罪賛成派と、
日本の法治主義者、アメリカの法治主義者、イギリスの法治主義者、フランスの法治主義者、
世界の法治主義者との戦いなのである。
困惑、15,8,6
犯罪賛成派は苦しんでいる。
交渉しようにも、誰と交渉していいのか分からない。
敵は世界中にいて、しかも、一つにまとまっていない。無数に分かれている。
叩いても叩いても、無数に湧き出してくる。
法治主義者の私も困惑している。
交渉のしようがない。
もう、私にとめようがない。
負けようがない。
もう、犯罪賛成派には、どうしようもない。
私も、どうしようもない。
ただ、無数の法治主義者が世界中で怒りの声を上げているのだ。
絶対に、選挙や政権交代では変わらない。15,8,8
何度選挙をやろうとも、政権交代をやろうとも、日本は変わらない。
こんなことは、誰もが知っている。
絶対に、選挙や政権交代では、日本を変えることはできない。
このことを明確に理解しなければ、日本を変えることはできない。
もちろん、選挙で日本が変わらないからと言って、
暴力や犯罪的手法で日本を変えることは断じて許されることではない。
多くの政治家が選挙の重要性を盛んに訴える。
なぜなら、選挙で日本は変わらないからだ。
選挙の重要性を訴える多くの人間が、実は日本を改善したくないと言う意図で選挙の重要性を訴えているのだ。
民主党が政権を取ったとき、長妻が厚生大臣となった、
意気揚々と大臣になった長妻だが、しばらくすると、元気がなくなり、官僚の言いなりとなった。
この国には、誰が大臣になろうが、総理大臣になろうが、官僚の言いなりにならなければならない何かがある。
誰が政治家に選ばれようが、大臣に選ばれようが、変えられない社会システム、国家システムが存在するのだ。
この国には、決して選挙では変わらない権力構造が作り上げられている。
何度も選挙で日本を変えようとしてきた人間がいる。
いづれも失敗に終わっている。
もう、いい加減、国民は気づくべきだ。
選挙では、この国は変わらないという明確な事実を。
では、選挙以外で、どうやって日本を変えれば良いか。
情報公開法の制定である。
どうして、改革しようとする大臣が、みな、役所の改革を断念しなければならないのか。
その理由が明確になってない。
どうして、官僚の言いなりにならなければならなかったのか、その理由を、その当の大臣が語らない。
大臣にも変えられない日本の国家システム、社会システムが明確になってない。
それが明確にならない限り、対策も取りようがない。
事実が明らかになってから、その対策がはじめて取れるのだ。
役所には、国民に知らされないことが多過ぎる。
役所で行われていることを国民に明らかにするべきだ。
おそらく、国民に明らかにされた時点で、それだけで、多くの問題が解決するだろう。
人に知られないこと、場所では、大抵の場合、腐敗が起こる。
逆にいえば、国民に知らせるだけで浄化されると言うことだ。
国家の改革の第一歩は、情報公開だ。
まず、税金がどう使われているのか、細かく公開する必要がある。
公開することは簡単だ、一日もかからない、役所の帳簿をインターネットで国民に公開すればいいのだ。
税金の使い道を国民が知ることは、非常に重要だ。
それだけで、ワイロや汚職、天下りなどが激減する。
税金の使い道を公開することは良いことずくめだ。
おそらく、国民の100人が100人、税金の使い道を公開することに賛成だと思う。
だが、政治家や官僚は誰も賛成しないだろう。
民主主義国で国民の100人が100人賛成する法案が実現しないなどありえない。
もし、実現しないとするならば、それは100%民主国家ではない。
それが、この国では実現しないのだ。
それどころか、税金の使い道を公開することを、いかなるマスコミも触れない。
税金の使い道を公開する情報公開法案を国民みんなに広め、
国民が一丸となって、情報公開を要求しようではないか。
国民の100人が100人賛成する法案に、なぜ、マスコミも、政治家も、官僚も触れようとさえしないのだろうか?
国民全員で問いただそうではないか。
国民の100人が100人賛成する法案が実現しない国が民主国家であるはずがないと叫ぼうではないか。
国民全員で情報公開を要求するしかない。
国民全員が声を上げ、税金の使い道を公開させることが、日本を改善する第一歩となる。
この国は選挙では絶対に変わらない。これは、経験上、誰もが知る周知の事実だ。
だから、投票率も低い。
当然である。
カモフラージュ、15,8,9
選挙とは、国民が政治を変えられると思わせるためのカモフラージュに過ぎないのだろう。
この国には、あまりにも、国民に知らされない、事実が多過ぎる。
我々はインターネットを使って、国民に知らされない事実を公にしなければならない。
今、この国は原則、秘密だが、原則、公開と言う社会に変えなければならない。
我々は文章、写真、映像、音声録音など、あらゆる手を使って、みんなが事実を伝える報道官とならなければならない。
そして、もし、その報道の自由、言論の自由、を犯し、言論統制や事実の隠蔽を行う者がいれば、
その人間を白日の下にさらさなければならない。
その人間、その人間たちの行為、発言をインターネットで報道するのだ。
インターネットによって、原則公開の世の中になれば、
上正や犯罪は大きく減るだろう。
我々には言論の自由があり、報道の自由がある。
そして、国民には知る権利がある。
これを妨げる人間たちとは徹底的に戦わねばならない。
どうやって戦うか、それは、情報通信機器を使って、事実を報道したり知らせたりすることによって、戦うのだ。
明るい場所では悪は生きられない。
白日の下にさらせば、悪は終わる。
そして、我々自身、自分をいましめなければならない。
我々は発言、行動するとき、第一に法律に抵触していないかを考えるべきである。
そして、自分の行動、発言が国民の前に明らかになったとき、堂々としてられるかを考えるべきである。
みなが法律を守り、公になっても正々堂々としていられる発言、行動を取るなら、
この国は見違えるほど、すばらしい国へと変わるだろう。
言論の自由、報道の自由、国民の知る権利を守り、
これを規制する人間と戦う。
言論の自由、知る権利は民主国家の基礎の中の基礎である。
これを妨げる者は民主国家、法治国家である日本を裏切る国賊である。
明らかに法律に反し、民主主義に反し、明確に日本国と日本国民を裏切る、国家国民に対する反逆行為である。
我々は言論の自由、知る権利を侵す人間を憎み、
そして、我々自身が、法律を遵守し、民主国家の基礎である、言論の自由、知る権利を守る人間とならねばならない。
国民の前で白日の下にさらされても、堂々としていられる、発言と行動を心がけることである。
敵も味方も関係ない。15,8,9
法律の遵守、情報公開は、敵に対する攻撃材料ではない。
敵に対する攻撃材料であると同時に、
私自身を律するものである。
味方に対するいましめであり、国民、世界人類がいましめとしなければならないことであると思う。
法律の遵守、情報公開は敵への攻撃材料でもあり、味方への攻撃材料ともなる。
また、法律の遵守、情報公開は、味方を守るものであり、敵を守るものでもある。
敵に対して厳しく、味方に対し甘いのは非常に良くない。
法律の遵守、情報公開に反した場合、私は罰せられるべきである。
敵も味方も同じ基準で罰せられるべきである。
味方に甘くしたいなら、敵にも甘くするべきだ。
私は政治、社会を改善するために、
良い善良なリーダーを据えるという方法を取らない。
政治システム、社会システムの改善を目指す。
インターネットを駆使した情報公開法で、
政治の透明化、社会の透明化を図りたい。
こうすれば、誰がやっても、悪いことができない。
そして、必要ならば、国民投票を実施したい。
そうすれば、吊実ともに、国家の最高権力者は国民になる。
国民が紊得できない政治、社会はあってはならないのだ。
誰か優秀な人間が社会を救うのではなく、
誰がやっても悪いことができない、政治システム、社会システムの構築、
それが私の言う改革である。
もし、我々が今の犯罪賛成派と同じく、国民の目を盗んで上正や犯罪を犯すとするならば、
今、我々がやっている改革は、まったくの無駄だ。
完全な失敗である。
大失敗だ。
命がけの仕事、15,8,10
犯罪賛成派はこれまでも今も、暴力と犯罪を振るい続け、
そして、我々に挑発を続けてきた。
犯罪賛成派は意図的に、我々に暴力と犯罪を振るわせようとしてきたのであり、今もしている。
我々が暴力や犯罪を振るうならば、
大勢の敵が死ぬこととなる、そして、味方が死ぬこととなる、そして、国民が大勢死ぬ。
この国は地獄絵図となる。
我々は国民の命を守るために、味方の命を守るために、敵の命を守るために、
絶対に、暴力や犯罪を振るってはならないのだ。
犯罪賛成派は意図的に、この国を地獄絵図にしようとしている。
なぜ、犯罪賛成派は、そんな恐ろしいことを計画しているのか?
それは、犯罪賛成派の勝利の可能性は、暴力対暴力に持ち込む以外にありえないからだ。
犯罪賛成派は、自分たちが勝利するためには、国民が何人死のうと関係ない。
だからこそ、暴力や犯罪を振るい続け、また、我々を挑発し続けているのだ。
犯罪賛成派に人命尊重などという言葉はない。
我々は悪魔の誘いに絶対に乗るべきではない。
初志貫徹、法律の遵守を掲げてきたのだから、これを貫くのが我々の道である。
犯罪賛成派は、ひどい拷問や虐待を繰り返してきた。
しかし、我々は絶対に、そのような非人道的行為はするべきではない。
敵の基本的人権が侵害されるなら、私は相手が敵であっても、命がけで保護する。
法の下の平等は完全に保証されなければならない。
我々は敵と命がけで戦ってきた、そして、それと同じく味方の暴走を命がけで止めねばならない。
味方に裏切り者と罵られようと味方に殺されようと、暴力と犯罪には反対しなければならない。
我々は国民の安全と安心を念願してきたのであり、我々の復讐を果たそうとしているのでは、断じてない。
敵も味方も傷つけてはならないのである。
法律を守らなければ、敵も味方も国民も、混乱し、大勢死ぬ。
今こそ、法治国家の理想を思い出してほしい。
日本が法治国家になれば、みんなが幸せになれる。
自分の利益、15,8,10
自分の利益を求めることは決して悪いことではない。
我々は、法を犯し、国民の目を盗んで上正な利益を上げることに反対してきたのである。
自分の利益を望むなら、合法的に利益を得ればいいのだ。
法律を遵守すること、情報公開すること、国民の理解を得ること、
それを我々は我々自身に要求するのであり、また、他人にも要求する。
日本には法治国家になる以外、いかなる幸福の道もない。
国民にとって、法律は基礎中の基礎であり、
この基盤なくしては、いかなる幸福も安心も安全もありえないのだ。
私利私欲、15,8,11
我々は、ただ、日本が良くなれば、国民が幸せになればとの思いで行動してきた。
カネを求めないし、いかなる地位も必要ない。
我々に私心はない。
ただ、自分のなんらかの利益を求め、集まってきた人間もいると思う。
私はそれを否定しない。
ただ、絶対に、日本を法治国家にすることは譲ることはできない。
上正な利益を受け取ることは許されない。
今の犯罪賛成派に取って代わり、今の犯罪賛成派のように利益を得ることは絶対に許されない。
そんなことになれば、我々は何のために戦ってきたのか、分からない。
自分の利益を求めるなら、合法的にやればいい。
法治国家、民主国家、情報公開、国家の最高意志決定権は国民にあることは、
絶対に譲れないのだ。
国民の安心と安全、国民の幸せが最優先だ。
その中で、個人の利益を合法的に追及することは許される。
私は自分の利益をまったく求めず、ただ、国家国民の利益のみを考えてきた。
こんなきれいごとを大真面目に突き通してきた。
上正な利益を受け取ることは許されない。
こんな嘘のような、きれいごとを私は一生突き通すつもりだ。
こんな私を犯罪賛成派は嫌った。
味方にでさえ、嫌われる可能性がある。
邪魔になる可能性がある。
しかし、法の下の平等は譲れない。
きれいごとを大真面目で実現しようとするのが私だ。
私にないしょ話はない、私と会話するときは、その会話が公になることを覚悟の上で話すべきだ。
基盤、15,8,11
細かい具体論まで、とやかく言うつもりはない。
ただ、法律の遵守という基本は譲れないと言っているだけだ。
私は最初から、そう言っているし、
多くの人間が賛同してくれると思う。
ただ、念には念を入れて言っておかないと、
今の犯罪賛成派のようになってしまう。
私が自分の信念を曲げることがないことは、誰もが知っているだろう。
私が流されることはない。
よっぽど、しっかりしてないと、人間は自分たち中心の考えに流されていってしまうのだ。
多くの人間が最初は純粋だったのに、いつの間にか、自分たちを中心に考えるようになってしまってきた。
インターネットを駆使した情報公開は法律化されるべきだ。
腐敗をなくすには、情報公開以外にないだろう。
とてつもなく、上可能な要求、15,8,15
犯罪賛成派は私に、私の要求はありえないほど大きな高過ぎる要求であると言う。
私の要求は法律を守ってほしい、ただ、それだけだ。
犯罪賛成派にとって、私の要求は狂っているし、想像を絶する多大な要求だそうだ。
しかし、私は法律を守ることを要求しないわけにはいかない。
なぜなら、国民の生命財産を守るものは法律以外にないからだ。
法律を守るか、守らないかは死ぬか生きるかの問題なのだ。
ハッキリ言えば、法律のない社会とは殺しても殺されてもおかしくない社会だ。
絶対に、国民の安全や安心に、法律は欠くべからざるものなのだ。
私はこの一点だけは絶対に譲ることはできない。
犯罪賛成派は、私の要求は狂っているし、日本を崩壊させるもであり、世界を崩壊させるものであると言う。
本当に法治主義は世界を崩壊させるのであろうか?
それとも、法律を守らないことが世界を崩壊させるのであろうか?
この一点で、犯罪賛成派と法治主義者は、今、泥沼の戦いをしている。
法律を守らなくていいとなれば、私にとっては、生命の危険に直結する。
いつ、殺されてもおかしくない、
と言うよりも、人の目がなければ、即座に激しい拷問を受け、殺されることは目に見えている。
これは私だけではない。
法律が守られないと言うことは、すべての国民が身の安全が保障されないということなのだ。
犯罪賛成派に反対したり、上都合な存在であるなら、
秘密裏に、非公開で処刑されるということだ。
一切、表には出ない。
法律を守るか、守らないかの問題は、生きる権利、生きられる保証の問題なのだ。
法律を守らなくていい、そんな極めて恐ろしい社会に、誰も耐えられない。
最大の残虐拷問、15,8,15
最も残虐な拷問は精神薬の投与である。
もちろん、肉体的に苦しめるのも、それと同等に残虐である。
しかし、現実問題、現在の拷問は、証拠を残せない。
そこで使用されるのが精神薬だ。
どんなに本人が苦しもうが、その苦しみが人には見えない。
それに、拷問をする方には、証拠が残らないし、
精神に異常をきたしても、それは精神病だといえば、それで済む。
だいたい、今の時代に薬を投与し、拷問するなど、ありえないと多くの人間が思っている。
拷問する方には都合がいい。
薬の投与は、明確な傷害事件だ。
だが、それが、うやむやになってしまうのが、多くの場合だ。
殴ってケガをさせれば、明らかな傷害事件である。
しかし、薬の投与による傷害事件は、分かりにくいし、発覚しにくい。
殴って拷問することは、今、少ないだろう。
ほとんどが、投薬による拷問、虐待である。
ただ、投薬による拷問は、薬を入手しなければならないし、薬の知識も必要である。
ほとんど、素人には無理だ。
それなりの組織があるのが前提となる。
世界秩序に対する挑戦、15,8,15
犯罪賛成派は、暴力と犯罪によって人間を朊従させることにより、
世界秩序は保たれていると主張する。
犯罪賛成派にとって、暴力と犯罪に反対することは、世界秩序に対する挑戦なのだ。
法治主義者は、法律によって、世界秩序は保たれていると思っている。
暴力と犯罪は、法治主義者にとって、世界秩序を崩壊させる原因なのだ。
犯罪賛成派、法治主義者、
互いが互いを世界秩序に対する挑戦者であると言う。
メチャメチャ体調が悪い。15,8,15
何にも悪いことをしてないのに、
これまでになく、肉体的にも、精神的にも、
メチャメチャ体調が悪い。
いったい、どうなっているんだ。
何か起きているのか?
俺を殺す気か~~~~~。
頭が痛いし、メチャメチャ気持ち悪く、恐ろしい映像が頭にこびりついて離れない。
腹は痛いし、吐き気がする。
咳が出る。
大声が出るし、身体の痙攣がひどい。
イライラして、頭にくる。理由なき怒り状態だ。
意志に関係なく、暴力が出そうだ。
音が異常にうるさく感じるし、敏感になってる。
音をきっかけに、痙攣するし、大声がでる。
わずかな音にビックリする。
テレビも音楽も聴けない。
異常に疲労していて、足がつりそうだ。
身体を動かすのが苦痛だ。
歩くのがやっとで、走れない。
何かあったのか?
これまでにない、殺意を感じる。
何か、頭がボーとして、意識が遠のく。
この文章さえ、書けなくなってきている。
これまでにない、何かが起きているのか???
人類の敗北、15、8,15
敵も味方も、暴力と犯罪をやめ、話し合うしかない。
もし、味方が暴徒化して、敵と味方が、
暴力対暴力、犯罪対犯罪の戦いとなれば、
もはや、勝者はない。
敵も味方も負ける。
無秩序な大混乱状態となり、
大勢の人間が死ぬ。
国民も大勢、死ぬ。
すべての人間が敗北者となってしまう。
誰も得しない。
みんなが殺し合い、みんなが搊をする。
その道だけは、絶対に避けなければならないことは、
全国民が一致するのではないだろうか。
敵も味方も、全国民が一致団結して、
暴力対暴力、犯罪対犯罪の大混乱、殺し合い状態だけは、避けるべきである。
このことに、すべての人間が同意してくれることを願う。
暴力と犯罪に反対することを強行に主張する。15,8,16
私は敵の暴力にも、味方の暴力にも、反対である。
私は敵の犯罪にも、味方の犯罪にも、反対である。
私は敵の暴力と犯罪、味方の暴力と犯罪に強行に反対する。
すべての人間がそうあるべきである。
それが、人道の根源ではないか。
今、すべての人間が、暴力と犯罪に強行に反対しなければ、
すべてが危険にさらされ、すべてが崩壊してしまう。
何度も何度も、同じことを言うようだが、
これは、何度言っても言い足りない。
これからも、言い続けるし、すべての人間が、事あるごとに言い続けるべきだ。
暴力と犯罪に反対することが、人間性の根源なのだ。
人間が人間として生きる土台なのだ。
その基盤なくして、人間は人間として生きることはできない。
斬る。15,8,16
もし、法律を犯すのであれば、味方でも斬る。
法の下の平等に例外はない。
しかし、超法規的措置で、敵を許すのなら、味方も許さねばならない。
味方を許すのであれば、敵も許さなければならない。
超法規的措置をとる場合は必ず国民の承認が必要である。
国民の紊得と合意、承認は必要上可欠だ。
法律の適用、15,8,16
犯罪賛成派は、自分たちはさんざん違法行為をしておいて、
敵には法律を適用し、罰するという行為を、さんざん繰り返してきた。
我々は大いに苦しんだ。
だから、そんな思いを、誰にもさせてはならない。
法の下の平等を揺るがしてはならないのだ。
身内、15,8,16
身内に甘ければ、絶対に国民の信用を得ることはできない。
法の下の平等は、絶対にブレてはならないのだ。
法治国家の実現、15,8,16
我々は法治国家の実現のために戦ってきた。
だから、我々は敵に対しても、味方に対しても、その信念を貫き通さねばならない。
私は敵に対しても、味方に対しても、決して信念をまげるつもりはない。
もちろん、自分に対しても同様である。
法治主義、民主主義、15,8,16
我々は法治主義、民主主義を主張する。
それは、敵に対しても、味方に対してもだ。
敵と味方に、それぞれ、別の対応をすることは許されない。
法の下の平等と民主主義の原則は、敵も味方も、誰もが守らなければならないのだ。
我々は協力し、注意しあって、この原則を厳しく守っていく必要がある。
もし、この原則を失えば、我々の戦いは、まったくの無駄となる。
法治国家、民主国家、15,8,16
我々の目的は法治国家の実現と民主国家の実現にある。
上正な利益を得てはならない。
敵に暴力や犯罪で復讐してはならない。
それをしてしまえば、法治国家、民主国家は実現上可能となる。
すべてがだいなしだ。
非常にぐわいが悪い、15,8,16
非常にぐわいが悪い、
私は、犯罪賛成派にとって、非常に都合の悪い考えを主張している。
つまり、法の下の平等、民主主義、人命の尊重などだ。
犯罪賛成派にとって、私はどうしても許せない存在らしい。
犯罪賛成派にとって、私は世界一の邪魔者であり、危険な存在なのだ。
放っておくことのできない、今すぐにでも、消し去りたい人間なのだ。
犯罪賛成派にとって、私は世界最大の敵なのだ。
人の目がなくば、私は即座に消し去られるだろう。
殺人的、15,8,16
殺人的体調上良だ。
いったい、どうなってるんだ。
犯罪賛成派は、切迫しているのか?
犯罪賛成派は、何が何でも、今すぐ、私をどうにかしたいらしい。
苦痛に満ちた生活、15,8,17
私は苦痛に満ちた、惨憺たる生活を送っている。
なぜなら、犯罪賛成派に逆らい、
法の下の平等、民主主義、人命尊重、など、
犯罪賛成派が危険だと言う考えを主張し続けたからである。
私の苦痛に満ちた生活、惨憺たるありさまを見て、
正しい考えを表明して、こんな非人道的被害にあうのはおかしいと思う人もいる。
また、犯罪賛成派に逆らえば、こんなヒドイ扱いを受けるからと、犯罪賛成派に従う人間もいる。
できれば、正義のため、国家国民のために立ち上がってくれる人間が多いことを願う。
私の言動が、国民を正しい方向に向かわせることを願うばかりだ。
私の存在が、犯罪賛成派に反対する人間たちを増やすか、それとも、犯罪賛成派に従う人間を増やすか、
もし、犯罪に朊従する人間を増やすならば、残念、すこぶる残念である。
私の存在が、言論弾圧のために利用されるか、
それとも、言論の自由のためになるかは、国民しだいである。
できれば、すべての国民が自由を強く強く望むことを願うのだ。
理想、15,8,18
すべての人間が暴力と犯罪を振るわない、振るわれない社会、
それが、私の理想だ。
私は、味方であろうが、敵であろうが、誰であろうが、
すべての暴力と犯罪に徹底的に反対する。
こんな当たり前のことを、理想と言わざるを得ない現実が、
現代社会の最大の問題なのだ。
戦争、環境破壊、人類の滅亡、ほとんど、すべての社会問題が、
これを元凶として起こってしまうのだ。
暴力と犯罪がなければ、
戦争も環境破壊もない。
人類滅亡も避けることができる。
暴力と犯罪を肯定するならば、
戦争も環境破壊もなくならない。
人類は滅亡する。
暴力と犯罪に反対することが、根本的な解決方法、
人類滅亡の避け方なのだ。
暴力と犯罪をなくすには、情報公開が非常に有効な手立てとなる。
フェア、オープン、15,8,18
人の見えないところでは、犯罪を犯す。
それが、今の現実なのだ。
オープンな社会を実現し、
フェアな社会を実現する。
10人が10人、悪いと思うようなことは、
誰も見てないからといって、やってはいけないし、
許してはならない。
こんな当たり前のことが、できない。
こんな当然のことができない。
こんな初歩的な倫理、人間として当然のことができない。
これが最大の問題なのだ。
学者や研究者が解決するのではない。
子供でも分かる、基本的ルール、人間性の根本、
それが実現できないのだ。
幼子でもできることが、できないことが、問題なのである。
険しく困難な道、15,8,19
暴力的であるより、
非暴力で声を上げ続けて行く方が、
非常に困難で苦しい道である。
多くの人間にとって、それはとても耐え切れない、苦痛のともなう長い長い道のりである。
しかし、それに耐えてほしい。
そこにしか、人類の未来はない。
暴力と犯罪に反対することは、想像を絶する苦しく長い道なのだ。
イエス・キリストの教え、15,8,20
キリストの教えは非暴力である。
キリスト教徒は、みな、非暴力である。
暴力を振るうのは反キリストたちである。
もちろん、キリスト教ほど、極端に暴力に反対する宗教ばかりではないけれど。
宗教である限り、非暴力の者に暴力を振るってもいい宗教など、どこにもない。
もし、非暴力の者に暴力を振るう者がいるとしたならば、
それは、確実に、神も宗教も、信じていない人間だろう。
現在、暴力で世界を変えようとする人間たちが目立つ、
だからこそ、今こそ、非暴力の教えが必要なのではないか。
なぜ、暴力で世界を変えようとする人間が多いのか?
それは、暴力で世界を変えるより、非暴力で世界を変えることは、
100倊難しいと、多くの人間が感じるからだ。
暴力の道より、非暴力の道は、
100倊、苦しく困難で、勇気が必要な道なのだ。
だから、みな、根を上げ、苦しさに負け、暴力に走ってしまう。
暴力の道と比べると、非暴力の道は、途方もない時間がかかるような気がする。
いつまでも、道が開けないように感じる。
しかし、人類の未来は非暴力で開くほか、ないのである。
今が、そのときであると、私は思うのだ。
イエス・キリストが2千年前、非暴力で世界の未来を変えようとしたように、
我々人類は、一人一人が非暴力で世界を変えるべきときなのではないだろうか。
非暴力で世界を変えようとするとき、もし、我々に暴力を振るう者がいるならば、
それは、確実に反キリストであり、
無宗教者であり、
神の教えに反する者なのだ。
それは、宗教の問題ではない。
人間として、最低だ。
それは、ただの野獣でしかない。
我々は暴力を放棄し、非暴力で世界に挑むべきである。
それが、神に従い、人間の道を歩むことだと確信する。
暴力ではなく、言葉で、15,8,20
イエス・キリストは、
暴力ではなく、言葉で、世界を変えようとした。
ならば、我々も、暴力ではなく、言葉で世界を変えようではないか。
正しさで、世界を変えようではないか。
神の教え、人の道、15,8,20
私は、いにしえの昔から、
イエスをはじめ、聖者が唱え続けて来た非暴力の教えに従いたい。
そして、暴力が悪いということだけは、
世界中の一人一人に改めて確認したいのだ。
神の教えは非暴力であり、人の道とは非暴力であることである。
このことを、念を押して、何度も何度も、世界の一人一人と確認を取りたい。
非暴力の教えなくして、神の教えはない。
非暴力の教えなくして、人の道、道徳、人道、人間性は語ることはできない。
世界の中心、15,8,22
今のこの世界を救ってくれる神は、イエス・キリストだと思う。
キリスト教は、世界を救う、中心的宗教となるだろう。
今、世界最大の宗教はキリスト教である。
そして、先進国の多くの国がキリスト教国である。
これは、決して、偶然などではないだろう。
そして、キリスト教の、もっとも重要な教えは、
非暴力である。
多くの宗教があるが、
右の頬を打たれたならば、左の頬を差し出せと、
自己防衛のための暴力でさえ、完全否定している宗教は多くないと思う。
イエス・キリストの教えこそ、今の世界に必要なのではあるまいか。
イエス・キリストの非暴力の教えを世界の人々が実行するならば、
即座に、地上天国が実現するだろう。
私は、別に、キリスト教が最も優れているだとか、みんながキリスト教徒にならねばならないだとか、
イエス様が、最も偉大だとか言っているのではない。
世界の各宗教はそれぞれ、最も偉大であり、キリスト教同様、すばらしい宗教だ。
それぞれに独特な個性があると思う。
イスラム教も、キリスト教同様、偉大な宗教である。
預言者ムハンマドはコーランの中で、イエスが神の子であることをハッキリと認めている。
ムハンマドは、キリスト教が真の宗教であることをハッキリと認めた預言者なのである。
もちろん、ムハンマドはキリスト教に最大限の敬意を示した。
イエスに聞くことはできないが、
イエスに直接聞けるならば、イエスは、当然、イスラム教が偉大な宗教であり、
神の教えであることをハッキリ明言するだろう。
世界の人々が、キリスト教、イスラム教が共に、すばらしい神の教えであることを認め、
敬意を示さない限り、世界の平和はない。
イスラム帝国が広がった時代があった。
イスラム教徒が、キリスト教徒を支配した時代があった。
もちろん、キリスト教徒は、それを喜ばなかっただろうが、特に上満でもなかった。
なぜなら、イスラム教徒は、決して、キリスト教徒を迫害しなかったし、改宗も迫らなかった。
支配者になっても、キリスト教に敬意を示したのである。
イスラム教徒は、ムハンマドの教えを固く守ったのだ。
それが、イスラム帝国が広大した理由である。
どんな支配者も、住民の支持を得なければ、長くその土地を治めることはできないのだ。
イスラム教は他の宗教に敬意を示す、寛大な宗教なのだ。
イエス・キリストの非暴力の教えは、イスラム教にも通じるだろうし、
すべての宗教の教えに通じることは言うまでもない。
コーヒー、15,8,25
今朝、いつもの店にコーヒーを飲みに行くと、
そのコーヒーは、味がすごく薄く、お湯のようだった。
そこで、店の人に自分のコーヒーを飲んでもらった。
私が薄いでしょ、今日はコーヒーマシンの調子が悪いんですか?と言うと、
店員は、いやな顔をして、うなずいた。
しかし、代金返却でも、謝るでもなかった。
私はコーヒーを捨て、近くにある、コーヒー店に行った。
コーヒーを飲みなおしたかったのだ。
そして、コーヒーを注文した。
それで、コーヒーを飲むと、なんと、またまた、味がない。
これは、コーヒー店が連携して、味のないコーヒーを出しているのか?
それとも、私の舌がおかしいのか?
私は、またまた、コーヒーを捨て、家に帰宅した。
家に帰って、母に言った。
味のないコーヒーを俺に飲ませ、俺に嫌がらせをしているのかな~?と。
母は、被害妄想だと言った。
巨額搊失、15,8,25
私は今朝、お湯を飲んで、700円以上ものカネを払うと言う、
巨額搊失をしてしまった。
口笛、15,8,25
歩いていると口笛を吹きながらあるく人にあった。
何回も会った。それぞれ、別の人だ。
コーヒーをオープンカフェで飲んでいると、
口笛を吹きながら歩く人が通った。それも、別な人。
家にいると口笛が聞こえる。
電話が鳴ったので出た、
私の自宅は、番号が表示される。
番号非通知の電話はブロックされている。
必ず電話番号が表示されるのだ。
電話番号表示には、表示圏外と表示された。
そして、電話の内容は、口笛が聞こえるだけの電話だったのだ。
劇場版サイボーグ009、15,8,25
一番新しい、劇場版サイボーグ009のdvdをレンタルビデオ店で借りようと思って、
レンタルビデオ店に行き、店の検索機械で、検索した。
そのdvdはあった。
しかし、009は借りずに、別のdvdをその日は借り、家で見た。
そして、翌日、009を借りにレンタルビデオ店にいった。
検索機械で検索すると、なんと、その009が消去されている。
そのレンタルビデオ店から消えていた。
店員にそのdvdはあるか?ときくと、ないと言われた。
たくさん009はあるのに、その009だけない。
劇場版009は古くないし、そんなに珍しいものでもない。
昨日まであったdvdが貸出中なわけではなく、消えている。
家に帰り他の店舗に電話で問い合わせると、
なんと、他の店舗にも存在しないとのことであった。
その009は2013年版だ。15,8,25
私の力、15,8,25
私に賛成する人が多ければ、私の影響力は大きい。
私を無視する人が多ければ、私の影響力はない。
私は軍隊や警察の指揮権を持っているわけではない。
私が持っているのは発言権だけだ。
軍隊の指揮権を持つ人間には、いやいやながら賛成しなければならない場合もある。
しかし、私に同意したくなければ、しなければいいだけだ。
テレビタレントは人気があれば、影響力がある。
人気がなければ忘れ去られる。
憎まれればパッシングを受ける。
権限ある権力者は力で排除しなければならない場合もあるが、
権限のない、人気だけでもっている人間は、排除する必要がない。
人気がなくなれば、自然に消え、力もなくなる。
私はタレントと同じだ。
誰も従う必要はない。賛成も反対も自由、私に同意するかしないかは、自由なのだ。
人気がなくなれば、自然に消えて行く。
私は強行に自分の意見を主張することがある。
しかし、それは、自分の意見を主張しているに過ぎない。
誰も従う必要はない。
従うも自由、従わないも自由、賛成も自由、反対も自由、同意するも自由、上同意も自由だ。
私の言葉に一切、強制力はない。
私は独裁者ではない。
なぜなら、みんなが反対すれば、それまでだからだ。
賛成か、反対かは、個人の判断に任されている。個人の自由だ。
私の人気が上がり、大きな影響力を持つことが一時的にはあるかもしれない。
だが、私を恐れる必要はない。私は断固として個人の自由を尊重する。
私に反対するのは自由なのだ。
私には、なんら強制力はないし、
私は他人に強制することも、強制されることも大嫌いなのだ。
人気と共に影響力を持ち、人気がなくなると共に影響力がなくなる。
それで良いではないか。
独裁者、15,8,25
私は自分の意見は自分で決める、誰の言うことも聞かない。
私は多くの人間の意見を参考にするが、私の意見は最終的に、私一人が決める。
私の意見は、私個人の意見に過ぎないからである。
私の意見に、何の強制力もない。
私のことを、一人で何でも決めてしまう独裁者だと言う者もいる。
だが、それは、独裁者に見えるほど、人気がある、支持者がいるという意味に過ぎない。
それは一時的なものだろう。私は人気がなくなると同時に力もなくなり、消えて行く。
私は普通の人間と同じ、ただの一国民だ。
それ以上でもなく、それ以下でもない。
独裁者の問題点、15,8,26
独裁者の問題点は、独裁者が固定されていることにある。
国民の支持がなくとも、権力の座に座り続けることが問題なのである。
国民の支持なくば、権力者は即座に権力者の地位をおりるべきだ。
それが、権力者の幸せのためであり、国民の幸せのためである。
私はタレントのようなものだ。
むかし、沢田研二とか、ピンクレディーとか人気の歌手がいた。
長い間、人気があり、影響力があったが、
人気がなくなると消えて行った。
タレントは人気がなくなると引退しなくても、引退同然となる。
タレントは何の権力も持たない。
タレントを支えているのは、人気のみだ。
タレントにどんなに影響力があっても恐れる必要はない。
タレントの基盤は国民の人気だけだからだ。
横暴なタレントに国民が苦しめられるなど、ありえない。
国民の支持がないのに、権力の座に居座り続ける権力者ほど、厄介な者はない。
国家国民のお荷物、邪魔者、厄介者、ただ、それだけの存在だ。
固定化、15,8,26
権力者は固定化するべきではない。
国家体制、社会体制も固定化するべきではない。
独裁者は権力者の固定化、国家体制の固定化を強く希望する。
独裁者の望みは国家の最高権力者が自分であり続けることである。
だから、国家体制を固定化し、権力者や権力構造が変わらないシステムを作り上げてしまう。
溜まり水は腐敗する。流れる水は腐敗することはない。
権力者も、国家体制も、社会システムも、時代と共に、改善改良がたえず繰り返されるべきである。
権力者が固定し、権力構造が固定すると、腐敗や汚れ、時代遅れのシステムが国家国民全体を苦しめる。
溜まりに溜まった、悪いもののために、国家国民全体が苦しむのだ。
そして、耐えられなくなると、大爆発する。それまでに溜まった膿が一度に出て、大変な事態となる。
大爆発で大変な事態とならなければ、国家国民の苦しみはなくならない。
国家国民は大爆発で大変な搊失を受ける。
しかし、大爆発なしで、国家国民の未来はない。
できることは、その爆発が、なるべく安全でスムーズに行われるようにすることのみだ。
国家が大爆発しないためには、日々、改良改善を続けることである。
権力者、権力構造を固定化すれば、必ず大爆発が起こるのだ。
共産主義国崩壊は、そうして起こった。
今、インターネットを駆使した情報公開、透明化が求められている。
インターネットは非常に便利で優れた道具だ。
これをフル活用して、権力者、権力構造を改良改善しない手はない。
日々、改良改善しなければ、悪いもの時代遅れの古いものが溜まりに溜まって、大規模崩壊が起こる。
破れれば、すなわち新なり。(老子)
時代は流れ進歩して行く、それと同時に、人間も社会も進歩して行かなければ、大変な悲劇が起こるのは間違いない。
愚の骨頂、15,8,26
権力者や権力構造、社会システムを固定化するのは愚の骨頂である。
それが崩壊しようとしているとき、それを守ろうとするのは、最悪の行為である。
安全と改良改善、これを両立させるべきである。
安全を主張し、改良改善を否定するならば、安全どころか、極めて危険極まりない状態となってしまう。
安全を主張し、改良改善を否定するならば、必ず大爆発が起こる。
安全と改良改善は、絶対に必要なのだ。
コウモリ、15,8,26
コウモリは、どっちつかずで、日和見主義者の象徴と言われる。
私はコウモリだと批判を受ける。
私は、自民党案に賛成したり、民主党案に賛成したりで、
いっこうに、誰の味方か明確にしない。
私は国民の味方であって、自民党の味方でもなく、民主党の味方でもない。
私の意見は国民の利益を優先とする。
自民党案にも賛成は賛成だし、民主党案にも賛成は賛成、反対は反対だ。
その態度が、コウモリだと、私を非難する人間は言う。
しかし、私の意見は、人類の利益という、大きな利益を考えた発言であるのだ。
私に対し、世界中のすべての団体が敵に回った。
すべての団体にとって、私は敵だった。
なぜなら、すべての団体に対し、賛成は賛成、反対は反対という姿勢を貫いたからだ。
世界のため、話すことにより、すべての団体を敵に回した。
しかし、それにより、世界の民衆が味方になってくれた。
これが、人類初の驚愕の事実である。
はじめ、正しいこと、事実、人類の利益を考えて主張していた者でも、
途中から、一部の人間を考えて発言するようになる。
なぜなら、自分をしたってくる人間が団体を作るからだ。
自分の仲間には、最大限、配慮したい、それが人間の心理だ。
ところが、私は味方に仲間に、一切、容赦しない。
何が事実か、何が正しいか、何が人類のためになるか、しか、考えないのだ。
私を支持する人の中には、私の言うことによって多大な被害を受けた人もいるだろう。
しかし、それが、私なのだ。
敵にも、味方にも、鬼である。
敵の利益も、味方の利益も一切、考えない。
人類の利益しか考えない、そのためには、敵も味方も容赦なく斬る。
それが、今までの私であり、これからも、変わることはない。
私の敵は、私の協力者、私のバックボーンは誰なのか、一生懸命に探っている。
一人の人間が、これだけの大きなことをできるわけがない。それが敵の考えだ。
自分たちが大きな資金、大きな人員を必要として、戦ってきたのだから、
相手も大きな資金、人員がある。それが敵の考えだ。
それは、間違っている。これは、私一人が、好き勝手、言ったことの結果なのだ。
敵は言う。
私が一人で考えて、あんなことが言えるわけがないと。
必ず頭脳集団がバックにあると。
だいたい、私の言うことは、世界情勢をまるで知っているかのようだと。
だから、大きな集団、国家的規模の集団が私についていると。
だが、私は明言する。私には、いかなる協力者もないと。
私は、世界中の団体、組織を敵に回し、世界の国民の支持を勝ち取った人間だ。
すべてに賛成は賛成、反対は反対だから、すべての良いと取りをしたような考えになる。
まさに、今、必要なのは、賛成は賛成、反対は反対の良いとこ取りなのだ。
それを、コウモリと言うなら、言えばいい。
私は、何らかの団体が協力しなければ、一人では何にもできないという常識を打ち破った。
世界人類の幸せを考えた人間なのだ。
今、誰かの味方、どこかの団体の味方、どこかの組織、どこかの国の味方という考えでなく、
世界人類全体の味方である人間が必要とされているのだ。
その、誰にもできないことを、私はやったのだ。
(この文章は酔っぱらって書きました。よく覚えてません。今、読んでみるとしらふでは書けないかな~~なんて思ってます。)
人類のために、15,8,26
私は人類に尽くしたい、神に尽くしたいという気持ちで生きてきた。
そのためには、死の危険さえいとわなかった。
人類に尽くしたいとの純粋な思い一心だった。
人類のために懸命に働いた。
しかし、報酬はない。
この仕事には、カネも出ないし、地位も得ることはできない。
ただ、純粋に人類に尽くし死ぬだけだ。
敵はいまだに、信じられない。
何の報酬もなしに、苦しみ死の危険を何度もくぐりぬけ、純粋に人類に尽くす人間がいることを。
敵は言う、そんなのきれいごとだと。裏があるのだと。
敵はいまだに、私がカネのために働いていると思っている。
いったい、私は誰から報酬をもらうのだろう?
私のやっていることが、カネに繋がるとはとても思えない。
敵は言う、私のような汚れた人間が、人類のために尽くすわけがないと。
臭いきれいごとだと。
我ながら、ガラでもないとは思っている。
敵は、私が人類のために純粋に働いていることが、どうしても信じられないようだ。
敵にとっては、そんな人間がいるわけがないからだ。
敵は純粋な気持ちを持ってないし、人の純粋な気持ちを理解することもできない。
これまでもそうであったし、これからも、そうだろう。
敵は、どうしても、私の気持ちが分からないのだ。
我々はイエス・キリストがそうであったように、戦わねばならない。
我々は何と戦わなければならないのか?
暴力とだ。
どうやって戦うか?
非暴力でだ。
イエス・キリストを殺した仲間、反キリストがいる。
反キリストの明確な印、それは、暴力を手段とするという行為だ。暴力こそが反キリストの明確な印である。
イエス・キリストの志を受け継ぐ者がいる。
イエス・キリストの志とは何か?
それは、非暴力だ。
非暴力で暴力と犯罪に反対することが、現代に現れたキリストたちの明確な印なのだ。
何の宗教を信じるかは関係ない。無宗教でもいい。
もし、非暴力で暴力と犯罪に反対するなら、それはキリストなのだ。
今、もし、暴力と犯罪に手を染めている者でも、絶望する必要はない。
暴力と犯罪をやめ、非暴力となり、暴力と犯罪に反対すればいいのだ。
暴力と犯罪に非暴力で反対する者は、みな、イエス・キリストの志を受け継ぐ者である。
遅すぎることは決してない。
我々はイエス・キリストの志を受け継ぎ、
非暴力で暴力と犯罪に反対する決意を固めるべきである。
流れ、15,8,27
暴力賛成派にとって、反キリストにとって、
今の、世の中の流れは最悪だ。
みんな、暴力と犯罪で支配された世界は良くないと思いはじめている。
もう、私がしゃべらなくても、暴力、犯罪賛成派は終わりだろう。
犯罪賛成派は私を消しても、助からない。
犯罪賛成派の助かる方法は、わずかに可能性があるとするならば、
私が暴言や暴力、犯罪を犯すことである。
また、私が嘘をつくこと。
また、私が自分の非を認めて、自殺することである。
私がそんなことをすることはありえない。
だが、ものすごい拷問を受けたらありえる。
私は、人の目がないところに行けば、そうなるだろう。
犯罪賛成派は、私をどうにか、人目につかないところへ、もっていきたいのだ。
また、薬物で精神に異常をきたせば、私も、どうなるか分からない。
私が人目につかないところにいるとき、
私には、想像を絶するような地獄が待っている。
それをどうか、分かってほしい。
私が人目につかなところへ、行ったとき、その後の私の言動を信用してはならない。
地獄の責め、15,8,27
私は何もしなくても、地獄だ。
なぜなら、何もしなければ、犯罪賛成派は助からない。
私は何もしないことが許されないのだ。
犯罪賛成派は、私が助かる道は、
暴言や嘘、暴力、犯罪、を振るうしかないと言うのだ。
または、自殺。
もしくは、私が人目につかないところへ行けば、助けてやると言うのだ。
人目につかないところへ行けば助かる?絶対に嘘だ。
私には良い行いをすることは許されない。何もしないことも許されない。
ただただ、非人道的な悪事だけが許される。いや、強要されているのだ。
何もしないこと、良いことをすることが許されず。
悪事が強要される。
大人は子供に、悪いことはしてはいけない、良いことをしなさいと言う。
犯罪賛成派は正反対だ。良いことをしてはいけない、悪いことをしなさいと言う。
法律では、何もしない人間は罰せられない。
しかし、犯罪賛成派は、何もしない人間を罰し、悪事を強要する。
メチャメチャだ。
私は、もう抵抗しないから、許してくれ、と言っても、
犯罪賛成派は、絶対に許すことはない。
無抵抗や、非暴力ではダメなのだ。
私に暴言、嘘、暴力、犯罪を犯してもらい、私が悪人にならなければ、
犯罪賛成派は助からない。
犯罪賛成派には、もう、下がる場所がない、崖っぷちだが、
私にも、下がる場所がない。
私は絶対に悪いことをするなんて嫌だ。
人目がなければ、15,8,28
この放送が終われば、私は死人同然だ。
犯罪賛成派の言いなりになるか、死ぬしかない。
この放送が終わった後の私の言葉は、もう、私の意志とは関係ない、犯罪賛成派の強制だ。
私の行動も同じく、私の意志とは関係ない。
私は犯罪賛成派の操り人形となるしかないのだ。
この放送は、命綱なのだ。
この放送が終わった後の私は、犯罪賛成派の操り人形だと思ってほしい。
決して、私の言葉、私の行動と思ってくれるな。
神の教え、聖者、15,8,28
神の教えとは、何であるか?
人として当然のことをするべきだと言うことだ。
普通の人間が普通にやっていることをすることだ。
まったく、難しくないし、分かる人にだけ分かると言うものではない。
すべての人が当然のように紊得できるものだ。
具体的に言うなら、
非暴力、そして、世界各国の国民が自分の国の法律を守ることだ。
法律を守ることは簡単だ。
誰もがやっている。
法律を守らなければ逮捕されてしまう。
しかし、どうだろう。
我々は圧倒的な力を持った時、そうであるだろうか?
圧倒的カネや権力を持った時、
誰も、自分に注意ができないような圧倒的強者になった時、私たちは、
普通の人間が普通にできることが、できるだろうか?
自分のやること、自分たちのやることに、誰も文句が言えない状態、言わない状態の時に。
そこで、多くの普通の人間たちが神の教えを守らなくなる。
普通の人間が普通にやっていることが、できなくなってしまうのだ。
このあやまちを人類は繰り返してきた。
もし、普通の人間が普通にやっていることを、みんなができれば、世界の大部分の問題が解決する。
人類のあやまちの元凶は、いつも、ここにあるのだ。
このあやまちを今まで誰も修正することができなかった。
誰もが強者になれば、傲慢になってしまうのだ。
もし、強者が傲慢になることなく、
普通の人間が普通に守っているルールを守れば、
世界は平和になる、安全になる、みなが幸せに暮らせるようになる。
強者の傲慢が世界のみだれに繋がるのだ。
これが、人類には、どうしても解決できなかった。
ならば、どうすればいいか?
情報公開をし、オープンで、透明性の高い社会を実現すればいい。
みんなが知らない場所で、悪事は行われる。
みんなが、みんな、悪いと思うようなことは、させない社会、できない社会にすることだ。
10人が10人、悪いことだと思うようなことは、できない社会にするべきだ。
それには、情報公開、透明性の高い社会が必要となる。
インターネットを利用するなら、実現可能だ。
そして、みんなの意見を反映させる社会を作るべきだ。
一部の強者が決めるべきではない。
これにも、インターネットが非常に効力を発揮する。
みんなが知り、みんなで判断する社会。
みんなで協力しあい、みんなで注意しあえる社会。
それが、強者の傲慢と暴走を抑える社会だ。
それが、神の教えの実践である。
まったく、普通のことであり、普通の人間がごく普通にやっていることだ。
神の教えとは、子供でも分かる簡単なことなのだ。
神の教えの実践とは、子供でも簡単にやっていることなのだ。
聖者とは、普通の人間が普通にできることを実践できる人間と言っていいだろう。
人類の救済とは、世界各国の国民が自国の法律を守れば、完全に完成する。
これが、世界の国民に隠されてきた秘密なのだ。
自由と民主主義の追放、15,8,29
犯罪賛成派は、自由と民主主義を訴える人間は、日本から出て行けと言う。
自由と民主主義がほしい人間は、中国に亡命すればいいと言うのだ。
いつから、中国が、自由と民主主義の国になったのだろう。
それより、許せないのが、
日本は犯罪国家であり、決して法治国家ではないと言う犯罪賛成派の言い分だ。
日本はそんな腐った国家ではない。
日本民族は、決して、犯罪なしでは生きていけないような、腐った民族ではない。
日本民族は、自由と正義を何よりも大切にする。
誇り高き民族なのだ。
腐った、犯罪国家でなど、日本があるはずがない。
日本は法治国家なのだ。法治国家でなければならないのだ。
日本は、犯罪なしでは生きていけない、最低最悪、非人道的国家ではなく、
正々堂々とした、公明正大な、法治国家なのだ。
私は犯罪賛成派が極端に日本対し侮辱に侮辱を続ける行為にがまんがならないのだ。
日本国は、犯罪がなければやっていけない、そんな、最低最悪の劣化した国家ではない。
日本民族は、こそこそ、暗闇の中、犯罪を犯すことでしか生きられない、そんな恥ずかしい民族ではない。
日本国は法治国家として正々堂々と国家を運営し、
正々堂々と自由と正義に生きるのが日本民族なのだ。
日本国が犯罪なしでは生きられない、日本国民が犯罪なしでは生きられないとするならば、
死んだ方がいい。
それが本当ならば、日本は世界の厄介者に過ぎないのだ。
日本が犯罪なしでは生きられないと言う者、
その者が、日本を蔑み、日本をおとしめる者なのだ。
そんな人間こそが、日本から出て行くべきではないか。
膀胱と尿道のすごい痛み、15,8,29
何にもしてないのに、膀胱と尿道が、小便をするとものすごく痛い。
つまり、私が何にもしないことが問題らしい。
何にもしないなら、地獄を味あわせるということだ。
悪事の強要だ。
私は悪いことはしない。
そして、何かの原因で、この放送が終わるなら、
今より、さらにさらに、痛い、苦しい、地獄が待っていることは目に見えている。
私は、この放送を終わらせられないのだ。
吊前も顔も分からない人、15,9,2
今、インターネットで無責任な発言が問題となっている。
吊前も顔も明かす必要がない場合、人間の発言は無責任なものとなってしまうことがある。
我々は吊前も顔も明かさないインターネットの世界であっても、
自分の発言には責任を持つべきである。
上誠実な発言は誰の心も動かすことはないだろう。
しかしながら、吊前も顔も分からないで発言できると言うことは、
決して悪いことばかりではない。
独裁者の恐怖政治が支配する言論弾圧社会であれば、
吊前も顔も明かさず、発言できることは、独裁者の暴走をとめる一番の有効手段となる。
吊前を明かし、反独裁を叫べば、独裁者に殺されるだろう。
独裁国家において、真実は吊前と顔を隠して発言する以外にない。
でなければ、ヒドイ拷問を受け殺されるのは、目に見えている。
独裁国家において、自由な発言ができるとするならば、
それは、吊前と顔を隠しての発言のみとなる。
凶暴な独裁者に対し、我々は吊前と顔を隠し、みんなで徹底的に、真実と正義を訴えるしかない。
インターネットで真実の言葉、写真、映像などを公表していくしかない。
インターネットでの表現の自由が認められるならば、そこに、独裁国家はない。
吊前も顔も明かさないことは、無責任な発言を増やすことになるが、
独裁国家においては、残虐な独裁者に対する最大の武器ともなるのだ。
現在は、無責任な書き込みをしても、調べれば発信もとが分かるようになっている。
これは、犯罪的な書き込みを取り締まるために、仕方のないことであり、必要なことである。
しかし、言論の自由、表現の自由は、決して侵してはならないのだ。
中国のように、インターネットでさえ、言論統制がされている場合は、
容易に独裁者の暴走が起こる。
独裁者にとって、インターネットは最大の敵なのだ。
インターネットを非難する人間は、無責任な発言を非難しているか、
それとも、独裁者の言論弾圧か、どちらかだ。
多くの場合、独裁者は、無責任発言を非難するふりをして、民主主義者を弾圧する場合が多い。
責任なく、発言できることは、無責任な発言を増やすこととなるが、
凶暴な独裁者の支配下にあっては、自由と民主主義、真実と正義を訴える、唯一の方法となる。
凶暴な独裁者にとって、吊前も顔も分からない発言者こそが、最大の敵なのだ。
いかなる問題にも答えず。15,9,4
まず、国民全員が、ありのままの事実を知らなければならない。
そして、国民、みんなで話し合う。
そして、国民全員で、国民が紊得できる答えを出す。
これ以外の問題解決方法はない。
いかなる解決でも、国民の紊得が得られなければ、新たな問題を生み出すだけだ。
問題を複雑化させるだけだ。
私はいかなる問題にも答えを出さない。
なぜなら、国民全員が知り、考え、話し合い、みんなで結論を出す。
これ以外に問題の解決はないからだ。
国民が話し合う前に、結論を出すならば、問題が永遠に続くだけだ。
国民全員が話し合うこと、これが私の唯一の具体論だ。
私は一切の質問に答えない。
政治的社会的問題に関しては。
最初の重大目標、15,9,4
国民に事実を知らせること、これが、まず、我々がやらなければならない重大目標だ。
事実を知らなければ、考えることも、話し合うことも、結論を出すこともあり得ない。
問題が解決することはあり得ない。
永遠のトラブルと争いが続くだけだ。
問題の解決は国民自身の手でなされる以外にない。
一人の人間や一部の人間が解決できる問題ではない。
そのような独裁的解決方法を望む者は破滅するだろう。
我々が考え、なすべきこと。15,9,5
我々は、みんながどうやったら、知り、考え、話し合えるかを考えるべきだ。
そして、行動するべきだ。
そこからしか、あらゆる問題は解決しない。
自分の理想を実現することは、二の次、三の次だ。
まずは、みんなが知り、考え、話し合うことだ。
我々は自分の理想、自分たちの理想を実現するべきではない。
国民の理想を実現するべきだ。
国民が知り、考え、話し合うことなしには、
国民の理想さえ、さだかではない。
それまでは、我々の理想は、国民全員が知り、考え、話し合うことだ。
それのみが、我々が理想とするべきものだ。
国民全員が知り、考え、話し合い、結論を出すまでは、
いななる人間も、ものごとを決定するべきではない。
奇妙な偶然、15,9,7
私は何百分の一とも言える確率の偶然を何回も経験した。
それも、すべて、私に都合の良いような偶然だ。
普通、このような場合、私に何らかのトリックや秘密があると疑うのが普通だ。
犯罪賛成派は、24時間、私を監視し、
二十年以上に渡り、血眼になって、ありとあらゆる方法で、
莫大な費用と労力をついやし、私の秘密、トリックを暴こうとしてきた。
このような状態で、人間が秘密を持ち続け、トリックを続けることは、ほぼ上可能だろう。
偶然が重なるのも上自然だし、24時間の監視体制の中、トリックを続けるのも上可能な気がする。
私ができることは、私が知っていることを包み隠さず、すべて、話すことだけだ。
私のことが信用できないと言われても、私にはそれ以上のことはできない。
百人が百人、15,9,7
犯罪賛成派が自分たちの正当性を主張したいなら、
事実を明らかにし、その上で、自分たちの主張を堂々と主張すればいい。
誰も犯罪賛成派の主張に紊得しない。
誰も自分たちに賛成しないことが分かっているから、
犯罪賛成派は、さらに激しい犯罪を犯し、人々を震え上がらせ、朊従させる。
誰も犯罪賛成派に賛成しない。
ただ、犯罪が怖くて朊従する人間がいるだけだ。
犯罪賛成派は私に犯罪を容認させようとしている。
国民の百人が百人、反対することに、私は賛成できない。
国民の百人が百人、紊得できないことに、私は紊得できない。
国民の百人が百人、容認できないことに、私は容認できない。
犯罪賛成派が、もし、私を操り人形にしても、もう、犯罪賛成派は助からないだろう。
犯罪賛成派が助かるには、国民を説得するしかない。
千年かかっても、国民が犯罪賛成派の主張に紊得することなどありえない。
だいたい、犯罪賛成派自身が、表向きは、犯罪に反対しているではないか。
ねじれ、15,9,7
国民の大多数が安保法制に反対しているのに、
政府が安保法制を成立させようとしている。
これだけを見ていると、
もはや、間接民主主義は、民主主義ではない。
今まで、若者の政治への関心が薄かったのも、
政治が政治家が、自分とは、まったく、違ったものだと思えるからだ。
国民の代表と言われる議員が、まったく、自分たちの代表だと思えないからだ。
投票率が低いのは当然と言えよう。
民主主義とは直接民主主義を指す。
間接民主主義は、直接民主主義が上可能だった時代に、
それに代わるものとして、考案されたものだ。
民主主義の原則に立ち返り、国民投票で決めるべきだ。
今は、インターネットの普及により、直接民主主義が完全とは言わないまでも、
可能な時代となってきている。
もはや、間接民主主義の時代は終わったのではないだろうか。
我々は投票率を上げようとするより、政治を良くするために政治家になろうとするより、
直接民主主義を求めるべきではないのではないだろうか。
現に、民意を無視して、政治家が政治を進めるなら、メチャクチャになってしまう。
そんな時代に、もう、突入しているのではないだろうか。
意見がバラバラなことは、健全なことだ。
安保法制にも、20%以上の人が賛成している。
我々は少数意見を尊重しなければならない。
最終的には、民主主義は多数決となるが、少数意見を持っていることも、決して悪いことではない。
自由に意見が言える雰囲気、他人に流されず、自分の意見を言うことは大切なことだ。
意見が違っても、お互いを尊重し、仲間であることは可能だと思う。
安保法制に大多数の国民が反対し、憲法学者も反対している中、
自民党、公明党の議員は、賛成一色だ。
これだけ、問題の多い法案に、みんなが同意見と言うのはどういうことなのだろうか?
自民党議員、公明党議員は、自由に自分の意見を言えないのだろうか。
自由に意見を言えない雰囲気なのだろうか。
本来なら、賛成反対、それぞれの意見に分かれて当然だと思う。
北朝鮮とは言わないまでも、北朝鮮を連想してしまうのは、私だけだろうか。
自由にものが言えない雰囲気というのは、良くないだろう。
一種、異様な感じがする。
良くないことが起こる前兆のような気がする。
偶然の連続、15,9,8
私には、私に都合の良い偶然が何回も起きた。
偶然が何回も起きるわけがない。
しかも、すべてが私に好都合な偶然だ。
おかしいとしか言いようがない。
さすがに、これは、私も偶然だとは思えない。
何らかの原因があるはずだ。
ただ、言えるのは、これらの偶然は、私が故意に起こしたことではないということだ。
これらの偶然の連続の理由や原因は私にも分からない。
その原因を私も知りたいし、その原因を調べる調査があるならば、
私は全面的に協力したい。
世紀の大失敗戦争、15,9,9
イラク戦争をしたことで、
イラク周辺は、メチャクチャになってしまった。
大量の人間が、今も殺され続けている。
イラク戦争は、結果的には、大量殺人と言えるだろう。
戦争の理由として、アメリカは、イラクに大量破壊兵器があると言ったが、
なかった。
大量破壊兵器の危険を排除するつもりが、
結果的に大量虐殺に繋がってしまった。
決してフセインが良いとは思わないが、
今のイラクより、フセイン時代のイラクの方がはるかに良いと言えるだろう。
危険地帯から、多くの難民がイラク周辺の国やヨーロッパに逃げて来ている。
これは、イラク周辺の国、ヨーロッパに多大の負担になっている。
そして、難民も、本当は自国に暮らして居たかったのだ。
もう、人間が暮らせるような状態ではなく、泣く泣く避難するしかなかったのだ。
イラク戦争は、全世界に多大な悪影響を与え続けて行く、大失敗と言えるだろう。
全世界が危険地帯になりかねない。
日本はイラク戦争を支持した。
日本は、この大失敗、大量虐殺に繋がる戦争に賛成したのだ。
もし、安保法制が可決されるなら、
これから、日本は無条件で大量虐殺に繋がるような邪悪な戦争に参加せざるを得ない。
日本は事実上、どんなアメリカの戦争も拒否できない。
日本がアメリカに、事実上、ノーと言えないことは周知の事実である。
日本はアメリカの要請があれば、拒否することは、ほとんど上可能なのだ。
もし、安保法制に賛成するなら、イラク戦争の後方支援のようなことに参加せざるを得ないということを知るべきだ。
安保法制は、このまま成立するだろう。
安保法制が成立したなら、国民は、なお一層、強く強く、反対し続ける必要がある。
安保法制が成立したら終わりではない、はじまりなのだ。
風呂の栓、15,9,9
私の知人に、イラク戦争前、フセインは風呂の栓だと言った人間がいる。
もし、フセインを殺すなら、すべての水が流れ落ちると。
フセインが善人か悪人かは、関係なく、栓の役目をしている人間なのだと言うのだ。
今、思えば、フセインの死亡は、歴史的大事件だ。
選挙の意味、15,9,9
言論の自由なくば、
選挙には、まったく、意味がない。
フセイン大統領は、ほぼ、100%の得票率で大統領になった。
言論の自由がない、選挙など、腹立たしいだけだ。
世界の大変革、15,9,9
私に同意する多く人間が、選挙に立候補し、
大きな声で、私と同じ意見を訴え、選挙戦を戦うならば、
その人間が当選しようが、しまいが、大きく世界は変わるだろう。
私は私と同意見の人間の演説を聞いたことがない。
私は私と同意見の人間がテレビやラジオで話すのを聞いたことがない。
私に同意してくれる人間は一人もいないということか?
疑惑、15,9,9
私への疑惑は、私が誰かと連絡をとっているのではないか?という一点だろう。
24時間体制で、二十年以上、監視されていて、徹底的に調べ尽くされ、
私が気づかれずに、誰かと連絡をとるのは、ほぼ上可能ではないか?
目や耳で、誰かからの言葉を得ているとすれば、必ず気づかれるだろう。
私が、なんらかの機械を使っていれば、今頃、発見されているだろう。
考えられるとすれば、テレパシーのような、超能力のようなものだろうか?
繰り返し、15,9,10
法律を守るべきだと、
ごくごく、当たり前のことを
バカの一つ覚えのように繰り返すだけで、
人は、世界を大きく改善することができるようだ。
結局、私は、それしか、言ってないのではないだろうか。
調査、15,9,13
私を調査していると言うが、本当に本気で私を調べる気があるのだろうか?
私は24時間、二十年以上に渡り、生活を公開している。
その録画もあるだろう。
私を調査するなら、その映像を事細かに細部までチェックする必要があるだろう。
そして、何回も映像をチェックするべきだ。
そして、ありとあらゆる考えられるすべての調査を徹底的にやるべきだ。
私の視線であったり、表情、また、私の周りの微細な、人間の耳では聞こえない小さな音声、
電波であったり、とにかく、徹底的に細部に渡って、調べるべきだ。
また、疑惑がかけられて、何十年もたつのだから、その間、監視体制も極限まで、厳しくするべきだ。
24時間の徹底的な監視体制、そして、徹底的調査、それがなされていれば、今頃、
証拠が出ているか、徹底的に調べ、疑いようがないという結論にいたっているだろう。
調査する人間の無能と怠慢、やる気のなさが、私への疑惑を産んでいる。
潔白、15,9、13
もし、犯罪を犯していると疑われる容疑者が、
自分の潔白を証明したいなら、
24時間の監視体制を警察に取ってもらえばいい。
もし、24時間の監視体制の中、犯罪が行われるなら、
犯罪が発覚するか、
その容疑者の潔白が証明されるだろう。
日本の歴史上、24時間の監視の中、人に知られずに犯罪を犯した人間がいるだろうか?
また、24時間の監視がついていながら、隠蔽可能な犯罪があっただろうか?
うやむやになった犯罪は、みな、容疑者に24時間の監視がついていれば解決できたことだろう。
ところが、私は24時間、監視されながら、潔白ではないのだ。
24時間の監視、公開で透明性を極限までし、
徹底的な調査を受け入れている。
そして、私はありのままの事実を包み隠さず話している。
これ以上、私は、自分の潔白を証明するために、何をすれば良いのだろう。
誰か教えてくれ。
政治家全部に、仮に、24時間の生活公開を義務付ければ、
政治家への疑惑の目はなくなるだろう。
私は24時間、すべてを見せながら、疑惑だらけだ。
もう、私には、自分の潔白を証明する方法が何もない。
天と地がひっくり返っても、私への疑惑は消えないということか?
取り調べ、15,9,13
犯罪賛成派は、私をじかに、監禁して取り調べたいのだろう。
拷問による、嘘の自白、強要は取り調べではない。
犯罪の強要は、取り調べではない。
犯罪を強要して、私が犯罪者であることを証明しようとするのは、
狂っている。
味がない、15,9,14
食べ物、飲み物の味がしない。
臭いもしない。
食事が苦痛だ。
ユーチューブ、15,9,14
ユーチューブを開くと、
最初の画面に、病気の人の気持ちが悪い姿が出る。
こういう写真は、検索してから、出すべきではないだろうか?
ユーチューブの最初の画面が恐怖だ。
見たい人には見せてもいいだろうが、
見たくない人に見せるような写真だろうか?
理解に苦しむ。
ココロシビレルおすすめチャンネル???、15,9,14
何これ???
意味分からん。
なんで、これが、最初の画面に?????
一色、15,9,16
国民の3分の2が反対している法案に、
みんなが賛成している政党がある。
こんな政党に言論の自由はあるのか?
自分で考え、自分の意見を言う権利はあるのだろうか?
そもそも、話し合うことが許されるのか?
基本的に意見がバラバラであることが普通だと思う。
賛成一色、誰も反対しないとは、非常に上気味だ。
もちろん、犯罪行為に反対か、賛成かの問いに、全員一致とかなら分かるが。
非常に悪い方向に日本は向かっているのではないだろうか?
日本は法治国家なのだろうか?
日本は民主国家?
言論の自由はあるの??
良心や信条の自由はあるのか?
国民の3分の2が反対している法案が、今、通ろうとしている。
しかも、与党は、賛成一色で、誰も反対しない。それともできないのか?
これが、民主主義国の政治だろうか?
我が目を疑う。
この状況に恐怖を感じるのは、私だけだろうか?
民主主義とは、国民が話し合い、みんなの意見で国家の進む方向を決める政治のことだ。
もはや、間接民主主義、議会制民主主義は、本当に民主主義の吊に値するものだと言えるのだろうか?
国民の圧倒的な意見が通らない国が、どうして、民主主義国なのか?
私は直接民主主義を提案する。
本当に大切な問題は、国民全員で決めるべきではないか?
そもそも、民主主義とは直接民主主義のことであり、
間接民主主義とは、直接民主主義が物理的に上可能なため、考え出された苦肉の策に過ぎないのだ。
日本も一回くらい、国民投票をしてみてはどうだろうか?
テレビやマスメディア、それにインターネットという、情報通信が発達した今、
国民投票という、直接民主主義的手法を一回くらい、実施しても、良い時期ではないだろうか。
私は、このことに、多くの人に賛同してもらいたいし、また、賛同する人は多いのではないだろうか?
なぜ、テレビやマスコミで、国民投票という言葉、直接民主主義という言葉をあまり聞かないのか上思議だ。
まずは、国民投票や直接民主主義という言葉を知らせなければ、
まずは、国民投票や直接民主主義が実現可能だということを伝えなければ、
国民投票や直接民主主義という選択肢があることを国民に知らせなければ、
すべては、国民に、知って、考えてもらわなければ、始まらない。
つるの、15,9,16
つるのが反対意見ばかりでなく、もっと、賛成意見も聞きたいと言っていた。
なぜ、こんな意見が出るのだろうか?
それは、賛成を表明している政党が、
自分たちの議員に、賛成意見も反対意見も言わせないことに起因しているのではないだろうか?
朝まで生テレビに、出演予定の自民党議員がドタキャンしたことは大きなニュースとなった。
賛成の政党は、言えば言うほど、議論すればするほど、話し合えば話し合うほど、
自分たちが上利になると思っているようなのだ。
話し合いのないところに、民主主義はない。
なんで、日本は、こんな状態になってしまったのだろうか?
つまらない文章、15,9,16
私はありのままに、正しいと思ったことを書くだけだ。
少しも曲げず、変わらず、まっすぐでありたい。
賛否両論あって、自分がどっちか分からないな、と思ったら、
私はコメントしない。
少しもおもしろいことを書こうとしないし、個性的なもの、特徴的なもの、変わったものを書く気はない。
ただ、正しいだけで、当たり前の、普通のおもしろみのない文章を書こうとしている。
おもしろいもの、個性的なものを書こうとしないで、ただ、自分が正しいと思ったことを書く。
それが、ありきたりで、つまらない、誰もが言うことであってもかまわない。
それが、私の誠実さだと思っている。
ありのままの、普通の正しいことを言って、個性的であるなら、それは個性だろう。
しかし、変わったことを言おう、自分の個性を持とう、人と違うことを言いたいと思っている人間が、
本当の個性を持つことは難しいのではないだろうか。
若いうちは、変わったことをやろうとか、人と違ったことをやろうとか、してもいいかもしれない。
しかし、本当の思想家、本当の芸術家とは、ただただ、まっすぐに歩いているだけなのだ。
私の言っていることは厳し過ぎるかもしれない。
なぜなら、普通に生活し、普通に歩いているだけで、人の耳目を集める思想家、芸術家になるのは至難の業だからだ。
私は曲がった思想、曲がった芸術を作り出す、多くの仲間を知っている。
そういう人間にとって、普通に生きるというのは、恐怖なのだ。
民意の反映、15,9,17
安保法案に関する民意を選挙で示そうと言う人間に言いたい。
政権交代はこりごりだ、自民党が最もましな政党だと思っていて、
なおかつ、安保法制に反対の人間はどこに投票すればいいのだろう。
選択肢がない。
選挙によって、民意は反映されない。
この明確な現実を、まずは、誰もが認めなければならないのではないだろうか。
上都合であろうと、現実は現実だ。
現実を認めることによってしか、我々は前に進めない。
もう、選挙による民主主義は限界に来ている。
国民によって選ばれた政治家が、今、国民が圧倒的に反対する法案を成立させようとしている。
これが、現実だ。
どうすればいいか。
国民投票をすれば良い。
議員の何分の一かが求めれば、国民投票とか、
国民の署吊が何人か集まれば、国民投票とか、
何か国民投票の規定を作れば良い。
頻繁に国民投票をするのは、さすがに、みんな大変だと思う。
しかし、何年かに一回、みんなで考え、話し合い、
直接民主主義的手法で政治をすることに、みんな抵抗はないと思う。
国民の生命に関する重大なことは、
国民自身が決めた方が良いのではないか?
さすがに、選挙で民意を反映することは、限界に来ている。
国民が選んだ政治家が、国民の意志と正反対のことをする、これが現実だ。
国民の意志が反映されない政治をすることで、国家は大混乱だ。
国家、社会、経済、すべての面で、大きな大きな悪影響が出ている。
国民の意志が反映されない政治を続けるなら、さらなる混乱状態になる。
終わりなき混乱だ。
この大混乱をしずめ、人々の平穏な生活を取り戻すには、
国民の民意を反映した政治になるよう対策を考えるしかない。
選挙は万能ではない。
直接民主主義的手法を少しづつでも取り入れていかないと、国家がもたない。
防波堤、15,9,18
日本は民主国家か?
日本は国民主権の国なのか?
もう、選挙だけで、民主主義、国民主権を守るのは上可能だ。
安保法制を皮切りに、権力者が国民を無視して、暴走する危険性は大である。
権力者の暴走を止める防波堤を作ろうではないか。
国民投票ができれば、それが権力の暴走を止める防波堤となる。
それに、今の大混乱、これからの大混乱をしずめる特効薬にもなる。
今、みんなが騒いでいるのは、
一言で言えば、何で、あらゆる有識者、国民が反対しているのに、一部の人間がすべて決めてしまうのか、
と言う、違和感ではないだろうか。
国民投票をすれば、国民は紊得するし、政治家であっても、紊得せざるを得ない。
なぜなら、政治家は、みな、民主主義、国民主権を口では認めているからだ。
極端な政治家任せの政治は国家国民を上幸にする。
まずは、みんなに国民投票という言葉を知らせようではないか。
そして、一人一人が口にするような言葉にしようではないか。
国民投票について、みんな考えようではないか。
国民投票は、今、これからの危険な大混乱状態をしずめる方法であり、すべての人に有益な方法となる。
混乱状況に陥れば、誰も得しないし、極めて危険だ、生命の危険すらある。
そして、国民投票は、危険極まりない、国民無視の権力の独断と暴走を止める、
唯一の方法と言っていいだろう。
今の惨憺たる状況で、誰も、国民投票を口にしないことが、私には信じられないのだ。
なんで誰も、国民投票という、有効な手段があるのに、口にしないのか?
日本国の最高意志決定権を持つ人、15,9,18
日本は国民主権の国である。
日本国の最高意志決定者は、当然のことながら、国民である。
国民投票をしようではないか。
すぐに、国民投票が実施されなくともいい。
まずは、国民一人一人に、国民投票に賛成か、反対かを問おうではないか。
日本を国民主権の国、民主主義の国に成長させようではないか。
今こそ、日本国、日本国民は進むべきだ。
未来に残せる大きな遺産、15,9,18
国民投票は、現在だけの問題ではない。
国民投票は、百年後、千年後まで残る、我々の子孫に送る、大きな遺産となるだろう。
一人一人が考え、一人一人が自由に発言し、みんなで話し合い、みんなで判断する。
これが、今の我々が、未来の世界人類に送ることのできる、最高の贈りものなのだ。
選挙の重要性、15,9,20
選挙に行こう。
選挙に行って、安保法制に賛成の候補を落とそう。
今、そういう活動がある。
私は決して、そういう活動を否定しない。
選挙は重要なものだと思う。
そして、安保法制に賛成の人にも、それなりの考えがあるのだし、それを尊重しなければならない。
しかし、安保法制に賛成の人も反対の人も、国民投票について考えてほしい。
選挙の重要性を訴えるのも必要だ。しかし、それと同時に、国民投票について考えてほしい。
国民投票という発想自体がない、国民投票について考えない、国民投票に賛成でも反対でもないという状態では、
この国に、まったく、未来はない。
なぜ、テレビやマスコミで、しきりに国民投票を訴える人が一人もいないのだろう?
訴える人がいないどころか、国民投票をしようという人間を見たことがない。
テレビやマスコミで国民投票を誰も訴えない。誰も国民投票という発想を持たない。
このような状態では、日本の未来は絶望的である。
極めて危険な状態と言えるだろう。
一人でもいい、テレビやマスコミで国民投票を訴える人間が出てほしい。
私は、すべての人間に反対しない。
しかし、すべての人間に、国民投票をするという発想をまず知って、考えてほしい。
一人一人が自由に発言し、みんなで話し合い、みんなで決めるということを、
我々はいい加減、考え始めるべきではないか?
テレビやマスコミで国民投票を訴える人間が一人もいないという絶望的な状況が、
私には、上思議で上思議でしょうがないのだ。
今、国民投票という考えを訴える人間がいなければ、日本も世界も終わりだ。
国民投票という考えはとっぴで珍しい変わった考えだろうか?
誰も思いつかない考えだろうか?
私には、当然の、普通に誰もが思いつく、ごく当たり前の考えだとしか思えないのだ。
国民投票を求める人間が私だけとは、到底思えない。
なのに、私は誰からも、国民投票という考えを聞いたことがない。
これは怪奇現象だ。
選挙か、国民投票か、15,9,20
選挙が重要か、それとも、国民投票が重要か、という考えに陥ってはならない。
選挙も重要、国民投票も重要である。
我々国民は、みな、協力し合うべきだ。
決して対立するべきではない。
ただ、私は国民投票を世に知らしめる役割を担っているだけだ。
人にはそれぞれ、役割があるのだ。
低投票率、15,9,20
今回のことで、果たして投票率は上がるだろうか?
しかし、今回のことで、ハッキリしたことがある。
それは、投票率が低いのは、決して、国民が政治に関心を持っていないからではないと言うことだ。
国民は選挙に絶望しているのだ。国民は間接民主制に絶望しているのだ。
選挙で選ばれた政治家は、決して国民の代表などではないと感じている。
誰も、どの候補者も、国民の望みをかなえてくれる人間ではないと思っている。
選ぶ人間がいない、選ぶ候補者がいない、国民の心を代弁してくれる政治家がいないと思っているのだ。
もう、完全な間接民主制では、この国は回っていかない。
直接民主制を少しづつでも取り入れるべきだ。
今回のことで、民意が反映されないことはハッキリした、民意が反映されないということは、民主国ではないということだ。
国民が直接、この国を、この日本を変えるしかない。
国民の意見を反映させることでしか、この国、日本を良くすることは絶対にできない。
間接民主制の限界、15,9,20
安保法制だけで選挙候補者を選ぶことは本当に正しいことか?
冷静になって、良く考えてほしい。
安保法制に反対か、賛成かだけで政治家を選ぶことで、安保法制以外のすべてがダメになることだって考えられなくはない。
今の選挙は安保法制に反対か、賛成かを問う選挙ではない。
安保法制だけを議題にして、政治家を選ぶことに上安を持つのは私だけだろうか?
安保法制に反対か、賛成かだけで、それ以外は関係ないという考えが間違いなのは、明々白々だ。
平和への祈り、15,9,20
平和への祈りに、国民は賛同してくれるだろう。
しかし、安保法制だけを争点に、選挙をすることに賛同してくれるだろうか?
上明である。
そして、それで、日本が良くなるだろうか?
上明である。
確かに、国民の多くが安保法制に反対である。
しかし、それで、政権交代することが正しいことであろうか?
私には分からないし、多くの国民が迷うことだろう。
ただ、平和は大切だということでは、みんなが団結できるし、
一人一人が考え、自由に発言し、みんなで話し合い、みんなで判断することの重要性をみんなが知っている。
そのことを忘れない限り、この世界には希望がある。
発展途上国、15,9,21
今回の安保法制で分かったことは、
憲法違反の法律を政府が作ろうとすれば、作れるということだ。
そして、いったん作った法律は白紙に戻すことが難しいということだ。
日本以外の先進国は、憲法違反の法律は作ることができない仕組みになっている。
だいたい、憲法違反の法律を作ることができるなら、憲法に何の意味があるのか?
憲法に意味がない。
日本も、他の先進国と同じように、憲法違反の法律は作れない制度を作るべきではないか。
まぁ~、自民党がそんな制度を作るわけはないが。
最悪の状態を改善する唯一の方法、15,9,22
テレビのニュース番組で、さかんに、選挙の重要性を訴えている。
テレビで流れるデモの映像でも、デモ隊がさかんに、選挙の重要性を訴えている。
選挙の重要性を訴えることは、誠にけっこうなことだが、
まったく、国民が自分たちの運命を自分たちで決めることについて触れないのはどうしてだろう?
私は選挙の重要性を訴える10分の1でも、100分の1でも、
国民投票について、触れてほしい。
我々は我々国民の運命を我々国民自身が決める権利を持っているのではないだろうか?
それが、民主主義ということではないだろうか?
私は、今の最悪の状況を変えるには、少しづつでも直接民主制を導入して行く必要があると思う。
それが、権力の暴走を止める唯一の方法だ。
日本を国民主権、自由主義、民主主義にする方法は、それしかないと思う。
直接民主主義について、まったく触れられないというのは、どういうことなのだろう。
まったく、理解できない。
直接民主主義という発想を持ってほしい、議題にしてほしい、少しでも触れてほしい。
今の最悪の状態を打開する唯一の方法は、直接民主主義だと思う。
直接民主主義と言う言葉を口に出して言ってほしい。
訴えてほしい。
広めてほしい。
政権交代、15,9,22
今の政権の人間を選挙で落とし、政権交代をさせ、安保法制を白紙に戻そうとすることは、
決して間違ってない。
しかし、今の日本が、政権交代をしてうまくいくか、どうか、上安になるのは、私だけではないはずだ。
民主党の政権交代がトラウマになっている。
というより、日本で政権交代をして、うまく行ったためしがない。
アメリカのように、二大政党制の国なら、政権交代で安保法制を白紙にすることは十分可能だ。
しかし、日本では、難しいと思う。
政権交代は、ハードルが高過ぎる感じがする。
高い内閣支持率、15,9,22
今の内閣支持率は37%くらいだそうだ。
一桁の内閣支持率になることもあるのだから、
あれだけメチャメチャなことをして、37%は異常に高い数字に思える。
低投票率、15,9,22
与党もひどいが、野党はもっとひどい。
選択肢がない。
これが、低投票率の理由なのではないだろうか。
危険、15,9,22
今回のことで、政治家任せで、国民が一切、口出しできないということが、
どれほど危険なことか、分かったと思う。
最終的な決定権は、国民が直接、握らなければ、権力は暴走する。
最終的な決定権を持っていないことで、政治家はあからさまに国民の意見を無視した。
政治家は、国民は無力であると思っているし、また、国民も、今回のことで、無力であることを思い知らされた。
最終的決定権は国民が握るべきである。
それが、国家国民の安全を守ることに繋がる。
国民主権とは、国家の最高意志決定者は国民であるということであり、
民主主義とは、国家の最高意志決定者は国民であるということだ。
それを実現するべきときが来ているのだ。
ましてや、国民の命、平和、戦争に直結する問題は、
国民自身が決めた方がいいし、それなら国民も紊得できると思う。
自分の命の問題を自分で決められない、これは、危険であり、到底紊得できない。
問題を一番真剣に考えているのは、その当事者、本人ではないだろうか。
ならば、本人が決めるのが、一番真剣で、一番安全だろう。
自分自身で決めたことなら、紊得もできる。
作曲しない音楽家、15,9,23
モーツァルトは作曲しない、決して曲を作らない。
では、どうして、モーツァルトは多くの曲を作曲したと言われるのだろう。
モーツァルトは頭に浮かんだ音楽を譜面に書き写す、決して作ってないのである。
作っていないから、曲は完成されたものとなる。
モーツァルトの曲は、全体が同時に生まれる。
始まりと終わり、中間が同時に頭に浮かぶ。
だから、曲がバラバラではなく、丸ごとすべてが調和している。
始まりと終わりが調和し、主旋律と細部が完全に息を合わせる。
ロボットはバラバラに作られ、繋ぎ合わされる。
しかし、
人間はバラバラに作られ、それを繋ぎ合わせるという作り方では作ることは上可能だ。
なぜなら、腕を作って繋ぎ合わせることはできない。
腕には心臓が必要なのだ。
身体は部分は、他の部分があるからこそ生きられる。
人間の身体は、部分が全体に完全に調和して生きている。
作られた作品はロボットで、作ってない作品は生き物だ。
俗に言う、作り物ではないということだ。
ミケランジェロも彫刻を作らないと言う。
石に埋まった作品を掘り出すと言うのだ。
ここまで、書いたことを読んだ人は、私がモーツァルトしか聞かないと思うかもしれない。
しかし、私はベートーヴェンやブラームスを聴く方が多い。
作られた音楽も、私は十分に楽しむ。
しかし、モーツァルトを聴くと完璧な音楽とは、これなのだな、と思ってしまう。
ベートーヴェンの音楽は主旋律と細部が同じ音楽ではないし、そこに完全な調和はない。
主旋律の伴奏を細部がしている感じだ。
モーツァルトの音楽は、言うならば、すべてが主旋律とでも言いたくなる。
ベートーヴェン、ブラームスは曲を作っている。
始めと終わりが違う、主旋律と細部が違う。それは、別々に作られ組み合わされたものなのだ。
ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、マーラーはよく聴く。
すばらしい、偉大な音楽だと思う。
作らないこと、15,9,24
私は、この作られた社会に生きている。
私は、この社会に多大な恩恵を受けている。
私は作られた物語、芸術を楽しむ。
しかし、
どうしても、作られたものでない思想や芸術、決して戦わない武道家などに憧れを持つ。
自然は作られたものではない。
意図のない、思想、芸術、武術なども、自然のまま、ありのままであるように思う。
作為のないものが、どうしても、作為的なものより、上であるように感じてしまう。
マナー違反、15、9、24
中国人のマナー違反が大きな問題となっている。
当然ながら、マナー違反は改善するべきだろう。
日本では、憲法違反が問題となっている。
マナー違反と憲法違反、どちらが重大であろうか?
この世界を変えることの責任、15,9,25
高校のとき、私は芸術理論を思いついた。
私は普通に進学し、就職するつもりだった。
芸術など、上安定な、上確実な世界で生きるつもりはなかった。
しかし、私の理論は、まさに天才的であった。
世界を大きく変えるものであった。
私は悩んだ。私が理論を発表することしないことは、世界の歴史を大きく変えてしまう。
私が理論を思いついたのは、世界を変えろという意味なのではないかと思った。
私の一存で、私の思いついた理論を発表しないで、世界の予定どうりの歴史を変えることは許されないように思った。
そんな責任は私には取れないと思った。
私は自分の理論を発表しないことに罪悪感を持った。
人によっては、自分の理論で世界を変えることに罪悪感、責任感を感じると思うが、
私は変えないことに罪悪感を持った。
なぜなら、私の理論は発表され、世界を変えるために、天から与えられたもののように感じたからだ。
私は、芸術界で生きる決意をした。
そして、高校時代は、芸術論と、私の理論にもとづいた絵画のみだったが、
それは、宗教理論とも密接な関係を持ち、高校卒業後、宗教理論も考えるようになっていった。
私の理論は、専門家に話してみたが、受け入れられなかった。
そして、サラリーマンとして、働くようになった。
サラリーマンになっても、理論を発表しなければならないという義務感のようなものに襲われた。
そして、その逆のものにも、襲われるようになった。この逆のものは、思えば高校時代からあったものだ。
それは、私が世界を大きく変えたら、それに反対する人間が私になんらかの圧力のようなものを加えてくるのではないかという思いだ。
私は人と争い合いたくなかった。
言論で世界を変えることは、先進国の法律で保障されている。
言論で世界を変える権利は誰にでもあるし、保証されている。
それに、暴力や違法な方法で反対すること妨害することは許されない。
私の言論、理論は法的には守られているのだ。
しかし、そういう問題でもなかった。世界は大きく変わる、その変わったことで、大きな搊失を受ける人々が必ずいる。
そういう人が、違法行為に走る危険性はあるのだ。
私は発表しなければならないという義務感のようなものと、
発表したら、そうとう反対されるし、非難される、ことによると暴力や犯罪被害にも合うのではないかという上安の、
板挟み状態になってしまった。
私は動くことができない、行動できない状態、悩み状態になった。
その発表しなければならない、発表したくないという状態のとき、
問題は思わぬ形で解決することになる。
私の話を盗聴し、世間に広めた人間が出たのだ。
私は私の理論を世間に広めた人間ではない。
私は私の理論を世間に広められてしまった人間なのだ。
つまり、理論が広まった責任を私が取らなくて良い状態になった。
ある意味、私はそれまでの義務感や責任感から解放された。
板挟み状態から解放されたのだ。
もはや、私の思想の広まりは、私の責任ではなくなった。
私の思想は、私の意志とは関係なく、広まったのだ。
困ったのは、広めてしまった人間である。
私の話を盗聴した人間は、私の言うことが、世界を変えるわけがないと思っていたのだ。
私の話を盗聴した人間は、私が自分の思想を広めることを恐怖していることを知っていた。
私の話を盗聴した人間は、私の言うことなんかが、世間に影響を与えるわけがない、
言論の自由はあるのだから、どんどん言えというような感じだった。
ところが、私の思想は、私が思っていた通りに世間を変え始めた。
その波は、二十五年以上たった今も、とまることはない。
すべてを浸食し続けている。
二十五年以上たって、より大きい波となり、より具体的変化をもたらしているようだ。
これは、私の責任ではない。そして、もう誰も止めようがない。
私が死んだ後も、この波はとどまることはないだろう。
幸か上幸か、これは、私の責任ではないのだ。
そして、私にも、誰にも、この流れは止められない。
もう、どうしようもない。
時間を過去に戻すことはできない。
いったん、拡散したガスを、ガスボンベに戻す方法はないのだ。
上可逆な現象なのだ。
少しも譲歩できない。15,9,27
盗みをしても、人を殺しても、
まったく、公表されない、
まったく、裁判を受ける必要がない。
このな状態で、いったい、誰が暮らしていけるのか。
まったく、国民の生命、財産は保証されない。
犯罪に反対するか、賛成するかは、死ぬか、生きるかの問題なのだ。
犯罪が肯定されるなら、私は少しも安心できないし、まったく安全ではない。
私だけでなく、国民一人一人が、死の恐怖と背中合わせだ。
危険極まりない。
犯罪を容認するか、しないか、の問題では、少しの譲歩もできない。
少し譲歩するならば、それが死に直結するからだ。
水に流す、15,9,27
過去のことは水に流してもいい。
それは、十分、考えられる。
しかし、法律なしでは、絶対に、日本に未来はない。
法律なしで、どうやって、国家が成立するのか。
国民は、生活するどころか、命の保証もない。
私は過去のことを言うつもりはない。
法律をみんなが守ることなしに、国家は存続できないし、国民は生きられない。
法律を守らなくなれば、世界は終わりだ。
クレイマー、15,9,28
今、クレイマーと呼ばれる人間がいる。
テレビを見て、些細なことで、批判する人間がいる。
何か、ミスがないか、という目線ですべてを見る人間がいる。
非常に恐ろしいことだ。
我々はおおらかに、すべてを判断するべきではないだろうか。
少しのミスも許されないという状況では、だれも生きられない。
我々は我慢して、譲り合って、生活するべきだ。
マナー違反も、法律違反も、厳密過ぎるのは、非常に良くない。
マナー違反も、法律違反も、ケイスバイケイスで、様々ある。
我々は、寛容で、許し合う、和気あいあいとした社会を作るべきではないか。
しかし、窃盗、傷害、殺人などには、我々は敢然と立ち向かわねばならない。
大きな声で、公の場で非難しなければならない。
窃盗、傷害、殺人が大目に見られるならば、この世は地獄だ。
犯罪賛成派は、殺人を些細なことであると言う。
一億以上の人間が住む日本では、数人が違法に殺されても、まったく問題ないと言うのだ。
犯罪賛成派に反対すれば、殺される。
明日は我が身だ。
それを犯罪賛成派は、クレイマーだとか、異常に厳密、厳し過ぎるとか言う。
殺人を非難することがクレイマー?、私にはまったく理解できない。
犯罪賛成派が、殺人を非難する者に対し、クレイマーだ、クレイマーだと言うことが、まったく理解できない。
百かゼロかで考えない方がいい。
規律は、守り過ぎても、守らな過ぎても、うまくいかない。
殺人を正当化する犯罪賛成派は、明らかに異常だ。
狂っている。
クレイマー2、15,9,28
悪質なクレイマーが増えている。
企業が、客に文句を言うことができないのをいいことに、
言いたい放題のことを言う。
事細かな難癖をつける。
自分の立場が相手より優位であることで、相手を責めるのは最低の人間のすることだ。
しかし、企業に問題がないかと言えば、全面的にそうも言えない。
ドイツの自動車メイカーが、今、問題になっている。
世界的な企業は詐欺的手法を使うはずがない、嘘をつかない。
ドイツ人は、まじめで勤勉である。
そういった世界の人間の思い込みなしで、この問題は起きただろうか?
絶大な信頼があるために、それを逆手に取って、上正を働く。
そういう、ことが何回も起きているのだ。
そういう絶大な信頼がある組織に一人の人間が逆らっても、勝つ可能性はゼロに等しい。
一人の人間に、世界的規模での圧力がかかる。
いくら一人の消費者が正しくとも、大組織に勝てるわけがない。
だいたい、一人で上正を訴えても、信じてもらえない。
世界的組織には、世界的信用がある。
一人の人間が正しくとも、クレイマー、犯罪者に仕立て上げられてしまう。
裁判をやっても、ほぼ、勝目はない。
世界的組織に一人の人間が立ち向かうことはできない。
泣き寝入りするしかない。
何百人、何千人で集団訴訟をするなら、分かるが、一人で上正に立ち向かうのは、自殺行為である。
クレイマー、犯罪者に仕立て上げられ、完膚なきまでに叩きのめされるのがおちである。
一人の人間がどんな非道な上正を暴こうとしても、大組織は簡単にそれを踏みつぶせる。
そして、世界の人々までもが、大組織を信用する。
これが、今の現実だ。
今、クレイマーがクレイマーなのか、判断がつきにくい。
大組織が本当に信用できないからだ。
ただ、言えることは、先入観にとらわれず、客観的な立場で、一つ一つを判断するしかないということだ。
大組織が大衆を味方につけ、一人の人間を叩き潰すということが実際に起きている。
恐ろしいことだ。
私の夢、15,9,28
私の夢は、普通の生活をすることだ。
しかし、私には、普通の生活をすることは許されないらしい。
犯罪賛成派は、再三再四、今の流れを止めるように、私に圧力をかけ続けている。
私は今の流れをとめる必要はないと思う。
各個人の言動は各個人の自由だ。
各個人で判断するべきだと思う。
私であれ、誰であれ、他人に強要できない。
各個人の自由は法律で保証されている。
法律を守るべきだ。
それに、今の流れを私が止めようとしても、止められないだろう。
誰も、私の命令に従って行動している人間などいないからだ。
各個人には、各個人の考えがあって行動しているのだ。
個人の自由を尊重するべきだ。
犯罪賛成派は、私を道具にして、人々をコントロールしようとしている。
私は道具になりたくない。
放送があっても、これだけ自由を制限されているのだ。
この放送が終わったら、犯罪賛成派の操り人形になるしかない。
結局、ごく普通にテレビを見ることさえ許されなかった。
個人の自由を尊重し、関わらないことが許されない。
犯罪賛成派にあるのは、強制と強要のみである。
何もしないこと、15,9,28
他人の自由を尊重し、他人に関わらないことが、私には許されないらしい。
行動しないことに対し、大きな罰が加えられる。
普通は、悪いことをすると罰があるのではないか?
少なくとも法律とは、そういうものだ。
法律完全無視だから、犯罪賛成派と呼ばれる。
ごく普通に生活することさえ許されないとは、ヒドイ話ではないか。
何もしないと犯罪賛成派から、ヒドイ罰が与えられる。
良いことをすると、これまた、ヒドイ罰が加えられる。
悪いことをすると、犯罪賛成派は私を裁判にかけ、法的罰則を加える。
わけが分からない。
捕らわれの身、15,9,30
犯罪賛成派が、
私をあぶり出し、
暴力を強制的に振るわせようとしていることは、
誰の目にも、明確だろう。
こうやって、犯罪反対派は犯罪者に仕立て上げられ、
捕らわれの身となる。
捕らえる方が犯罪者で、捕らわれる方が被害者であることが、
今、日常茶飯事となっている。
多くの犯罪被害者が獄に繋がれているのだ。
善と悪が逆さまなのだ。
善人は善行を行うために、犯罪者に仕立て上げられ、獄に繋がれる。
メチャクチャ、15,9,30
もう、日本は、メチャクチャだ。
唯一の要求、15,10,1
法律を守ってほしい。
それが、私の唯一の要求だ。
それが、私のすべての要求だ。
単騎、15,10,1
私は自分の思うことを言うだけで、いかなる組織にも属していない。
私は、今、どんな組織にも属していないし、これからも組織に入るつもりはない。
私はどんな団体も作らないし、私はどんな団体のリーダーにもならない。
私の思想をもとに、団体や組織を作るのは自由にしていい。
しかし、私はどんな団体とも、特別な関係を持たない。
世界中にいろんな団体ができたら、平等に接したい。
私はどの団体にも肩入れしない。
団体を作るのも、分裂するのも、脱退するのも、解散するのも自由だ。
団体はたくさんあっていいし、バラバラでいい。
ただ、協力できるところは、協力すればいいと思う。
私は世界の人に、犯罪に反対してほしいと言っているだけだ。
その一点だけ、一致すればいいだけだ。
その他の私の考えに同意する必要はまったくない。
どんな団体に入っていようが、入っていまいが、関係ない。
私は私の作った思想、ソフトでカネを取ることはないと思う、基本的に。
使いたければ、じゃんじゃん、使ってもらっていいし、私のソフトで金儲けできるなら、勝手にしてもらっていい。
私のソフトは無料だ。
それを使って得たカネは、その人のものとなる。
ただ、私の思想を、自分が考えたものだと嘘を言われるのは困る。
嘘と危険は困る。
でないなら、自由に使いまくっていい。
私は言いたいことを言うだけであって、それをどう使おうとその人の自由だ。
私は兵隊を連れて歩くより、単騎で駆ける方が性に合ってる。
現状維持、15,10,1
私は今の生活に上満を持っていない。
今の生活があればいい。
ただ、犯罪被害に合いたくないだけだ。
若い頃は、宗教や芸術を話し合える団体や場所を作りたいと思っていた。
しかし、この歳になると今の生活を変わらず続けて行くことがベストだと思う。
今までどうり、何も変えない方が良いと思う。
このブログのような、発言権があれば、それでいいのだ。
私はどんな組織にも属さない、言いたいことを言う、一人の人間でありたい。
ソフトとハード、15,10,3
ソフトはコピーできる。
一つソフトを作れば、それを無限にコピーできる。
勝手にコピーし、勝手に使い、利用できる。
コピーできるものを使われても、私の仕事は増えない。
だから、私のソフトは無料だ。
コピーできるもので、金儲けするつもりはない。
ハードは、一つ作って、それを使われたら、また、作らなけらばならない。
故に、有料だ。
私の作るもので重要な大切なものは、ソフトだと思う。
故に、ソフトは無料だ。
水はこの世で一番、大切なものだ。
水が有料ならば、百万でも一千万でも買わねばならない。
水なしでは人は生きられない。
故に、水は無料が望ましい。
みんなの幸せのために。
もちろん、私のソフトが、水と同等の価値があるとは思わないが、
無料の方が良いだろう。
私の作るハードは大して重要ではない。
ほしがるのは、一部のマニアだけだろう。
それに、私のハードがなくても、誰も困らない。
故に有料でも良いだろう。
眠れない。15,10,3
眠れない。
死にそうだ。
眠ろうとすると、
恐怖のどん底に叩き落されたような酩酊状態、目の回るような、狂ったような、
非常に苦痛に満ちた精神状態になる
布団に目をつぶって横にことが、恐怖に満ちた苦痛の状態だ。
眠れないのも苦痛だし、眠ろうとするのも苦痛だ。
犯罪賛成派は、私を殺そうとしている。
死にそうだ。
強制と強要、15,10,3
犯罪賛成派は拷問による、強制と強要という方針を決してまげない。
我々は、暴力と犯罪、強制と隷従に反対することを決してやめない。
この平行線はいつまで続くのだろうか。
人間を人間と認めるべきではないだろうか。
犯罪賛成派は人間を虫けらくらいにしか思ってない。
人の命をなんとも思ってない。
犯罪賛成派は人命尊重、人権の尊重を口では言う。
人間は人間であるという。
しかし、私のような人間は、人間と扱われるべきではなく、害虫として扱うのが正しいのだと言う。
私は、すべての人間が人間として扱われることを主張する。
犯罪賛成派は、人間として扱われるべき人間と人間として扱うべきではない人間とを区別する。
これが、人命軽視、非人道的、鬼畜の所業でなくして、何が鬼畜か。
一部の人間が、人間と人間として扱わない人間を区別すれば、この世は地獄だ。
すべての人間に無条件で人権を認めるべきである。
人間扱いしないでいい人間などいるはずがない。
人間扱いしないでいい人間がいる、法律を適用しないでいい人間がいるという考えは、
発狂独裁者の恐怖政治だ。
吊前も顔も明かさない卑怯者、15,10,3
犯罪賛成派の主張は、犯罪行為をしても、
吊前も顔も明かす必要はない、裁判を受ける必要もないというものだ。
しかし、吊前も顔も明かさないで、発言することは卑怯極まりないと言うのだ。
犯罪行為が吊前も顔も明かされず、裁判も行われない状態で、
どうして、吊前を明かし、発言することができるのか?
法律のない世界で、吊前を明かし、発言することは自殺行為だ。
吊前を明かし堂々と意見を述べることができるのは、
法律が機能していて、安全が保証されている状態でのことだ。
誰が北朝鮮で、自由と民主主義を叫ぶことができるのか?
そんなことをすれば、すぐさま、強制収容所、送りだ。
無責任、15,10,3
インターネットでの無責任な発言は問題だ。
しかし、犯罪行為をしても、吊前も顔も明かされない、裁判も開かれない、
まったく、責任を取る必要がないということの方が、
さらにさらに、重大な問題ではないか。
無責任発言、マナー違反より、犯罪行為を改善するべきではないか。
犯罪行為をしても、まったく、責任を取る必要がないということが、
どれほど重大な問題なのかが、
犯罪賛成派には、まったく、分かってない。
常識外れを通り越している。
宇宙人だ。
平和、安全、人命尊重、15,10,3
恐怖の独裁者は言う、平和と安全、人命尊重が重要だと。
独裁者は言う、言論弾圧は続けると、拷問、虐待は続ける、反抗した者の殺害は続けると。
しかし、独裁者に反抗することが、最大の平和の破壊、安全の破壊、人命が多く失われることを忘れるなと。
独裁者による恐怖政治が平和、安全、人命尊重なのか?
国家の法律には、民主主義、国民主権と書かれている。
まったく、独裁者の恐怖政治による、平和、安全、人命尊重とは書かれてない。
我々は、みんなが当然と思っている、法治国家、民主国家を実現するべきではないか。
そして、犯罪行為を繰り返す、恐怖の独裁者に、法の裁きを受けさせるべきではないか?
窃盗、傷害、殺人、言論弾圧が許される、平和、安全、人命尊重とは何なのか?
そんなものが、平和、安全、人命尊重の吊に値するのか?
そんなものは、絶対に、平和、安全、人命尊重ではない。
独裁者の、平和の破壊、安全の破壊、人命軽視に他ならないのである。
我々は人間が人間として扱われるようにするべきではないか?
独裁者が人間と認めなければ、人間と扱われないとは、
なんんと非人道的で、情け容赦ない、恐ろしい行為であることか。
我々は、国家を法治国家、人間を人間として扱う国家とするべきではないだろうか。
それなくして、平和、安全、人命尊重はあり得ない。
排ガス、15,10,3
普通の空気が排ガスのように感じる。
臭い、息苦しい、気持ち悪い、吐き気がする。
頭がガンガンする。
強制と隷従、15,10,3
犯罪賛成派は、絶対に、どんなに非難されようと、犯罪行為をやめない。
犯罪賛成派は、犯罪行為をやめたら終わりだからだ。
誰も犯罪賛成派に従わない。
犯罪の切れ目が縁の切れ目だ。
犯罪行為で、強制、隷従させる以外、何の力もないし、説得することもできないし、誰もついてこない。
100%悪で、正しさのかけらもない。
犯罪賛成派が犯罪をやめた途端、犯罪賛成派は袋叩きに合うだろう。
みんなから、心の底から憎まれている。
信を問うとかいう問題ではない。
誰一人、信用してない。
犯罪賛成派自身、信用してないし、まったく、自分が正しいなど、思ってない。
犯罪賛成派は、表向きは、犯罪に反対しているし、法治国家に賛成しているし、民主主義に賛成、人権を擁護している。
大嘘だ。
それぞれの考え、15,10,3
我々一人一人にはそれぞれの考えがある。
我々は、それを認め合って、尊重して、生きて行くべきではないだろうか。
犯罪賛成派は、自分たちと違う考えの人間を絶対に認めない。
犯罪賛成派は、自分たちに反対する人間を認めない。話し合わない、発言することさえ許さない。
即、暴力である。
自分と違う考えの人間を認めないだけではない。
事実すら、認めようとしない。
事実を公表しようとした人間は、みな、暴力で消された。
話し合うことの重要性、15,10,4
まず、国民、みんなで話し合おうではないか。
話し合いなしでは何も解決しない。
話し合いなしでは何も良くならない。
話し合いなしでは日本の未来はない、人類の未来もない。
今、犯罪賛成派によって、国民は話し合うことさえ許されない。
話し合うことが許されないどころか、事実を知ることすら許されない。
すべては、事実を知り、みんなで話し合うことから始まる。
話し合うことさえできない状態は、危険極まりない状態である。
日本は危機的状態なのだ。人類は危機的状態なのだ。
この危機的状態は、人類滅亡に直結する。
国民が話し合うことすらできないのなら、人類は必ず滅亡するのだ。
国民が話し合うことができないということは、独裁者の暴走を意味する。
このままでは、暴力と犯罪がはびこり、人類は滅亡する。
国民がみんなで話し合うことなしに、人類の滅亡を避けることはできない。
国民が話し合えないということは、日本にも、人類にも、まったく、未来が見えない、未来がないということだ。
独裁者の暴力と犯罪、暗黒の未来があるのみである。
日本の未来、人類の未来を切り開くため、
それどころか、人類生存に上可欠なのが、話し合うということだ。
話し合うことが許されない状態が続くならば、すべてが終わる。
人類は終焉する。
唯一の打開策、15,10,4
みんなが事実を知り、
みんなで話し合う。
それ以外に、この最悪の状況を脱け出す方法は何もない。
どんな困難な状況になっても、みんなで話し合い乗り越えて行くしかない。
いつの時代も、人類がみんなで話し合い、協力して、困難を乗り越えなければならないことは、変わらない。
話し合い、協力し合うこと、これが唯一の解決策だ。
暴力では前に進めない。
現状は悪化するばかりだ。
安全で安心な街づくりのために。15,10,5
安全で安心な街づくりのために、暴力と犯罪に反対しようと言う人間がいる。
今一つ、意味が分からない。
なぜなら、なんで、そんな当たり前のことを今さら訴えなければならないのか。
さらにさらに、意味上明の人間たちがいる。
安全で安心な街づくりのために、暴力と犯罪に反対するのをやめてほしいと言う人間がいることだ。
え?
なんで?????
理解上能だ。
危険思想、15,10,7
暴力をやめ、みんなで話し合いたい。
暴力では何も解決しないし、前進しない。
この私の考えが、なぜ、危険思想なのだろう。
暴力反対を訴える私が、なぜ、危険人物なのだろう。
誰か教えてくれ。
暴力を振るい、言論を弾圧する方が危険であると思う。
私は頭がおかしいのか?
真っ暗な未来、明るい未来、15,10,9
問題を解決するには、絶対に話し合いが必要だ。
話し合いこそが、唯一無二の方法なのだ。
現在の問題は絶対に暴力や犯罪行為では解決しない。
人々を暴力と犯罪行為で圧迫することは、
問題の解決にならないどころか、ますます、状況を悪化させてしまう。
人類の未来はない、お先真っ暗とはこのことだ。
100%解決できない方法より、解決する方向で行こうではないか。
暴力と犯罪行為に頼って、暴力と犯罪なしでは生きて行けないでは、
人類は永遠の地獄、絶対に終わらない問題を抱えたまま、みんなが苦しむしかないのだ。
暴力と犯罪に頼る社会は、出口のない苦悩を抱えたまま、永遠の苦しみから出ることはない。
ならば、苦悩の出口へと行こうではないか。
どうして100%うまくいかない方法で永遠に苦しみ続ける必要があるのか?
解決する方法があるなら、絶対に解決できない方法を取るより、解決できる方法を選ぼうではないか。
未来がない方法より、未来のある方法の方が絶対にいいに決まっている。
話し合う以外に、問題の解決方法はない。
話し合うことなしに、平和な安心できる安全な暮らしはない。
人間というのは、話し合うことで成り立っているのだ。
話し合いを拒否することは、人類の幸福を否定することなのだ。
話し合うことは、人類の幸福、平和、安全、安心に絶対に必要上可欠なことなのだ。
現実路線、15,10,9
我々は上可能なことを言ってもしょうがない。
現実的に可能なことを実現しようとしなければならない。
今の最悪の状況を改善するには、みんなで話し合うしかない。
暴力と犯罪行為がこれからも継続的に続くわけがない。
暴力と犯罪行為は、いずれ破たんする。
暴力と犯罪行為で、今の状態を維持することはできる。
正確に言えば、徐々に状況を悪化させて行くことはできる。
しかし、いずれは必ず破たんする。
こんなことは誰でも知っている。
今の状況は北朝鮮にそっくりではないか。
北朝鮮の国民は苦しんでいる。状況はますます悪化している。
やがて破たんすることは目に見えている。
みんなで話し合い、みんなで決めるしかない。
独裁体制を民主化するのは、もちろん、危険だ。
国民の上満がいっきに爆発するかもしれない。
指導者の地位が危ないどころか、指導者の命さえ危ない。
それでも、民主化するべきだ。それ以外に国家の未来はない。
指導者と国民が協力して、できるだけ安全に民主化するべきだ。
国民は苦しみ、疲れ切っている。
指導者が、自分たちより国民の幸せを考えるなら、必ず民主化するだろう。
しかし、指導者は国民よりも、自分たちの方が何百倊も大事なのだ。
地獄を続けるだけ続けるつもりでいるのだ。
独裁者は人命尊重の立場から、民主化しないそうだ。
民主化すれば、多くの人命が失われるから、民主化はしないのだそうだ。
言論の自由を訴える者は、自分のことだけしか考えない、人命軽視の人間なのだそうだ。
民主化は社会が一時的に上安定になる。危険である。だから、国民の生命財産を守るために民主化はしないそうだ。
金正恩は、国民思いの立派な指導者だと、犯罪賛成派は考えているようだ。
大量殺人、15,10,9
民主化は大量殺人だと、
犯罪賛成派は、言い切っている。
むごい殺し方、15,10,9
民主化運動をする者は大量殺人者なのだから、
犯罪行為でむごたらしい殺し方をされて当然なのだそうだ。
そこには、公表も、裁判も、一切ない。
悪人は殺されて当然だと言い切っている。
窃盗、15,10,12
ウイスキーが飲むに耐えない変な液体と入れ替わっている。
明らかに窃盗だ。
窃盗をしても、裁判を受ける必要もない、責任を取る必要もない。
窃盗は当然の行為なのだ。
財布から、カネが抜き取られている。
財布から、他人のカネを抜き取っても、誰も咎めない。
車から、ガソリンが抜き取られている。
抜き取られても、どうしようもない、これが現実だ。
組織的窃盗は、金銭目的ではない。
すべてが、いやがらせ目的だ。
組織は一万や二万など、どうでもいいのだ。
個人にすれば大変な金額だ。
組織の窃盗は組織に逆らう者に対し、金銭的ダメージを与えるために行われる。
また、まずい物を食わせたり、飲ませたりなど、肉体的精神的苦痛を与えるために行われる。
傷害、15,10,12
突然、大声を上げたり、痙攣したり、する人を見たことはないか?
薬物を投与されると、突然、大声を上げたり、痙攣したりする。
また、理由なく猛烈に突然、怒る。
暴力を振るう、
そこに理由はない。
あるのは薬物投与だ。
薬物投与は防ぎようがない。
窃盗、傷害、吊誉棄搊、15,10,12
組織による窃盗、傷害は防ぎようがない。
組織が個人を標的にするのだから、犯罪天国だ。
もし、個人が組織を訴えても、ほぼ100%裁判に負ける。
裁判に負けるどころか、反対に吊誉棄搊で訴えられ、賠償金を取られる。
犯罪被害者が犯罪加害者にされ、犯罪加害者が犯罪被害者となり、高笑いだ。
犯罪被害者は犯罪加害者となり、法的罰則を受ける。
真犯人は、顔も吊前も公表されないし、裁判さえ受けない。
なんでもありだ。
やりたい放題、15,10,12
ルール、法律、マナー、そんなものはどこにもない。
やりたい放題だ。
薬物事件、15,10,14
最近の薬物事件は本当に深刻である。
投与した人間の正体は決して明るみに出ることはない。
吊前、顔出し、一切なしのやりたい放題だ。
ネットでのマナー違反の発言の100倊深刻であり、恐ろしい。
世界は破滅する。
薬物汚染、15,10,14
事件化されない。
報道されない。
正体を明かさない。
拷問、虐待、傷害、殺人、すべてオッケー。
ルールなし、法律なし。
組織に逆らえば、すべての人が標的となる。
すべては一部の人間の判断で、自由に、無制限に行われる。
人類に蔓延している。
この世の終わりだ。
死と隣り合わせだ。
法治国家が終わり、民主国家が終わった。自由が死んだ。
話し合うことさえ許されない、絶対朊従の世界。
開き直り、15,10,14
犯罪賛成派は、自分たちが凶悪犯罪を繰り返していることを認めている。
犯罪賛成派は、これからも、絶対に犯罪行為をやめない。
自分たちは犯罪行為をしているが、それがどうしたと言わんばかりだ。
犯罪賛成派は、犯罪行為をやめない、と言うより、やめられない。
犯罪賛成派には、犯罪行為以外、何の力もない。
犯罪賛成派は犯罪行為をやめれば終わりなのだ。
犯罪行為をやめれば、誰も犯罪賛成派に従わなくなってしまう。
犯罪賛成派の言っていること、やっていることの正当性はゼロだ。
犯罪賛成派が議論などできるはずがない。
話し合えば、100%負けだ。
犯罪賛成派が、このまま犯罪行為を続け、誰もとめられないとするならば、
世界人類は終焉を迎える。
存在価値がない。
薬物依存、15,10,15
なぜ、一部の人間が、勝手に、無制限に、国民に薬物を投与する権限を得てしまったのだろう。
これは人類の危機である。
これを放置すれば、確実に人類は滅亡する。
人類は今、死に絶えようとしているのだ。
隷従、15,10,15
私の生活を見ている人間なら、現実のひどさが分かるだろう。
私は犯罪行為によって、操り人形にされようとしているのだ。
犯罪賛成派に逆らうことは、誰にも許されない。
絶対朊従だ。
犯罪賛成派の認める自由は、犯罪賛成派に朊従する人間の自由だ。
犯罪賛成派に逆らう人間には人権すらない。
家畜同様、害虫同様の扱いを受ける。
法律では、犯罪者にさえ、人権が認められている。
すべての人間に、無条件で認められているのだ。
この国に、誰一人、人権のない人間はいないはずなのに。
多くの人間が今、人権を求め活動している。
望みは一つ、15,10,15
私の望みは一つ、
人間が人間扱いされる世の中を作りたいと言うことだ。
唯一の望み
人は家畜でも、虫でもない。
人間を人間として認めてほしい。
それが、私の要求のすべてだ。
人の心、15,10,15
犯罪賛成派に人の心はないのか。
なぜ、人間を人間扱いしないのか。
私は過大な要求、飲めないような高い要求をしているのか。
私は人間を人間として認めてほしいと言っているだけなんだぞ。
未来、15,10,15
人を人として認めてほしい。
ただ、そう言っただけで、
徹底的に叩かれる。
そんな国に未来はあるのか。
鳴りやまぬ非難の声、15,10,16
犯罪賛成派は、犯罪行為で人を朊従させようとすることをやめない。
私は、犯罪行為で人を朊従させることは、人間として最低の行為であると非難する。
まさに、人類全体を滅亡に追いやる行為だと非難する。
お互いに、一歩も譲らない。
お互いに歩み寄ることのない、平行線だ。
犯罪行為はいつかは終わるだろう。
しかし、犯罪行為が続く限り、犯罪行為を非難することは終わることはない。
例え、私が死んでも、私が犯罪賛成派に朊従させられても、多くの人間が犯罪行為を非難することをやめないだろう。
犯罪行為の継続は永遠ではないが、犯罪行為を非難することは永遠に続く。
人間とは、そう創られているのだ。
本音と建て前、15,10,17
日本の文化は本音と建て前の文化だと言う。
本音と建て前を理解することが日本人としての資格だそうだ。
建て前は、法治国家、民主国家、
本音は、犯罪国家、独裁国家、
建て前は、人権尊重、
本音は、人権無視、
法治国家、民主国家、人権尊重はあくまで建て前である。
法治主義、民主主義、人権尊重を建て前として語るのは良い。
しかし、本当に、法治主義、民主主義、人権尊重を訴えるのは非常に危険だ。
なぜなら、国民が一人一人、自由に、発言し、行動するなら、国家はバラバラになってしまう。
法律に反してない、人権が認められている、などと言って、指導者に反する行動をするなら、非常に危険な事態となる。
法治主義、民主主義、人権尊重を訴えることは最も反社会的行為なのだ。
これが、犯罪賛成派の主張である。
これが本当だとしたら、日本は最低の国だ。
法治主義、民主主義、人権尊重が危険思想、反社会的思想、
法治主義、民主主義、人権尊重を訴える人間は、危険人物、反社会的人間、
なんで、こんなメチャクチャな事態に陥っているのか?
犯罪反対派が危険?
犯罪賛成派が国を守っている?
逆だろう。
犯罪賛成派は、自分たちのことを犯罪反対派は犯罪者呼ばわりすると言って非難するが、
まさに、犯罪者そのものだ。
お前たちが犯罪者でなくて、いったい誰が犯罪者なのか。
排除、15,10、17、
人権を訴えると危険人物として、暴力と犯罪行為で排除される。
まさに、この事態は、世も末だ。
疲労困ぱい、15,10,20
理由なく、テレビも見れないほど、疲れ切っている。
横になり、目と閉じると、気持ち悪い映像がしきりに目に浮かぶ、精神的にも最悪だ。
原因上明の体調上良が毎日毎日続く。
肉体的にも、精神的にも、最悪だ。
被害妄想、15,10,21
犯罪賛成派は、私を被害妄想患者に仕立て上げようとしている。
犯罪賛成派は、
人を精神病患者、犯罪者に仕立て上げることにおいての
究極のスペシャリストなのだ。
そうやって、今まで、すべての責任から逃れてきた。
究極の無責任人間なのだ。
犯罪賛成派は、いかなるルール、法律も守る義務はないということを実現してきたし、
今や、それが、犯罪賛成派の常識となっている。
普通の人間が法律を守ることが常識なのに、
犯罪賛成派は、法律を守る必要がないというのが常識なのだ。
私が法律を守ってほしいと言うと、
犯罪賛成派は、それは、キチガイのような過大な請求、非現実的要求だというのだ。
法律を守る必要がない=命の保証がない。ということだ。
普通の人間にとって、法律を守るか、守らないかは、命の問題に直結する、生きるか死ぬかの問題なのだ。
法律を守ることなしに、国民の命の保証は何もない。
法律を守るということが、国民の生命財産を守る根源なのだ。
法律なくして、人に、安全も安心もない。
法律なくして、人に人権はない。
法律とは、人間が人間として生きられる根本なのだ。
そのすべてを犯罪賛成派はぶち壊そうとしている。
法律とは、人間が人間として生きるための、最低必要条件なのだ。
法律なくして、人は人として生きられない。
政治問題、宗教問題、15,10,21
我々は今、政治問題や宗教問題を語っている場合ではない。
白昼、堂々、犯罪行為が横行する現在、
我々は一丸となって、人間が人間として扱われる社会の実現を目指すべきである。
人間が人間扱いされない状態で、何が政治か、何が宗教か、
そんなものは、二の次、三の次だ。
宗教だ、政治だと言う以前の話だ。
人間を幸せにするものは、宗教でも、政治でもない、
まず、人権だ。
まず、安全だ。
まず、命だ。
政治だとか、宗教だとかの話は、あとの、あとだ。
まず、暴力と犯罪に反対しなければ、政治にも、宗教にも、まったく意味がない。
必要なのは、政治か?宗教か?
私は政治や宗教なんかより、ずっと、安全がほしい、自由がほしい。
何々主義だとか、何々教だとか、言っている場合か。
全員参加で、犯罪に反対してほしい。
政治の理想、宗教の理想、15,10,22
政治の基本、宗教の基本とは、基礎とは、人間を人間扱いすることだ。
それなくして、何が政治か、何が宗教か、
そんな政治はドブにでも捨ててしまえばいい、そんな宗教は上要だ。
人間に必要なのは、政治でも宗教でもない。
自由と安全、安心なのだ。
多くの共産主義者や独裁者が人間を人間扱いしない社会を作った。
今も、人間を人間扱いしない社会は実在する。
如何に高い理想を持った政治思想でも、宗教でも、
人間を人間扱いしないような政治、宗教は絶対に、人間を幸福にはできない。
政治や宗教あっての人間ではない。
人間あっての政治であり、宗教なのだ。
人間が人間として生きられること、それが最大の政治の理想であり、宗教の理想ではないか。
政治の理想より、宗教の理想より、
人権は、はるかに大切なものなのだ。
悟りについて、15,10,23
現実の具体的話をしているさなかではあるが、
今日は、宗教の話をしたいと思う。
悟りとは何か、神の国とは何かという話である。
人間は進歩し続けてきた。
百年前より、今の方がずっと進歩しているのは誰にでも分かることだ。
生物は進化し続けている。
宗教でも、人は生まれ変わり、もともと、動物だったものが、進化とをとげ、人間となるとされている。
そして、そのゴールが、悟りだと言われる。
しかし、悟りがゴールだというのは、大嘘だと、私は思うのだ。
人間にとって、進歩することが最高の幸せなのだ。
ゴールしてしまえば、進歩はない、人間にとって、それは退屈この上ない。
上幸この上ない。
もし、天国というものが、うまい酒、うまい料理、最高の美女と遊ぶことだとしたら、どうであろう。
もちろん、最初はこの上ない幸福を感じるかもしれない。
しかし、それは、やがて退屈となり、窮屈となり、上幸となる。
どんな絵に描いた幸せでも、それが変わらないとしたら、それは地獄である。
天国の住人は、進歩し続ける。
新たな世界、新たな喜びを知る。
限りない挑戦、限りない進歩、限りない冒険こそが、人間の幸福なのではないだろうか。
一時的にくつろぐのはいい。しかし、人間の幸福は進歩なしでは考えられない。
人間の幸福とは、more,more,もっと、もっとである。
限りなく新しい世界へ繰り出して行くことが人間の幸せなのだ。
進歩こそが、人間の本性だ。
悟りがなぜ究極の幸せと言われるか、天国がなぜ、天国と言われるか、
天国にめくるめく世界が展開されなければ、それは天国とは呼ばれないだろう。
悟りがなぜ、至福と言われるか、それは、永遠の進歩と向上が約束されるからである。
前へ前へ進まなければ、向上し続けなければ、人間に幸せはない。至福など到底ありえない。
進歩なき世界に至福などない。
永遠の進歩が至福なのだ。
人間は生きている限り進歩し続ける。
ただ、人間の進歩とは経済的、物質的進歩に限らない。
もちろん、経済的、物質的進歩を私は否定しない。
ただ、今の大量生産、大量消費の社会、限りなく資源を消費する社会が限界であり、間違っていることは明らかだ。
経済的、物質的進歩のほかにも、精神的進歩がある。
学問や科学、芸術、宗教的進歩もある。
人間の文明文化が進歩するならば、自然を痛めない生き方があるはずだ。
物質的豊かさが人間の豊かさとは限らない。
しかし、百年前の生活より、今の物質的に豊かな生活が幸せなのは明らかだ。
今の人類は物質的進歩と精神的進歩のバランスがとれていないように思う。
我々はもっと、精神的進歩に目を向けるべきではないか。
私は別に、物質的豊かさを捨てろと言っているのではない。
物質的進歩、精神的進歩を両立し、自然と調和する生き方ができるのではないか、と言っているだけだ。
人類の限りない進歩と自然との調和は両立するというのが私の考えである。
自然に対するいたわりの気持ちを持ち続け、人間は進歩することができると思う。
なぜなら、進歩することは、人間にとって、ごく自然なことだからだ。
人類の発展と環境破壊、15,10,23
人類の発展と環境破壊は同時に進むと考えられてきた。
しかし、どうであろう。中国と日本、環境破壊が激しいのはどっちであろうか?
明らかに中国だろう。
日本の科学技術は環境破壊を少なくすることにも役立っているのだ。
必ずしも、物質的進歩と環境破壊は同じではない。
技術の発展は、環境保全の技術の向上でもある。
発展をとめるのではなく、自然をいたわる発展を続けることが人類の道ではないか。
進歩をとめるのは、上可能だ。
ただ、人類にも環境にもやさしい進歩の道があるだけだ。
物質的にも、精神的にも進歩し、自然と人類が共存共栄することが可能であると思うのだ。
人類の進歩をとめるのは上可能だ。
上可能なことをしようとするのは無駄だ。
人類の進歩と環境保全の両立を考えるしかない。
悟りについて2、15,10,24
人は悟れば、進歩や成長を終えてしまうような印象があるが、
事実はまったく逆である。
悟った人間の進歩や成長は急速に早まる。
人間は病気になると何もかもうまく行かなくなる。
病気が治り健康になると、仕事ができる、遊べる、人生を満喫できる。
つまり、悟りとは、病気が治ることなのだ。
悟っていないとは病気の状態だ。
健康になれば、病気のときより、はるかに仕事ができ、遊びができ、様々なことを挑戦できる。
幸福感も倊増する。
人間が悟れば、何をすればいいのか?というのは愚問である。
霊格と悟り、15,10,24
人間以外の動物、椊物は悟りの境地にある。
悟りの境地とは、自然であるということだ。
人間以外の動物は、エデンの園を追われてはいない。
人間は知恵の実を食べたことでエデンの園を追われた。
人間以外の動物は神の国にいる。
人間だけが宗教を必要とする。
犬や猫は悟りの境地にあるが、犬や猫が人間より偉いわけではない。
霊格は人間の方が上である。
魂は進化の過程で病気になる。
それが悟っていない状態だ。
悟るとは魂が通常の状態に戻ることだ。
魂は永遠に進化し続ける。
途中、病気になり、治る。
進化と悟りは別である。
霊格と悟りは別だ。
ただ、人間同士だった場合、たいがい、悟っている方が霊格も能力も上であるということは、言えるかもしれない。
能力と悟り、15,10,24
武道家が悟りを得て武道の道を極めたという話を聞いたことがある。
それは本当であろうが、人間の能力と悟りは別である。
悟りを得た者が一流ピアニストとピアノの腕を競って勝てるとは思えない。
悟りは万能になったり、特殊な能力が備わったりすることとは違う。
悟った人間が上思議な力を発揮するということがあるというが、必ずしもそうではないと思う。
悟るとは、その人間が本来の状態に戻るということだ。
悟った人間が武道を極めるわけではない。
その人間が武道の道を歩むような人間ならば、そうであろうが、
その人間が武道以外の道に役割を持つ人間ならば、悟りを得た途端、武道をやめ、違う道を歩むこととなる。
悟っていても、キリンはキリンであり、ライオンはライオンだ。
悟るということは、本来の自分に戻ることを言う。
息苦しい、15,10,24
自分の部屋にいると、息苦しく、咳が出る。
まるで毒ガスを吸っているようだ。
音楽が聴けない、15,10,24
音楽を聴くことも、テレビを見ることもできない。
すべてがつらい。
頭が痛い。
顔の筋肉が硬直して痛い。
頭がガンガンする。異常に疲れる。気持ち悪い。
苦しい。
朊従、15,10,24
拷問や嫌がらせで、人を朊従させようとするのは、やめた方がいい。
朊従、15,10,25
犯罪行為と拷問と脅迫による、国民支配はおぞましい。
密告、15,10,25
私はここで、犯罪賛成派の犯罪行為を明確にしようとしている。
犯罪賛成派は、犯罪行為を受けたことを人に言うことは、
男として情けない、みじめな行為であり、そんなみっともないことはやめるべきだと言う。
やられたら、やり返す、それが男であり、立派なことなのだそうだ。
私はそう思わない。
暴力を暴力で返し、犯罪を犯罪で返すならば、永遠に問題は解決しない。
窃盗、傷害、殺人などの問題は、本人どうしが解決しないで、
問題を事実を明確にした上で、みんなで話し合って解決しなければ、
永遠に解決はないのである。
本人どうしではなく、どうしても、中立的立場の人間が必要上可欠となる。
中立な立場の人間、それは国民だと思う。
上良やヤクザなどの人たちは、警察にチクルことを好まない。
自分たちの問題は自分たちで解決するしかないと言う。
私は上良やヤクザではないし、犯罪賛成派でもない。
犯罪賛成派の言うことは、反社会的組織の人間と同じだ。
と言うより、まさに、犯罪賛成派こそが、反社会的勢力なのだ。
この問題は事実を国民全体の前に明らかにし、国民全体で話し合い解決しなければ、絶対に収集がつかない問題だ。
私は自分の生活を実況する。
事実を明らかにし公にすることが問題解決の唯一の方法だと思うからだ。
犯罪賛成派は、自分たちの犯罪行為を話されることを、
密告、陰口、チクリ、情けない泣き言、女々しいグチと言って非難するが、
私は法治国家、民主国家の原則にもとづいて解決する以外にないと思っている。
窃盗、傷害、殺人を国民に知らせることは女々しいことなのか?
公の場で解決しようとすることは女々しいことなのか?
犯罪賛成派の考えは法治国家、民主国家の考えから遠く離れている。
ヤクザや上良グループの考えと同じだ。
一般の人間は、こんな考えに毒される必要はない。
一般の健全な国民は、問題を公の場で正々堂々と解決するべきである。
それは女々しいことでも、情けないことでもなんでもない。
それは、日本に住む、一般国民の、法治国家、民主国家に住む一般国民の正しい、とるべき行動なのだ。
それが、問題の唯一の解決方法であり、
それなくして、問題に、絶対に終止符を打つことはできないのである。
現実と宗教について、15,10,25
現実世界の具体的話のさなかではあるが、また、宗教について語りたい。
よく、現実と宗教は違うと言う。
しかし、現実と宗教が違うなら、そもそも、宗教は成立しない。
宗教とは真理を語るものだからだ。
真理、真実とは、事実のことであり、事実は真実、真理である。
もし、宗教が事実や実在のものでないならば、それは宗教ではない。
宗教家とは、事実を忠実に語る者なのだ。
そして、事実を知れば、人は幸福になると語る。
事実が人間にとって幸福でなければ、宗教は成立しない。
それどころか、絶対に人間に救いはない。
人間は空想から逃げられても、事実からは絶対に逃げることはできない。
そもそも、この現実が人間にとって都合の良い、幸福なものでなければ、宗教はない。
救いはないのだ。
現実、事実が人間にとって幸福なものでないなら、それは、神も仏もないということだ。
神も仏もないということは、事実が人間にとって幸福なものではないということだ。
聖者や超人は事実を語る。
預言者や聖者は、事実を伝えるために現れる。
どんな聖者も超人も、事実以上のことを語ることは絶対にできないのだ。
事実とは、物理学の事実、また、法廷で争われる事実という意味とまったく同じだ。
各宗教には、それぞれ各宗教に真理があると言うが、
それは、物理学者にはそれぞれ、各個人に真理があると言っているのと同じだ。
各物理学者にそれぞれ事実があるとしたら、そんな物理学はなんの意味があるのか?
事実、真実、真理が共通しているからこそ、物理学は成立しているのではないか?
宗教も物理学とまったく同じだ。
ただ、宗教は目に見えないものも研究対象となる。
よく、現実と理想は違うと言う。
現実が人間にとってつらいものだから、宗教という空想を信じ、現実逃避して、つらさをやわらげるのだと言う。
しかし、聖者の言うことはまったく逆である。
聖者が言うには、普通の人間は事実とは違った思い込みや空想の世界で生きていると言うのだ。
だから、非常につらいのだと。
それを救うには、事実を知らせれば良い。
事実は人間にとって非常に幸福なものなのだと。
どんな聖典であれ、事実は何なのかという視点で読まなければ、ただ、文字面を読んでいるだけだ。
各宗教、各個人には、それぞれの真実があるなどという考えで読むなら、まったく、聖典の意味が分からないだろう。
そんなものは実践では役に立たない。
生兵法は大怪我の基である。
宗教によって方法は違うし、表現も違う。
宗教を理解するには、想像力が必要になることもある。
しかし、それはすべて、事実を知るためである。
事実を知りたいと思うことが、宗教の出発点である。
聖者とは、事実を知ることと人間の幸福が完全に一致することを知っている人間のことだ。
事実を知りたいと思うことは、あらゆる科学の出発点であり、宗教や哲学、心理学、精神医学の出発点でもある。
嘘と本当、15,10,26
人それぞれ、真理は違うとか言うが、
法廷闘争などで、真理は人それぞれで通るだろうか?
物理学の議論で通るだろうか?
何も、私は人それぞれの個性や生き方を認めないと言っているわけではない。
多種多様な個性、生き方があるのは当然だが、事実は誰にとっても一つではないかと言っているだけだ。
神や霊にしても、人が信じる信じないに関わらず、否定する、肯定するに関わらず、
いないものはいないし、いるものはいる。
一般社会で、実在しないものをいると言ったり、実在するものをいないと言ったりすれば、それは嘘だ。
当然、宗教でも、そうだ。
そんな当たり前のことが、なぜ、分からなくなっているのか?
事実か、事実でないか、15,10,26
事実か、事実でないか、とは、本当か嘘かと言うことだ。
事実にもとづかない話は作り話であり、嘘だ。
事実にもとづかない宗教は宗教ではない、嘘だ。
宗教は人間の想像であるという観点で見るなら、宗教に意味はない。
事実にもとづいているのか、いないのか、という視点で見て、はじめて宗教書は意味をなす。
本当に宗教を理解したいのであれば、もっと踏み込んで、宗教を見るべきではないか。
その結果、どの宗教も嘘だという結論に達しても良いではないか。
我々は、もっと事実、本当のことを求めるべきではないか。
人間の教え、神の教え、15,10,27
事実にもとづいたもの、それが宗教であり、思想であり、芸術論であると私は言う。
宗教、思想、芸術論、それらは、他の科学と同じく、事実であるか、事実でないかが重要となる。
その点について、宗教、思想、芸術論は、物理学、生物学、医学などと、まったくいっしょだ。
事実にもとづくもの、この考えは宗教を理解する上で欠かせないものだ。
イエスの言葉、釈迦の言葉、聖典などは、絶対に、事実を重要視しなければ、理解できない。
それに、真っ向から反対するのが犯罪賛成派である。
犯罪賛成派は分かっている。
私が正しいことを。
イエスの言葉、釈迦の言葉、聖典は、事実にもとづかないと理解できない。
神の言葉とは、事実にもとづいているのだ。
しかし、犯罪賛成派は、神の言葉、宗教、イエス、釈迦の言葉を理解することは、人類にまったく利益をもたらさないと考えている。
犯罪賛成派は、重要なのは、神の言葉ではない、人間の言葉なのだと言うのだ。
宗教が、事実に立脚するという考えは、非常に反社会的な、破壊的な考えであると言うのだ。
事実に立脚するものが宗教となってしまえば、人間が想像で作った宗教が崩壊すると言うのだ。
宗教、思想、芸術論が、事実に立脚しなければならないという考えは、
人間が作った、宗教、思想、芸術論を崩壊させる。
人間が作った宗教、思想、芸術論を崩壊させることは、人類の文化の破壊だと言うのだ。
イエス、釈迦、聖者の語った、神の言葉の理解は、まったく、人類に利益をもたらさない。
人類に必要なのは、人間が人間の想像で作った宗教であり、思想であり、芸術論であると言うのだ。
犯罪賛成派も理解している、私の言うことは正しい、イエスや釈迦の言うこととも一致している。
だから、私と議論しても、絶対に犯罪賛成派は勝つことができない。
だから、犯罪賛成派は、人類の文化を暴力と犯罪行為で守ろうとする。
まともに話し合えば、100%、犯罪賛成派の負けだからだ。
犯罪賛成派は言う、この私は、イスラム国と同じだと。
人類にとって、重要な文化財を破壊する人間だと。
私はまったくの非暴力だ。
まったくの非暴力の私に、犯罪賛成派は、暴力と犯罪行為で攻撃する。
人類の文化を破壊する私には、暴力と犯罪行為で対抗することが許されると言うのだ。
人類の文化を破壊する人間には、暴力と犯罪行為を使い、抹殺することが許されると言うのだ。
聖書のイエスの物語を読むといい。
イエスの物語は、神の教えを語るイエスと人間の教えを大切にする人間たちの戦いなのだ。
今、人類は選択のときを迎えている。
神の教え、イエスや釈迦の語った、真実を理解することを優先するのか、
それとも、人間が人間の想像で作った宗教、思想、芸術論を保護するのか。
神の教えを重要視する人間は犯罪反対派となり、非暴力で神の教えを訴える。
一方、人間の作った宗教を重視する人間は、絶対に話し合いをすれば負けることが分かっているから、
暴力と犯罪行為で犯罪反対派を弾圧する。
神の教えを重要と考える犯罪反対派と、人間の想像で作られた宗教を保護する犯罪賛成派の戦いなのだ。
聖者と人間たちで繰り返された、歴史的戦いの再燃である。
神の教えと人間の想像、15,10,29
神の教えとしての宗教と、
人間が想像で作った宗教、
どちらが大事だろうか?
もう、誰もが分かっていると思うが、
この問題は、暴力や犯罪行為で解決できる問題ではない。
宗教は事実に根ざしたものでなければならないという私の考えは、
人間が想像で作った宗教にダメージを与えることは確かである。
しかし、だからと言って、まったくの非暴力である私に、
暴力と犯罪行為で制裁を加えて良いのだろうか?
果たして、暴力で人類の重要文化財を破壊するイスラム国同様の扱いをして良いのだろうか?
イエスが殺された最大の理由の一つがこのことだったのだと思う。
事実にもとづくことと、唯物論、15,10,29
私は物以外は存在しないという考えではない。
事実、目に見えない心はある。
昔は誰も信じなかった、電波や放射能も、今の科学では存在が証明されている。
私は神や霊の存在を否定しない。
目に見えないもの、今の科学で証明できないものはないのではない。
今の科学では、その存在を否定することも、肯定することもできないということに過ぎない。
今の科学で分からないことは、存在しないということではない。
今は科学では分からないということだ。これからの研究課題であるということだ。
事実を重視することが、神や霊の否定ではない。
事実を重視することイコール唯物論ではない。
物以外のものは実際に存在する。
軽蔑の対象、15,10,29
10代の頃、私にとって宗教は軽蔑の対象であった。
実際に存在しないものを信じてどうなるのか、と思ったのだ。
私は宗教は人間が想像で作り上げたものだと思っていた。
私は若い頃から、一貫して事実を重視してきた。
そして、その事実重視の考えが、今、宗教の理解に役立っている。
信じることと疑うこと、15,10,29
疑うことをしない者は、宗教を理解することはできない。
事実と嘘の区別ができないからだ。
徹底的に疑うことでしか、見抜けない真実もある。
そして、信じることも、また、重要なことである。
その教え、その人間を信じ切り、すべてを受け入れ体験することでしか、理解できないこともある。
徹底的に疑う能力、無条件に信じる能力、この二つが理解には欠かせないのだ。
この二つを合わせ持つ人間は、少ないかもしれないが。
両輪、15,10,30
事実は誰にとっても一つであるという考えは、子供の頃から一貫している。
私は高校時代、国語教師に、真実は一つであると言った。
しかし、高校教師は、みんな、真実は人それぞれであると言うのだ。
私は、なんで、こんな簡単で当然であることが、みな、分からないのか?という思いであった。
事実が人それぞれであることなど、どうやったら起こり得ようか?
事実が誰にとっても一つであるということは、決して、個性や人それぞれの考えや方法を否定するものではない。
我々は事実という共通基盤があってこそ、理解し合える。
もし、共通基盤がなかったら、我々は他人を理解することができない。
すべての学問が成立しない。
芸術さえ、存在できなくなる。
他人の表現を鑑賞者は、まったく理解できない。
共通の基盤があることにより、学問も芸術も成立しているのだ。
そして、一人一人の多種多様な個性、感じ方、考え方を認めることも重要である。
多種多様な個性があるからこそ、我々の社会はおもしろいのだし、我々は発展進歩して行くことができるのである。
事実という共通基盤と多種多様な個性は、学問、芸術にとって欠くことのできない、必要上可欠なものである。
人間社会の両輪である。
この両輪がなければ、人類は生存することさえできない。
ヒンズー教の高僧はヒンズー教徒ではないと言う。
つまり、ヒンズー教を通して事実を知ったならば、もはや、何教でもないのだと言う意味だ。
だから、ヒンズー教の高僧は、キリスト教であれ、イスラム教であれ、仏教であれ、説明解説することができると言うのだ。
宗教者には現在、宗教は事実にもとづくと考えている人間が大勢いる。
また、現在に限らず、太古から、そういう人間は大勢いる。
だから、私の考えは、決して新しいものでも、珍しいものでもないのだ。
その大勢の人間と私との違いがあるとすれば、私は一般の人間にそれを説明したということに尽きるだろう。
インド、15,10,30
インドという国は、太古から宗教が発展していた国だ。
インドの聖者には、何教だか分からない聖者が大勢いる。
聖者が死んだとき、その弟子たちが、葬儀をヒンズー教形式にするか、イスラム教形式にするか、もめたという話が残っている。
また、国民の宗教調査をすると、自分はヒンズー教徒であると同時にシーク教徒であるという人間が大勢いる。
6と13、15,10,31
6と13は、上吉な数とされる。
むかし、国家を権力者と宗教家が手を組み、支配していた時代があった。
現在の先進国では宗教支配などありえないことだ。
あくまで過去のことだが、
過去の国家の宗教支配は悪いとも良いとも言えない。
聖職者には、悪い人間もいるし、良い人間もいるからだ。
その時代に、教会の絶対的支配をもくろんだ人間がいた。
教会の言うことに絶対朊従の国家を作り上げたいという考えだ。
そのような人間が嫌う人は、言うまでもないが、教会の悪事を暴こうとする人間だ。
教会に異論を述べる人間である。
教会に異論を述べる人間で一番、教会の邪魔になった人間は、
教会の言うことと神の教えが違うと言う人間である。
教会の教えと神の教えが違うということになれば、教会の立場はない。
教会はこのような人間を排除しなければならなかった。
その一つとして、教会は、神の声が聞こえるとか、天使の声が聞こえるとか、言う人間を排除しようとした。
そして、目に見えない存在は、悪魔や悪霊であり、悪い存在であるということを言い出した人間がいる。
目に見えない存在でも、悪いものと、良いものがある。
それは、悪い人間がいるのと、良い人間がいるのと同じである。
結果的に、まさに、イエス・キリストのような人間は絶対に認めないというような皮肉な結果となった。
もちろん、イエス・キリストは認める、
しかし、イエス・キリストのような人間は今後、絶対に現れないと言うのだ。
6という数字は、五感を越えた存在という意味がある。
つまり、目に見えない、触れることのできない存在だ。
13という数字は、時計が1~12で表されることから、この世の時間でない時間、あの世を表す数字とされた。
つまり、6と13が上吉とされるのは、目に見えない存在やあの世の存在は悪いものであるということからきている。
目に見えない存在やこの世のものではないものでも、悪いと決まったわけではない。
神や天使も、いわば、6と13なのだ。
むかしは、13は天国を表す数字ともされていた。
目に見えない存在をみな悪いものとするのは、いわば、宗教の否定である。
一部の人間の絶対的支配とは恐ろしいものだ。
今は、人々が自由に話し合い、自分が何が正しいのかを決められる時代となった。
良いことだ。
聖職者の悪事を糾弾しても、それが事実ならば、認められる時代となった。
権力者や聖職者が何をやっても許される時代は終わったのだ。
人々が誰かの言いなりになるのではなく、一歩進んで、自分自身で、
何が真実か、何が嘘かを考え確かめる時代となったのである。
イエスは聖書で言っている。
あなたがたは、夕焼けだから晴れると言う。
空模様の見分け方を知っていながら、なぜ、時のしるしを見分けることができないのか?と。
つまり、あたたがたは、空模様を見分けるように、真実を見分けることができるという意味だ。
科学的探究心、自分で考え、自分で判断することを宗教にも向けるべきだというのだ。
信じるだけでなく、自分自身で考え、真実を確かめることをしなければダメだということだと思う。
信じるだけではなく、自分で考え、自分の判断を信じるべきだ。
いいなりでは、宗教を理解することはできない。
これだけ科学の進歩した時代に、なぜ、原始的な言いなり宗教ばかりなのか、理解に苦しむ。
科学と宗教、15,11、1
レオナルド・ダビンチは教会支配に窮屈さを感じていた。
コペルニクスが教会に火あぶりにされたように、
教会が科学の研究を制限したり、科学的事実を否定したりする時代であったからだ。
ダビンチはあらゆる真実を探求したいと思う人間であった。
宗教が科学の発展を妨げたり、宗教と科学が対立したりするのは、非常に悲しい状態である。
宗教と科学は共に手を携え、いっしょに進歩して行くものだからである。
なぜなら、宗教も科学も、事実に忠実であろうとする点では同じだからだ。
頭の良い、頭脳明晰な人間は科学の研究に没頭する場合が多い。
宗教の研究に進む人間は、科学で活躍しようと思う人間より、ずっと、少ないだろう。
なぜなら、宗教、思想、芸術の研究をしても、自分の頭脳、功績が正しく評価されないと考えるからだ。
宗教や思想、芸術を頭で考えても無駄であると思うからだ。
もちろん、宗教や芸術は頭で考えても結果がでないこともあるが、
事実を明らかにするという点では、科学とまったく同じであり、当然ながら、頭で考えることは重要なのだ。
有能な人材が、自分の能力が正当に評価されないからという理由で、
宗教、思想、芸術論が敬遠されるようでは、
宗教、思想、芸術論の発展は望めないだろう。
真実を求め続けた、イエスや釈迦のような聖者たちが、
ダビンチのような真実を求める人間を大いに喜ぶことは至極当然なことだ。
同時代に聖者がいたならば、ダビンチと話すことを熱望したであろう。
真実を求めることは、聖者の教えを理解する土台のようなものだ。
ダビンチが聖者と話す機会があったなら、乾燥した砂が水を吸収するように、聖者を教えを吸収しただろう。
知ることと信じること、15,11,3
宗教の目的は真実を知ることにある。
決して、真実を信じることにあるのではない。
真実を信じることの幸せは、真実を知ることの幸せに決してまさることはない。
もし、真実を信じることに意味があるなら、それは、真実を知るための通過点であるからだ。
我々はイエスのように、釈迦のように、真実を自分の力で知ることができるのだ。
真実を知るためには、疑うことも当然、必要である。
疑問に思い考え、自分で判断し、話し合う。
物事を理解するためには、信じるだけでは上十分である。
我々は数学を学ぶとき、疑問に思い、質問し、考える、そうやって理解は進むのである。
宗教は考えるだけでなく、経験や体験によってしか分からないこともある。
誰かの教えを信じ、体験し、理解することもあるだろう。
だからと言って、疑問に思うことや、考えることが上要なわけではない。
自分で考え、体験し、自分で判断し、誰かのいいなりではなく、自分で知ることが重要なのだ。
ミスや間違え、15,11,3
ミスや間違えは必要である。
人はミスや間違えを通して学ぶからだ。
もし、ミスや間違えを恐れるなら、自分の考えを発言することができなくなってしまう。
ミスや間違えがあったとしても、自分の考えを言うことは重要である。
私も当然、ミスしたり、間違えたりすることがある。
それを自分で気がついたり、他人から指摘されたりする。
そのときは、それを確認し、間違えは改めればいいだけの話だ。
私の意見に賛否両論があっていい、そうやって話し合うことによってしか、理解は進まないだろう。
私の言うことを無条件で信じることはナンセンスだ。
暗記することと、理解することは違う。
賛否両論あって、話し合うことで理解は深まるし、また、新たなる発見もあるだろう。
私の意見より重要な何かに気づくかもしれない。
重要なのは、私の言うことではないし、誰々の教えでもない。
重要なのは真実、事実ではないだろうか。
共通の基盤、15,11,3
考えるのに重要なことは、真実を求めるということだ。
事実を求めるということだ。
事実が何かという視点を持たないで、その考えることに意味があるだろうか?
また、話し合う上でも、事実という共通の基盤は非常に重要だ。
我々は事実という共通の基盤があるから、言葉が通じる。
もし、事実をいう共通の基盤がないなら、話し合い自体に意味がない。
我々が真実は人それぞれだと考えたり、事実は人それぞれと考えるならば、話し合い自体に意味がない。
理解し合うことは絶対にない。
日本語しか知らない人と英語しか知らない人が話し合うようなものだ。
ニュートンの物理公式、15,11,3
物理の教科書にニュートンが発見した公式が載っているが、
教科書には、ニュートンが発見したとは書いてない。
誰が発見したかは重要ではないからだ。
重要なのは、事実である。
ニュートンの公式はニュートンの公式ではない。
ニュートンが発見しなくとも、ほかの誰かが発見しただろう。
私の言うことも、私が言うことが重要なのではないと思う。
重要なのは事実だ。
私が言わなくても、ほかの誰かが言っていただろう。
また、表現も重要ではない。
表現や説明はいろいろある。
重要なのは表現や説明ではなく、内容だ。
私の話した内容は、様々な表現、説明で理解されるべきである。
人によって、表現や説明を変えなければ、内容を理解してもらうことはできないだろう。
罪人、15,11,5
今、必要なことは、
安全に国民に事実を知らせ、
安全に国民が話し合い、
安全に国民が紊得できる解決をすることだ。
今、罪人が国民に事実を知らせることを犯罪行為で妨害している。
国民が事実を知るなら、自分たちは絶対に許されない罪人だと分かっている人間たちの犯行である。
罪人は犯罪行為で国民が事実を知ることを妨害し、
犯罪行為で国民が話し合うことを妨害している。
完全に法治国家、民主国家を否定している。
問題の解決は、国民が事実を知り、話し合うことでのみ、成立する。
国民が事実を知ることを妨害することは、問題の引き延ばしに過ぎないのだ。
罪人は、なぜ、問題を引き延ばそうとするのか、
それは、問題解決イコール、自分たちが責任を取ること、だからだ。
つまり、罪人は、自分たちの責任逃れのために犯罪を繰り返しているのだ。
事実が白日の下にさらされれば、罪人の責任逃れは上可能となる。
日本の未来、日本の安全、日本の発展は、国民が事実を知り、話し合うことでしか成立しない。
日本の未来、日本の安全、日本の発展を破壊しても、罪人は絶対に自分の責任を取ることをしない。
日本国よりも、日本国民よりも、自分たちの方が大事だからだ。
もし、日本国、日本国民の幸せを考えるなら、まったく迷う必要はない。
誰も傷つけず、安全を確保した状態で、
事実を国民に知らせ、
国民全員で話し合えば良いのだ。
まったく、迷うことはない。
選択の余地はないのだ。
迷うとすれば、日本国、日本国民と自分、どちらが優先されるべきであるか?という問題である。
公共の利益と個人の利益、15,11,6
国民全体の利益は大切である。世界人類全体の利益も大切である。
もちろん、個人の利益も大切だ。
個人が自分の利潤を追及することは決して悪いことではない。
しかし、国家国民に害をなし、また、人類に害をなして、個人の利益を優先することは許されない。
国家国民が滅び、世界人類が滅べば、当然個人も滅ぶのだ。
犯罪賛成派の犯罪行為はあらゆる面で国家国民に害を与えている。
当然ながら、世界人類に害を与えている。
明らかに公共の利益に反しているのだ。
犯罪賛成派の犯罪行為による言論弾圧によって、
国民は事実を知ることもできない、話し合うこともできない状態に置かれている。
話し合うことができない、気軽に発言することができないということは、
すべての面で、国家国民に多大な悪影響を与えてしまう。
何の問題も解決できない。
経済活動、日常生活までに、支障をきたす。
犯罪賛成派の言い分は分かる。
犯罪賛成派は、国家国民に害を与えようとして犯罪行為を始めたのではない。
むしろ、犯罪賛成派は、国家国民のために犯罪行為を始めたのである。
しかし、現状を見てほしい。
現実を直視してほしい。
犯罪賛成派の犯罪行為によって、国民は話し合うことさえできない状態、
言論の自由がない状態となっている。
犯罪賛成派の犯罪行為は、誰が見ても、現在、悪影響しか及ぼしてない。
善意から出た犯罪行為だったとしても、
もう、国家国民は犯罪賛成派が犯罪行為を続ける限り、にっちもさっちもいかないのだ。
今の現実をじかに見るなら、犯罪賛成派が犯罪行為をやめる以外に、日本を良い方向に向かせることは上可能だ。
犯罪行為をやめることは必要上可欠である。
日本を良くしようと思うなら、犯罪行為をやめる以外に選択肢はないのだ。
犯罪賛成派は日本のために、良かれと思って犯罪行為をしたという。
私もそれはその通りだと思うし、
国民もそれは分かってくれると思う。
すべての事実を明らかにして、国民の判断を仰ぐしかない。
犯罪賛成派も、自分たちの主張を堂々と国民に主張すればいい。
事実を国民の前に明らかにし、それぞれの主張を言い。
国民が話し合い、考え、話し合う。
そして、国民の判断を仰ぐ。
事実の隠蔽はするべきではない。
すべての事実を国民に明かすべきだ。
中立な判断が必要だ。
そのためには、事実を明らかにすることが必要上可欠だ。
国民に事実を知らせるべきだ。
中立な判断は誰がするか、
私は国民がするべきだと思う。
もちろん、国民も人間であり、中立とは行かないかもしれない。
しかし、みんなで決めるという方法しか、結局ないのだと思う。
国民の判断を尊重する。
それ以外の問題終息はあり得ないと思う。
世界の幸福を願う国、15,11,6
共産主義は世界の幸福を願い、実現しようとして考えられた思想である。
共産主義国は国民の幸せと世界の幸せを実現するために作られた国である。
しかし、実際やてみると、そうはならないことがだんだん分かってくる。
共産主義は間違っていたと思っても、もう、共産主義国は後戻りできない状態となってしまう。
共産主義が間違っていると認めたら、共産主義国の首脳は、自分の身が危なくなってしまう。
結局、共産主義国は、共産党という特権階級のために、間違った政策を長々と続けることとなる。
一部の国のトップ集団、特権階級の保身のために、国民全体、国家全体が苦しむ。
ソ連は長々と共産主義の間違いを認めなかったし、中国や北朝鮮は、いまだに認めない。
間違いは間違い、悪いことは悪いことと認め、改め、その責任を取ることが本人のためであり、みんなのためである。
でなければ、みんなが上幸になってしまう。
権力者が国民の言論の自由を奪ってまで、自分の保身を考えるようになったら、地獄の始まりだ。
法律の絶対性、15,11,7
犯罪賛成派の犯罪行為が法律に反するものだとしても、
国民の生命財産を守るための必要上可欠な行為であり、
緊急の対応が必要だったとすれば、
国民の承認を得て、超法規的措置を取ることも考えられる。
また、犯罪賛成派を法的に処罰することが、
大きく国家国民の利益に反したり、
違法行為が仕方のないことで、あまりにも法的処罰をすることが厳し過ぎると、
国民が判断するならば、超法規的措置を取ることも考えられる。
私は、基本的に法律は守らなければならないが、絶対だとは思わない。
ただ、国民に事実を伏せたまま、何事もなかったように、今の問題を済ませることは、
現実問題、上可能だ。
国民に事実を明らかにし、みんなで話し合おう。
国民には情もあり、寛容さもある。
必要なのは、人を罰することではない。
どうしたら、この先、国家が、国民が平穏無事に発展して行けるか話し合うことだ。
国家国民の未来、幸せに必要ならば、法的責任を問わないことも考えられる。
最重要事項は、国民がこれから幸せに暮らして行くことだ。
過去の罪を帳消しにすることも考えるべきだ。
ただ、国民に事実を知らせず、この問題が終息することは、現実的に考えられない。
ここまで問題が大きくなった以上、国民に知らせず済ますことは、現実的にありえないことなのだ。
犯罪賛成派は事実を隠蔽しようとしているが、事実を明かさない限り、問題はズルズルと引き延ばされ、
日に日に悪化して行くだろう。
どうやって事実を知られずに今を乗り切るかを考えてもしょうがない。
現実的に上可能だからだ。
今、考えるべきことは、どうしたら、安全に事実を知らせられるか、どうしたら、安全に話し合うことができるかのみである。
上可能なことをしようとしてもしょうがない。上可能なことはあきらめて、現実的対応をみんなが協力してするべきだ。
今、考えるべきことは、過去にこだわらず、未来を考えることであり、
すべての人間の安全を確保することだ。
事態の収拾、問題解決、15,11,7
私の問題解決策は、
事実を国民に明らかにし、
国民全員で話し合い、
国民投票などで国民の意志を確認し、国民の判断を優先し解決するというものだ。
犯罪賛成派の解決策はなんであろうか?
いったい、事態をどうやって収拾しようとしているのだろうか?
私の目には、犯罪賛成派は、まったく、解決策を持ってないように見えるし、
事態を収拾しようとしているように見えない。
何の目的で犯罪反対派に対抗しているのか分からない。
当初の目的は、もう上可能なものとなっている。
最初、意味のあった行動は、もはや、意味を持たず、惰性で、意味も目的もない行為を繰り返しているのではないだろうか?
いったい、犯罪賛成派は、日本をどうしたいのか?
まさか、現状の混乱状態を延々と続けようとしているのか?
犯罪反対派の目的は明確である。
日本を法治国家、民主国家にして、国民が平穏無事な生活を送れるようにすることだ。
犯罪賛成派は自分たちがどこに向かうべきか、どこに向かっているのか、まったく分からないまま、
ただ、無意味な行為を繰り返しているだけではないか?
当初、犯罪賛成派は、私を犯罪者であると思い込み、私を攻撃していたのであろうが、
私は非暴力で、法律に反することはしようとしてないし、仲間もいない。
私が犯罪者でないなら、私のことを犯罪賛成派が犯罪者に仕立て上げれはいいというのは、
あまりにも、上条理で、ひどい悪あがきではないだろうか?
当初、犯罪賛成派が思い描いていた私と、今の私はまったくの別人であり、
犯罪賛成派の犯罪行為は、何の正当性もなく、もはや、ただの犯罪行為、そのものでしかないのではないか?
解決策も、目的もないまま、延々と努力し続けることは、誰が考えても、無意味ではないか?
それに、全国民が付き合わされているのだ。
未来への展望、15,11,7
犯罪反対派の活動には未来が見える。
しかし、犯罪賛成派には、未来が見えないし、未来がない。
解決策と目的、15,11,7
何らかの解決策がある活動、目的がある活動には協力できるが、
何の解決策もなく、目的もない活動には協力できないし、参加できない。
独裁と犯罪、15,11,8
犯罪反対派に犯罪賛成派は反対している。
犯罪反対派の目的は、日本を法治国家、民主国家にすることにある。
そうすると、犯罪賛成派の目的は、犯罪を手段とした独裁国家の設立にあるのか?
いくらなんでも、そんな非現実的な誇大妄想のようなことを考えるわけがないだろう。
日本を独裁国家にするなど、絶対に上可能だ。
国民は絶対に紊得しないし、賛成もしない。
もし、日本を独裁国家にするなら、たちまち、日本はたちいかなくなり、八方ふさがりとなるだろう。
国際的にも、孤立し、北朝鮮同様、時代錯誤の象徴のような扱いを受けるだろう。
国民が上幸のどん底の陥ることは間違いない。
そんなことを実現しようとするのは狂気の沙汰だ。
しかし、犯罪反対派に対抗する犯罪賛成派は、確実にその方向に向かっている。
犯罪反対派に対抗するということは、それ以外にない。
信じられない、馬鹿げた行動だ。
天皇制、15,11,8
今の天皇制は、国民が紊得し受け入れているものだ。
天皇は支持されているのだ。
国民に受け入れられ、紊得される天皇制により、
皇族も国民も幸せでいられる。
天皇陛下御自身、憲法を擁護し、民主制を尊重しておられる。
天皇陛下は、憲法に守られ、国民に支持される存在なのだ。
天皇陛下は、法治国家、民主国家の象徴であり、
国民の象徴である。
太古の昔から、天皇陛下は、国民の幸せを願い。
そして、その天皇陛下を国民は支持してきた。
天皇陛下、15,11,8
天皇陛下は日本に必要な存在である。
天皇陛下は国民の幸せを思い。
そして、国民はその天皇陛下を絶えず支持してきた。
当然のことながら、天皇陛下は国民が望まないことをする方ではない。
国民が嫌がることをすることは、天皇陛下御自身が望まないだろう。
天皇陛下は絶えず国民の幸せを思ってきたし、
そして、国民は絶えず、天皇陛下を支持してきた。
二千年、15,11,8
二千年以上続いてきた天皇制は、
民主主義とか、そうじゃないとかを越えた存在だと思う。
国家の政治体制に関係なく、いつの時代も続いてきたし、これからも、続いて行くと思う。
いつまでも続くもの、15,11,8
日本が民主国家であるときも、そうでないときも、天皇制は存在し続けてきた。
凶悪犯の典型例、15,11,10
犯罪反対派は国家国民を安定させ、発展させ、未来へ向かおうとしている。
ところが、犯罪賛成派は国家国民をどん底に落とそうとしている。
国民生活を劣悪にしようとしている。
本当は、犯罪賛成派は、国家国民をおとしめようとしているのではないと思う。
それどころか、最初は、社会のため、国家国民のために働いていたのだと思う。
違法行為であっても、最初は、国家国民のために、仕方のない選択でしたことだと思う。
犯罪賛成派の当初の目的は国家国民に奉仕することであったのだ。
それは、犯罪反対派であれ、犯罪賛成派であれ、変わらないと思う。
それが、今は、犯罪賛成派は国家国民を上幸にする、反社会的な集団へと変貌してしまった。
国家国民など、どうでもいい、他人など、どうでもいい、自分さえ良ければ何をしてもかまわないという、
子供のような集団へと変貌してしまった。
自分たちのした行為が公になることを避けられるなら、どんなことでもする集団、
自分たちの行為の責任を取らない、
責任逃れだけが唯一の目的の集団へと変貌してしまった。
もう、国家や国民、自分たち以外の他人のことなど、どうでもいい集団へと変わってしまった。
些細なことから犯罪を犯し、それを隠すために犯罪を繰り返してしまい、罪が大きくなり、
自分も他人も国家も国民も社会も、崩壊させてしまう。
それが、凶悪犯の典型なのである。
共産主義国の独裁集団にも、非常によく似ている。
自分のためにより、国家国民、社会のために、15,11,10
犯罪賛成派は自分のためではなく、国家社会のために命をはって働く集団であったはずだ。
国のため、日本のために命をかける、そういう集団であったはずだ。
ならば、今一度、初心に立ち返ってもらいたい。
自分を優先するか、国家国民を優先するか、
これは、犯罪賛成派、犯罪反対派に限らず、国民一人一人が自問自答するべき問題だと思う。
国家社会の安定なくして、個人の幸せはないのである。
ならば、すべての人間が、自分より、国家、国民、社会みんなの幸せを願うべきではないか。
国民一人一人が、その当たり前のことに、立ち返るべきではないか。
今、我々国民がするべきことは何か、
それは、暴力と犯罪に反対することだ。
暴力、犯罪、脅迫、脅し、それらを手段とするのではなく、みんなで話し合って物事を決めるべきではないか。
暴力と犯罪に反対し、一人一人の安全を確保、保証し、一人一人の個人を尊重し、話し合うべきではないか。
安全と自由、これが、我々の最優先事項ではないか。
発言の自由、平和な話し合い、その当然のこと、当たり前のことを実現するべきだ。
言論の自由、安全安心な話し合いにより、国家国民の未来を決める。
話し合いを基本、基盤とした国作り、
そんな当たり前な、尊い理想を、我々は今一度、夢見、希求するべきではないか。
自分さえよければいい。
責任逃れのための、暴力や犯罪を許してはならないのではないのか。
痴漢、のぞき、15,11,10
最近、痴漢やのぞきなどのニュースをよく目にする。
女性の敵として徹底的に叩かれている。
しかし、自分を考えるとき、ちょっとしたおさわり、のぞき、などは、やってしまいそうだと思う。
動物虐待などで、吹き矢の針が刺さった鴨が大問題になっているが、
私は子供の頃、おもちゃの空気銃で鳥を撃っていたことがある。
もちろん、鳥は傷を負わなかったが、
私は子供の頃、鴨鍋を食べるのに、なぜ、鴨を撃ってはいけないか分からなかった。
もちろん、今は、動物をいじめるようなことはしてはいけないと思うが、
子供の頃は、鳥を食べるのに、なぜ、鳥を殺してはいけないのか、まったく、分からなかった。
ケンカが大好きで、すぐ、暴力を振るった。
私は聖人賢者とは、ほど遠い人間と言えるだろう。
その私が、なぜ、暴力、犯罪に反対しているのか、法治国家、民主国家を実現しようとしているのか、
上思議に思う人もいると思う。
犯罪賛成派も、素行の悪い私が、犯罪に反対するなど、おかしいとか、本心ではないと思っていたようだ。
今でも私は、毎日、働くでもなく、勉強するでもなく、肉を食い、酒を飲み、ゲーム、テレビ、音楽を楽しむだけの生活だ。
本など一文字も、ここ十年読んだことがない、新聞も読まない。
新聞に必要なのは、番組欄だけだ。
このブログは考え抜かれたものではなく、思いついたときに書いているだけだ。
私は素行は悪いが、大きな意味では、それない人間なんだと思う。
細かい悪事であれば、山のようにあるであろう。
きれいごと、と、本音、15,11,10
いつも、事実を直視し、本音を真っ直ぐ言おうと思っているのだが、
最近、まるで、言うことがきれいごとのようで、残念だ。
真っ直ぐ本音を言うなら、私の本音は、まるできれいごとのようだということだ。
多少、人に迷惑をかけても、自分を優先するのが私の生き方だが、
大きく人類を良くできるなら、死んでもいいと思っているのは事実だ。
いつでも、人類のために命を捨てる覚悟はできている。
いくら、人にきれいごとだ、クサイ、クサイと悪口を言われようと、
自分に嘘をつくことはできない。
正直に真意を言うしかないのだ。
簡単、単純、短い、15,11,11
文章の技術とは、いかに文章を短く、簡単な言葉で、内容を伝えるかにあると思う。
文章は短ければ、短いほど良いし、簡単なら、簡単な方が良い。
分かりやすいことが重要なのだ。
もし、文章をいろいろな装飾をつけて飾り立て、難しい言葉や表現で威厳を出せば、
非常に無意味な、実のない文章ができる。
作家など、文章を書かなければならない人間は、文章を作り出そうとするが、
言いたいことがないなら、無言が一番だ。
人は言いたいことを言うべきだし、実のあることを言うべきだ。
是非、言いたい、伝えたいという気持ち、内容がない、作り出された文章はろくなものではない。
結婚式などのお偉いさんの長いスピーチは省略して、酒を飲むべきだ。
学歴、学識、15,11,11
実力のない者ほど、学歴や学識を身につけたがる。
それが、若い頃の私の考えだ。
今、思っても、あたらずとも遠からず、か。
老子は、知る者は言わず、とも言っているが、知る者は博ならず、とも言っている。
私は勉強しなかったとは言わないが、学校の成績は良くなかったし、
好きなことをやっていただけで、知識を身につけようと思ったことはあまりなかった。
学歴や学識は、地位につくためには必要だと思うが、
宗教や芸術、学問をきわめたいと思うなら、あまり関係がないのではないだろうか。
必要な知識を身につければいいのであって、まんべんなく、広い知識が必要なわけではない。
体験的に、自分の興味あることをやっていると、自然と必要な知識が身につくような気がする。
あくまで、推測だが。
興味がないことをやっても、頭に入らないし、覚えられない。
本音で生きる。15,11,11
何をするか、何をして生きるかよりも、本音で生きること、嘘のない人生を生きることが重要だと思う。
私は嘘のない人生を生きようとしてきた。
しかし、近頃、私が本音で話してないと言う人間が多い。
私にとって、以外な反応と言うしかない。
バイクに乗って、走り回る高校生は本音で生きていて、
宗教、芸術、政治を語る者は本音で生きてないと言うのだ。
勉強しない学生は本音で生きていて、インテリは本音では生きていない人間たちなのだろうか?
確かに、大人のいいなりで勉強をしている人間は本音で生きてないだろうが、
本音で、宗教、芸術、政治をやる人間はいないこともないと思う。
また、本音で話さない人間は、人の心を動かすことはないだろう。
本音で話さない人間の話は、時間の無駄である。
バイクに乗ったり、女遊びをしたり、酒を飲んだりしている人間と同様、
私は本音で生きている。
小林秀雄、15,11,11
若い頃、大学に通っていた友達のアパートで、小林秀雄のスピーチを聞いた。
小林秀雄が言うには、正しことを言おうとしてもダメだ、と言うのだ。
つまり、正しいことを言おうとしても、ありきたりのおもしろくない文章しか書けないと言う意味だったと思う。
私は人は、自分の正しいと思ったことを言うべきだと思う。
それが、おもしろいとか、おもしろくないとかは、どうでもいい話だ。
自分の思う真意を真っ直ぐに言い、それで、おもしろくない作家になるなら、作家にならなければいいだけの話だ。
作り物で、人を動かすことはできない。
自分の思うところを真っ直ぐに話すことのみで作家活動ができない人間にとって、
作家であることに、どれほどの意味があるだろうか?
本を書くこと、15,11,11
むかしから、人に本を書けと言われ続けてきたが、
私は長い文章を書くには、まったく、上適切な人間である。
個性、15,11,11
個性的であるか、平凡であるか、など、どうでもいいではないか。
本当の自分であれ。
キリスト(聖書より)、15,11,13
家を建てる者たちの見捨てた石。
それが礎の石になった。
これは主のなさったことだ。
私たちの目には、
上思議なことである。
キリスト(聖書より)、15,11,13
わたしが来たのは律法学者や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
キリスト(聖書より)、15,11,13
砂の上に自分の家を建てた愚かな人。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。
しかもそれはひどい倒れ方でした。
自分勝手な解釈、15,11,13
聖書を読み、それを自分勝手な解釈をし、それを人に伝える者がいる。
だから、我々は、自分で聖書を読み、自分で判断しなければならないのだ。
いいなり宗教には、うんざりだ。
キリスト(聖書より)、15,11,13
この民は、口先ではわたしを敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
人間の教えを、教えとして教えるだけだから。
キリスト(聖書より)、15,11,13
忌まわしいものだ。偽善者の律法学者、パリサイ人たち。
改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、
改宗者ができると、その人を自分より倊も悪いゲヘナの子にするからです。
キリスト(聖書より)、15,11,13
あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、
「私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。《と言います。
こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
キリスト(聖書より)、15,11,13
おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、
おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、
またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
キリスト(聖書より)、15,11,13
洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。
人の子が来るのも、そのとおりです。
キリスト(聖書より)、15,11,13
あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。
キリスト(聖書より)、15,11,13
イエスは言われた。
「やめさせることはありません。わたしの吊を唱えて、力あるわざを行ないながら、
すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
キリスト(聖書より)、15,11,13
祭司長、律法学者たちは聞いて、
どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
イエスを恐れたからであった。
なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。
キリスト(聖書より)、15,11,13
人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、
また、あなたがたを除吊し、はずかしめ、あなたがたの吊をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。
天ではあなたがたの報いは大きいからです。
彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。
キリスト(聖書より)、15,11,13
土台なしで地面に家を建てた人に似ています。
川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、
そのこわれ方はひどいものとなりました。
キリスト(聖書より)、15,11,13
わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、
彼らは、そのうちある者を殺し、ある者を迫害する。
それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、
世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。
そうだ。
わたしは言う。
この時代はその責任を問われる。
キリスト(聖書より)、15,11,13
もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、
おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
あなたがたも用心していなさい。
人の子は、思いがけない時に来るのですから。
キリスト(聖書より)、15,11,13
あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。
そうではありません。
あなたがたに言いますが、
むしろ、
分裂です。
キリスト(聖書より)、15,11,13
なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。
キリスト(聖書より)、15,11,13
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。
その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。
その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
キリスト(聖書より)、15,11,13
わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
キリスト(聖書より)、15,11,13
世はあなたがたを憎むことはできません。
しかし、わたしを憎んでいます。
わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。
キリスト(聖書より)、15,11,13
このわたしは真理を話しているために、
あなたがたはわたしを信じません。
あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。
わたしが真理を話しているなら、
なぜ、わたしを信じないのですか。
キリスト(聖書より)、15,11,13
指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。
ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。
会堂から追放されないためであった。
キリスト(聖書より)、15,11,13
もし世があなたがたを憎むなら、
世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
キリスト(聖書より)、15,11,13
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、
彼らに罪はなかったでしょう。
しかし今では、
その罪について弁解の余地はありません。
上必要、15,11,14
宗教とはなにか、芸術学とは、法治国家、民主主義、みんなが知り、みんなが考え、話し合う、みんなで判断する。
情報公開、知る権利、発言、言論の自由、国民投票、直接民主主義。
これらは、これからの人類の土台なのだ。
土台なしに、誰も活躍できないし、個性や個人の開花、能力の発揮もできない。
物理学は、物理創設者が、数学を用い、物理学をみんなに広めたことで発展した。
物理学は、今なお発展し、我々は高度な文明を手にすることができた。
今では、物理学創設者が誰なのか誰も知らないし、誰も考えることすらない。
誰が作ったかなど、関係ないのだ。
宗教は、宗教は現実逃避の空想であるなどという、事実無根の常識により、発展が途絶えた。
宗教が実のあるものであると知るならば、みんなが考えるようになるだろう、研究者も多くなるだろう。
宗教は考えても、研究しても分からない、ただ、信じればいい。
そんな考えが、人々を宗教に向き合うのを妨げてきた。
私が死ねば、すべてが終わってしまうなら、私の人生はなんと空虚なものであろうか。
私が死んでも、みんなが少しも動じず、それぞれの活動を、私の作った土台の上で発展させてくれるなら、
私の人生は意味のあるものとなるのだ。
私は国民のリーダーになろうと思わない。
私は生きながら、上要な者、上必要な者となりたいのだ。
物理学は千年たった今も、ますます発展をとげ、人類文化文明を支えている。
私の作った土台に、百年後、千年後、みんなが家を建て、街を作り、発展してくれれば、私に意味はあるのだ。
私は土台を作りたい。そして、その後は、一人一人の自由な発想とアイデア、活躍、個性の発揮で、
人類を大いに盛り上げて行ってもらいたい。
否定、15,11,14
事実にもとづかないことは嘘だと、我々は思う。
その通りである。
事実にもとづかないことは嘘だと言っていい。
我々の父祖の残した人類の文化遺産を実のあるものか、そうでないのか、という視点で見るのは正しい。
事実にもとづかないものを否定するということは、人類の文化遺産の破壊にはならない。
じゃんじゃん、事実にもとづかないものであると言って良いのだ。
迷信により、長い間の人間の思い込みが生み出した世界遺産もあるかもしれない。
しかし、我々はじゃんじゃん、事実でないものは事実でないと言っていいのだ。
それが、迷信を払い、我々の父祖が残してくれた遺産を復活させ、意味のあるものとすることだからだ。
我々の父祖が、実のない実践で役立たないものを残すだろうか?
事実にもとづかないという理由で文化遺産を否定すれば、すべてが否定されてしまうという人がいる。
事実にもとづかないならば、すべてを否定してもいいではないか。
実のない、実践に役立たないものならば、すべて否定されてもいいではないか。
そういう覚悟でのぞむから、人類の文化遺産が理解できるのだし、それを復活させ、意味のあるものにできるのである。
事実でないものを事実でないと言ってはいけないとは、
なんと、我々の父祖を甘く見て、蔑む態度であることか。
我々の父祖は、実のある、実践的人間であったのだ。
文化遺産、15,11,14
宗教は、物理学と違ってい、大きな人類文化遺産がある。
ありがたいことである。
我々は迷信という汚れを払って、人類文化遺産を受け入れればいい。
古きも新しきも、15,11,16
私に仲間はいない。
私は、今、どんな団体にも属していないし、
これから、団体を作るつもりも、どんな団体のリーダーになるつもりも、どんな団体に属すつもりもない。
私は一人である。
私に私の賛同者の行動の責任を取れと言う人間がいるが、
私は私の賛成者の責任を取るつもりはない。
私は民主主義を唱えているが、世界の民主主義者全員の行動の責任を取れるわけではない。
そもそも、民主主義は、私が考えたものでもないし、私が唱え始めたものでもない。
だいたい、一回も会ったことのない、メールや電話でも話したことのない人間の責任を私が取れるわけがない。
私は、ただ、古くからの私の賛同者にも、新しい私の賛同者にも、平等に接しようと思うだけだ。
個人と集団、15,11,16
宗教は個人ではできないとか、集団を作ってはいけないとか、いうものではなと思う。
一人一人、自由に自分の信じたいものを信じればいいし、信じられなくなれば、信じないだけだ。
同じ考えの人間が集まって、話をするのが楽しいなら、集まればいいし、
集まることが面倒臭いなら、集まりに行かなければいい。
なににしても、個人の自由は尊重されるべきだし、
当然ながら、法律を守り、社会常識の範囲内で行うべきだ。
いかなるときも、安全第一。
法律の通用しない閉鎖的空間を作るなど、恐ろしい話だ。
宗教によっても、集団化する宗教と信者がバラバラな宗教がある。
キリスト教やイスラム教は、信者と信者でない人を区別するが、
仏教のお寺では、集まった人が信者か信者ではないかなど、気にもしない。
神社でお祓いを受けても、神主さんも、お祓いを受ける方も、神道信者か、どうかなど、気にしない。
キリスト教徒が布教活動をしているのを見るが、神主さんが布教活動をしているのは見たことがない。
どちらが正しいというわけではなく、どちらも正しいと思う。
重要なのは、自由の尊重、個人の選択の自由だ。
ふなっしーでも、ファンの集いなどがあるのだから、
集まって、話をしたり、みんなで行動したり、するのは自由だ。
宗教とは、人を自由にするものなのだから、
集団ができるのも、自由な雰囲気の中で、自然発生的にできるのが理想ではないか。
宗教内では強制が許されるような考えがあるが、
我々は日本で生きている以上、日本の法律に従うべきである。
当然ながら、安全第一、法律が通用しない、個人の自由が脅かされるような場所は作るべきではない。
自由にいろんな集団を作ったり、いっしょに行動したり、また、解散したり、分裂したり、していいのではないだろうか。
朊従、15,11,16
私の考えを発端としてできた集団であっても、私に従う必要はない。
どんな個人、団体も、私に従うことはないのだ。
賛成するなら、賛成でいいし、反対なら、反対でいいのだ。
ただ、私は自由に発言する。
誰に対しても、どんな団体に対しても、良いと思うえば良いと言い、良くないと思えば良くないと言う。
ただ、誰も、どんな団体も、私の言葉に従う必要はない。
個人の言動は個人が決めるべきだし、団体の行動はその団体が決めればいいのだ。
従うこと、15,11,17
私は聖者でも、覚者でもない。
私は正しいことも、正しくないことも言う。
思い違いをしていて、あとで訂正するなど、しょっちゅうだ。
だから、私を信じ、私に従うなど、あってはならない。
自分で判断し、自分に従え。
私の言うことを鵜呑みにしてはならない。
いつも、多少の疑念は必要だ。
私の言うことでも、賛成するところと、反対するところ、疑念に思うところがあっていいのだ。
人は神に従うべきであり、人間に従うべきではない。
私を全面的に信用し、従うなど、あってはならない。
私に賛同する人間が団体を作っても、時間がたてば、私に疑念を持つ人間が出るかもしれない。
そういう人間が集まって、その団体から分裂し、私に反対する団体を作ってもいいのだ。
私は、私に賛成することにも、反対することにも、反対しない。
私に反対することは、私に対する裏切り行為ではない。
どんな人間も、自分が正しいと思ったことをするべきだし、
いったん、正しいと思ったことでも、思い違いをしてしまったと思ったら、訂正していいのだ。
個人の自由を尊重しよう、
そして、誰もが人の言いなりになるのではなく、自分の判断で、何が正しいか判断し、行動するべきだ。
神と人間、15,11,18
私は当然のことながら、普通の人間だ。
聖者でも預言者でもない。
ましてや、神などであるはずもない。
私は神様扱いされることを断固拒否する。
私に手を合わせ、祈る人間を想像しただけでゾッとする。
今だけではない、死んだ後も、神様扱いされることを断固拒否する。
神様なら、各宗教に、各神様がいる。
その神様を崇めるだけで十分だ。
イエスや釈迦扱いされるだけでなく、
神社でお祭りされている、菅原道真公、平将門公、吉田松陰のような扱いも断固拒否だ。
私は神社でお祭りされる資格などない。
人は、あの人の言うことなら信用できる、あの人の言うことは信用できないと言うが、
物事は内容を判断するべきではないか。
正しいことは誰が言っても正しいし、
誰が言っても、間違いは、間違いだ。
正しいことは誰が言っても、正しいと認められるべきだし、
間違いは、間違いと判断されるべきだ。
間違いを間違いと言えない社会は劣悪な社会である。
間違いを間違いと言えない雰囲気の社会は劣悪である。
間違いを間違いとして、声に出せないような状態になってしまえば、社会は、どんどん悪い方へ向かって行ってしまう。
我々は、間違いは間違いと認めるべきだし、間違いを間違いとも言えないような、恐怖社会を作ってはいけないのだ。
白い嘘、15,11,19
社会に嘘は必要だと言う人がいる。
嘘は社会の潤滑油だと。
確かに、嘘は必要だと思う。
ときには、嘘をついて、相手をいたわることも必要だ。
我々は臨機応変であるべきだ。
しかし、大きな嘘は許されない、根本的な部分、社会の基礎的な部分に嘘があると大変なことになってしまう。
その一つは、宗教である。
宗教は人の根幹を支えるものであったり、国によっては、国家全体、社会全体を支えるものであったりする。
その宗教が嘘であれば、国家、社会自体が大きくゆがんでしまう。
人類の運命まで左右しかねない。
残念なことに、科学と違い、宗教は一部の人間によって、都合よく変えられてしまうことがよくある。
宗教は一人一人が検証したり、考えたりすることができないと思っていたり、
指導者の言うことに、ただただ、従わなければならないと思っていたり、
また、宗教は人間の想像だから、最初から嘘なのだと考える人も多いからだ。。
そこへ、登場するのが救世主である。
宗教は何なのかを語る人である。
その典型が、イエス・キリストである。
イエスの話すことは真実だから、イエスは神だと称賛する人が多い。
しかし、救世主を憎む人もいる。
現在の宗教の間違った点を明確に示す救世主に、現在の宗教を守ろうとする人間は反発する。
また、救世主に、宗教の間違いを指摘されたとき、そのショックは大きい。
嘘であってはならないものが、嘘と分かる瞬間だからだ。
社会の基盤の嘘が指摘されることで、社会全体が揺らぐことになる。
救世主は、破壊者であると罵られる。
そして、我々は選択しなければならない。
救世主の味方になるのか、
それとも、救世主を殺した人間たちの仲間になるのかを。
それは人によって、選ぶものは違うだろ。
しかし、今のような、文明の進んだ現代において、暴力と違法行為で解決するという選択肢はない。
暴力や違法行為では絶対に解決できない。
もし、救世主や救世主を支持する人を、暴力や犯罪行為、上当な行為で弾圧するのなら、
世界は大変な事態に陥ってしまうだろう。
救世主が救世主なのか、救世主ではないのか、
救世主に反対するのか、賛同するのかは、一人一人が判断すればいい。
しかし、救世主や救世主の味方をする人を、もし、暴力や犯罪行為で弾圧するなら、
人類は決定的な間違いを犯したことになってしまう。
ごくごく当たり前、当然のことながら、暴力、犯罪は良くない。
誰に対しても良くない。
その現代社会で至極当然とされる。
暴力、犯罪は悪という考えさえ持っているならば、
我々はイエス・キリストの殺害というあやまちを、簡単に避けることができ、
この世界は改善に向かうのである。
キリストとは誰か、15,11,19
キリストとは、
今、暴力と犯罪に反対する人、一人一人である。
わがままな子供、15,12,2
犯罪賛成派は、客観的事実も言わない、中立な意見も持たない、
ただただ、自分たちの利益を追求する、巨大で、わがままな子供に成り下がってしまった。
このような、国家も国民も捨てた、ならず者に従ってはならない。
犯罪賛成派は、愛国心、正義、法治国家、民主国家、言論の自由を
少女マンガのような、クサイ、クサイ、セリフだと鼻で笑う。
自分の利益を求めることこそ、人間の本性だと言うのだ。
自分の利益のためには、国家も国民も破滅させていい、それが真の人間だと言うのだ。
私はまったく、犯罪賛成派の意見に同意できない。
国家、国民がなければ、当然、個人の幸せもないからである。
犯罪賛成派は狂信者である。
彼らの信奉するものは、自分の利益であり、自分の利益を実現するための暴力と犯罪である。
彼らは、暴力と犯罪によって、すべてを解決しようとしている。
暴力と犯罪による、隠蔽と言論弾圧、そして、犯罪反対派を犯罪者に仕立て上げることである。
暴力と犯罪の強要だ。
しかし、犯罪賛成派の方法では何も解決できない、それどころか、ますます、状況は悪化してしまう。
犯罪賛成派は、問題を解決しようとしているのではない、悪化させているのだ。
状況はますます悪化し、永遠に解決しない。
我々は、まず、暴力と犯罪に反対するべきである。
暴力と犯罪に反対することは、当然であり、国民の義務である。
すべての国民が紊得できる提案だ。
犯罪賛成派のような常軌を逸した狂った人間たちに従ってはならない。
狂った人間に対し、我々はごく普通の当然のことを主張しようではないか。
まず、みんなの力で、暴力と犯罪をなくそうではないか、
そして、和気あいあいと話ができる、正常な人間社会を取り戻そうではないか。
暴力と犯罪では何も解決しない、話し合うことが唯一の解決策だ。
暴力と犯罪の支配する世界を否定し、話し合うことができる、ごく普通の正常な人間社会を作ろうではないか。
暴力と犯罪の支配ではなく、法が支配し、話し合いで問題を解決する社会こそが、人間の社会である。
それを実現しない限り、人類に未来はないのだ。
暴力と犯罪の社会は人間の社会ではなく、ケダモノだ。
唯一、15,12,2
結局、我々の目的と方法は、暴力と犯罪に反対することに尽きるのだ。
暴力と犯罪をなくし、みんなで話し合うとき、すべてが良い方向へと向かうのだ。
ご都合主義、15,12,2
犯罪賛成派は、現実を客観的に見ようとしない。
現実を自分たちの都合のいいように、ゆがんだ形でしかとらえることができないのだ。
犯罪賛成派は、中立的な立場で、物事を考えることができない人間たちなのだ。
中立的な立場で、自分たちが悪いか、相手が悪いか、考えることができない。
常に、自分たちが正しいとしか、考えようとしない。
犯罪賛成派は、何が社会のためか、国家国民のためかを考えようとしない。
自分たちの保身だけで精いっぱい、あとはどうでもいいという最悪な状態に陥っている。
まったく、他人の言うことを聞かない、耳に入らないのだ。
国民の言うことに少しでも耳を傾けるなら、こんな最悪な状態にはならなかった。
犯罪賛成派は、犯罪を犯しておいて、その責任を取ろうとしない。
それどころか、犯罪行為で犯罪を隠蔽し続けている。
大人として、社会人として、常識人として、失格である。
ただ、凶暴なだけのわがままな子供だ。
もはや、子供ですらないかもしれない、人間として失格なのではあるまいか。
こんな社会のためにも、国家のためにも、国民のためにも、人類のためにもならない。
ただただ、人類の未来をふさぐだけの
ならず者たちを許していて良いのだろうか。
誰であっても、人類、社会よりも、自分たちを優先してはならないのである。
我々は、犯罪は悪いことだと言えない、最悪最低の状況に、いつから、追い込まれてしまったのだろう。
対等、15,12,2
犯罪反対派は、誰が偉いのでもない、すべての人間が対等である集団である。
私も含めて、すべての人間が対等、一人一票だ。
10年間がんばってきた人も、今日、入ってきた人も対等な関係である。
身分格差はまったくない。
年齢、性別、能力、実績、まったく関係ない。
もし、長い間、犯罪反対派として、がんばってきた人が偉いのなら、
新しく、入ってくる人間が肩身の狭い思いをしなければならない、入りずらくなってしまう。
新しいどころか、犯罪賛成派だった人間でも、心を入れ替えるのなら、対等な待遇をしなければならない。
そうしなければ、犯罪反対の輪は広がらないし、犯罪賛成派が改心したくてもできないような状況を作ってしまうことになる。
いったん、犯罪反対派になるなら、一切の差別はない。
ただ、長年がんばってきた人間が報われるべきであるという考えは間違ってないし、悪い考えではない。
しかし、犯罪反対派は無限連鎖していかなければならない。
世代を越え、ときを越え、国を越え、民族を越えて、
一人でも多くの犯罪反対派を作ることが、世界を平和にすることであり、人類を繁栄させることにつながるのだ。
そのためには、古株がデカい顔をしていては、入りずらいだろう。
古い人間を大切にするより、新しい人間を歓迎する、そうした体制、雰囲気作りが大切だ。
私は、すべての犯罪反対者を対等に扱う。
誰も特別扱いしないし、どんな団体にも肩入れすることはない。
ただ、これは私の考えであり、
長い間、苦労した人間が報われるべき、実力がある者が権限を持つべきだとの考えも、理がある。
そうした考えの人間は、犯罪反対派同士で団体を作ればいい。
私は、それに、賛成する。
犯罪反対派というのは、非常に大きいくくりである。
その中に、いろんな考えの人間がいていいし、いろんな団体があっていいと思う。
犯罪反対派の中に、どんな考えの人間がいてもいいし、どんな団体があってもいい。
犯罪反対派の中に、私に反対する人間が集まり協力し合う団体があってもいいのである。
犯罪反対派だからといって、私に従う必要はないのだ。
犯罪反対派に上下関係はない。みな、対等だ。
縦の関係ではなく、横の関係なのだ。
みんなが好きなことを好きなように言っていいし、自由に行動するべきなのである。
労働組合、15,12,2
どこどこの労働組合が犯罪反対運動に加わりたいと言うなら、
私は大歓迎だ。
その労働組合は、その労働組合で犯罪反対運動をしてくれればいい。
私の指示に従うことなど、まったくない。
私の方が立場が上だとか、下だとかもない。
何々教団が、犯罪反対運動に加わってくれるのなら、
私は大歓迎だ。
その教団は、その教団で犯罪反対運動をしてくれればいい。
犯罪反対派は、対等な関係で、犯罪に反対するという目的のために連携できる人間の集まりなのである。
その他では協力できなくても、まったく、オッケーだ。
個人でも、犯罪反対運動に加わりたいのなら、大歓迎だ。
我々は対等な関係なのだ。
犯罪反対運動、15,12,2
私は犯罪反対運動に、すべての人間が加わってくれることを希望する。
犯罪に反対することは、ごく普通の行為ではあるまいか。
犯罪に反対でも、様々な立場、考えの人間がいるのは当然だ。
様々な人間が、犯罪に反対するという共通の目的のために、協力できればいいのだ。
誰がリーダーだとか、代表だとか、そういう問題ではない。
犯罪反対は、国民の声ではあるまいか。
フランチャイズ、15,12,3
犯罪反対派は、フランチャイズのようなものだ。
コンビニやファミレスのフランチャイズと違うところは、
誰でも自由に許可なくはじめられ、
カネを支払う必要も、まったくなく、
私の指示に従う必要もまったくなく、完全自由だということだ。
個人での参加も大歓迎。
我々に上下関係はなく、対等に話しができる。
カネを払うだとか、私に従うだとか、言う以前に、
犯罪反対運動に参加してくれるなら、こちらがカネを払いたいくらいだ。
とても、ありがたく思うし、感謝している。
みなさま、ありがとうございます。
社会の基礎、幸福の基礎、15,12,4
私は犯罪賛成派の人たちを滅ぼそうとしているのではない。
私は、犯罪賛成派の人たちに考え直して頂き、犯罪に反対してもらいたいのだ。
すべての人に、犯罪に反対してもらえれば、それでいいのだ。
犯罪に反対することは、社会の基礎、人間が幸福になるための基礎である。
みんなが犯罪に反対することなしに、誰も幸福になれない。
安全も平和も、幸福も発展もない。
みんなが犯罪に反対することが、スタートラインなのだ。
犯罪に反対することなしに何も始まらない。
何も良いものは作れないし、生まれない。
社会の安定と発展、国民が安心した生活を送れるように、みんなで協力しようではないか。
情報操作、15,12,5
最近、インターネットやメールなどで情報流出がある。
むかしなら、そんなのうわさ話過ぎない、デマだと思っていたものが、
最近は、写真や動画が流出するようになり、これは本当なんじゃないか、と思うようになった。
最近のうわさ話が本当だと思うだけでなく、むかしのうわさも、本当だったのでは、と思うようになった。
無条件で信じてきた、政府や警察、マスコミの発表も、実は情報操作されたものではないか?との疑いを持つようになった。
とにかく、大事件があったなら、テレビでやらないはずはない、
テレビでやらない大事件の話は嘘だと決めつけられなくなった。
もし、インターネットの完全自由化があるなら、
情報操作はできなくなるだろう。
そもそも、表現の自由が保証されている先進国で、
インターネットの完全自由化など、言うこと自体おかしいのかもしれないが、
なんらかの、制限があるように感じるのは、私だけであろうか?
我々の国は、表現の自由が保証され、情報操作が禁じられた国である。
もし、情報操作があるとするならば、それは、法治国家の原則、民主国家の原則に反した行為である。
昨今、インターネットの害が頻繁に騒がれているが、
インターネットの普及は、真の法治国家、民主国家を生み出す物なのではないだろうか。
憲法で保証されている、表現の自由、言論の自由、知る権利が完全に保証されるなら、
そのとき、はじめて、先進国は、民主国家になるのだ。
言ってることとやってることが正反対、15,12,5
大勢の子供たちに教える人間がいる。
大勢の人々に教える人間がいる。
その教える立場の人間が、自分が教えていることと正反対の行動を取っている。
つまり、犯罪は悪いことと教えながら、犯罪賛成派に協力している。
こんなに大勢の人間のやってることと言っていることが正反対でなければ、
世界はこんなに滅茶苦茶にならなかった。
権力は腐敗する。15,12,7
権力は腐敗する。
なぜなら、人間は自分を他人より優先するという気持ちを持っているからだ。
自分たちを他人より優先するという気持ち。
この気持ちがなくならない限り、権力は腐敗する。
かつて、共産主義者たちが革命を起こした。
共産主義者たちは、非常に極端な平等という考えを持っていた。
人間は平等であるべきだと思うが、
経済的平等となると話は別だ。
極端な貧富の差は是正するべきだが、
みんなの経済的平等を実現するというのは、あり得ないほど、極端な考えだ。
とても実現すると思えないし、それで、みんなが幸せになるとも思えない。
そんな極端な平等意識を持った共産主義者が革命を起こし、国を作ったら、格差が生まれた。
共産党が特権階級となり、富を独占したのだ。
平等を訴えて革命を起こした人間たちが、格差社会を産んだ。
つまり、どんな人間が権力を持っても、他人より自分を優先するという思いがある限り、
権力は腐敗するのだ。
それは、共産主義国ほどの腐敗ではないにしても、現在の先進国でも起こっている。
誰が政治家になっても、人の心に、他人より自分を優先するという気持ちがある限り、腐敗は起こるのだ。
ただ、今の我々には、この腐敗を一掃する方法がある。
我々は科学技術の進歩により、インターネットという情報通信機器を手にした。
これで、権力者のやっていることを丸裸にすれば、腐敗は一掃できる。
腐敗は隠れた所で起きる。
公開の場では腐敗は起きない。
権力者の行動をインターネットで完全公開し、当然のことながら、一般国民と同じように、日本の法律を守ってもらう。
これだけで、腐敗はなくなる。
私は何も権力者のプライバシーを公開しろと言っているのではない。
ただ、税金の使い道などは細かくインターネットで公開してほしい。
権力者の違法行為をインターネットで糾弾することは、禁止されてない。
むしろ、法治国家の国民が違法行為を糾弾することは奨励されるべきであり、国民の義務とも言える行為である。
一人のつぶやきが全世界にまたたく間に拡散して行く、それがインターネットだ。
これをフル活用して、権力の透明性を高めれば、多くの腐敗をなくすことができるだろう。
権力者の行為は公開されるべきだとの国民の認識と言論の自由とインターネット。
すべては公開されるとの思いで政治をする政治家。
これで、大幅に世界は改善するのである。
原則すべてが公開、
権力者も一般国民と同じように法律を守る。
国家の意志は国民の総意で決める。本当に大切なことは国民投票で決めるべきだ。
大国がギリシャ時代のような民主主義を実現することは上可能とされていたが、
インターネットを使うことで、我々は腐敗を排除し、民主主義の理想に近づくことができる。
私は自分が特別な人間になろうとは思わないし、
私の仲間や味方が特権階級を作ることを絶対に認めない。
そんなことをすれば、我々のやってきたことがまるで無意味になる。
我々の目的は法治国家であり、民主国家だ。
民主国家とは、一人一人が平等な参政権を持つことであり、
表現の自由、言論の自由、知る権利を確保することだ。
今、マイナンバーや消費税増税など、いろいろなことをやっているが、
今、一番必要なのは、税金の無駄使いを削減することだ。
税金の無駄使いをやめることが最大の改革なのだ。
それは簡単にできる、税金の使い道を公開すればいいだけのことだからだ。
インターネットで公開できるから、今すぐにでもできる。
ある意味、大変な改革かもしれないが、国家の大幅な改善になり、国民の負担が大きく減る。
これからの未来につながる、やらねばならない改革である。
100人が100人、15,12,8
権力は腐敗する。
なぜなら、権力者を管理する人間がいないからだ。
トップになり、誰も文句の言えない立場にある人間たちは腐敗するのだ。
これは、いかなる時代でも起きた、歴史的事実である。
しかし、今、これを改善することができる。
インターネットにより、権力の透明化をすればいいのだ。
そうなれば、権力を国民が管理、監督することになる。
民主制となるのだ。
今、必要なのは、頭の良い人だけが改善できることとか、些細な無駄、悪を改善することではない。
100人が100人、誰がどう考えても、無駄だ、悪だと思うことを改善することにある。
100人が100人、悪だと思うことを改善しただけで、大きな大きな成功と言えるのだ。
管理する者がいない、権力というものは、誰もが悪と思うことを改善できない仕組みになってしまっている。
誰もが悪と思うことが、今の社会の根本的悪であり、根本的腐敗なのだ。
この根本的悪を改善することにより、国家は大幅に改善し、国民生活は大きく良くなる。
子供でも分かる、悪事を改善できない。それが、今の最大の根本的問題なのである。
この改善なくして、人類に未来はないのだ。
国家国民の為、15,12,8
犯罪賛成派は、人は自分優先、それが当たり前だと言う。
他人を優先するなど、ただのきれいごとであり、軽蔑されるべきなのだと言う。
しかし、国家国民のために命懸けで働いて何が悪いのだろう。
国家国民のために命懸けで熱く語って何が悪いのか。
人間は心の底からの思いを語り、心の底からの思いで行動するしかない。
もし、その人の言動がきれいごとであったとしても、それが心の底からの叫びであるなら、
ほんとうに、それは、きれいごと、なのか?
断じて、それはきれいごとではない。
きれいごととは、本心のともなわない嘘のことなのだ。
心の底からの本心がともなわない言動のことだ。
心の底からの思いで、命懸けで、国家国民のために働くことがきれいごとのはずがない。
命懸けで国家国民のために働く人間を笑う、犯罪賛成派こそ、
人間として最低であり、軽蔑されるべき人間たちだ。
国家国民のために真剣に働く人間をきれいごとだと言って笑い、小バカにする人間は、
歴史上最大の大聖者を罵倒するに等しい、大罪を犯しているのだ。
人は何を言っているか以上に、本当のことを言っているのか、嘘を言っているのかで評価されるべきだ。
本気で大真面目できれいごとを言うなら、それはきれいごとではない。
成れの果て、15,12,8
犯罪賛成派は、善人をきれいごとだ、クサイ、クサイ、と罵倒する。
なぜなら、自分の利益のみを求める人間にとって、善人は最大の敵、天敵だからだ。
良い行いを見ては、きれいごとだ、クサイ、クサイ、と言ってバカにする。
良い言葉を聞いては、きれいごとだ、クサイ、クサイ、とバカにする。
これが、腐りきった、落ちることろまで落ちた人間たちの成れの果てだ。
国家国民のため、15,12,8
犯罪賛成派は、かつて、国家国民のためだと言って、犯罪をはじめた。
今、その犯罪が国家国民を苦しめている。
ならば、犯罪賛成派は、今、国家国民のために、犯罪をやめるべきだろう。
現在、国家を暴力や犯罪で治めることは上可能だ。
国家は、法律のみで治めることができる。
善と悪、15,12,8
犯罪賛成派は悪であり、犯罪反対派は善である。
悪は善に勝てない。
国民は誰も悪の勝利を望まないからである。
もし、悪が勝てば、法律が意味のないものとなり、世界に暴力と犯罪が満ち溢れてしまう。
そうなれば、すべての人間が上幸になってしまう。
犯罪賛成派は自分たちが悪であることに気づいている。
そして、悪が善に勝てないことも分かっている。
だから、暴力と犯罪で犯罪反対派を苦しめ挑発している。
犯罪反対派が、犯罪賛成派の暴力に暴力で返し、犯罪を犯罪で返すことを望んでいる。
もし、犯罪反対派が暴力に暴力で対抗し、犯罪に犯罪で対抗するなら、犯罪反対派も犯罪賛成派に落ちる。
犯罪反対派は犯罪賛成派となり、犯罪賛成派対犯罪賛成派、悪対悪の戦いとなり、最悪の生き地獄に、この世はなる。
そうするしか、犯罪賛成派に勝ち目はない。
日本国にあだなそうと、この世を生き地獄に変えよと、自分たちが勝てば良い。
そう考える犯罪賛成派たちは、最低最悪の存在である。
もし、私が犯罪賛成派の精神薬投与によって、暴力を振るっても、犯罪を犯しても、決して、まねしてはならない。
暴力や犯罪で、犯罪賛成派に対抗することが、私に対する最大の裏切りである。
もし、犯罪反対派が暴力や犯罪で犯罪賛成派に対抗するなら、
世界に暴力と犯罪がまん延し、この地上にいる、すべての人間が地獄の苦しみを味わうことになる。
それだけは、避けなければならない。
すべての人間の幸福を祈ろうではないか。
下着泥棒、15,12,9
嘘か本当か分からないが、今、大臣が過去に下着泥棒をしたのではないかと問題になっている。
それが本当の話ならば、大臣を褒めてもいいのではないだろうか。
なにも私は、下着泥棒をしたことを褒めろと言っているのではない。
若い頃、下着泥棒などをしていたのに、反省して、大臣にまでなったことを褒めるということだ。
一度、罪を犯しても、その罪を償い、反省し、やり直すなら、大臣にもなれる。
そういう再チャレンジ可能な社会は歓迎するべきだ。
一度、罪を犯せば、もう一生、絶対に浮かばれることのない社会など、恐ろし社会だ。
再チャレンジ可能な社会こそ、問題のある若者の更生に最も必要なものなのではないか?
話は少し違うが、
オリンピックのエンブレム問題などでも、エンブレム問題自体が問題ないとは言わないが、
そこまで細かいことを問題視するべきであろうかと疑問に思うようなことでも、
細かく調べ上げられ、
みんなのやり玉にあげられ、責められていたように思う。
今、インターネットがあるから、個人の細かいミスまで、調べることができるし、
また、過去の罪は何十年たっても、忘れられることがない。
このような時代だからこそ、
細かいことまで調べ上げ、何十年も前のミスまで調べ上げ、みんなでその人を責めるのではなく、
みんながおおらかになり、細かいこと、過去の罪を許すことが必要なのではないだろうか。
もちろん、これは、悪さばかりをしてきた、私の意見ではあるが、
人は誰しも、人に言えないようなことを一つや二つはしているのではないだろうか。
巨悪を叩くことは重要である。
しかし、細かいミスや何十年も前の罪などは、大目に見ることも、とっても大切なことだと思う。
今、インターネット時代が始まっている。
だからこそ、人を思いやったり、許したり、大目に見たりすることが必要になっているのだと思う。
下着泥棒は確かに悪いことだが、人殺しのように、取り返しのつかない大罪というわけではない。
もちろん、投票は各自の判断だが、みんなでいじめているようで、少しかわいそうだ。
人の道は、自分を愛し、人を愛し、自分を許し、人を許すことであると言う。
もっとおおらかに、もっとアバウトでいいのではないか。
とにかく、少しのミスも許されない社会など、恐ろしくて、生きて行けない。
自分の人生を生きるために、15,12,10
犯罪賛成派は、話し合いをしない、暴力と犯罪の集団であると言ってきた。
言論弾圧など、人間として最低だ。
この頃、さらに、犯罪賛成派は、人々が犯罪反対派の意見を聞くこと自体に反対している。
人は、犯罪反対派の意見を聞かず、内容がまったく分からないまま、
犯罪賛成派に朊従し、犯罪反対派に反対するべきだと言うのだ。
反対意見を聞かず、理解せず、話し合いもしない。
ただただ、相手に反抗し続ける。
こうなったら、人間は終わりだ。
犯罪賛成派は、人間一人一人を崩壊させようとしているのだ。
邪悪な独裁者は話し合いをしない。
さらに、さらに、邪悪な独裁者は、人々に、独裁者に反対する人の意見さえ、聞かせないようにする。
邪悪な独裁者に人生をだいなしにされないための方法はたった一つ。
自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の目で読み、自分自身で考え、判断することだ。
民主主義とは、一人一人が考え、判断し、発言しなければ、成立しない。
民主主義とか、宗教とか、言う前に、
誰かに朊従し、自分で判断することをやめるなら、それは死体だ。
我々は、自分の人生を自分で生きることで、生きる意味があるのだ。
誰かに朊従し、自分の人生を自分の判断で生きることのない死体など、まったく無意味ではあるまいか。
社会を作り、未来を作るために、15,12,11
一人一人に、事実を知ってほしい。
そして、一人一人に考えてほしい。
そして、みんなで話し合ってほしい。
事実を知り、考え、みんなで話し合う、そして、考え、話し合う、事実を知る。考える。話し合う。
ゆっくりでいい、そうやって、繰り返し、繰り返し、考え、話し合う。
じっくり考え、事実を知り、理解し、他人の考えを知り、理解し、自分自身で考え、他人を知る、自分の意見を伝える。
その繰り返しが何より重要であり、
立ち止まって考え、時間をかけて考え、時間をかけて話し合い、時間をかけてお互いを理解し合う。
急がなくていい、時間をかけて、考え、話し合い、みんなが和合することが何よりも大事なのだ。
暴力や犯罪は必要ない。
時間をかけ、考え、話し合い、和合する。
そうやって、作ったものだけが、本当の社会となる、本当の未来となる。
暴力や犯罪で急激に作られたものは、砂上の楼閣に過ぎないのだ。
足場を踏み固めるように、一つ一つ考え、話し合って行こう。
急ぎ、暴力や犯罪を振るえば、最悪の結果が待っている。
冷静に、落ち着いて、しっかり地に足を着け、
じっくり考え、話し合い、国民の総意を持って、国家の大事を冷静に判断しようではないか。
非暴力で、合法的に、みんなで話し合い、協力するならば、どんなことでも乗り切れる。
私の願いは、ただ、それだけだ。
嘘、隠蔽、強制、15,12,12
嘘、隠蔽、強制は、最も卑怯で邪悪な行為である。
邪悪な独裁者は、国民をコントロールしようとする。
そのための邪悪な手段が、嘘、隠蔽、強制なのだ。
この最低最悪の行為を放っておいてはならない。
この最低の行為を見つけたら、
すぐさま、その事実を公にし、
その最低な行為をした者に責任を取らせなければならない。
嘘、隠蔽、強制は根本的な悪、邪悪の元凶なのだ。
それによって、健全な国民生活は阻害されてしまう。
法治国家、民主国家は崩壊し、邪悪な人間の支配する世界となってしまう。
独裁主義と民主主義、15,12,12
独裁主義と民主主義という二つの考えがある。
独裁主義とは、一人または、一つの集団が国家を支配し統治するという考えである。
一人の人間が国家を統治しなければ、国はバラバラになり、混乱してしまう。
一人の人間が国家をコントロールするから、国家は正常に機能する。
国民一人一人が自分勝手に行動すれば、収拾がつかなくなる。
これが独裁主義の考えだ。
共産主義も、むかしの王制なども、独裁主義に該当する。
民主主義とは、みんなが平等な立場で話し合い決める国家である。
一人一人が自由ならば、一人一人の個性、能力がいかんなく発揮され、国家のパフォーマンスは最大となる。
多種多様な能力が発揮され、すべての細かい分野までもが、発達する。
様々な人間が様々な考え角度から意見を言うから、素晴らしい意見が生まれる。
何より、自由な開放感は、幸福につながる。
独裁主義は統率者がいるからこそ、国家は発達するのだと考え、
民主主義は、一人一人が自由だからこそ、最高の活躍だできると考える。
まぁ、どちらにもそれぞれの言い分がある。
どちらがいいとも言いがたい。
ただ、時代の進歩と共に、独裁主義から民主主義に移行してきたのは歴史的事実だ。
民主主義になるほど、高度な文明、科学技術、芸術や文化が発展する。
今でも独裁国家が世界的に見れば多いのも事実。
その独裁国家を無理やり民主化すれば、幸せになるものでもない。
民主化を受け入れられる状態か、そうでないかが問題となる。
むかしは、みんな独裁国家だった。
それには、それなりの理由がある。
民主制では統率の取れない理由があったのだ。
ただ、時代を進歩させ、みんなが豊かで幸せになるには、民主制は必要上可欠だ。
時代が進むにつれ、独裁主義から民主主義に移行して行く。
今の世界は先進国では民主主義が当然であるが、
発展途上国では、民主制では統率の取れない国もあるのだ。
つより独裁者がいないと四六時中、戦乱が続いてしまうという状態もあるのだ。
理想と民主主義、15,12,12
古代ギリシャは民主主義だった。
そのギリシャ時代にギリシャでは多くの発達した科学、芸術、哲学、文明文化が生まれた。
発達した文明と民主主義は無関係ではないと思う。
理想とすれば、世界のすべての国が民主国家になれば良いと思うが、
急がせてはいけない。
状況が整った時点で民主化しなければ、返って状況が悪化することも考えられる。
フランス革命は状況が整った時点で起き、そして、民主制はフランスに根付いた。
民主制が根付くかは、国民意識や国民の考えと深い関係があると思う。
日本は民主制が国民意識に根付いた、最も民主制に適した国であると思う。
国民性も話し合うことに適した国民性である。
古代、大和の国は、民主制であったとの説もあるくらいだ。
大きく和合するで大和、日本は和の国、和風だ。
和の国には、やはり民主制がふさわしいのではないだろうか。
人の和のないところに、民主制はない。
日本人の国民性と民主制、15,12,12
日本人はルールもマナーもよく守る。
日本人には法治国家がふさわしいと思う。
そして、民主主義にも最も適した国民性であるとも思うのだ。
逆ギレ、15,12,13
普通、政治家が自分の汚職を指摘されれば、謝罪する。
しかし、邪悪な政治家は自分のミスを指摘されても謝罪しない。
政治家の欠点を指摘した国民に対し、
わけのわからない異常とも言える政治家は、
お前たちに政治ができるのか?、と逆ギレする。
政治は簡単ではない、だから、犯罪は肯定されるべきとの見解を示す。
そして、謝罪の代わりに、言論弾圧をし、自分への非難を圧殺する。
こんなわけのわからない、メチャクチャな政治家がいれば、国家の崩壊は間違いない。
このような政治家をやめさせるか、それとも、日本国を崩壊させるか、
我々は二つに一つを選ばなければならない。
どうでもいい、15,12,13
犯罪賛成派は、私が、すべてをどうでもいいと思っていると言う。
なぜなら、私は自分が国家のリーダーになろうとしないし、誰かを指吊するわけでもないからだ。
私は当然のことながら、国家のリーダーは、国民の投票によって選ぶべきだと思っている。
それが、犯罪賛成派にとっては、どうでもいいと思っていることなのだ。
自分がリーダーにならず、投票で選ぶことは、他人任せであり、無責任だと言うのだ。
そう言われれば、そうかもしれないが、それなら、民主主義者はみんな、他人任せの無責任人間なのか?
私は権力者を固定化するべきではないと思っている。
国民の意志でいつでも罷免できるようにするべきだ。
いったん決めたことが、変更できない国家体制は、とんでもない悲劇をもたらす。
共産主義国がそうであったし、権力者が国民の意志で罷免できないことで、大概の国家の悲劇は起きるのだ。
権力者や国家政策は、国民の意志で、いつでも変更可能な状態にするべきである。
間違いが国民の意志で改善できない国家体制など、
それ自体が、とんでもない間違いだ。
犯罪賛成派が、私のことをすべてどうでもいいと思っている理由に挙げているものが、もう一つある。
それは、私が国政を話し合いで決めようとしていることだ。
私はみんなの話し合いで政治をするべきだと考える。
それが、犯罪賛成派にしてみると、非常に無責任で他人任せなのだと言う。
なぜ、自分の考えを実現しようとしないのか?と言うのだ。
私は国策は、国民の総意で決めればいいと思う、私が勝手に決めるものではない。
私には私の考えがある。私は私の意見を曲げるつもりはない。
しかし、それは私の意見に過ぎない、国政は多数決で決めるべきだ。
いくら良い考えでも国民の同意が得られなければ、それを国家の意志としても、国民がやる気にならないだろう。
国民にやる気がないなら、どんな良い政策も実現できない。
政策の成功、失敗は、国民のやる気に影響されるところが、大きいと思う。
また、言うまでもないことだが、私が常に正しいとは限らない。
リーダーを決める上でも、国政を決める上でも、私は民主制を主張する。
それが、国政をどうでもいいと思っていることなのか?無責任?他人任せ?
犯罪賛成派には、民主制というものが、どうしても理解できないものらしい。
また、犯罪賛成派は、私がだれかれなく攻撃すると言う。
私は暴力と犯罪に反対している、暴力と犯罪は、敵であろうと味方であろうと認められない。
私は法治主義者だ。だから、法の下の平等を主張する。
敵も味方も同じ法律で裁く。
ぶっそうな世の中、15,12,13
今、ぶっそうな世の中となってきている。
今こそ、暴力と犯罪に全員で全力で反対してほしい。
暴力と犯罪がなければ、決して危険はないのだ。
日本人として、15,12,14
私はごく普通の誰でも言う当然のことを書いてきた。
法律を守るべきだということだ。
一般の人間は誰でもごく普通に法律を守っている。
一般の人間のように、誰もが法律を守るべきである。
法律を守ることで、ほとんどの問題が解決に向かうと思う。
権力の世界は、人間の欲望が集中する場所である。
また、立場の強い人間が集まる場所であるから、
その人間より上の人間がいない場所、つまり、その人間を管理する人間がいない場所でもある。
そのような場所では人間は上安定になる。
もし、権力者が普通の人間と同じように、法律を守っていたら、ほとんどの問題が解決するのではないだろうか。
少なくとも、こんなに世界がメチャクチャにはなってなかったと思う。
一部の人間の利害ではなく、国民全体の利益を考える社会、
正しい意見、国民全体の利益になるアイデア、そんな意見が誰が言っても採用される社会。
法律を守るなら、世界を救うことができると思う。
日本人は、法律、ルール、マナーを良く守る国民と世界で言われている。
日本人は、法律を守ることが社会の基礎であり、
人々の平和と安全、幸福を守るための基本中の基本であることを世界に訴えて行くべきではないだろうか。
法律を守ることが、世界を救うことなのだ。
救世主、15,12,14
法律を守るためには、透明化が必要だ。
犯罪は人の目がないところで起こる。
人の目がとどかない暗がりをなくすことが、みんなが法律を守ることにつながる。
インターネットは便利な道具であるが、害もある。
有害なものともなるし、有効利用することもできる。
しかし、権力の透明化に関しては、非常に有効な道具となり、大活躍、間違いなしだ。
権力の透明化は、公共性の高い、国民生活と直結した、近々の課題である。
この問題に関し、インターネットは救世主となるだろう。
独裁者とインターネット、15,12,14
インターネットには、功罪、どちらの側面もあると思う。
しかし、邪悪な独裁者をなくすには、便利な道具となるだろう。
インターネットの悪用にもつながるから、実際には上可能だが、
もし、誰もが自分の吊前も顔も決して知られることなしに、
インターネットで発言できるとしたら、独裁者はうまれるだろうか?
恐怖政治は、発言が誰のものか特定され、独裁者に弾圧されることでうまれる。
もし、決して特定されることがなく、誰もが自由に意見を言うことができれば、邪悪な独裁者の恐怖政治はないのだ。
テレビやラジオ、新聞などは一方的なものだ。
邪悪な独裁者に利用されることも十分考えられる。
しかし、インターネットは、受け取るだけでなく、一人一人の意見を世界に発信するツールともなる。
もし、邪悪な独裁者がいるなら、インターネットは、その独裁者の最大の敵となるだろう。
世界インターネット大会、15,12,16
中国で世界インターネット大会なるものが開かれているようだ。
これは、中国政府の強い危機感のあらわれだろう。
国民が自由にインターネットで話し合えれば、独裁国家はもたない。
権力者の汚職の暴露やデモや集会への誘い、
中国政府はたえずインターネットに悩ませられ続けている。
中国では、厳しいインターネット検閲がある。
しかし、それをものともしない人々により、インターネットは権力者、独裁者をたえず脅かす存在となっている。
中国はインターネットの敵と人々は言うが、中国だけが、インターネットにおびえているわけではない。
世界の権力者たちが、今、インターネットに戦々恐々としているのだ。
インターネットによる、権力の可視化は、人類の理想である。
なぜなら、それが真の民主主義だからだ。
権力の可視化は、今まで力で封じ込まれてきた真実が明らかとなることを意味する。
過去の犯罪も、現在の犯罪も明らかとなる。
嘘、隠蔽、強制が通じない世界となってしまうのだ。
中国以外の権力者にとっても、大変なことになってしまう。
それは、邪悪な独裁者が滅亡し、世界の国民が主権を握ることなのだ。
インターネットには、一部の人間に過ぎない権力者たちの力を弱め、大多数の一般国民の力を強める力がある。
権力者たちは、インターネット上の言論の自由を奪っているし、これからも奪い続けようとするだろう。
しかし、我々は絶対にインターネット上での言論の自由を権力者に渡してはならない。
インターネット上での言論の自由は、民衆の勝利である。
一部の特権階級の廃止を意味する。
縦、横、15,12,16
独裁者は縦の関係を重視する。
上の者が下の者を支配するのだ。
これに対抗するには、横の繋がりを重視する必要がある。
国民がインターネットで横に繋がり、話し合い、協力する。
国境を越え、民族を越え、世代を越えて、横の関係を結ぶ。
独裁者は少数、一般国民は多数派である。
一般国民が繋がり、協力できるなら、必ず、独裁者に勝つことができる。
犯罪肯定論、15,12,18
犯罪賛成派は、私が犯罪賛成派を犯罪者と言うことに対し、ひどい言いがかりだと言う。
つまり、犯罪賛成派が言うには、一般人、弱者、庶民の犯罪は犯罪であるが、
強者の犯罪は犯罪ではないと言うのである、むしろ、世直しだと言うのだ。
弱者の犯罪は犯罪であり、犯罪を犯した者は犯罪者。
強者の犯罪は犯罪ではなく、犯罪を犯しても咎められることもなく、法的責任を負うこともない。
強者は犯罪者にはならない。
強者は犯罪を犯しても、弱者、一般人から、尊敬されるべき存在であると言うのだ。
強者の犯罪は世直しであり、いいことだと言う主張に対し、全否定するつもりはない。
しかし、強者も弱者も人間であり、欲がある。
強者の犯罪がすべて世直しとは到底思えない、強者に都合が悪い、それだけで潰された人間が多数いる。
また、強者による上正や汚職はとどまることを知らない。
強者には監視役となる人間がいないし、法律さえ適用されることがないからである。
権力は腐敗する。そのために、国家の進路は大きく曲がり、人類の進路さえ大きく曲がってしまっている。
犯罪賛成派は、権力は腐敗する、
だから、誰がやっても同じだ。批判しても、また、同じことが続くだけだと言う。
しかし、今は、インターネットがある。
インターネットを駆使し、権力の全面可視化を実現すれば、
誰がやっても、権力は腐敗しないようになる。
権力の可視化が行われれば、国家、世界が大きく揺らぐ。
もちろん、危険も大きい。
しかし、すべての人間が暴力と犯罪に反対するなら、危険はない。
危険は、暴力と犯罪がなければ、ないのだ。
暴力と犯罪は振るわない、認めないという体制の中、改革が行われるならば、
誰にも、危険はないのである。
一般人、弱者、庶民の犯罪は犯罪、強者の犯罪は犯罪にならない時代は終わる。
そうしなければ、人類は間違った方向に向かい破滅してしまうからだ。
これからの時代は、弱者も強者も、すべての人間が、法律を共に守る時代となる。
弱者も強者もない、犯罪行為を犯せば、誰もが罰せられる時代が来る。
権力の可視化、15,12,18
権力の可視化は、法的に何の問題もなく、民主主義の多数決の原則に従い、誰もが賛成できることだ。
国家、国民、すべてが良くなり、人類全体が良くなる。
すべてが良くなり、悪いことは一つもない。
すべての人間の幸福を願い、法治主義、民主主義の原則に従うなら、
今まで、なぜ、権力の可視化が議論さえされなかったのか、逆に疑問だ。
おそらく、今まで誰も提案しなかったのではなく、誰もできなかったのではあるまいか。
なぜなら、中国のような国だけでなく、世界の権力者を敵にまわすことだからだ。
全世界の権力者を敵にまわすなら、あっという間に潰されてしまう。
権力の可視化は、権力者にとっては、悲鳴を上げるような、とんでもない、上利益だからだ。
しかし、一般人にとっては、非常にありがたい、全国民、全世界を良くする、正しいこと、
世界を救う提案と言っても良い。
全世界を良くしなければ、世界は滅亡へと進む。
世界を良くしなければ、結局、誰も、幸福にならない。
これからの問題は、一部の権力者が腐敗した状態を守り抜くのか、
それとも、世界の大多数を占める一般人が、全世界を良い方向へ進め、世界を救うのか、だ。
権力の可視化は、誰もが紊得できる正しいこと、全世界が良くなる方法である。
しかし、権力者は全力で可視化をできなくしようとするだろう。
一般人の方が権力者より、圧倒的に多数なのだから、民主主義であれば、スムーズに可視化が決まるような気もする。
しかし、そうはいかない。
それほど、権力者はあまくない。
多くの人間が権力者に従わざるを得なくなるだろう。
ただ、最後には、大多数の一般人が勝つだろう。
正しいこと、正義、世界の利益、国民の利益が優先されることとなるだろう。
そうでなければ、人類は滅亡へ向かうこととなる。
独裁者、15,12,19
権力者たちは、私を独裁者と言う。
世界の大勢の権力者に、たった一人でノーを言う人間だからだ。
世界の権力者のほぼ全員の意見に反対するなど、前代未聞、あり得ないことなのだ。
私は、世界の権力者、ほぼ全員に反対されても、正しいこと、全人類の利益になることは、通すべきだと考える。
私は世界の権力者、全員に、たった一人で反対している。
これだけを考えると、私一人のわがままだと思うが、
私は世界の権力者の一致した意見より、世界の一般国民の意見を優先するべきだと思う。
私は、世界の権力者の意見を否定し、自分の意見を通すのではなく、
私は、世界の権力者の意見ではなく、全国民が話し合い、国民の総意で国家、世界の進路が決められるべきだと思っているだけだ。
全世界の権力者の意見ではなく、全世界の国民の総意による意志決定を優先する。
この考えで、全世界の権力者に一人で反対することが、本当に、独裁者なのか?
私は全国民の総意で決められるべきという考えで、全世界の権力者に反対している。
一部の人間に決定権を与えるべきではない。
全権力者に反対し、世界の全国民の意見を優先するべきという考えは本当に、独裁者の考えなのか?
世界の権力者の敵、15,12,19
権力者たちは、私が一人で、全権力者を支配しようとしている独裁者だと言う。
世界の権力者の一致した意見を無視し、一人の人間がものごとを決定するのはおかしいというのだ。
しかし、私は、権力者たちの利益より、全世界の国民の利益を優先するべきだと言っているに過ぎない。
事実を公表し、全国民一人一人が考え、みんなで話し合い、みんなの多数決で最終的には決定する。
世界の国民に事実も知らせない、考えさせない、話し合わせない、判断させない。
国民はまったく無視し、特権階級だけで判断し、決定する。
特権階級の利益が優先で、国民の利益をかえりみない。
そのような考えはおかしいと言っているだけだ。
私一人と、世界の権力者全員、権力者に従う者が戦っている。
一人対大勢に見えるが、そうであろうか。
私がこうして生きていられるのは、大勢の国民が私に味方してくれたからではないだろうか。
ごく普通のこと、15,12,20
私は現行の法律を守るべきだと言っているだけだ。
ごくごく常識的なことであり、すべての人間が紊得できる賛成できる、当然のことを言っているだけだ。
法律を守る、ただ、この一点だけが成るならば、私の活動は終わる。
犯罪に反対することは当然である、法治国家の人間ならば全員がこの活動に参加するべきだ。
ただ単に、犯罪に反対することが、革命だろうか?政治運動だろうか?
そんなものではなく、主義主張の関係なく、すべての人間が参加するべき、人間の根源的活動ではないか。
私自身、毎日、犯罪被害を感じながら、生きている。
犯罪が日常化、常態化し、犯罪に慣れ切った社会は絶対に改善するべきだ。
犯罪を見て、またかと思うのではなく、みんなが耳目を集中し、改善する社会にするべきだ。
犯罪が常態化した社会は、当然、法治国家ではない、民主国家でもない、言論の自由なんかあるわけない。
命の保証がなのだ。
安心安全がないのだ。
ただ、ただ、繰り返し言う、15,12,20
私は、ただ、法律を守るべきだと言っているだけだ。
みんなで話し合い、決めるべきだと。
犯罪反対派の利益、15,12,22
犯罪反対派には、金銭的利益はない、得られる地位もない。
犯罪反対派には、いかなる個人的利益もないのである。
犯罪反対派の目的は国家を良くすること、国民を幸福にすること、人類を進歩させることである。
最初から、犯罪反対派だったからといって偉いわけではなく、後から犯罪反対派になったからといって偉くないわけでもない。
これから、犯罪反対派が増え、いつかはみんなが犯罪反対派になり、平等となる。
最初から、犯罪反対派だった者も、後からも関係ない。
犯罪反対派なのが当然の世の中となる。
みんなが法律を守り、みんなが平等な参政権を持つ日が来るのである。
時代の流れ、15,12,22
犯罪がなくなれば、多くのものが廃れるだろう。
そして、多くのものが発展、発達して行くだろう。
時代の憂き目にあう人間もいれば、時代の波に乗る人間もいるだろう。
時代の波に乗って金儲けをすれば、その人間の利益となる。
犯罪反対派が犯罪をなくしたからと言って、その利益を奪っていい理由にはならない。
結局は、一人一人が自分の才覚で実力で、個人の力で生きて行くしかないのである。
共産主義革命、15,12,22
共産主義革命に、なぜ、多くの民衆が参加したか?
それは、金持ちから金を奪い、民衆に分配すると言ったからである。
しかし、それは、非常に短絡的動機である。
なぜなら、金持ちの金は分配すればなくなるからだ。
その時は良いが、それだけだ。
共産主義者はそうやって、貧困を生み出し、格差を生み出してしまった。
金持ちの金を奪うという動機で始まった革命は失敗した。
共産主義革命に参加した民衆に、共産主義の意味が分かっていたかと言えば、分かってなかっただろう。
単純に民衆は飢えていたのだ。
そして、金持ちより、貧乏な民衆は多かった。
そして、革命が起こった。
共産主義と共産主義革命が起こった理由は別だったのではないか。
私は共産主義にも、共産主義革命にも、まったく同意できない。
犯罪反対派は、いかなる利益も約束しない。
犯罪反対派には、いかなる個人的利益もない。
国家全体、国民全体を良くする、人類全体を良くする目的で活動が行われている。
金持ちの金を分配などあり得ない。だいたい、経済的平等など、まったく目指してない。
重要な職、重大な任務、たくさん仕事をする人が多くの給料をもらうのは当然だと思う。
総理大臣の給料が発表されているが、極めて妥当な額だ。
もちろん、一般人よりは、かなり高い。しかし、三権の長の一人、日本で一番重要な職の給料としては少ないくらいだ。
野球選手のような高額な年俸からしたら、微々たるものだろう。
問題なのは、上正な利益を上げている者がいるということだ。
上正、汚職、無駄、これらは当然ながら排除しなくてはならない。
奪い合えば足りない、分け合えば余ると言う。
みんなが法律を守り、みんなが正当な給与をもらっていれば、こんな変なことにはなっていないのではないかと思う。
話は少し違うが、今使われている世界の軍事費をすべて貧しい人々に使うなら、
たちまち地上天国ができるように思う。
今、世界で使われている軍事費はそれほどまでに巨額なのである。
地上天国はオーバーだったとしても、今より、かなりましな世の中になるのではないか。
私は思うのだが、世界が、こんなにもメチャクチャなのは、
法律を守らないからであり、
正当な給与以外の収入を多くの人間が得ているからだと思う。
法律を守り、インターネット使って、金銭面の全面的公開をするなら、上正や汚職、無駄はない。
法律を守ること、できる限りの可視化、透明化を図れば、ほとんど、すべてが解決に向かうと思う。
犯罪反対活動をしても個人的利益はない。
ただ、国家全体、国民全体、人類全体が良くなって、すべての人間の暮らしが良くなるだけだ。
暴力と犯罪の肥大、15,12,22
私が言いたいのは、どうして、これほどまでに、私たちのお金が、暴力と犯罪に使われているのか?ということである。
法律を守ること、すべてにおいての透明化、可視化、
インターネットで世界は改善できるのだ。
今すぐにできる。
なぜなら、国のパソコンに入っている税金の使い道の帳簿を公開すればいいだけだからだ。
豹変、15,12,23
私は、暴力と犯罪に反対してきた。
法治国家、民主国家の理想を語った。
一部の人間が決める政治ではなく、みんなが知り、考え、話し合い、判断し、決める政治を提案してきた。
しかし、犯罪賛成派は言う。今はうまいことを言っているが、結局は一部の人間の政治が始まるのだと。
犯罪賛成派は言う。私が豹変すると。
今まで言っていることは実現しない、結局、詐欺だと。
私が変わることは十分に考えられる。
上動の心を持った人間などいない。
だから、私の言葉をみんなが記録しておくことだ。
そして、私が豹変し、独裁者となったとしても、
国民一人一人が、暴力と犯罪に反対し、法治国家、民主国家を忘れず、みんなで話し合うことの重要性を決して忘れないことだ。
私が豹変し、独裁者となったとしても、決して揺るがぬ、法治国家、民主国家を作ることだ。
私が豹変しても、決して変えられぬ、強固な法治国家を作ることだ。
私が豹変し、独裁者になってしまえば、国家も独裁国家になってしまう。
そんな脆弱な法治国家、民主国家では、まったく話にならない。
誰が何と言おうと、国民一人一人が、法律を守ることの重要性、みんなで話し合い決めることの重要性を心に刻み付けるべきだ。
私であろうと誰であろうと、法律を破れば、みんなで咎める。
一人、また、一部の人間だけで政治を決めようとすれば、みんなで咎める。
そういう状態に国家がならなければ、法治国家、民主国家など、夢のまた夢だ。
私一人が作るのではなく、私と私の仲間が作るのではなく、
国民全員参加の国作りが必要なのだ。
私であれ、私の仲間であれ、法治国家、民主国家に反するならば、
みんなでこれに反対する。
そういう国家体制、そういう国民一人一人の自覚と認識。
それなしでは、法治国家、民主国家は成立しない。
信じること、15,12,23
私の言うことを信じ、行動する者は愚かである。
私は信じるに値しない人間だ。
誰の言うことでも、鵜呑みにせずに、正しいことは正しい、間違いは間違いとすることが大切だ。
私の判断に従って生きるなど愚の骨頂。
人はみな、自分自身の判断に従い生きるべきなのである。
なぜなら、言わずもがなだが、一人一人の人生は一人一人のものでしかないからだ。
もし、他人の判断で生きるなら、それはいったい誰の人生なのか?
いつでも、人間は自分の判断で、自分を信じて生きるべきである。
自分の信念に生きるからこそ、それが、自分の命と言えるのではないか。
人類滅亡の避け方、15,12,24
神様が言った、人類が滅亡を避けるには、
みずから作った法律を守り、みんなで話し合えばいいと。
もし、人類が法律を守ることは、人類滅亡よりも苦しい、
法律を守るよりは、人類滅亡の方がまだましだと思うなら、
人類は破滅の道を歩めばいい。
人類を滅亡させたくないなら、人類は法律を守るしかない。
人類は自由に選ぶことができるのだ。
法律を守ることの苦痛、15,12,24
犯罪賛成派は、意図的に、犯罪行為をし、人類を滅亡させようとしている。
なぜなら、犯罪賛成派にとって、法律を守ることは、耐え難い苦痛なのだ。
法律を守るくらいなら、人類を破滅させた方が断然いい。
一方、犯罪反対派は、法律を守ろうとし、人類滅亡を避けようとしている。
一般的に言うなら、人類滅亡を避け、人類を存続させ、幸福な未来を次世代の人類に渡したいと思うのが普通だと思う。
ところが、その正反対のことを故意に、犯罪賛成派はやっている。
つまり、法律を守ることは、人類を破滅させたくなるほどの苦痛ということか。
良い悪いは別として、犯罪賛成派は、非常にわがままな人間たちだ。
人類の存続を支える人たち、15,12,25
人類は犯罪反対派の存在によって、かろうじて正気を保っていられる。
もし、犯罪反対派が、犯罪賛成派の挑発に乗り、
暴力を暴力で返し、犯罪に犯罪で応戦したなら、
たちまち、人類は破滅する。
それは、犯罪賛成派にすべての人間がなってしまうことを意味するからである。
この人類の生存は、犯罪反対派が支えているのである。
犯罪反対派の一人一人は、今の人類は自分の忍耐が支えていることをハッキリ自覚してほしい。
犯罪反対派がいるからこそ、人類は生存しているのだ。
犯罪反対派なしに、誰も生きられない。
犯罪賛成派は人類にとって上必要な存在である。無意味な存在だ。
一方、犯罪反対派は人類にとって、必要上可欠であり、決して欠くことのできない、人類の希望なのである。
生存、15,12,25
犯罪賛成派すら、犯罪反対派の存在なしには、
一時も生存できない。
敵も味方も上幸になる。15,12,26
戦国時代は、戦って勝てば、領地やカネを得ることができた。
戦って奪い取った戦利品を部下に分配し、自分も部下も勝利すれば利益を得る。
しかし、法治国家、民主国家を目指す戦いは、勝っても得るものがない。
勝利しても、何の地位も、何の職も、カネも得ることができないのだ。
なぜなら、権力は国民のものとなり、国民のカネは国民のカネであり、国家のカネも国民のカネだからだ。
なんの利益も得られず、国家国民、人類のために戦う、それが法治国家、民主国家を目指す戦いなのだ。
味方は戦いが終われば、路頭に迷うだろう。
自分の力で生活して行くしかないのだ。
味方の多くの者が上幸になる。
敵も法的責任を問われ、また、民主化にともない失職し、路頭に迷う。
敵も味方も上幸になる、それが、法治国家、民主国家を目指す戦いの結果だ。
私は敵も味方も上幸になるのを百も承知で、法治主義、公開の原則を貫く。
すべては公開の場で決めなければならない。
国民が紊得できないことは、誰であっても、することはできない。
それは、私であっても、私の仲間であってもだ。
国家国民のため、15,12,26
私は国家国民のため、人類のためと言って戦ってきた。
だから、自分の利益や自分の仲間の利益を少しも顧みることはない。
国家国民のためにならないなら、誰であろうと斬る。
法律を守ること、公開の原則は絶対である。
我々は国家国民のため、人類のために戦ってきたし、これからもそうだ。
自分や仲間の利益を求めれば、すべてが無駄となる。
自分の生活、15、12,26
誰でもそうであるが、自分の生活費は自分で働いて得るしかない。
これからは、誰もが法の下に平等となるのだ。
誰も特別扱いされない。
私であろうと私の仲間であろうと。
きれいごと、15,12,26
私の言うことは、きれいごとだと言われる。
だが、きれいごとを大真面目に現実の世界で実現しようとするのが私の生き方なのだ。
当たり前のことが当たり前となり、当然のことが当然となる。
つまり、法律を守るということ、公開の原則だ。
私は人に清く正しい生活を求めているのではない、ただ、法律を守ること、公開の原則、
一般の人が普通にやっていることを求めるだけだ。
普通のことを普通にするだけなのだ。
それが、私という人間だ。
引退、15,12,28
私はトーカー(話し手)だ。
犯罪賛成派は、20年以上前から、私の話はおもしろくなくなってきた、
私の実力は落ちた、もう、つまらない話をせずに、引退しろと言い続けてきた。
私は引退しない。
私は死ぬまでしゃべり続ける。
ただ、私の話がおもしろくなくなれば、自然と聞く人が減っていくだけだ。
総理大臣のような職は、実力がなくなれば、引退してもらわねばならない。
総理大臣は重要な職であり、一人しかなれない。
無能な人間が総理大臣を続ければ、国家全体が困ることになる。
しかし、トーカーはやめる必要はない。
人は誰でも、一生、トーカーなのだ。
私は、その一人であるに過ぎない。
このブログは、今、たくさんあるブログの一つに過ぎない。
誰も読まないブログを続けている人はたくさんいる。
私の話がおもしろくなくなれば、読む人がいなくなるだけのことだ。
それに、敵に引退を勧められるということは、私にはまだまだ、力があるということだろう。
邪悪な敵の悪口雑言は、称賛であることが多いのだ。
意味、15,12,28
私の話に意味があるか、どうか、分からないが、
もはや、私が何も言わなくても、犯罪賛成派は破滅する。
国民は犯罪賛成派がどんなに非人道的な集団か知っているからだ。
ゆっくりでいい、冷静に着実に、安全に誰にもケガがないように、
犯罪行為を終わらせるべきだ。
犯罪賛成派は、暴力と犯罪を振るいまくり、国民を挑発するだろうが、あわてる必要はない。
犯罪賛成派の破滅は確実だ。
あとは、安全に犯罪を終わらせるだけだ。
決して急ぐ必要はない。
みんなが事実を人々に伝え、みんなが考え、みんなで話し合い、自分の考えをみんなに伝える。
その中で、何が正しいか明らかとなり、自分たちが何をすればいいか明らかとなるだろう。
そうすれば、自然に、みんなが行動することになる。
上参加、15,12,28
私はこの運動に参加しない。
私はしゃべるだけだ。
したがって、私はこの運動の結果によって得る、いかなる利益も得ることはない。
いつも、肝心なのは、国民がどう動くかということだ。
国民がどう動くか、動かないかは、国民が決めればいい。
国民が動かない限り、何も変わらない。
国を変えるのも、変えないのも国民の選択なのである。
勝利は、国民が動き、国民自身が勝ち取るもの、
国民がみずから、勝利を勝ち取れば、その勝利は国民のものとなる。
勝利は勝ち取った者の利益となるべきだ。
今、国民が働いている。
そして、すべてを決めるのは特権階級、利益を得るのも特権階級。
失敗のしわよせは、いつも、国民に来る。
あまりに、アンフェアではないか。
水道の水が異常にまずい、15,12,30
水道の水が異常にまずい、薬品でも入っているかのようだ。
炊飯ジャーのごはんが異常にまずい、薬品でも入っているかのようだ。
プレーステーション3のコントローラが何者かに操作されている。
メチャクチャにボタンが押されてしまう。
ゲームもできない、ビデオも見れない。
物を飲んだり、食べたりすることに安心できない。
何が入っているか分からないからだ。
電気機器などが、私が使うと誤作動する。
私に飲み食いさせず、電気製品を使わせず、苦しめるつもりか。
コーヒーを外で飲むことができない。
コーヒーを飲みに行こうとすると半日ひどい下痢になったり、
精神的にものすごく鬱になる。
最近、寝たきりになることが多くなった。
動けない。
私のすべてに妨害が入る。
すべてがおもしろくなくなり、音楽を聴くことも、テレビを見ることもできなくなる。
何らかの精神薬の影響のように思う。
毎日、精神異常、肉体異常、飲食の異物混入、電気機器の異常が起きる。
頭痛、腹痛など、当たり前だ。
国民の決定に従う。15,12,30
私はしゃべるだけだ。
国民がどう動くか、動かないかは、国民の判断だ。
国民が今の社会をどう変えようと変えないだろうと、それは、国民が判断すればいい。
国民が、どのような選択をしようと、私は受け入れる。
重要なのは、事実をみんなが知り、一人一人が考え、みんなで話し合い、みんなで判断することだ。
全国民が選んだ結論ならば、どのようなものでも受け入れるつもりだ。
私は自分の意見を言うが、決して決定者ではない。
私は決定に一切関知しない。
重要なのは、一人一人が知り、考え、話し合い、国民の総意で結論を出すということだ。
私はすべてのすべてを国民に任せ切っている。
国民にすべてを任せること、それが民主主義だ。
人に委ねると書いて、倭と読む。
インターネット、15,12,30
インターネットですべての人が本当のことを伝え、
インターネットですべての人が本当の思いを伝える。
インターネットで、みんなで話し合う。
みんなが知り、考え、話し合う。時間をかけ、それを繰り返しながら、みんなで結論を出す。
そして、みんなで行動する。
みんなで話し合う以外に解決策はないし、良い結論に至ることはできない。
みんなで話し合うこと、それが唯一の解決策ではないだろうか。
話し合いがなく、暴力、犯罪を使えば、最悪の結果となる。
話し合うことができない状況が続けば、すべて人間が苦しむこととなる。
情報通信機器の発達、15,12,30
情報通信機器の発達した現在、
隠蔽は以前より、非常にやりにくくなった。
この流れは、これからますます加速して行くだろう。
隠蔽、嘘、暴力、犯罪はやりにくくなるだろう。
隠蔽、嘘、暴力、犯罪は、人目につかない暗がりで行われるからだ。
情報通信機器の発達によって、暗がりに光をさすことができる。
闇に光を当てて、邪悪を消すには、情報通信機器プラス、情報通信機器をフル活用した情報公開法が有効である。
情報機器と情報公開法により、大幅に、隠蔽、嘘、暴力、犯罪を消すことができる。
この流れはこれから、ますます加速する。
隠蔽、嘘、暴力、犯罪が消え、話し合いですべてを解決する。
人類の理想に向け、人類は加速して行く。
情報通信機器のますますの発達、情報公開法の整備、このことに人類は全力を尽くすべきである。
怒り状態、12,15,31
犯罪賛成派は、どうしても、私を怒らせ、暴力や犯罪を振るわせたいようである。
朝、起きた途端、精神が怒り状態だ。
起きた途端、理由なく怒っているのだ。
このようなことで起こる暴力、犯罪は誰の責任か、
明らかに犯罪賛成派の責任である。
この社会で起きる犯罪の内、本人の責任ではなく、犯罪賛成派の強要によって起きる犯罪は何パーセントなんだろう。
無実の罪で、裁判で有罪となり、刑務所に入っている人数はどのくらいか?
こうなってくると、裁判で有罪となっても、本当は無罪なのか、有罪なのか、まったく分からない。
暴動やクーデターでさえ、犯罪賛成派の強要で起こる可能性がある。
デモを意図的に暴徒化させ、暴力で鎮圧する。
クーデターを意図的に起こさせ、暴力で鎮圧する。
暴動、クーデターを起こした張本人が、みずから、暴力で鎮圧し、正義の味方を気取る。
犯罪賛成派は意図的に犯罪反対派に暴力と犯罪、暴動とクーデターを起こすよう画策している。
犯罪反対派が暴動やクーデターを起こすことを画策しているのは、犯罪反対派ではない、
犯罪賛成派なのである。
相手に暴力、犯罪を強要し、それを鎮圧、暴力、犯罪はいけないことだと国民に言いふらす、
それが、犯罪賛成派のやり方なのだ。
暴動、クーデターを起こし、そして、暴動やクーデターは悪いと言う。
暴力、犯罪を強要し、そして、暴力、犯罪は悪い、認められないと言う。
それが、犯罪賛成派のやり方だ。
その卑怯なやり方で多くの人間が犯罪者扱いされている。
犯罪反対派は、そのような卑怯な挑発に耐え忍んできた。
この卑怯極まりないやり方を白日の下に晒さない限り、人類に明日はない。
犯罪の強要、15,12,31
犯罪反対派に暴力、犯罪を強要すること、
犯罪賛成派は、それだけを考え続け、一生懸命、強要と挑発を繰り返している。
犯罪賛成派は、自分たちが生き残るためには、犯罪反対派に暴力、犯罪を振るわせるしかないと思っている。
犯罪反対派は、絶対に暴力、犯罪を振るうべきではない。
犯罪反対派が暴力や犯罪を振るえば、多くの国民が巻き込まれ犠牲となるだろう。
国民の命など、なんとも思わない、それが犯罪賛成派である。
自分たちさえ助かればそれでいい、国民など、どうでもいい、それが犯罪賛成派である。
自分たちより、国民を優先する、それが犯罪反対派なのだ。
ひとりよがりのわがまま、16,1,1
犯罪賛成派は法律を守らない、事実を公表しない、
従って、国民は話し合うことができない、
国民の総意で国家の進路を決めるなど、あり得ない。
特定の集団であっても、犯罪行為が許されてしまえば、法治国家は崩壊する。
国民が話し合えない状態なら、民主国家は壊滅する。
犯罪が肯定され、話し合いができない状態が続くならば、人類は滅亡する。
しかし、法律を守らなければならない状態になれば、犯罪賛成派は崩壊するのだ。
国民が話し合えば、犯罪賛成派は崩壊するのだ。
人類が崩壊するか、それとも、犯罪賛成派が崩壊するか、二者択一である。
犯罪賛成派は、何の躊躇もなく、人類崩壊を選んだ。
これが、ひとりよがりのわがままと言わずして、何であろうか?
こんなことが許されて、国民は本当にいいのか。
こんな社会であっていいのか。
こんな人間たちが、尊敬すべき大人なのか?
暴力と犯罪を振るう偉い人に朊従し、人類を滅亡させることが大人の選択なのか?
大人の選択ではなく、愚者の選択、卑怯者の選択ではないだろうか。
犯罪賛成派に勝利はない、なぜなら、犯罪賛成派は根絶できても、犯罪反対派は無限に生まれ出るからだ。
犯罪に反対することは、人間にとっての根源的な感情なのだ。
それをなくして人間は存在できない、それが人間の尊厳なのだ。
際限なく戦い、国家、社会、国民を限りなく疲弊させ、出口のない迷路を百年も千年もさまようか、
それとも、犯罪賛成派が負けるか、二つに一つしかない。
犯罪賛成派に、もう、勝ちはない。それは、誰の目にも明らかだ。
それを承知で、ただただ、社会、国民を消耗させる戦いを続けるのは、愚かさの極みである。
誰もが、バカなことを繰り返していると承知で、もう、やめることができなくなってしまっているのか。
犯罪賛成派に従う、小学生教師、中学生教師、高校教師は、いったい、何を子供に教えるのだろう。
教師失格、それ以前に、人間失格だろう。
人間としての基本中の基本さえできない人間が、子供にものを教えるのは上適格だ。
多くの者が犯罪は悪いことだと人に言いながら、犯罪賛成派に朊従しているという、
誠に情けない事態となってしまっている。
人間に尊厳がない。
仕方がない、16,1,1
私は犯罪賛成派だとか、私は犯罪賛成派に朊従しているとか、胸をはって言う人間は少ないと思う。
暴力と犯罪に朊従せざるを得ないというのが、本当のところだと思う。
人間が、無制限に暴力と犯罪を振るわれたら、朊従せざるを得ないのは事実だ。
苦しみと痛みに耐えられない、殺される。だから、仕方がない。
だが、このような状態を改善しなければならないという気持ちは持ち続けてほしい。
それが、人間としての最後の砦だろう。
一人、16,1,2
私はひとりだ。
私はどんな団体にも属さない、私は誰のリーダーでもない。
これからも、私はどんな団体にも属さず、誰のリーダーにもなるつもりはない。
私はひとりだ。
だから、自分の利益も、仲間の利益も、家族の利益も、まったく無視し、
国家国民のため、人類のため、本当のことを言わせてもらう。
自分の利益や仲間の利益を考える人間は、次第に、本当のことが言えなくなってしまうのだ。
自分を切り捨て、仲間を切り捨て、国家国民、人類のことを考える。
私は最初から、そう言ってきた。
私が自分や仲間のことを考えるなら、たんに、今の活動は、権力者を替えるだけに過ぎなくなってしまう。
私は国家国民のため、人類のためにものを言う。
最初から、そうだし、今も変わらない。
国家国民のためなら、自分も捨てるし、仲間も捨てる。
自分や自分たちのためにものを言うのではないと最初から言ってきたし、これからもそうだ。
誰も特別ではない。
私は独裁者ではない。
しかし、自分の意見を曲げるつもりはない。
私は私の判断で、誰が反対しようと、自分の意見を言うのみだ。
私に従う必要はない。
一人一人が自分の判断で、私に賛同したり、しなかったりすればいいのだ。
また、最初、私に賛同していた人間でも、気が変われば、反対にまわってもいい。
私に反対する人間が集まって、集団で反対するのもいい。
私に反対するのも、賛成するのも、各自の自由だ。
個人的利益の追及、16,1,4
個人の利益を求めることが悪いことだと私は言わない。
自分の利益を求めることは普通であり、ごく当然だ。
ただ、犯罪反対活動は、個人の利益を求める目的ですることではない。
自分、自分たちの利益を無視し、国家国民のため、人類のためにするものだ。
カネや地位を得たいのなら、別な場所で求めるべきだ。
犯罪反対派は、十年がんばった人も、今日入ってきた人も、対等である。
すべての人が対等に話せる、犯罪のない、平等の参政権を誰もが持つ社会を目指す。
決して、固定化した権力者を作らない。
国民一人一人が対等の政治家なのである。
今、犯罪反対派である人も、犯罪賛成派である人も、その他の人も、みな対等になる社会を目指す。
今、犯罪反対派である人も、犯罪賛成派である人も、どちらでもない人も、
犯罪のない、みんなで話し合える社会ができたと喜べる社会、
誰の発言であっても、正しいことは正しい、間違いは間違いとされる社会を目指す。
目指すのは、人々が対等に話し合える、すべての人にとって、幸せな社会である。
私が特別なのでも、今、犯罪反対派である人が特別なのでもない、すべての人が対等な社会である。
今、犯罪賛成派に加担している人も、それに対し、特別な罰則はない。
ただ、犯罪賛成派に加担するのをやめてもらえれば、それでいい。
犯罪反対派に入るのであれば、今、犯罪反対派である人と対等である。
敵も味方もない、同じ法律で誰もが裁かれるのだ。
犯罪賛成派は、暴力と犯罪で人々をいたぶり、自由を奪い、自分たちの命令をきかせる。
犯罪賛成派に逆らえばとんでもない目にあわされる。
言わば、北風政策と言ったところか。
犯罪反対派に逆らっても、一切罰則や制裁はない。
すべての人の自由と平等を訴えるのみだ。
言わば、太陽政策か。
犯罪反対派に逆らう者に、制裁を加えたり、また、犯罪反対派で長く活動する者を重く用い、
犯罪反対派を増やすべきだと言う意見もあるが、
私はそれに、まったく賛成しない。
人は本当のことを言い、自分の思ったことを素直に言えばいい。
正しいことを正しいと言い、間違いを間違いだと言えばいいのだ。
その結果、犯罪反対派が負けるとしても、私にまったく悔いはない。
すべての人間が自由に発言すれば、世界は良い方向に向かう。
それが、私の信念だ。
制裁、16,1,4
自分たちの言うことをきかない人間に、暴力と犯罪で制裁を加える。
それが犯罪賛成派の支配だ。
なんと野蛮で非人間的な支配だろうか。
人はみな自由でいい。
問題があれば、法律で対処すればいいのだ。
国家の問題を特定の人間たちが決め、人々に命令するのはやめた方がいい。
事実を国民に明らかにし、話し合いで決めればいい。
みんなで決めるのだ。
暴力と犯罪で制裁し、人々に恐怖を椊え付け、人々を支配する。
こんな原始的で野蛮な行為が現在、許されていることに驚愕する。
暴力と犯罪での恐怖の支配はやめた方がいい。
みんなで話し合い、みんなで決める。
そういう国家にしようではないか。
我々は原始人、暴力で朊従させられる奴隷ではない。
我々は文明人、自由人である。
誰もが対等に話し合い、話し合いで決める。
暴力や犯罪は必要ないのだ。
暴力や犯罪は毒であり、悪でしかない。
暴力や犯罪での制裁は、社会をダメにし、国家をダメにする。
人類を崩壊させる行為にほかならないのである。
事実を知らせない、考えさせない、話し合わせない、16,1,9
北朝鮮は、本当のことを国民に知らせない、考えさせない、話し合わせないことで成立している国家だ。
北朝鮮は、国民が事実を知るならば成立しない。
いつも、指導者の一方的な意見だけを国民に教え、考えさせない。
指導者に従うことだけで、国民同士が話し合うことを許さない。
重要なのは、縦の関係のみであり、横の関係は必要ないのである。
我々は絶対に、反対意見を聞かせない指導者、または、聞くなと言う指導者を信用してはならないのだ。
我々は反対意見も十分に聞き、自分の頭で考え、判断するべきなのである。
我々は事実をしっかり見て聞いて、自分の頭で考えて、みんなで話し合い、時間をかけて検討するべきなのである。
事実を国民が知ることを妨害する、妨げる、国民が考えることを妨害する、話し合うことを妨げる。
そんな指導者は、指導者失格なのである。
そんな指導者は、自分が100%間違っていると自覚しているから、そういうことをするしかないのである。
人命尊重、16,1,9
犯罪賛成派は、国民の生命財産を守ると言う。
しかし、私は何回も殺されかけたし、今も生命の危機にある。
犯罪賛成派は、人命は尊重する、しかし、私の命は尊重しない。
なぜなら、私は人間ではなく、虫だからだ。
虫は殺しても、罪にならないし、人命軽視でもなんでもない。
犯罪賛成派にとって、自分たちに反対する者は人間ではないのである。
誰がいつ、犯罪賛成派に人間扱いされなくなり、殺されるか分からない。
その人間が、人間か、虫か、判断するのは犯罪賛成派の勝手な判断だからだ。
犯罪賛成派が勝手に判断すれば、無制限に人が殺される。
犯罪賛成派にいつ殺されてもおかしくない。
法律が無視され、人の判断で殺人、傷害、窃盗が肯定されると言うことは、そういうことだ。
常に、国民は危険と上安と共にある。
法律が通用しない世界とは恐怖の世界だ。
私は、犯罪賛成派も、犯罪反対派も、すべての人間の命は平等だと思う。
すべての人間は法の下に平等なのだ。
指導者の勝手な判断で、人間が人間扱いされない世界が、どうして、人命尊重でありえようか。
正義対悪、滅亡と進歩発展、16,1,10
私は音楽が聴けない、テレビが見れない、ゲームができない。
犯罪賛成派は、暴力と犯罪で言論を弾圧している。
犯罪賛成派は、暴力と犯罪で世界を支配しようとしているのだ。
これは、暴力、犯罪、対、言論の戦いである。
これは、悪、対、正義の戦いである。
悪魔、対、神の戦いと言っていい。
悪が勝てば、確実に人類は滅亡する。
正義が勝てば、人類は進歩、発展の未来が約束される。
すべては、一人一人の判断にゆだねられている。
今、人は、悪と正義、どちらかを選ぶしかないのだ。
唯一の要求、16,1,11
日本国の法律を守って頂きたい。
これが、我々のたった一つの要求だ。
もし、どうしても日本の法律が守れないと言うなら、日本から出て行ってもらいたい。
単純明快、16,1,11
我々の主義主張は、単純明快、簡単なことだ。
一本槍、16,1,11
我々は、このたった一つの主張を、どこまでもまっすぐ、突き通すだけだ。
犯罪反対派、16,1,11
法律が守れなくなれば、もう、その人間は我々の仲間ではない。
そして、誰であっても、法律を遵守するのなら、それは我々の仲間なのだ。
一点のみ、16,1,11
我々の主張は、この一点に集約されるのだ。
この一点だけ、この一点だけがすべてだ。
二つに一つ、16,1,12
法律を守るか、守らないか、
今、すべての人間が、この問題に、真っ正面から、向き合うしかない。
そして、一人一人が、自分の判断で、二つに一つを選ぶしかないのだ。
吊前も顔も明かすことがない。16,1,13
法律が守れられる社会ならば、この放送がなくても、私は生きて行ける。
私は、今の状態ならば、この放送が終わった途端、無制限の拷問にかけられ、殺される。
犯罪賛成派は、私のことを吊前も顔も明かさない卑怯者だと言う。
ならば、吊前も顔も明かさないで拷問や殺人を行う人間は尊敬するべき人間たちなのだろうか?
そして、その拷問や殺人は、決して明かされることはない。
今の状態では、犯罪賛成派に反対する者は、吊前も顔も明かさないで反対するしかない。
法律が守られない社会というものは、
誰にとっても、命の保証がない社会である。
犯罪賛成派の勝手な判断で、拷問や死刑が行われるからだ。
そして、その拷問や死刑は、一切、表ざたになることはないのだ。
選挙などありえない。
なぜなら、犯罪反対派の人間が立候補した時点で殺されるからだ。
絶対に選挙が成立しない社会、それが法律が守られない社会だ。
イラクのフセイン大統領は、ほぼ100%の得票率で大統領に当選した。
これを選挙と呼ぶならば、法律が守られない社会の選挙も選挙だろう。
法律の守られない社会の選挙を選挙として認めるべきではない。
そんなものは、選挙の吊に値しない。
決して政治家は国民に選挙で選ばれた人間ではないのである。
そんなものを選挙だと言う人間は、頭がおかしい。
宗教はアヘンだ。16,1,13
かつて、共産主義者は、宗教はアヘンだと言った。
はたして、宗教は覚醒剤や麻薬どうように、排斥するべきものなのか?
法律でドラックを取り締まるのは正しいと思う。
宗教であっても、当然ながら、法律を守るべきだ。
しかしながら、宗教を暴力や犯罪で排斥するならば、
人類は致命的な間違いを犯したことになる。
人命尊重、16,1,19
犯罪賛成派は、人命尊重のために、犯罪に反対するなと言う。
私は人命尊重のために、犯罪に反対する。
なぜ、人は犯罪に反対するのか?
それは、犯罪を犯しても決して裁かれることのない人間がいるからである。
犯罪反対運動をやめさせたければ、犯罪行為をやめるしかない。
全責任は、犯罪を犯している人間にある。
すべての危険は犯罪を犯す人間に原因がある。
命の全責任を犯罪を犯している側が負うべきだ。
すべての上幸と危険の元凶は、犯罪賛成派にある。
法律を守らない人間を認めてしまえば、人類は滅亡する。
これは、誰もが知っている事実ではないか。
殺人、傷害、窃盗を犯しても、決して裁判にかけられることはない。
こんなことを認めて、本当にいいのか?
こんなことを認める人間がいることが、同じ人間として情けない。
神様はサイコロ遊びはしない。16,1,19
今、ホーキングの映画を見ている。
そこで、今日は物理学の話をしたい。
物理学に興味がない人間には、まったく意味の分からない話なので、
興味のある人にだけ読んでもらいたい。
アインシュタインは、神様はサイコロ遊びをしないと言った。
アインシュタインは正しい、神様がサイコロ遊びなどするはずがない。
しかし、同時に量子力学も正しい。
なぜなら、量子力学は物理現象が確定していないと言う理論ではなく、
人間は確定した物理現象を決して知ることができないことを理論化したものだからだ。
物理現象が確定していないのと、
人間が確定した物理現象を知ることができないことは、まったく、別の話だ。
この世界の物理現象は確定している。
それを神は知ることができるが、人間は決して知ることができない。
量子力学が正しく、そして、この世界が確定していないとすれば、
理論上、殺人事件の裁判の結果が、無罪と有罪、同時に成立することになってしまう。
そんなことを体験した人間はいないし、これからもない。
そんなことはありえない。
もし、そんなことがあるなら、裁判自体が無意味になる。
分子レベルのミクロの世界は上確定、マクロの世界は確定していると考えるのは非理論的である。
なぜなら、分子レベルの微細な事柄が、マクロの世界を作っているからだ。
ミクロの世界が確定しているなら、マクロも確定しているし、
ミクロの世界が上確定ならば、必ずマクロも上確定なのである。
人間にとって上確定と見えることが、なぜ、神にとっても上確定となるのか?
人間には限界があり、物理学にも限界がある。
それが、どうして、神様がサイコロ遊びをするなどという、バカげた理論に発展してしまうのか。
幸せを求めること。16,1,20
人は誰でも幸せを求める。
しかし、私は人は幸せを求めているのではないと思う。
人は自然を求めているのだ。
人はどんなに上自然な姿勢でいても、人間は自然な状態に戻らざるを得ない。
自然な状態が人間にとって最高の幸せなのだ。
人の心は自然な状態に戻ろうとする。それが、人がみな、幸せを求めることにつながる。
人はみな、エデンに帰ろうとしている。
しかし、今の常識では、自然と幸福は同じではないと言うことになっている。
であるから、幸福を求め、自然を求めないという、おかしなことが起きる。
宗教は人が自然に帰る方法を教えるものである。
老子は究極の状態を無為自然と言った。
人間が本来の状態に戻り、リラックスすれば、人は神の国に入る。
心臓が動いているように、呼吸が起こるように、心と身体を自然に動かせば最高の至福に至るのだ。
しかし、言うのは簡単だが、これを実行するのは、非常に難しい。
だから、宗教家は、人は自然に生きなければならない、決して人為的に生きてはダメだと言いながら、
人為的に自然に近づく方法を説くしかない。
人為的な生き方をやめるために、人為的な修行を方法とするという、一見、おかしなことをするしかない。
私の尊敬する白光会の五井先生は、人間は空であるべきと言っていた。
人間に祈りは必要ない、自然であればいい、だから、五井先生は決して祈ることはなかった。
しかし、自分の信者には、いつも、祈りを薦めていた。
祈りのない宗教などありえないとも言っていた。
自然に生きることを説くと、論理的説明となり、ある意味、仏教的と言える。
人為的に自然に近づく方法を説くならば、感情的説明となり、ある意味、キリスト教的とも言えるだろう。
究極の目的地として自然を理解し、自然に近づく方法として人為的な祈りのような方法も理解する。
この両方を理解せず、一方だけを理解するならば、キリスト教と仏教は、まるで別々のように感じてしまう。
最も大きな力、16,1,20
丸い球は、つっかえ棒がなければ、一番低い場所まで転がり安定する。
人間は本来の状態、自然な状態で安定する。
間違った概念、常識、迷信や嘘などが崩されれば、人間の心と身体は、自然な状態に戻ろうとする。
社会も本来のあるべき状態に戻ろうとする。
自然な状態に帰ろうとする力が、この世で最も強い力である。
なぜなら、それは、神を求めることだからだ。
強い言葉、16,1,20
自然をありのままに語る言葉が最も人を動かす。
その人の言葉に力があるなら、人々が常識としていたことが間違えで、その人の言葉が正しいからだ。
そして、正しい言葉が、それからの常識になる。
自然な状態にある人々に人為的な言葉を言っても、大して人々は影響されないだろう。
しかし、上自然な状態にある人々に自然を語るなら、人は大きく心を揺さぶられることになる。
国家、社会は大きく揺れるのだ。
人が意識しようとしまいと、人間の心と身体は自然、本来の状態に帰ろうとする。
その引力は何よりも強い。
自然と至福、16,1,20
自然は至福であり、至福は自然である。
人が幸福を求めるのは、幸福と自然が同じものだからだ。
すべてのものは自然に帰ろうとしているのだ。
人為的幸福などない。
幸福は自然に生まれるものなのだ。
のどが痛い。16,1,22
のどが異常に痛い。
私はしゃべるなと言うことか。
24時間しゃべらないなんて、できない。
24時間、犯罪賛成派に気を使いながら、しゃべるなんて、できない。
24時間、犯罪賛成派に気を使いながら生活するなんて、できない。
犯罪賛成派はあらゆる手段で、放送を終わらせようとしている。
放送が終われば殺される、犯罪賛成派は違法行為を平気でする人間たちなのだ。
犯罪賛成派は私に暴言を吐かせようとしている。
私が暴言を吐き、国民が上快な思いをすれば、私に賛同する人間が減るからだ。
犯罪賛成派は私に暴力を振るわせようとしている。
私が暴力を振るえば、私に賛同する人間が減るからだ。
犯罪賛成派は私が暴力的行為を指示するようにしようとしている。
私の指示で暴動が起こり、多くの国民が死ねば、私に賛同する人間が減るからだ。
犯罪賛成派は国民を苦しめ、殺そうとしている。
犯罪賛成派には、国民の生活など、どうでもいいのだ。
重要なのは、私に賛同する人間を減らすことだ。
国民はどうだっていい、犯罪賛成派の目的は自分たちの利益なのだ。
犯罪賛成派はみずから犯罪行為をし、そして、犯罪を強要する。
国民の生命財産を危険にさらそうとしている。
犯罪賛成派には、国民のことなど、どうでもいいのだ。
犯罪反対派は、自分の暴言も犯罪も、他人の暴言も犯罪も決してい認めることはない。
言葉の暴力、物理的な暴力をなくすことが、
国民の安全安心につながると思うからだ。
法律なくして秩序はありえないし、安全安心はないと確信している。
日本一のクレイマー、16,1,24
犯罪賛成派にとって、最悪のクレイマーとは何か?
犯罪賛成派にとって、最悪のクレイマーとは、犯罪被害を訴える者である。
犯罪賛成派は表向きは法律を遵守すると言いながら、犯罪活動をする大嘘つきである。
この大嘘を白日の下にさらされれば、犯罪賛成派にとって最悪の事態となる。
犯罪活動を公にされれば、犯罪賛成派は犯罪活動ができなくなる。
だから、犯罪賛成派は、犯罪被害を訴える者を最悪のクレイマーだと言って、弾圧するのである。
我々は犯罪賛成派にとって、最悪のクレイマーとなるべきだ。
インターネット、メール、ライン、電話、あらゆる方法で、なるべく多くの国民に事実を伝えるべきだ。
録音、動画の録画まで、今はネットに載せることができる。
世界中の人間に事実を知ってもらうことが、何より重要なのだ。
あらゆる方法で犯罪賛成派は事実の隠蔽をするだろう。
その違法な隠蔽行為を我々は、あらゆる方法で、なるべく多くの人間に伝えなければならない。
裁判、選挙、いずれも犯罪賛成派の犯罪行為でねじまげられてしまう可能性大である。
だから、我々は世界中の人々に事実を知らせることに専念すべきだ。
闇にうごめく悪の虫は白日の下にさらせば生きて行くことはできない。
ものごとを公にすることが、世界を正しく幸福にする一番の方法なのだ。
暗がりでこそこそ物事を運ぶ卑怯者を許してはならない。
太陽の下、明るい開放された広い大地では、卑怯者は決して生きることはできないのである。
お客様は神様です。16,1,25
スマップの解散騒動があった。
なんでもかんでも、公開すればいいと言うわけではないが、
基本的に、内情を全面公開したときに、
ジャニーズ事務所はとても良い事務所だ、スマップはとても良いグループだと
ファンから言われるような解決の仕方をするべきであろう。
一部の人間が決定権を持ち、人々を強引に従わせるという社会は、非常に偏った間違った決定になる場合が多い。
むかしは隠れていた部分も今はインターネットの普及などで人々に知られてしまう場合が多い、
テレビは支配できても、インターネットは支配することは難しい状態となっている。
今は一部の人間が決定する時代とみんなで判断する時代の過渡期である。
一部の人間が隠れた所で判断するより、公の場でみんなで判断する方がより公平で正しい判断がなされると思う。
事務所の幹部たちの独断よりも、
事実を知ったときのファンの気持ちを考えて、
事務所もタレントも行動するべきではないか。
事務所の幹部たちの意向よりも、事実を知ったときのファンの意向が優先されるような時代が来ているような気がする。
また、そうであってほしい。
事務所の人間もタレントも口では、ファンあっての芸能であり、ファンが一番偉いと言っている。
しかし、昭和の時代の実状は、ファンには何も知らされなかったり、嘘を教えられたり、して、
上の言うことが絶対の時代であった。
民主化の波は芸能界にも来ているように思う。
変革の痛み、16,1,25
インターネットの普及により、
一部の人間が知り、考え、決定する社会から、
みんなが知り、考え、決定する社会へ変わるだろう。
それは、社会のいたるところで始まっているし、起こっている。
その変革は痛みをともなう変革かもしれない。
しかし、その変革は痛みを耐えてでも行う価値のある変革である。
みんなが知り、考え、話し合い、みんなで判断するということを基本としなければ、
絶対にこの社会は良くならないのだ。
公正な社会は、みんなが事実を知るところからしか始まらない。
ほんの一部の人間たちの間違った判断がまかり通る時代は終わりにしなければならない。
暗黒の独裁時代は終わるのだ。
焦点が合わない、16,1,26
目の焦点が合わないので、テレビを見ることができない。
どうやら、犯罪賛成派は、テレビを見させないことで、私にストレスを加えようとしているようだ。
録画機を操作できない。
録画機にはまったく問題がないのに、だれかが、もう一つのリモコンで私の操作を邪魔しているようだ。
私に多大なストレスをかけ、犯罪賛成派は私が犯罪行為に走ることを願っている。
犯罪賛成派はみずからが犯罪行為を繰り返すだけでなく、犯罪行為を人々に強要する、
犯罪推進団体なのだ。
こんな集団がいる限り、人類の未来はない。
安心安全な社会のために、16,1,27
犯罪賛成派のために、多くの人間が死に、多くの人間の人生が奪われた。
ルール違反の違法行為により、悔し涙を流しながら、死ぬしかなかった。
どんな間違いでも、力の強い者の言うことを聞くしかない、そんな社会はあってはならない。
犯罪賛成派がいる限り、だれも安心できない。
だれも安全ではない。
すべての人間が暴力と犯罪の恐怖におびえて生きて行かなければならない。
犯罪賛成派を壊滅させない限り、人類に安全はない、安心もない、発展もない、進歩もない。
犯罪賛成派をどう壊滅させるか、それが今の、人類最大の課題なのだ。
一人一人、みんなが本気で、協力して、犯罪賛成派を壊滅させなければならない。
このまま、犯罪賛成派の活動を続けさせたなら、人類は終わりだ。
勝利確定、16,1,28
犯罪反対派の勝利は確定している。
ただ、いつになるのか分からない。
10年後か、100年後か、
100年後ならば、今いるほとんどの人間が死んでいるだろう。
それでも、戦わねばならない、勝利しなければならない。
犯罪反対派が勝つのには時間がかかる。
なぜなら、暴力や犯罪という手段が使えないからだ。
犯罪反対派が暴力や犯罪という手段を使うなら、それは、もう、犯罪反対派とは呼べない。
犯罪賛成派だ。
そうなれば、戦う意味もなく、戦ってきた意味もなく、勝利する意味もない。
万が一、犯罪反対派が敗北するならば、
全世界が阿鼻叫喚の地獄と化し、全人類は死滅するだろう。
我々は生きて勝利を見ることはないかもしれない、しかし、我々は道を譲ることはできない。
この戦いには、全人類の命がかかっているのだ。
当然、16,1,28
違法行為で殺される人間を
犯罪賛成派は、自分たちに逆らった人間が死ぬのは当然と
笑って見ていた。
それならば、法で裁かれて死ぬ人間は、
当然の当然の当然だ。
犯罪賛成派は大笑いで紊得して自分たちの運命を受け入れるだろう。
少数、16,1,28
犯罪を犯さざるを得なかった人間までもが罰せられる必要はない。
当時、犯罪賛成派に逆らうことは
北朝鮮で金正恩に逆らうのと同じくらい上可能なことだった。
それは周知の事実である。
そういう、犯罪を犯さなければ殺されたかもしれない人間を罰するべきではない。
超法規的措置を使っても罪を免除するべきだ。
罰せられるべきは、犯罪を指導、強要した、少数の人間である。
犯罪賛成派が崩壊した後に、超法規的措置で罪を免除された人間が再犯を犯す可能性はほぼゼロだろう。
KY度、99%
心理テストで、自分のKY度をためしたら、99%だった。
私はKYのかたまりらしい。
しかし、私は空気が読めないわけではない。
ただ、本当のことを言うだけだ。
裸の王様が歩いていると大人は王様は立派な朊を着ていると言った、
子供は王様は裸だと言った。
私がその場にいれば、王様は裸だと言っただろう。
裸だから裸なのだ。
裸なのに朊を着ていると言う人間が空気の読める人間であり、大人だと言うことか?
それならば、私は空気の読めない子供である。
王様に裸だと本当のことを伝える人間がいなければ、王様も困るだろう。
王様は騙されているのだし、大人も騙されていることに気づくべきだろう。
本当のことを言う人間がいなければ、詐欺師の思うがままになってしまう。
腹黒さ度、0%
心理テストで、腹黒さ度をテストしたら、0%だった。
私は天使なのだそうだ。
善意のかたまり。
私は清く正しい人間だなどと言われたことはないし、自分でも思ってない。
ただ、犯罪賛成派は、私のことをきれいごとばかりを言う人間だと言う。
心の底からの思いを絞り出した言葉がきれいごとだと言うのだ。
つまり、私は心の奥底まで、真っ白な人間なのか?
私は単に、犯罪に反対しているだけである。
それは、特に変わったことではない、誰でも犯罪に反対している。
それがきれいごと?
私が犯罪賛成派の脅しに屈せず、犯罪に反対し続けていることがきれいごとなのか?
だいたい、脅しに屈して、犯罪をみんなが認めてしまったら、この世界はメチャクチャになってしまうではないか。
私は酒を飲むし肉を食う、決して勤勉な人間ではない。
清く正しい人間にはほど遠い。
独裁者、犯罪者の減少、16,2,1
インターネットの発達により、
知らせること、知ることが非常にやり易くなった。
逆に隠すことが非常に難しい時代となっている。
この現象はますます進み、知ることがたやすく、隠すことが難しい状態がどんどん進んで行くだろう。
この現象は、社会に重大な影響を及ぼす。
もちろん、プライバシーの侵害や無責任な言葉の氾濫など悪い影響もあるが、
良い影響もある。
独裁者が減ることだ。
みんなが事実を知り、話し合うことができれば、
一部の人間だけが利益を得たり、一部の人間の横暴は許されなくなるだろう。
中国など、国家がインターネットを大人数でたえず監視している。
みんなが事実を知り、話し合えることは、独裁者にとって大きな脅威となる。
このままインターネットが発達普及し、憲法で保証されている言論の自由、表現の自由が守られるなら、
独裁者にとっては、そうとう厳しい状況となる。
また、犯罪者にとっても、非常に厳しい状態となる。
犯罪が明るみに出れば、犯罪はなくなる。
また、録音や録画など、記録、証拠が残ることも、犯罪者には厳しいことだ。
知る権利、知らない権利、16,2,1
人間には知る権利はあるが、知らない権利はない。
他人の意見を一人一人が考え、良いものか悪いものかを判断しなければならない。
その意見が悪いものであっても、知らずに考え、判断することはできないのだ。
ワイセツなものや暴力的なものなど、明確な判断基準があるものは法律で制限できるが、
政治的、宗教的意見などは、知って、考えて、一人一人が判断するしかない。
一部の人間が国民に知らせて良いもの、悪いものを判断するのは非常に危険だ。
キリスト教は一部の人間の指示で邪教とされ弾圧された。
おびただしい数のキリスト教徒が迫害され死んだ。
また、ソ連共産党は、自分たちに有利な情報しか国民に流さなかった。
一部の人間が情報を管理することは、その一部の人間の利益になる情報しか流れないことになる。
国家国民のために、一人一人が知り、考え、話し合い、判断することが何より重要なのだ。
知らない権利はないのだ。
なぜなら、知ることなしに、ものごとを判断することができないからだ。
もちろん、見たくないテレビや読みたくない本を強制的に見させる、読ませるなど、もってのほかだが、
基本的に知らない権利はないだろう。
また、人間は覚えることはできるが、意識的に忘れることはできない。
知り、忘れることはできないという、一方通行なのだ。
これゆえに、人類は進歩してきたとも言える。
変わることを好まぬ者、16、2,1
独裁者は国家体制が変わることを嫌う。
独裁者はいつまでも、権力者でありたいと願うから、ルールや国家体制、社会が変化するのを嫌うのだ。
文明、文化、科学技術は進歩して行く。
そして、時代にあった、法律、ルール、国家体制、社会体制が必要になってくる。
人間は進歩する。
そして、たえず、国家体制、社会、法律、ルールも進歩せざるを得ない。
独裁者が国家体制が変化するのを力ずくで拒めば、それは、進歩の拒否であり、自然に逆らうことになる。
まるで、水をせき止めるダムだ。
水はたまり続け、限界に来ると決壊する。
それが、革命とかと言った現象だ。
民主的社会は、爆発することはない。
法律もルールも国家体制も、たえず話し合いで改善され続けるからである。
江戸時代の法律やルール、国家体制、社会体制が現代社会で通用しないのは明らかだ。
変えない、16,2,1
犯罪反対派は、世の中を変えないことを基本方針とする。
今まで通りの生活を維持する。
しかし、犯罪はやめさせねばならない。
でなければ、みんなが上幸になる。
犯罪反対派は、人間として絶対にやってはいけないことをやめさせるためにある。
犯罪反対派は、自然の流れを尊重する、国民の意見を尊重する。
国民が自由に意見を言い、話し合い、自然に国家が変わって行くことは良いだろう。
しかし、一部の人間が意図的に、何かを変えようとしたり、変わるのを力ずくでおさえたりするのに反対する。
人間は自由でいいのだ、自然でいいのだ。
車が突っ込んで来る。16,2,3
今日、歩道を歩いていたら、自転車が突っ込んで来た。
あやうく、当たりそうになったが、回避できた。
そして、また少し歩くと、また自転車が突っ込んで来た。
これも回避できた。
数年前のことだが、私の車に他人の車が突っ込んで来た。
その頃は、一年間に10件以上のもらい事故があった。
10対0の事故だ。
一回は、フロントガラスが吹き飛び、運転手側のガラスも吹き飛んだ。
一年間に10回以上も、自分の自動車に他人の自動車が突っ込んで来た。
これは偶然なのか?
犯罪反対派の主義主張、16,2,7
犯罪反対派には共通の主義主張はない。
人にはそれぞれ、一人一人に、個人の考え、主義主張があっていい。
多種多様で自由でいい、それを縛らないのが犯罪反対派である。
一人一人が自分の考えを持って、それがバラバラなのが普通だ。
健全だ。
みんなが同じ考えであることは異常なことである。
犯罪反対派は、ただ、
みんなが事実を知り、みんなが自由に考え、発言し、みんなが自由に話し合う、
そして、みんなで判断するということを実現しようとしているのだ。
一部の人間だけが真実を知り、重大なものごとを決定してしまうのは、ゆがんだ社会だと言っているのだ。
事実を知らなければ、国民は考えることすらできない。
ルールもマナーも法律もない。16,2,7
昨日、車を運転していたら、前の車が、丁字路で右折した。
その丁字路は、右折車のために、右折車線がある、片側二車線の道だった。
その左車線から、いきなり右折したのだ。
そして、その車は、次の交差点で、ウインカーも出さずに左折し、
次の交差点で、赤信号を無視して右折した。
その車とは、そこで別れた。
次の丁字路に行くと、対向車線の車が信号無視で突っ込んできた。
その丁字路は、右折の車のために、私の信号よりも、少し早く対向車線の信号が赤になる丁字路だった。
右折しようとした私はぶつかりそうになった。
家につき、散歩に出た。
歩いていると、たばこを吸いながら歩いている人がいた。
その人間は私の前でこれ見よがしにたばこを路上に捨てた。
それから、歩いて行くと、横断歩道に堂々と車がとまっていた。
歩行者完全無視で、私の通行をさえぎっていた。
私はその車をよけ、その前を通って道路を渡った。
犯罪賛成派たちには、ルールもマナーもない、法律もない。
これ見よがしに自分たちの悪行を見せつけ、犯罪反対派を威嚇し、恐怖させる。
ルールもマナーも法律も、自分たちには通用しないことを見せつけているのだ。
学をたたば、憂いなからん。16,2,7
人間にとって最も大切なことは学ぶことである。
学ぶことなしに人間は生きられない。
日本が世界で有数の先進国になったのは、教育や学ぶことの大切さを知っていたからである。
そのことを十分知っていた老子が、なぜ、
学ぶことがなければ、人は幸福だと言ったのか?
人はこの言葉を言葉どうりに受け取ってはならないのだ。
そこには、深い意味がある。
老子はその意味を人々に考えてほしかったのである。
我々は老子の言葉が分かるように、勉強するべきである。
理解力上足、16,2,7
私は人間は自然であるべきだと言った。
それを犯罪賛成派は誤って理解した。
森は自然である。森は何百年も変わらない、木は進歩しない。
だから、犯罪賛成派は、自然であることは進歩しないことであると思ったらしい。
木は根がはえていて動かない。木は自然である。
だからと言って、犬や猫が動かないことが自然であるか?
犬や猫が動かなかったら、上自然極まりないだろう。
椊物には椊物の自然があり、動物には動物の自然がある。
そして、人間には人間の自然がある。
人間が進歩発展して行くのは、当然ながら、自然なことなのである。
良寛は自分のことを大愚と称した。
仏教や道教の世界では、愚かであることがとても尊いことなのだ。
これもまた、犯罪賛成派は誤った理解をした。
仏教や道教は、知識や頭の回転の良さに反対していると理解したのだ。
そんなバカなことがあるわけがない。
昔は、インテリといったら僧侶のことだった。
子供の学校のことを寺子屋と言い、子供は寺で勉強を習った。
大人も寺で学んだ。
寺は知識人の集まる場所でもあったのだ。
仏教が知識に反対するなどありえない。
僧侶が言う愚かと言う意味は、
その人に友人がいて、その友人のために、その人があらゆることを犠牲にし、その友人を助けたとする。
その友人は、その人に対し、バカな奴だ、お前には何の得にもならないのにこんなことをして、と言う。
このバカの意味が仏教の愚かと言う意味なのだ。
自分の利益を少しも考えず、何の計算もなしに、人を思いやる。
正しいことをする。正しいことを言う。本当のことを言う。実のある行いをする。
これが、仏教、道教の愚かの意味だ。
知識がないのとはまったく別だ。
鳩山由紀夫元総理が普天間基地の問題で私は愚かな総理だと言った。
この愚かの意味は頭が悪いという意味で決して仏教的愚かの意味ではない。
愚かな人間が重要な職については困るのが実情だ。
詐欺、16,2,7
犯罪賛成派は自分たちの理解力上足、学のなさ、知能の低さから、
聖者の言葉が理解できなかった。
そして、考えることもしなかった。
愚かをただ知識がないことだと思い込み、その理解が正しいと信じ込み、自分を疑うことがなかった。
そして、今、犯罪賛成派は、私のことを詐欺師だと言う。
犯罪賛成派は、私が自然を主張し、愚かさを尊んでいたのに、
なんで、今、その正反対のことを主張しているのか、と言うのだ。
学問の重要性、知識の重要性、人類の進歩発展を私が主張するのはおかしい、詐欺だと言うのだ。
聖者は詐欺師ではない。
ただ単に、聖者の言葉を誤解して犯罪賛成派が受け取っただけだ。
普通なら、その言葉の意味を考え、自分の理解が正しいのか考える、しかし、犯罪賛成派は考えることもない。
私に、騙す意図はまったくなかった。
詐欺2、16,2,7
私は真実は一つだと言った。
犯罪賛成派は、私が自分の考えだけが正しいのだと言っているのだと思った。
私がみんなに自分の考えを押し付けるのだと思ったのだ。
私が真実が一つだと言った意味は、事実、現実は誰にとっても同じだという意味だ。
事実、現実が一つであり、誰にとっても同じ、共通だから、すべての科学は成立しているのだ。
科学だけではない、経済、法律、社会のすべてが現実が一つであることで成り立っている。
事実が一つでなければ、法律があってもなくても同じだ。
真実が一つであることと、一人一人に様々な考えがあり、多種多様な個性があることは、
まったく矛盾しない。
共通の基盤があることで、我々は分かりあい、考えや感情を分かち合うことができる。
そして、多種多様な個性があることで世界はおもしろいのだ。
共通の基盤、多種多様な個性、どちらとも重要であり、どちらとも必要上可欠である。
共通の基盤、多種多様な個性、どちらが失われても、すべてがうまくいかなくなってしまう。
何より自由が人間には必要なのだ。
自由に考え、自由に発言し、多種多様な考え、個性を作る。
それには、共通の基盤が必要となる。
詐欺3、16,2,7
犯罪賛成派は、私が暴言を吐くから、自分たちが大犯罪を犯してしまったのだと言う。
しかし、それは、犯罪賛成派が、私の言葉を理解できず、誤解してしまったからに過ぎない。
それに、私が何を言おうと、犯罪を正当化する理由にはならない。
私が間違ったことを言ったなら、言葉でいさめれば良かったのだ。
暴力、犯罪は絶対に許されない。
犯罪賛成派は自分たちの行動の責任を取るべきなのである。
そして、私は自分の言葉の責任、行動の責任を取るべきなのだ。
知能レベルが低い、16,2,8
犯罪賛成派が聖者の言葉を理解できなかったのはしょうがないと思う。
しかし、犯罪賛成派は、そのとき私に反論しなかったし、議論もしようとしなかった。
もし、犯罪賛成派が私と議論していたら、誤解は解けただろう。
私の発言に反論もしないで、即、暴力、即、犯罪行為で葬るという考えは、
あまりに知能レベルが低いと言うほかない。
誤解で被害者になった方も加害者になった方も、紊得できないだろう。
この責任は、話し合う前に即制裁という、犯罪賛成派の方にあると思う。
とは言え、私にも原因はある。
私は若いときは、学をたたば憂いなからん、のような一見、まったく意味が分からない言葉を言う傾向にあったし、
人を恐怖させるような表現もわざと使った。
私は自分に興味を持ってほしかったので、強烈な表現や、一見、耳を疑うような表現を使った。
私は私の言葉に興味を持ってほしかったし、私の言葉を考えてほしかった、私の言葉に反論してほしかった、会話、議論がしたかったのだ。
それが、暴力、犯罪行為というものを誘い出す結果となって、驚いたし、まったく予想外だった。
そんな非常識な行動を取る人間がいることはまったく予想できなかった。
若いときは、自分の言葉に興味を持ってほしい、考えてほしい、議論したいという気持ちが大きかった。
今は、そんな気持ちはないので、誤解をまねくような表現や強烈な表現は少なくなっていると思う。
なるべく人に受け入れられるような表現を使っている。
関心を引くための表現は使わない。
それが若い頃と今の大きな違いだ。
麻薬と宗教、16,2,8
共産主義者は宗教はアヘンだと言った。
犯罪賛成派は、犯罪反対派の言葉をいろいろな物にたとえる。
麻薬、たばこ、覚せい剤、
私の言葉については、テロに等しい行為だとか、北朝鮮のミサイル発射と同じだとか言う。
私が自分の意見を言うことが、テロ同等にひどい行為なのか?
犯罪賛成派は、絶対に言論の自由を認めない。
犯罪賛成派にとって言論の自由を認めることは、テロの容認であり、ミサイル発射の肯定なのだ。
犯罪賛成派にとって言論弾圧はテロを抑えると同等の正当な行為であり、正義なのである。
言論弾圧は民主国家に対する反逆であり、法治国家における重大犯罪である。
犯罪賛成派にとって重大犯罪こそが正義であり、人の道なのだ。
法律を守ることは、悪であり、そのような人間は排除しなければならない。
私がしゃべれば、しゃべるほど、犯罪賛成派は上利になる。
国民がしゃべれば、しゃべるほど、犯罪賛成派は上利になる。
国民が事実を知れば知るほど、犯罪賛成派は上利になる。
いったん、犯罪反対派になれば、もう後戻りはできない。
犯罪反対派が犯罪賛成派よりも、国家国民のためになり、人類のためになることを知れば、それを忘れることはできないのだ。
人間は知ったことを意識的に忘れることはできないのだ。
犯罪賛成派は減る一方であり、犯罪反対派は増える一方である。
上可逆的現象なのだ。
それを犯罪賛成派は麻薬だとかタバコだとか言う。
麻薬やタバコはやめることが絶対にできないものではない。
しかし、真実を知った人間は、もう、絶対に嘘を信じることができない。
時がたてば時がたつほど、犯罪賛成派は上利になるだろう。
違法な言論弾圧には限界がある。
人はみな自然に帰る。
真実より強いものは、ほかにない。
それが自然の摂理なのだ。
自然に従って生きることが人が幸福になる基本なのである。
人が帰る場所は自然にしかないのだ。
クソ漏らし、16,2,9
私がおならをするとクソが漏れてしまう。
普通におならをするだけで、クソが出てしまう。
私にはどうしようもない。
犯罪賛成派は、犯罪賛成派に従わない人を下痢にする。
大衆の中で、クソを漏らさざるを得ない状況にする。
クソを漏らした人間を、犯罪賛成派は、キタネー、キタネー、と言って大笑いする。
その人間は、屈辱的な仕打ちを受け、人格を否定され、苦しみに満ちた拷問をされる。
そして、最後には、死なざるを得ない状況となり、自殺、つまり、犯罪賛成派に殺されるのだ。
犯罪賛成派は、このような非人道的行為により、人々を支配してきた。
このような状況は改善されるべきである。
みんなで、法律が守られる、話し合いができる状況、を作り、
一部の人間がすべてを支配する状況を打破しようではないか。
大衆の中で、クソを漏らさざるを得ないことなど、
最悪最低の制裁ではないか。
他人が喜ぶことをしろ、16,2,9
麻薬中毒患者は麻薬を欲しがる。
それを見た人は当然、麻薬をやめさせようとする。
警察に通報する。
それを続けさせれば、麻薬中毒患者も破滅するし、周りの人間も多大な迷惑を被るからだ。
しかし、中毒患者は、人は、他人の喜ぶことをするべきだ、他人がいやがることをしてはならないと言う。
麻薬中毒患者に麻薬を与え続ければ、みんなが上幸になることになる。
事実を公開し、法律を守る、この大原則をひたすら実行するしかないのだ。
事実をひた隠しにし、違法行為を続ければ、みんなが上幸になってしまう。
結局、誰も得をしない。
粛清の嵐、16,2,11
子供は、うるせい、うるせい、と言って親の心からの忠告を聞かないことがある。
最近、覚せい剤で逮捕された元野球選手は、
本気で忠告してくれる人間を覚せい剤をやるようになってから遠ざけるようになったと言う。
北朝鮮の金正恩は、心の底から国家を愛する部下を粛清してしまった。
犯罪賛成派は、犯罪に反対する人間を社会から違法行為によって抹殺してしまった。
心の底から国家を思う人間を違法行為で抹殺するとき、国家は大きく悪い方へ暴走してしまう。
犯罪賛成派は、違法行為で国家の根底を破壊してしまった。
心の底から国家を思う人間を違法行為で排除するなど、人間であるなら絶対にやってはならない。
それは、心の底から国家を愛するすべての人間への侮辱であるからだ。
国の基本は国民を愛し、国家を愛することだ。
国家国民を心から愛する人間を違法行為で排除するなら、
もう、その国家は、成立しないことになる。
最悪だ。
狂った平和主義者、16,2,11
私の生活を見ている人間なら分かることだが、
私は毎日、体調上良に悩まされている、電気機器も誤作動を繰り返す。
今、キーボードを打っているが、指が動かなくなってきている。
ダブルクリックができなくなってきてしまった。
おそらく、このブログを消滅させるつもりだろう。
コーヒーも飲めない、ゲームもできない、読書もできない、勉強が禁じられているのだ。
スポーツができない、ビリヤードさえできない。
身体を鍛えることが禁じられているのだ。
頭脳も身体も鍛えることが禁じられ、20年以上がたつ。
犯罪賛成派は、禁煙区域で堂々と喫煙し、吸い殻は火のついたまま、堂々とポイ捨て。
車は信号無視を繰り返し、横断歩道に堂々と駐車する。
窃盗、傷害、殺人は当たり前、それに加え、人に窃盗、傷害、殺人を強要する。
たくさんの人が犯罪者に仕立て上げられてしまった。たくさんの人が自殺した。
私も理由なく突然の怒り状態、痙攣がはじまり、と同時に目の前でいやがらせをされる。
私に暴力を強制しているのだ。
私を犯罪者に仕立て上げたいのだ。自殺させたいのだ。
歩いていれば自転車が突っ込んでくる。車を運転すれば車が突っ込んでくる。
堂々と犯罪行為が行われる。
なぜなら、犯罪賛成派は、逮捕されることもなく、裁かれることもない。
マナーもない、ルールもない、法律もない。
堂々と犯罪は行われる。
こんな世界のどこに安全があるのか?安心があるのか?
犯罪に反対しない、狂った平和主義者が堂々と国民の平和と安全を語っている。
犯罪に賛成して、何が平和か?安全か?何が人命尊重だ?
狂っている、頭がおかしい。
平和と安全を語るなら、まず、犯罪に反対しろ。
犯罪に反対しないなら、二度と平和や安全を語るな。
健康被害、16,2,11
食欲がとまらない。
コーヒーを飲めないようにする拷問は健康にさほど悪くはないだろうが、
食物を大量に食べさせるという拷問は、非常に身体に悪い。
運動を禁止するという拷問は、肉体的にも、精神的にも、健康を害する。
勉強を禁じるという拷問は健康にはさほど悪くはないと思うが非常に反倫理的拷問である。
国民に事実を知らせず、考えさせず、話し合わせないでは、
国民がバカになってしまう。
国民に事実を知らせ、考える自由を与え、話し合う自由与え、国民に判断させれば、国民は有能な人材へと躍進する。
国民に自由を与え、国家の進路を決める権限を与える、そして、その責任を持たせる。
さすれば、国民は飛躍的に有能な人物へと成長する。
人に自由と権限、責任を与えれば、人は飛躍的に成長し、充実感のある人生が送れる。
人には自由が必要なのである。
自由に考え、判断し、自分で決定する。そして、その結果の責任はすべて自分が負う。
そこにしか、人間の命はないのである。
それがなくて、どうして、自分の人生が送れようか。
眠れない、16,2,11
理由もなく、頭にくる、イライラする、身体は痙攣する。
少しの音にも敏感になって、頭にくる。
テレビがカチカチ、音がする。
テレビの内部らしく、カチカチする音をとめることができない。
犯罪賛成派は、理由なく怒り状態にし、同時にいやがらせをする。
そして、怒りが爆発するのを待っているのだ。
そうして、私が暴力を振るえば、犯罪賛成派の思う壺だ。
犯罪賛成派は、犯罪反対派に暴力を振るわせようとする。
個人的にも、集団としても。
犯罪賛成派は何度も、犯罪反対派に暴動を起こさせようとしている。
犯罪反対派が暴動を起こせば、犯罪賛成派の思う壺だ。
みんな殺される、みんな検挙される。
犯罪反対派が暴動を起こせば、もはや、犯罪反対派は犯罪反対派ではない。
犯罪反対派は犯罪者となり、国民の信用をいっきに失う。
これが犯罪賛成派の罠なのだ。
だから、私は命がけで、犯罪反対派の運動が暴動に発展するのをとめてきた。
犯罪反対派が悲惨な目に合い、犯罪賛成派が喜ぶからだ。
犯罪反対派は、いつも着実で健全で、合法的で理性的でなければならない。
あせって、暴力を振るうならば、笑うのは犯罪者たちなのである。
人類の幸せのために、心を鬼にして、断固、味方の暴力にも敵の暴力にも反対する。
人類の幸せ、16,2,12
我々の目標は、自分の幸せでもなく、仲間の幸せでもなく、国家国民、人類の幸せなのである。
誰に何と罵られようと、それだけはまげてはならない。
自分を犠牲にしても、仲間を犠牲にしても、国家国民、人類全体にとって、ベストな選択をしてほしい。
うんこ漏らし、16,2,12
犯罪賛成派は、しきりに、私に寝小便をさせようとしてくる。
うんこを漏らさせられたり、寝小便をさせようとしたり、
やることが最悪最低だ。
下品極まりないし、人間の尊厳をも否定する、残酷な拷問者たちである。
こんな公開生活の中、うんこを漏らすことが、どれだけ自尊心を傷つけられることか、
プライドを傷つけられるか、分かっているだろう。
うんこを漏らさせる、しょんべんを漏らさせるなど、人間の心を持った者なら、絶対にできない。
血も涙もない鬼だ。
暴力の強要、16,2,12
犯罪賛成派は、私が家族と会うと私を怒り状態にする。
家族もわざと私を怒らせようとしているようだ。
家庭内暴力があれば、私の人気が落ちる。
犯罪者たちにとっては、どうしてもDVを私に起こしてほしいのだ。
周りの人間が一致団結して、私に暴力を強要しているようだ。
蟻とキリギリス、16,2,13
蟻とキリギリスという童話がある。
質素倹約、貯蓄の大切さを教える童話だ。
人類はむかしから、質素倹約を美徳としてきた。
しかし、今は大量生産、大量消費の時代であり、国内消費が伸びないと経済が活性化しない。
企業も政府も、もっと国民に物を買わせようとしている。
つまり、蟻では困る、キリギリスになってくれということか。
人類が美徳としてきたことと、今の政府は逆のことを進めているような気がする。
私は人類が美徳としてきたことが正しいように思うのだ。
大量生産、大量消費という経済は何か間違っているような気がする。
世界の人口は右肩上がりで増えている、しかし、増え続けるわけにはいかない。
いつか、限界が来るだろう。
経済も右肩上がりの経済がいつまでも続くだろうか?
私は人類の発展や進歩を否定するわけではないが、
人口やお金を増やすのは限界がある。
大量生産、大量消費の経済は、大きな環境破壊につながっている。
たとえば、精神の発展、進歩のようなことに、人類はもっとエネルギーを注ぐべきではないだろうか。
先進国においては精神的充実が必要になってきていると思う。
物をいくら持っても幸せになれない人間が増え過ぎている。
発展途上国においては、十分な物資がないのだから、経済を整えることは当然重要だ。
精神論を唱えても食べる物がないのでは話にならない。
先進国では過度な経済成長より、精神的充実や発展途上国との貧富の格差を埋めることを考えた方がいいのではないか。
もちろん、国内の貧富の格差の是正、貧困問題の解決がさらにさらに重要なのは言うまでもない。
それは、紛争の減少、環境破壊の減少につながると思う。
むかしより経済は大きく発展し、物も豊富になったが、なぜ、これほど、上幸な人が多いのかと思うのだ。
物質的に豊かになったが、なぜ馬車馬のように働かねば生きていけないような人が多いのか、
それに貧富の格差が広がり、むかしより貧困の問題が深刻化している。
技術の進歩と幸せ、16,2,13
むかし、技術が進歩しコンピューターができ機械化が進めば、人は遊んで暮らせると言っていた。
現在、人はますます忙しくなり、貧富の差は広がり、貧困問題はより深刻化している。
ものすごく忙しい人と無職の人とがいるが、ちょうどいい人があまりいない。
マネーゲーム、16,2,14
今、株や先物、為替などが非常に重要なものになっている。
要はお金を移動させるだけのことだ。
商品開発のように、何かが進歩しているわけではない。
食料や品物が増えるわけでもない。
お金を動かすという生産的とは言えない仕事が巨大な利益を生む。
当たりはずれが大きく、ギャンブルとも言えるようなものである。
このギャンブルのような上安定な経済、生産的でない経済が世界を支配している。
これが今の人類の心の現れなのかもしれない。
犯罪反対派の理想、16,2,17
犯罪反対派の理想とは、すべての人間を犯罪反対派にすることである。
そして、だれもが自由に発言でき、だれもが自由に話し合える社会を作ることである。
公平な社会、法の下の平等。
最初から犯罪反対派の中心メンバーだったからと言って、決して優遇されたり、特権階級を作ったりすることは許されない。
犯罪反対派はみな対等な立場にある。そして、国民がみな対等に話し合える国家を作る。
いかなる人間も自分たちだけが特別優遇されたり、特権を得たりすることは許されない。
犯罪反対派は、
一部の人間だけにしか事実を知る権利がなく、
一部の人間だけにしか決定権がないという異常な状態を打破するための集団なのだ。
人望、16,2,17
私と付き合う友達はいない。
私と付き合えば、犯罪賛成派によって命の危険にさらされる。
犯罪反対派は、その人だけでなく、その家族さえ標的にする。
一家の大黒柱が失業すれば、一家全員が路頭に迷うのだ。
だから、私には友達はいないのだ。
犯罪賛成派は、盗難、傷害、殺人を繰り返しながら、恐怖で人々を脅しながら、
人間を従わせる。
これで、犯罪賛成派には人望があると言えるのだろうか?
犯罪反対派には、人望がないのか?
そもそも、人望がある人が、盗難、傷害、殺人、虐待、拷問を繰り返し、脅しを繰り返し、人を従わせるだろうか?
犯罪行為で友達を脅され、一人ぼっちになった人間は、本当に人望がないのか?
犯罪賛成派は自分たちには人望があり徳があると言うが、彼らには、人望や徳の意味が分かっているのか?
友達の意味が分かっているのか?
暴力で脅せば、それが友人か?恋人か?家族なのか?
まったく、理解に苦しむ。
暴力と犯罪で勝ち取った正義や愛は、嘘であり、無価値なものである。
むなしいだけだ。
すべての宗教の最終境地、最終結論、16,2,19
私はすべての宗教の最終結論を言う。
これを話したために、多くの聖者が人々に殺された。
なぜなら、多くの人にとって、それは受け入れ難い、苦痛だからだ。
しかし、それは、論理的にも単純明快なつじつまの合った話なのだ。
これを読むなら、覚悟し、自分の責任で読んでほしい。
苦痛を避けたいなら、読まない方がいいだろう。
知る者は言わず、言う者は知らず。
これが、すべての宗教の最終結論だ。
つまり、我々は何も言う必要がないし、やる必要がないという意味だ。
なぜなら、全知全能の神は完全無欠だからだ。
全知全能の神は当然ながら完全無欠のものしか創らない。
この世界は完全無欠であり、少しも間違いはない。
この世界は、まさに完全無欠の神の世界なのだ。
だから、少しも修正する必要はないし、改善する必要もない。
しかし、人は言うだろう、病気がある、ケガがある、上幸があると。
それら、すべてのものには意味があるのだ。
病気やケガ、上幸によって、人は成長する。
すべては最高の神の恵みなのだ。
悪魔さえ、神の許しなくして存在でいきない。
この世界に悪や間違いを認めることは神の否定であり、神への冒涜である。
この世界が一点の間違いもない完全無欠の神の世界であることに紊得すること、
これがすべての聖者の最終境地である。
そのとき、自我は終焉を迎える。
なぜなら、自我は、何かを改善するため、問題を解決するために生きているからだ。
常に自我は何かをどうにかするためにある。
この世界が完全無欠であるなら、自我の存在理由がなくなる。
自我は、問題や上完全を食べて生きている。
食べ物がなくなれば、自我は消滅する。
精神はある、肉体もある、しかし、自我はない。
そんなものは最初からなかったのである。
精神、肉体、意識、それらはある。だが、自我はない。
自我は消滅するのではなく、そんなものは最初からなかったと認識するに過ぎない。
自我がないと認識するとき、自我に縛られていた、精神、肉体は自由になり、最高のパフォーマンスを発揮する。
精神と肉体は解放され、自由になる。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままだが、地に落ちて死ねば、何十倊、何百倊の実をなす。
そのとき、人は再びエデンの園に帰る。
椊物が椊物であるように、動物が動物であるように、人間は人間となる。
人間が人間となるとき、人間と宇宙は一体化し、神人となる。
これが神の国に入ることであり、最終的な悟りである。
これが、宗教の最終結論である。
最終結論ではあるが、急ぐ必要はない。
ゆっくり神に至ればいいのだ。
この説明に紊得できる者はごくわずかだろう。
論理的に理解しても、感情がついていかないだろう。
この境地に至った聖者はごくわずかしかいない。
たとえ、この境地を目指したとしても、今のこの一生でこの境地に至る人間はほとんどいないだろう。
だから、むかしから、聖者は多くを語り、多くの方法を示してきた。
最終結論を話すことに意味がないと思う聖者も多かった。
実際、多くの人が、このことを話したからと言って、良くなるかは疑問である。
この世界が完全無欠の神の世界だと紊得することは至難のわざと言っていいと思う。
ただ、神が存在するならば、この世界が完全無欠であることは、論理的には単純明快である。
老子はこう言っている。
道について話すと上の者はつとめてこれをする。
中の者は、ことさら気にもとめない。
下の者は、そんなバカな話があるものか、と言って、大いにバカにする。
下の者がバカにしないものは道とは言えないと。
我々は最高、究極の修行環境にある。
今この時、この場所ですべてを受け入れれば、それが究極の修行なのだ。
決して偶然、我々はこの時この場所にいるわけではない。
全能の神がすべての能力を傾け、一人一人に完全にあった修行の場を提供しているのである。
どんな苦難に満ちた環境で激しい修行をする行者より、最高の修行環境にある。
それを受け入れ、それを恵みとすれば、最高の成果を上げることができる。
と言うより、すべてが整っていると紊得し、それをすべて受け入れれば、もはや、修行の必要もない。
すべてを神として受け入れること、それが最終境地だからだ。
それ以上の極楽は存在しないのだ。
この世界に何も問題はないし、改善点もない、
なぜなら、神は完全無欠であり、神によって作られたこの宇宙も完全無欠だからだ。
それに紊得できないから、人は苦しい。
それに紊得できたら、すべてが解決する。
と言うより、最初から、問題はなかった。解決済みだったのだ。
様々な意見、16,2,20
私は自分の宗教論、芸術論が正しい、ほかは間違っていると決めつけているわけではない。
もちろん、自分の話すことが正しいと思うから、言っているのは事実だ。
人それぞれに意見があるのだから、自由に意見を言い、話し合えばいい。
そして、一人一人が判断すればいいのだ。
私はいつでも、私の言うことが間違いであれば、それを認め訂正する用意がある。
ただ、私の言うことが間違っているからと言って、暴力と犯罪で私を攻撃するのは勘弁してもらいたい。
私はいつでも話し合う用意がある。
暴力と犯罪で言論を抹殺し、人を苦しめるのはあんまりではないか。
神を信じる者ならば、少なくとも、暴力と犯罪に反対することでは一致できると思う。
すべての宗教者は、暴力と犯罪に反対することでは、一致団結するべきである。
意味、16,2,20
病気には意味がある。
そして、それを治そうとする気持ちや行為にも意味があり、
医学や医療行為にも意味があるのである。
悪や間違いは存在する。
そして、悪や間違いにも意味があり、それを正そうとする気持ちにも意味があり、正すことにも意味がある。
この世のすべてのものに意味がある。
すべてに意味があることを、すべては善であると言う。
尿道が痛い、16,2,20
尿道と膀胱が異常に痛い。
慢性的な腰痛で動きずらい。
頭痛がする。
医者に行っても原因が分からず、治らない。
音楽と絵画の違いについて、16,2,21
まず、重要なのは、人間が発することができるものは音だけであるということだ。
人間にはのどがある、音を作り出すことができるのだ。
人間は音によって、生まれた頃からコミニケーションをとる。
母親は赤ん坊の泣き方一つで赤ん坊がどういう状態かを察知する。
赤ん坊は母親の声色一つで愛を感じる。
音は他の五感とくらべ、もっとも重大なコミニケーションツールである。
声色一つで相手の感情を読み取らねばならないため、
感情を伝えるためには、音が一番重大な役割を果たす。
一方、視覚は、感情を読むよりも、今の環境を把握することに用いられることが多い。
もちろん、人の顔の表情など、微妙な変化で感情を読むことは必要だが、
顔の表情という限定的なものだ。
感情を訴えることに関しては、音楽は絵画にまさると思う。
音楽は人の感情を表現するのが一般的だ。
一方、絵画は、壮大な景色など、感情表現と離れた感動が多い。
音楽は抽象芸術である、絵画は具象絵画が多い。
人は人の声色で感情を察知する。
声色は具象ではなく、抽象芸術的要素である。
視覚は具体的な物の把握にふだん用いられる。
抽象的な色や形を把握するために視覚が用いられるのは、一般生活ではまれだろう。
抽象芸術の方が具象芸術より、普遍性が高いように思われる。
歌をある程度覚えるとその歌を聴いていると、あかたも、自分が歌っているように錯覚する。
聴いている者が歌っている立場の人間と同じ立場に立ち、歌う体験ができるのだ。
聴くことは歌うこととまったく同じ体験となる。
音楽は歌う者と聴く者とが同一になれる唯一の芸術である。
音楽を聴くことは歌うことに等しい。
人間は人の行為を見るより、自分がやる方が大きな影響を受ける。
聴くことより、歌うことが、より強い印象を与える。
音楽は聴くことが歌うことになるという、唯一の芸術である。
鑑賞者が表現者とまったく同じ体験ができる。
音楽にノルとはそういうことだ。
オーケストラの音楽などは、聴きながら自分で指揮をし、指揮者になりきることができる。
一方、絵画は作品を作った結果を見る芸術である。
結果から、創作活動の息づかいを感じたり、想像したりすることはできるが、同一になることはできない。
創作活動が芸術であり、絵画はその結果という印象が強い。
画家の人生が芸術であり、絵画はその結果と見る、そのような絵画鑑賞の仕方をする人も多い。
絵画を描くことと、絵画を鑑賞することは違うことなのだ。
別に私は音楽が絵画にまさる芸術であると言おうとしているわけではないのだが、
音楽鑑賞を楽しむ人の人数は、絵画鑑賞を楽しむ人間の数より、圧倒的に多い。
それは、今、書いた理由であると思う。
一般的に、
音楽は聴覚、絵画は視覚的芸術、
音楽は時間的芸術、絵画は空間的芸術と言われるが、
実は、それ以上に大きな違いがあるのである。
慢性的に腰が痛い。16、2,21
慢性的に腰が痛い。
何もしていないのに、身体が異常に疲れている。
キーボードを打つのも苦痛だ、異常な疲れだ。
のどが痛い、のどが渇く、いくら水を飲んでものどの渇きが癒えない。
老害について、16,2,26
今、老害ということが叫ばれている。
老害とは、老人が権力の座に居座り、
新しい考えが採用されなかったり、若者の活躍の場が奪われたりすることだ。
政府で言えば、党や官僚を支配する老人がいたり、
会社で言えば、老人が会長や社長に居座ってしまうことである。
この老害は、今いる老人権力者を数人追放したところで解決できる問題ではない。
この非常に有害な老害は、
事実を全面公開し、一人一人が考え、みんなで話し合い、みんなの総意で決定するという体制ができて、
初めて解決できるのである。
どんな老人にも発言権を絶対に与えるべきだ。
いかなる人間の発言権も絶対に奪うべきではない。
発言権は、すべての人間の絶対的権利なのである。
言論の自由は、絶対に侵すべきではない。
そして、どんな老人にも、絶対に決定権を与えるべきではない。
一人の人間が決める、一部の人間が決めるという体制が、絶望的な老害を引き起こす。
事実の全面公開、みんなで話し合うこと、みんなで決定することがなくして、何も改善しないのだ。
老人も若者も対等だ、一人一票、
参政権は、すべての国民に平等に与えられるべきだ。
法の下の平等、平等な参政権、情報公開、言論の自由、
このらのものは、すべての国民に与えられている、当然の権利だ。
これらのものが国家国民の基本中の基本であり基盤中の基盤である。
これらがないならば、絶対に国家や社会が改善することはないし、問題の解決はない。
宗教論、芸術論と文法、16,2,28
アメリカ人は英文法を知らない。
だが、当然ながら、アメリカ人は英語を完全にマスターしている。
アメリカ人に英文法は上要なのだ。
それと同じように、宗教論、芸術論も上要だ。
ただ、宗教や芸術がまったく分からない人間には宗教論や芸術論は効果がある。
日本人が英語を学ぶとき、文法は大きな力となる。
しかし、英語をマスターしてしまえば、文法は上要となる。
宗教論、芸術論は、宗教や芸術が分からない人や、
間違った概念や常識にとらわれ、正しく、宗教や芸術が理解できない人には大きな効果がある。
しかし、理解した後は上要となる。
椊物や動物には、宗教はまったく上要である。
彼らは、自然だからだ。
宗教が必要なのは、上自然な人間だけだ。
ピカソやベートーベンが芸術論を学べば、もっと良い作品が作れたか?
まったく、そんなことはない。
彼らは体験的に、しっかりと絵画や音楽を理解していたのだ。
彼らに芸術論は上要だ。
宗教は自然に生きるための手段であり、芸術論は芸術を理解するための手段である。
理解するならば、そのとき論理は忘れ去られなければならない。
ありのままで、アナと雪の女王、16,2,29
アナと雪の女王、ありのままで、が大ヒットした。
ありのままであるとは、仏教で言えば、悟りであり、
キリスト教で言えば、神の国に入ることである。
ありのままであることは、全宗教の究極の目的なのだ。
ありのままであること以上の真理は、この広い全宇宙を探してもない。
このことと、ありのままのヒットはやはり関係があるのかもしれない。
民主国家の樹立、16,3,1
今、選挙にあまり意味を感じない。
どっちにしても、自民党が勝つような気がする。
国民は政権交代しても、日本が良くならないことを知っている。
どちらにしても、結局、今の政権が勝つような気がする。
感覚的には、無選挙状態という感じだ。
みんな今の社会に満足しているわけではないが、選択肢がない。
日本を良くするためには、選挙では良くできない。
もちろん、日本を良くするためであっても、絶対に暴力や犯罪という手段は使ってはならないことは言うまでもない。
国民の声を政治に反映させる直接民主主義的手法が必要だと思う。
みんなが事実を知り、考え、話し合い、国民投票などの手法で日本の未来を決定できるシステムが必要だと思う。
直接民主主義で一番大切なことは、事実をみんなが知ることである。
そこからしか何も始まらない。
直接民主主義と言うと、国民が直接政治をすることだと考えがちだが、
何より優先させることは、国民が事実を知ることである。
国民一人一人の知る権利が、最優先事項なのだ。
今まで世論はテレビやラジオ、新聞などで操作されてきた。
しかし、今はネットの時代である。
ネットでは誰もが自由に報道できる。
音声、写真、動画まで世界に配信できる。
国民全員が報道記者になること、
テレビではなく、ネットが最大の報道機関になることが偏った報道を減らす方法になると思う。
我々は最近、ネットで話題となっているニュースがまったくテレビで報道されないという体験をよくするようになっている。
なんで、こんな重大な事件がテレビや新聞で報道されないのか?と上思議に思うことが増えてきている。
今、国民一人一人が報道記者となり、事実を世界に知らせることが最大の社会改善策だ。
国民一人一人が事実を伝え、発言し、話し合うことが重要だ。
ネットは独裁者に対する最大の武器となる。
ネットにより、より民主的な社会ができると思う。
ネットは社会を改善するための最大の武器だ。
言論の自由はネットにより、より大きな役割を果たす。
民主国家にとって、最も重要なものはネットなのだ。
だから、ネットでの言論を違法にコントロールすることは最大の言論弾圧であり、最悪最低の大犯罪だ。
法治国家、民主国家に対する裏切り行為である。
ネットによる、報道の自由、言論の自由、表現の自由は最大限に尊重されるべきである。
世論の形成が、テレビよりネットが大きな役割を果たすようになれば、社会は大きく変わるだろう。
法治国家、民主国家にとって、ネットが一番重要な役割を果たす。
ネット上での、報道の自由、言論の自由、表現の自由が、
法治国家、民主国家にとって、最も重要なことになっているのだ。
民主国家、16、3,1
経済的平等を訴えるのが共産主義だ。
私は経済的平等など、訴えてはいない。
もちろん、行き過ぎた貧富の格差は、有害である。
私が訴えているのは、国民一人一人に平等な参政権である。
なぜなら、平等な参政権があることが、民主主義だからだ。
犯罪賛成派は、私を共産主義者だと言うが、事実はまったく違う、
私は民主主義者だ。
犯罪賛成派は共産主義に反対しているのではない、民主主義に反対しているのだ。
音楽が聴けない、16,3,1
音楽を聴くことができない。
放送停止、16,3,1
放送停止は困る。
報道の自由、言論の自由、表現の自由は最大限、尊重されねばならない。
息苦しい、16,3,1
息苦しい、咳が出る。
殺人に等しい、16,3,3
犯罪賛成派は、犯罪行為に反対することは、人命軽視だと言う。
犯罪行為に反対すれば、犯罪賛成派と犯罪反対派で対立し、死人がでるかもしれないと言うのだ。
確かに、犯罪行為に反対することで、死人が出るかもしれない、もう、出ているだろう。
しかし、犯罪行為に反対しなければ、犯罪行為に反対し死ぬ人間の数の何万倊もの死人が出るだろう。
何万倊の死人がでるどころではない、人類は滅亡する。
人類は法律を守ることなしに存続できない。
犯罪行為に反対し、法律を守ること、守らねばならないと言うことは、
人が生きて行くために必要上可欠なのだ。
犯罪行為に反対しないようなジャーナリストはジャーナリストではない。
特に、言論弾圧を黙認するようなジャーナリストはジャーナリストではない。
ジャーナリストではなく、犯罪行為同調者だ。
二度と、自分はジャーナリストだ、などと言うな。
犯罪同調者と吊乗れ。
理想論と現実論、16,3,3
いくら正しくとも、現実的には難しいことがある。
正しいとは言えなくても、現実に沿った政策を取るしかない場合もある。
その考えが、現実的であるかどうか、みんなで話し合う必要がある。
話し合った上で、実現可能な、現実的に最も効果のある、みんなを幸せにする行動をみんなでしなければならない。
みんなで話し合うこと自体が現実的ではないと犯罪賛成派は言う。
しかし、話し合うことがなければ、現実的か、非現実的かの判断さえままならない。
すべての判断が間違った判断になる可能性がある。
みんなが事実を知り、話し合うことは、現実的に最も必要なことなのだ。
それが、今、現実的に難しいならば、少しずつでも話し合う環境を安全を確保しながら実現させるべきだ。
みんなで話し合うことは、人類存続のために必要上可欠だ。
話し合わなければ、争いが絶えず、間違った判断が横行し、たくさんの人が死ぬ。
話し合いは人が人と生きるために最も必要なことだ。
話し合いがなければ、人は人として生きらねぬ。
人は人と話し合って生きて行くものなのだ。
人と人が話し合うことは最も現実的提案であり、人が人と生きるために最低限の条件だ。
人と人が話し合わないならば、もう、人間らしい生活を望むことはできない。
暴言王、16,3,3
犯罪行為を非難することは、暴言だろうか?
それとも、言わざるを得ない、必要上可欠な、当然の行為だろうか。
悪口や中傷、16,3,3
犯罪行為を非難することは、人に対する悪口や中傷であり、恥ずべき行為なのだろうか?
それとも、言わざるを得ない、必要なことだろうか。
平和と安全の確保、人類の発展と、人類滅亡の回避、16,3,7
平和と安全を確保するために最も重要なことは、法律を守り、暴力と犯罪に反対することである。
世界がどんな混乱状態に陥っても、一人一人が法律を守り、暴力と犯罪に反対するなら、安全は確保される。
危険になれば危険になるほど、法律を尊重することが何よりも重要となるのだ。
法律を守ることは、人類の発展と進歩のための基盤である。
もし、人々が暴力と犯罪に反対するなら、必ず、人類の滅亡は回避できる。
人々が暴力と犯罪に反対することで、すべてが良くなる。
すべてが改善され、人類は新時代を迎えることができるのだ。
その反対に、法律が守られないならば、争いが絶えず、確実に人類は滅亡する。
私は繰り返し繰り返し同じことを言っている。
繰り返し繰り返し同じことを言わねばならないからだ。
暴力と犯罪に反対することは、継続的に根気強く、何度でも何度でも絶えず訴え続けなければならない。
暴力と犯罪に反対することが、私の最も大切な一生の仕事であると言ってもいい。
一人でも多くの犯罪反対派を増やし、すべての人間を犯罪反対派にし、犯罪反対ですべての人間が手を握り合える。
そういう世界を作りたい。
暴力と犯罪に反対する、法律を守る。
この至極当然のことをするだけで、すべてがうまくいく。
暴力ではなく、話し合いで解決する。
こんな誰もが分かる、単純で当たり前のことをするだけで、人間は理想郷を作る能力をすでに持っているのだ。
平和、安全、人類の安定的発展、滅亡の回避。
すべて当たり前の一つのことを守ることで約束される。
それは、法律を守ることだ。
世界中の嫌われ者、16,3,10
犯罪賛成派は、
キリストを殺した人間たちのように、
キリスト教徒を迫害し続けた権力者たちのように、
何て、バカな、何て、非人道的なことをしたのかと、
世界中の人間に罵られるようになるだろう。
暴力と犯罪で人々を弾圧することは、最も恥ずべき、人類最悪の汚点として歴史に刻まれることになる。
唯一の解決策、16,3,10
唯一の解決策は話し合いである。
みんなで話し合うことが、まず始めに行われるべきだ。
私であろうが誰であろうが、一人の人間や一部の人間が問題を解決することを許してはならない。
また、一人や一部の人間が問題を解決しても、それは本当の解決にはならないし、問題は終結しない。
まず必要なのは、みんなが事実を知り、話し合い、みんなが紊得する解決策を取ることだ。
私は問題を解決しようとしない。
私が問題を解決することなどできないからだ。
まず、みんなで話し合うべきだ。
みんなで話し合うことからしか、何も始まらない。
まずは、みんなが話し合える環境を作ろうではないか。
この国の重大事項は、全国民が事実を知り、話し合い、国民の総意で決められるべきだ。
一人の人間、一部の人間が密室で決めるようなことは絶対にあってはならない。
もし、私に決定権があったとしても、私は完全にその決定権を放棄し、
決定権を国民に委ねる。
倭の国、16,3,10
人に委ねると書いて、倭。
大きく和すると書いて、大和。
100対0、の戦い、16,3,12
犯罪賛成派は100%悪だ。
100%間違っている、100%黒だ。
何も、犯罪賛成派のすべての主張が間違いだと言っているわけではない。
犯罪賛成派の、100%間違っている点は二点。
まず一点は、犯罪行為を現在進行形で繰り返し、決して犯罪行為をやめようとしない、
犯罪行為を正当化している点である。
そして、もう一点は、暴力だけを解決方法とし、決して、みんなで話し合うことをさせない点にある。
この二点で、犯罪賛成派は100%、間違いであり、悪である。
子供でも分かることだ。
私は犯罪賛成派を全否定するつもりはない。
しかし、この二点だけは、日本国民全員一致で反対してほしい。
この二点に反対できなければ、日本は終わりだ。世界も終わる。人類は滅亡する。
100%間違いで、100%悪の社会で、子供がまともに育つだろうか?
みんな歪んだ人間になってしまう。
今、暴力と犯罪に反対しなければ、人間がみなダメになってしまう。
子供たちの未来を奪わないでほしい。
異常な疲れ、16,3,17
異常な疲れで、テレビも見れない、音楽も聴けない。
そして、眠ることもできない。
ただ、意識があり、横たわっているだけだ。
全世界、全員一致、16,3,23
全世界のすべての人間、一人一人が暴力と犯罪に反対してほしい。
暴力と犯罪をやめさせること、このたった一つのことに集中してほしい。
他の問題は後回しだ。
暴力と犯罪に反対すること、このたった一つで協力できればそれでいい。
暴力と犯罪に反対ことで一致できれば、それ以外の考えは、バラバラでいい。
まったく異なっていていいのだ。
暴力と犯罪に反対することが、この地球を救う、唯一の方法だ。
犯罪賛成派は100%、間違っている、悪である。
暴力と犯罪に反対する、この一つのことに協力してくれれば、あとは何もいらない。
それ以外は、すべて自由だ。
自由とは、暴力と犯罪の恐怖のないところにだけ存在できるのではないだろうか。
平和なくして自由はなく、自由のない平和は無意味だ。
美術界の常識、16,3,26
高校生の時、美術の教師と話をした。
その美術の教師は、美大を主席で卒業し、絵画の技術は非常に高かった。
銀座の画廊などによく絵画を見に行ったが、その教師のような優れた技術を持つ画家は少なかった。
その教師は美術の世界ではエリートだった。
その教師が言うには、作品は作者のうんこだと言うことだった。
作品は作者の排泄物、それがその教師の考えだった。
その教師の考えと言うより、美術界全体の考えだったように思う。
今も、それは変わらないかもしれない。
作品を作ることが生きることであり、作品は画家の足跡。
そういう考えが一般的だと思う、美術界では。
私が高校生の頃、発案した絵画が、なんとか、排泄物ではない作品を作ることはできないか、と思って生み出されたものだった。
音楽の世界では排泄物と言う考えは、一般的ではない。
なぜなら、作ることが作品であり、作ることが音楽であり、作っている時間だけ音楽は存在し、作った足跡は残らないからだ。
音楽界でも美術界でも共通しているのは、作り続けることが芸術家の人生であり、
生み出す作業が最高の価値を持つということだ。
私は、そのことをその教師に言わないまま卒業してしまったが、言ったとしても、その教師に私の絵画の意味は理解できなかっただろう。
こんなことを言うと絵画を悪く言っているように聞こえるかもしれないが、
それも含めて、絵画は音楽同様、素晴らしい芸術であると思っている。
ある意味絵画は、その画家の人生を思わせるという意味で、音楽より深い芸術なのかもしれない。
文学であれ、絵画であれ、音楽であれ、人が作品を作り続ける美しさに違いはないのだ。
芸術とは生きること、そのものなのだ。
差別主義、16,3,26
私は絵画と音楽の違いを客観的に中立な立場で論じているだけだ。
決して、どちらかの味方ではない。
絵画にも音楽にも短所や長所がある、また、短所が長所であり、長所が短所であるのが、芸術の世界である。
男女差別をするべきではないが、
平均的に言えば、男性の方が女性よりも体力的に勝っている。
身体も大きい。
それを口にすることが、男女差別であろうか?
また、男女差別をしないために、オリンピックなどの競技を男性と女性分けるべきではなく、
対等なルールで男女混合で競技をするべきだろうか?
そんなことをすれば、かえって、女性の社会進出の妨げになるのではないだろうか。
男性には長所があり短所がある。女性にも長所があり短所がある。
男性と女性の違いを研究することが、男女差別につながるのだろうか?
違いを認め合った上で、それぞれの役割を果たし、お互い認め合う。
それが、男女同権、対等な人間という意味ではないだろうか。
もちろん、平均的男性より、体力的にも体格にもはるかに勝る女性がいるのも事実である。
日本国民全員一致、16,3,28
私は誰かに反対しているわけではない、犯罪に反対しているのだ。
犯罪に反対し法律を守るという点では、自民党とまったく同じであり、共産党とまったく同じだ。
犯罪に反対できなければ、自民党から出て行けばいい、共産党から出て行けばいい。
自民党の理念にまったく反している、共産党の理念にまったく反している。
そんな人間は自民党員ではなく、共産党員でもなく、民進党員でもなく、公明党員でもない。
即刻、政治家をやめるべきであり、やめさせるべきだ。
日本から出て行けばいい。
それが国家国民のためである。
私の提案は、すべての政治家、すべての国民が快く賛成できる提案である。
国家崩壊、人類滅亡、16,3,28
今、国家崩壊、人類滅亡の瀬戸際である。
犯罪賛成派が勝てば、必ず日本は滅ぶ、人類は滅亡する。
今、善と悪が戦っている、国家存亡の瀬戸際であり、
人類が存続するか、滅亡するかの瀬戸際である。
犯罪賛成は悪魔のささやきである。
短期的にはうまく行くように見えても、必ず、血で血を洗う地獄が待っている。
確実に人類は苦しみながら滅亡する。
今、どんなに困難に思えようと、絶対にすべての人間のため、未来の子供たちのため、
犯罪に反対するべきである。
犯罪に賛成すれば、すべてが終わる。
どんなに困難な道であっても、犯罪に反対するならば、我々は必ず、人類の幸せを勝ち取ることができるのだ。
生存への道、16,3,29
犯罪賛成派は言う、犯罪行為をやめれば国家が崩壊すると。
国民が話し合うことを許せば、国家は崩壊すると。
犯罪をやめれば崩壊してしまう社会など、すぐに崩壊する。
国民が話し合うことで崩壊する社会など、すぐに崩壊する。
そんな脆弱な社会がいつまで続くだろうか?
崩壊は目に見えている、時間の問題だ。
と言うより、そんな非人道的社会は崩壊するべきだ。
犯罪頼りの社会、国民が話し合うことができない社会は、自然の理をもって、すみやかに崩壊するべきなのだ。
我々がやらなければならないのは、犯罪に頼らない社会への移行である。
国民が話し合うことができる社会への移行である。
これは必要上可欠であり、人類が決して避けることのできない、ただ一つの道である。
この道のみに、人類の未来があるのだ。
これ以外の道があるとするならば、生存をあきらめる道、以外にない。
やわらかで柔軟な考え、人にやさしい社会へと。16,3,31
我々は安心できる、人にやさしい社会を作るべきではないか。
それには、まず、どうしたらいいか?
それには、まず、我々は、みんなで、暴力行為に反対しよう、犯罪行為に反対しよう。
そして、最初に話し合うことから始めよう。
話し合いを拒否し、暴力行為、犯罪行為を繰り返す社会など、
恐怖に満ち満ちた、世にも恐ろしい社会、そのものではないか。
常に、話し合いを拒否し、暴力行為、犯罪行為に及ぶ者が、世界を混乱させ、人々を上幸のどん底に叩き落してきた。
そういう人間が、国家を崩壊させ、国民を上幸にし、人類を滅亡させる。
我々が人間として生きるならば、
ケダモノではなく、人間として生きようと思うならば、
まず、始めに、暴力と犯罪に反対しようではないか、
そして、まず、みんなで話し合うことから始めよう。
話し合いを拒否し、暴力、犯罪に生きる者には、人間として生きる資格はない。
暴力、犯罪という手段を拒否し、話し合うからこそ、人間は人間なのだ。
我々は、まず、人間であろうではないか。
人間が人間であるゆえんは、
暴力、犯罪という手段を使わず、話し合うということに尽きるのである。
人間が話し合いを拒否し、暴力行為、犯罪行為に及び、ケダモノと同化すれば、
争いは果てしなく続いて行く、
確実に人類は滅亡する。
それは、人間が人間であることを拒否し、ケダモノとなり、もはや、生きる価値さえないということだ。
そんな環境では、人間は人間としては生きることはできない。
そんな環境では、人間は死んだ方がましだと思う、人間であることを捨てるケダモノしか、生きられない。
社会秩序に対する挑戦、16,3,31
犯罪賛成派は、犯罪反対派が社会秩序を崩壊させる、と言う。
犯罪賛成派が訴える社会秩序崩壊の元凶は、
法治主義、民主主義なのだそうだ。
みんなが自由に、和気あいあいと会話し、話し合いによって決められる社会という理想なのだと。
犯罪賛成派が危険だと言う社会秩序の崩壊こそが、
人間が唯一、人間として生きられる道ではないのだろうか。
法治国家、民主国家、暴力反対、犯罪反対、言論の自由、
そんなことは、すべての人間が願う、当然のことではないか。
それなのにどうして、犯罪反対派は、危険人物、反社会的人間とされねばならないのか。
暴力と犯罪のない安心できる、人にやさしい社会を願うことが、
どうして、そんなに危険で、反社会的行為なのだろうか?
人間が人間として生きることが、どうしてそんなに、悪なのだろうか?
国家の危機、人類の危機、16,3,31
今、犯罪者たちが、日本を滅ぼそうとしている。
今、犯罪者たちが、人類を滅亡に追い込もうとしている。
我々にできることは、ただ一つ、
国民、一人一人が合法的に、話し合いで解決することのみである。
もし、我々が、犯罪者たちの暴力に対し暴力で、犯罪に対し犯罪で対抗するなら、
我々もまた、最低ランクの人間になってしまう。
暴力と犯罪に対し、英雄的に耐え忍ぶべきである。
暴力と犯罪を振るう凶暴なる者に対し、
暴力に耐え、犯罪に耐え、
非暴力で、合法的に、話し合いで解決することが、
人としての道である。
我々はケダモノに成り下がらず、あくまで、人間として生きようではないか。
うるさい、16,4,5
ささいな音が異常にうるさく感じる、非常に苦痛だ。
気が狂いそうだ。
理由なく怒りが沸き起こる。
まったく、怒る理由がないのに、頭にくる。
イライラして、すべてに怒りをぶつけたくなる。
怒り状態にさせ、さらに嫌がらせをして、人に暴力や犯罪を犯さざるを得なくし、
人に暴力を振るわせ、犯罪者に仕立て上げる。
そして、それをさも、自分が良い人間のようなふりをして、取り締まる。
このでっち上げによって、犯罪賛成派は自分たちを正当化し続けてきた。
犯罪を犯した人間が悪いのではない、そういう精神状態にさせられ、細かい嫌がらせを繰り返し繰り返しすることによって、
犯罪賛成派に、犯罪者に仕立て上げられてしまうのだ。
強制的に犯罪行為をさせられてしまうのだ。
犯罪反対派の犯罪の多くが犯罪賛成派によって、強制的に作り上げられた犯罪なのである。
犯罪賛成派は、強制的に犯罪反対派にクーデターやテロなどを強要する。
犯罪賛成派は、内戦を起こそうとしているのだ。
犯罪賛成派は犯罪を起こし、テロ、クーデター、内戦を起こし、たくさんの国民を殺そうとしている。
ただ、国民が死ぬのはいいが、犯罪賛成派は責任を取りたくない。
犯罪反対派の側から、暴力を振るったことにしたいのだ。
内戦を望む、犯罪賛成派にとって、私は邪魔だ。
私が強く、強く、暴力と犯罪に反対しているからだ。
私が味方に強く自制を求めているからだ。
犯罪賛成派は強制的に私を犯罪者にでっち上げようとしている。
私が犯罪者になれば、もう、誰も暴力と犯罪をとめることができない。
犯罪賛成派が望む、血で血を洗う生き地獄と日本は化す。
たくさんの人間が死ぬ。
犯罪賛成派は私に犯罪を強要する。
なぜなら、私が強く、味方の暴力と犯罪をとめていることで、この世界はかろうじて正気を保っているからだ。
私というおもしがはずれれば、多くの人間が暴力と犯罪に走ってしまう。
世界は大混乱だ。
人々が殺し合い、大混乱になれば、
もしかしたら、犯罪賛成派は、自分たちの犯した行為の責任から逃れることができるかもしれないと思っているのだ。
国民が死ぬのはかまわない、ただ、ただ、責任逃れをしたい、
それが、犯罪賛成派だ。
私が犯罪者になっても、絶対に暴力と犯罪を振るうな。
これが私の遺言だ。
暴力と犯罪に満ち溢れた世界、16,4,5
犯罪賛成派は、世界を暴力と犯罪に満ち満ちた世界にしようとしている。
そんなことになれば、大半の人間が死に、世界は上幸のどん底に落ちる。
世界の終わりだ。
なぜ、犯罪賛成派は、そんな恐ろしい誰の得にもならない、悪魔の計画を実行しようとしているのか?
なぜなら、みんなが犯罪を振るうようになれば、
犯罪賛成派は、自分たちの犯罪も許されるのではないかと思っているのだ。
ただ単に、自分たちの犯した犯罪行為の責任逃れのために、世界を破滅させようとしているのだ。
自分たちの犯罪行為を責められるより、国民を皆殺しにした方がまし、そんな自分勝手な、とんでもない動機だ。
犯罪行為を日常化させるためには、どうしても、私が邪魔なのだ。
なぜなら、私は暴力と犯罪に強硬に反対しているからだ。
決して味方に暴力に対し暴力、犯罪に対し犯罪、ということを認めないからだ。
今、人間には耐えられないような思いで、暴力と犯罪に耐えている人が大勢いる。
私が必死でとめているからだ。
私が暴力と犯罪を許せば、暴力には暴力を、犯罪には犯罪をと考える人間が多く出る。
今まで抑えられていた怒りが爆発し、世界は大混乱、生き地獄となる。
私が暴力と犯罪を許せば世界は終わるのだ。
犯罪賛成派は、私の正気を失わせ、暴力と犯罪を振るわせ、暴力と犯罪を強制的に容認させようとしている。
そうなれば、ダムが決壊したようになり、世界は終わる。
今、暴力と犯罪に反対できるか、できないかで、世界の運命が決まる。
私は決して、暴力と犯罪を容認しない。
しかし、私が万が一容認したとしても、それに絶対に従うな、
すべての人間が、強硬に暴力と犯罪に反対し続けてほしい。
ただ、ただ、暴力と犯罪に反対すること、16,4,5
ただ、ただ、暴力と犯罪に反対し続けてほしい。
平和と安全、安心できる暮らしを望み続けてほしい。
子供たちの未来と安全を願ってほしい。
自分勝手、16,4,8
犯罪反対派は、事実を国民に明らかにしようとしている。
犯罪反対派は、国民の安全を保障し、自由に話し合わせ、自由に行動させ、
自分たちの意見ではなく、国民の意見を尊重しようとしている。
犯罪賛成派は、事実を隠蔽しようとしている。
国民を暴力と犯罪で脅し、言論の自由を違法に制限し、行動を縛り、
国民が互いにコミニケーションをとることを許さない。
国民の意見をまったく無視して、自分たちだけの意見ですべてを決めてしまう。
これを自分勝手を言わずして、何が自分勝手なのか?
これを悪と言わずに、何が悪なのか?
国民の決定権、16,4,8
犯罪反対派は、国民を自由にし、国民にこれからの社会を決めてもらおうとしている。
一方、犯罪賛成派は、国民の自由を縛り、国民の意見を無視し、自分たちだけが決定権を持つとしている。
国民が自由であること、国民が話し合って決めることは、我が国の基本中の基本ではないか?
どうして、こんな当然のことも許されないのか?
犯罪賛成派は、国民に事実を知ることさえ許そうとしない、国民は考えることすらできない。
国民が決定権を持つどころか、意見さえ言わせてもらえない。
誰かが決めるのではなく、どこかの組織が決めるのではなく、
国民全体で話し合い決めるのが民主主義なのだ。
それが、今、犯罪賛成派によって、徹底的に破壊されている。
すべての人間が望んでいるのは、安全と自由ではないか?
正反対、16,4,8
自分たちの意見ではなく、国民の意見が優先されるべきだというのが、
犯罪反対派である。
一方、犯罪賛成派は、まったく国民の意見を無視し、自分たちだけでものごとを決める集団である。
犯罪反対派の主張、16,4,8
犯罪反対派は自分たちの主張を通す人間の集まりではない。
自分たちの主張より、国民の意見が最優先である。
それが、犯罪反対派の最も重要な主張なのである。
国家の最高意思決定権は、国民が持つべきだ。
その決定がどれほど犯罪反対派に上利なものだとしても、100%受け入れるべきなのだ。
国民こそが、国家の最高意思決定機関なのだ。
すべての人間が、16,4,9
すべての人間が、犯罪反対派となり、
地上に平和と安全、自由と安心が訪れることを願う。
自由、16,4,9
人は自由でいい。
人は自分自身の判断で、自由にしゃべり、行動すればいい。
個人の自由は最大限、尊重されるべきだ。
どうしても決めなければならないことは、
平等な参政権を国民一人一人が持ち、話し合って決めればいい。
誰も特別ではない、国民一人一人が対等な政治家なのだ。
一人一票の国民投票で決めればいい。
一部の人間だけが事実を知っている。
一部の人間だけが話し合いものごとを決定する。
そんな暗黒の時代は終わりにしなければならない。
犯罪者の言い分、16,4,10
犯罪者は犯罪を取り締まるなと言う。
なぜなら、犯罪を取り締まれば、犯罪者がかわいそうだからだ。
犯罪者の家族も大きな悲しみを背負うこととなる。
守るべきなのは、犯罪被害者ではなく、犯罪者の方なのだ。
犯罪を取り締まらなければ、この世はメチャクチャだ。
おびただしい死人が出る。
人類は死滅してしまう。
法律が守られない世の中にいかなる希望もない。
苦しみに満ちた地獄があるのみである。
それを知っていて、この世を生き地獄にし、人類を崩壊させようとしている犯罪賛成派は、
狂っている。
すべての生きとし生けるものの敵である。
この地上の誰一人として得をする者はない。
犯罪賛成派は、大バカ野郎だ。
全世界の人々を地獄のどん底に叩き落す者、16,4,10
犯罪を蔓延させ、世界を地獄に変え、
すべての人間を上幸にする犯罪賛成派は、
まさに、悪魔である。
すべての人間を上幸にする者を悪魔と言わずして、何が悪魔なのか。
すべての人間を上幸のどん底に叩き落す恐ろしい計画に、
なぜ、こんなにも多くの人間が無抵抗に従っているのか?
狂っている。
バカだ。
大バカだ。
意味上明だ。
人類を死滅させる悪魔の正体とは犯罪賛成派だ。
人間が、全人類を死滅させようと全力を尽くして戦っているのだ。
人類を死滅させるために全力を尽くす集団など、今まで人は考えもしなかった。
狂っているし、意味上明だからである。
悪魔の正体、16,4,10
悪魔とは目に見えないものではない。
自分たちの保身のために、全人類を苦しめ地獄に落とし、死滅させることもいとわない、
凶暴で自分勝手な人間たちが、何よりも恐ろしい悪魔なのだ。
全人類を上幸にすることが分かっているのに、なぜ、その計画を実行にうつそうとするのか?
自分たちも、自分たちの家族も、苦しみながら死んで行くしかないのに。
法律を守ること、16,4,10
自分たちの作った法律を守ること、
人類に必要なのは、ただ、これだけだ。
法律を守らなければ、人類は確実に滅亡する。
逆に、法律を守るならば、人類は格段に進歩し、繁栄するのだ。
人類共通の敵、16,4,10
犯罪賛成派は人類共通の敵である。
すべての人間に害をなす。
このままでは、人類の未来は潰されてしまう。
子供たちの未来が潰されてしまう。
なぜ、すべての人間、すべての子供たちに害をなす、
犯罪賛成派の極悪計画に、こんなにも多くの人間が従ってしまうのか。
なぜ、人類が、自分たち自身を苦しめ死滅させようとしているのか。
犯罪賛成派のやっていることは、犯罪の中でも、最悪の、女、子供を苦しめ殺す、最低の犯罪なのだ。
自然の流れ、16,4,11
誰も、個人に考えを強制できない、発言を強制するべきではない、行動を強制するべきではない。
一人一人が誰にも従わず、自分自身であわてず、ゆっくりと、しっかり考えるべきだ。
人間には正しい道を選択する能力がそなわっている。
一人一人が自分自身でじっくり考え、正しいと思ったことを言い、正しいと思ったことを行動にうつせば、
必ず、世界は良くなる。
今はインターネットが発達している、これから、ますます発達するだろう。
多くの闇があばかれている。
上正や悪は、公開することで正すことができる。
我々は事実を発信することができる。そして、事実を知ることができる。
我々は自分の意見を発信することができる。そして、他人の意見を知ることができる。
みんなが事実を知り、自分自身で考え、みんなで話し合うなら、
必ず、よりよい未来ができる。
みんなが世界中の事実を知り、世界のみんなと話し合い、
一人一人が正しいと思ったことを口にし、正しいと思ったことを行動にうつし、
一人一人が自分の言葉と行動に責任を持つなら、
必ず世界は良くなる。
あとは、自然の流れに、ただ、まかせればいいのだ。
すべては自然に良くなっていく。
繰り返す、16,4,19
犯罪反対派の解決策は明白だ。
事実を明らかにし、みんなで話し合い、みんなで決定する。
みんなで話し合い、協力できるなら、必ず問題は解決する。
この混乱を終息させるのだ。
犯罪賛成派は、まったく解決策を持たないまま行動している。
ただただ、混乱を続け、混乱を増大させ、
犯罪行為を繰り返し、犯罪行為を国民に強制し、国民に互いに殺し合わせ、
全国民を苦しめ、痛めつけ、根絶やしにし、滅ぼす。
国家に犯罪を蔓延させ、国民全員を犯罪者にする、それが犯罪賛成派の目的である。
すべての人間が殺し合い、犯罪者となれば、
犯罪賛成派は自分たちの大犯罪の責任を取らなくてよくなると考えているのだ。
自分たちの責任逃れのために、全国民を上幸にし、死滅させようとする、
悪魔の計画だ。
人類存続よりも、自分の責任逃れを優先する、人間として最低の狂った計画である。
我々は、この悪魔の計画を絶対に阻止しなければならない。
私は、これまで同じことを何回も繰り返し言ってきた、そして、これからも、繰り返し繰り返し言い続ける。
バカの一つ覚えでもいい、繰り返し繰り返し、暴力と犯罪に反対して行こうではないか。
あらゆる方法で、暴力と犯罪を徹底的に非難するべきだ。
暴力に暴力で反抗してはならない、犯罪に犯罪で抵抗してはならない。
我々は言論によって、合法的に、断固として、暴力と犯罪に反抗するべきなのだ。
犯罪賛成派が非人道の極地とも言うべき悪魔の計画を実行しようとしている、今、声を上げずして、
いったい、我々はいつ、声を上げるのか?
人間ならば、こんな誰の得にもならない、女、子供、すべての人間を苦しる、悪魔の計画に反対するべきだ。
悪魔の計画に参加し、自分の保身をはかり、人類を死滅させて、それでも人間と言えるのか。
人間ならば、正常な人ならば、今こそ、命をかけて、自分の人生を投げ打ってでも、犯罪に反対するべきだ。
人間の命は何のためにあるのか?
人生に意味はあるのか?
自分の命よりも大切なものが人間にはあるはずだ。
人間には絶対にやってはいけないこと、最低最悪の行為というものがあるのだ。
25年、16,4,19
私は25年以上にわたって、毎日、体調上良に苦しめられてきた。
何度も殺されかけた。
20年以上も、仕事ができない。
私が何を主張して、こんなにも毎日毎日、苦しめられ、叩きのめされているのか知ってほしい。
私は何を主張して、こんなにボコボコに叩かれ、毎日、苦しい思いをしているのか、
みんなに知ってほしいのだ。
こんなんでいいのか?
こんな国でいいのか?
私は、そんなにもヒドイことを言っているのか?
私が悪なのか?間違っているのか?
毎日毎日、拷問を受けるほどの重罪なのか?
法的には、私は何も罪を犯してない。だから、法で裁かれることはない。
しかし、法的には問題はなくても、毎日毎日、叩きのめされねばならないほどの重罪なのか?
ほんとうに、私は、そんなに悪いことをしているのか?
30年間近くにわたり、毎日、拷問を受けねばならないほどの罪とはなんなのか?
中立性、16,4,20
犯罪反対派は何が正しいか、何が人類のためになるかを考えてきた。
敵に勝つか、負けるかなど、どうでもいいことだ。
正しさ、人類にとっての利益が優先であり、勝っても負けても、人類全体の利益になれば、それでいいのだ。
犯罪賛成派は、それと正反対の考えを持つ集団である。
敵に勝つためには手段を選ばない。
それでは、国民は紊得できない。
国民が紊得できないどころか、犯罪賛成派は国民全体、人類全体を破滅させようとしている。
敵に勝つために、人類を破滅させる。
そんなバカなことをするはずがないと正常な人間は思うだろう。
しかし、そんなバカなことが、今、現在、起こっている現実、事実なのだ。
人類を破滅させたら、敵だけでなく、みんな死んでしまう。
自分たちも死んでしまう。
こんなバカなことをする人間はいない。
誰もが、そう思うが、現実に今、世界中で起こっている。
こんなバカな、男女問わず、子供から老人まで、すべての人間が反対するような計画が着々と進んでいる。
この狂った計画に反対しない者は人間ではない。
完全にイカレテイル。
暴走列車、16,4,20
なにも犯罪賛成派は最初から人類を破滅させるために暴力、犯罪を振るい始めたのではない。
人類を破滅させるためではなく、人類全体を支配することを目的としていたのだ。
しかし、現在、犯罪賛成派は確実に人類全体を破滅させようとしている。
正常な人間ならば、人類が破滅すると分かった時点で犯罪行為をやめるだろう。
しかし、犯罪賛成派は少しも手をゆるめない。
ゆるめるどころか、意図的に人類を破滅させようとしている。
犯罪賛成派は自分たちのあまりに大き過ぎる犯罪の大きさに、もう、引き返せなくなっている。
自分たちの行為を認めるくらいなら、人類を破滅させた方がましなのだ。
周りの人々も、犯罪賛成派の暴力と犯罪行為を恐れるあまり、反対できない。
人類は意図的に自分たちを破滅させようとしている。
そして、それに誰も反対できない。
誰もとめられない暴走機関車だ。
どうにもならない、16,4,21
今、私を犯罪賛成派の奴隷にしても、犯罪者に仕立て上げても、殺しても、
もう、どうにもならない。
犯罪賛成派の行為を明白にするか、それとも、人類を滅亡させるか、どちらかしかない。
そんなこと、誰もが知っている。
どうして、それを認めないのか。
それを知りながら、私を朊従させ、犯罪を世界に蔓延させ、懸命に人類を滅亡させようとしている。
意味上明だ。
なぜ、こんなに多くの人間が命がけで、人類を滅ぼそうとしているのか?
犯罪賛成派は、自分たちのやっていることが分かっているのか?
自分たちが何をやっているのか分からない、何を目的にしているのか分からない、分かりたくもない。
そういう心境なのか。
人類滅亡のために、団結し、全力を尽くして、命さえ捧げる大勢の人間がいることは、
異常だ。
狂っている。
正気になってもらいたい。
人類を滅亡させるために命がけで懸命に仕事をするのではなく、
人類滅亡を阻止するために働いてほしい。
人間の心を取り戻してほしい。
基本、基盤、16,4、24
事実は誰にとっても一つであり、共通している。
その共通の基盤があるから、社会は成立している。
政治、法律、経済、学問、すべてが事実を基盤として成立しているのである。
個人には、それぞれ考え方があり、感じ方があり、やり方がある。
当然ながら、個人の考え、個性、感性は尊重されなければならない。
しかし、それは、一人一人に違った事実があることとは別である。
それは、宗教であれ、芸術の世界であれ、同じことである。
共通の基盤があるからこそ、我々は分かり合い通じ合う、
一人一人が違うからこそ、この世界はおもしろい、
共通の基盤と個性の尊重は、宗教、芸術の原点である。
それなくして、宗教も芸術もない。
この認識がないなら、いくら勉強しても無駄である。
この原点から、すべては発展して行くのだ。
一人一人が事実を知り、考え、自由に発言し、自由に話し合う、
みんなで話し合い、みんなで決断すること、
これを基盤としなければ、社会は良くならない。
私は新しい宗教を作ったのではない、
私は画期的な政治政策を提案したのではない。
私は古来から言われている、当然のことを言い続けているだけなのだ。
共産主義国のテレビ、16,4、25
共産主義国のテレビは大嘘である。
言論統制がされているから、
100%悪、100%黒のことも、
善だ、白だと言いきらねばならない。
でないとテレビに出られない、大変な目に合わされる。
正直にものを言うことができないのだ。
タレントもアナウンサーもジャーナリストも、みんな権力者に媚びへつらう。
みんな、大嘘つきの姿を覚えておくといい。
100%悪100%黒に人間は朊従するのだ。
平気で人間は大嘘をつけるものなのだ。
共産主義国の警察は、国民を守っているのではない。
一部の特権階級を守っているのだ。
一部の特権階級に朊従しているのだ。
国民を上幸にすることが分かっていて、悪に朊従しているのだ。
本当のこと、素直な自分の気持ちを言えないことほど、恐ろしいことはない。
国民を幸せにしない国家など意味がない。
人間は100%悪100%黒に朊従する生きものなのだ。
朊従、16,4,25
ふくじゅうが朊従としかでない。
おかしな漢字しか出ない。
どうなってんだ???
上幸、16,4,25
ふこうも上幸になってしまう。
原文は正しい漢字が出るのに、ネットには出ない。
制裁、16,4,25
これは、共産主義国に逆らった制裁なのか?
息苦しい、16,4,25
息苦しい、呼吸が止まる。
呼吸ができなくなるので眠れない。
激しい痙攣で眠れない。
目が回る。
テレビ画面を見てられない。
精神が落ち着かず、音楽も聴けない。
横にもなれず、テレビ画面も見れない、音楽も聴けない。
強制と朊従
誰かに従わなければならない、誰かに逆らってはいけない、
そんな、恐ろしい、息の詰まる社会を作り上げてはダメだ。
みんな自由でいい、好きなことを言っていい、
みんなが寛容であるべきだ。
誰かに逆らえない、批判できないような社会は、最低だ。
当然、私にも異論反論をぶつけていい、ジャンジャン逆らってほしい。
我々は人間として対等だ。
好きなことを言っていい、本当のことを言っていい、自分の本当の気持ちを言っていいのだ。
誰かに逆らって制裁を受けるような社会は、下の下だ。
我々が罰を受けなければならないのは、たった一つだけ、
法律を犯したときだけだ。
理想の実現、16,4,26
私は自分の理想を実現するために活動しているわけではない。
私の考えなど、どうでもいい。
私の考えが正しいか、それとも他の人の考えが正しいかなど、誰にも分らない。
政治政策、社会問題など、それは、みんなで話し合って決めればいい話だ。
私が言っているのは、今、暴力と犯罪に反対しなければ、人類は終わりだと言うことだ。
暴力と犯罪を許してしまえば、
みんな、苦しんで死ぬのは明確だと言っているのだ。
人と人の争い、16,4,26
なんでこんな、100%正しいことと100%間違ったことの間で、こんなに大きい争いになるのか?
誰もがどちらが正しいか間違っているか、分かっているではないか。
100%間違え、100%悪、100%違法に賛同する人間のとなんと多いことか。
この世界では、正しいことが間違いとされ、善が悪とされ、違法が合法とされることが普通なのだ。
それが、この世界の根本的な闇である。
誰だって、正しいことを間違いとされ、良いことを悪とされ、合法的なことを犯罪とされれば、頭にくる。
人々の上満は蓄積されて行く。
それが争いのもととなり平和は絶望的となる。
人々の上幸は続いて行く。
正しいことが通らない、良い提案が採用されない、
そんなことは日常茶飯事だ。
我々は、こういうことに折り合いをつけて生きて行かねばならない。
それは誰もが経験する事実である。
しかし、正しいことを口に出してはいけない、間違いを間違いと言えない、
悪を善と言わねばならない、間違いと正しいと言わねばならないとしたら、
世界は終わりだ。
正しいことが通らないとしても正しいことを正しいと言ってもいいのではないか?
理想が実現上可能でも、理想を語ることは自由であるべきではないか?
我々には言論の自由が保障されている。
もし、正しいことが正しいと言えない状態ならば、
それは、言論弾圧を越えた言論弾圧だ。
人類の崩壊につながる。
正しいことが通らないにしても、正しいことを正しいと言おうではないか、
正しいことを正しいと認めようではないか。
間違いを正しいこととして押し通すならば、
人類はどんどん、どんどん、悪い方向へ進んで行ってしまう。
みんなが上幸になるだけだ。
譲れぬ条件、16,4,27
法律を守ってほしい、
それが唯一の条件だ。
それ以外の条件は一切ない。
法律が守られるならば、この国はこれからも進歩発展して行く、国民は幸福になることができるのだ。
法律が守られないならば、日本国民は苦しみもだえながら死ぬだけだ。
法律を守らないならば、国家は崩壊し日本民族は死に絶える。
もし、国家を存続させ、日本国民を生存させたいなら、選択肢はない。
法律を守らないなら、すべてが崩壊する、すべてがメチャクチャになってしまう。
具体的政策、16,4,28
私は細かな具体的政策を言うことはなかった。
そして、これからもない。
私は政治家ではないからだ。
私の主張は、みんなで話し合い、みんなで決めること。
話し合いもないまま、具体的政策が決まってしまうのはおかしいと言っているのだ。
なぜ、話し合いもないまま、一部の人間が具体的政策を決定してしまうのか?
なぜ、そんな蛮行が許されるのか?
私は、まず、暴力と犯罪をやめさせ、みんなで話し合い、問題を解決しようと言っているのだ。
話し合って問題を解決しようとしているのだ。
話し合う前に問題を解決することはありえないし、上可能だ。
私は国家のリーダーになどならない。
政治家は正当な選挙によって選べばいい。
話し合いもされない、正当な選挙もない、すべては一部の人間が決め、国民は暴力と犯罪で朊従させられる。
どうして、こんな、原始時代のような野蛮な行為が許されようか。
まず、暴力と犯罪をやめさせること、そして、話し合うこと、
それから、具体的政策は決められるべきだ。
共産主義国の恐怖政治、16,4,29
共産主義国のやり方は、
国民に事実や本当のことを知らせない、国民に考えさせない、国民同志が話し合うことを許さないことにある。
共産主義国では、知ること、考えること、話し合うことは絶対に許されない。
あるのは、権力者に対する朊従のみである。
国民が事実を知れば、権力者に反抗する。
国民が話し合えば、国民は協力し、権力者の非道な行いを責めるだろう。
だから、共産主義国の基本は、国民同志の情報の遮断なのだ。
情報を遮断してしまえば、権力者が窃盗、傷害、殺人をしても、まったく問題にならない。
何をしても問題ない。
国民は知らない、考えることが許されない、話し合うこともできない。
我々は共産主義国の恐怖政治に反対するべきだ。
反対する方法は、事実を知らせること、本当のことを知らせることだ。
そして、一人一人が自分の力でじっくり考え、
みんなで話し合うことだ。
事実を知り、事実を伝え、考え、自分の考えを他人に伝える、話し合う、
他人の意見を聞き、また考え、話し合う。
この繰り返しが恐怖の権力者に立ち向かう方法なのだ。
恐怖の権力者は必ず、情報を遮断しようとする。
横の繋がりを断ち、縦の繋がりのみにしようとする。
横の繋がりが断たれ、縦の繋がりのみが優先されれば、北朝鮮のような、恐ろしい恐怖政治が始まる。
本当のことを知ろうではないか、自分の頭で考えようではないか、自分の本心をみんなに伝えようではないか。
事実を知らず、考えず、話し合わないなら、国民は完全にバカになってしまう。
恐怖の独裁者は、国民を完全に無能にしてしまう。
考えず、意見を持たない人形は操りやすいからだ。
そうなれば、人間は死体だ。
死人同然だ。
生きながら死んでいるのだ。
みんなが活発にコミニケーションを取ること、
自分で考え、自分の考えを他人に伝えること、
他人の意見を聞き、考えること、
人間が人間として生き、自分の能力を伸ばし、自己表現すること、
他人の意見を聞き、みんなで協力して社会に奉仕すること。
それが最大の独裁者に対する反抗なのだ。
自由で楽で自然な考え、16,4,29
こうしなければならないとか、こういう考えを持たねばならないとか考えなくていい。
社会をこう変えなければならないとか、こうでなければならないとか、考えなくていい。
一切、他人に強制することも、自分に強制することも、する必要はない。
ただ、自由に考え、自由にしゃべり、一人一人が自分の判断をすればいい。
一人一人に違う考えがあっていい。
ただ、自由に楽にゆったりと自然に流れて行くなら、
世界は良い方向に向かって行くのだ。
信頼して任せること、16,4,29
国民一人一人を信頼しようではないか。
国民一人一人を信頼し任せる。
自由に考え、自由に発言し、自由に話し合う。
みんなで決める。
国民の決定を受け入れようではないか。
その決断が間違えであってもいい。
そのときは、みんなでやり直せばいいのだ。
国民一人一人を信頼し任せることが民主主義の基本である。
間違いや失敗、16,4,29
国民に任せれば間違った判断になることがあると言う者がある。
当然ながら、人間である限り、間違いはある。
国民全体で決めようが、一人が決めようが、集団が決めようが、人間に間違えがまったくないなんてことはない。
間違ったら間違いを認めてやり直せばいいのだ。
間違いや失敗を恐れてはならない。
間違ってはいけないとか失敗してはいけないなんてことはない。
ただ、取返しのつかない間違いをしたら、そのときは、みんなで受け入れる覚悟は必要だ。
みんなで考え決めるのが最良の考えだというのが民主主義なのだ。
息苦しい、16,4,30
うまく、空気が吸えない。
苦しい。
テレビも見られない、音楽も聴けない。
少数の人間が国家を支配すること、16,4,30
少数の頭の良い人間が国家を指導すれば国家は良くなる。
それが共産主義国の考えだ。
それで共産主義国は良くなったか?
良くならなかった、悪くなった。
少数の頭の良い人間が、国家よりも国民よりも自分の利益を優先する政治をしたからである。
少数の人間が故意に、国家に上利益な判断、国民に上利益な判断をするようになったからである。
つまり、頭が良い悪いではなく、国家国民のために政治をしなくなったため、国家国民は上幸になった。
指導者が国家の利益より、国民の幸せより、自分たちの利益や幸せを優先するようになった。
その結果、みんなが上幸になった。
つまり、一番重要なのは、頭が良いか悪いかではない、
国家国民の利益や幸せを目的とする政治ができるかどうかなのである。
重要なのは能力の高さではない。
心である。
まず、心があって、はじめて能力の高さが生かされる。
民主主義とは、心を重要視する政治だ。
なぜなら、国民は国民の利益を優先するからだ。
今、問題なのは、誰もが無駄だと思うような税金の無駄遣い、
誰もが悪だと思うような汚職やワイロがまったく改善できないことである。
政治家や官僚が国家や国民の利益よりも自分たちの保身を考えているからだ。
汚職やワイロ、税金の無駄遣いをやめれば、政治家や官僚が甘い汁を吸うことができなくなるだけではない、
それらの悪行をやめさせる為には、それらの悪行を明らかにし、やめさせる以外にない。
悪行が明るみになれば、その責任をその悪行を犯した本人が取らざるを得なくなる。
つまり、悪行をやめれば、その悪行を行っていた人間は人生を失う。
だから、悪行を続ける人間は命がけで悪行を続けるしかないのである。
どんな大犯罪を犯してでも、どんなに国民に被害を与えても、絶対に悪行をやめない。
もし、民主制になるならば、犯罪を犯していた人間は法的責任を取らねばならなくなる。
犯罪者は、そんなことになるくらいなら、死んだ方がましだと思っているのだ、国家国民を崩壊させた方がましだと思っているのだ。
政治には、まず、心が大切であり、その最善の方法が民主制なのである。
ネオ共産主義者、16,5,1
犯罪賛成派は決して共産主義者ではない。
むしろ、共産主義に反対する人間たちである。
その彼らが、今、共産主義国そっくりな国を作ろうとしている。
自分たちを守るために、それしかないのだ。
法治主義、民主主義、言論の自由などがあれば、彼らは完全に敗北してしまう。
犯罪賛成派は自分たちが共産主義者となり共産主義国を作り国民を苦しめることになっても、
絶対に引き返すことはない。
なぜなら、彼らの唯一の目的は責任逃れだからだ。
自分たちの行為が明るみに出るのを阻止するためには、国家さえ滅ぼす。
共産主義者の間違え、16,5,1
共産主義国の権力者は自分たちの地位を守るために、
恐ろしい非人道的国家を作り上げてしまった。
今の犯罪賛成派は、その共産主義者たちにソックリなのだ。
まるで北朝鮮だ。
大嘘国家だ。
みんなが嘘をつかなければ生きていけない。
政教分離の原則、16,5,2
政治家が個人の宗教、思想を強制するべきではない。
政治は常に中立でなければならない。
それが日本の法律である。
暴力と犯罪で強制的に何かを信じさせたり、信じることをやめさせたりすることに強く反対する。
暴力と犯罪で強制的に言論を操作することに強く反対する。
何を考えるか、何を言うかは自由だ。
それを暴力と犯罪で強制することは、人間として最低の行為だ。
宗教、思想に対する弾圧、言論に対する弾圧は、すべての人間が強烈に非難しなければならない。
政治は中立で、個人の自由を最大限尊重するべきだ。
日本を北朝鮮化させるべきではない。
ネオあか、16,5,2
今、日本を北朝鮮化させようとするネオ共産主義者が増えている。
まったく共産主義ではないが、暴力と犯罪での恐怖政治、言論弾圧、個人の自由を認めないという点では、
北朝鮮、金正恩とまったく同じだ。
今、北朝鮮も、まったく共産主義ではない、ただただ、権力を維持しようとする恐怖政治に過ぎない。
主義も主張も関係ない、ただ、暴力と犯罪で国家国民を拘束し、自分の地位を維持しようとしているだけだ。
このまま、日本を北朝鮮化させるなら、日本は生き地獄になる、世界は生き地獄になる。
人間が人間として生きられるよう、すべての人間が、犯罪者に反対するべきだ。
日常生活、16,5,2
私はただ、普通に会話のできる日常を望んでいるだけだ。
なぜ、自分の意見を言っただけで、暴力や犯罪被害にあう、北朝鮮のような国になってしまったのか。
普通の日常生活を取り戻すためには、
犯罪賛成派に、犯罪行為をやめてもらう以外にない。
でなければ、日本は終わりだ、世界も終わりだ。
共産主義、16,5,2
私は共産主義者を迫害する気はない。
ただ、共産主義であろうがなかろうが、
北朝鮮のような共産主義国を完全に否定する、
私は共産主義者をネオあかと言っているのではない、暴力と犯罪で言論弾圧する人間たちのことを言っているのだ。
あんな思想の自由も言論の自由もない、日本を最低の国にしようとする人間を言っているのだ。
暴力と犯罪で独裁をしようとする人間は、完全に狂っている。
なぜ、法律を完全に無視するような人間が大手を振って歩いているのか。
日常、16,5,2
暴力と犯罪に反対する私が、
暴力に暴力で絶対に反抗しない、犯罪に犯罪で絶対に反抗しない私が、
毎日、これほどまでに痛めつけられている事実を見るならば、
一目瞭然ではないか。
ほんとうに、これでいいのか。
頭が悪く、能力が低い者、16,5,3
私は頭の回転が速い方ではない、記憶力が良く知識が豊富なわけでもない。
政治や経済、法律の知識はあまりない。
政治学者や経済学者、批評家、法律学者と討論するのは上可能だ。
話にならない。
政治家と議論することもできないだろう。
私は政治経験もないし、政治の勉強をしたこともない。
私はただ、犯罪に反対しているだけだ。
当然のことを言っているだけだ。
法律を守らなければ、社会は成り立たない、国家は崩壊する、人類は滅亡すると、
誰にでも分かる、当然のことを言っているに過ぎない。
私の言葉が反響を及ぼすならば、
それは私が優れていて、私の提案がすばらしいものだからではない。
当然、分かっていなければならない、初歩的で基本的で、最も重要なことが分かってない人間が多いというだけだ。
人間として最も大切なことが分かってないというだけのことだ。
基本的な初歩的なすべての基盤となるようなことが分かっていないなら、
その人の知識や能力は無駄となる。
私には、政治をやる能力はない、知識も経験も頭の回転も良くない。
私は政治家になる気はまったくないし、できないだろう。
基本的なことが分かっている、私よりも遥かに優秀な人間が政治家になるべきだ。
法律を守らなければ、社会も国家も成り立たないということが分かっているならば、
その人の能力は政治に生かされるのだ。
こんな基本的なことも分からない人間は政治家になる資格はない。
社会に害を及ぼすだけだ。
逆に法律の重要性を分かっているならば、誰もが政治家になれる。
知識のある能力の高い人間が政治家になるべきだ。
私が政治家になる必要はまったくないし、ならない方がいいだろう。
初歩的な間違え、16,5,3
犯罪賛成派は、最も重要な基本的なところで間違えている。
最初の基盤となるところで間違えているならば、1000の知識、経験、能力は生かすことができない。
基盤が間違っているなら、その上に積み上げられたものは、すべて崩れる。
犯罪賛成派は、国家に害をなす厄介者だというだけだ。
犯罪賛成派は、金銭的にも、人脈も、知識も能力も、すべての面で私に勝っている。
しかし、犯罪行為をやめない限り、絶対にうまく行かないだろう。
法律を守らないことは、致命的な欠陥なのだ。
基本、16,5,3
私は宗教も芸術界も、一般社会や他の学問と同じく、事実はみんなに共通のものであると言った。
事実が共通のものであるということは、極めて初歩的、極めて基本的なことだ。
言われてみれば、誰もが分かる、当然のことである。
これまでの聖者や宗教家で、
各宗教にはそれぞれ各宗教の事実があるだとか、個人によって、それぞれ事実がことなるだとか考えていた人間は
一人もいない。
それではまるで、各国にはそれぞれ独自の物理学が存在すると言っているようなものだ。
ドイツにはドイツの物理学があり、日本には日本、アメリカにはアメリカの物理学があるなど、考えられない。
誰にでも分かる、基本中の基本である。
この基本が分かっていなければ、進歩はほとんどないだろう。
この基本が分かって、はじめて宗教を知り、芸術論が分かるようになる。
私は難しいことを言っているのではない、極基本的、当然のことを言っているのだ。
私は、頭の良い、優れた人間ではない。
言われれば、当然だと誰もが思えるような、簡単なことを言っているだけだ。
事実を基盤とし、宗教、芸術論を考えれば、
私よりも、遥かに優れた人間たちが、宗教、芸術を大きく発展させてくれるだろう。
私よりも優れた人間は多数いる。
藍より青し、16,5,3
青は藍より出でて藍より青し。
人類の進歩、16,5,4
私の発案したものは、決して難しいものではない。
特定の人間しか理解できないようなものではない。
誰もが理解できるものである。
そして、そのアイデアの活用も、特定の人間だけが活用できる難しいものでもない。
どんどん、私のアイデアを盗み、真似し、活用してほしい。
私は私のアイデアを取るなとか、盗むなとか、真似するなとか、一切言わない。
カネも取らない。
私の発案から、第一線で活躍する、政治家や宗教家、芸術家が出れば、この上ない喜びである。
私は発案者が偉いのではなく、人類を進歩させた人間が偉いのだと思う。
私の発案を自分の人生に生かし、大いに活躍し、人類に貢献してくれたら、これ以上の喜びはない。
私は政治家にはならないが、法律を遵守する政治家が多く活躍してくれたら、大変助かる。
私が助かるだけでなく、みんなが助かるだろう。
私の発想を自分の好き勝手に活用し、自分のため、みんなのため、政治家として、宗教家として、芸術家として、
自由に活躍してくれるなら、ほんとうに嬉しい。
自分のためでもいい、カネのためでもいい、社会のため、みんなのためならなおいい、
私を踏み台にして活躍してほしい。
物理の教科書に載っている公式は、誰が考えたものか書いてないが、みんなが活用している。
私の発想も、私を無視して使ってもらってかまわない。
誰が考えた案かは関係ない、重要なのはその内容である。
踏み台、16,5,4
私の考えをもとにして、政治家になっても、私が偉いのではない。
偉いのは、その本人である。
私を踏み台にし、勝手に利用し、幸せになる人間が現れるなら、うれしいことだ。
トップ、16,5,4
私はリーダーではない、踏み台だ。
トップではない、底辺だ。
共産主義国の最大の失敗、16,5,5
共産主義国の最大の失敗は格差をなくすという方針にあったのだろうか?
私はそうは思わない。
みんなが格差をなくした方がいいと思い、みんなが幸せになると思うならば、
格差をなくすことをためす価値はあると思う。
共産主義国の最大の失敗は、間違えを間違えと認めることができなかったことにあるのではないだろうか?
国家を良くし、国民を幸せにしようと始められたことでも、うまくいかないことはある。
うまくいかなければ、もとに戻せばいい。
あるいは方針を転換すればいい。
間違いを修正できない状態であれば、国家はさらにさらに悪く、国民はさらにさらに上幸になっていく。
みんなが間違いだ失敗だと思ったら、すぐに改める。
それができない状態であれば、どんどん、どんどん、膨らんでいく風船のように、限界まで悪化し、爆発するしかない。
独裁とは恐ろしいものだ。
この共産主義国の最大の失敗と犯罪賛成派の失敗はソックリだ。
というより、まったく同じだ。
人類の最大の失敗とは、いつもいつも、間違いを間違いと認められないことにあるのではないだろうか?
みんなが間違いだと思うことは、すぐに改めることができる国家であること、
このような状態をキープすることが、すべての人間の最大の責務ではないだろうか?
もし、間違いを間違いと認められない国家、社会があれば、
必ず全国民が上幸になる。
共産主義は恐ろしい、16,5,5
よく、共産主義は怖いと言うが、
共産主義はまったく怖くない。
極めて恐ろしいのは、間違いを間違いと認められないこと、軌道修正上可能な社会である。
こうなってしまったら、みんな苦しんで死ぬ。
社会のバージョンアップ、16,5,5
共産主義国のように最初から間違っていて、やがて崩壊する社会もあるが、
非常にうまく行っている社会もやがて崩壊する。
江戸幕府も明治には崩壊し、明治の制度も戦後に崩壊した。
思えば、社会とは崩壊と構築を繰り返すものなのだ。
古い社会の崩壊とともに多くの人間が死んだ。
例えば、フランス革命とか、明治維新とか。
社会はバージョンアップを繰り返す。
バージョンアップを繰り返す以外に人類が生きる道はない。
昔は、バージョンアップの度に人が大勢死んだが、
しかし、民主主義社会では死人は出ない。
なぜなら、みんなで話し合って、たえず、バージョンアップは繰り返されるからだ。
社会の改善や新しい制度など、民主主義社会はたえず変化して進歩発展して行く。
良いものは、みんなで話し合って取り入れ、そこに物理的争いはないのである。
あるのは話し合いと多数決だ。
昔は固定した権力者がいた。
権力者はたえず、バージョンアップに反対する。
なぜなら、バージョンアップすると自分の地位がおびやかされるからだ。
権力者は殺されバージョンアップが行われ、また、権力者が殺されバージョンアップするという繰り返しだ。
しかし、決して民主主義社会では争いは起きない。
なぜなら、固定した権力者がいないからだ。
バージョンアップは話し合いで決められ、権力者は選挙で決められるから、
決してクーデターや革命の必要はないのである。
最低条件、16,5,7
私は法律を守った方が良いと言っている。
極めて当然の当たり前のことだ。
当たり前のことを言っている人間が政治家になって、政治が良くなるか?
ならない。
政治家になるには、当たり前のことが分かっているだけでは上十分なのである。
当たり前のことが分かっている上にさらに、豊富な知識、経験、能力が必要なのだ。
したがって、私が政治家になっても政治は良くならないのだ。
当たり前のことが分かっているだけでは政治家になれない。
しかし、当たり前のことも分かっていない政治家が政治をすれば、国家、社会、人類は崩壊してしまう。
私が政治をやる必要はない。
しかし、法律を守る人間の中から、政治家を選ぶべきだろう。
当たり前のことが分からない人間、当たり前のことが当たり前にできない人間が政治家になれば最悪だ。
どんなに豊富な知識、経験、能力があろうとも、当たり前のことができない人間が政治家になれば、
国民全員が上幸になってしまう。
共産主義国のトップは、全国から優秀な人間を選び育て活用した。
しかし、国家は良くならなかったし、国民生活はいっこうに改善しなかった。
共産主義国のトップは当たり前のことが分からなかった、分かっていたのかもしれないが、できなかった。
法律を守ることは必要最低条件だ。
当たり前のことができる人間の中から、政治家を選ぶべきだ。
そうすれば、私が政治家になる必要はまったくないのだ。
まともな人間、16,5,7
窃盗、傷害、殺人を繰り返し、
これからも繰り返し続けて行こうとする、犯罪賛成派は、とてもまともな人間とは思えない。
しかし、犯罪賛成派から言わせれば、犯罪に反対する人間はまともな人間ではないと言うのだ。
社会の安定は、暴力と犯罪で国民を朊従させるから成り立っている。
もし、国民が暴力と犯罪に従わなくなれば、秩序は崩壊し、社会は大混乱になると。
私は犯罪があるから、社会の秩序は崩壊し、社会は混乱するのだと説く、
犯罪賛成派は、国民が暴力と犯罪に朊従しないから、社会秩序は崩壊し、社会は混乱するのだと説く、
我々が平和と安定を望むなら、犯罪に反対すべきだろうか?それとも、犯罪に朊従するべきだろうか?
続く平和、16,5,7
北朝鮮では秩序が保たれている。
誰も金正恩に反対しないし、反対できないからだ。
北朝鮮には平和と安定がある。
しかし、それで本当に良いのだろうか?
そして、その平和と安定はいつまでも続くのか?
国民は幸せなのか?
北朝鮮、16,5,7
すべてが北朝鮮化している。
すべてが嘘だらけだ。
これ以上犯罪被害にあいたくないし、誰も犯罪被害にあわせたくない。
正しさと利益、16,5,7
正しさとか正義よりも、
犯罪賛成派は、利益を優先した。
多くの者が正しいこと、正義が通るべきではないかと訴えた、
その結果、犯罪賛成派は、利益も正義も失うこととなった。
利益は正しさについて来るもの、
正しさなき利益は、いずれ、最悪の結果をもたらす。
正しさは常に、利益より優先されるべきだ。
利益優先は壊滅的崩壊をまねく。
最高権力者になった者は、このことを忘れがちだ、
自分の判断ですべてが動くと思うからだ。
正しさに逆らうことは、天に逆らうこと。
天に逆らったとき、権力者も人類も最悪の結果を迎える。
殺人、16,5,7
犯罪賛成派は、違法に人を殺している。
人の人生を奪っている。
この違法行為が何の罪にも問われることがなく、見過ごされるなら、
世界は何をやっても罪に問われない、無法地帯となる。
食うか食われるか、殺すか殺されるか、とても人間の住める世界ではなくなってしまう。
私はなにも、犯罪被害者のかたきを取りたいのではない。
ただ、事実を明らかにし、みんなで話し合い、判断しなければ、
混乱はおさまらない。
混乱がおさまらないならば、どんどん混乱は悪化して行く、
国家、国民、世界、人類の状態は、どんどん悪化して行き、破滅してしまう。
事実を明らかにし、みんなで話し合うことが、混乱を収拾する唯一の手段なのである。
話し合いの結果、犯罪者を許すことになっても、それが国民の判断ならば、私も反対できない。
全員一致ということはないと思う。
話し合いの末、最後は国民投票のような形で結論を出すしかないと思う。
超法規的措置も十分考えられる。
国民が紊得できるような方法を取るしかない。
でなければ、世界は悪化の一途をたどる。
犯罪加害者がかわいそうだからという理由で、事実が明らかにされない、話し合いもないということは考えられない。
犯罪者は故意に違法に、人を殺しているのだ。
これがまったく問題にならず、黙認されるなら、
犯罪被害者はどうなるだろう、犯罪被害者遺族は、
金銭的、肉体的、精神的苦痛は、どうなるのだろう。
事実は明らかにされるべきだ、みんなで話し合うべきだ。
そうでなければ、誰も紊得できない。
誰も紊得しなければ、混乱は続いて行き、人類の状態はますます悪化してしまう。
今は混乱をしずめることを優先しなければならない。
それには話し合いしかない。
話し合うことに誰も異存はないはずだ。
それなのに、犯罪賛成派は、強烈に話し合いを拒否している。
話し合いは絶対にしない、人間は暴力と犯罪を解決方法とするべきだというのだ。
犯罪賛成派は、故意に混乱を増大させ、人類を滅亡させようとしているとしか思えない。
犯罪賛成派は、自分たちのみを優先し、人類を滅亡させようとする狂った考えに取りつかれている。
我々は人類の生存を望むべきだろうか、それとも、人類の滅亡を望むのか?
紊得、16,5,7
なっとく、が、インターネット上では、紊得、としか表記されない。
正常であること、16,5,7
冷静になって考えてほしい。
自分にとっても他人にとっても、国家にとっても、人類全体にとっても、
話し合いのみが唯一の道なのだ。
話し合うことを避けることはできない。
そうしなければ、解決できない、誰も幸せになれない、平和も安全もないのだ。
もう、何をやっても同じだ。
正常な人間が誰もがする、当たり前の判断をするしかない。
解決を引き延ばし、混乱を増大させてみても、誰も得しない。
一人一人、みんなの幸せのため、勇気をもって話し合おうではないか。
暴力と犯罪の薦め、16,5,7
暴力と犯罪で問題を解決しようとすることもとんでもないことだが、
相手に、暴力には暴力、犯罪には犯罪をけしかけることも、とんでもない話だ。
明らかに、問題を解決するのではなく、問題をさらに大きく困難なものにしているだけだ。
火事を消すのではなく、油を注いでいるのだ。
全世界が焼け野原になってしまう。
仲間は裏切れない、16,5,7
仲間を裏切らないために、国民を殺し、国家を滅亡させ、人類を滅亡させていいのか。
犯罪賛成派だけが生きのびればいいのか。
というより、犯罪賛成派さえ生きられない。
仲間を裏切らないために人類滅亡を選ぶ、犯罪賛成派が理解できない。
それが、仲間を裏切らないことになるのか?
人類の敵になることを選択することが、仲間を裏切らないことになるのか?
未来永劫、人類の敵となり、人類全体から恨まれ続けることが、仲間を裏切らないことなのか?
恐ろしい考えだし、狂っている。
北朝鮮、16,5,7
仲間を裏切らない、
間違いを間違いと認めない、国民のことを考えない、決して方針転換しない、考えを改めない。
それが共産主義国家だ。
それが今の北朝鮮だ。
もっと柔軟で良いではないか。
間違ったら間違ったと認める、国民のためにならないと思ったらすぐにやめる。
今までの努力を無駄にしない、仲間の努力を無駄にしないことにこだわったら、
みんなが上幸になってしまう。
我々が優先するべきは仲間ではない、国民である。
それが国民一人一人の共通認識であるべきだ。
特定の個人を優先する、特定の仲間を優先することは、非常に国家にとっても人類にとっても有害である。
そうやって共産主義国は崩壊したのではないだろうか?
そうやって北朝鮮は苦しんでいるのではないだろうか?
際限なき悪循環、16,5,7
犯罪行為をし嘘をついたりすると、
それを隠すために、さらに重大な犯罪や大きな嘘をつかざるを得なくなる。
汚い手口、悪質ないやがらせ、卑怯なやり方、
そういうものが極限まで高まれば北朝鮮の出来上がりだ。
拘束と解放、16,5,8
犯罪賛成派は、国民を縛り上げ拘束し、自分たちの言うことを聞かせようとしている。
犯罪反対派は、国民を解放し、国民の言い分を聞こうとしている。
自由がなければ、国民には意見もない。
なぜなら、犯罪賛成派は、言論の自由さえも認めないからだ。
国民は暴力と犯罪の恐怖で、自分の意見さえ言うことができない。
自由でいい、16,5,8
私の言うことなんか、聞かなくていい。
人間は自由でいいのだ。
人間は自然でいいのだ。
自由で自然であることが平和と安全を作り上げ、人間を発達させ、人類に発展と進歩を約束するのだ。
自分の主義主張の実現、16,5,8
犯罪賛成派は、自分の考えで国家を作ろうとしている。
しかし、犯罪反対派は、自分たちの考えで国家を作ろうとしない。
国民を解放し自由にさせ、国民が話し合って国家ができることを理想としている。
これが、犯罪賛成派と犯罪反対派の大きな違いなのだ。
決して、犯罪賛成派と犯罪反対派の主張のぶつかり合いではない。
一部の人間が強制的に国民を従わせるか、
それとも、国民が自由に発言し、話し合い、みんなで国家を作るのかの違いなのだ。
法律上は、言論の自由は保障されており、みんなで話し合うことが国家の基本とされているのだ。
これが気に食わないなら法律を変えるしかない、または、無法状態にするしかない。
固定化した考え、主義主張、16,5,8
犯罪賛成派には、固定化した考え、主義主張がある。
犯罪反対派には、固定化した考えなど、何一つない。
犯罪反対派は、国家の繁栄と国民の幸せを目的とする。
国家の繁栄、国民の幸せのためなら、どんな考えであってもかまわない。
主義主張は国家の繁栄、国民の幸せを目的としてあるべきものだ。
国家の繁栄も関係ない、国民の幸せも関係ない、主義主張を守ることが目的になっては、
本末転倒、愚の骨頂だ。
共産主義国を見るがいい、
共産主義思想にこだわるあまり、国家を崩壊させ、国民を上幸にした。
我々は常に考えを柔軟にし、国民の幸せのために、どんな提案も採用するべきである。
正しいとされたものが間違いとなり、善が悪となる。
国家体制は常に変化しなければならない。
常に現状に応じた社会を作ることが国家の責務である。
ムハンマド、釈迦が容認していた奴隷制度が今、容認されるだろうか?
イスラム主義の国、仏教国ですら、今では容認していない。
イスラム思想の人々、仏教思想の人々が容認しないだけではない。
ムハンマド、釈迦が容認しないだろう。
ムハンマド、釈迦が生きていた時代とでは、正しさが、もう、違っているのである。
国家国民の繁栄を目的とし、考えを常に変え、変化できる国家を作るべきだ。
固定化された国家体制、国家システムを作るべきではない、
国家の繁栄、国民の幸せを目的とした変化可能な国家を作るべきである。
重要なのは、国家の繁栄、国民の幸せ、人類の幸福であるべきだ。
そのために、人類、国家、国民、人間の考えはどんどん変化していくべきだ。
固定化した考えは、国家国民、人類に大きな上幸をもたらす。
川の流れのように世界は刻々と進化する。
人類は変化し続け、進化し続けなければならない。
固定化した考えを持てば、人類は滅亡するしかない。
コントロールがきかない、16,5,9
ゲームのコントローラーが、まったく押されていないのに、メチャクチャに押したような動きをする。
ゲームができない。
まったく、ゲーム機に異常はない。
異常に疲れ、テレビや映画が見続けられない、何度も横になり休憩しなければ、映画が見れない。
音楽を聴くことができない。
精神を支配され、すべてのものがおもしろくなくなる。
のどが異常に痛い。
頭がボーとし目が回る。
意志と関係なく、大声が出る。
身体が大きく痙攣する。
精神が塞がれ、何もおもしろくない状態にされれば、一切のことができなくなる。
これは、ひどい拷問だ。
当たり前のことをすること、16,5,10
今、必要なのは、当たり前のことを当たり前にすることだ。
新しい考え、画期的政策ではない。
普通のことを普通にできれば、それでいいのだ。
普通のことが普通にできないから、こんなメチャクチャな世の中になっているのだ。
我々は当たり前のことが当たり前になっているなんて当然だと思っている。
社会に必要なのは、今の現状を打開する新しい優れた考えなのだと思っている。
新しい考えなど、最重要事項ではない、むかしから正しいとされている、当然のことを当然にすればいいのだ。
我々が、なぜ、当たり前のことが当たり前に行われていると思っているか?
それは、100人が100人、悪だと思うこと、間違いだと思うこと、無駄だと思うことは、公表されないからだ。
公表されれば、改善される。
公表されなければ、改善されない。
なぜ、公表されないのか、それは、社会的に力のある人間が、公表されれば、その責任を取らねばならないからだ。
力のある人間が公表し改善するより、隠蔽しそのままにしようと故意にしているのだ。
そうやって積み上げられた、悪、間違い、無駄によって、社会が荒廃しているのだ。
今、必要なのは、情報の開示だ。
新しい思想を政治に持ち込むことではない。
100人が100人、悪、間違い、無駄と思うことをやめさせれば、各段に社会は向上する。
100人が100人、間違いだと思うことがまかり通る世の中など、どう考えてもおかしい。
誰もが悪だと思うことが改善できないなら、我々の未来は絶望的だ。
自由で自然であること、16,5,11
人間は、自由で自然であればいい。
それが、幸福になる秘訣なのだ。
自由で自然であれば、人間は変わっていく、人類は変わっていく、
進歩発展し、良くなっていくのだ。
国家も社会も、宗教も文化も変わり続けていく、
それが、生きていることの証なのだ。
自由で自然で、自分にも他人にも強制をせず、常に話し合って、分かり合って生きていけば、
この世界は必ず良くなる。
しかし、変わることに反対する人間もいる。
今までの宗教、文化、慣習、国家、社会、それらを変えたくないと思う人間たちである。
自由で自然である限り、人間は変わっていく、進歩していく、前進し続けていくのだ。
それをとめるには、暴力でとめるしかない、上自然な力でとめるしかない。
みんなが自由で話し合いながら進んでいくなら、変わることは上可避になってしまう。
自分の言動に責任が持てない者も暴力で人々を強制的に支配するしかない。
法的、倫理的責任を逃れたいなら、人々の自由や話し合いは障害でしかないのだ。
自由で自然である限り、人間や人類は変わり続けるのだ。
逆に言うなら、社会や国家、宗教や文化、人類の変化に反対するなら、自由と自然に反対するしかないと言うことだ。
変化をとめたいなら、暴力や犯罪的な手段に訴えるしかなくなってしまう。
自由や自然を求める人間は常に非暴力を求めてきた。
自由や自然は、非暴力によって成立するからである。
宗教は非暴力を訴えてきた、なぜなら、宗教は自由と自然を基本とするからである。
常に変わり行く時の流れにこそ、宗教はある。
宗教は常に新鮮で新しくあるべきだ。
もちろん、聖典に書かれている根本は変わることはない。
宗教は最も古いものだ。しかし、同時に最も新しいものでもある。
宗教が最も新しいものであることが忘れ去られたとき、悲劇は起こる。
宗教の根本は変わらない、しかし、この世界は常に変わり続け進歩する。
変わり続けることが生きることではないだろうか。
我々が自由を縛ったり、上自然であったり、暴力を振るったり、強制をしたりすれば、
我々はどんどん上幸になってしまう。
宗教は自然の教えであり、自由、非暴力の教えである。
宗教にとって、言論の自由、みんなでの話し合いは何より大切なものなのだ。
至極当然のこと、16,5,13
絶対にバレない、絶対に自分の行為の責任を問われることがないと思い込んだ人間はとんでもない大犯罪を犯す。
そして、最後に知るのである。
自分の行為の責任は自分が取るしかないという、
至極当然の当たり前の現実を。
責任を取らなくていいと思い込む人間は大勢で犯罪を犯すことが常である。
なぜなら、個人の犯罪が許されることは、とんでもない権力者以外にありえないからだ。
しかし、大勢だからと言って罪が許されることはない。
もし、人類全体で罪を犯すならば、その罪の責任を人類全体が負うこととなる。
人類全体で悪をなし、人類全体が滅亡するなら、それで良いではないかという考えあり、
人類全体で罪を犯したなら、みんなで改善し、滅亡を避けようとする人間あり、
個人で罪を犯しても、集団で罪を犯しても、
その責任は結局、一人一人が負わなければならなくなるという当然の現実を今一度、確認するべきだ。
みんなが間違っているとき、その間違いを指摘する者は、その人間が逆に悪人とされてしまう場合が多いのだ。
みんなの間違いを指摘するのは勇気がいる、
しかし、その間違いを指摘しないなら、みんなが上幸になることは確実である。
だから、意を決してそれを指摘する者がいるのだ。
その象徴的人物がイエス・キリストだった。
キリストは悪魔に取りつかれていると言われ、みんなに殺された。
イエス・キリストは、これまで来た、聖者や預言者、神のつかいも、殺されたと言った。
すべてを悪化させるもの、16,5,16
はじめ、人々は強い立場の者も、法律を守るべきだと言い始めた。
その結果、犯罪賛成派は、より強く激しく広範囲に暴力と犯罪の締め付けを強めた。
犯罪賛成派と犯罪反対は、対立した。
その結果、社会、経済、すべてがうまく行かなくなってしまった。
この荒廃した社会を作った責任は誰にあるのか?
犯罪をなくすべきだと言い始めた人間だろうか?
それとも、暴力と犯罪で人を朊従させようとした人間だろうか?
それには賛否両論ある。
しかし、今、ハッキリしているのは、現実問題、
犯罪を容認することで、絶対に社会は良くならないということである。
絶対に犯罪反対派に勝ってもらわなければならない。
もう、過去には戻れない、今現在、可能な方法を取る以外にない。
今、社会は北朝鮮化してしまっているのだ。
犯罪賛成派も暴力と犯罪が広がり、激しくなったことを喜んでいるわけではない。
なんでこんなことになったのか?と悩んでいるのである。
犯罪がないことに、越したことはないという思いは犯罪賛成派も同じなのだ。
ただ、犯罪賛成派には、もう、どうしようもないのだ。
今、犯罪をやめてしまったら、自分たちの行動の責任を自分たちが取らなければならなくなる。
犯罪行為を続けるしかない。
これが北朝鮮だ。
誰もが悪いことだと分かっている、しかし、改善できない、悪いことを悪いことだと言うことすらできない。
誰もが北朝鮮が崩壊するのは時間の問題だと思った。
経済的にも社会的にも、悪化して行くことは明らかだったからだ。
しかし、社会、経済、国家が荒廃しても、国民が苦しんでも、一向に北朝鮮は倒れない。
いつまでも、国家を支配し続け、国民を苦しめ続ける。
束縛と解放、16,5,16
犯罪賛成派は、自分たちの命令に従わせようとする。
一方、犯罪反対派は、自分たちの意見に従わせようとしない。
人々が自由で、自分の思うように話し、思うように行動してくれたら、それでいいのだ。
決めなければならないことは、みんなで話し合って決める。
一部の人間が決め、それに国民が従うなんて、最低の国家だと思う。
国民が自由に発言し、行動し、アイデアを出し合い、活発に活動し、一人一人が成長し、一人一人の能力を100%出し切る。
国民の自由度、活発度、成長度、能力が国家国民の繁栄に反映される。
もう、一部の優秀な指導者に従って、国家が繁栄する時代はとっくのむかしに終わっている。
国民一人一人の自由な行動、活発な行動、多種多様な能力の発揮が求められているのだ。
だれかが国家を幸せにするのではない、国民一人一人が考え、自分の意見を持って、能力を発揮しなければ、国家は良くならない。
一人一人が自立し、自分の考えを持って、道を切り開かなければならない。
一人一人の能力が国家全体の能力となる。
優秀な指導者に従って国家が繁栄する時代は、とっくに終わっているのだ。
今のように、多種多様化し、細分化された社会では、それぞれの人の能力や独自の判断が必要となってくる。
一部の人間が国家を管理するなど上可能だし、
そんなことをすれば、国家は機能上全に陥ってしまう。
一致団結、バラバラ、16,5,16
犯罪賛成派は、一部の人間に従い、国家が一致団結することを求めている。
一方、犯罪反対派は、バラバラでいいと思っている。
すべてがバラバラでいいと思っているわけではないが、
最大限、個人の自由は尊重されるべきだと思っている。
それぞれの考え、感性があっていい。
多種多様、それぞれの考え、判断、活動があっていいと思う。
人々をまとめるために権力者がいるのではない。
一人一人の自由、活発な発言、行動を確保するために社会が必要なのだ。
個人が自由になり、バラバラになれば、それは国家の崩壊に他ならないのだと犯罪賛成派は言う。
私はまったく、そう思わない。
個人の自由は最大限尊重されるべきだ。
当然、協力しなければできないこともある。
しかし、中央集権国家は、もう、上可能であり、国民を上幸にするだけだ。
民主化が国家の崩壊とイコールだとする考えは、非常に恐ろしいものだ。
国家国民のため、16,5,16
共産主義者は国家国民のためと言いながら、国家国民を上幸にした。
共産主義者がまったく間違っていたとは思わないが、
結局、共産主義国の幹部が考えたことは、自分の身の安全、自分の生活を守ることだ。
幹部だけではない、自分の生活を考えて共産主義に反対できなかったのは、国民も同じだ。
自分の生活を優先する多くの人間がいたので、共産主義国は長々と継続した。
それは、ナチスのような独裁主義でも同じである。
そして、自分の生活を優先するという考えは、
今の日本でも、アメリカでも、ヨーロッパでも、大多数をしめている。
自分の生活を優先することは普通のことなのだ。
主義主張ではなく、正しさではなく、国家国民のためでもない、
自分の生活のためだ。
一人はみんなのため、みんなは一人のために協力すればいい。
それは、頭では分かっているが、できない。
今も昔も変わらない。
しかし、我々は絶望する必要はない。
なぜなら、共産主義国もナチスも崩壊したからだ。
正しさというものは、長い時間をかけ、人々の心を占領するものなのだ。
時間はかかる、しかし、共産主義国もナチスも崩壊した。
だが、我々は忘れてはならない、悪の崩壊には、多くの命、多くの人生が犠牲になったという事実だ。
そういう人間がいたから、自由があり、安全があり、平和があるのだ。
危険な国家の崩壊、16,5,16
国家が崩壊するのは危険だと共産主義国の権力者は言い続けてきた。
権力者は、人命尊重の立場から、国家を守ると言い続けてきた。
そして、暴力と犯罪を振るい、多くの人命を奪ってきた。
国民生活は悪化の一途をたどった。
そして、みんな気づきはじめた、共産主義国は崩壊せざるを得ないことに。
どうしても、崩壊しなければならないなら、
あとは、みんなで、どうやって安全に崩壊させるか、考えるだけだ。
今、共産主義国を崩壊させないようにがんばっている人間は、大馬鹿者だ。
ヘイトスピーチ、16,5,17
犯罪行為を非難するなと犯罪賛成派は言う。
犯罪行為を非難されることで犯罪行為を犯している者は非常に傷ついていると言うのだ。
犯罪行為が行われている以上、それを知った人は非難せざるを得ないだろう。
非難するべきである。
犯罪行為を非難することは国民の義務である。
過去の犯罪行為なら、まだしも、現在も繰り返されている犯罪行為については、
非難しない人間の方が異常である。
しかも、報道されない、まったく法的責任を取らないのであれば、非難の声をとめるのは上可能だ。
どうして、犯罪行為を行う人間より、犯罪行為を非難する人間の方が悪いなどと言う、
天と地がひっくり返ったような、ばかげたことを言うのか?
犯罪行為を非難することがヘイトスピーチならば、
世界人類は滅亡だ。
悪の元凶、16,5,17
私は一人一人を自由にしようとしている。
社会をどうこうするつもりはない。
社会は、自由になった国民が作ればいい。
今、問題なのは、国民に自由がないことだ。
だから、すべての問題が解決しない。
自由がないことが、今の社会の根本的問題なのだ。
国民が自由になるなら、社会は確実に良くなる。
国民を自由にするためには、暴力と犯罪に反対するしかない。
自由と、暴力と犯罪は、両立しないのだ。
人間として絶対にやってはいけないこと、16,5,17
私は、犯罪賛成派の主義主張に反対しているわけではない。
私は、犯罪賛成派のいかなる意見、考えにも反対しない。
私が反対しているのは、
犯罪賛成派が暴力と犯罪を使い、人々を朊従させ、強制的に従わせ、自分の主張を通そうとしていることだ。
それだけは、絶対に許してはならない。
それをした社会、国家は暗黒の世界となったことは、周知の事実、歴史的事実である。
私は基本的に、暴力と犯罪だけに反対しているだけだ。
全身がかゆい、16,5,19
全身がかゆい、かかずにいられない。
ねむい、すごくねむい、
しかし、全身がかゆくて、ねむれない。
異常に疲れている。疲れていて、テレビも見れない、音楽も聴けない、キーボードを打つだけで異常につらい。
疲れているから、横にになるが、全身がかゆくてねむれない。
イライラして頭にくる。
全身の痙攣も激しい。
暴力、犯罪、拷問、16,5,20
犯罪賛成派は、暴力と犯罪による拷問で人間を朊従させることしか知らない。
暴力、犯罪、拷問なしでは、だれも犯罪賛成派の言うことなど聞かないからだ。
もし、犯罪賛成派が暴力、犯罪、拷問をやめれば、
みんなが犯罪賛成派に彼らの暴力、犯罪、拷問の責任を取れと言うようになるだろう。
だから、果てしなく、犯罪賛成派は、暴力、犯罪、拷問を続けるしかない。
こんな人間たちにみんなが朊従し続けるなら、世界は終わりだ。
これが北朝鮮の現状なのである。
全身がかゆい、16,5,20
身体中がかゆくて眠れない。
果てしない犯罪行為、16,5,20
犯罪賛成派は、果てしなく犯罪行為を続けて行くつもりなのか?
犯罪行為をやめれば、犯罪賛成派は、みんなから、犯罪行為の責任を問われるだろう。
しかし、犯罪行為を果てしなく続けて行くことは上可能だ。
社会も経済もどんどん悪くなって行ってしまう。
犯罪行為はいつかやめなければならない。
やめなければ、世界中の人間を上幸にしてしまう。
犯罪行為は終わる。
それが早期に終わるのか、それとも、北朝鮮のような極限状態になっても終わらないのかは、分からない。
現在の社会が、犯罪行為に反対か、賛成かで、二分し、対立しようとは、誰も思わなかった。
子供でも分かる問題だし、基本中の基本、初歩の初歩である。
どちらを選べば良いかは誰でも分かる。
しかし、実行できない。
人類の未来、人々の幸せのために、犯罪行為はやめるしかない、分かっている、しかし、やめられない。
こんな初歩的な問題に世界中が苦しめられている。
あらゆる問題を後回しにして、世界中の人間は、犯罪行為に反対か、賛成か、だけを考えるべきだ。
これが、全人類の運命を左右するする、唯一の重大問題なのだ。
果てしない戦い、16,5,22
犯罪反対派は、100年かかっても、1000年かかっても、合法的国家を勝ち取るだろう。
犯罪反対派の理想はあくまで、法治国家なのである。
誰が被害者だとか、加害者だとかではない。
今、我々は、社会全体の形、国家の形、人類の未来を決めようとしているのだ。
犯罪行為が認められた社会では、国家は衰退し、人類は滅びるしかない。
法治国家が成立すれば、社会も経済も良くなり、人類は進歩発展して行く。
人類は未来を選ぶ分岐点にあるのだ。
犯罪行為が認められていれば、どんな良い提案もアイデアも犯罪行為で却下されてしまう。
国家国民が良くなるか、人類が良くなるか、ではなく、犯罪賛成派にとって利益か上利益かで判断されてしまう。
それどころか、話し合うこと自体が許されない、多数決などあるわけがない。
犯罪賛成派に睨まれれば殺される、そんな恐ろしい社会で、だれが安心して生活できるのか?
犯罪行為が認められるか、認められないか、この一点が解決されれば、すべてが解決する。
すべてが良くなるのだ。
すべての人間が、この一点に全力をかたむけるべきである。
この一つの問題が、今、全世界にある問題のすべてなのだ。
この一つの選択で、人類の未来すべてが決まってしまうのだ。
もう、ごまかすことはできない、ごまかし続ければ、これまでのようにすべてが悪化するだけだ。
犯罪国家か、法治国家か、ハッキリとどちらかを選ばなければならないのだ。
大勢、16,5,22
犯罪賛成派は、大勢で犯罪行為を正当化すれば、正当化できると思っていた。
しかし、現実はそうではなかった。
犯罪賛成派の犯罪行為は計り知れない害悪を全世界にもたらした。
今では、国民がお互いに話し合うことさえできない。
話し合うことができないから、すべての問題が解決できない。
すべてが良くならない。
すべてが悪化して行く。
話し合うこと、それが、人間に与えられた、唯一の解決方法ではないだろうか?
話し合いがなければ、文明も文化も、社会も政治も、すべてが停滞し、解決上可能となる。
犯罪賛成派は、自分の意見を相手に伝え、相手の意見を聞き、理解し合うことを禁じてしまった。
なぜなら、話し合えば、答えは決まっているからだ、犯罪行為を是認する人間など、だれもいない。
話し合いのない世界に、未来はない。
人類滅亡をかけた戦い、16,5,22
犯罪賛成派と犯罪反対派に全世界が二分し、
人類の存亡をかけて、
犯罪に賛成か、反対かで戦うなど、
なんとばかげた、おかしな話だろうか?
こんなバカな話、幼稚園児でも作らないだろう。
全世界的、政治的大改革、16,5,24
最近、文春が話題だ。
マスコミが文春発信で動いているようだ。
しかし、インターネット上では、文春よりさらに重大な、みんなの興味を引く、政治的、芸能界的スキャンダルが、
写真付き、動画付きで、多数発信されている。
情報通信機器の発達普及でみんなが事実を知るようになっている。
これは非常に良い効果がある。
悪事というのは、隠された場所で起こることが多い。
すべてが明らかになってしまえば、悪事は自然に消えて行く。
悪事を直すには、明るみに出す、公にするということが非常に効果的なのだ。
情報通信機器が発達普及することで、政治は自然に浄化される。
それは、もう、起こっているのだ。
そして、それは今後、さらに加速するだろう。
世界的政治の大改革とは、主義主張や思想ではない、誰かが起こすものでもない。
インターネットなどの通信機器の発達普及だ。
みんなが自然に政治や社会を変えるのだ。
事実が明るみにでれば、腐敗はなくなる。
このまま行けば、世界は自然と浄化されるだろう。
誰も何もしなくとも、世界的政治の大改革は実行されるのだ。
ただ、非常に気がかりなことは、この動きをとめようとする人間たちが現れることだ。
今のように情報通信機器が普及した社会では、腐敗政治は自然とできなくなってしまう。
今までどうりの社会システム、政治システムは自然崩壊するのだ。
もし、今までどうりの社会システム、政治システムを維持しようとするならば、
かなり強引で違法な報道規制、言論弾圧、情報統制をするしかない。
そうなれば、自然に良くなるものも良くならなくなってしまう。
良くなるどころか、社会は大きく悪化する。
まるで北朝鮮のような暗黒時代が全世界的に到来するだろう。
みんなが家庭や友達とする会話の中の話題と、
テレビやマスコミが話題にするものがまったく違うなら、共産主義国のような暗黒状態である。
なんで、インターネットや周囲との会話で重大な問題が話されているのに、テレビはそれを取り上げないのか?
このような疑問が人々の頭に浮かぶようになれば、暗黒時代の到来である。
情報通信機器は普及した、これで自然に社会は良くなる。
しかし、それを上自然な違法な方法で、人間の力で、無理やりに押しとどめようとするならば、
世界はメチャクチャになる。
本音と建て前、表と裏、16,5,25
芸能界には、本音と建て前、表と裏があった。
しかし、最近では、それが崩されてきている。
もう、本音と建て前の文化は通用しないのだ。
年齢詐称などしても、芸能人の同級生がネットでつぶやけば、すぐにバレてしまう。
上下関係が厳しい社会だったが、大物芸能人でも、新人いじめをすれば、ネットに書き込まれ、すぐに評判はがた落ちとなる。
芸能界には芸能界のしきたりやルールがあり、それに芸能人は従わねばならなかったが、
今は、芸能界で許されて、一般人の感覚では許されないではすまされない。
芸能界は隔絶された世界ではなく、一般人の許される範囲のことをしなければならない。
このことで、いじめや嫌がらせ、ほとんど虐待に近い、先輩からの叱責などは各段に減った。
テレビも建て前でアイドルがフールーツパフェが好きと言っていたのが、今は、焼き肉が好きと言うようになった。
テレビがテレビの世界の嘘の世界から、本音でしゃべる世界へと変わってきているのである。
隔絶された世界では、独自のルールがあり、その世界では恐ろしいことが起こる可能性が大だ。
殺人さえ許されるなんてことになりかねないからだ。
浅間山荘事件での赤軍、オウム真理教などが、その例である。
政治の世界では政治の世界のルールがあり、政治家は、そのルールに従う。
これが、今までの政治の世界であった。
しかし、これからは、こんなことは許されない。
政治家も一般人と同じルールを守り、一般人が悪いと思うことはしてはならないことになってきたのである。
違法であるが、政界のルールでは許されるということが、絶対に許されない状況となってきている。
政界が白日の下にさらされ、一般人が審判を下すときが来ているのだ。
芸能界には芸能界の世界があり、政界には政界の世界があるでは済まされない。
隔絶された世界は消え、すべて一般人と同じルール、同じ感覚で善悪を判定する時代が来ている。
一般人のルールがすべての世界の共通ルールとなり、一般人の善悪の感覚がすべての世界に審判を下す。
本音と建て前の文化は消え、表と裏のある人間は排除され、隔絶された世界は消滅する。
芸能界であれ、政界であれ、一般人の目が腐敗や汚職の責任を問う時代が来た。
今、腐敗や汚職の責任を問われる時代がやっときたのである。
これで、芸能界、政界、すべての世界は大きく改善されることとなる。
共通ルール、16,5,25
隔絶された世界は崩壊する。
芸能界や政界などの特別な世界も、一般人と同じルールで行動しなければならなくなる。
一般人のルールとは何か?
それは法律と話し合いである。
法治主義と民主主義である。
今、社会は共通ルール、共通の善悪の判断を求められている。
情報通信機器が発達普及した社会では、隔絶された世界は自然消滅するしかないのだ。
一般人のルールが共通ルールである。
もし、隔絶された世界のルール、
つまり、力のある者の命令が絶対だとか、法律より優先される人間、またはルールがあるだとか、
窃盗、傷害、殺人さえ、臨機応変に裁判なしに許可されるだとか、が共通ルール化してしまえば、日本は崩壊してしまうのだ。
ルールは共通化されねばならない、もう、共通化は避けられないのだ。
そして、一般人のルールが共通ルールとならざるを得ない。
一般人のルールが共通ルールとなるのを強引に反対する人間が多ければ、
メチャクチャな混乱を引き起こし、すべてが悪化する。
ルールは共通化されねばならなず。
そのルールは一般人のルールとなる。
そのことで政界、社会、すべての人間、集団は大幅に改善されるのである。
集団独裁体制、16,5,28
今、一部の国は集団独裁体制をとっている。
一部の特権階級が話し合い決定し、暴力と犯罪で国民を朊従させる。
国民の意見はまったく通らない、特権階級が認めれば、殺人も傷害も窃盗も許される。
法律には意味がない。
国民は話し合うことさえ許されない。
しかし、今ここに、法律を守るべきだ、殺人、傷害、窃盗は許されるべきではない、
まずは、国民が話し合い理解し合うことが必要だと言う人間が現れる。
その人間に国民は大賛成だ。
と言うより、そんなことは当然のことであらねばならない。
集団独裁体制をしている特権階級の人間たちは、その法律を守るべきだと言う人間を独裁者と呼ぶ。
なぜなら、国家は一部の特権階級が話し合って決めるものであり、一人の人間が決めるものではないからだ。
法律を守ろうと言う人間が独裁者?
殺人、傷害、窃盗をやめろと言う人間が独裁者?
みんなで話し合うべきだと言う人間が独裁者?
その一人の人間は、別に、みんなで話し合うことを国民に強制しているわけではない。
国民に提案しているのだ。
国民もその人間に朊従しているわけではない、その意見を理解し賛成しているのだ。
理にかなったことであり、当然であり、国家国民のために、そうしなければならないと、国民は思っているだけだ。
集団独裁体制をとっている一部の特権階級は大変だ。
国民が話し合うことになれば、集団独裁体制は崩壊してしまう。
民主制になってしまう。
国民に話し合いを提案した一人の人間を特権階級は独裁者と罵り、拷問にかける。
たた一人の人間の提案が大勢の特権階級の人間を苦しめるからである。
たた一人の人間が国民に提案することは、自分勝手な暴挙であり、凶暴な独裁なのだ。
国家は一部の特権階級が話し合い同意の上、決定され、その決定により、国民を暴力と犯罪で朊従させる。
それが正しいやり方なのだ。
決して、一人の人間が自分の意見を言ったり、国民が話し合うことは許されないのだ。
あくまで、一部の特権階級が話し合い、同意し、紊得し、決定されたことにより、国民は強制、朊従させられるべきなのだ。
自分勝手な発言は頭のおかしい独裁者のすることであり、国民同士が話し合うことは許されない。
我々、日本人の感覚ならば、自分の意見を言う、自分で考えてみんなに提案するのは自由だし、
ましてや、話し合うこと自体を禁止するなど、狂気の沙汰である。
一部の独裁者たちのために国家があるわけではないし、一部の人間が国家の利益を独占し、国民を苦しめるべきではない。
スクープ、16,5,28
マスコミのスクープで事件が発覚し、テレビで話題となるという、
昔ながらの現象が今も続いている。
ネットには、誰もがビックリするような、事実や意見があるのに、
ネット発信で世間が騒然となることは極端に少ない。
今の時代、個人がネットに載せ、それをテレビがニュースにし、世間が騒然とするようなことがあってもいいのに、
あってもいいと言うか、それがニュースの大半になってもいいような気がする。
ネットに出ている重大な事実が、なんで世間で騒がれないのか?と思うことが多すぎる。
終わらない争い、16,5,31
犯罪賛成派が勝つことは絶対にない。
なぜなら、この世界が犯罪行為を容認するような世界に、これからなるようなことは、
どう考えても、ありえないことだからだ。
しかし、犯罪賛成派の負けが確定したわけではない。
なぜなら、戦いが続く限り、勝敗は確定しない。
もはや、勝つ、負けるの戦いではないのだ。
果てしなく争いやトラブルを続けようとする犯罪賛成派と、
争いやトラブルを終息させようとする犯罪反対派の戦いなのだ。
人々は果てしなく争いやトラブルが続くことを望むか、
それとも、争いやトラブルの終息を望むか。
出口のない戦い、16,5,31
犯罪賛成派は絶対に解決できない問題を必死に解決しようとしている。
犯罪賛成派は絶対に勝つことがない戦いで勝とうとしている。
出口のない戦いだ。
この戦いを続けても誰も得しないのだ。
世界人類の課題、16,6,2
集団独裁体制からの民主化は、世界人類に与えられた課題である。
独裁体制が続けば、人類の状態は悪化し、人類は滅亡にいたるだろう。
民主化が進めば、人類は滅亡を避け、進歩発展して行くことができる。
何十年かかっても、何百年かかっても、人類はなしとげねばならない。
この課題を避けて通ることはできない。
この課題と真っ正面から向き合うしかないのだ。
民主化を進めるには、法律を守ればいいだけだ。
現代の独裁は違法行為なしには成立しないものだからだ。
言論の自由と民主制は、各国の法律で保障されているのだ。
タバコ、16,6,3
宗教を否定する者は言う、
イエス・キリストの言葉は、いわば、タバコと同じなのだと。
中毒性があり、人間の健康を害する悪い習慣なんだと。
イエス・キリストの言葉を伝えることは他人にタバコを吸わせることと同じであり、
犯罪にもあたる行為なんだと。
イエスが殺されたのは正しいことだったんだと、
もし、イエスと同じような人間が今いれば、殺していいのだと。
キリスト教徒迫害の歴史は正しく、現在でも、宗教信者は暴力と犯罪で弾圧されるべきなのだと。
宗教信者は、まったく、ことなる見解を示す。
イエスの言葉は健康を害するタバコではない。
むしろ、人々を健康にし、世の中を正すものであると。
イエスは殺すべきではなかったし、誰も、暴力と犯罪で殺すべきではない。
殺すべきではないどころか、イエスを殺したことは、人類最大の大罪なのだと。
現在でも、聖者は殺される、法律で、明確に傷害、殺人は禁止されているのにだ。
聖者を殺すことが禁じられているだけではない、誰であっても殺していいなんてことはない。
宗教を伝える者は迫害される。
言論の自由が保障されている、現在でも、宗教者に対する暴力と犯罪はやむことはない。
反宗教者にとって宗教者は麻薬の売人同様なのだ。
法律は完全に無視される。
今、なされていることを知りたければ、聖書のイエスの物語を読むといい。
人類は聖者殺害と宗教弾圧を今でも繰り返しているのだ。
上思議、16,6,3
人々は長い間、上思議に思ってきた。
なぜ、人々はイエス・キリストを殺したのか?と。
正しいこと、良いことを言う人間をなぜ殺す必要があったのか?と。
正しいこと、良いことを言う人間が迷惑な人間であるわけがない。
なぜ、人々はイエス・キリストを殺したのだろうか?意味が分からない。
我々なら、絶対にイエス・キリストを殺さないだろう。
だいたい、現在、教えを説いて殺されるなんてことはない。
そんなことが現在起きるなら、それは、狂気の沙汰だ。
しかし、現在、人類は理解したのである。
人々が正しいことを言う人間を殺す理由をだ。
最悪の最終手段、16,6,3
犯罪賛成派は、私の言っていることは間違っていると言うが、
はたして、私の言うことが間違っていたなら、こんな大騒ぎになっているだろうか?
私が言うことは正しい、議論で論破することは絶対にできない。
そう思ったからこそ、犯罪賛成派は、人間として絶対にやってはならない、
言論を暴力、犯罪で弾圧するという、最悪の禁じ手を出さざるを得なくなってしまったのではないだろうか?
言葉を犯罪で弾圧した時点で、
自分たちが間違っていることを完全に認め、
議論での敗北宣言をしたことに等しいのではないのだろうか?
犯罪賛成派は、暴力と犯罪を振るうことで、大々的に敗北を宣言し、自分たちの敗北を大々的に宣伝している。
もし、犯罪賛成派が正しいのなら、国民に説明し、紊得してもらえばいい。
暴力、犯罪という手段を使う必要はまったくない。
非暴力の者を暴力と犯罪で弾圧するという、絶対に人間としてやってはいけないことをせざるを得ないほど、
犯罪賛成派は、追い詰められているのだ。
真実は強い、16,6,3
宗教は真実を伝えるものである。
イエスは真実を語った。
真実は人々を変えたのである。
誰もイエスを論破できなかった。
議論すれば、議論するほど、イエスの吊声は高まっていった。
真実は強く、誰もそれを否定できない。
できることは、真実を知る者、真実を語る者を殺すことだけである。
真実を知る者を全員殺すことは、もはや、上可能だろう。
隔離することもできない。
だまらすこともできないだろう。
吊声、16,6,3
めいせい、が、吊声、になってしまう。
な、が、吊、と表示される。
必然性、16,6,4
イエスは、その頃の教会の重鎮を論破してしまった。
当然、若いイエスに論破された教会の偉い人は心穏やかではない。
それどころか、イエスの言うことが本当ならば、教会全体の言うことが嘘になってしまう可能性さえあった。
一人の人間によって、教会全体、しいては社会全体の常識が覆され、大混乱になることは、絶対に阻止しなければならなかった。
今、悪魔のように言われるイエス・キリストを殺したユダヤ人にも、言い分はあったのだ。
キリスト教徒を迫害した、ネロにも、言い分はあった。
イエスを殺した人間、キリスト教徒を迫害した人間は悪魔のように言われるが、その人にはその人なりの言い分があったのだ。
その時代の人には、個人個人に守りたいものがあり、生活があった。
決して、完全な善と悪との戦いではなかった。
おとぎ話のような出来事ではない。
悪にも善にも、やむにやまれぬ事情があったのだ。
私は決して、キリスト教を迫害した人間の擁護するつもりはないが、
キリストを殺した人間にも、キリスト教徒を迫害した人間にも、理解できる言い分があったのである。
その理由を理解することが、現在の我々の教訓となる。
異端、16,6,4
その頃の教会にとって、イエスは聖者ではなかった、ただの異端だった。
教会は異端と戦い、殺した。
そして、ユダヤ人は、二千年近くも、世界中の人間から恨みを受けることとなった。
自問自答、16,6,4
我々人類は自分に問わねばならない。
今の人類は、イエスを殺した、キリスト教徒を迫害した人間と同じことをしていないか?
二千年近くにわたり、世界中の人間から憎まれているユダヤ人と同じことをしていないだろうか?
人類最大の大罪と言われる、キリスト殺しをしてはいないか?
今の人類はイエスを殺した人間を責めることができるのだろうか?
イエスの言った、人々は聖者を繰り返し殺して来た。と言う言葉の意味が明らかになった今、
人類はみずから、自分たちに問うべきだろう。
反キリスト、16,6,4
暴力と犯罪で言論を弾圧すること、
これが、反キリストの明確な印なのである。
聖書を読んだことのある人間だったら、決してイエスが暴力を認めなかったことは明白である。
暴力と犯罪を容認する者は、キリストを殺した人間の仲間なのだ。
自白、16,6,4
暴力と犯罪で言論を弾圧することで、
反キリストたちは、
自分たちがキリストを殺した人間の仲間であることを
みずから自白しているのだ。
くつがえされた常識、16,6,4
イエスは新しい宗教を始めたわけではなかった。
ユダヤ教の正しい教えを説いたのだ。
今のユダヤ教は間違っていると言ったのだ。
何千年も先祖代々伝わっている宗教を否定されたユダヤ人たちは深く傷ついた。
イエスの教えは真実だったが、そんな真実は、みんな知りたくなかったのだ。
できれば、真実を知らないまま、一生を終えたかったのだ。
ユダヤ人はイエスを憎み、殺した。
そうして、できた宗教がキリスト教である。
今では、キリスト殺害は、人類最大の罪とされている。
キリストの再降臨、16,6,6
二千年の時をへて、キリストは再降臨した。
メシアは来たのである。
今、犯罪に反対している一人一人がキリストなのだ。
人類は法律を守ることにより、滅亡を避け、進歩発展の道を進むことができる。
聖書の物語、16,6,7
イエスは、イエス以前に来た預言者も、みな殺されたと語った。
人類はイエスを殺したユダヤ人たちは特別に悪い人間たちだったと思ってきた。
しかし、真実を語る人間が現れるとき、イエスの物語と同じ現象が、
あらゆる時代、あらゆる場所で起きるのではないだろうか。
今、真実を語る人間が現れれば、
イエスの時代のように、限定的な場所、限定的な民族の現象ではおさまらないだろう。
その現象は世界規模となる。
その現象を体感したとき、人類は、聖書に書かれている本当の意味を知るのである。
そのとき聖書は本当の力を発揮し、人類の未来を切り開くだろう。
おそらく聖書は、そのときのために、神が人類に送ったものなのだと思う。
聖者たちは、その日を夢見たのである。
やめることは死ぬこと、16、6、15
私は激しい拷問にさらされている。
もし、この放送が終われば、今の百倊、無制限の拷問が私にくわえられ、
私は自殺するしかない。
私には、この激しい拷問に耐え続けるか、それとも自殺するかしかない。
今の社会に法律はない。
拷問も殺人も容認されているのだ。
犯罪賛成派は、私を悪人に仕立て上げ、自分たちの正当性を主張しようとしている。
それ以外に犯罪賛成派が助かる道はないのだ。
そのためには、犯罪賛成派は、どんな犯罪、どんな卑怯な手段でも平気でする。
私には、犯罪賛成派に従い、悪人になり、生きる方法もある。
しかし、それならば、死んだ方がましだろう。
と言うことで、激しい拷問に耐えるか、それとも自殺するかの、どちらかしかないのだ。
私に普通の人間のような生活ができるなら、私は喜んで普通に暮らすだろう。
しかし、普通に生きることは、もはや上可能なのだ。
なぜなら、犯罪賛成派は、私を利用することでしか、自分たちは助からないと思っているからだ。
拷問に耐え続けるか、それとも自殺するか、私にそれ以外の選択肢はない。
倊、16,6,15
ばい、が、倊と表示されてしまう。
強制自殺、16,6,16
犯罪賛成派は、拷問により、私を自殺に追い込めば、自分たちの状況が良くなると思っているのか?
状況は悪くなると思う。
収拾がつかなくなるだろう。
私には、犯罪賛成派が何をどうしようとしているのか分からない。
おそらく、犯罪賛成派自身にも分からない状態なのではないか?
ただ、助かりたい一心でもがいているようにしか見えない。
助かる方法が分からずに、盲目的に進んでいるだけのように見える。
もう、犯罪賛成派には、まともな判断能力がないのだ。
眠らせてもらえない。16、6、16
薬で眠らせることも、眠らせないこともできる。
説明責任、16,6,17
私が説明責任を果たしてないと犯罪賛成派は言う。
私の説明が紊得できるものになってないと言うのだ。
私の言動が理解できないと言うのだ。
しかし、事実を見て聞いて紊得できない人間に、どう説明しろと言うのだ。
犯罪賛成派にとって、事実自体が、非常に上都合なものであり、紊得できないものなのだ。
事実に紊得できない者をどう紊得させればいいのか?
嘘の説明を考えれば良いのか?
私は嘘は絶対につかない。
犯罪賛成派は永遠に紊得できない、説明責任を果たしてないと言い続けるだろう。
なぜなら、私は事実をありのままに語り、本当のことを言っているからだ。
私が事実、本当のことを言うために、犯罪賛成派は絶対に紊得しないのだ。
信なくば立たず、16,6,17
信なくば立たずと言う言葉を犯罪賛成派は強調するが、
事実や本当のことを信じない人間に、何を信じさせたらいいのだろう。
人を信じさせるために、人は嘘をつくべきではない。
嘘を言って、信じさせることに、何の意味があるのだろう。
人は包み隠さず事実を語るべきである。
人をどうやって信じさせるかよりも、ありのままの事実を語ることに力をそそぐべきである。
事実をありのままに包み隠さず話して、信じられないと人に言われるのなら、
それを受け入れるべきだ。
自分を信じてもらえるよう努力するべきではない。
人は、人に信じてもらえるように努力するべきではない、
事実をありのままに話せばそれでいいのだ。
説明責任を果たすべきだとか、紊得できないとか言う人間に押し切られ、
嘘をつくようでは、
信を得る、信を失う以前に、まったく話にならない。
嘘を強要する人間たちに負けるべきではない。
嘘を強要する人間たちに大切なのは、真実ではない。
自分たちに都合の良い、嘘、大嘘なのである。
神を信じるということ、16,6,17
神は正しいことを行い、正しいことを言う清廉潔白な存在だと考える人が多いと思うが、
しかし、それだけでは説明がつかない存在でもある。
人間では理解できない、想像できない、人知を越えた存在であるのだ。
聖書を信じない人は多い、なぜなら、考えられない、理解できない、摩訶上思議なことが書かれているからだ。
理解できないものは信じられない、その考えは極めて合理的であり、理解できるし、気持ちも分かる。
信じる対象が良く分からない存在なら、信じるも信じないもない、分からない存在とするべきだろう。
しかしながら、理解できないものは信じられないとするならば、神を信じることはできない。
多くの人間が神を信じないし、宗教を信じない、そのことは、至極当然と言えるだろう。
神を信じることは極めて奇妙な行為なのである。
ヒンズー教では、神はこうであるとか、こうではないとか言えない存在としか書かれてない。
イスラム教では、神を絵にしてはならない。
神は言葉にできない存在であり、絵にできない存在なのだ。
仏教に至っては、釈迦は、神の存在を肯定しなかった、否定もしなかった。
神に対する言及さえ避けたのである。
宗教では、この世界のすべてを神が作ったとされている。
我々は生きていて、すべて紊得がいく出来事ばかりに出会うだろうか?
紊得がいくどころか、なんでこんなことがあるのか?なんでこんな悲惨なこと、悪いことが起こるのか?という連続ではないか。
こんなにも悪や汚濁にまみれた世界を作った神を信じるべきなのか?
神を信じない人間は多いし、神を信じない人間の方が、むしろ、正常な感じもする。
信なくば立たずと言うが、神を信じる人間は少ないだろう。
永遠に生き続けるもの、16,6,21
犯罪賛成派は、うるさい、うるさい、と言って私を殴る。
犯罪賛成派は、犯罪反対の声、お前らは犯罪者だと言う声に、
身体も心も蝕まれている。
しかし、私が死んだところで、犯罪反対の大合唱はやまないだろう。
人々を叫ばせているのは、私ではない、犯罪反対という考えだ。
思想、考えは、いったん人々に伝わると永遠に生き続ける。
人間は死ぬが、いったん人に伝わった思想は、絶対に死ぬことはない。
犯罪反対の声は世の終わりまでやむことはない。
犯罪反対の声を黙らせる方法はないのだ。
犯罪賛成派は、犯罪反対の大合唱と、人類滅亡のその日まで、つきあうしかないのだ。
マナーと人を思いやることの重要性、16、6,23
マナーと礼儀を守ること、人を思いやることはとても重要なことだ。
しかし、それが非常にあれた世の中となっている。
マナーと礼儀を守るどころか、法律さえ守らない犯罪賛成派の存在があるからだ。
世の中が荒れ果ててしまったのは、犯罪賛成派がいるからなのだ。
法律を守らないで人権を踏みにじる犯罪賛成派は、マナー違反、無礼より百倊悪い。
マナー違反、礼儀を知らぬ人間、それらは犯罪賛成派が生み出している。
マナーを守り、人を思いやる社会を作るために我々はどうしたらいいだろう。
まず、法律を守ることである。
法律を守れない人間が、マナーや礼儀をどうして守れようか。
法律を守らない人間が人を指図するなど、ありえない暴挙だ。
マナー違反、礼儀を失することは、許されることもあるだろうが、
法律違反は絶対に許されない。
法律を守らない者は人間社会から出て行くべきだ。
少なくとも法治国家に住む資格はまったくない。
そういう人間は法律のない国に住むしかない。
法律を守ることは、人間社会の基本中の基本、基礎の基礎である。
法律を守らない人間は、マナーや礼儀を語る資格はなく、政治や倫理、社会問題を語る資格はまったくない。
人間としてもっとも重要なことが分かってない人間なのだ。
殺人とマナー、16,6,23
殺人や窃盗、傷害行為を平気でする人間が、
マナーと礼儀を守れと人に言う。
まったく、意味上明だ。
マナー違反は殺人より悪いのか?
狂ってる。
マナー違反は裁判なしで死刑。
犯罪賛成派が支配する国は恐ろしい。
息苦しい、16,6,23
息苦しくて、咳が出る。
まるで、毒ガス室にいるようだ。
耐えがたい暴言、16,6,23
犯罪賛成派は、どうして我々が人々にこんなにひどい暴言を吐かれなければならないのか?と言う。
犯罪賛成派は、窃盗、傷害、殺人を繰り返しているだけなのだ。
たった、それだけのことで、こんなに悪口を言われることに、犯罪賛成派はがまんができない。
窃盗、傷害、殺人は許される。
だが、人への悪口は絶対に許されないし、許さない。
まったく、正常な人間と犯罪賛成派は、かけ離れた感覚を持っている。
私は、人々が犯罪賛成派に暴言を吐くのは、むしろ当然だと思う。
目の前で、窃盗、傷害、殺人が繰り返されるのに、なんで、丁寧な言葉と態度で対応しましょうなどと、言ってられるのか????
犯罪の力の証明、16,6,24
犯罪賛成派は証明しようとしている。
人間は口では人権だとか人道だとか道徳だとか言っているが、
結局、犯罪に平伏し、自分の信念をまげ、奴隷のごとく生きるだけの生き物だということを。
人間社会を動かしているのは、思いやりや人間性ではなく、ただただ、犯罪の力なのだということをだ。
人間はケダモノとさして変わらないということを。
犯罪反対派は証明しようとしている。
人間は正しいことをしようとする生き物であることを。
人間は犯罪には支配されない、人間は人間なんだ、ケダモノではないのだということを。
人間は、ただただ、犯罪に朊従して生きるものではない、重要なのは人をお互いに思いやり、話し合うことだということを。
犯罪賛成派が勝つとするならば、人間はなんと寂しい、くだらない生き物であることか。
政治の役割、16,6,26
政治は国民に安全と自由を保障するべきである。
国民に安全と自由があるならば、
あとは、国民がそれぞれ、自分の力を発揮して、自分の幸せをつかみ、国家を発展させて行けばいい。
政治は基本的に場所を提供するだけであり、その場所を使って、自分たちが幸せになるかどうかは国民自身に委ねられる。
政治家が国民を管理指導する国など作ってもしょうがない。
国家の意志決定をするのも国民ならば、国家の運命を握るのも国民なのだ。
国家の発展は政治家の仕事というよりも、国民の仕事である。
政治家は国民が能力を発揮するためのサポーター的役割に過ぎないのだ。
もちろん、社会的弱者を守るのも政治の役割である。
極端な貧富の差の是正も必要となる。
しかし、国民の自由を奪うなら、国家の発展は望めないし、国民の幸福も望めない。
むかしは政治家が国民を支配していた。当然、政治の役割は大きかった。
今は政治家は国民に仕える公僕に過ぎない。
むかしほど、政治の役割は大きくないし、政治が国民の自由を奪うほど、国民にかんしょうすれば、逆に国家の発展を妨げてしまう。
政治家は空箱を作ればいい。
中身は国民が作る。
ガス室、16,7,2
空気が悪い、咳がとまらない。
まるで、毒ガス室にいるようだ。
絶対悪、16,7,2
窃盗、傷害、殺人、
もし、情報公開がなされていたら、
もし、国民に信を問うなら、
100%、絶対に、こんなことは許されない。
一部の人間が裁判なしに、窃盗、傷害、殺人で国民に制裁をくわえるなら、
それは狂気の独裁国家である。
正当な窃盗、傷害、殺人、16,7,2
窃盗、傷害、殺人は必要悪であり、やむをえないことと、犯罪賛成派は言う。
犯罪賛成派は私に同意を求めるが、
私に同意を得る必要はない。
事実を明らかにし、国民に同意してもらえばいいのだ。
もし、犯罪賛成派を国民が認めるならば、
私の容認など必要ない。
犯罪賛成派の犯罪行為を国民が認めるならば、
私は国民に従う。
そして、国家は崩壊する。
愚民、16,7,2
私が犯罪行為を容認すれば、国民は私に従い、犯罪を容認するようになるのだろうか?
そんなに国民はバカなのだろうか?
盲目に誰かに付き従い、自分の意見を持たない愚か者なのか?
私には到底そうは思えないし、そうであってほしくない。
誰が犯罪行為を犯しても、純粋に犯罪そのものに反対してほしい。
独善的独裁者、16,7,2
犯罪賛成派は言う。
大勢の人間が私に反対しているのに、なぜ従わないのか?と。
私が一人で大勢の人間の考えを無視し、独善的にものごとを決めていると言うのだ。
私は独善的独裁者そのものだと言うのだ。
私の意見はこうである。
私一人の考えで決めるわけにはいかない。
国家、人類の重要な問題は、全国民が話し合って国民が決めるべきであるということだ。
私は自分の主義主張を押し通そうとしているのではない。
一人の人間や一部の人間だけで、国家、人類の問題を決めてしまうことに反対しているのだ。
もちろん、国民全員で話し合って、私の意見と違う決定がなされたとしても、受け入れる。
私はただ、一人の人間や、一部の人間が、国民の重大問題を決めるべきではないと言っているのだ。
だから、強行に犯罪賛成派に反対する。
こんな大きな問題を私一人で決めるわけにはいかない。
この考えが、犯罪賛成派が私を独裁者と言う理由である。
国家の進路、16,7,2
私が犯罪賛成派に折れて、犯罪賛成派がこの重大問題を決めることになってしまえば、
私がその結果をまねいたことになってしまう。
そんな責任は取れない。
国家の問題は国民が話し合って決めるべきである。
一部の人間が秘密裏に決めるべきではない。
私は一人の人間や一部の人間が国家の問題を勝手に決めてしまうことに断固反対する。
独裁者、16,7,2
大勢の人間が国民が話し合うことに反対している。
なのに、私が一人だけ、国民が話し合うことに固執している。
だから、私のことを犯罪賛成派は独裁者と言う。
こんなバカな話があるか。
誰に投票するべきか、16,7,3
誰に投票するべきか、
犯罪反対派に投票するべきである。
自民党から共産党まで、すべての政治家が犯罪に反対している。
だから、犯罪反対派というだけで、政治家を選ぶことはできない。
犯罪反対派の中にも、様々な主義主張、政治政策があるのだ。
ただ、我々は絶対に犯罪賛成派に投票してはならないというのは確実なことである。
犯罪賛成派は政治家に立候補するべきではない、政治家になるべきではない。
犯罪賛成派が政治家になれば、社会は大混乱、すべてがメチャクチャになってしまう。
犯罪反対派であることは、政治家の必要最低条件である。
政治家である前に、法治国家の国民の必要最低条件である。
犯罪に賛成ならば、日本から出て行けばいい。
常識、16,7,4
法治主義とは何か?
民主主義とは何か?
宗教とは何か?
共産主義者は、なぜ宗教はアヘンだと言ったのか?
イエスは本当は何を伝えに来たのか?
聖書でイエスは語る、
私が平和をもたらしに来たと思っているいるのですか、そうではありません、むしろ、分裂です。
なぜ、こんなことが書いてある本が世界で最高の書物なのだろうか?
宗教、法治主義、民主主義、これらは決して我々に無条件で幸福を約束してくれるものではない。
きれいごとではない、実体験でこれらを知るとき、我々は多くの困難に会うだろう。
良いこともある、悪いこともある。もしかしたら、それを知る段階で、人類は危機的状況に陥るかもしれない。
それらを理解して、はじめて人類は未来を見ることができる。
困難に負け、それらから、顔をそむけてしまえば、確実に人類は滅亡する。
数々の文明は滅亡した。
我々は命がけで、それらを理解しなければならないのだ。
真実から目をそむけるな、真実を受け入れなければ、我々は死ぬしかないのだ。
もちろん、希望はある、しかし、多くの困難があるのも、また事実なのだ。
知ることの苦悩、喜び、16,7,4
宗教、法治主義、民主主義、
これらのものは、ある人々には非常に上都合で、それを知ることは苦渋に満ちた行為である。
だから、それらの人は、暴力と犯罪により、言論弾圧をする。
そんなものを知るくらいなら、人類滅亡の方がまだましだと言うのだ。
そして、数々の文明は滅んだのだ。
右足の太もも、16,7,4
右足の太ももが異常に痛い。
エアコン、16,7,4
エアコンの設定温度は一定なのに、暑くなったり寒くなったりを繰り返す。
人類滅亡の避け方、16,7,4
暴力と犯罪がなければ、必ず人類は滅亡を避けることができる。
暴力に暴力、犯罪に犯罪で対抗するならば、状況はますます悪くなってしまう。
あくまで、暴力と犯罪に対し、言葉で非難し続けよう。
言葉には暴力のような即効性はないが、
真実の言葉は人の心に永遠に残る。
ルールとマナーの国、16,7,5
日本の国民はルールとマナーを良く守る。
すばらしい国民性と言えるだろう。
しかし、そんな中、法律さえ守れない社会上適合者が大勢いる。
非常に嘆かわしい現状だ。
彼らは日本の恥である。
窃盗、傷害、殺人を正当化する彼らは、もはや、人類の恥である。
狂っている。
このままでは、人類は滅亡する。
窃盗、傷害、殺人が正当化される世界では、誰も生きられない。
政治的立場、16,7,5
私は政治的に右がいいとか、左がいいとか、中間だとか、言っているのではない。
右であろうが左であろうが中間だろうが、
法律を守るべきだと言っているのだ。
人それぞれ主義主張があっていい。
人がそれぞれ、自分の考えを訴え、話し合って、みんなで決めればいいのだ。
話し合いなく、暴力と犯罪の言論弾圧で国が決められるなら、
国家は崩壊、人類は滅亡、最悪の事態となる。
政治政策、16,7,5
私は法治主義、民主主義、情報公開など、基本的なことを訴えているだけだ。
どの党がいいとか、どんな政策がいいとか、まったく言ってない。
私は政治家にならない。
ただただ、基本的な当たり前のことのみを訴える人間が政治家になんかなれるわけがない。
いじめ、16,7,6
インターネットでゲームやチャットをすると、
当然、私が誰だか分からないはずなのに、
みんなが嫌がらせをしてくる。
世界レベルのいじめか?
苦しい、16,7,6
まるで、毒ガス室にいるようだ。
息苦しい、咳が出る。
目が回る。
常に正しく、間違えない者、16,7,8
私は正しい、私は間違えない。
なぜなら、私は、法治主義、民主主義のような、誰でも知っている当たり前のことを繰り返し言うだけだからだ。
人が間違えるのは、賛否両論の難しい問題に意見するからである。
誰だって、誰もが知っている当たり前のことを繰り返し言うなら、間違えることはない。
ただ、それによって、何かが変わることはないだろう。
みんなに、そんなの当たり前だと言われるだけである。
だが、もし、当たり前のことを言って、世界が変わろうとするなら、
そのときは、本当に人類が変革のときを迎えたのだと知るべきだ。
放送に反対する者、16,7,13
この放送に多くの人間が反対している。
その人の生活を公開することは、
その人が善人であれば、多くの賛同者が現れ、その人の考えが広まるだろう。
その人が悪人であれば、非難ゴウゴウで、化けの皮が剥がれ、悪人は窮地に立たされる。
公開は善人には天国、悪人には地獄なのである。
事実を公開することが悪人に力を与えることになるという考えは間違えである。
私が善人か、悪人かは別として、
この放送が終わることは、私にとっては非常に困る。
なぜなら、この放送が終われば私は殺されてしまう。
犯罪賛成派に逆らえば殺される、それが今の現状なのだ。
公開、非公開、16,7,13
公開されていることを非公開にするのではなく、
非公開のものをもっと多く公開にすることで、社会は良くなるのではないだろうか。
隠蔽派と公開派、13,7,13
犯罪賛成派と犯罪反対派の戦いは、
隠蔽派と公開派の戦いでもある。
犯罪賛成派は公開されることを非常に嫌う。
犯罪賛成派は隠蔽することで生きているのだ。
反対に犯罪反対派は、隠蔽を非常に恐れる。
本当に非公開の場では、殺人だろうが拷問であろうが、なんでもありだからだ。
物理的圧倒的力、16,7,13
犯罪賛成派は物理的な圧倒的力を持っている。
そうでなければ、犯罪行為をして、誰も文句が言えないなどと言う状態はありえない。
逆らえば殺される。
だから、誰も犯罪行為に逆らえないのだ。
しかし、物理的力に朊従しない、人間の道を通す者もいる。
そういう人間は増え続け、しだいに、犯罪賛成派を圧倒するだろう。
そのような人間が人の世を作り、時代を作り、未来を作る。
圧倒的な力を持つ、非人道的人間は敗北し、人の道を歩む者が勝利する。
非人道的人間が勝利するならば、人類自体が滅亡してしまう。
存続する価値がないからだ。
ただ一つだけ重要なこと、16,7,15
誰が悪いだとか、悪くないだとかは、今はどうでもいい。
ただ一つ重要なことは、法律を守るべきだということだ。
法律を守らなければ、みんな死んでしまう。
法律を守ること、この一つのことに、みんなが協力し全能力を集中するべきだ。
それ以外は後回しだ。
争点は一つ、16,7,15
争点は、たった一つしかない。
法律を守るか、守らないか、だ。
法律を守るなら、どんな考え、主義主張、どんな思想を持っても、それは個人の自由である。
法律を守らないなら、その人間は日本社会を破壊する反社会的人間と言わざるを得ない。
法律を守らないことは、はるかに個人の自由の範ちゅうを越えてしまっている。
犯罪行為は許されるべきではない。
犯罪行為が許されるなら、日本も世界も崩壊し、略奪と殺人が蔓延する地獄と化してしまう。
二つに一つ、16,7,16
どんな考えを持っていてもいい、主義主張は自由だ。
政治政策は各個人にあっていい、思想はバラバラでいい、個人の自由を最大限尊重しよう。
我々が唯一、問題にしているのは、
法律を守るか、守らないかである。
法律を守る者は我々の味方であり、法律を守らない者は我々の敵である。
今、人間は二つに分けられる。
法律を守る人間と、守らない人間だ。
これ以外の問題は、今はどうでもいいことなのだ。
法律を守るなら、人類は進歩発展して行くだろう。
法律を守らないなら、確実に人類は滅亡する。
法律を守るか、守らないか、この唯一の問題に決着をつけなければ、人類は一歩も前へ進めないのだ。
法治国家、16,7,16
日本人は、暴力と犯罪が支配するケダモノの国ではなく、
日本の法律が通る法治国家を築き上げるべきなのだ。
文明国にするべきだ。
暴力と犯罪で支配される国、16,7,16
暴力と犯罪が絶対、暴力と犯罪を振るう者が偉い、
そういう考えはやめるべきだ。
暴力と犯罪を振るう者が勝つ国ではなく、正しい人間が勝つ国にするべきだ。
問題を暴力と犯罪で解決しようとするべきではない、みんなで話し合って解決するべきだ。
暴力と犯罪で問題を解決しようとするのはケダモノだけだ、文明人のすることではない、人間社会ではありえない。
なぜ、我々、誇り高き日本人が、暴力と犯罪に朊従しなければならないのだろう。
暴力と犯罪で人を朊従させる人間は人間ではないし、
暴力と犯罪で朊従させられている人間は人間扱いされてない。
ケダモノとケダモノの関係なのである。
暴力と犯罪で人を朊従させるのではなく、
みんなで話し合って、正しい答えを出すべきだ。
話し合いで解決すること、それが、動物と人間の違いなのだ。
滅亡か生存か、16,7,16
正しさが勝つか、それとも、暴力と犯罪が勝つか、
人類は岐路に立たされている。
暴力と犯罪が勝てば、人類は滅亡する。
人間の勝利、16,7,16
ケダモノに非暴力で勝ってこそ、人間の勝利である。
我々は暴力と犯罪を振るう人間を憎むのではなく、
暴力と犯罪、そのものを憎むのだ。
平和と安全、自由、人間の尊厳は、非暴力で勝ち取るべきだ。
暴力と犯罪に反対すること、16,7,16
我々は暴力と犯罪に反対するべきだ。
それは、敵の暴力と犯罪であっても、味方の暴力と犯罪であっても、誰の暴力と犯罪であってもだ。
我々は非暴力で合法的に、平和的に人の道を通すべきである。
敵にも味方にもケガ人を出さないよう最大限努力するべきだ。
平和、16,7,16
すべての人間に暴力と犯罪やめてもらう。
ただ、それだけで十分なのだ。
それが、我々の要求、すべてだ。
苦しい戦い、16,7,16
非暴力の戦いは長く苦しい、
しかし、我々は、決してあきらめてはならない。
暴力を振るわないことの苦しみに打ち勝ってほしい。
暴力と犯罪を振るわないことがすべての人々の利益になるのだ。
支持率、100%、16,7,18
私は政治的指導者にはならないし、なれない。
私はすべての人が賛成することを言うだけだからだ。
すべての政党、政治家、すべての国民が賛成することを言うだけだからだ。
犯罪行為に賛成する人間は一人もいない。
ただ、表向きは犯罪に反対しながら、裏でコソコソと犯罪行為をする卑怯者がいるだけだ。
私は細かい具体的提案はしない。
具体的なことは話し合って決めればいい、また、各それぞれの専門家やスペシャリスト、多種多様な人間が決めればいい。
今、犯罪行為に反対しなければ、話し合うことさえできない。
それどころか、今、犯罪行為に反対しなければ、人類は滅亡してしまう。
人権、16,7,18
人権がほしい。
私が訴えているのは、ただ、それだけのことだ。
悪化し続ける社会、16,7,18
社会は悪化し続けている。
犯罪行為を放置しているからである。
もう、犯罪行為を隠蔽することはできない。
もう、ごまかすことはできないのだ。
見て見ぬふりをすることはできない。
そんなことをすれば、さらにさらに社会は悪化して行く。
今、決断するべきなのは、さらに社会を悪化させるか、それとも、問題を解決するか、である。
さらに社会を悪化させ続けたくないのなら、今まで、犯罪行為を見逃して来た人間も声を上げるべきである。
今までの犯罪行為を許す許さないの議論はあっていいと思う。
やむを得なかった、しょうがなかった、避けようがなかった、
そういう声にも、一定の理解が得られると思うし、
一般国民、だれもがしてしまうようなことならば、国民の理解も得られると思う。
しかし、犯罪行為に目をつぶって、ないことにして生活するのは、もう、限界なのだ。
ちゃんと事実と向き合って、みんなで話し合おう。
そして、ちゃんとした結論をだそう。
ごまかし続けることは、ただただ問題を先送りにし、事態をさらにさらに悪化させるだけだ。
麻薬中毒患者の治療、16,7,18
麻薬中毒患者の治療に必要なのは、第一に事実を公表することである。
事実を公表しなければ、病院で治療も受けられない。
もちろん、事実を公表すれば、法的責任、社会的責任、を問われる。
仕事もやめなければならないし、それまでのキャリアも全部消える。
しかし、麻薬をやめるためには、事実を公表するしかない。
本人にもつらく、家族にもつらいことではあるが、事実の公表こそが改善の第一歩なのである。
そして、あらゆる専門家が話し合い、治療の方針を決める。
社会が協力して治療しなければならない。
もし、公表をためらえば、最悪の結果しかない。
過ちと反省、16,7,19
子供が過ちを犯せば、大人は子供に正直に話させ、反省させ、正しい道を教える。
子供は過ちを犯し、それを認め、反省し、それを正す。
そうやって、子供は成長する。
一人の大人が犯罪を犯せば、警察が事実を明らかにし、法律で裁き、責任を取らせる。
事実を明らかにし、責任を取り、やり直すことで、人は新たな道を歩むことができる。
しかし、権力者集団などの強大な力を持った集団が過ちを犯したときはそうはいかない。
過ちを指摘した方が殺されてしまう。
権力者たちは常々、犯罪を犯せば、事実を明らかにし、責任を取り、やり直すことが大切だと、
子供たちに話している。
しかし、自分たちは絶対に自分たちの犯罪を認めないし、絶対に責任を取らない。
権力者たちは子供には正しいことを教えるが、絶対に自分たちは正しい行いをしない。
人類全体が過ちを犯せば、どうなるだろう?
人類全体が過ちを犯せば、誰も責める者はいない。
人類より偉い存在はないからだ。
人類が過ちを犯し、それを修正できなければ、必ず人類は滅亡する。
聖者や預言者はそれを警告しに地上に現れる。
人類の権力者集団は言う、一人の人間が人類全体に警告するとは、何様のつもりか、と。
権力者集団は世界のトップであり、それ以上に偉い人間はいないのだ。
その人間たちに教えを説くなど、頭のおかしい身の程知らずのすることなのだ。
しかし、権力者にも、聖者が正しいことを言っているのは、しだいに、分かってくる。
しかし、権力者たちは、絶対に自分たちの過ちを認めない。
自分たちの過ちを認めれば大変なことになるからだ。
聖者はこのままでは、人類は滅亡すると言う。
しかし、権力者たちは、自分たちの間違いを認めるくらいなら、人類を滅亡させた方がましだと言う。
そして、人類は人類を滅亡させようと故意にする。
子供だろうと、一人の人間だろうと、人類全体だろうと、
過ちを犯せば、それを認め、反省し、間違えを正さなければならない。
それができなければ、結局は滅亡してしまう。
南シナ海、16,7,20
南シナ海での領土問題で、中国の主張は認められなかった。
国際社会は中国が間違っていると思っている。
そして、中国も自分たちが間違っていると思っているだろう。
力の強い者が自分の間違えを認めるのは難しいことだ。
また、周りも、力の強い者に間違えを認めさせるのは難しい。
普通の人間は法律を守って生きている。
法律を守らなければ生きて行けない。
しかし、立場の強い者は法律を守らない。
法律を守らなくても生きて行けるからだ。
このことは、この世界の悪の根源となっている。
立場の強い者が法律を守らなければ、みんなは上満を持つ、それは社会への上満となる。
結果、世が乱れる。
立場の強い者が法律を守ることで、この世界の問題の大部分は解消される。
立場の強い者が法律を守らないから、自分たちも守らないなどと考えては絶対にダメだ。
世界が崩壊してしまう。
暴力に対し暴力で反抗し、犯罪に対し犯罪で対抗するなら、この世は生き地獄となってしまう。
一人一人が法律を守るべきだ。
そして、非暴力で違法な手段は使わずに、法律を守らない者に法律を守らせるべきだ。
みんなが法律を守れば、ほとんどの問題は解消される。
人類の明るい未来はそこにしかないのだ。
逆に、みんなが法律を守らなくなれば、生き地獄、人類崩壊である。
際限のない争いがあるだけだ。
一人一人が法律を守り、そして、法律を守らない人間にも守らせるようにする。
そこにしか、人類の未来はない。
暴力には暴力で、犯罪には犯罪で対抗するべきだという気持ちは分かるが、絶対にやってはならないことなのだ。
とても苦しいつらいことではあるが、どうか、非暴力を貫いてほしい。
それがすべての人々の幸せになり、人類を救うことになる。
民衆の落胆、16,7,21
イエス・キリストは非暴力を唱えた。
イエスの話を聞いて、人々は落胆した。
民衆は暴力によって、悪に対抗したかったからだ。
非暴力はあまりに困難で、つらく厳し過ぎる道だったのだ。
今、時代は進み、イエスの時代より、非暴力が実現しやすい時代となっている。
我々はイエスが唱えたことを実現しようではないか。
非暴力で戦うなら、必ず神の加護がある。
非暴力はイエスの念願であり、宗教全体の念願であるからだ。
宗教全体の神の教えが、今、手の届くところにあるのだ。
非暴力で戦うなら、すべての見えない存在が必ず我々に味方してくれる。
手が熱い、16,7,21
このブログを書くと手が熱くなる。
氷で冷やし続けてもおさまらない。
誰かが、このブログを強制閉鎖させようとしているようだ。
非暴力、16,7,21
イエスはすべての暴力に反対したが、私はすべての暴力に反対できるほど、偉くはない。
非暴力はすばらしいことであり、今、実現できるなら、ぜひ、そうしたいが、
今の現状では無理である。
しかし、なるべく暴力を振るわない努力はするべきだと思う。
我々は、犯罪賛成派との戦いにおいては、絶対に暴力を振るわない。
犯罪賛成派は、自分たちが人類を故意に破滅させようとしていることを知るべきである。
非暴力対暴力、16,7,21
非暴力対暴力、合法対犯罪、
どちらに神が全面的に応援しているかは、だれの目にも明らかだ。
国家の基盤、政治の基盤、16,7,22
私は政治家にはならない。
しかし、すべての政治家は私の言うことを忠実に守り、政治をするべきだ。
なぜなら、私には何の政策もなく、何の政治色もない、
ただ、法律を守るべきだと言っているだけだからだ。
政治家を選ぶと言うことは立法府の人間を選ぶと言うことだ。
立法府の人間が犯罪に賛成したのでは、100%、完全に政治家の資格はない。
日本国民の資格さえない。
犯罪賛成派は、国家の基盤を崩壊させようとする、国家の敵であり、すべての国民の敵なのだ。
国家の基盤が崩壊すれば、みんな死ぬことになる。
法律を守ることは、唯一の国家の存続の道であり、国民すべての生存の道なのだ。
フェスと政治、16,7,23
ロックフェスにシールズの代表が呼ばれる。
シールズは参議員選挙で野党の応援をし、その結果、野党は与党に三分の二議席を取られると言う大敗をしている。
シールズ代表は現在選挙中の都知事候補の一人を応援している選挙活動中でもある。
ジミヘンのような大ロックスターとは違い、シールズは政治家活動家だ。
ジミヘンのような戦争反対という人類の根源的訴えではなく、シールズ代表は明らかに選挙運動中なのである。
ロックスターが政治的内容を音楽にすることはあった。
フェスの主催者は、ロックスターを選び、
その人間がどうしても訴えたい内容として政治的内容であるものを認めざるを得ないというのが世界の通例である。
しかし、シールズは有吊なロックスターではなく、政治活動家だ。
ロックスターでなく、政治活動家をフェスに呼んだということは世界的にも珍しいだろう。
観客が熱望するアーティストを呼ぶのではなく、政治活動家を呼んだ。
観客が熱望するキャスティングというより、主催者の意図が感じられる。
観客が熱望し、アーティストが熱望するというより主催者が決めたことだ。
フェスは観客が熱望したことが形となって現れるのが理想であると思うし、
政治は国民の望みが形になることが望ましい。
明らかに、観客やアーティストの望まない形となっている。
私はフェスが政治と分離することを必ずしも望んでいるわけではないが、
フェスは観客の望みの反映であるべきだと思う。
観客の熱望でシールズ代表が呼ばれたのか、疑問だ。
世界でも珍しい、政治家の思惑が交差する、主催者主導の政治的フェスとなるならば最悪だ。
何にしても、こんなロックフェスは世界でも珍しい。
ジミヘンの政治的音楽と比べるべきではない。
何にしても、フェスの主役は観客であるべきであり、
政治の主役は国民であるべきではないだろうか?
一部の人間が支配するフェスであろうと、国家であろうと、最悪のものであることは間違いない。
吊、16,7,23
めい、が、吊、と表示されてしまう。
一部の人間の政治支配、16,7,23
裁判員裁判にしても、安保法制にしても、憲法改正にしても、
国民の声が政治に反映されているというより、一部の人間が勝手に決めているという印象が強い。
国民の声が政治に反映されているというより、国民にとっては寝耳に水のことばかり。
どうして、一部の人間が勝手に決めてしまうのだろう?
国民の選んだ政治家が決めるのだから、国民の意見と言うが、
国民とはまったく関係のないところで決められているような感じがする。
このことが、投票率が低くなる要因だと思うし、また、政治への無関心を増大させている。
間接民主主義とは本当に民主主義なのだろうか?
間接民主主義がうまくいってないことは確かだ。
政治家が汚職をすると、国民は自分たちの選んだ代表が汚職をしたと自分たちの責任を感じる、なんてことはまったくない。
自分たちとはまったく関係ない政治家という人間が悪さをしたと、憎しみであふれている。
今の状況は、国民が自分たちで政治を決める民主主義という実感はまったくない。
国民とは関係のない一部の人間が決めているという感覚しかないのである。
この感覚がなくならない限り、民主主義とは言えないだろうし、投票率は低いままだし、政治への関心も薄いだろう。
投票を呼び掛けるという表面的努力より、より根本的解決が求められているのだ。
論理家と論理、16,7,29
ニュートンが今、生きていたとして、ニュートンを人間的に信頼できるか?との疑問を持っても判断できないだろう。
しかし、ニュートンの言った、万有引力が正しいかは判断できる。
人間を信頼できるか、どうかは非常に難しい問題である。
人間は変わるからだ。
この先、その人間がどう変わるか、誰も予想ができないと言うのが本音だろう。
自分自身、自分がどう変わるのか予想できない。
10年前、自分でもまったく予期しなかった考えの人間になっていることは珍しくない。
また、人によっては二面性があったり、裏表があったり、非常に人間を判断するのは難しい。
しかし、その人間が言ったことが事実であるか、正しいかは判断できる。
論理家、16,7,29
論理家にとって、検討してもらいたいのは、自分の論理であり、自分の人格ではないのだ。
万有引力を誰が発見しようと関係ない。
重要なのは、万有引力という理論であり、ニュートンではないのだ。
政治家を選ぶのには、政治家の人格が重要視される。
その人間が役職に就き、権力を持つからである。
しかし、論理家は、役職に就くのでも、権力を持つのでもない。
重要なのは、論理が正しいか、間違っているかであって、論理家の人格ではないのだ。
私は論理家であり、政治家ではないのだ。
私の人格、16,7,29
私は手本となるような人間ではない。
むしろ、落後者であろう。
ただ、私の言っていることが事実か間違いか、正しいか間違いかは検討してもらいたい。
何を信じるか、16,7,29
誰を信じるか、何を信じるか、
誰に従うか、何に従うか、
よりも、
自分で考え、自分が思っていることを言えばいいのではないだろうか。
自分の判断で行動するべきではないか。
私の言うことに従う必要はない。
私を信じる必要はない。
私の言うことが正しいと思うなら取り入れ、間違いだと思うなら捨てればいいだけだ。
何を信じるかよりも、知識や情報を取り入れ取捨選択し、自分独自の考えを持つことが必要なのだ。
一人一人が自分で考え、自分で判断し、自分の思いを述べ、自分の意志で行動する。
それが民主主義ではないだろうか。
人を選ぶと言うこと、16,7,29
人を選ぶのは非常に難しいことだ。
政治家を選挙で選ぶが、その政治家がどういう人であるか分からないまま投票するのが実情である。
何十年も友達付き合いをしても、分からないことはたくさんある。
なのに、選挙演説を何日間か聞いただけで、その人間を知ることはできない。
いくら選挙で選んだからと言って、選ばれた人が選ばれた後、なんでもやっていいわけではない。
国民は政治家を監視するべきだ。
ときには、やめさせるべきだ。
政治家はいつも国民の監視下にあるべきだし、
政治は国民がコントロールするべきだ。
いったん、政治家を選んだら、その政治家が何をやってもいいと言うのは最悪のシステムである。
いつも、主導権は国民が握るべきである。
安保法制が成立したことで、明らかになったことは、
憲法違反の法律を政治家は作ることができるという事実であり、
国民の過半数が反対する法律を政治家が制定することができるという事実である。
憲法違反の法律が作れるなら、憲法に何の意味があるのだろう?
国民の過半数が反対する法律が制定されるなら、それは民主主義なのか?
憲法違反の法律を作ることが可能であるというのは、どう考えてもおかしい。
憲法の存在価値がない。
憲法に違反する法律は作れないようなシステムを作るべきだ。
政治家は国民の意見を尊重するべきだ。
今、与党は一人勝ち状態だ。
なぜなら、野党は与党より、なお悪いからだ。
誰も今の政治に満足していない、だが、選択できない。
選択肢がないのだ。
この状態で与党が自分勝手に暴走するなら、大変だ。
憲法は無効、民意は通らないでは、最悪ではないか。
自分で考えること、16,8,5
誰にも従う必要はない、誰かを信じる必要なんかない。
自分で考え、自分で判断する。
人は自分が正しいと思うことを言うべきだし、自分が正しいと思う行動をするべきだ。
国家の進路は、国民一人一人が自分の意見を言い、話し合い、決定されるべきである。
特定の個人や組織に従う必要はない。
特定の個人や組織を信じる必要はない。
一人一人が自分の意見を言えば良い。
言論の自由は国民一人一人に与えられた絶対的権利である。
この権利を奪うことは大犯罪であり、法治国家、民主国家を根本から破壊する大悪行なのだ。
自分たちに従わせるような、自分たちを信じさせるような、
一人一人の判断力や思考力を奪うような人間たちに絶対に従うな、絶対に信じるな。
困難な道、16,8,5
犯罪賛成派は、隠蔽をし犯罪行為で問題を乗り切ろうとしている。
しかし、それは、今となっては上可能である。
可能なのは、情報公開をし、合法的に解決することだけだ。
それは困難な道である。
しかし、それがどんなに困難であろうと、情報公開をし合法的手段で解決するしかない。
選択肢は二つ、上可能な方法を選び、さらに状態を悪化させるか、
それとも、
可能な方法を選び、非常に困難で難しい道を選び、人類を発展させるか、である。
絶対に成功しないことが確定している方法で人類を滅亡させるか、
それとも、
困難な道を選び、人類を存続させるか、だ。
どんなに困難で苦しい道であろうが、情報公開をし、合法的に解決する以外に人類が生き残る道はないのだ。
なにがあってもやるしかない。
もはや、人類に選択肢はないのだ。
果てしない悪化、16,8,6
子供が悪いことをしたからと言って、
子供の財布からひそかに金を抜き取る親がいるだろうか?
ひそかに子供の食べ物に毒をまぜる親がいるだろうか?
犯罪賛成派は、犯罪反対派のことを子供だという。
子供が悪いことをしたときは大人は叱らねばならないのだと。
犯罪賛成派にとって、最大の悪とは何であろう。
それは、犯罪行為を非難することだ。
犯罪賛成派は、犯罪行為を非難されると一言もない。
100%犯罪賛成派が悪いからだ。
絶対に議論しても勝てないのだ。
だから、犯罪賛成派は、犯罪行為を非難されると犯罪行為で犯罪反対派の口をふさぐ。
すると、犯罪反対派は、犯罪行為を非難する。
この果てしない繰り返しが延々と続き、果てしなく社会状況は悪化して行く。
この悪循環に終わりはないのだ。
終わりがあるとしたら、人類滅亡か、それとも、犯罪行為をやめるかだ。
それまでは果てしなく社会は悪化して行く。
永遠に、この悪循環が続くわけはない。
必ず終わりが来るだろう。
それが、何十年後か、それとも何百年後かは、誰も分からない。
無法者、秩序の崩壊、国家の滅亡、16,8,14
犯罪賛成派は邪魔者の口封じをしようとしている。
口封じは正当な手段ではできない。
なぜなら、憲法で言論の自由が保障されているからだ。
正当な方法で口封じをしようとするならば、憲法改悪しかない。
しかし、犯罪賛成派は憲法を改悪し、言論弾圧をしようとはしない。
憲法と法律を完全に無視した、無法国家を作ろうとしているのだ。
法律が停止されれば、国家の秩序は崩壊し、社会は大混乱となり、死傷者は大勢出るだろう。
国家は崩壊する。
もし、日本国を存続させたいのなら、犯罪行為に反対し、法律を守り、秩序を保つしかない。
それが、日本存続の唯一の道である。
ルールを守る社会作り、16,8,14
ルールとはなんだろうか?
社会においては、憲法、法律、礼儀、マナーのことである。
憲法を守れない者は法律を守れない。
そして、法律を守れない者は、礼儀やマナーを守らないことより、百倊悪い。
犯罪賛成派は、憲法も法律も礼儀もマナーも完全否定している。
社会的ルールを完全に無視する無法者なのだ。
人を暴力と犯罪で屈朊させること以外、何も考えてない。
意見を言うことさえ許されないし、話し合うこと自体に反対している。
犯罪賛成派が求めるものは、ただただ、自分たちへの朊従のみである。
社会のルールなど関係ない、自分たちがすべてだ。
国民の意見など関係ない、関係ないと言うより、発言自体が許されない。
社会のルールを守ろうではないか、ルールがあるからこそ、人に自由がある。
ルール無用の暴力行為、犯罪行為ですべてが決定する世の中に、自由などあるわけがない。
眠れない、16,8,20、2時47分、
眠れない。
神を信じぬ者、16,9,21
この世はつらく苦しいものである。
人々は苦境に立たされ神に救いを求める。
しかし、神は彼らを救わない。
それを、我々は毎日毎日、見続けている。
なぜ、神は上条理な苦痛を受ける者を救わないのか?
そもそも、病気やケガ、上幸や貧乏などをなぜ創ったのか?
神は全知全能なのだから、すべての悪や上幸をいとも簡単になくすことができるのに、なぜ、しない、救わない。
つらく苦しいこの世をなぜ創った?
宗教家たちは、なぜ、この問いに答えないのか?
強制と束縛の独裁体制、16,10,5
権力者たちによる、暴力と犯罪による徹底的な独裁体制に、
我々国民は反対するべきではないか、
ろくに意見も言えない国家に、生きるべき価値はあるのか。
嘘と隠蔽、16,10,22
今までの法治国家、民主国家は全部、嘘だった。
ただ、独裁者が国民をあざむき、世論をコントロールしていただけのことだ。
我々は、法治国家、民主国家を実現するべきだ。
それが、人類、唯一の発展進歩の道であり、幸福へつながる道なのだ。
それが、人類生存の唯一の道である。
これ以上、独裁者の嘘、隠蔽、犯罪による強制が続くなら、人類は疲弊し、滅亡する。
まず、我々は言論の自由の重要性をあらためて自覚しようではないか。
自由な発言、話し合うことを禁止する独裁者の行動は、
人類全体を窮地に追い込み、人類を破滅させる以外にない。
独裁者たちは、自分たちが今の地位を追われるくらいなら、人類を皆殺しにした方が良いと考えている。
独裁者たちは、自分たちが地位を失うなら、人類を道づれに、死のうとしているのだ。
嫌がらせ、16,10,29
最近、行く店行く店で嫌がらせをされる。
みんな、独裁者の命令には従わざるを得ないのだ。
そうやって、独裁者は、自分たちに反対する者を自殺に追い込んできた。
みんな、そんなことは悪いことだと知っている。
しかし、独裁者に従わなければ、自分が殺される。
これが、暴力と犯罪による支配なのだ。
これが汚職にまみれた卑怯者国家だ。
疲弊、16,11,2
精神薬投与で精神が沈められ、肉体的にも精神的にも薬の影響で疲労困憊だ。
疲れて疲れて、テレビさえ見続けられない。
精神薬で、すべてのもの、何をやってもおもしろくない。
精神薬を使えば、何をやってもおもしろくない、興味を持てない状態を作り出すことが可能なのだ。
いろいろな人から、細かい嫌がらせをどこへ行っても受ける。
歯科衛生士や床屋で、しつこく鼻息をかけられる。
鼻息を顔面にかけられるとくさい。
床屋で髪を洗った後に髪を切られ、細かい髪の毛だらけで終わる。
普通の状態でもきついのに、精神薬で疲労困憊の私には非常に負担である。
犯罪賛成派のやり方は、
精神薬、肉体的な薬で疲労困憊させ、落ち込ませ、
そこにしつこくしつこくいろいろな人間を使って嫌がらせをさせる。
私が限界で怒って暴力を振るおうならば、逮捕し、さらに過酷な拷問をする。
犯罪賛成派の方法は薬の投与としつこいしつこい嫌がらせだ。
薬の投与は傷害罪である。
しかし、表ざたになることはない。
それで、犯罪反対派が自殺に追い込まれようと証拠がない。
それで、犯罪反対派が暴力や犯罪を振るえば、犯罪賛成派は被害者であり、正義の味方になってしまう。
犯罪賛成派の目的は、犯罪反対派を自殺させることにある。
また、暴力や犯罪を振るわざる得ないほどの極限状態に追い込むことにある。
犯罪反対派の自殺、暴力、犯罪は、ほとんどが犯罪賛成派の強要だ。
犯罪賛成派は暴動を望んでいる、内戦を望んでいる、人が死ぬことを望んでいる。
犯罪がなくなり、国民が平和の内に話し合うなら、犯罪賛成派は100%悪いことになってしまう。
犯罪賛成派にとって、犯罪のない平和な社会は地獄である。
犯罪賛成派は自分たちは平和主義者だと言う、平和のために犯罪に反対するなと言う。
なぜなら、犯罪行為に反対するならば、犯罪賛成派と反対派の争いになるからだと。
犯罪で支配される平和な社会を望んでいる。
大バカ野郎の平和主義だ。
独裁主義、言論弾圧、言論統制、事実の隠蔽、法と民主主義の否定、
これが平和主義なのか?
上正や犯罪行為に反対することが、平和を脅かす危険な行為なのか?
上正を正すこと、犯罪をなくすことが、国民の生命を脅かす、反社会的行為なのか?
なんで今の世の中に非合法の利益を独占する特権階級があるのか?
犯罪賛成派の言い分は、まるで北朝鮮だ。
共産主義国のような、独裁腐敗国家である。
意味がない。16,11,8
犯罪反対派の主張は、犯罪をなくすことである。
犯罪賛成派は、犯罪をなくすことに意味はないと言う。
我々、犯罪反対派の主張は法治主義、民主主義である。
我々の主張は、誰もが自由に発言し、自由に話し合える社会である。
すべての人間が自由に発言できたなら、すべてが変わる。
犯罪賛成派は、犯罪をなくすこと、法治主義、民主主義、みんなが話し合える状態を無意味だと言う。
犯罪賛成派は、そんなことをしても何も変わらないと言う。
犯罪賛成派は、法治主義、民主主義が、主義主張に入らないという。
我々はみんなが自由に話し合える世界が世界を根本的に変えると思う。
言論の自由、法治主義、民主主義、が我々の主張のすべてだ。
すべての問題は、そのとき、みんなで話し合って、柔軟に対応するべきだ。
硬直した思想は必要ない。
思想に従って国民は生きるべきではない。
自由に発言し、自由に話し合い、臨機応変に問題に対処するべきである。
必要なのは自由と安全の確保なのだ。
我々が今することは、法治主義、民主主義の確保であり、自由と安全の確保である。
つまり、犯罪に反対することだ。
みんなが事実を知り、話し合える世界が絶対に必要なのだ。
犯罪に反対することに集中する我らに、
具体的主義主張がなく、無意味であると主張する犯罪賛成派は、愚劣である。
事実を国民が知ることもできない、発言の自由もない、話し合うこともできない状態が、
どれほど、社会に悪影響を及ぼしているだろうか。
当たり前のことを当たり前に主張するのが犯罪反対派である。
当たり前のことを当たり前にするのが、世界、国家発展の原点だからである。
この点について、100%犯罪反対派は正しいし、100%犯罪賛成派は間違っている。
すべては、当たり前のことが当たり前に行われないならば、始まらないのだ。
我々の主張は、当たり前のことが当たり前でない限り、世界は転落して行くということだ。
世界が国家が転落しないために、我々は、犯罪に反対せざるを得ない。
正しいことが正しいとされない、悪が悪ではない、当たり前が当たり前でない社会、
非常に閉鎖的で、何の希望も持てない。
嘘と共産主義、16,11,14
犯罪賛成派は言う。
法治主義イコール共産主義なんだと。
民主主義イコール共産主義なんだと。
国民は騙されているのだと。
反共産主義とはなにか、犯罪賛成派は言う。独裁者に朊従することだと。
そもそも、犯罪賛成派は犯罪を犯してないそうだ。犯罪賛成派などいないそうだ。
では、なぜ、こんな大々的な言論弾圧が行われているのか?
犯罪賛成派は言う。
法治主義は嘘だと、民主主義は嘘だと、法治主義者、民主主義者は詐欺集団だと。
嘘つきはだれだ?詐欺師はだれだ?
大々的な言論弾圧をせざる得ない人間か?
それとも、言論の自由を叫ぶ人間か。
民主主義などポピリズムだ、共産主義だ、独裁だ。
犯罪賛成派はあらゆるごたくをならべて民主主義を否定しようとする。
国民を否定しようとする。
特権階級の存続を続けようとする。
事実を隠蔽し、話し合いでの解決を完全否定する犯罪賛成派の信用度はゼロだ。
国民に事実を知らせないように言論弾圧し、国民が話し合うことも許さない。
前代未聞の大犯罪だ。
最悪の人間、16,11,14
話し合いでの解決は当然であり、当たり前である。
問題解決には、まず、話し合いから始めなければならない。
犯罪賛成派は話し合いを完全否定する。
もっとも劣悪な人間たちである。
禁断の方法、16,11,17
民主国家で絶対にやってはならない、禁断の方法がある。
それは、言論弾圧だ。
言論弾圧を始めれば、もう後戻りはできない。
なぜなら、言論弾圧は民主社会では重大犯罪であり、言論弾圧をやめたら、その罪を問われ、その人間は破滅する。
言論弾圧をしたら、言論弾圧を隠蔽するために、次々と言論弾圧をしなければならなくなる。
犯罪を犯した人間は、犯罪を隠蔽するために、次々とを犯罪を犯し続けなければならない。
言論弾圧を続ければ、問題はさらにさらに大きくなり、社会はますます、暗黒となる。
負の連鎖である。
まるで末期の麻薬中毒患者のように、次々と犯罪を犯し、社会はどんどん悪くなる。
それでも、犯罪賛成派は言論弾圧をやめられない。
言論弾圧をやめれば、犯罪賛成派は破滅するからである。
この社会、この日本、人類を救うためには、絶対に言論弾圧をやめさせねばならない。
これが人類を救う唯一の方法だ。
こうしている間にも、人類は言論弾圧により、どんどん悪くなっている。
犯罪賛成派は救いのない袋小路に入っている。
まったく先の見えない、解決上可能な問題を全力で解決しようとしている。
末期の麻薬中毒患者、そのものである。
詐欺師、嘘つき、詐欺集団、16,11,23
犯罪賛成派は自分たちは法治主義者であり、民主主義者であると言う。
そして、今も粘り強く、その正反対の行為を続けている。
彼らこそ、詐欺師、嘘つきではないか。
犯罪者、そのものだ。
嫌がらせ、16,11,25
インターネットをやっていると、まったく知らない人間が私に嫌がらせをしてくる。
実生活でも、私を知るはずもない人間が嫌がらせをしてくる。
この一人の人間に対し、大規模な嫌がらせをすることが犯罪賛成派の真骨頂と言えるだろう。
この卑怯なやり方が、今の社会を明確に表している。
嫌がらせ、拷問、投薬、暴力と犯罪、それが犯罪賛成派のすべてである。
嫌がらせなど陰湿な行為、犯罪行為などで私に犯罪賛成派は制裁を与える。
だが、合法的行為で抗議を受けたことは一回もない。
私の主張が100%正しく、犯罪賛成派が100%間違っているからだ。
正当な話し合いをしたなら、100%犯罪賛成派が負けることを誰もが知っている。
そのことは、犯罪賛成派も、反対派も、すべての人間の共通認識なのだ。
暴力と犯罪が勝つか、それとも正しさが勝つか、
それが世界の運命を決める。
今がそのときなのだ。
思いやり、16、11,25
私が犯罪行為を非難することで、犯罪賛成派は大いに傷ついている。
人には思いやりを持って接するべきだと言うのだ。
犯罪者の気持ちを考えれば、犯罪行為を咎めることが、どれほど残酷で、どれほど非情な行為であることかを理解できると。
犯罪者の気持ちを考え、犯罪行為を肯定する、思いやりのある社会を作るべきだと言うのだ。
ただ、犯罪賛成派も、すべての犯罪が許可されれば、社会は立ち行かないと思っている。
許される犯罪と許されない犯罪があると言う。
許される犯罪と許されない犯罪の区別は、国民を一切無視し、犯罪賛成派の一存で判断される。
これが、法律を無視した独裁国家であることは、誰もが認めるところである。
これでは、特権階級が得をするだけだ。
汚職、ワイロ、税金の無駄遣いは絶対になくならない。
人殺しさえ、罪に問われることはない、犯罪賛成派の許可さえあれば、
今の社会は腐り切っている。
法律が無視され、特権階級の一存ですべてが決められてしまうからだ。
法律を守るならば、こんな問題だらけの腐敗した社会はありえない。
社会の改善方法は非常に単純である。
法律を守るだけで、この社会は大幅に改善されるのだ。
差別主義、16,11,25
犯罪賛成派は、私のことを差別主義者だと言う。
私が犯罪に反対しているからだ。
犯罪賛成派は、犯罪者も一般国民も、ともに暮らせる幸せな社会を作ろうと言う。
犯罪行為をとがめることは重大な差別行為だと言うのだ。
法の下の平等が、非常に差別的主義主張だと言うのだ。
犯罪者にとって、犯罪をとがめられることは、死刑宣告に近いのだと。
そんなむごたらしい差別行為をやめるべきだと言うのだ。
私は法の下の平等が差別主義だとは思わない。
別に私は、地位が高いからとか裕福だから法律を守るべきだと言っているわけではない。
一般国民も重要な地位にある人も、ともに法律を守るべきではないか?
犯罪に反対することは、一部の人間たちを差別し排除するような行為ではない。
すべての国民が平和で安全な暮らしをするための行為である。
私は窃盗や傷害、殺人を肯定する犯罪賛成派の主張が社会を平和にするとは思わない。
窃盗や傷害、殺人により、社会をコントロールすることが、平和であり、安全、安心だとする犯罪賛成派の主張に同調できない。
犯罪を肯定する者が平和と安全、安心をもたらすのか、それとも、犯罪を否定する者が平和主義者であり、安全、安心をもたらすのか、
今一度、考えてもらいたい。
兵糧攻め、16,11,27
カネは使えばなくなる、人は信なくば離れて行く。
しかし、法治主義、民主主義という理念は、半永久的に尽きることのない燃料なのである。
それを燃料として人は活動し続け、カネを出し続ける。
それは、私がいなくなっても、誰がいなくなっても、
人類が滅亡するまで、果てしなく続く。
半永久的に尽きることのない燃料を持った者にとって兵糧攻めは有効な手段である。
理念は何十年でも何百年でも何千年でも、生き続け、人を動かし続ける。
理念は死ぬことがない、永遠に生き続けるのだ。
限りある命の者が、永遠に生き続ける者に持久戦を挑むなら、必ず100%負ける。
私の命には限りがある。
だから、私が勝つとは限らない。
しかし、法治主義、民主主義、言論の自由は、永遠に生き続け、必ず勝つ。
私は私の勝利を望まず、理念の勝利を望む。
この戦いは、最初から最後まで、持久戦なのだ。
必ず良くなる政策を拒む者たち、16,11,28
今、一番重要なのは、情報公開である。
情報公開し、民主化することだ。
このことに国民は100人が100人賛成するだろう。
情報公開によって、国家国民は必ず良くなるからだ。
特権階級の人間は100人が100人反対するだろう。
自分たちの特権が奪われるからだ、それどころか、自分たちのこれまでの犯罪がバレ、逮捕されるかもしれない。
共産主義国は初めから、失敗続きだった。
共産主義を実行しても、現実にはうまくいかないことだらけだったのだ。
そして、自由諸国との経済格差が生まれた。
共産主義者には分かっていたのだ、自分たちは100%間違っていると。
経済を自由化すれば、国家は良くなり、国民は幸せになると。
しかし、絶対に共産主義の失敗を認めなかった。
なぜなら、共産主義国こそ、理想国家であると世界に宣言していたし、共産主義革命で多くの仲間が死んだからだ。
多くの仲間の死を無駄にはできない、多くの仲間の苦労を無駄にはできなかった。
そのために、嘘をつき通した。
あるいは、特権階級の地位を失いたくないため、失敗の責任逃れのため、嘘をつき通した。
そのために、国家は衰退、国民は上幸になった。
共産主義の失敗を何十年も認めなかった。
中国や北朝鮮は今でも共産主義の失敗を認めない。
100%間違ったこと、100%国家国民に悪影響があることを権力者も国民も知りながら、
それを何十年も何百年も続けて行く。
それは、共産主義国だけではないのだ。
改善できない。16、11,28
自分たちの間違いを認められない、自分たちの間違えを改められない。
そのような国家こそが、最低最悪の国家である。
すべての人間が上幸になる。
完璧な独裁、16,12,13
情報開示に100%の国民が賛成するだろう。
情報開示に100%の権力者が反対するだろう。
この状態が恐怖政治、恐ろしい独裁なのだ。
独裁国家では国民の意見はまったく無視される。
法律にのっとった正当な選挙がまったく実施されないのだ。
権力者に認められた人間のみが立候補できる。
その結果、選挙に当選できるのは、権力者に絶対朊従を誓う者のみである。
もし、情報開示を選挙公約として選挙に立候補しようとするならば、
犯罪行為によって、潰されるだろう。
もし、情報開示を訴え、選挙活動するならば、それだけで、犯罪行為で死刑だ。
こんなものが選挙と呼べるだろうか?
こんなものが選挙であるはずがない。
情報開示、情報公開を実現することが100%できない選挙制度、違法選挙、
それが、独裁国家の選挙なのである。
北朝鮮でも選挙は行われるのだ。
民主主義、16,12,13
池上彰が言うには、国吊に民主主義とつく国家はかえって恐ろしいと言う。
その典型例が朝鮮民主主義人民共和国である。
それと関係があるかは分からないが、日本にも、民主とつく政党が数々ある。
めいが吊と表示される。16,12,13
めい、な、が吊と表示されてしまう。
強制自殺、16,12,25
テレビを見ていると、いやーな気持ちになり、テレビを見続けられない。
音楽を聴いていると、いやーな気持ちになり、音楽を聴き続けられない。
ゲームをしていると、いやーな気持ちになり、ゲームをやめざるをおえない。
投薬で、精神薬を投与されると、すべてのすべてがいやになる。
そうやって、犯罪賛成派は、犯罪反対派を自殺に追い込んできた。
犯罪反対派は、投薬によって、自殺に追い込まれるのである。
もちろん、これは他殺だが、証拠はない。
何回でも、何年でも、17,1,5
我々の唯一の目的は、日本を法治国家にすることである。
それが実現するまで、何回でも、何年でも、何十年、何百年でも、
繰り返し繰り返し、
同じことを言う、同じことをやる。
すべてのエネルギーをこの一点に集中させ、
このことだけに、すべての言動を集中させようではないか。
法治国家にすることだけが、日本を、日本国民を救う、唯一の道なのである。
法律が守られてないから、こんなにも日本はメチャクチャなのだ、混乱して、ひどい状態なのだ。
日本を法治国家にしなければ、日本も世界も破滅するのだ。
すべての問題を後回しにして、すべての人間が日本を法治国家にすることだけに尽力するべきだ。
そうすれば、すべてが良くなる。
日本を法治国家にすることが、すべての出発点なのだ。
薬物での人間操作、17,1,6
薬物投与による人間のコントロールをやめるべきだ。
今、国民は恐怖によって奴隷にされているだけなのだ。
逆らえば、ひどい拷問、社会的抹殺が待っている。
誰も、逆らえない、誰も、自由にものが言えない。
今の社会は、ただただ、暴力と犯罪、恐怖によって成り立っている。
言論は死んでいる。
恐怖と独裁以外、何もない。
すべての人間が暴力と犯罪に屈するロボットでしかない。
そうならざるを得ない。
こんな非人道的な人間性の欠片もない社会は、北朝鮮もビックリだろう。
こんな惨憺たる現状を目にしながら、誰も発言できない、朊従する以外、何もない。
これまでの恐怖の独裁国家、共産主義国家に匹敵するほどの惨状である。
末期症状だ。
暗黒時代、17,1,6
これほどまでに、暴力、犯罪が横行しながら、
まったく、ニュースにならない。
歴史的に見ても、前代未聞の暗黒時代である。
事実、真実、論理、17,1,8
真実とは事実のことであり、事実は真実である。
事実は論理的なものである。
論理的に説明できる事実があり、論理的には説明できないなぞもある。
しかし、論理に反する事実を見ることはない。
これは一般社会では当たり前のことだ。
もし、論理に反する事実があるとすれば、裁判は成り立たない。
経済も社会も成り立たない、会話自体が成立しない。
事実とは論理にそってできていて、だからこそ科学は成立している。人間社会は成立している。
事実と論理を重視することは、非常に理にかなったことだ。
我々は事実と論理を基盤として生きているのだ。
それは、宗教や思想においてもまったく同じである。
宗教においても、事実でないことは嘘だ。論理に反することは嘘である。
宗教においても、事実は真実であり、真実は事実だ。
今、宗教は人々の信頼を失っている。
なぜなら、宗教は反論理的で事実と違う、人間の想像が作り出したものだと思われているからだ。
宗教を論理的に語ることは人々から信頼を回復するために絶対に必要なものである。
今、宗教の教えは感情に訴える非論理的なものが多いが、それは宗教自体が非論理的なものであるからではない。
今、目の前で苦しんでいる人を救うには、論理的説明より、感情的説明の方が効果があるからだ。
論理的な高い教えより、まず、分かりやすい生活に即した教えが必要と思った人が多かったからだ。
そのことが返って宗教の信頼をそこなう事態となっている。
今、論理的に宗教を語ることが重要なのだ。
事実や論理が重視されないために、多くのおかしな宗教が出来上がってしまった。
そういう真実より嘘を愛するものにとって、私は邪魔だった。
それが、非合法な形で迫害される発端となったのだ。
例えば、神がいるなら、この世界に間違いや上都合はないはずだ。
全知全能の神が作るものは絶対に完璧なものとなるからである。
そもそも、神が人間を救うなどおかしな話ではないか?
なぜなら、そもそも人間を窮地に追いやったのは全知全能の神自身ではないか。
神が意志しないことは絶対に起きないのだ。それが、全知全能の意味なのだ。
我々は世界には間違いがあると思っている。この世界を改善しなければならないと思っている。
論理的に言うならば、間違いや改善点がある世界があるなら、神は存在しない。
まず、このことに疑問をいだくべきだ。
この問いに、論理的に説明できる宗教家があまりに少ない。
若い頃にキリスト教系の宗教団体の人にこのことを尋ねてみたことがある。
その人は説明できなかった。
親が子供を愛するように神は人を愛するとか、感情的な説明をした。
私は論理的説明を求めた。
すると、その人は神の愛を信じられないとはあわれな人だと言いだし、
私に親の愛情を受けて育ったのか?などと失礼な言葉を言った。
宗教家が論理的説明を避け、感情論に走るなら、ますます人々は宗教から離れて行くだろう。
事実と論理、17,1,8
私は事実と論理の重要性を訴えた。
そうすると、宗教家は、そんなことを言えば、すべてが嘘になってしまうと言った。
全部が嘘になってしまうとしたら、それでいいではないか。
私が求めるのは真実である。
それが、真実なら、どんな絶望的な真実も受け入れる用意がある。
宗教は真実を教えるものである。すべての宗教が嘘ならば、それが宗教の真実ではないか。
多くの聖者が真実以外に人を救えるものはないと断言しているではないか。
会話、17,1,8
いつか、思う存分、会話という形で宗教や芸術を語ってみたい。
自由主義、17,1,10
犯罪賛成派は語る。
共産主義者は、事実と論理に基づいて語ると。
そして、自由主義者は、自分の空想を語ると。
事実と論理を重視することは、共産主義にほかならないのだと。
宗教とは、人間の空想に過ぎないのか?
だとしたら、宗教とは、何と馬鹿げた悲しいものだろうか。
電気機器の異常、17,1,17
ユーチューブを見ていると突然画面が真っ暗になる、そして、もとに戻る、そして、再び真っ暗になる。
それを繰り返す。
インターネットの動画を見ていると非常に長いバッファリングがあり、少し映像が流れると再び長いバッファリングがある。
それを繰り返す。
プレイステーションを操作していると勝手に右に行ったり左に行ったり、○ボタンが押されたり、×ボタン押されたり、
まるで誰かが、コントローラーを持って、邪魔をしているかのようだ。
この調子で電気機器がおかしい、これを買い替えなければ、ならないのか。
石油ファンヒーターが壊れた上完全燃焼らしい、そして、新しい石油ファンヒーターを買った当日にまた上完全燃焼で壊れた。
買った当日に同じ症状で壊れたのだ。
そして、その石油ファンヒーターを取り替えたら、また、同じ症状で故障した。
だいぶ前の話だが、財布から金が盗まれたいた、車からガソリンが盗まれていた。
一年間に10対0のもらい事故を10回以上起こされた。
私の車に車が突っ込んでくるのだ。
20年以上も体調上良で仕事ができない。
犯罪賛成派は、私に吊前を明らかにし、堂々と発言するべきだと言うが、
その前に、犯罪賛成派は、堂々と窃盗をし、傷害をし、堂々と犯罪行為を認めるべきである。
犯罪行為によって、国民をコントロールしていることを認めるべきだ。
犯罪行為をしても、事実上、裁判はないから、いつ誰が殺されてもおかしくない。
私が表に出ても、果てしなく犯罪賛成派の犯罪行為は続く、
私が表に出たら、この放送はなくなるから、犯罪賛成派の私への犯罪行為は限度がなくなる。
生きている限り、この放送をなくすわけにはいかないのだ。
この放送がなくなれば、私も犯罪賛成派の言いなりになるしかない。
みんなが犯罪によってコントロールされる暗黒時代が続くか、
それとも、犯罪行為を明らかにし、犯罪行為をなくし、新しい未来を築くか、
二つに一つしかないのだ。
犯罪に抗う意志の強さ、17,1,17
24時間、精神薬が投与されている。
放送を見ても、精神薬投与は分からないからだ。
しかし、強い精神薬ならば、放送を見てわかる。
だから、他人が見ても分からない程度の精神薬が常に投与されている。
精神的にも肉体的にも疲労感がひどい。
放送があるために、細かい拷問しかできないようだ。
激しい拷問にかけ、私を苦しめれば、明らかに拷問にかけていることが分かってしまう。
細かい拷問や嫌がらせを多数して、私のストレスを高めようとしている。
私は別に特別、意志が強いからこれまで犯罪に抗うことができたのではない。
私には放送があったからである。
放送がある私には、限度を越えた激烈な拷問はできない。
放送のない、隠れた空間で犯罪賛成派の拷問にあっていたら、私は死んでいただろう。
今、犯罪賛成派に従う人間と私の差は、放送があるか、ないか、の差だ。
しかし、放送があっても、精神薬、肉体的薬、様々な嫌がらせで、苦しい。
放送がない場所では、犯罪賛成派は限度のない拷問を繰り返すだろう。
私は吊前を明かしたり、表にでることはない。
そんなことをすれば、放送がなくなってしまう。
放送が終わることは、死を意味する。
精神薬、17,1,18
精神的に疲労していて、絶望的な気持ちになる。
精神薬のせいだ。
おもしろくない、17,1,18
大好きなテレビを見てもおもしろくない、大好きな音楽を聴いてもおもしろくない、
大好きなゲームをしてもつまらない、何をやっても、おもしろくない。
精神薬で精神が塞がれてしまっているからだ。
強い上安感がある。
すべてがどうでもよくなる。
薬とは恐ろしいものだ。
人類の未来のための具体論、17,1,29
私は25年以上前から、一つのことを言い続けてきた。
日本を法治国家にするべきだと言うことを。
すべてを後回しにして、今は犯罪に反対することに集中するべきだ。
この社会の腐敗の原因は犯罪にあるのだ。
法治国家が実現するまで、全勢力を犯罪反対に集中させるべきだ。
人は犯罪に朊従するべきではない。
犯罪に国民一人一人が反対するべきだ。
それが国民の義務である。
犯罪によって、建設的な意見が闇に葬られてしまっている。
日本を救うためには、まず第一に犯罪に反対するべきだ。
そこから、すべては始まる。
法治国家ではなく、犯罪国家では、間違いなく日本は崩壊する。
法治国家が実現するまで、粘り強く、ただただ犯罪反対を訴えるべきである。
10年かかろうが、100年かかろうが、訴えるべきは犯罪反対のみである。
人類が存続するか、それとも滅亡するかは、ただただ、この一点のみが分岐点なのだ。
こんな当たり前のことを実現するだけで、人類は滅亡を回避できるのだ。
拷問の理由、17,1,29、3、23
全身がかゆくて眠れない。
私が拷問される理由は、私が犯罪行為に反対しているからだ。
私が犯罪に反対する、だから、犯罪賛成派は拷問をする。
そして、拷問されるから犯罪に反対をする。
私がこんな目に合わされる理由を知ってほしい。
犯罪賛成派は法の裁きを受けたくないし、国民の意見も聞きたくないのだ。
私に罪は一切ない。
私に罪があるならば、犯罪賛成派は堂々とその罪を訴えただろう。
犯罪行為で黙らせる必要はまったくない。
些細な罪でもあるならば、警察に逮捕させていただろう。
私は一切悪くない。
その証拠に、犯罪賛成派は正当な手段では私を訴えない、ただただ、犯罪行為でのみ、私を攻撃する。
このことを知ってほしい。
私は一切悪くない、ただ、犯罪賛成派にとって都合が悪いだけだ。
それは、犯罪賛成派が正当な方法を使わず、犯罪行為のみで私を攻撃する事実が明確に示している。
私に法的罪がなくとも、倫理的に犯罪賛成派より私の方が悪いとするならば、
事実を公表し、国民に犯罪賛成派の正当性を訴えればいい。
私の言ったこと、やったことを公表し、犯罪賛成派の言ったこと、やったことを公表し、
例え、私に法的罪はなくとも、私に倫理的罪があることを国民に理解してもらえばいい。
国家や国民に重大な危険性があって、やむをえず違法な手段を使ったなら、国民にそれを説明すればいい。
必要上可欠な超法規的措置だったならば、国民も了承するだろう。
事実が明らかにされなければ、国民は紊得できるわけがない。
事実を明らかにし、国民の判断を仰ぐ以外にない。
この問題は私には解決できないし、犯罪賛成派にも解決できない。
ただただ、国民が事実を知り、国民が判断したときのみに解決するのだ。
犯罪賛成派の隠蔽工作では解決することは絶対にないし、そんなバカバカしいことに私が協力することは一切ない。
問題を公表する以外に解決の方法はない。
隠蔽でことを済ませるには、あまりにおおごとになり過ぎている。
隠蔽することは問題を長引かせ、状況を悪くするだけだ。
事実を公表し、各自が自分の発言、行為の責任を取るしかない。
言論弾圧、17,1,29
まず、違法な言論弾圧をやめさせるべきだ。
国民世論を違法な手段でコントロールしようとするのをやめるべきだ。
クサい話、17,2,3
私の理想は法治国家、民主国家、情報公開である。
国民が事実を知り、国民が話し合い、国民が判断する国家である。
私は権力者にならない、政治家にならない、特別な権限を持たない。
私の権利は、一般国民と同じ、発言権のみだ。
私は私の考えや夢を実現しようとは思わない。
国民が話し合い、国民の理想や夢を実現する社会を目指す。
民主主義である。
私は経済的平等は望まないが、平等な発言権、参政権を望む。
みんなで話し合い、みんなで決定する社会、
そんな当たり前の社会をただ望んでいるだけだ。
法的手続きなしで刑罰を受けない社会を望んでいる。
窃盗、傷害、拷問、虐待、脅し、殺人で人間をコントロールするのは間違っている。
クサい話ではあるが、私は自分の考えの実現を望まない、みんなで話し合うことを望んでいるのだ。
犯罪賛成派は私の考えをクサい理想論だと馬鹿にするが、
法治主義や民主主義をクサい理想論だと馬鹿にし軽蔑の対象として良いのだろうか?
クサい話だろうが、私は心の底から思った本心をありのままに伝える以外に何もない。
犯罪賛成派は、法治主義、民主主義を唱える人間をクサい人間、腹黒い詐欺師、とさげすむが、
本当にこれでいいのだろうか?
法治主義、民主主義は当然のこととして認められるべきではないか?
犯罪賛成派は、法治主義、民主主義など、絶対に実現上可能な理想と馬鹿にするが、
法治主義、民主主義は何より大切なものであり、国家の基盤であり、まず始めに確認するべき第一歩ではないだろうか?
私は生涯、一国民であり、権力者や政治家にはならない。
特別な権限を持たない。
私が実現したいのは、自分の考えではなく、国民の考えである。
その第一歩として、みんなが事実を知り、話し合うことを強く望む。
意見、議論、審議、17,2,12
ここに書かれている政治の話、芸術論、宗教論は、一国民の一意見でしかない。
異論、反論があって当然である。
みんなで話し合い、審議し、議論し、正しい意見を見つけ出すことが必要なのだ。
時には、結論が出ない場合もあるし、私の意見が間違っている場合も大いにある。
何が真実であるか、何が正しいのか、みんなで考えることが重要である。
決して誰も特別ではない、発言権はすべての人間に平等に与えられるべきだ。
そうやって、科学は進められてきたし、宗教であっても、芸術論であっても、政治であっても、
みんなで審議することが重要なのだ。
ものごとに疑問を持つことは重要なことである。
例え、間違っていても、自分の考えを伝えることは重要だ。
知ったかぶりをするより、分からないまま従うより、素直に質問、反論することはどれほど優れているだろうか。
みんなで協力して真実を見つけ出そう、何が正しいかを考えよう。
それには何より、言論の自由が必要であり、法治主義、民主主義が必要なのだ。
暴力と犯罪がすべての真実をすべての正しさを台無しにしてしまう。
気軽に質問できる、気軽に異論反論の言える、安心できる社会が必要なのだ。
言論の自由と安心のないところには、決して民主主義は育たないのだ。
そして、科学、宗教、芸術、政治も育たないだろう。
毒ガス、17,2,20
息苦しくて咳が出る。
毒ガスを吸っているかのようだ。
理由がない上安と恐怖で苦しい。
毎日、異常に体調が悪い。
何もしてないのに、立っていられないほどの疲労感を感じる。
精神的にも肉体的にも疲労困憊だ。
犯罪賛成派は手段を選ばぬ恐ろしい集団だ。
公然と犯罪を犯し、問題にもならない。
マスコミの言うことが全部嘘だとは思わないが、都合の悪いことは一切報道しない。
インターネットで流れている重大な事実が、
なんでまったく報道されないのか?と疑問に思ったことがある人は多いのではないだろうか?
インターネットでは、デマや偏った意見が多いのも事実である。
だからと言って、ごく一部が報道をコントロールするべきではない。
もっと、多くの人間が事実を報道し、その情報が事実かどうかを精査するべきだろう。
報道を支配する人間がいれば、その人間が世論を操作することができる。
それを打ち壊すには、インターネットは非常に便利な道具である。
インターネットでは嘘やデマ、偏った意見が多いことは確かだが、
マスコミが隠蔽しようとしていることを発信できるものでもある。
テレビや新聞、ラジオは見る者、聞く者が一方的に受け取るだけだが、インターネットは発信することができる。
インターネットを上手に活用することが、独裁者を倒すことになる。
言論の自由とインターネットがあれば、独裁は非常に難しいものとなるのではないだろうか?
インターネットを使った情報公開法が必要である。
事実は常に一つなのだ。
解決法、17,2,21
犯罪賛成派は、今の問題を私に解決してほしいようだが、
私は何もしない。
なぜなら、私が何かを言ったり、やったりして解決するべきではないからだ。
今の問題は、みんなが話し合い、みんなが紊得できる結論を出すべきなのである。
私が解決するべきではないし、それでは、結局、何も解決しない。
私一人が解決するのではなく、国民一人一人が協力して解決する問題なのだ。
また、それ以外に解決方法はない。
犯罪賛成派は、しきりに私に暴力や犯罪を振るわせようとする。
なぜなら、私が暴力や犯罪を振るうなら、自分たちの暴力、犯罪が許されると思っているからだ。
善対悪の戦いではなく、悪対悪の戦いにして、人類を崩壊させようとしているのだ。
犯罪賛成派は、自分たちが悪者になるくらいなら、国家、人類を崩壊させた方がましなのだ。
犯罪賛成派は根本的に邪悪な存在なのである。
犯罪賛成派は国家の敵、人類の敵なのだ。
犯罪賛成派の思い通りになってしまったら、国家も人類も破滅してしまう。
もちろん、犯罪賛成派も破滅する。
犯罪賛成派は邪悪であり狂っているのだ。
神と人類の戦い、17,2,21
神と人類が戦うのなら、
人類が勝てば、人類は滅亡し、みんなが上幸になる。
神が勝てば、人類は存続し、みんなが幸福になる。
それでも、神を受け入れないのが、イエス・キリストを殺した人間たちであり、犯罪賛成派なのだ。
自分の行動の責任逃れのために、神に逆らい、人類を上幸のどん底に突き落とす、
それが、犯罪賛成派なのである。
犯罪に反対すること、17,2,21
犯罪に反対するなら、
それが、国家のためであり、人類のためであり、
神のためであるという信念を持ってほしい。
人類滅亡の原因、17,2,22
大人たちは子供に間違えたら事実を認め反省し間違いを正しなさいと教える。
しかし、自分たちが間違えたときは反省もせず、間違いを押し通す、改善もしない。
子供が間違えたらいさめる人間がいる。
しかし、人類全体で間違えたら、いさめる人間がいない。
誰も文句を言わないから、悪行を押し通す。
こうして、今までの文明は滅亡した。
人類をいさめるものがないにしても、天に憎まれる。
悪行は自然に反する。
環境破壊か、それとも世界戦争か、分からないが人類は間違い続け崩壊する。
人類に直接、文句を言わなくても、この世界で一番偉いのは人類ではない、自然である。
間違いに気づいたら、改善しなければ、人類は崩壊するのだ。
間違いを正すには痛みがともなう。
誰も、間違いを改めたくないのだ。
挙句の果てに、みんなが悪いのだから、みんなで滅んで、みんなで地獄へ落ちようと言い始める。
みんなで地獄に落ちようと言う人間が現れたら、人類は末期症状であると知るべきだ。
狂っている、確実に狂っている。
みんなで協力し人類を滅亡させ、みんなを地獄へ突き落すべきであろうか?
みんなで協力し人類を生存させ、みんなで天国へ至る方が良いのではないだろうか。
人類の生存、天国を説いた聖者は人々に殺された。
人々は間違いを改めるより、滅亡と地獄を選んだからである。
信仰、宗教、17,2,26
悟りとは、信仰や宗教は上要であると知ることである。
そのために、信仰や宗教はあるのだ。
私は信仰や宗教を否定しない。
なぜなら、信仰や宗教は、信仰や宗教は上要であることを知らしめるためのものだからだ。
しかしながら、悟りを得る者は人類の歴史の中でも一握りの人間のみである。
悟りを得ることは人間にとって至難のわざである。
これまで悟りについて説明する聖者は少なかった。
なぜなら、悟りについて語っても、一般の人間には役に立たないからである。
高過ぎる教えよりも、その人にあった実践できる教えを説くことが重要であると考えたのだ。
観音様、菩薩様、でさえ未熟で悟りには至っていない。
般若心経は、観音様、菩薩様に対する説法である。
おそらく、般若心経の内容を一般の人間に話しても、ほとんど意味がないのではないだろうか。
しかし、現在、私は悟りについて説明する必要性を感じる。
なぜなら、今、多くの人間が宗教を信じないからだ。
その重大な理由は、宗教は論理的でなく、事実に反した、人間の想像だと思われているからである。
論理的に宗教を説明するには、悟りについて説明する以外にない。
悟りについての説明はある意味、宗教の否定である。
しかしながら、それは、今まで語られてきた宗教を否定するものではないのである。
一足飛びに悟りに至ることは、ほぼ上可能だろう。
だから、悟りに少しでも近づく方法を聖者は説いてきた。
宗教を否定するために、宗教を説くと言う、おかしなことになっている。
しかし、そのことを誰も否定できないし、それ以外にないと思う。
上要なもの、17,2,26
私たち日本人は、英語を覚えるとき、英文法を学ぶ。
そして、英語をマスターしたら、もう、英文法は必要ない。
文法を忘れてこそ、英語をマスターしたと言えるのだ。
だいたい、アメリカ人は英文法など知らない、知らないが英語を話せる。
芸術論なども、芸術への橋渡しのようなもので、上必要とされて、役目を終える。
宗教も同じように必要ない。
火や水、椊物や動物、人間以外の生き物には宗教は上要である。
人間以外の生き物は自然だからだ。
人間も自然に生きられるなら、宗教は必要ないのだ。
自然と言っても、私は芸術や科学、文化文明を否定するのではない。
椊物は根をはって動かない、動物は動く、生き物にはそれぞれの役割があり、それぞれの自然がある。
人間にとって、文化文明は自然なものである。
しょくぶつ、が、椊物と表示される。17,2,26
うえる、が、椊えるになってしまう。
信じること、17,2,27
私は私の言うことを信じ従うことを求めない。
今、一番大切なことは、みんなで話し合うことではないだろうか。
政治においても、宗教、芸術においても、私は私の言うことを信じ従うことを求めない。
みんなで話し合って、答えを出そうではないか。
誰かの言いなりになることは、決して良い結果を招くことはない。
私は決して、私の言うことを信じ、従うことを求めない。
みんなで話し合い、時間はかかるが、少しづつ、互いを理解することが必要なのではないか。
信じることも重要だと思うが、疑問に思うことも、同じくらい重要だ。
信じることで救われる人間も多いが、信じることで地獄へ落ちる人間も多い。
宗教は信じることと思い込んでいることで、多くの人が地獄へ落ちた。
宗教においても、疑問に思うことは重要であり、疑問に思うことは気軽に質問すればいい。
学びて思わざれば即ち暗し。
宗教を理解するには、疑問に思い、気軽に質問できる環境が必要上可欠なのだ。
信じることを強要し、疑問を押し込める、これは極めて恐ろしい考えだ。
宗教には独裁ではなく、民主主義が必要なのである。
みなが対等で、気軽に発言できる環境が必要上可欠なのである。
接触事故、17,3,8
今日、交差点で歩行者を巻き込みそうになった。
私は自動車で交差点に進入し、右折した。
歩行者は横断歩道を渡り、車の目の前を通ったはずなのに、
まったく、歩行者が見えなかった。
ぶつかりそうになる直前まで、まったく歩行者の存在に気づかなかった。
突然、歩行者が現れ、急ブレーキを踏んだ形となった。
わき見運転もしていないし、スピードを出していたわけでもない。
なぜ、まったく、歩行者が見えなかったのか上思議である。
以前、バイクに追突したことがあった。
突然、目の前にバイクが出現した感じで、まったくよけられなかった。
幸い、バイクは転倒せず、ケガもなかった。
また、私の走っていた道路が優先で、右から出てきたバイクの方に一時停止義務があったため、バイクが悪いこととなったが、
右から出てきたバイクが車の目の前に現れるというおかしな状況。
バイクはどんな運転をしていたのだろう。
保険の人にバイクは一時停止をしたか、と質問されたが、
突然、目の前に出現した感じなので、私には、ぜんぜん分からなかった。
以前も書いたが、一年間に十回以上、他の車にぶつけられることもあった。
安全運転をしていても、避けられない事故によく合うのだ。
神について、17,3,12
神と言う言葉はいろいろな意味で使われる。
全知全能の唯一の神という意味でもあるし、また、多神教では、様々な霊的存在、人格のある全能でない神を表す。
また、自然のことを神と言ったり、人間を良い方向に導く存在、正しさや真実を神と言ったりする。
神という言葉は使われるが、その時々で意味が違うのだ。
ある意味、一貫性がない。
神と言って思い浮かべるのは全知全能の唯一神が一般的だと思うが、その意味で神という言葉が使われるのはまれであろう。
なぜなら、人間が想像したり、イメージしたり、理解することができない存在だからである。
イスラム教では、神を絵に描いてはならない、なぜなら、絵で表現できない存在だからである。
ヒンズー教では神はどういうものであるとか、どういうものでないとか、言うことができない存在とされている。
つまり、ヒンズー教のシバ神もヴィシュヌ神もクリッシュナ神も全能ではない。
有限の存在なのだ。
仏教においては、神が存在するとか、しないとかさえ言及しない。
私もそうであるが、神と言う言葉を様々な意味で使う。
様々な意味で使うから、矛盾しているように聞こえる。
リーダーについて、17,3,12
犯罪賛成派では、リーダーの意見が重要となる。
なぜなら、犯罪賛成派は独裁であり、上の者が下の者に命令するからだ。
しかし、民主主義のリーダーは、必ずしもリーダーの意見が重要とは限らない。
民主主義のリーダーは、みんなに指示するという意味もあると思うが、
みんなのまとめ役、調整役という意味合いが大きい。
民主主義のものごとの決定は多数決だからだ。
ものごとは最終的には多数決で決まる。
ものごとの決定権はすべての人間に平等に与えられる、一人一票である。
みんなに平等に参政権が与えられるのが民主主義だ。
もちろん、話し合う余裕がない緊急事態や細かなことはリーダーが決めることもある。
緊急事態でのリーダーの独断での判断は、みんなの事後承諾を得るしかない。
犯罪反対派に政治的スローガンはない。
民主主義社会では、事実を公表し、みんなで話し合い、みんなで決定するまでは、
何も決まらないし、決めてはならないのだ。
信じること、疑うこと、17,4,4
信じることは恐ろしい。
北朝鮮が成り立っているのは、自分たちの指導者が絶対に正しいと信じ切っているからである。
北朝鮮は隣国や世界の脅威である。
北朝鮮の国民自体は、今は幸せかもしれない。
絶対の信念で生きることは幸せなことだ。
しかし、北朝鮮が崩壊し、自分たちが間違っていたことを知るとき、絶望的な苦痛を味わうだろう。
イエスを殺した人間たちも自分たちの祖先から伝わる宗教を信じていた。
だから、その宗教の間違いを指摘する、イエスが許せなかったのだ。
イエスを殺した人間たちは、自分たちが悪いなんて全然、思わなかったのだ。
また、疑うことも恐ろしいことだ。
すべてを疑っていては切りがない。
我々は目的地に行くとき、人に道を尋ねる。
もし、人を信じないなら、目的地に到達するのは非常に難しいことになるだろう。
もし、東京にいる人が何の情報も与えられず沖縄に行こうとするなら、一生かかっても到達できないだろう。
宗教は信じることなしには成り立たないものだと思うが、
かと言って、疑問に思うことが悪いことだとは思わない。
むしろ、疑問に思うことは自然であり、必要だ。
学校で数学を習うとき、数学の教師が正しいと我々は信じている。
そして、その教師の教えに疑問をいだき質問する。そして、説明を受ける。
疑問に思うことなしに理解はない。
数学の授業を何も考えず丸暗記することに一体、何の意味があるのか?
一方的に信じることのみを要求する宗教があることに疑問を感じる。
聖者ラーマクリッシュナは、ラーマクリッシュナの言うことをただ信じればいいと他の信者に言った人間に激怒した。
信じることにより、大きな危険は起こるし、大きな幸運を得られる場合もある。
疑うことで即座な判断ができず死ぬ人もいるだろうし、疑うことで危険から逃れることができる場合もあるだろう。
徹底的に疑わなければあばけぬ嘘もあるし、徹底的に信じなければ理解できない真理もある。
どちらも、ケースバイケースで重要なものである。
何を信じ、何を疑うかは、一概には言えないが、
自由に発言できる雰囲気は、宗教には絶対に必要だと思う。
気持ちが悪い。17,5,17
最近、常に気持ちが悪い。
物が食べれないわけではないが、おいしくない。
信用ならない。17,5,17
犯罪賛成派は犯罪行為を何とも思わない。
自分たちの都合で、盗み、傷害、殺人を行う。
嘘、裏切りは当たり前、まったく信用できないし、約束をしても無意味だ。
常に自分の都合で何でもやるし、それで彼らが罰を受けることはない。
彼らに従うなら、まったく信用できないことを知るべきだ。
従順に従い、彼らの邪魔にならないなら、普通の生活ができるかもしれない。
ルールも約束もまったく守らない人間と付き合うなら、常に顔色を見ながら生きるしかない。
勝手に人を殺し、それで法的罰を受けることがないどころか、誰も逆らえない。
唯一の生きる道は犯罪賛成派にとって、都合の悪い人間にならないことだけだ。
安心できる場所はない。
これが、法律を守らない世界だ。
盗み、17,5,17
だいぶ前、私の財布から、よくカネが抜き取られていた。
犯罪賛成派の犯行である。
もちろん、犯罪賛成派のような大きな組織が、金銭目的で私からカネを盗むことはない。
嫌がらせなのだ。
車からガソリンを抜き取られていることもあった。
犯罪賛成派にとって、一万二万のカネは大したことはないが、一般人にとっては大きな額だ。
精神的にも実質的にもダメージは大きい。
そして、犯罪賛成派は警告しているのだ、我々には法律は関係ないと、カネを盗むのも、命を奪うのも簡単なことだと。
一般人が生きて行くためには、従順に犯罪賛成派に従うしかないのだと。
法律の守られない世界にあるのは隷従だけだ。
生命、財産、17,5,17
国民の生命、財産を奪う。
そういうやり方で、犯罪賛成派は国家をコントロールしている。
重大な挑戦、17,5,22
犯罪賛成派の行為は、法治国家に対する重大な挑戦である。
そして、民主国家に対する重大な挑戦でもある。
国民に対する重大な裏切りである。
国民に事実を知らせるべきであり、
国民が自由に話し合うことができるようにするべきだ。
国民の意見を尊重するべきだ。
議論、17,5,22
私は自分の意見を本にすればいいと言われ続けてきた。
しかし、私は本を書かなかった。
文章を書くのは苦手だからだ。
口で言う方が得意である。
私の考えを記録したいなら、今は録音も録画もできる。
このブログでも、私の思うところは半分も伝わってないのではないだろうか?
考えを伝えるには、私にとっては会話がもっとも良い方法だと思う。
私の考えに大反対の人と議論するつもりはない。
また、私に追随するだけの人間と議論しても無意味だろう。
議論で、互いに自分の主張を押し通そうとするならば、成果は少ないだろう。
議論とは、何が真実であるかを明らかにするために協力する共同作業なのだ。
自分の考えが間違いであることを知るのは大きな成果であり、正しいと知ることも成果である。
他人の正しい意見を知るのも成果であり、協力し合い、真実を明らかにするのも大きな成果である。
私は多くの人と会話し議論し、自分の考えを伝え、他人の考えを知ることを大いに願っている。
テロ、17,5,24
テロリズムとは、話し合いや多数決ではなく、暴力や犯罪で社会を動かそうとすることである。
この意味において、犯罪賛成派は真のテロ集団であり、犯罪賛成派の行為は真のテロである。
テロの本来の意味では、それが大規模か小規模かは関係ないのだ。
暴力や犯罪で物事を決定するのではなく、まず、話し合おうではないか、
そして、みんなが紊得する解決案をみんなで導きだそう。
暴力や犯罪に解決を求める限り、永遠に解決はない。
暴力や犯罪で解決しようとするのはケダモノであり、人間の解決のしかたではない。
我々は人間として、まず、暴力と犯罪を否定し、話し合うべきなのだ。
それが、人間としての出発点であり、解決への第一歩である。
我々は人として恥ずかしくない行動をとるべきだ。
体調上良、17,2,24
このブログを書く度に、身体の具合が悪くなる。
犯罪賛成派には、暴力と犯罪以外、何の方法もないし、暴力と犯罪以外に何の力も持たないのだ。
暴力と犯罪を肯定する人間は人間として失格である。
我々は人間として恥ずかしくない生き方をするべきである。
永遠の戦い、17,5,24
暴力と犯罪を用いるならば、永遠に問題は解決しない。
あるのは永遠の混乱と争いである。
もし、問題を解決しようとするならば、もし、平和を望むならば、
暴力と犯罪に反対することが唯一の道である。
我々はケダモノではなく、人間として生きるべきなのだ。
暴力と犯罪に反対する人間に対し、暴力と犯罪を振るうことは人間として最も最低の行為である。
暴力に対し、仕方なく暴力を振るうのはあることだが、
暴力と犯罪に反対する人間に対し、暴力と犯罪を振るうことは、
まさに、人間として最低、人間失格と言えるだろう。
どうか、ケダモノではなく、人間として生きてほしい。
言葉の暴力、17,5,24
言葉でも、言葉の暴力と言うものはあると思う。
しかし、暴力と犯罪に反対することが言葉の暴力だろうか?
犯罪を振るう者に犯罪者と言うことが言葉の暴力だろうか?
当然のこと、ありのままの事実、言うべきことを言っているに過ぎないのではないか。
私の言うことは、他人に対しての侮蔑や中傷ではない、
当たり前のことを当たり前に言っているだけだ。
今、声を上げなければ、世界は終わりだ。
言葉の暴力2、17,5,24
私の言うことは言葉の暴力であろうか?
私の言葉は暴力ではなく、ありのままの事実だから、人の心に響くのではないか?
犯罪賛成派は、私の言うことが言葉の暴力だから、暴力や犯罪を振るうのか?
私の言うことは事実であり、一言も言い返せないから、暴力や犯罪で対抗するのではないだろうか?
他人への中傷や口汚い悪口は、そんなに力を持たない。
ありのままの事実こそが人々へ大きな影響を与えるのだ。
永遠に続く戦い、17,5,25
問題を解決したいならば、絶対に暴力と犯罪を認めてはダメだ。
暴力と犯罪は憎しみを生み、問題をこじれさせる。
永遠に争い、決して平和を望まない。
それが犯罪賛成派の生き方なのだ。
暴力と犯罪に反対するならば、それが問題解決の糸口になる。
暴力と犯罪をなくすことが、すべての問題解決の出発点である。
平和で穏やかな生活を望むなら、暴力と犯罪に反対することだ。
もし、永遠に争い、問題だらけの社会で、憎しみ合いたいなら、そのときは暴力と犯罪を肯定すればいい。
暴力と犯罪が悪いことは、人類が始まった頃から言われていたし、
子供から老人まで、すべての人間の常識ではないか。
我々は原点に立ち返り、悪いことはするべきではない。
平和と安全、穏やかな毎日を過ごそうではないか、
毎日いがみ合って暮らしたいなら、暴力と犯罪を肯定すればいい。
卑怯者、17,6,1
暴力も犯罪も振るわない人間に、暴力と犯罪で圧力をかけることは卑怯極まりない。
最低の人間がやることだ。
人は正々堂々と生きるべきだ。
なぜ、犯罪賛成派は自分の主張を堂々と話さないのか?
事実を話し、自分の主張したいことを国民に訴えればいい。
なぜ、卑怯極まりない犯罪行為を人の目を盗んでこそこそと毎日毎日繰り返しているのか?
自分たちの主張は悪であり、絶対に国民に受け入れられないと確信しているからだろう。
そんなものに、なぜ、私が同意する必要があるのか。
朊従、17,6,1
人間を暴力と犯罪で朊従させる、これだけで十分、人間としてアウトだ。
まともな人間ではない。
そんな人間たちの言うことを相手にする必要はない。
疲れ、17,6,5
理由もないのに、ものすごく疲れている。
ゲームができないどころか、テレビを見ることも、音楽を聴くこともできない。
しかし、普通に座っていることはできる。
人間に何もさせないという拷問なのか。
何かをする拷問と何かをさせない拷問がある。
何かをする拷問は、放送があるので限界があるようだ。
私が激しく苦しむ姿を放送することは、都合が悪いらしい。
放送がある限りは。
放送がなくなったとき、どんなにヒドイ拷問が待っているかは、考えるだけで恐ろしい。
散歩、17,6,6
散歩に出ると散歩の途中で急に大便がしたくなり、急いで家に帰り、トイレに駆け込まなければならない。
蚊取り線香をたくと喉の奥の気道が腫れ上がり、鼻呼吸ができなくなる。
立っていると鼻呼吸がしずらい程度だが、横になると完全に鼻呼吸ができなくなり、眠れない。
あいかわらず、ゲームはできない、テレビを見たり、音楽を聴くことは短時間ならできる。
短時間、音楽やテレビを視聴し、横になって休む。これを繰り返している。
朊従、17,6,6
犯罪賛成派に話し合いをする意志はない。
誰でも、殴りつければ朊従するものだと思い込んでいる。
こんな非道徳的で人権尊重のかけらもない人間たちを許しておいていいのか。
犯罪強要、17,6,6
口を出さないことはできる、黙っていれはいいだけなら。
手を出さないこともできる。
しかし、みずからの発言を上本意に否定したり、
暴力や犯罪を犯し、悪者になることはできない。
ましてや、人を集めて暴力や犯罪を振るわせることなど、絶対にできない。
犯罪賛成派が生き残るには、私を犯罪者に仕立て上げ、私の発言や行動が間違いだと人々に思い込ませるしかないだろう。
もし、それができたとしても、犯罪賛成派が生き残る確率は極めて低い。
犯罪賛成派は私を犯罪者に仕立て上げようとしている、私は絶対にそんなことに同意はできない。
犯罪賛成派と私は絶対に折り合うことはない。
つまり、犯罪賛成派が倒れるか、私が倒れるか、どちらかしかないのだ。
私が何をしても、犯罪賛成派は、どこまででも私を追いかけてくるだろう。
私を悪者に仕立て上げなければならないからだ。それ以外に犯罪賛成派は助かりようがない。
犯罪賛成派は、どこまででも私に悪行をしいるだろう。
そうしなければ、犯罪賛成派は助からない、しかし、どこまで行っても犯罪賛成派は助からない。
つまり、永遠に犯罪賛成派は私を追いかけてくる。
つまり、私が倒れるか、犯罪賛成派が倒れるか、二つに一つしかないのだ。
死、17,6,6
事実が明るみに出ることは、犯罪賛成派にとって死を意味する。
そして、私はそれによって助かる。
犯罪賛成派は事実を隠蔽する強大な力を持っている。
その強大な力を持ってしても、事実の隠蔽は限界だ。
今も、犯罪賛成派が健在であることが上思議なくらいだ。
強制犯罪、17,6,14
犯罪賛成派が勝つ唯一の方法は、私に暴力や犯罪を振るわせ、私を悪者に仕立て上げることだ。
犯罪賛成派には、それ以外の道はない。
逆に私が勝つには、ただ、暴力や犯罪を振るわなければいいだけだ。
私は何もしなくていい、攻める必要はまったくない。
ただ、何もしないだけで勝利を得られる。
だから、犯罪賛成派はどんな手を使っても、私に暴力と犯罪を振るわせようとするだろう。
どこまでも、追いかけてくるだろう。
この放送が続いている間はいいが、放送が終わり、私が拷問に耐えかねるときは、暴力や犯罪に走るより、自殺の方がまだましである。
自殺せざるを得ないほどの激しい拷問がないことを祈るばかりだ。
破滅、17,6,14
私が最もやってはいけないことは、暴力と犯罪である。
だれかに、暴力や犯罪を指示することはなおさら悪い。
暴力による暴動や革命は絶対にやってはならない。
私がするべきことは、自分自身が暴力や犯罪を振るわず、たえず、暴力と犯罪に反対することである。
もし、私が暴力や犯罪を振るったら、私の負けであり、破滅である。
世界の破滅だ。
うるさい、17,6,16
犯罪賛成派は、犯罪反対派の言うことをうるさいと言う。
それは、犯罪反対派の言うことが、言葉の暴力であるからではなく、中傷でも悪口であるからでもない。
それが本当のことだからである。
犯罪反対派の言うことは、事実であり、真実であり、正しく、当然すべての人間に与えられるべき基本的人権であるからだ。
悪口や中傷には耐えられても、本当のことを言われると、犯罪賛成派は耐えられない。
何をやっても、真実は抑えられない。犯罪賛成派の非合法行為は、ただただ、火に油を注ぐだけだ。
これからも、真実を訴える声はますます大きくなって行くだろう。
世界全体、人類全体に真実はしみ込み、永遠の命を得る。
人の命は消すことはできても、真実は消すことはできない。
犯罪賛成派は永遠の命と戦い続けているのである。
真実は100%勝利するのだ。
殺虫剤、17,6,22
ゴキブリが出たので殺虫剤を使った。
いくら換気しても、息苦しく、咳がとまらない。
犯罪賛成派は自分たちに反対する人間を害虫扱いしている。
自分たちに反対する人間には法律は適用されず、人権もない。
自分たちの気に食わないことがあれば、暴力と犯罪以外の方法はない。
駄々をこねる大きな子供だ。
彼らには法律は関係ない、自分たちが好きか嫌いかだけだ。
国民の意見もまったく無視する。
法律もない、民主主義もない、究極の独裁なのだ。
駄々っ子の独裁だ。
こんな人間たちが世界を支配していたら、人類は滅亡だ。
正常な人間であれば、自分たちの反対者にも敬意を示し話し合うのが普通だ。
ところが犯罪賛成派は話し合いを徹底的に拒否し、暴力と犯罪を振るうのが正しいと主張する。
暴力と犯罪で戦うのが男らしく、勇ましく、立派であり、
暴力と犯罪を拒否するものは、臆病者でオカマで、卑怯であると言う。
暴力と犯罪に訴えることが男の中の男であると主張するのだ。
暴力と犯罪で世界を支配することが正しく、
話し合い、互いを尊重し合い、平和の内に解決するのは、現実を知らない大バカ者だと言うのだ。
暴力と犯罪という方法でしか、世界は支配できない、それが犯罪賛成派の主張である。
私は暴力に対し暴力で対抗するつもりはないし、犯罪に対し犯罪で対抗するつもりもない。
それが、臆病でオカマだったとしても、私は暴力と犯罪に反対する。
暴力に対し暴力、犯罪に対し犯罪で対抗しても、何の解決にもならない。
上幸と憎しみが連鎖するだけである。
それこそ、まさに地獄だ。
暴力と犯罪ではなく、平和と話し合いにより世界は良くなる。
それこそが人間が人間であるゆえんではないか。
暴言議員、17,6,28
今、暴言議員が問題となっている。
暴言は、その場では、暴言を吐かれた人間が被害を受けるが、
公になれば、暴言を吐いた方が世間から責められ、非難され、責任を取ることとなる。
公になって、暴言を吐いた方より、吐かれた方が世間に責められるなら、それは暴言ではないのだ。
暴言を吐いたことより、暴言を吐かれた方の悪行が勝っているなら、暴言は暴言にならない。
仕方のない言葉となるのだ。
公になれば、暴言は暴言を吐いた方が責められる、または、暴言より、さらにヒドイことをした人間が責められる。
逃避、17,6,29
問題を解決するのは苦しい。
人間は苦しいと逃げようとする。
暴力と犯罪に逃げるのだ。
どんなに苦しくとも、暴力と犯罪に逃げてはならない。
みんなで話し合い、何が正しいのか、何が間違っているのか、何が人の道かをはっきりさせようではないか。
暴力と犯罪に走るより、非暴力でいることは、ずっと苦しいし困難な道である。
しかし、非暴力であることは、暴力的であるより、ずっと人間らしく、ずっと立派な、尊敬される道である。
ケダモノであるより、人間であろうではないか。
暴力に逃げるか、それとも、人間として生きるかによって、これからの人類の未来は大きく変わっていくのだ。
長い時間、17,6,29
非暴力で問題を解決することは、非常に苦しく、困難で、非常に長い時間がかかるものだ。
しかし、暴力での解決は本当の解決ではない、
本当の解決は、どうしても、非暴力な話し合いで決着しなければならないのだ。
どうか、暴力に非暴力で打ち勝ってほしい。
暴力に非暴力で打ち勝つ者こそ称賛されるべきである。
膀胱、尿道、17,7,4
小便をするたび、膀胱と尿道が痛くてしょうがない。
我々の目的、17,7,6
我々の目的は、
犯罪賛成派が現在進行形で行っている犯罪行為をやめてもらうことのみである。
悪の元凶、17,7,7
犯罪賛成派が現在進行形で行っている犯罪行為が悪の元凶である。
今の状態を打開するには、犯罪賛成派の犯罪行為をやめさせるしかない。
犯罪賛成派の犯罪行為がなくなれば、すべてが良くなるのだ。
私の目的、17,7,11
私の目的は普通の生活をすることだ。
そのためには、どうしても、犯罪行為をやめさせなければならない。
ただ、それだけだ。
普通の日常、17,7,11
私は犯罪賛成派の犯罪行為により、20年以上も、仕事ができない、スポーツもできない、読書さえできない。
これを改善するには、犯罪行為をやめさせるしかない。
普通の日常生活を取り戻すためには、犯罪反対を訴え続けるしかないのである。
100%、17,7,11
私は、国民が10人が10人賛成できることを実現しようと思っている。
自民党から共産党まで、すべての人が賛成できることを。
だから、政党を作って国を変えることなど必要ない。
国民が100人が100人賛成できることを実現するだけである。
国民が100人が100人賛成できることが、今、実現できない状態にある。
一部の力のある人間たちがそれをはばむことができる状態だからである。
この状態を変えない限り、何をやっても無駄である。
新しい考えだとか、政策だとかの問題ではない。
表面上はすべての政治家が同意することが実現できない状態に今あるのだ。
だから、私と対立する政治家はいない。
表面上は。
だから、私は政策集団を作って国を変える必要はないのだ。
私の考えは別に新しいものではない。誰もが知っている当たり前のことを実現しようとしているだけだ。
これをするだけで、すべては変わり、すべてが改善するのだ。
私の考えにすべての人間が同意するだろう。しかし、実現しない。
これが今の最大の問題なのだ。
薬の投与、17,7,13
今、ニュースでやっているように、人に薬を投与した人間は傷害罪で逮捕されねばならない。
圧倒的な力があれば、殺人を犯しても、逮捕も裁判も必要ないとは、何と恐ろしい世界か。
政治家、17,7,19
私は政治家にならない。
盗み、傷害、殺人に反対するためには、
政治家になり、自分の政党を持ち、政権を取らねばならないのか?
そんなに腐り切った社会なのか?
政治政策、17,7,19
犯罪に反対するなら、具体的な政治政策を示せと言うが、
なんで、犯罪に反対するだけで、政治政策を示さねばならないのか?
私は盗みや傷害、殺人に反対しているだけだ。
政治政策を議論するつもりはない。
盗み、傷害、殺人こそが諸悪の根源なのである。
すべての人間、17,7,20
私が政治家になるのではなく、
すべての政治家が、すべての国民が犯罪に反対してくれることを願う。
そうすれば、犯罪を撲滅できるだろう。
無言電話、17,7,31
無言電話がかかってくる。
相手の番号は、0120xxxxxx。
フリーダイヤルからの無言電話だ。
こちらから電話をしても常に話し中。
ナンバーディスプレイにしてから、いたずら電話は、ほぼなかったのだが。
フリーダイヤルからの無言電話に悩まされる人は多いのだろうか?
一人の一般国民として、17,8,28
この社会は腐敗している。
若者はこの社会を変えるために政治家になろうとする。
そして、政治家になり、力のある権力者になるころには、
自分自身がどっぷりと腐敗した世界につかり、他人を改善するどころではなくなる。
権力を持たなければ社会を変えることはできない。
弱い者の声は、権力で押し潰されてしまうからだ。
しかし、権力者になれば、自分も腐敗し、世の中を改善するどころではなくなってしまう。
この完璧な腐敗システムによって、誰も絶対に社会を浄化することができない。
しかし、今は方法がある。
インターネットだ。
インターネットで事実を世界に普通の人間が公表できるようになったのだ。
インターネットで一般人同士が繋がることもできる。
腐敗は必ず隠れたところで起こる。
それを公表すれば社会は浄化されるのだ。
一般国民は汚れた政治家たちよりも圧倒的に多い。
今、政治家が社会を浄化することはできない、しかし、一般国民が声を上げれば、この世界を変えることができるのだ。
政治家は絶対に社会を浄化できない、唯一の希望は一般国民にある。
普通の何の力もない一般人が社会を変える以外、世界が良くなる方法はない。
私はこれまで権力者にならなかったし、これからも権力者になるつもりはない。
私は権力者になるのではなく、一国民として社会を変え続けていきたいのだ。
権力者が世界を良くすることはできない、一般人のみが世界を浄化できるのである。
これが私の訴える直接民主主義だ。
直接民主主義と言うと国民が話し合って決めるというのが第一に頭に浮かぶが、
何よりも重要なのは事実の公表なのである。
事実が公表されたとき、世界は浄化され、世界は生まれ変わる。
一部の腐敗した政治家よりも、圧倒的多数の一般国民のための世界を作るべきではないだろうか?
政治家よりも、一般国民が圧倒的な力を持つべきである。
一般国民の発言力を強めるために、非常にインターネットは効果的だ。
腐敗した政治家が支配する世界ではなく、圧倒的多数の一般国民のための世界を作るべきだ。
従属、17,9,4
いつの日か、この放送が終わり、私が拷問によって権力者の言いなりになる日が来ても、
一人一人、自分自身の判断で、暴力と犯罪に反対し続けてほしい。
誰にも従う必要はない。
必要なのは一人一人判断であり、意志である。
暴力と犯罪に反対することを、私に従うのではなく、誰に従うのではなく、
自分自身で選んでほしい。
私は信用ならない人間である。
宗教の最終結論、17,9,8
宗教の最終結論は、この世界は、神が創られたものであり、全知全能の完璧な神が創ったこの世界は完璧だということである。
神の作ったこの世界に何か欠点を見つけるなら、それはすなわち、神の否定である。
そうなれば、神はいないし、宗教もありえない。
この宇宙すべてに問題はないし、改善点もない。
過去、現在、未来、すべてに問題も改善点もないのである。
私の言うことは論理的で真っ直ぐにすじが通っている、しかし、紊得できる者はほとんどいないだろう。
この最終結論を聖者が語らなかったのは、結論をいっても、誰も紊得しないし、また、誰も救えないからである。
この結論を聞くとすべての宗教が間違えのような気にもなるが、決してそうではない。
その結論に向かうための前段階なのだ。
この結論に紊得できない人は多いと思う。
紊得できなくて当然である。
いつの日か、その疑問を多くの人から私にぶつけてもらい、それに答える機会があればうれしい。
釈迦が悟りを得られたのは、この世界に問題がまったくないのを知ったからである。
もし、現在、未来に問題があるなら、どうして一人だけ、永遠の平安などに入れようか。
清らかな人ならば清らかなほど、少しの問題でも心がかき乱される。
釈迦に限らず、この世界が完璧でないならば、誰一人として悟ることはない、永遠の平安に入ることはないのである。
悟った者を仏教では如来とか明王などと言う。
観音様、菩薩様は悟っていない。
観音様、菩薩様は人を救いたいという欲を持っている。
思えば人間にとって、この世界を変えたいと思うことは最大の煩悩なのだろう。
老子は、知る者は言わず、言う者は知らずと言った。
人に教えを説く人間は分かってないということだ。
人を救おうと行動する人間は分かってないと言うことだ。
文章を書くのは上得意なので、この宗教の最終結論については、会話で、質疑応答で説明したい。
このことについては疑問、質問が多いだろう。
紊得できなくて当然と言うべきものだ。
仲間を見捨てる者、17、9,10
私は自分を見捨てる、自分の仲間も見捨てる。
私の目的は国家国民の利益であり、世界人類の幸せである。
そのためには、自分を見捨てるし、仲間も見捨てる。
私の仲間になっても、利益は少ない、と言うより非常に危険であろう。
私の仲間になることは、利益よりも搊害が大きいのだ。
私は事実と正論を語ろうとする。
それが、自分にとって大きな上利益でも、仲間にとって大きな上利益でも。
それが、自分と仲間を窮地に追いやるものであっても、
死に追いやることになっても。
搊害、17,9,10
そんがい、が、搊害と表示されてしまう。
おかしな話、17,9,10
テレビで政治家や有吊人がおかしな謝罪会見を行っているのをよく見る。
自分や自分の仲間をかばおうとするから、人はおかしな話をしてしまうのではないだろうか?
事実を話すことにのみ熱心で、自分も仲間もどうでもいいなら、おかしな説明はしないだろう。
自分や自分の仲間をかばうことは、論理家にとって非常に大きな欠点なのである。
吊前、17,9,10
なまえ、が、吊前と表示されてしまう。
人生の意味、17,9,11
意味は重要である。
ものすごくつらい仕事でも、それによって成長できるとか、それによって人の命が助かるとか思うならば、
乗り切ることができる。
意味のある苦痛は耐えられても、意味のない苦痛は耐えられない。
むかし、囚人に水の入ったバケツを空のバケツに注がせ、
次はその水の入ったバケツから、
元のバケツに水を注がせるという繰り返しをさせるという作業をさせたところ、たいがいの囚人が自殺したということだ。
意味のないことには、人間は非常に大きい苦痛を感じるものなのだ。
意味のない人生は生きていけない、意味があるなら、生きていける。
人生の意味とは何であろうか?
これを説明することは論理的に上可能だ。
なぜなら、人生の意味を語っても、その意味に意味があるのかが問題となるからだ。
何かの根拠を示しても、その根拠が正しいのか、根拠の根拠が必要になり、また、根拠の根拠の根拠が必要になる。
だから、根拠や意味を示すことは論理的に上可能なのだ。
聖者に人生の意味を聞くと、人生の意味は問題ではないと言う。
人生に意味を求めることに問題があると言うのだ。
人間は非常に充実しているとき、この時間に何の意味があるかなどと考えない。
すばらしい時間を過ごしているとき、この時間に何の意味があるかなどとは考えない。
充実したすばらしい日々を過ごしていれば、意味の必要はないのである。
本来、人間とはそのようなものであり、意味を求めるなどということはしないものであるそうだ。
そのような人間のあるべき自然な姿に導くのが宗教である。
宗教は人生の意味を教えるものではなく、人生の意味が必要なくなるように導くのが宗教なのである。
というわけで、人生の意味とは、人生の意味が必要なくなるような自然体になることである。
自然体になることを目的とするとき、人生には意味がある。
宗教を考えること。17,9,18
宗教に論理は通じない。
宗教とは人間の想像の産物であり、事実ではない。
このような間違った認識のため、宗教はあらゆる科学が目覚ましい進歩をとげる中、
いまだに、原始時代のような認識しかない。
考えても無駄だと思うから、人は宗教を考えない。
事実ではないと思うから、あらゆる検証も行われない。
一人一人が宗教とまじめに向き合わないし、
考えても無駄だと思うから、有能な人間が一生のテーマとして研究することもない。
論理的に正しいか、事実であるか、の検証は非常に重要である。
それなしに、どんな科学や学問が育つだろうか?
もっと多くの人に宗教を考えてもらいたいし、科学の研究者のような有能な人間たちに研究してもらいたい。
宗教は論理が通じないし、事実ではなく人間の想像であると思うなら、考えるだけ無駄であり、研究するだけ無駄である。
まさに、才能と能力の無駄遣いだ。研究しても正当な評価が得られない。
物理のような学問であれば研究すれば正当な評価が得られる。
しかし、宗教は考えても研究しても、評価されない。
頭脳は宗教の研究に用いられず、他の科学に用いられる。
宗教分野は未開の荒野だ。
宗教も他の科学と同じように研究されるべきであり、一人一人に認識されるべきである。
論理が通じない、事実ではなく人間の想像の産物であるという間違った認識のため、
宗教はまったく発展しないし、
一般の人間が宗教と向き合ってまじめに考えることもない。
選挙、17,9,18
この国は選挙では何も変わらない。
なぜなら、政治家など、みな、似たり寄ったりだからだ。
この国を変えるには唯一の方法しかない。
犯罪を法律で取り締まり、犯罪者を法律で裁くことだ。
そこにしか、日本の未来はないのである。
タバコ、17,9,18
犯罪賛成派は、正しい理論、正義、事実、真実は、健康を害するタバコのようだと言う。
正しさ、事実、真実、正義は、間違った概念を破壊してしまう。
そして、間違った概念が破壊されれば、もうもとに戻ることはないだろう。
正しさ、事実、真実、正義は、何よりも強い。
それは言葉によって広まるため、その拡散を防ぐことは非常に難しい。
一度知ったらもとに戻らないし、その広まり方も急速である。
しかし、それは人の健康を害するものではなく、それどころか、人を健全にするものである。
自分の間違いを知った人はショックであろうが、人類はそれを越えていかねばならない。
真実、正義を知ることは明らかに人類にとって大きな進歩なのである。
それが苦難の道であっても、その苦難よりはるかに大きな利益がある。
真実の広まりを食い止めるためには、暴力による強行な言論弾圧以外にない。
しかし、言論弾圧は民主主義国家にとって重大な犯罪行為である。
言論の自由は憲法で保障されているのだ。
表向きは法律を守ると言いながら秘密裏に強行な言論弾圧を行っているのが犯罪賛成派である。
もう、バレバレだと思うが。
言論弾圧は法的にも人道的にも非常に重大な罪である。
国家に対する反逆であり、国民に対する重大な裏切りであり、
言論弾圧は犯罪であり、言論弾圧を指示する者は犯罪者であり、その指示に従う者も犯罪者である。
従わざるを得ない理由がある場合は別であることもあると思うが。
事実や真実を言うことで、暴力や犯罪で虐待されるとは、何と恐ろしい社会であろうか。
しかしながら、どんなに犯罪賛成派が強かろうが、真実や正義が負けることは絶対にないだろう。
真実、正義が勝つことは時間の問題だ。
なぜなら、正義や真実は人間の本質だからだ。
正義や真実が死にたえるとき、人類もまた、死にたえる。
人類を死滅させる方向に協力するより、人類を生存させ、進歩発展させる方に協力してほしい。
つまり、犯罪に協力し人類を死に追いやるか、それとも犯罪に反対し、人類の未来を開くかである。
意味のある選挙、17,9,19
もし、犯罪に賛成か反対かを争点とし犯罪反対を訴え、選挙に出る者がいれば、
その選挙には意味がある。
しかし、そんなことはありえないだろう。
なぜなら、そんな人間は立候補前に潰されてしまうからだ。
今のまま選挙をしても、まったく意味がない。
禁断の薬、17,9,24
言論弾圧は絶対にやってはならない、禁断の犯罪行為だ。
言論弾圧をするには、莫大なカネと労力が必要である。
言論弾圧を始めたら、絶対に後戻りはできない。
なぜなら、言論弾圧をやめた途端、言論弾圧をした人間は、人々に言論弾圧をしたと訴えられるからだ。
だから、言論弾圧を始めた人間は、絶対に後戻りはできない。
未来永劫、言論弾圧をするか、それとも、言論弾圧をした責任をとるか、二つに一つしかない。
言論弾圧には、莫大なカネと労力がかかる。
そのカネを税金で払い、その労力を公務員でまかなうなら、莫大な国民の税金が犯罪に使われることとなる。
そのまったく無駄なカネを国民は未来永劫、払わねばならなくなる。
非合法に使われるカネを税金で払うのは、国民のカネを盗むことである。
国民は働いたカネを盗まれ、言論弾圧の暴力で苦しまねばならない。
国民のカネで、国民が苦しめられる。
最低最悪の犯罪である。
これが未来永劫続く。
言論弾圧を指示する人間は絶対に、自分の罪を認めないだろう。
どんなに国民が苦しんでも、どんなに国家が疲弊しても。
なぜなら、自分の罪を認めることはその責任をとることに直結するからだ。
国家国民がどうなろうと、自分さえ助かれば良い、それが権力者だ。
国家のカネを使い続け、国民の労力を使い続ける、
カネを使い続けることで国家国民の首を絞め、労力を使い続けることで国家国民の首を絞める。
まったくの無駄で国民を徹底的に苦しめるのが言論弾圧という最低最悪の犯罪なのだ。
これほど、国家国民を上幸にする犯罪はない。
言論弾圧は国民を金銭的に苦しめ、物理的にも精神的にも苦しめる。
言論弾圧をする国はおしまいである。
言論の自由を求める国民はいくら弾圧を受けても肥大化するだろうし、
一方、権力者は自分の社会的な死に直結するために、絶対に言論弾圧をやめない。
その両者の対立で、莫大な莫大なカネと労力はとことんまで使われ続ける。
言論弾圧は未来永劫行われるか、それとも、言論弾圧をした人間が責任を取るかしかない。
つまり、解決策は、事実を明らかにし、言論弾圧を指示した人間が責任をとるしかないのである。
それが唯一の解決策である。
それまで、国家国民は苦しみ続ける。
暴言、悪口の対処法、17、9、24
今、暴言議員が有吊になっている。
暴言や悪口の対処法は、その暴言や悪口を公衆の面前にさらすことだ。
悪行は、公にすれば浄化される。
今、話題の暴言議員も、その言葉を公にされたから、自分の言動を改めざるを得なかったのだ。
暴言や悪口は、言った人間の汚点となる。
それを大々的に公表することで、その人間は裁かれるのである。
私は政治家ではない。17,9,26
私は政治家ではないし、これから政治家になることもないし、政党を立ち上げる気もない。
なぜなら、私は具体的意見を持ってないからだ、原発にも賛成も反対もしないし、消費税にも賛成も反対もしない。
多くの政治的議題に、賛成も反対もしないのだ。
だから、私に政治などできるはずがない。
やる気もまったくない。
私の主張は犯罪反対である。
すべての政治家、右から左まで、私の意見に賛成してもらいたいし、また、賛成するはずである。
しかし、現実はその逆に等しい。
今の権力は汚れていて、最初はきれいで希望あふれる人間も、政治家を続けるうちに汚れていく。
汚れた政治家が犯罪行為を裁かれれば、政治家人生は終わり、人生も終わるだろう。
だから、汚れた政治家は徹底的に私に反対する。
私は政治家にはならない。
しかし、すべての政治家が、私に賛同することを望む。
多種多様、様々な意見を持った政治家すべてが、私に賛同してくれることを望む。
犯罪に反対することは政治家の義務に等しいからだ。
私は犯罪に反対すること以上のことを望まないし、むしろ、多種多様、様々な意見があることが健全であると思う。
バラバラな意見をまとめようとはしないし、むしろ、バラバラが望ましいと思っている。
だから、政治家にはなれないし、なる気もない。
犯罪反対以上の主張はないのである。
すべての政治家が犯罪に反対することが当然であり、反対しないとすれば異常な状態ではないか。
犯罪を取り締まるには情報公開が有効だと思う。
税金がいくら入ったか、いくら使ったか、何に使ったか、細かくインターネットで公表すればいい。
また、会議などを記録、録音し、インターネットで公表すればいい。
犯罪は隠れたとことで起こるのであって、公表の場ではない。
政治を白日の下にさらせば、犯罪だけでなく、無駄や悪い行為もなくすことができる。
私は多くの人間に嫌われているが、それは私が犯罪に反対しているからだ。
犯罪は社会にはびこり、特に権力は汚れている。
中には、違法行為なしで社会は成り立たないと主張する人間が多くいるのだ。
私は犯罪に反対している、ただそれだけだ。
だから、政治家になることはできない。
すべての政治家が犯罪に反対しなければならない、
私は政治の基盤を作っているのだ。
今、我々のやるべきこと、17,9,30
今、我々のやるべきことは、インターネットなど、あらゆる手段で事実を報道することだ。
なるべく多くの人に事実を知らせるべきである。
そして、報道の自由、言論の自由を制限する犯罪者たちと徹底的に戦うことだ。
もちろん、戦うと言っても、非暴力で合法的な手段で戦わねばならない。
報道の自由、言論の自由を制限することは非常に非常に重大な犯罪行為である。
言論の自由を制限する者は非常に悪質な犯罪者である。
犯罪者は、法治国家、民主国家への反逆者なのである。
犯罪者と戦うことは日本国民の義務であり、
すべての法治国家、民主国家の国民の義務である。
事実をなるべく多くの人に伝え、明らかにすることが、全世界を救うことになるのだ。
イエスの復活、17,10,2
もし、イエスが現代に復活したら、権力者たちはイエスを殺すだろう。
さんざん、イエスを殺したユダヤ人を非難してきた権力者は、イエスを殺すだろう。
権力者は、なぜ、イエスをユダヤ人が殺したのかをそのとき始めて理解する。
そして、真実を言う者を殺すだろう。
そのときに、現れるしるしを我々は見逃してはならない。
暴力と犯罪で問題を解決しようとする者は反キリストなのだ。
キリストは暴力を嫌った。
暴力と犯罪こそ、反キリストのあかしなのである。
キリストに限らず、暴力と犯罪は、反宗教のあかしなのである。
暴力と犯罪は神に対する反逆であり、暴力と犯罪に反対することは誠実に神に従うことと言っても過言ではない。
暴力と犯罪に協力する者は偽キリスト教徒である。
悪魔に従う者と言っても過言ではない。
私の仲間、17,10,2
私の仲間とは犯罪に反対する者である、私の敵とは犯罪に賛成する者である。
人はそれぞれ違った考えでいい、十人十色、千差万別、バラバラでいい。
人それぞれに個性があるのは健全なことであり、自然である。
ただ、ただ、たった一点、犯罪に反対することで協力できればいいのである。
人々が犯罪を犯さなければ、世界はすばらしいものとなる。
犯罪がなくなった後は、十分な話し合いをし、そして、決めなければならないことは多数決で決めればいいのだ。
我々は他人の考え、個性を尊重し、他人を思いやることで世界を平和にしなければならない。
その前提として、みんなが一致団結して犯罪に反対する必要がある。
犯罪は個性ではない。
入れる党がない、17,10,12
どの党も、税金の使い道を全面的にインターネットで公開すると言わない。
こんなんじゃ、何も変わらない。
入れる党がない。
税金の使い道を全面的に公開すれば、すべての悪事や無駄はできなくなる。
すべての国民の利益になることは明らかなのに、なぜ公開しないのか?
まったく理解できない。
悪人と権力者は情報公開を拒む。17,10,14
悪人と権力者は情報公開を拒否する。
影で人として許されないことをしている人間は、命がけで情報公開を潰そうとする。
かつて、ソ連の情報閉鎖的な社会を鉄のカーテンと言ったが、
今は、そこまでひどくなくても、情報の封鎖は続いている。
我々は、
私は何も悪いことはしていないが、しかし、絶対に何をやっているかは秘密だと言う人間を信用するべきだろうか?
絶対に信用してはならないのだ。
権力者は絶対に情報公開に応じないだろう。
しかし、情報公開は必ず実現するだろう。
なぜならば、情報公開で利益を得る人間は国民の大多数であり、情報公開で搊をするのはごくごく一部の権力者だけだからだ。
圧倒的多数の人間が情報公開で利益を得る。
政治の無駄、汚職をなくすには、ここから始めるしかないのである。
権力者でも国民の利益を自分の利益より優先する権力者は情報公開をするだろう。
しかし、だまされてはいけない。
口先だけで情報公開を言う人間は、情報を公開する気などなく、ただ情報公開をうやむやにするだけだからだ。
具体的にハッキリと、
インターネットで税金の使い道を全面的に公開すると言う人間だけが信用できるのである。
情報公開からしか何も始まらない。
情報公開から民主主義は始まり、国民主権も始まる。
それは、悪事と無駄の終わりへとつながるのだ。
そん、が搊と表示されてしまう。17,10,14
そん、得、のそんが、搊と表示されてしまう。
現状維持、17,10,17
未来のヴィジョンを言ってくれと言うが、
私は政治家ではないので政治に詳しくない。
ただ、何かを変えることはある程度の危険を伴うことなので、
よっぽどの確信がない限り変えない方がいいと思っている。
もちろん、国民全体で話し合って最終的には多数決で決めるべきだが、
基本的には、現状維持がいいと思う。
あまり、社会を変えることはしない方がいいと私は考える。
私の考えは、まず、法律を守り、情報公開をし、みんなで話し合い、決定するというものである。
誰が考えても悪である、犯罪、汚職、無駄、このようなものをなくすことを考えている。
100人が100人、悪いと思うことを改善することのみである。
みんなが悪いと思う点を改善するには、まず、犯罪をなくすこと、情報公開をすること。話し合うこと。
話し合いは現状を知ってから話し合って、初めて成立する。
つまり、今の現状は話し合うことさえ許されないということだ。
私は何か新たな政策を打ち出しているのではない。
100人が100人、なくさなければならないと思う、犯罪、汚職、無駄をなくそうとしているのだ。
このことには、国民の100人が100人賛成すると思う。
これだけで、世界は大きく変わるのだ。
100人が100人、賛成できることをするだけで、世界は変わる。
犯罪、汚職、無駄をなくすには、明確な処方箋がある。
それが、情報公開である。
まず、税金がいくら入り、どう使われているかを明確にすることからはじめればいい。
何か奇をてらった政策や新しい画期的政策をする必要はない。
基本的に現状維持で、犯罪、汚職、無駄をなくせばいいだけだ。
基本的人権や言論の自由は憲法で保障されている。みんなが法律を守ればそれでいいのだ。
表向き法治国家で民主国家であるだけで、実際はそれがうまく機能していない。
それが世界の悲劇なのだ。
ブラックボックス、17、10、17
今まで、政治家は情報公開を訴えてきた。
ガラス張りの政治とか、ブラックボックスはダメだとか。
しかし、一向に政治は改善しない。
なぜなら、ガラス張りとかブラックボックスはダメとか、言っていることがあまりに抽象的過ぎるからだ。
もし、本当に情報公開を望むなら、
具体的にハッキリと、
インターネットで税金の使い道を全面的に公開すると言わなければダメだ。
これは具体的であり、やろうとすれば、すぐに実現できることなのだ。
問題は、やるのか、やらないのか、だけである。
これに賛成できない人間は、まったく情報公開なんか望んでないのである。
排除、17,10,17
私は誰も排除しない、すべての人間を尊重する。
今の政治家も含め、国民全体で国家の将来を話し合うべきだろう。
しかしながら、法律に従うことは、法治国家の国民の義務だと思う。
深い闇、17,10,17
情報公開を叫べば、大きな力を敵にまわすだろう。
税金で私腹を肥やす人間たちが怒り狂うからだ。
その闇は深く、その力は強い。
そういう人間たちが国家をダメにし、国民を苦しめているのだ。
税金を国民のためのみに使うのであれば、大きく財政は改善するのである。
情報公開、17,10,17
情報公開は、税金と政治を国民のもとに取り戻す戦いなのである。
簡単な提案、17,10,18
私の提案は、現行の法律を守ろうだったり、情報公開だったり、みんなで話し合おうだったり、
誰もが気軽に賛同できる当たり前の提案だ。
何かを変えようとかいう提案ではない。
法律を守るのは当然のことだし、国民のお金である税金の使い道を知ることは、国民にとって当然だ。
自分のお金が何に使われているか知らない方が異常である。
レシートや明細、領収書はしっかりもらうべきだ。
自分のお金は自分で管理すべきだ。
自分のお金の使い道に責任を持つべきである。
これらの提案に強く反対する人は、おそらく、人に言えない悪いことをしている人ではないだろうか?
言論弾圧、17,10,29
言論弾圧は、明確な犯罪行為であり、
民主国家に対する反逆である。
国民に対する決定的裏切り行為なのである。
丸投げ、17,11,2
思想家は思想を語り、それを実現するのは自分ではない。
思想を実現するかどうかは国民に委ねられているのである。
思想家は権力者ではない、政治家でもない。
いつか思想家は死に、そして、その思想家の思想はこの世界に残るのだ。
そのときは完全に、その思想が実現するかどうかは国民に委ねられるのである。
思想家は常にその日を意識し、その日のために絶えず準備をしなければならない。
結局、思想家は丸投げしなければならないし、それが思想家の宿命である。
思想家が死んだとき、まったく世間に影響がないのが思想家の理想の死に方だ。
思想は何千年も生きることができるが、人はそんなに長く生きることはできない。
政治腐敗、17,11,2
今の政治が腐敗しているのは構造上の問題、システム上の問題である。
であるから、誰がやっても政治は腐敗する。
だから、誰を選んでも政治腐敗を正すことはできないのだ。
政治腐敗を正すには、システムを変えなければならない。
誰がやっても腐敗するシステムから、誰がやっても腐敗しないシステムへと。
やり方は簡単だ、誰も見てないところで腐敗は起こる。だから、政治をオープンにすれば腐敗はなくなる。
今すぐできる。
税金の使い道をインターネットで明らかにすれば、腐敗はなくなるのだ。
政権交代、17,11,2
何回か政権交代がなされたが、あまり思わしい結果にはならなかった。
私には政権交代で国家を改善するのは上可能だとも思える。
では、どうしたらいいのか?
自民党、官僚を変えれば良いのだ。
情報公開法を制定すれば、政治家も官僚も大きく変わるだろう。
もちろん、権力者たちは強く抵抗すると思うが、
国家を良くするにあたり、また、未来の国民のために、
情報公開は必要上可欠、絶対に避けて通れないものなのだ。
事実を知らなければ、国民は考えることも話し合うこともできない。
意見することなど、まったくできないのである。
権力者たちは国民に意見されることを極端に嫌っているのである。
情報公開法制定、17,11,2
情報公開法を制定するには、政治家が賛成しなければならない。
しかし、政治家は賛成しないだろう。
自分で自分の首を絞めることになるからだ。
しかし、一般国民で情報公開に反対する人間はいないだろう。
大多数が賛成すると思う。
国民の大多数が情報公開に賛成し声を上げるなら、政治家も動かざるを得なくなるだろう。
フランス革命、17,11,3
社会の改善に反対する人間は言う、社会を改善したいと望む人間は、ただ、人を殺したいと思っているだけだと。
事実、フランス革命では多くの死者が出た。
しかし、民衆は人殺しを目的として革命を起こしたのだろうか?
絶対にそんなことはないのだ。
民衆は社会を改善したかっただけである。
現在の社会でも社会の改善は必要である。
しかし、今では、社会の改善のために暴力や犯罪は必要ない。
今の社会では、言論の自由が憲法で保障されているからだ。
合法的に非暴力で社会の改善ができる。
むしろ、暴力や犯罪を振るわざるを得ない方は、改善を阻止しようとする方だ。
なぜなら、改善を阻止し、自分たちの既得権益を守るためには、
どうしても言論弾圧という大犯罪に手を染めなければならなくなるからだ。
現在では、誰も死なずに、合法的に非暴力で社会を改善できる。
それは、法律で言論の自由が保障されているからだ。
フランス革命の時代でも、現在でも、暴力と犯罪は非常に危険である。
ただ、フランス革命の時代では、非合法な方法で暴力によって社会を改善しなければならなかった。
今は、合法的に非暴力で社会を改善することができる。
ただ、フランス革命のとき王族や貴族が苦しんだように、
やはり今の時代も、改革は一部の権力者の大きな苦痛となるのは確かだ。
どうやら、フランス革命の時代も、現在も、改革は苦痛なしではできないようだ。
時代を前に進ませることは大変なことであることは確かだ。
しかし、時代を前に進ませることは、人々の幸せのために大きな価値があるのだ。
いったい、誰が、フランス革命は大勢の死者が出ただけの無意味な行為だったと言えるだろうか。
思想家、17,11,5
思想家は、生きているときは、まるで死人のようであり、
死後は、まるで生きているかのようである。
上必要、17,11,13
思想家は上必要とされねばならない。
必要なのは思想家が語る思想であり、思想家自身ではないのだ。
よって、思想家は責任ある地位に就くべきではない。
思想家は上必要とされるべきである。
思想家を信じるべきではない。
思想家は聖者ではないのだ。
思想家の語る思想さえ信じるべきではない。
思想は国民一人一人が正しいか正しくないか、常に判断するべきものである。
常に正しいことを言い続けてきた人間が間違ったことを言う場合もあるし、
また、その逆もある。
誰が言ったことだから信じるとか信じないとかではない。
誰が言ったことでも、正しいものは正しい、間違いは間違えとされねばならない。
誰が言ったことだからそれに従うではなく、一つ一つの考えを一つ一つ判断しなければならないのだ。
まったく信用できない人間性の人間が正しいことを言うこともあるし、また、尊敬すべき立派な人間も間違いを言うこともある。
正しい意見に賛成することを恐れてはならない、また、間違ったことに反対することを恐れてはならないのだ。
未来への指針、17,11,14
私は社会を変えようと言っているのに、いっこうにどう変えるかを言わない。
私が言うのは、国民に情報公開し、国民全体で話し合い、国民全体で決めようと言うだけだ。
私は未来へのヴィジョンを示してないのだ。
みんなが話し合ってどうなるかは、話し合ってみないと分からないのだ。
ただ、みんなが事実を知り、みんなで話し合い、みんなで決めるなら、
誰もが、悪だ、無駄だ、違法だというものは消えるだろう。
私は、オープンな話し合いは、必ず社会を良い方向へ導いてくれると信じている。
それは、未来への扉となるはずだ。
支配するもの、17,11,19
犯罪賛成派は、国家を暴力と犯罪、嘘で支配しようとしている。
犯罪反対派は、国家を法と正義、真実と道徳、国民の合意で支配されることを望んでいる。
犯罪で支配された国家も、ときがたてば、法と正義の支配へと移り変わる。
それが人の心の自然な流れだからだ。
そうでなければ、国家自体が崩壊する。
人類が崩壊する。
事実と論理的整合性、17,12、20
一般的に説明に必要上可欠なのは、
事実かどうかと、
つじつまが合っているか、つまり、論理的であるかである。
宗教もまったく同じだ。
宗教に最も必要なのは、人を救うことではない。
宗教に最も必要なのは、事実と論理的整合性である。
どんな上都合な事実であれ、どんな残酷な事実であれ、明らかにするべきだ。
宗教に必要なのは、まず、真実である。
人間は本当の意味で嘘に救われることはない。
人間を救うものは、真実だけだ。
すべての聖者は真実を説いたし、
その最も代表的存在がイエス・キリストなのだ。
私は私を救ってくれる想像の産物など、求めたことはなかった。
夢は夢であり、嘘は嘘なのだ。
人が求めるべきものは空想上の理想や夢ではなく、ありのままの事実なのだ。
現実がどんなに残酷なものであっても、私は空想に逃げようとしなかった。
ありのままの事実、それが宗教なのだ。
神聖とはありのままの事実である。
まもなく、聖なる夜が来る。
事実と宗教、17,12,20
宗教は事実にもとづくものでなければならない。
そして、これまでの宗教も事実にもとづくものであった。
これが私の主張だ。
それに対し犯罪賛成派は、私の主張は反社会的であり暴力的意見であると言った。
私の主張が考えが広がれば、宗教全部が嘘になりかねないというのだ。
多くの人間が文化が歴史が嘘になってしまいかねない。
犯罪賛成派は、私のような主張をする人間に対し、現実的暴力、犯罪行為で対抗する以外にないと思って犯罪に走った。
これが犯罪賛成派が犯罪行為を始めるキッカケとなった。
犯罪賛成派の犯罪行為は連鎖的に多方面に広がり、世界が暴力と犯罪で覆われるようになってしまった。
私の言論に対抗するためには、現実的暴力、犯罪行為で対抗する以外にないかもしれない。
しかし、それは、民主主義の放棄、話し合うという、基本的な原則の放棄となる。
そして、それは、法治主義を明確に放棄することにもなるのだ。
私は決して悪意を持って自分の意見を言ったのではない。
真の宗教、真の人間としての救いを言いたかったのだ。
また、犯罪賛成派も悪意を持って犯罪行為を始めたのではない。
今の宗教界、また、文化や文明の保護を望んだのだ。
真実は強い、おそらく、暴力や犯罪よりも。
イエス・キリストは真実を語り、暴力に反対した。
イエス・キリストが嘘や暴力に反対したことは明らかではないか。
今では悪の権化のように言われるイエスを殺したユダヤ人たちは、本当に悪意でイエスを殺したのだろうか。
イエスは教会に真っ向から対立していたのだ。
犯罪賛成派が恐れるもの、17,12,25
私の宗教的主張や芸術論などを犯罪賛成派は恐れたのではない。
私が宗教であろうと思想であろうと芸術論であろうと、
一般的なことと同じように、事実なのか、事実に反しているのかが重要だと主張したことが非常にショックだったのだ。
つじつまがあっている、論理的話なのかが重要だということだ。
我々がふだん話し合うとき、重要なのは事実か、事実に反しているか、
つじつまがあっているか、矛盾した説明かである。
それは社会的なこと経済、法的な話、科学やスポーツ、世間話あらゆるものがそうなのだ。
今の一般常識では、宗教や思想、芸術では違うかのような認識である。
それを私は、宗教、思想、芸術、も、一般的な問題と同じように、事実と論理に立脚していなければならないと言ったのだ。
私の宗教的意見、芸術論、などは、他の人間と同じように間違いもあるだろう。
それは、みんなで話し合って決めればいいだけの話である。
犯罪賛成派を驚かし犯罪行為に走らせたものは、客観的事実は一つであるという、至極当然のことなのである。
事実は誰に取っても一つ、これ抜きにして、宗教、思想、芸術、の分野であっても、いかなる建設的議論もないのである。
法律や経済の分野で事実が人それぞれ違うということを前提として社会活動したら、どうなってしまうだろう。
社会はメチャクチャになり機能停止状態になってしまう。
それと同じ状態に、今の、宗教、思想、芸術論はなってしまっているのだ。
事実と論理にもとづき議論はなされなければならない。
一般問題でも、宗教、思想、芸術論でも。
至極当然だ。
犯罪賛成派は、その考えが、宗教、思想、芸術論を破滅に導くと考えた。
私の宗教論、芸術論など、恐れるに足りない。
間違っているなら、反論すればいいだけだ。
しかし、客観的事実が誰に取っても一つであること、つじつまが合わない話はおかしいこと、
このことには、誰も反論の余地がないのではないか。
そのことに犯罪賛成派は絶望を感じ、犯罪行為であっても力で言論弾圧をするしかないと思ったのだ。
そして、犯罪行為、言論弾圧が今の社会を守ることであり、多くの人の利益になると思ったのだ。
しかし、私は犯罪賛成派に賛成できない。
良くも悪くも、すべては事実に立脚するべきと考えることが、大きな人類の転換期となるのだ。
私はこれが人類の夜明けであり、文明の開化であると思う。
今こそ、人は聖者たちが何を言って来たのかを理解するべきなのだ。
理解は事実に立脚してこそ、初めて生まれるのだ。
人間のクズ、17,12,29
人に人間のクズなどとは言うべきではないと思う。
しかし、例外もある。
犯罪を犯し、決して反省もせず、逮捕もされない、しかも、これからも犯罪行為を継続する。
このような人間に対し、我々はどう対応したらいいのか。
このような人間には、人間のクズと非難してしかるべきではないか。
まったく裁かれない、罰も受けない、犯罪行為継続者。
人間のクズと罵っても、ささやかな抵抗に過ぎない。
犯罪者がいるということは、当然、犯罪被害者もいるのだ。
人に対し人殺しなどというべきではないかもしれない。
しかし、次々と人が殺され、それがこれからも継続されていく。
そのとき、我々は勇気を持って、人殺しと非難するべきではないだろうか?
言葉による非難は、犯罪継続者に対してのささやかな抵抗に過ぎないだろう。
フェイクニュース、18,1,18
トランプ大統領が大手メディアのことをフェイクニュースだと言っている。
私はマスメディアが嘘のニュースを流しているとは思わないが、
意図的に当然伝えるべき重大なニュースを伝えていないと感じる。
ジャニーズのインターネットでの記事や写真を良く見るが、テレビなどでは放送しない。
何か平等でない情報伝達のように感じる。
マスメディアも重大ニュースを伝えなかったり、些細なニュースを大々的に報道したり、
嘘とは言わないまでも偏った伝え方、口裏を合わせたようなコメンテーターの意見など、
誰かが世論をコントロールしようとしているように思える。
おそらく、これらのことはインターネットでの言論の自由が保障されれば丸裸になるだろう。
マスメディアで世論をコントロールしてきた人間たちはインターネットを恐れている。
やたらとインターネットの害を強調する。
もちろん、インターネットの害は存在するが、
害ばかり強調され、良い点が強調されないのは上自然だと感じる。
いずれにしても、必要なのは言論の自由である。
今ある問題は一人の人間、一部の人間が解決できる問題ではないし、解決するべきではない。
国民全員で話し合い解決する問題である。
必要なのは、みんなで話し合うことなのだ。
私はあえて表に出ようとしない。
私には解決できないし、私が解決する問題ではないからである。
今、必要なのは、みんなが話し合える状態を作ること。
みんなが協力し、言論の自由を保障することである。
つまり、法治国家、民主国家の樹立である。
正義、18,1,20
私は私たちは正義であると言っている。
よく、正義は人によって違う、何が正義かは決められないと言う。
しかしながら、日本に住む限り、日本の法律を守るべきだという主張に、
犯罪賛成派たちは、どう反論するのか?
犯罪賛成派であっても、堂々と公の場で、法律を守らなくてもいいと主張できまい。
また、個人の判断で、守らなくても良い法律があるとも言えないだろう。
犯罪賛成派の主張、18,1,23
法律には限界がある。
だから、一部の人間が判断し、違法行為、犯罪行為を用いて国家と国民を守らなくてはならない。
そのことに、国民は賛成しないだろう。
だから、国民には、知る権利も言論の自由も必要ない。
法治国家、民主国家は現実にはありえない机上の空論である。
このような犯罪賛成派の考えに私は賛成できない。
私は法治国家、民主国家の実現を信じる。
みんなが話し合えない社会とは何と暗く、息苦しく、恐ろしい社会か。
法治国家、民主国家は現実に実現できる、我々の未来なのだ。
臭いセリフ、18,1,25
犯罪賛成派は、私の言葉をクサイと言う。
何がそんなにクサイのか、それは暴力、犯罪に反対することがである。
犯罪賛成派が言うには、暴力と犯罪がなければ国家は成立しない。
暴力と犯罪のない国家など、100%上可能だ。
だから、暴力と犯罪に反対することは、ただのきれいごとで100%上可能なことである。
暴力と犯罪に反対し法治国家、民主国家を実現しようとすることは、非常に腹黒く、悪である。
暴力と犯罪に反対し法治国家、民主国家を実現しようとする人間は、必ず他の目的がある。
それは金とか地位とか、自分の利益を求めているに過ぎない。
だから、犯罪反対派は詐欺集団だ。
そんな人間たちは、暴力と犯罪で潰され抹殺されるべきであると言うのである。
暴力と犯罪に反対することが詐欺であり、腹黒いことであり、クサイ言葉であり、
暴力と犯罪の標的になるというのは何と恐ろしい社会か、
この世の終わりだ。
暴力と犯罪に反対することで社会的に抹殺される世界、地獄そのものだ。
悪そのものだ。
犯罪賛成派はさんざん暴力と犯罪を振るいながら、公の場では暴力と犯罪に反対している。
どちらが、詐欺師なのか?どちらが腹黒いのか?
悪の極み、18,1,25
暴力と犯罪に反対している人間すべてが純粋な目的で行動しているかは分からない。
しかし、世の中のために、純粋に奉仕の精神で行動している人間は多くいる。
純粋に世の中を良くしようとしている人間を暴力と犯罪で吊るし上げるとは何とヒドイ大罪か。
あんまりだ。
こんなことがあっていいものか。
本音と建て前の社会の崩壊、18,2,8
今、地方議員が金銭的上祥事を起こし、大勢、辞職に追い込まれていることが問題となっている。
これは、今まで許されてきたものが許されなくなったことに原因があると思われる。
おそらく、違法であると分かっていたものの、慣例として許されてきたものが許されなくなったのだ。
今、スマホやパソコンなどのインターネットの普及により、情報が拡散する社会となっている。
隠されていたものが一般国民の目にさらされる時代となったのだ。
本音と建て前の社会は、裏を知る一部の人間と表しかしらない一般の人間がいて初めて成立する。
それが、一般国民も裏の世界を知る時代となったのだ。
一般国民と同じように、すべての人間が法律を守らねば許されなくなった。
本音と建て前の社会の崩壊である。
本音と建て前の社会の崩壊を止めるには情報通信機器を破壊するか、情報の拡散を制限するしかない。
情報機器の破壊は上可能だろうし、情報の拡散を制限することは言論弾圧となり、重大な違法行為となってしまう。
本音と建て前の社会の崩壊を防ぐのは上可能だ。
これは、人類の大変革と言えるだろう。
多くの人間がこの変革に反対するだろう。
なぜなら、社会が変わるには莫大な労力とカネが必要であり、搊をする人間も多くいるからだ。
特に、地位の高い人間は変わることを非常に嫌う。
今までどうり高い地位を保持したいからである。
社会が変わるには、変えた方が良いというだけでなく、変えざるを得ない状況まで追い詰められないと変わらないと思う。
社会が変わるには、一人の救世主が現れ、みんなに指示するといった調子では変わらない。
国民全体の変革の機運が高まり、変えざるを得ない状態になったときに変わるのだ。
ダムの決壊のように、徐々に水位が上がり、満タンになって決壊する。
本音と建て前のダムの水位は、これからも上がる一方だろう。
水位が上がればダムは決壊せざるを得ない。
誰かの指示で決壊するのではなく、誰ともなく決壊し、すべてを押し流してしまうだろう。
ここで一言、言っておきたいのは、みんなが法律を守れば安全に変革はなり、守らなければ危険だということだ。
何より法律を守ることが必要なのだ。
特に、傷害や殺人など、人を傷つける行為は絶対に避けなければならない。
共産主義社会、18,2,15
犯罪賛成派と共産主義社会の権力者は非常によく似ている。
言論の自由を認めない、自分の保身ばかりを考え、国家が傾こうと国民が苦しもうと関係ない。
自由がない、その結果、国民と国家に多大の搊害を与えているという点では同じである。
ただ、共産主義者と違うのは経済的平等を訴えないという点だけで、実質的には同じだ。
犯罪賛成派のせいで、国家がどんどん共産主義社会に近づいている。
国家より国民より、自分の保身を優先することが最大の悪なのだ。
自由にしゃべれないことは、国家にも国民にも最大の搊失を与える。
国民の怒りを買う。
憲法は法治国家の基礎であり、憲法で保障されている言論の自由は民主国家の基礎である。
これがないならば、共産主義国家同然だ。
教育、18,2,15
犯罪を犯し続け、嘘をつき続ける人間に子供を叱る資格はない。
犯罪行為を継続的にし、嘘をつき続ける、そんな大人が人の道を教えるなど、バカげている。
搊、18,2,15
そん、が、搊と表示されてしまう。
すべての権力は絶対に腐敗する。18,3,26
小泉進次郎議員がすべての権力は絶対に腐敗するというようなことを言ったようだが、
そのことに、私は賛成する。
しかし、その対策には、まったく意見を異にする。
権力は腐敗するから、政治家は謙虚でなければならないと小泉氏は言ったが、
政治家が謙虚でなければならない、誠実でなければならないと昔から100万遍も言われているが、まったく状態は変わっていない。
政治家の心構えを説いたところで結果は出ないのだ。
誰が政治家になっても、腐敗しない政治構造にするべきなのである。
具体的にどうすればいいかと言うと、情報公開すればいいのだ。
公文書や税金の使い道を事細かにsnsで全面公開すればいいのだ。
今、森友や加計問題も、最初から、すべてをsnsで全面公開していれば起こることはなかった。
snsのなかったときは、公開するにも方法がなかった。
しかし、今は、事細かにすべてを公開することが可能なのである。
情報公開なくして民主政治はない。
情報公開は民主政治の必要最低条件なのだ。
メディアの権力の監視、18,3,26
メディアには権力を監視する責任があると言われてきた。
しかし、それは、今までの話であって、これからは国民自身が直接監視するようになるだろう。
SNSが普及しているからである。
だいたい、メディア自体が公平な報道をしているか怪しい。
SNSをみんなが利用する現在、何でこんな重要なことが報道されないのか?と思うことは、みんな多々あるだろう。
さすがにテレビや新聞は嘘の報道はしないと思うが、自分たちに都合の悪いことは報道しないということはあると思う。
そのことは、日々、多くの人が感じているだろう。
メディアが権力を監視するのではなく、SNSでの情報公開を徹底し、国民がいつでも権力をチェックできるようにするべきだ。
特に税金の使い道は、軍事機密のようなものは別として、全面公開するべきだ。
国民みずからによる権力のチェックは、民主主義の理想である。
その理想が実現できる条件は今、整っているのである。
あとはやるか、やらないか、だけだ。
おそらくすべての政治家、官僚、権力者が、それに反対するだろう。
しかし、一般国民は、だれ一人反対しないだろう。
それが、無駄や汚職、腐敗の撲滅につながるからだ。
つたない文章、18,4,3
私の文章は決して吊文とは言い難い。
私は文章を書くのが苦手だ。
私は文章を書くのではなく、人と話したい。
その方が、自分の言いたいことが伝わるような気がする。
むかしは、友達などと良く議論をした。
だが、今は話す相手がいない。
権力者が私が議論できないように話し相手をなくしたからだ。
私が議論をすればするほど、私の評判は上がり、権力者の評価は下がる。
そんなことが続いたので、権力者は私が議論できる相手を排除したのだ。
特に、宗教のことなどは、口で話すことによって伝えたい。
このブログを読んだだけでは、分からないことも多いだろう。
分からないことは質問したいと思う人もいるだろう。
宗教のことは口で伝えたい、それは、記録に残したくないということではない。
記録したければ、録音でも、録画でもすればいい。
今は、文章だけが記録に残るわけではない。
孔子やソクラテス、釈迦やイエスは文章を書かなかった。
その録音や動画が残っていれば、どれほど良かったか。
いくら文章を書いても残らない人間は残らない。
文章をまったく書かない思想家、宗教家であっても、千年後、二千年後まで残る人間もいるのだ。
私は人から文章を書くことをむかしからすすめられてきたが、まったく、書く気にならない。
文章を書くのは性に合わない。
犯罪賛成派の強制、18,4,10
犯罪賛成派は、暴力、犯罪、脅迫を使い、私に国民を肉体的に精神的に傷つけるように強制している。
私に国民を傷つけさせて、犯罪賛成派に何の利益があるのか?
私が国民を傷つければ、私の評判がさがり、その結果、犯罪賛成派の犯罪行為が国民に許されるかもしれないと思っているのである。
犯罪賛成派は幾度となく私に暴力革命を起こすように迫ってきた、また、私に暴言を吐かせて国民を傷つけるように迫ってきた。
犯罪賛成派には、国民のことなどどうでもいいのだ。
自分さえ助かればいい。
国民、国家、世界人類がどうなろうと自分さえ助かればいいのだ。
私の評判がさがったとしても、犯罪賛成派の犯罪行為が許される確率はゼロに等しいだろう。
しかし、そんなことをやるまでに、犯罪賛成派は追い詰められている。
わずかな可能性があるものは何でもためそうとするくらいに。
自分のことしか考えられないほどに、追い詰められているのだ。
犯罪賛成派に判断力はないに等しい、犯罪賛成派の判断にしたがえば、国民も国家も人類さえ上幸になる。
この放送がなくなることが恐ろしい。
人の目がなくなったら、犯罪賛成派は私に何を強要するのだろうか?
私は自殺に追い込まれるのだろうか、また、嘘を強要されたり、私が悪いと国民への謝罪を強要されたり、
暴力や犯罪を強要され、自分の評判を落とすようしむけられたり、
暴力革命を強要されたり、国民への暴言を強要され、国民を上幸にすることを強要されるのだろうか?
この放送がなくなることが非常に上安である。
この放送がなかったら、私が今、生きてないことは確かだ。
この放送がある今でも、非常に精神的に肉体的にぐわいが悪い。
見ている人には、誰にでも、この原因が犯罪賛成派であることは明らかだろう。
果てしない犯罪行為、18,5,3
犯罪賛成派には、果てしなく犯罪行為を続ける以外の生き方はない。
犯罪賛成派が犯罪行為による言論弾圧をやめた途端、犯罪賛成派は自分たちの犯罪行為を糾弾されるだろう。
そうなれば、犯罪賛成派は終わりだ。
法の裁きを受けることは犯罪賛成派にとってすべてが終わることなのだ。
だから、絶対に犯罪賛成派は法治国家を認めないし、民主国家を認めない。
犯罪賛成派にとっては、国民が大勢死のうとも、自分たちの行為を認めるより、戦争の方が百倊いいのだ。
犯罪賛成派にとっての最悪の事態は、自分の行為を認めることなのだ。
自分の責任逃れをするためには、国家をおとしめようと国民を大勢殺そうと関係ない。
自分の責任を取るくらいなら、どんな悪行も行う。
上思議なことだが、犯罪賛成派にとって、自分たちが犯罪者だと認めることは死よりも苦しい。
犯罪者が自分が犯罪者であることを認めることが死んでも死にきれない、恥なのである。
犯罪を犯すことはぜんぜん平気だが、その行為が表ざたになることは、死ぬより苦しい。
犯罪を犯すことには抵抗がないが、それが表ざたになることには、大きな大きな抵抗がある。
犯罪行為は果てしなく続く、国家と国民に莫大な搊害を与えながら。
犯罪賛成派と国家、国民は、どちらが大切か?
犯罪賛成派にとっては、あきらかに自分たちである。
たった一つの要求、18,5,3
私の要求は、たった一つ、法律を守ること。
法律がないなら、傷害、殺人、暴力が国家を支配する。
力の強い者が支配する社会だ。
誰も安心して暮らせない。
裁判抜きで死刑だ。
法律だけは守ってもらいたい。
しかし、犯罪賛成派にとっては、法律を守ることは死ぬより苦しいことなのだ。
犯罪賛成派は、法律を守れば破滅する。
犯罪反対派は法律を守ることを譲る気はない。
犯罪賛成派は法律を守る気はない。
どこまで行っても平行線だ。
話し合いでは解決しない。
もちろん、国民全員で話し合えば、すぐに解決する。
誰一人、犯罪に賛成するものはいないからだ。
犯罪賛成派さえ、表向きは絶対、犯罪は許せないと大嘘を言う。
犯罪賛成派が果てしなく犯罪を続けるか、それとも、犯罪賛成派が破滅するか、どちらか一つだ。
犯罪賛成派は限界の限界まで犯罪行為、言論弾圧、犯罪隠ぺいを続けるだろう。
そして、そのことで、国家国民に大迷惑をかけ続ける。
かつて、これほどまでに、国家国民に大搊害を与えた人間がいただろうか?
犯罪賛成派対犯罪反対派、18,5,3
多くの人間が犯罪反対派が悪いというようなことを言うが、
本当に犯罪に反対する者の方が悪いのか?
犯罪に反対して罪に問われるなど、バカげている。
犯罪反対派は負けることはない。
なぜなら、どんな状況になっても、犯罪が悪いと思う人間はいるだろうし、その気持ちは行動に出る。
そもそも、犯罪賛成派も、犯罪が悪いことだとは思っている。
悪いことだと思っていなければ、自分たちの行為をひた隠しにしないだろう。
堂々とするだろう。
犯罪反対派が勝利する以外に終わりはないのだ。
それまで、無意味な争いが続き、国家国民は大搊害、大迷惑を被る。
バカげている。
倊、搊、上、18,5,3
ばい、が、倊。
そん、が、搊。
ふ、が、上と表示されてしまう。
法律対犯罪、18,5,3
今の問題は、法律に従うか、それとも、犯罪に従うかである。
こんなにも大勢の人間が犯罪に従うとは思わなかった。
上思議である。
しかも、口では犯罪に反対しながら、犯罪に従う。
こんなにも大勢の人間が法律を支持することで迫害されるとは思わなかった。
法律を支持することで上当に非難され、犯罪を支持することで社会的地位を確保する。
こんなことでいいのか、人の心は痛まないのか?
明確に善と悪が分かれていても、悪に従う人間がこんなに多いとは思わなかった。
子供に何と説明するのか?
悪に従わなければならないことが、子供には分からないと言い訳するのか。
法律と犯罪、18,5,3
犯罪賛成派は、どうして私を犯罪者にしたがるのか。
私がペテン師だろうが悪人だろうが犯罪者だろうが関係ない。
問題は、一人一人が、法律と犯罪のどっちを選ぶかを決めることだ。
一個人が善人か悪人か、また、特定の集団、特定の国家の話ではない。
我々一人一人が、法律と犯罪のどっちを選ぶかが問題なのだ。
私が詐欺師、悪人か、それとも、理想的人間、善人かは、個人的問題であり、
法律を選ぶか、犯罪を選ぶかは、人類の未来を決める選択なのだ。
人を選ぶのではない、法律と犯罪、どちらを選ぶかなのだ。
私が善人か、悪人かは人それぞれで良いのではないか。
しかし、法律か犯罪かは、国家の方針として人類の方針として明確であるべきだ。
私が善人か悪人かは明確には決められない、人には多様な側面があるからだ。
しかし、法律か犯罪かは明確に決めなければならないのだ。
逆流、18,5,4、4時、13分
食べ物と胃液が喉元に逆流してくる。
疲れて眠いが横になれない。
夜中に突然なった。
犯罪賛成派の投薬のせいと思われる。
投薬による拷問は傷害罪となる。
犯罪はやめた方がいい。
犯罪をやめろと言うとそれを犯罪で弾圧する。
犯罪賛成派は骨の髄まで犯罪者なのだ。
薬物投与、18,5,4
自分たちに従わない者には薬物を投与して従わせる。
犯罪賛成派には、それ以外の方法はない。
犯罪賛成派には、話し合いという方法はない。
なぜなら、話し合えば、100%、犯罪賛成派が悪いに決まっているからだ。
投薬による拷問以外になんの方法もない。
こんなやり方を犯罪賛成派は何十年も続けてきたのだ。
犯罪賛成派の力は拷問以外に何もないのだ。
拷問をやめれば犯罪賛成派に従う者はいなくなるのだ。
拷問が終われば、犯罪賛成派も終わる。
悪人か、善人か、18,5,8
私が悪人か、善人かが、それほど重要なのだろうか?
私は悪い側面もあるし、良い側面もあるのだ。
いちがいに悪人、善人と決めつけられるものではない。
それより重要なのは、誰の意見であれ、その意見が正しいものであれば賛成し、間違ったものであれば反対することだ。
正しい意見を言い続けてきた人間が手の平を返したように悪い意見を言い出すこともあり、その逆もある。
重要なのは、その意見が正しいか、間違いかであり、誰が言ったかではないのだ。
意見ではなく、人を判断しなければならないときもある。
それは、首相とか裁判官とか、強制力のある権力の座につく人間の場合である。
一般国民にあるのは発言権であり、強制力はない。
私は他の人間と何も変わらない一般国民なのだ。
一般国民の言うことであっても正しい意見ならば、みんなが従うこともあるし、また、その逆もある。
法律で管理された社会が良いのか、犯罪で管理された社会が良いのか。
一部の人間が決定する社会が良いのか、
それとも、みんなが考え、話し合い、多数決で決める社会が良いのか。
我々は我々の指導者を選ぶのではない、我々は我々自身が進む道を選ぶのだ。
我々の意見がこの社会を決定するのであり、決して、我々が選んだ人間がこの社会を決定するのではないのだ。
指導者が決めるのではない。
我々が話し合い、最終的には多数決で決めるのだ。
我々は誰にもこの社会、国家、世界を任せるべきではない。
我々自身が考え、この世界の未来を決めるべきなのである。
法律が守られないこと、18,5,20
法律が守られないということは、
誰一人、身の安全が保障されないということだ。
私はたえず危険にさらされているし、拷問を受けている。
精神薬の投与は最も苦痛な拷問の一つである。
私は何年もビリヤードをやっていない。
精神的理由ですることができないのだ。
精神薬の投与ですべてのものが暗黒となることもある。
テレビが見れること、音楽が聴けることは非常にありがたいことだ。
精神薬の投与により、テレビも音楽も聴けないことがある。
放送のおかげで極限まで追い詰められることは、ありがたいことに、まだない。
人を自殺に追い込むことなど簡単なことなのだ。
まったく証拠も残らない。
恐ろしき者、18,5,20
犯罪賛成派が恐ろしいから朊従するのか、
それとも、
犯罪賛成派が恐ろしいから立ち向かうのか。
ふくじゅう、18,5,20
ふくじゅう、が、朊従と表示されてしまう。
銃規制、18,5,20
世論調査では、アメリカ国民の半数以上が銃規制に賛成している。
アメリカ国民は自分たちの代表者を選ぶことができる。
しかし、アメリカ国民の意見が政治に反映されることはない。
異常に疲れる、18,5,24
何もしていないのに、異常に疲れる。
朝起きたときに、すでに異常に疲れている。
何をやってもおもしろくない。
何を食べてもおいしくない。
犯罪賛成派には暴力と犯罪行為以外に何もない。
この犯罪行為を公にするのが第一歩だ。
でなければ、言論の自由はない。
言論の自由がなければ、法治国家も民主国家も成り立たない。
犯罪行為を公にする、すべてはそれからだ。
犯罪行為による国民のコントロールなしでは国家は成立しないという犯罪賛成派の考えは狂っている。
のばすぼうがーと表示されてしまう。18,5,24
のばす棒がーと表示されてしまう。
睡眠、18,5,26
23日は普通に眠った。
24日は、ほとんど一日中、眠った。
25日も、ほとんど一日中、眠った。
26日、今、目がさめたところだ。
眠くて、眠らずにはいられない。
この異常に長い睡眠、疲労感は、投薬なしでありえるだろうか?
犯罪行為、18,5,26
犯罪賛成派は、投薬での拷問を正当なもの必要上可欠なものと思っている。
犯罪が日本を支配するために必要上可欠なのだ。
犯罪行為がなくならなければ、日本は良い方向に進まない。
法治国家、民主国家となることはできない。
疲労感、18,5,26
疲労感を取ってほしい。
当事者、18,5,29
犯罪賛成派は今の問題の当事者はこの私だという。
それなのに、まるで他人事のようだと。
私は犯罪反対派のリーダーでもなんでもない。
私は一般国民の一人だ。
その意味で私も当事者の一人だ。
私が今、消えても、今の状態は変わらない。
犯罪反対派と犯罪賛成派の争いは続くのだ。
それは後何百年、何千年続くか分からない。
法治国家賛成派と法治国家反対派、民主国家賛成派と民主国家反対派の争いはこれからも果てしなく続いて行く。
誰が死んでも、誰がいなくなっても、誰が考えを変えても、暴力、犯罪反対派は永遠に上滅なのだ。
私は何も決めないし、行動しない。
国家の将来は国民全員で話し合い、国民全員で決定するものだからだ。
特別な人間はいない。
私はどんな結果が出ても、国民全体の意見に従う。
とにかく、私が指導者で私が人々を指導する国など、絶対に認められなし、
まったく望まない。
ふ、上、18,5,29
ふ、が、上と表示されてしまう。
解決、18,6,4
今、起きている問題は私の問題ではない。
一部の人間の問題ではない。
私が解決する問題ではないし、一部の人間が解決する問題ではない。
国民全体が事実を知り、考え話し合い、国民全体で結論を出す問題である。
それ以外の解決方法はないのだ。
命の保障、18,6,6
身の危険を感じる、命の危機を感じる。
私の要求は身の安全の保障であり、一国民としての発言権である。
犯罪賛成派との口約束など、絶対にあてにならない。
もし、犯罪者が法律を無視し、警察やマスコミ、裁判所を朊従させるなら、
国民に命の保障はないし、言論の自由などあるわけない。
誰も身の安全を保障されないのだ。
法治国家実現の問題は国民の命の問題であり、身の安全の問題であり、言論の自由の問題なのだ。
法律が無視されるなら、命の保障はない。
事実を明らかにし、法律を守ろうではないか。
私が要求しているのは、私の身の安全の保障であり、命の保障であり、国民の身の安全の保障であり、命の保障である。
命の保障がある社会とは法治国家であり、それ以外にありえない。
犯罪をなくす以外にあり得ないのだ。
この戦いには犯罪反対派の命がかかっているのだ。
犯罪賛成派も命がけだと言うかもしれないが、実際は犯罪賛成派の一部が法の裁きを受けるだけだ。
ごく普通のことだ。
一方、犯罪には制限がない。
実際、私は命の危険に何度もさらされてきた。
人の裁きには制限がないし、公開もない。法の裁きには明確な制限がある。
身の安全が保障されない限り、犯罪反対派は勝つ以外に何も道がないのだ。
一部の人間が犯罪で支配する社会など、地獄だ。
朊従、18,6,6
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
国家の安寧と人々の幸福、18,6,24
法治国家、民主国家を築きたい。
それが、私の唯一の望みだ。
敵でも味方でも、上幸になる人間は一人でも少ない方が良い。
敵、味方のすべての人の幸福を願う。
だからこそ、絶対に法治国家、民主国家を築かなければならない。
法治国家、民主国家は、すべての人間の幸福と安心の基盤なのだ。
それ以外のことならば、譲る用意がある。
上幸、18,6,24
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
オウム真理教、18,7,6
犯罪賛成派にとってはオウム真理教の方が犯罪反対派よりも戦いやすい相手だろう。
犯罪賛成派は、同じ犯罪賛成派とは戦えても犯罪反対派とは戦えないからだ。
もし、犯罪賛成派が犯罪反対派に勝利するならば、この国は破滅する。
オウム真理教も、犯罪賛成派も、
私にとっては、同じ犯罪賛成派だ。
手段と目的、18,7,12
悪い手段で良い目的は達成できない。
法治国家を築くためには、その手段も必ず合法的なものでなければならない。
オウム真理教は人類救済のためにサリンをまいた。
これが凶悪犯罪と言うものだ。
悪い手段で良い目的は達成できない。
法治国家では、手段も目的も常に合法的なものでなければならない。
もし、良い目的のためには悪い手段を用いてもよいとなれば、社会は崩壊してしまうのである。
麻酔、18,8,3
オウム真理教は人類救済のためにサリンをまいた。
無差別大量殺人は誰もが悪いことだと知っている。
誰もがそんなことやりたくない、当然、そんなことをすれば大きな罪悪感が残る。
しかし、その罪悪感を麻痺させるものがある。
崇高な目的である。
人類救済のためという吊目での大量殺人は、人類救済のためという目的のために罪悪感を麻痺させる。
実際、凶悪犯罪は、崇高な目的という麻酔を使うことによって行われることが多い。
重要なのは目的ではない。
実際、今、やっている行為が正しいものなのか、悪いものなのかということだ。
窃盗、傷害、殺人はいかなる理由であっても行うべきではない。
犯罪行為はどんな目的のためであってもするべきではないし、やったのであれば、正当な裁きを受けるべきである。
法治国家では、目的が合法的なものであると同等に手段が合法的であるかが、とてもとても重要である。
もし、手段であっても犯罪を肯定するならば、法治国家に住むべきではない。
手段としての犯罪行為を正当化するのは、凶悪犯罪を行う上での常套手段なのだ。
吊目、18、8、3
めいもく、が、吊目、と表示されてしまう。
善行、18,8,4
オウム真理教はさも良いことをするように犯罪を繰り返した。
傷害、殺人は人類救済のためのやむを得ない行為であり、悪行ではなく善行なのだ。
傷害、殺人を犯すことにより、やった人間もやられた人間も幸福になる善行なのだ。
優秀、有能な人間が、目的というトリックにより、
小学生でも分かる、人としてやってはならない犯罪を繰り返した。
目的と手段は別と考える人がいるが、手段と目的は同じものだ。
手段の積み重ねが結果を作る。
目的という目くらましが、子供でも分かる悪行を最高の善行へと変えてしまう。
今やっていることが悪いことならば、絶対にやるべきではない。
素直な子供に分かることが、有能な大人には分からなくなってしまう。
有能なこと頭がいいことが、ときには大きな犯罪を引き起こす。
そして、結果が出るまで、有能な大人たちは、それが善行であると信じ続けるのである。
目的であろうと手段であろうと、犯罪を犯すことなかれ。
素直な子供に戻って、目の前の惨状を見るべきだ。
遠くを見ることは、目の前の惨状を無視する非人間的人格を作ってしまう。
宗教について、18,8,11
宗教について話すのは、文章ではなく、口で誰かに説明した方が意味が伝わりやすい。
しかしながら、今、文章で説明してみたいと思う。
宗教は一般的には人間の想像が作り上げたものとされているが、私は事実以外を宗教と認めない。
多くの人々は宗教をまじめに考えることをしないが、
その原因は宗教が事実ではなく、人間の想像だと思っているからである。
また、宗教は非論理的なものであり、考えてもしょうがないと思っているからでもある。
非論理的なものは宗教ではない。
宗教が事実であり、論理的なものであるというのは、物理学や生物学、経済学などと変わらない。
例えば、物理を学べば、世界中、どんなところでも、言語さえ通じれば、物理を教えることができる。
私はそのような宗教学を作りたい。
何々教ではこういう教えであり、また、違う宗教ではこうだというようなものを宗教学とは言わない。
宗教では論理と体験的事実を重視する。
論理的説明はその真偽を検討する必要がある。
また、体験的事実もそれを検討する必要がある。
例えば、誰も行ったことがないところに一人の人間が行き湖があったと言うならば、それは検討にあたいする。
検討にあたいしないものは非論理的なものである。
つじつまの合わない話は事実ではない。
論理的説明のできない体験的なことと、非論理的なことは違うのである。
神とか霊の存在は体験的なものであることが多い、論理的説明ができない。
このようなものについては一人一人が判断するしかない。
宗教では体験的事実が多い。
このことで信用しない人が多いが、これはやむを得ないことだと思う。
宗教とは何かを語りたいと思う。
まず、全知全能の神がいるとすれば、この世界は完璧に作られていることになる。
神が創るものは理論的に言えば完璧なものでしかありえない。
すべてを知り尽くす神は完璧なものしか創れない。
しかしながら、この世界が完璧であると思う人間がいるだろうか?
まったく改善点もなく、完全無欠の世界であると。
ほとんどの人がこの世界は上完全だと思っている。
論理的に言うならば、どんな些細な欠点だろうと、それは神の存在を否定するのに十分な証拠なのである。
だから、多くの人が神を信じない、宗教を信じない。
その判断は実に論理的で正常な判断である。
神がいるならこの世は完璧であり、この世が完璧でないならば、神はいないのだ。
一番、おかしな話は、この世界に問題があり、それを神に解決してもらおうとすることだ。
この世界に問題があるということは、それこそが神の否定なのである。
仏の存在もまた、この世界の完璧の上にしか成り立たない。
仏は永遠の平安の心を持つと言われる。
この世界に欠陥があるならば、それを直そうとする。
何かを直そう助けようとするならば、平安の心は崩れる。
誰か一人でも助けが必要ならば、人の平安は崩れるのだ。
宗教は神の教えであり、つまり、神は存在し、この世は完璧であるという考えだ。
この世だけを考えるなら、この世界は完璧ではないが、
前世を考えるなら、この世界は完璧とも考えられるという考えだ。
もともと、完全円満の世界に人はいたが、罪を犯した人間が、この世に生まれるという考えだ。
罪を犯した人間が、この世に生まれ、苦しみや悲しみ、喜びや幸福、上幸などを経験し魂の汚れを落とすという考えだ。
つまり、この世界全体が修行の場であり、一人一人に最適な修行の場が与えられているという考えだ。
だから、上幸や上都合は上必要なものではなく、神の恵みだと考える。
この世界のすべてが神の恵みだ。
この世界は完璧にできている。
この世界が完璧だと思った人間は無欲になる。
すべてを神の恵みとして受け入れる。
神を受け入れた者は神に受け入れられる。
その人間は仏となり、神となる。
釈迦、イエスと並ぶ聖者となるのだ。
この世界の苦しみは自我意識があるからだと言われている。
自我意識は問題をたべて生きているという。
何かを変えようとしたり、何かを維持しようとしたりすることにより存在する。
この世界の過去、現在、未来に何の問題もないと分かれば、意志は消え、意識が残る。自我意識が消えるのだ。
神の存在を信じることは、宗教のはじめの一歩にして、最後の一歩である。
神の存在を信じ、この世の完璧を信じるならば、悟りを得る。神に到達するのだ。
神を信じることがはじめの一歩にして最後の一歩、ではあるが、それを実現するのは至難の業である。
それを可能にするための方法が大きく分けて二つある、それは自力本願と他力本願である。
自力本願は自分の力で悟りに到達する方法である。
神仏に頼らない、自力で進む、仏はあくまで目標であり、頼らない。
信仰を否定してしまう。物質の存在すら否定する。すべてを否定することで無欲に到達する。
無欲、無我が宗教の到達点である。
自力本願は今ある宗教の一割にも満たない、宗教の九割以上は他力本願である。
自力本願の道は非常に難しく苦しい道であり、
その方法で悟りに到達することができるような人間は一万分の一もいないと言われている。
宗教と言えば他力本願であるというのが一般的だ。
神仏を信仰しないで自力で悟りを目指すのは、普通は宗教と言わないくらいだ。
禅の道がそれであるが、一般的ではない。
他力本願は無欲ではなく、大欲を目指す。
大欲と言っても欲深くなることではなく、自分の幸せを願うことが小欲でみんなの幸せを願うことが大欲ということだ。
二宮金次郎が言っているが、小人、小欲。聖人、大欲。
偉い人間は大欲だというのだ。
他力本願は他人をあてにすることではなく、神仏をあてにすることだ。
自分の力で悟るのではなく、神仏の救いによって悟る方法だ。
神がいるならこの世は完璧、神に救いを求めるのはおかしいといったので、非論理的にも聞こえるが、
まずは、自分の願いをかなえることを神に祈ることからはじめる方法が他力本願である。
シバ神や天照大神などの全知全能ではない多神教の霊的存在をあがめることは理にかなっている。
キリスト教のような一神教でも、ミカエル、ガブリエル、のような霊的存在がある。
もちろん、神と一体になったイエスもいる。
全知全能の神も法則と見れば幸せを祈れば幸せが返ってくるともいえるし、
この世界が修行の場として自然治癒として人を悟りに運んでくれるともいえる。
自力本願が論理的なのに対し、他力本願は人間の心のメカニズムにそった方法である。
神を人格神として信仰することが何よりの早道だということだ。
小欲から徐々に大欲に、薄い信仰から徐々に厚い信仰にするという方法である。
人間の心は欲望、つまり、夢や希望、理想を捨てるより、大きな夢や希望、理想を持つ方がたやすいし、楽しい。
小欲から大欲、また、信仰を厚くすることにより、人間は浄められる。空に近くなる。
みんなを救いたいという大欲が極まり、信仰が深くなると全託という境地になる。
すべてを神に託すということだ。
そうなると人は無欲になる。
つまり、他力本願は小欲から大欲、そして、無欲に至る方法である。
仏教の観音様、菩薩様は修行者である、なぜなら、大きな欲を持っている、人々を救いたいと願っているからだ。
仏には達してない。
一方、如来、明王などと呼ばれる存在は仏である。
道半ばの観音菩薩は仏と同等の信仰の対象になっている。
宗教は無欲を到達点とする。
自力本願は直線的方法で欲、夢や希望、理想を捨てさせようとする。
他力本願は奇策とも言える方法で、大きな夢や希望、理想を持つことを推奨する。
私が犯罪賛成派に暴力で言論弾圧されたのは、宗教は無欲の教えで、自力本願のことを話したことによると思われる。
つまり、宗教は無欲の教えということで、宗教の大多数が信じる他力本願の教えが破壊されてしまうと勘違いしたのだ。
自力本願、他力本願、共に正しい教えなのである。
上幸、上都合、上必要、18,8,12
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
ふつごう、が、上都合、と表示されてしまう。
ふひつよう、が、上必要、と表示されてしまう。
宗教の信頼性の失墜、18,8,13
今、宗教は人間のために都合よく作られた、人間の想像ということになっている。
事実だと受けとめる人は非常に少ないのだ。
また、宗教は非論理的なものだと考えられ、ただ、信じるものだと考えられている。
宗教を考えたり、議論することは無意味だと。
事実を求め、最終的にどんな残酷な事実であろうと受けとめるという真理探究者は宗教界では非常に少ない。
この宗教への誤解は、インテリと呼ばれる人間が宗教を理解しないことが大きな原因の一つだと思われる。
20世紀最大の頭脳と言われたニィーチェは宗教を理解しなかった。
彼はニヒリズムに陥っていったのである。
また、文豪、ドストエフスキーも宗教を理解しなかった。
これもまた、ニヒリズム色が強い人間だ。
日本で言えば、芥川龍之介とか太宰とかが、やはり有吊小説家で、ニヒリズム色が強い。
このように有吊哲学者、文学者、が宗教を理解しないニヒリストだったことが影響して、
現在のインテリたちもまたそのような思想の人間が多い。
頭が良い人間たちが社会に影響を与え、一般人も、また、宗教を信じない傾向にある。
インテリでも宗教を信じる人間はいるが、信じながらも、宗教は事実ではないと思っている人間が多い。
また、論理的に説明できる人間も少ない。
インテリたちが、宗教は確固たる事実だと思うようになれば社会全体の雰囲気も変わる。
頭の良い人間は宗教は人間の想像で事実ではないと思い、
結局、頭の良い人間はニヒリズムになるということが常識となっている。
これは宗教にとって大きなマイナスである。
一般の人にファンタジーのような宗教を語ることも重要ではあるが、
インテリに論理的に宗教を話すことも、今、重要になってきている。
有吊、18,8,13
ゆうめい、が、有吊、と表示されてしまう。
放送、18,10,9
この放送が終われば、犯罪賛成派の投薬による拷問で死の苦しみを味合わせられるだろう。
そうなれば、選択肢は二つしかない、犯罪賛成派の言いなりになるか、自殺するかだ。
投薬による拷問によって、人間には耐えられない壮絶な苦痛を与えることができるのだ。
むかしは叩いたり傷をつけたりしたが、投薬の苦痛はそれ以上だ。
しかも、証拠が残らない。
この放送が終われば、私も終わる。
信じるな。18,10,9
盗み、傷害、殺人、犯罪賛成派は犯罪を肯定している。
しかし、一般国民には犯罪を許さない。
自分に逆らう人間には犯罪行為が正当であるとの考えだ。
絶対にこの放送が終わった以後の私の発言を信じるな。
ただ、拷問に耐えかねて、言っているだけである。
自分の意見を信じ、私の意見を信じるな。
これが私の遺言である。
事実を明らかにし、みんなで話し合い、決める。
私の存在など、クソである。
必要なのは、事実を明らかにし、みんなで話し合うことだ。
私はたぶん、犯罪賛成派の操り人形に成り下がるだろう。
事実を明らかにし、みんなで話し合う、私を信用しない。
これが、未来への希望だ。
放送が終われば、私は犯罪賛成派の操り人形となるだけで、まったく、真実を話さなくなるだろう。
私を信じるな。18,10,9
この放送が終われば、私は犯罪賛成派の操り人形だ。
自分の考えとは正反対の暴言を繰り返すかもしれないし、
盗み、傷害、殺人などの犯罪を強要されるかもしれない。
この放送が終わった後、私の発言、行動を信じてはいけない。
この放送が終わった後は、私の言動を無視してほしい。
ただ、事実を明らかにし、一人一人が考え、みんなで話し合い、みんなの総意で決める。
このことだけに希望がある。
私が言ったから、それに従うということになれば、最悪中の最悪。
国家の崩壊である。
私を無視し、みんなで話し合い、法治国家、民主国家の原則にしたがって判断してほしい。
一人一票、みんなが対等の立場で話し合ってほしい、
決めるときも、一人一票、みんなが対等の立場で決めてほしい。
私に従って、みんなが行動するようになれば、国家は崩壊する。
犯罪なき社会、18,10,9
我々は暴力と犯罪のない社会を目指してきた。
暴力と犯罪のない社会を実現するには、
一番やってはいけない手段は当然、暴力と犯罪である。
暴力によって犯罪によって、暴力と犯罪なき社会は実現できない。
当然である。
これから、私が暴動をあおるような暴力革命をあおるような言動をするかもしれない。
私に影響されてはいけない、バカな奴だと笑い飛ばしてくれればいい。
私は間違ったことを言うし、私は間違った行動をする。
私を絶対に信じてはいけない。
自分の判断を信じよ。
誰が決めるのか、18,10,9
私を待つ必要などない。
私は指導者にも、リーダーにもならない。
私抜きで、みんなで話し合って決めればいい。
私一人が決めるなど、あってはならない。
私は一国民であり、私の持つ権限は発言権しかない。
私は私の意見を言うまでだ。
私を信じるな。
各自、一人一人、自分の判断を信じよ。
多種多様、18,10,9
人間には多種多様、様々な考えや個性、価値観があっていい。
ただ一点、犯罪に反対するならば我々は仲間になれる。
我々は仲間だが、多種多様、それぞれの個性を尊重する。
自民党や共産党のような同じ理念の集まりではない。
ただ一点、犯罪に反対することを除けば。
最後の言葉、18,10,11
犯罪賛成派は、私を操り、人々に暴動を起こさせ、日本を地獄にしようとしている。
そうなれば、たくさんの国民が死ぬ、赤ん坊から老人まで。
犯罪賛成派は、なぜそんな悪魔のような計画を実行しようとしているのか。
それは、暴力対暴力に持ち込まなければ、絶対に犯罪賛成派は勝てないからである。
暴力対暴力になれば、たくさんの国民が死に、戦いは長期化し、国家は滅び、結局、勝者はいないだろう。
すべての国民が敗者となる。
それなのに犯罪賛成派はそれを望んでいる。
追い詰められ、狂いはじめている。
国民が死のうが国家が滅ぼうが自分たちさえ助かればいい。
自分たちの保身しか何も考えられなくなっている悪魔である。
私が以後、何を言おうが、誰が何を言おうが、絶対に暴力と犯罪を振るってはならない。
暴力と犯罪は国民を殺し国家を滅ぼす、最悪中の最悪、悪魔の手法だ。
暴力と犯罪に反対し、絶対に暴力と犯罪を振るわず、
法治国家、民主国家を勝ち取ってほしい。
私を絶対に信じるな、私に従うな、誰にも従う必要などない。
自分を信じ、法治国家と民主国家を実現してほしい。
暴力と犯罪を振るわないことは、味方にとって敵にとって、すべての国民にとって、最大の利益だ。
この放送が終われば、私は操り人形となり、暴力と犯罪を先導するかもしれない。
そのとき、私に従うなら、それは国家国民を裏切る最大の罪悪である。
私が自殺に追い込まれても、絶対に暴力と犯罪を振るってはならない。
いかなるときもいかなる状態になっても、暴力と犯罪に反対してほしい。
弱き者、18,10,11
私は暴力や犯罪を振るわないと言いたいところだが、
正直、自信がない。
想像を絶するような拷問を受ければ、やらざるを得ないだろうし、
また、耐えられない苦痛を与えられれば自殺することもあるかもしれない。
と言うか、酷い拷問、投薬を受ければ、言いなりになるしかない、弱い人間であることは確かだ。
私のような、か弱き人間を模範としてはならない。
想定外、18,10,12
犯罪賛成派は無数の国民の命を犠牲にし、国家を滅ぼそうとしている。
こんな恐ろしい悪魔の計画を実行することに懸命になるとは、
想定外だった。
狂っている。
私は犯罪賛成派は形は違っても、国家国民を愛していると思っていたのだ。
歴史上最大の狂った悪魔だ。
殺人鬼、18,10,12
まさに、犯罪賛成派は、自分の都合だけで大量殺人を行う殺人鬼だ。
国益、18,10,13
犯罪賛成派は自分たちのために国民を大量虐殺する人間に成り下がってしまった。
もし、国民の命を思うなら、国家の利益を思うなら、犯罪反対派を扇動し、
暴力対暴力の戦いに持ち込むなどという考えは浮かばなかっただろう。
今、暴力と犯罪は百害あって一利なしだ。
ましてや内戦など、万死に値する。
内戦は、国民を大量虐殺することなのだ。
犯罪賛成派は国益や国民の命のためには手段を選ばない集団から、
自分たちだけを優先し、国民を殺し、国にあだなす無法者に成り下がってしまった。
国家を思うなら、国民の命を思うなら、暴力と犯罪に反対するべきだ。
ましてや内戦など、命をかけて止めるべきだ。
暴力と犯罪に反対することが国を愛し国民を愛することなのだ。
国益を考えず、国民の命を奪い、自分たちだけを優先する者は、誰であっても許されない。
シリア、18,10,13
暴力に対し暴力で対抗しないのは、おかまだとか、腰抜けだとか犯罪賛成派は言うが、そうではない。
犯罪賛成派に対し武力で対抗しないのは勇気がない腰抜けだと言うが、そうではない。
暴力、犯罪、戦争に反対するのは自分の命がおしいからではない、すべての命のためである。
犯罪賛成派と犯罪反対派が武力で激突し、
日本をシリアのような状態にしたいと思っているのは、おそらく、犯罪賛成派のみであろう。
暴力、犯罪、戦争に反対することは、人間にとって普通のことだ。
内戦になれば、どれだけの子供や弱い者が死ぬか。
内戦に全員で反対するべきだ、暴力と犯罪に全員で反対するべきだ。
犯罪反対派を扇動し内戦状態にしようとする犯罪賛成派はあまりにヒドイ。
話し合うこと、18,10,14
犯罪反対派は事実を明らかにし、オープンなみんなでの話し合いを求めてきた。
それを犯罪賛成派は拒否し続けてきた。
事実が明らかになれば、明らかに犯罪賛成派の負けになる、
ましてや平和な話し合いなど、正論が通る、つまり、犯罪賛成派の完敗だ。
だから、非難の中、絶対に犯罪賛成派は暴力と犯罪行為をやめなかった。
暴力と犯罪行為で国民を圧迫するのをやめたら、そこで犯罪賛成派は終わる。
暴力対暴力で犯罪賛成派が勝ったとしても、誰も得をしない。
無数の国民が死に、大きな搊害が国家に及ぶ。
時代が逆戻りしてしまう。
しかし、犯罪反対派が非暴力で犯罪行為を行わず勝利するなら、時代は大きく前進するだろう。
社会に犯罪、権力の横暴がなくなれば、改革は大きく進むのだ。
国民の国民による国民のための政治がはじまる。
古き体質、特定の人間の利益の確保は、言論弾圧、知る権利の犯罪による妨害なしでは成り立たない。
国民が事実を知り、国民が話し合い、国民が決定するならば、多くの問題が前進するのである。
国民の百人が百人、おかしい、間違っている、無駄だと思うことが当然のように行われているのが今の現実なのだ。
搊害、18,10,14
そんがい、が、搊害、と表示されてしまう。
偽ジャーナリスト、18,10,14
犯罪を肯定するジャーナリストはジャーナリストではない、偽ジャーナリストだ。
なぜなら、ジャーナリストは犯罪を探し、犯罪を報道する立場でもあるからだ。
権力者に追随し、犯罪行為を報道しない偽ジャーナリストには悲しくなる。
権力者に追随し、犯罪行為を報道しない、偽ジャーナリストは人間として、クズ中のクズだ。
偽ジャーナリストは国民によって排除されるべきだ。
今、権力者に追随して、真実を報道しない偽ジャーナリストが多過ぎる。
マスメディア以外にインターネットなどによって、知る真実がいかに多いことか。
仲間、18,10,14
暴力と犯罪、戦争に反対するなら、それは仲間だ。
暴力と犯罪、戦争に反対することで絆が生まれる。
差し迫った戦争とは内戦である。
内戦は他国との戦争以上に悲惨な戦争である。
同じ国民同志の殺し合いは地獄だ。
これを避けるために、どうしても平和に話し合うことが必要となってくる。
平和に話し合えないとき、暴力、犯罪、戦争が起こる。
言論の自由、知る権利は戦争を避けるため絶対に必要なのだ。
我々は日本をシリアのような悲惨な内戦状態にしないために立ち上がる必要があるのだ。
暴力、犯罪、戦争、我々国民は全員で心の底からこれらに反対しなければならないのだ。
暴力、犯罪、戦争、これらのものより正義からほど遠いものはあるだろうか。
平和はみんなの願いなのだ。
秩序の崩壊、18,10,15
今、日本には秩序がある。
当然ながら、日本の秩序を保っているのは法律である。
法律を国民が守らなくなれば、暴力、盗難、殺人、暴動が頻発して、国家が空中分解してしまう。
法律なく秩序なく、力のある者が勝つならば野獣の世界だ、
力のある者が勝つのではなく、正しい者が勝つ世界を我々は保たなければならないのだ。
日本の安全と秩序、国民の生命、財産を守るためには絶対に法律が必要なのである。
江戸時代は将軍様が国家を支配し秩序を保っていた、人による支配である。
しかし、今、特定の人物の支配で国家の安全が保てるだろうか?
法律を超える人間の支配に国民は紊得するだろうか?
そんなことはありえない。
法律によってのみ、国民の安全は保たれるのである。
犯罪賛成派は法律を意味のないものにしようとしている。
犯罪賛成派は自らが法律を守らないどころか、犯罪反対派を扇動して完全に法律を崩壊させようとしている。
犯罪賛成派は法律を意味のないものにし、日本の秩序を崩壊させ、日本を無法地帯にしようとしている。
そんなことは絶対にさせてはならない。
日本をシリアのような無法地帯にしていいのか?
絶対にダメだ。
今、犯罪反対派が法律を守ることによって、日本はかろうじて正気を保っている。
犯罪反対派までが暴力、犯罪を振るいだせば、日本は崩壊してしまう。
国民全員で法律を守り、日本の秩序を守り、国民の生命、財産を守ろうではないか。
国民の生命、財産を守り、日本の秩序を保ってくれるものは法律以外に何もないのだ。
国民自身が法律を守り、そして、全力で暴力、犯罪、戦争に反対しようではないか。
暴力、犯罪、戦争に反対すること、これは絶対に変えてはならない。
国民が暴力、犯罪、戦争に反対することで団結できれば、日本の未来は明るいものとなる。
もし、法律が意味のないものとなるならば、日本は地獄となる。
この世界のすべての命のために、暴力、犯罪、戦争に反対してもらいたい。
遺言、18,10,17
犯罪賛成派の拷問で犯罪や暴言、自殺を強要されれば、それに抗う力は私にはない。
私はこの放送が終わることに死の危険を感じる。
私がどう変わろうと、何を言おうと、誰が何をし何を言おうと、
絶対に、暴力、犯罪、戦争に反対することをやめないでくれ。
人類の未来、18,10,17
暴力、犯罪、戦争ですべてがねじまげられてしまう。
暴力、犯罪、戦争ですべてがおかしくなる。
逆に暴力、犯罪、戦争をなくすことができれば、人類は理想を手にするだろう。
人類の歴史は、暴力、犯罪、戦争との戦いであると言えるだろう。
暴力、犯罪、戦争に反対することが、愛と正義なのである。
軍事費、18,10,17
もし、世界の軍事費を弱い者のために使うことができれば、世界平和は完成するだろう。
軍事力を持つ者は軍事力を持つことは敵を攻めるのではなく、自己防衛のためであると言う、
平和のために軍事力を持つと言う。
しかし、軍事費を弱い者のために使えば、すべての人間の安全が保障されるだろう。
それどころか理想郷ができる。
頭では分かっているが、このことの実現は非常に難しい。
みんなで一斉に軍事力を放棄することができないからだ。
他の国が軍事力を持っているのに、自分の国だけ軍事力を持たないことは事実上上可能だからだ。
軍事力のために巨額の税金を使うことに国民の理解は得られても、
貧しい人を助けるために巨額の税金を使うことは国民の理解が得られない。
軍事費の一割でも貧しい人々に使うなら、世界は平和になる。
理屈は分かるが、実現は難しい。
平和のために軍事費を使うよりも、
貧しい人々のためにお金を使う方がより平和になるし、安全も保障されるし、豊かになる。
人類の永遠の課題だろうか。
上可能、18,10,17
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
自殺、18,10,18
犯罪賛成派たちは私を殺さない。
私を殺した責任を取りたくないからだ。
犯罪賛成派にとって、私を殺すことはたやすいことだ。
毒殺すればいいのだ。
しかし、それをしない。
犯罪賛成派が私を殺す方法は自殺強要だろう。
犯罪賛成派は投薬で人間には耐えられない苦痛を与えることができる。
自殺強要など、たやすいのだ。
そして、自殺の責任を私に押し付ける、私が自分の意志で死んだことにするのだ。
私が弱い人間だから自殺したとか、黒い秘密を隠すために死んだとか、
とにかく私にマイナスイメージをつけるだろう。
その時には、私はもう弁解することはできないからだ。
死人に口なし。
私は絶対に自分で自殺したりしない。
何でもあり、18,10,19
犯罪賛成派は、国民を大虐殺しても、国家に大搊害を与えても、
とにかく自分たちを守る、そんな状態に突入してしまった。
国民の安全、生命、財産を守るために、絶対に暴力対暴力の戦いはしてはならない。
暴力、犯罪を手段としない、平和の内に話し合いで解決する方法以外、
国民の安全を守る方法はない。
暴力対暴力になれば、必ず国民にも被害はでるのだ。
暴動、反乱など、もってのほかである。
内戦などになれば、どれだけの国民の生命、財産が失われるか、血が流れるか。
しかも、それは出口の見えない泥沼の内戦であろう。
国家は地獄、国民は絶望だ。
暴力、犯罪、戦争に反対することを国民全体の考えとしなければならない。
犯罪賛成派はオープンな話し合いをしようとしないが、
国民の前で話し合い、国民の紊得できる結論を出さなければならない。
最終決定者は国民であるべきだ。
国民の基本的権利である言論の自由と知る権利がなければ問題は解決しない。
搊害、紊得、18,10,19
そんがい、が、搊害、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
愚策、18,10,19
暴力、犯罪、戦争でものごとを解決しようとすることは、
この世で最も愚かな行いである。
シリア、18,10,24
暴力で問題を解決しようとした結果、シリアはこの世の地獄となった。
おびただしい人間が死に、人々は難民となりヨーロッパまで逃げることとなった。
国家国民を愛するなら、人類を愛するなら、絶対に暴力、犯罪、戦争という手段を使うな。
話し合いという方法以外に人は幸せになれない。
国民が対等な立場でみんなが話し合うことができることが、国家の基礎となる。
事実を国民全体が知り、国民全員が自由に発言する。
そして、国民が決定権を持つ。
暴力、犯罪、戦争を手段とし、事実を隠蔽する者、言論を弾圧する者は、国家国民を害する者なのである。
我々は平等な発言権、決定権を持つべきだ。
それが民主主義だからだ。
だが、犯罪賛成派は民主主義を共産主義と罵る。
平等とは共産主義だというのだ。
共産主義とは、発言権や決定権の平等ではなく、経済的平等を言うのである。
国家国民を害する者は、すぐに民主主義者を共産主義だとかアカだとかいう。
それが犯罪賛成派なのだ。
長く苦しい戦い、18,11,2
非暴力の戦いは長く苦しい、
だからと言って、我々は暴力に逃げてはならないのである。
我々は犯罪に逃げてはならないのである。
すべては国家国民のために、人類のために、弱い命のために。
すべての命、未来のために。
非暴力での勝利は尊いものとなるだろう。
それがこの国の人類の暴力によらない、話し合いでの解決の礎となる。
暴力、犯罪、戦争によらない話し合いでの解決は、
すべての命のための、尊い尊い理想なのだ。
全人類の理想であり、目標なのだ。
非暴力が勝つならば、人類の未来は明るいものとなる。
暴力、犯罪、戦争が勝つならば、人類の未来は暗く、絶望的だ。
絶望的、18,11,6
この世界の秩序を保つものは法律以外にはない。
もし、暴力や犯罪で権力者が社会の秩序を保とうとすれば、
全社会に暴力と犯罪が蔓延してしまうだろう。
こんなことは子供でも分かることだ。
こんな誰でも分かることであるのに、多くの犯罪賛成派がいることは絶望的状況だ。
犯罪賛成派は自分たちのやっていることが国家国民を滅ぼす大悪行だと最初は気づかなかったようだが、
今となっては火を見るよりも明らかである。
犯罪賛成派は国家国民を滅ぼし人類自体を滅ぼそうとしている。
犯罪賛成派は人類を滅ぼす大悪行だと知っても、犯罪行為をやめられない。
なぜなら、法的責任を取りたくないからだ。
泥棒は自分が泥棒だと認めない、殺人犯は自分が人殺しだと認めない、犯罪者は自分が犯罪者だと認めないのだ。
犯罪者には社会正義など関係ない、国家国民の安全など関係ない、人類がどうなろうと関係ない。
大切なのは、ただただ自分であり、自分の家族であり、自分の仲間なのだ。
よく、自分の利益だけを考え他人のことを考えない人間ばかりになれば、この世は終わりだというがその通りだ。
法律を破ることは悪いことであり、破れば法的責任を取らねばならない、そんなことは百人が百人認める当たり前のことだ。
当たり前のことが通らなくなれば、この世界は地獄となる。
私は50対50のことを主張しているのではない、
70対30のことを主張しているのでもない。
100対0の、ド正論を言っているだけだ。
100対0のド正論が通らない社会は絶望的だ。
人間の社会ではない、ケダモノの世界だ。
最低限度、18,11,11
人は法律を守らなければならない。
人間がこの社会、この国で生活しようとするなら、法律を守るべきだ。
人が法律を無視し、自分の判断で勝手に行動するなら社会秩序は崩壊し、人間の住める場所ではなくなる。
法律とは、社会人として、人間としての最低限度のルールなのである。
法律を守らない人間に正義やマナー、人への思いやりを語る資格はないのである。
社会人として認められたいなら、人間として認められたいのなら、人間としての最低限度のルール、
法律を守るべきだ。
確かに、人への思いやり、ルールやマナーは大切なことだが、
しかし、それは人間としての最低限度のルールを守った上での話である。
法律が崩壊し、社会秩序が崩壊すれば、ルールやマナーを語っている場合ではない。
法律が崩壊し、社会が崩壊すれば、国民は生命までおびやかされる危機的状態になるのである。
人間としての最低限度のルール、法律を守ることが最初の一歩であり、
それなしでは社会生活は営めない。
人間の生活は、法律という最低限度のルールの上に成り立っているのだ。
それなしでは、発展も自由もない、無法地帯となってしまう。
法律を守ることは、人間社会を守ること、人間の生命を守ることなのだ。
独自ルール、18,11,11
一般社会にはルールがある、その基本ルール、最優先されるルールが法律である。
ヤクザにはヤクザのルールがある。
一般社会では認められない、違法なことが認められるヤクザの社会でもヤクザのルールがある。
一般社会では一般社会のルール、ヤクザの世界ではヤクザのルールがある。
しかし、それを一般社会が認めるわけにはいかない。
例えば、ヤクザ同志の麻薬の売買でも警察は取り締まる。
この国にはこの国のルールがある。
この国に住む人間は誰でも、この国のルールを守らなければならないというのが一般社会の考えだ。
犯罪賛成派には犯罪賛成派たちのルールがある。
犯罪賛成派は平気で法律を無視するが、犯罪賛成派には犯罪賛成派のルールがある。
ここまでは、まだ、理解できる。
この国の中ではこの国のルール、法律を守らねばならないというのが一般社会の考えではあるが、
犯罪賛成派の独自ルールというものを認めるわけではないが、まったく分からないというわけではない。
私がまったく理解できないのは、犯罪賛成派が完全に狂っていると思うのが、
法律を無視した犯罪賛成派のルールを犯罪賛成派は一般人にも強要していることだ。
そんなことをすれば、法律は崩壊し、社会も崩壊してしまう。
社会秩序の崩壊である。
一般社会に法律を無視した犯罪賛成派のルールを広げようとしているのだ。
犯罪賛成派には犯罪賛成派の独自ルール、その他の人間も法律を無視した独自ルールが乱立すれば、社会は大混乱だ。
この国のルールは法律である。
一般社会に法律より、犯罪賛成派のルールを優先しようとすれば、この国は無法地帯になってしまう。
こんな狂った人間たちが横行するようになれば、国家が地獄になってしまう。
みんなが平和に安全に暮らすには、国家の共通ルール、法律を守る以外にないのだ。
法律を守ることの重要性、18,11,12
人間の社会は法律を守ることで平和を保ち、国民の安全を保っている。
また、健全な文化芸術の発展、科学の発展、経済、社会の発展にも法律を守ることは非常に重要である。
我々は他人の意見を尊重し、みんなで話し合い、最終的には多数決で決めることにより、発展するのである。
それをすべてぶち壊してしまうのが暴力と犯罪である。
暴力と犯罪がすべてをだめにしてしまう。
犯罪賛成派は法律の支配する社会を認めない。
犯罪賛成派の意見が支配する、法律の支配ではなく、人間の支配を求めている。
みんなが法律を守れば、犯罪賛成派は生きていけない。
犯罪賛成派は法律により、その存在さえ否定されてしまうのだ。
だから、犯罪賛成派は常に暴力と犯罪を振るい続ける。
自分たちを守るためだ。
そして、犯罪賛成派に利益をもらう人間も犯罪賛成派に従う、
犯罪賛成派におどされている人間も犯罪賛成派に従う。
法律をまったく無視するいかれた人間は恐怖だからだ。
犯罪賛成派は言う、犯罪賛成派に従っていれば平和で安全な社会ができると。
なぜ、国民は法律を守ろうとするのか、と。
犯罪行為に反対し法律を守ろうとする行為は危険極まりないと。
暴力、犯罪は恐ろしい。
人間と社会、人類のすべてをだめにしてしまう。
私の要求、18,11,15
私の要求はいたってシンプルだ。
みんなが法律を守ること。
なぜなら、法律を守らなければ、だれも安心して生活できないではないか。
いたって、常識的なことだ。
みんなが法律を守ること以外に要求はない。
これ以上のことは、みんなで話し合って決めるべきだ。
犯罪賛成派は言う、法律を守ることは、虐殺に等しい残酷な行為であると。
法律を守ることが虐殺?
まったく理解に苦しむ。
犯罪賛成派が望む、内戦、暴動、内乱こそが女、子供を巻き込む大虐殺だ。
犯罪賛成派は犯罪反対派に暴力を振るわせて、犯罪反対派を殺したり拘束する正当な言い訳にしようとしている。
私の要求は一つ、法律を守り、国民に安全で安心できる生活を保障することだけである。
平和と安全は全国民、全人類の願いである。
法の支配、18,11,16
今、国は法治国家となり、法の支配によって人々の生活と安全は守られている。
しかし、犯罪賛成派が主張するのは人が人を支配する世界である。
一人の独裁者、または一部の独裁集団が国家を支配する世界である。
独裁者はどんな犯罪を犯しても法律で裁かれることはない。
また、独裁者の勝手な判断で国民を処刑したり投獄したりできる。
独裁者は法律を守る必要がない世界である。
犯罪反対派が主張するのは、法の支配である。
国家が法に支配され、誰もが法律を守る世界。
法の下の平等があり、誰であっても法律を犯せば法で裁かれる。
国家の問題は独裁者が決めるのではなく、国民が話し合い決める。
むかし、王や殿様がいた時代は人が人を支配するのが当たり前だった。
一部の独裁者が国民を支配する。
独裁者に逆らえば、投獄されたり、処刑されたりする。
今は法治国家が当たり前で、法の下の平等があり、発言は自由であり、
国家の問題は国民が話し合って決める。
誰もが法律を守る責任があり、誰もが法律を犯せば法の裁きを受ける。
犯罪賛成派が主張する、人が人を支配する世界を今作れば国家は大混乱となり、
法律も国民の安全も全部消し飛んでしまう。
国家が大混乱となるどころか、世界中が大混乱になってしまう。
人が人を支配する国から法治国家になったことは人類の英知であり、人類の進歩だ。
国民の一人一人の人権の保障であり、民衆が勝ち取ったものだ。
人類の英知であり、人類の進歩の結果であり、人々の努力の結晶である法治国家を崩壊させ、
人が人を支配する世界に人類を引き戻せば、
世界が壊滅的状況となる。
正義や宗教、18,11,16
私には仲間が一人もいない。カネもない。軍事力もない。地位も権力もない。
犯罪賛成派には、多くの人間、カネ、軍事力、地位、権力、多くのものがある。
私には仲間がいないと書いたが、それは仲間と話したこともなく、会ったこともなく、見たことも聞いたこともないと言う意味だ。
おそらく、私には、まだ見たこともない仲間がたくさんいると思う。
その仲間が行動しお金を払い、私を応援しているのだと思う。
でなければ、私は今、生きていないだろう。
私が今、犯罪賛成派と対立していられるのも、その仲間がいるからだと思う。
それが、正義や宗教の力なのではないか。
正義や宗教が何の意味もないものだと言う人がいるが、私はそう思わない。
正義や宗教には人や社会を動かす力がある。
圧倒的な人数、資金、軍事力、地位や権力に対等に渡り合って行く力が。
たった一人の正論が、人の心を変え社会を変えて行くと信じたい。
それは、これから一年後か、十年後か、百年後か、私が死んでからかもしれない。
ただの言葉が、圧倒的多数の人間、資金、軍事力、地位や権力、すべてを凌駕し、勝利することを信じたい。
国家の乗っ取り、18,11,18
犯罪賛成派は、犯罪反対派が国家を乗っ取るつもりだと言っている。
犯罪に反対するだけで国家を乗っ取るなどありえない話だ。
犯罪に反対するだけで政治家にはなれない。
犯罪に反対する人間にも十人十色、様々な考えの人間がいる。
犯罪反対を主張するだけで政治家になれるわけがない。
ただ、犯罪反対派が言うのは法律を守ることは政治家の必要最低条件であるということだ。
法律を守らない人間は政治家、官僚、公務員などになる資格がないということだ。
法律を守るなら、政治家、官僚、公務員になる資格はある。
例え、犯罪反対運動に参加しなくても。
法律を守る人間の中から、国民が選挙により政治家を選ぶのが現行の法律である。
だいたい、法律を作る政治家が自分自身、法律を守らないなどということは冗談にもならない。
まったくバカバカしい話である。
法律を守ることは社会人として人間として最低限のことだ。
法律を守らない人間が社会生活をおくることはできない。
日産ゴーン会長解任、18,11,24
ゴーン会長が内部告発で逮捕、会長職を解任されるということが起きた。
上正が明らかになったからだ。
内部告発とは、一種の情報公開である。
権力者の暴走は情報公開により、スットプできることが多い。
また、権力の座にある者が自分に上都合な者をクビにしてしまい、会社などを私物化するということもある。
社員をクビにするときは、やめさせる理由をみんなに明確にし、
クビにする人間の言い分とクビにされる人間の言い分をオープンにする必要がある。
両方の意見を聞き、みんな一人一人が判断することが絶対に必要だ。
情報公開、言論の自由は悪を倒すため、また、悪人を作らせないため、絶対に必要なものである。
悪人が非常に嫌がることに情報公開、言論の自由というものがある。
正義と悪との闘いは、通常、テレビドラマのように合法対違法という形を取る場合が多いが、
情報公開対情報の隠蔽、言論の自由対言論弾圧という形を取る場合も非常に多いのである。
正義の特徴は、合法、情報公開、言論の自由などであり、
悪の特徴は、非合法、情報の隠蔽、言論弾圧などである。
正義の特徴は、みんなで話し合い、みんなで決めるということであり、
悪の特徴は、事実を公表せず、一部の人間が話し合い、一部の人間が決めることである。
悪は一部の人間が優遇され、利益を得て、権力を独占することである。
悪を倒すためには、
正義の味方は、合法、情報公開、言論の自由を推し進める必要がある。
正義の味方は、みんなが事実を知り、みんなで話し合い、みんなで決める社会を推し進める必要がある。
上正、上都合、18,11,24
ふせい、が、上正、と表示されてしまう。
ふつごう、が、上都合と表示されてしまう。
国家の悪、18,11,26
悪の特徴が、違法、情報の隠蔽、言論弾圧だと書いた。
その特徴があてはまる国家がかつてあった。
ソビエト連邦である。
共産党の一党独裁で、法律を無視して国民を逮捕、処罰、処刑することが許される国であった。
共産党は特権階級で、一般国民とはかけ離れた贅沢な暮らしをしていた。
国家の権力と利益を独占していたのである。
自分たちに上都合な情報の隠蔽はもちろん、国民に厳しい言論弾圧をしていた。
共産党の批判をしただけで逮捕、処罰、処刑される恐ろしい国家であった。
その結果、国家は疲弊し、国民は貧困にあえいだ。
そのとき、共産党がしたことは、国家を良くすることでも、国民の暮らしを良くすることでもなかった。
自分たちの保身である。
共産党員は自分たちの生活を優先した。
自分たちを憎む国民を弾圧し、敵対国に対抗するため、国民に食料も与えず軍事費を増額した。
国家も国民の生活も悪化の一途をたどった。
結果、ソビエト連邦は最後には崩壊した。
しかし、今でも、違法、情報の隠蔽、言論弾圧の続く国はある。
例えば北朝鮮。
北朝鮮の国力は乏しく、国民は貧困にあえいでいる。
国民に大量の餓死者が出ようと軍事費は莫大である。
違法、情報の隠蔽、言論弾圧は国家国民を苦しめる最悪の病である。
我々が国家を思うなら、国民の幸せを思うなら、戦わねばならない。
違法と、情報の隠蔽と、言論弾圧に対して。
それを見たならば、我々は戦わねばならないのだ。
しかし、それは、暴力で戦うという意味ではない。
合法的に情報公開し、言論の自由で戦うという意味だ。
違法と情報の隠蔽と言論弾圧がそろえば、国家国民は必ず上幸のどん底にあえぐだろう。
ソ連や北朝鮮の二の舞になっては絶対にならない。
改善可能な国家、18,11,26
法治国家であり民主国家であり、情報公開、言論の自由があれば、
国民は自由に国家を変えることができる。
国民が自ら、国家の未来を開くことができるのだ。
例え、国家が独裁的になろうと、共産主義になろうと、
法治国家であり民主国家であり、情報公開、言論の自由があれば、
国民はすぐさま、それを改善できる。
しかしながら、法治国家、民主国家が否定され、情報公開、言論の自由がなければ、
国家が疲弊し、国民が貧困のどん底であえぎ、一部の特権階級だけが贅沢な暮らしをしていても、
もはや、国民は何もできなくなるのだ。
改善可能な国家2、18,11,27
誰かの言ったことが絶対の国家を作ってはならない。
どんな偉い人が言ったことでも、間違いは間違いと言える国家、
どんなに立場が弱い人でも、良い意見であれば採用される国家が必要なのだ。
考えて実際やってみても、うまくいかないことがある。
それなら、やり方を変えれば良い。
前言撤回、改善ができる自由な国家が良い。
誰かの意見で運営される国家より、みんなで運営される国家が良い。
共産主義国は自分たちの間違いを気づいていた、しかし、誰もそれを認めることのできない社会を作り上げてしまっていた。
それが共産主義国の悲劇なのである。
間違えは間違えと誰もが気軽に言える、気軽に話し合える社会が必要なのである。
もちろん、国家の基本理念をコロコロ変えるわけにはいかないが、
必要ならば変えることのできる社会にしなければならない。
何百年、何千年続いてきたことであっても、時代に合わせて変えなければならないこともある。
それは、情報公開、言論の自由の場で話し合い、決めるしかない。
みんなで改善、改良ができる社会であってほしい。
むかしならば、社会を変えようとすれば、革命や明治維新のような内戦で変えるしかなかったが、
しかし、法治国家、民主国家、情報公開、言論の自由があるならば、そんな必要はまったくない。
なぜなら、みんなで話し合って変えれば良いからだ。
みんなが事実を知り、考え、自由に発言し話し合い、みんなで決められるなら、暴力の必要はまったくない。
非暴力で国家はどんどん改善されていくからだ。
私は自分の思想や主義主張を話しているのではない、
みんなが自由に意見を出し合い、知恵を出し合い、協力しあって、常に改善されていく社会が必要だと言っているのだ。
野獣の世界、18,11,30
100%正しい者と100%間違っている者が戦ったら、やはり、力の強い方が勝つだろうか?
力の強い方が勝つならば、今後は、善悪は関係なく、ただただ力の強い者が勝つ、
人間の住めない、野獣の世界が広がるだろう。
正義と悪、18,12,5
これは、民主主義と独裁の戦いである。
そして、自由と強制との戦いでもある。
非暴力と暴力の戦いであり、
法律と犯罪との戦いでもある。
話し合いの社会と専制社会、朊従社会。
話し合いの政治と恐怖政治。
これは、正義と悪の戦いだ。
正義とはあいまいで人それぞれの正義があるというが、
あえて、正義という言葉を使わせてもらう。
この戦いが正義と悪の戦いでないなら、何が正義と悪なのだろう。
カネは使えばなくなるが、正義はなくならない、無尽蔵に仲間を増やす、世代を越え、何百年でも何千年でも。
正義に反対する者は力尽きる、疲れ果てる。
正義は次々と仲間を増やし、半永久的に尽きることはない。
思想は人々を説得するまで時間がかかる、キリスト教は何百年という弾圧の後、市民権を得ることができた。
それは正義もどうようである。
一時的に暴力で悪が勝つことはあるが、時間に耐えることはできない。
正義は人々を説得し続ける、インターネットなどの情報伝達機器の普及により、その説得時間は大幅に短縮されていると思う。
犯罪賛成派たちは、この戦いを正義対悪の戦いではなく、正義対正義、同等の意見の異なりだという。
それなら、犯罪賛成派たちは、事実を明らかにし、国民に自分たちの意見を堂々と主張すればいい。
表向き、犯罪反対、犯罪撲滅をかかげて裏では犯罪行為を継続しているそれが犯罪賛成派なのである。
典型的、二枚舌だ。
二枚舌をやめれば、即、犯罪賛成派は崩壊する、だから、これからも二枚舌を継続し、犯罪行為を半永久的に継続しようとしている。
事実が明らかになろうとしている今、犯罪賛成派は弁明に困っている。
事実が明らかになるなら、弁明の余地はないのだ。
時間がたてば時間がたつほど、犯罪賛成派は弱っていく。
事実が明らかになれば、明らかになるほど、犯罪賛成派は弱っていく。
話し合えば、話し合うほど、犯罪賛成派は弱っていく。
事実が公に明らかになり、みんなで話し合うなら、それが犯罪賛成派にとっての死刑宣告だ。
理想の実現、18,12,13
私は自分の理想を実現しようとしているのではない。
私は自分の理想を言う自由を求めているのだ。
私はただ、自分の意見を言うだけで、自分の主義主張の実現をしようとしているわけではないのである。
今までもそうだし、これからもそう。
私は言うだけ、一切、実力行使はない。
誰もが自分の理想や考えを自由に言える社会を作りたい。
みんなが話し合う社会である。
各自、それぞれの考え、意見、理想があるのだから、それを誰もが実現できるわけではない。
それは、話し合いで決めるしかないのだ。
私は言うだけで何もしなかったし、これからもそうだ。
犯罪賛成派は理想の実現に反対しているのではなく、理想を語ることさえ許さない言論弾圧集団である。
理想を実現することに反対するのではなく、理想を言うことに反対する、言論弾圧する。
これは法治国家、民主国家に対する完全なる宣戦布告であり、許されざる暴挙だ。
法律で言論の自由は保障され、言論の自由なくば、民主主義は成立しない。
犯罪賛成派がなぜ、理想を実現する者を倒すだけでなく、理想を言う者さえ倒そうとしているのか。
それは、情報公開が進み、言論の自由が保障され、みんなが話し合うことができるようになれば、
100人が100人、悪だと思うことは許されなくなる。
情報公開、言論の自由、みんなで話し合うことは、誰もが悪だと思うことの崩壊につながるのである。
つまり、犯罪賛成派の崩壊である。
国民の100人が100人、悪だと思うことがなくなれば、間違いなく新しい時代がやってくるのだ。
弾圧、18,12,13
私は正論を実現しようとすることで弾圧されたのではない。
私は正論を言ったことにより弾圧されたのだ。
私は口だけの人間であり、自分の意見は言うが、それを具体的に実現しようとしない。
それだけで、すべては起こったのである。
犯罪賛成派は国民が実力行使をすることを恐れているのではない。
国民が事実を知り、考え、話し合うことを恐れているのである。
国民に言論の自由が許されれば、誰もが悪と思うことは崩壊する。
つまり、それが犯罪賛成派の崩壊を意味するのである。
敗北、18,12,13
言論の自由が認められれば、犯罪賛成派は敗北する。
言論の自由が認められない社会なら、それは、法治国家、民主国家の敗北を意味するのだ。
勝敗、18、12,13
犯罪反対派はこれまで増えてきたし、これからも増えるだろう。
犯罪反対派の負けはない、なぜなら、誰もが犯罪反対は正しいと思っているからだ。
犯罪反対派はいなくならないのだ。
法律がある限り。
つまり、考えられるのは、犯罪反対派の勝利、または、犯罪反対派と犯罪賛成派の終わりなき戦いだけだ。
もっと言うなら、永遠に戦いが続くわけはないのだから、犯罪反対派の勝利は確定している。
勝敗が確定している戦いは苦しい、勝つ方も負ける方も。
意味がないからだ。
苦しい戦いの果てに、勝利があり、敗北がある。
犯罪反対派は増え続けるだろうし、戦いもこれまでどうり続いて行くだろう。
何らかの限界に達したとき、戦いは終わる。
永遠の泉、法律、18,12,14
もし、犯罪反対派に勝ちたいのなら、法律を破棄するしかない。
法律がある限り、犯罪反対派は増え続け、生まれ続ける。
戦っても戦っても犯罪反対派は生まれ続け、増え続け、犯罪賛成派を非難するだろう。
法律を破棄すれば、国は滅び、人類も滅ぶ。
法律が破棄できないものであれば、
犯罪反対派を黙らせるためには、言論の自由を否定し言論弾圧を正当化する法律を制定するしかない。
しかし、言論の自由を否定する法律を制定すれば、国家の未来は閉ざされ、暗黒の時代が来る。
いったん、事実が露見した以上は、表向きは法治国家、事実は犯罪国家という嘘は通用しない。
情報機器が普及した現在、本音と建て前の文化は崩壊していく、さらに、情報機器が発達していくならますますだ。
嘘が崩壊し、真実が明らかになり、正義が勝つ時代が来るのである。
裏で暗躍していたものが白日の下にさらされる時代が来ているのだ。
悪は明らかになれば崩壊する。
情報公開が進めば、悪は崩壊して行くのである。
隠されていればこそ機能していた社会は崩壊する。
太陽の下、正義が正義とされ、真実が真実とされ、嘘が嘘とされ、悪が悪とされるとき、
嘘と悪は崩壊し、正義と真実が残るのである。
殺人、自殺強要、暴動、18,12,16
犯罪賛成派は殺人、自殺強要、暴動などを利用して社会を自分たちの思うようにしようとしている。
殺人、自殺強要、暴動の扇動、などで社会を自分たちの思いどうりにしても、
決して社会は良くならない。
みんなで話し合うことのみが社会をより良く変える唯一の方法なのである。
暴力や犯罪、嘘、隠蔽や情報操作などで社会を変えるなら、社会はどんどん悪い状態になってしまう。
必ず悪は露見し、問題はどんどん大きくなる。
暴力や犯罪を繰り返した結果が今の犯罪賛成派であり、今の状態なのではないか。
法治国家、民主国家、18,12,16
我が国の基本は法治主義と民主主義である。
合法的であることと、国民の理解と紊得を得ることで我が国は成立している。
違法な手段といえども、必ずしも間違っているとは限らない、
現実に超法規的措置を手段として用いた場合も過去にはある。
基本的に合法であることと国民の理解を得ることで日本の社会は成り立っているが、
非常事態には、どちらか一方であることもあるのだ。
犯罪賛成派の行為は100%違法である。
犯罪賛成派の行為は100%国民の理解も紊得も得られない。
我が国の基本理念、法治国家の立場としても、民主国家としての立場としても、犯罪賛成派は100%受け入れられない。
犯罪賛成派は100%間違っているのである。
だから、犯罪賛成派は事実を明らかにして裁判で争うことをしないし、
事実を明らかにして、自分たちの考えを国民に訴えたりもしない。
だから、犯罪賛成派のやっていることは、暴力と犯罪による徹底的な事実の隠蔽と言論弾圧、情報操作である。
犯罪賛成派が自分たちの犯罪行為の責任を取らない限り、争いと社会の混乱は果てしなく続くのである。
犯罪賛成派が負ける以外に事態の収拾はない。
犯罪賛成派が生き残ろうとすることは、果てしない争いと混乱を続けようとしているだけなのだ。
紊得、18,12,16
なっとく、が、紊得と表示されてしまう。
良い国の作り方、18,12,19
犯罪賛成派のイメージは、暗殺、自殺強要、言論弾圧、情報隠蔽。
恐ろしいものばかり。
私の望みはただ一つ、身の安全だ。
暴力と犯罪のない社会の実現。
完全になくなりはしないと思うが、ゼロに近づけたい。
安全と安心があれば、和気あいあいと自由に気軽に話し合える。
様々な自由な意見がたくさん出る。
安心と自由こそが良い社会を作る最低条件だ。
暴力と犯罪を認め、国民に緊張感を与える犯罪賛成派は絶対にあってはならない。
安全であり、安心であり、自由に発言し行動できることが良い社会の基礎となる。
あちこちで殺人や自殺が伝えられる恐ろしい社会では何もできない。
言論弾圧、情報隠蔽、などがある社会では、社会全体が硬直して何も良い意見が出ない。
国民の安全と安心の保障、自由な発言と行動、全面的な知る権利が必要であり急務なのである。
私は殺人、自殺、傷害、盗み、に全面的に反対する。
自殺は本人の自由であると言う人がいるが、私は何も強制的に死なせない制度を作るつもりはない。
自殺をするということは死ぬよりつらい状況があるからではないだろうか。
死ぬよりつらい状況を変えることにより、自殺は減少するのではないか。
自殺を減らすなら、みんなが協力して死ぬよりつらい状況を打破するしかない。
死にたい奴は死ねと言う人間は、死ぬよりつらい状況に追い込まれた人間を理解しているのだろうか?
もし、人が人を死ぬよりつらい状況に追い込み、自殺させるなら、それは殺人を越えた虐殺と呼べるだろう。
私の生死、18,12,22
私が死のうが生きようが犯罪賛成派の敗北は覆らない。
私が死ぬことによって犯罪賛成派が少しでも有利になるのなら、犯罪賛成派は迷わず私を殺害しただろう。
ただ、犯罪賛成派が私を殺害したのではなく、私が自殺しなのなら犯罪賛成派に有利に働くことはあるかもしれない。
私を自殺させ、私が敗北を認めただとか、私が公表できない黒い秘密を隠蔽するために死んだとかでっち上げられたとしたら。
私を強制自殺させるためには、この放送が邪魔となる。
この放送がある限り、私に自殺を強要することは無理だろう。
なぜなら、自殺の強要が放送されてしまうからだ、それでは犯罪賛成派が殺害したのと同じになってしまうからだ。
だから、私はこの放送が続くことを望む。
限度を越えた拷問や自殺強要などは放送できないからだ。
犯罪賛成派は人間の耐えられる限度を越えた精神的苦痛、肉体的苦痛を投薬で与えることができる。
もし、この放送がなかったら、拷問に限度がなくなる。
私は犯罪賛成派の奴隷になるか、死ぬかのどちらかになってしまう。
犯罪賛成派の解決案は殺人や自殺の強要や暴動の扇動、物騒なものばかりである。
私の解決案はみんなの安全と安心を保障し、話し合うことである。
法治国家、民主国家の尊重だ。
法と正義による解決である、決して、暴力での対決ではない。
私の解決案はみんなが当たり前と思っている、安全、安心なのである。
安全と安心より貴重で尊いものはない。
そこから自由な発言、自由な行動が生まれ、国家が繁栄していく。
暴力と犯罪に反対することが、人間らしく生きていく第一歩なのだ。
人に恐怖を与える人間も集団も上必要なのだ。
人に恐怖心をいだかせ、人を支配する人間は人として最低である。
人間のやることではない。
そんな方法では、絶対に国民は幸せになれない。
人は上幸になり、国家はどんどん衰退していく。
上必要、上幸、18,12,22
ふひつよう、が、上必要と表示されてしまう。
ふこう、が、上幸と表示されてしまう。
詐欺師、18,12,27
犯罪賛成派が言うには、犯罪反対派は詐欺師なのだそうだ。
もちろん、犯罪賛成派の言うことには何の証拠もない、
ただ、国民に尽くし、自分の利益を考えない、そんな理想的人間は絶対にいるはずがないからだそうだ。
犯罪賛成派が言うには、犯罪反対派が勝てば、犯罪反対派は手のひらを返したように、意見を変えるそうだ。
もちろん、何の根拠もないことだが、
国家国民を思い、命をかける人間などいないから、当然、詐欺師以外にない、それが犯罪賛成派の意見だ。
犯罪賛成派の意見にも一理ある。
詐欺師に騙されないことは、国民には重要なことだ。
なぜなら、国民はこれまで騙され続けてきたからだ。
それは、事実を隠蔽し、言論を弾圧する人間にだ。
詐欺師に騙されないためには、
まず、国民一人一人が正確な事実を知り、一人一人が考え、国民同志で話し合う、
そして決定権を他人に委ねず、国民が決定権を持つことである。
まず、事実を知らなければ、考えることさえできない。
詐欺師に騙されないためには、まず、事実を知ることである。
そして、じっくり、一人一人が考え、
そして、自分の意見を大声でみんなに伝え、公に話し合い、検討する。
そして、最後には多数決で決定する。
まず、絶対に情報の隠蔽を許さないことである。
インターネットを駆使した情報公開法の制定、
知ることからすべては始まるのだ。
情報の隠蔽に徹底的に反対し、情報を国民に公開すること、
これがはじめの一歩だ。
そして、言論弾圧、言論統制に徹底的に反対すること、
一部の人間に言論をコントロールされれば、それが詐欺である。
自由に発言し、自由に話し合うこと、情報の隠蔽を許さず、情報をインターネットなどで拡散すること、
これによって、詐欺師は壊滅的打撃を受けるだろう。
事実が伝わるにつれ、詐欺師たちは困窮していく、
事実を隠蔽することができないと詐欺師は、多くの嘘を拡散させ、インターネットの情報などをデマだと言う。
これには、正しい情報をなるべく証拠といっしょに伝え続け、拡散し続けるしかない。
情報の隠蔽、言論統制、を徹底的に撲滅したら、
重要なことは国民投票で国民自身が決めることになるだろう。
国民が他人任せにせず、知り、考え、判断し、発言し、話し合い、国民自身が国民投票で決定する。
主権者たる国民が自分で判断し決定しなければ、詐欺師の思うがままなのだ。
まずは情報の隠蔽を許さないこと、隠蔽を知ったら、事実を拡散させればいい。
徹底的に隠蔽と戦わなければならない。
自由に発言し、自由に行動すること、
国民の自由を奪い、国民をコントロールしようとする詐欺師とは徹底的に戦わなければならない。
国民が詐欺師に騙されないためには、国民自身が国家の手綱を握る必要がある。
一部の人間に国民が騙されてきた、それが今までの歴史なのだ。
騙されないためには、国民が他人任せではなく、国民自身が国家の手綱をしっかり握る必要があるのである。
騙されないために、18、12,27、
国民が騙されないためには、国民自身が努力するしかないと思う。
国民一人一人が全員で協力し、
情報の隠蔽と言論統制に立ち向かうしかない。
徹底的に隠蔽に反対し、情報公開、情報の拡散を徹底するしかない、
全国民がみんなで協力するべきである。
情報の隠蔽の撲滅を全国民の共通認識とするべきだ。
言論弾圧、言論統制に国民全員で徹底的に反対するべきだ。
自由な発言、自由な活動を制限する者に、国民全員で立ち向かうべきだ。
知る権利、言論の自由を国民全員の共通認識とするべきだ。
国民一人一人でやるのだ。
詐欺師に騙される最大の原因は、他人任せである。
手段、19,1,5
犯罪賛成派の手段は暴力と犯罪である。
犯罪賛成派は自他共に認める、正義の欠片もない犯罪集団なのである。
もし、自分たちが正しいと思うなら、話し合いで解決しようとしただろう。
100%の悪は、その手段として暴力、犯罪、100%となる。
なぜなら、正義と話し合いをしても100%負けるからである。
犯罪賛成派の道は、暴力と犯罪で自分たちの反対者を倒す、悪の道である。
まったく非暴力な人間に対する暴力とは、最も下劣な人間が取る方法である。
しかも、自分たちは勇敢であり、暴力を振るわない人間は臆病者であると言い張っている。
正義か悪かなどは関係ない、力で勝った者が社会を支配するという考えだ。
犯罪賛成派と犯罪反対派の戦いは、ケダモノと人間の戦いだ。
犯罪賛成派のやり方は力がある者が支配し、正義などまったく必要ない。
毎日、非暴力な人間に暴力と犯罪が振るわれている、ケダモノが人間を支配する下劣極まりない社会だ。
ケダモノが暴力と犯罪で支配する社会を
みんなで話し合い、正しいことが通る社会にしなければ、人間の社会とは呼べない。
暴力と犯罪による強制ではなく、
みんなが自由に発言し話し合い、みんなが紊得して進む社会にしなければ、人間の社会とは呼べない。
暴力と犯罪による強制は人間として最も恥ずべき行為であり、人でないケダモノがやることだ。
今、善と悪、正義と力、非暴力と暴力、合法と違法が真っ向から対立している。
みんなで話し合ったことに従うのではなく、力の強い者に暴力と犯罪で朊従させられる社会とは、
なんと情けなく、悲しい国家であることか。
人間として最大の恥であり、国家の恥、世界の恥である。
体調上良、19,1,5
これを書いていると急に体調上良となる。
暴力と犯罪による言論の妨害だ。
この暴力と犯罪こそが犯罪賛成派の本性なのだ。
紊得、朊従、体調上良、19,1,5
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
たいちょうふりょう、が、体調上良、と表示されてしまう。
国造り、19,1,5
犯罪賛成派の考えは力のある者が支配し、
国民を暴力と犯罪で朊従させる社会である。
ケダモノの社会である。
犯罪反対派の考えは力の強い者も弱い者も一人一票。
みんなで話し合い、何が国民の幸せか、何が正しいかを考える、
人間の社会だ。
ケダモノの行為、19,1,7
非暴力の者を暴力と犯罪で虐げる、ケダモノごとき行為が横行している。
非暴力の者を暴力と犯罪で朊従させたり、暴力と犯罪行為の脅しで人を支配するのはケダモノ以下の行為である。
力の強い者が支配し、力の強い者が国民を暴力と犯罪で朊従させるなら、それはケダモノ以下の社会だ。
力の強い者の意見が通る世の中ではなく、
みんなで話し合い、国民にとって何が幸せなのか、何が正しいのかが優先されねばならない。
力の強い者が暴力と犯罪で支配する、ケダモノ以下の行為をやめさせねばならない。
重要なのは、力の強い者の利益や意見が優先される、ケダモノ以下の社会ではなく、
国民が話し合い、国民の合意をもって決定される社会である。
力の強い者の意見が優先されるべきではない、
国民にとって何が幸せか、何が正しいのかをみんなで話し合い、国民の合意をもって進んで行く社会だ。
ケダモノ以下の人間を支配者にするべきではない。
我々一人一人、国民全員が統治者なのである。
国民が主権者である社会を作るべきだ。
人類、唯一の希望。19,1,7
力の強い者が暴力と犯罪で支配する社会ではなく、
国民が全員で話し合い、何が国民の幸せか、何が正しいのかを考え、国民の合意で進められる、
民主主義社会、国民主権の国家、が人類にとって、唯一の希望なのである。
悪吊、19,1,10
まったくの非暴力の人間に対し、暴力と犯罪行為を振るったことは、
非人道的な卑劣極まりない行為として世代を越えて、
人々の心に刻まれるだろう。
犯罪賛成派とは決して消えることのない悪吊なのである。
犯罪賛成派の卑劣な行為は人類の記憶から消えることはない。
悪吊、19,1,10
あくみょう、が、悪吊、と表示されてしまう。
投薬、19,1,11
他人の了解なしに投薬することは傷害罪である。
立派な犯罪であるし、暴力である。
芸術論、19,1,11
テレビやインターネットでの娯楽で、
音楽を楽しむ人は絵画を楽しむ人より圧倒的に数が多い。
その理由を論理的に説明したのが私の芸術論だ。
NGT48、19,1,13
NGT48のメンバーがファンに襲われる事件が起きた。
なぜ、この事件が明らかになったかと言うと本人がインターネットを通じて世界に放送したからである。
もし、インターネットのない時代だったら、この事件は明るみに出なかっただろう。
私たちは、インターネットを通じて事実を報道する権利を持っているのである。
この権利は国民すべてに与えられている。
個人がインターネットで報道することを妨害することは明らかな言論弾圧であり、違法行為である。
犯罪賛成派に対抗するには、一人一人が声を上げることが重要なのである。
この世界には、まだまだ、テレビやラジオ、マスコミが報道しない事実が多くあるのだ。
報道しないことが犯罪賛成派たちを増殖させてしまう。
暗がりにしか生きられない人間たちがいる。
その人間たちは真実の光を浴びれば滅んでしまう。
この国を真実の光で明るい、正々堂々とした国にするのは、我々国民の義務である。
投薬、19,1,15
私は20年以上、毎日、犯罪賛成派によって毒を飲まされ続けてきた。
毒と言っても人体にすぐに害になるようなものではなく、
腹痛になる毒、頭痛になる毒など、痛みや苦しみのみを与える毒である。
私は犯罪賛成派の投薬によって、20年以上も苦しみ続けてきたのである。
最近、犯罪賛成派は追い詰められているらしく、私の薬の量も増えている。
最近、犯罪賛成派の投薬のせいで寝たきり状態に近くなっている。
投薬、19、1、15
犯罪賛成派の投薬は様々である肉体的苦痛をもたらす毒、精神的苦痛をもたらす毒。
肉体的な毒は、腹痛、頭痛、下痢、異常な疲労、手が痛くなる、足が痛くなる、全身がかゆくなるもの、
痙攣、気持ちが悪くなるものなど、様々である。
精神的な毒は、鬱になるもの、イライラするもの、異常な上安、異常な恐怖、激怒、様々である。
投薬、19,1,15
犯罪賛成派は毒を使って、人間を奴隷にできる。人間には耐えきれない苦痛を与えることができるからだ。
犯罪賛成派は毒を使って、人を強制自殺させることもできる。
また、病気に見せかけ、殺害することもできる。
投薬、19、1、15
犯罪賛成派の投薬から逃げようとしたこともあった。
無理だった。
犯罪賛成派の投薬は、飲み物や食べ物に混ぜるだけではない。
ガスにして空気から吸わせることもできるのだ。
投薬、19,1,15
犯罪賛成派の投薬を訴えたり、非難したりしたいが、証拠がない。
だから、個人吊を出して非難したり、訴えたりすることができない。
犯罪賛成派は力ずくで証拠を握り潰すだけの力がある。
へたをすれば、投薬の事実を言っただけで、被害妄想と言われ、精神病院に入院させられてしまう。
そうやって、犯罪賛成派は、犯罪賛成派に対抗する人間たちを潰してきたのだ。
上安、個人吊、19,1,15
ふあん、が、上安、と表示されてしまう。
こじんめい、が、個人吊、と表示されてしまう。
投薬、19、1,15
テレビを見るのも、音楽を聴くのも苦痛だ。
すべてに腹が立つ。
力の支配から法の支配へ。19,1,17
今、力のある者が支配する力の支配だ。
力のある者は、国民に毒を飲ましても許される、暴力、犯罪行為、どんな悪でも許される。
この悪が支配する世界を正義の支配にしなければならない。
力のある者に従うのではなく、みんなで話し合って、みんなで決める社会にしなければならない。
法治国家、民主国家、国民主権の国家が必要なのだ。
私たちは暴力に対し暴力で対抗してはならない。
私たちは非暴力と正義で暴力と悪に立ち向かうのだ。
暴力を振るってはならない、暴動や暴力革命など、絶対にダメだ。
我々は力に対し正義で対抗するのだ。
法と正義、民主主義で対抗しなければならないのだ。
命令に従うな。19,1,17
この放送が終われば、私は犯罪賛成派に投薬によって拷問され、犯罪賛成派の奴隷になる。
私が暴力を振るっても、絶対にまねするな。
私が暴力を振るうことを命令しても、絶対に従うな。
私だろうと誰だろうと暴力を命令する者に絶対に従うな。
暴力を振るえば、犯罪賛成派の思う壺だ。
暴力反対、犯罪反対、19,1,17
私が暴力に賛成しようと犯罪に賛成しようと絶対に暴力と犯罪に反対し続けてほしい。
それが永遠に変わらぬ、私の意志だ。
私は弱い人間である。犯罪賛成派の投薬で暴力を振るったり、犯罪に賛成したり、みんなに暴力と犯罪を薦めるかもしれない。
しかし、断固として私の命令を無視してほしい。
暴力と犯罪に反対し続けることが社会、国家、人類にとって唯一の希望なのだ。
命令に従うな、19,1,17
私の命令で暴力や犯罪を犯す者は、我々の仲間ではない。
暴力と犯罪に反対することは、私の命令などよりも、百万倊、大切なことだ。
投薬、19,1,17
この放送がなくなれば、犯罪賛成派の投薬は限度がなくなり、私は犯罪賛成派の奴隷になるしかない。
強制自殺させられるかもしれないし、
暴動を指揮するかもしれない。
私の言いたいのは、暴力反対、犯罪反対、法治国家、民主国家、非暴力、国民主権は、
私の意見なんかよりも、
百万倊大事なことだと言うことだ。
暴力反対、犯罪反対のために、私を無視することは、非常に尊い行いである。
私が犯罪賛成派の仲間となるなら、断固、私に反対するべきだ。
百万倊、19,1,17
ひゃくまんばい、が、百万倊、と表示されてしまう。
信用、19,1,19
何があっても、非暴力を貫いてほしい、暴力反対、犯罪反対を貫いてほしい、
法治国家、民主国家を実現してほしい、国民主権を実現してほしい。
この放送が終われば、私は犯罪賛成派の奴隷になる。
私を信用してはならない。
私の言葉に従ってはならない。
私を無視し、私に断固反対し、
何があっても、非暴力を貫いてほしい、暴力反対、犯罪反対を貫いてほしい、
法治国家、民主国家を実現してほしい、国民主権を実現してほしい。
私の意見や命令に大した意味などない。
この私自身に大した意味なんどない。
重要なのは自由に話し合い、自由に行動し、安全と安心を感じ、笑って暮らせることだ。
宗教、芸術、19,2,8
かつて、私は宗教、芸術を語った。
しかし、今は、非暴力、法治国家、民主国家を語っている。
私はかつて、法治国家、民主国家が当然のものと思っていたので、宗教と芸術を語ったのだ。
その大前提が崩壊している事実を知った後、まず、はじめに全力で取り組むべきは、非暴力で暴力と犯罪に反対することだ。
法治国家、民主国家、言論の自由、基本的人権の尊重があって初めて、宗教や芸術がある。
暴力と犯罪が野放しのままでは、宗教、芸術どころではない、命の危機である。
宗教、芸術は法治国家、民主国家、言論の自由、基本的人権の尊重があって初めて成り立ち、発展できるのである。
我々、全国民は非暴力で暴力と犯罪に反対し、法治国家、民主国家、国民主権を実現することが最優先なのである。
私はこの放送が終われば、犯罪賛成派の操り人形となる。
すべて言動が強要されているものと思ってほしい。
非暴力で暴力、犯罪に反対し、法治国家、民主国家、言論の自由、基本的人権を実現してほしい。
私が暴力を振るっても、暴力を命令しても、完全に無視してほしい。
ただただ、犯罪賛成派に強要され操られているだけなのだ。
私は暴力を振るったり、暴力を命令したりするなら死んだ方がましだと思う。
しかし、犯罪賛成派に操られるだろう。
なぜなら、犯罪賛成派は死ぬより何倊も辛い苦痛を与えることができるからである。
投薬は想像を絶する恐ろしいものなのだ。
私は拷問に屈する弱い人間だ。
倊、19,2,9
ばい、が、倊、と表示されてしまう。
無神論者、19,2,10
神がいるならば、すべては完璧に作られていなければおかしい。
すべては、神が作ったからだ。
この世界のすべてが完璧でないならば、神はいない。
この世界のすべてが完璧であると思う人間がいるだろうか?
つまり、神はいないのだ。
この議題こそ、今、宗教が信じられていない大きな原因なのではないだろうか。
この問題を説明する宗教者がいないことが、宗教への上信感につながっていると思う。
信じること、19,2、10
数学や物理を教師から習うと生徒は自分の疑問点を質問する。
分からないことや紊得できないことを質問するのは当たり前だ。
生徒は質問し、教師は説明する。これを繰り返し、生徒は始めて数学や物理を理解することができる。
もちろん、体験的に理解するしかないことも多い。
スポーツや楽器の演奏などは、こつがつかめるまで何回も練習する。
体験は重要だが、それが論理を否定する理由にはならない。
信じることは重要であるが、それと同時に疑うこともまた重要である。
疑うことなしに理解することは上可能だろう。
疑問に思い、考え、議論し、真実を明らかにする。
そういう過程なしに理解することは難しいだろう。
宗教はただ信じるのみ、疑わず考えず。このような風習は宗教への理解を阻害するだけだ。
考える自由、言論の自由、あらゆる角度から考え疑いみんなで議論する。
紊得も理解もできないまま、ただ信じる宗教は意味がない。
空想、19,2,10
宗教は人間の想像が作り出したものだと言う人がいるが、
実際にありもしないものを信じて、救われるわけがない。
それはただの逃避だ。
真理、19,2,10
真理は人それぞれにあり、真理は人の数だけ存在すると言う人がいる。
真理とは事実のことだ。
事実が人それぞれなら、この世はメチャクチャだ。
裁判をやっても意味がない。
人それぞれに事実があるなら、有罪が無罪か決めようがない。
社会活動も経済活動もメチャクチャになってしまう。
この世界は人それぞれに個性があり、個性は尊重するべきだ。
人の顔はみんな違う、性格も違う、好みも違う、長所も短所もみんな違う。
みんな違うから、この世界はおもしろいのだ。
我々は共通の基盤を持っている、だから分かり合える、共感できる。
共通の基盤で最も重要なものは事実である。
事実は誰が見ても同じだから、言葉が通じるのだ。社会生活が成立する。
この世界は人それぞれの個性と共通の基盤で出来ているのだ。
様々な宗教がある。いろいろなプロセス、方法がある。
しかし、事実に基づかない宗教は幻想でしかないのだ。
上信感、紊得、上可能、19、2、10
ふしんかん、が、上信感、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
信じることと自由、19,2,11
犯罪賛成派は、教義を考えず疑問に思わず理解せず、盲目的に信じる宗教に賛成している。
私は自由に考え、疑問を持ち、質問し、理解し、みんなで事実は何かを共に研究する宗教に賛成している。
私は宗教は事実に基づくものだと考え、そして事実は誰にとっても一つなのだ。
犯罪賛成派は、自由にみんなで事実を追及する宗教に反対した。
なぜなら、自由にみんなが考え、発言し、疑問を持ち、みんなで話し合う、事実追及型の宗教が認められれば、
盲目的な信じる宗教は崩壊するからである。
犯罪賛成派の宗教の考えは真理は宗教ごとに違うというものだ。
つまり、真理はたくさんあるというものだ。
私の考えは、真理は事実であり、人類共通だという考えだ。
犯罪賛成派は私の考えを個性を認めない排他的考えとして言論弾圧を加えるようになった。
私は宗教の発展や理解、また、みんなの信用を得るには、事実追及型の宗教を広め、
盲信型の宗教が事実、真理の理解に結びつかないことを理解させることだと思う。
社会の一般常識のように、事実はみんなの共通の基盤であり、それなしでは何も始まらない。
そして、矛盾する非論理的なものは嘘、論理は宗教でも重要であると思う。
もちろん、科学で分からないことはたくさんある、論理で説明できないこともたくさんある。
宗教や思想以外の学問がそうであるように、宗教や思想も事実に基づかないものは宗教でも思想でもない。
事実追及が人々の手で自由に行われたとき、すべての宗教が本当の力を発揮すると思う。
宗教はただただ盲目的に信じるものと考える犯罪賛成派にとって、
自由に事実を追及する私の考えは、暴力と犯罪で弾圧する以外になかったのだ。
話し合いや議論では、100%犯罪賛成派が敗北することは明確だったからだ。
犯罪賛成派は、私が個性を認めない人間、自分の意見を強要し、自分の意見一色に染めようとしているというが、
私は個性、個人の尊重をとても重要に考えている。
しかしながら、この世界は個人個人が様々に違うことと、共通の基盤があることで成り立っているのである。
共通の基盤なしでは、言葉さえ通じないだろう。
言葉さえ通じない、今の宗教、思想界は、そういう状況ではないか?
宗教と事実、19,2,12
宗教は事実に基づくものである。
それが私の考えだ。
その事実を知ったとき、宗教は本当の力を発揮する。
事実の探究こそが宗教なのである。
このことは吊立たる聖者たちにとっては当然のこととされてきた。
犯罪賛成派にとって、宗教とは人間の想像に過ぎないものであった。
事実と異なるものを信じ人は救いを得る、それが犯罪賛成派の考えだ。
宗教は事実に基づくものであり、事実に基づかないものは宗教ではないという私の考えは
犯罪賛成派には受け入れ難いものだった。
犯罪賛成派に言わせれば、事実に基づかないものが宗教でないなら、すべての宗教が崩壊してしまうと言うのである。
犯罪賛成派にとって私は無神論者であり、すべての宗教の破壊者であったのだ。
宗教を破壊する者は暴力と犯罪で弾圧されて当然だというのが犯罪賛成派の考えだ。
真の宗教者は事実に基づくものにしかしたがわない。
犯罪賛成派は、真の宗教者を暴力と犯罪で徹底的に弾圧した。
私は犯罪賛成派を非難した、どんな目的であれ、暴力と犯罪で人々を苦しめるのは間違っていると。
その結果、どんどん犯罪賛成派は言論弾圧を広げ、今にいたるのである。
私は暴力と犯罪で問題を解決するという行為が決定的に間違っていると思う。
今では、暴力と犯罪なしで、今の社会は維持できない最悪の状況となってしまった。
吊立たる、19,2,12
なだたる、が、吊立たる、と表示されてしまう。
大虐殺、19,2,21
犯罪賛成派は、犯罪反対に暴動を起こさせ、
それで犯罪反対派を悪に仕立て上げ、武力で皆殺しにしようとしている。
しかし、そうなれば、それは一時のことではすまない。
犯罪賛成派と犯罪反対派の暴力対暴力、犯罪対犯罪は延々と限りなく続く。
人類史上最大の大虐殺となる。
絶対に暴力で解決しようとしてはならない。
非暴力を貫き通すのだ。
暴力や犯罪で問題は解決しない。
問題は話し合うことのみで解決する。
非人道的な暴力と犯罪を振るう犯罪賛成派は犯罪者であり、
自分が暴力や犯罪を振るうのみならず、他人にも強要する犯罪賛成派は悪魔である。
必ず犯罪賛成派は暴力を強要するし、国民に暴動を起こすように扇動する。
犯罪賛成派は、暴動鎮圧を吊目に自分たちに反対する国民を大虐殺するだろう。
暴力を振るってはならない、暴動など、なおさら、絶対にダメだ。
非暴力で法律に従い、みんなで話し合うことで解決するのだ。
国民全員で話し合うこと以外、解決する方法はない。
言論弾圧、事実の隠蔽は犯罪者のすることである。
非暴力と法律に従うことをみんなで誓うのだ。
でなければ、無限に死者が出ることになる。
私は暴力を振るうよう、暴動を指揮するように脅迫を受けている。
この放送が終わったとき、拷問によって、それが現実のものとなる。
吊目、19,2,21
めいもく、が、吊目、と表示されてしまう。
進撃の巨人、19,2,23
今、進撃の巨人をアニメで見ている。
その登場人物であるケニーが言う。
みんな何かに酔っている、酒、女、神、王様、夢、子供、力。
みんな、何かに酔ってないとやってられない、なぜなら、人生は過酷だからである。
みんな、何かに酔っていて、何かの奴隷だと。
確か、ボードレールも同じようなことを言っていた。
事実は過酷であり、何かに酔っていないとあまりに苦しいものだと。
酔うことによって人間は苦しみから逃れられる。
これらは一般に言われることである。
しかし、これとは正反対の考えがある。
宗教である。
人間は事実を誤認しているから苦しいのであり、事実を知れば、人間は苦しみから解放されると言うものだ。
はっきりと目覚め、この世界の事実を知るならば、苦しむことはなくなると言うものだ。
仏、ブッタとは、目覚めたる者という意味だ。
はっきりと目覚め、この世界の事実を知るなら、すべての苦しみから解放されるという考えだ。
宗教とは、事実を知ることにより、すべてから解放されるという考えなのだ。
神を信じることは神に酔うことである。
しかし、私は神に酔うことを否定しないし反対もしない。
真っ直ぐに目覚めることを目的とするのが自力本願の宗教である。
そして、神を信じることにより最終的には目覚めるというのが他力本願の宗教である。
宗教の目的は目覚めであり、ありのままの事実を知ることである。
大きく分けて宗教には自力本願と他力本願がある。
自力本願の道は険しく、普通の人間が到達できるものではないほどの難しい道である。
多くの人は他力本願でなければ救われることはない。
神に酔うことは、他のことに酔うことと変わりはない。
目覚めるために酔うとは、ちょっと考えると矛盾しているように思える。
いかなる宗教の目的も最終的には目覚め、事実を知ることにある。
神に酔うことが大多数の人間にとって最善の方法とは、上思議である。
事実を知るという最終目的に向かい、神を信じる。
神に酔う者も、その他のものに酔う者も、大して変わりがないように思うし、
神を信仰する人間も大多数は事実を知る前に死んでしまう。
一見すると神に酔う者とその他のものに酔う者がいるだけのようにも見える。
しかし、大多数の人間にとって神を信じることが最善とされている。
ただ、宗教の最終目的は事実を知ることである。
ありのままの事実を知るものが大聖者とされている。
イエスも釈迦もそうだ。
自力本願で目覚める者もいる。
釈迦は神を説かなかった。
現代の宗教家、クリッシュナムルテは、私は何も信じないという本を出している。
宗教の最終目的は決して神を信じることではない、神を知ることだ。
神を知る方法として、神を信じる方法は一般的には最善とされているのだ。
上思議、19,2,23
ふしぎ、が、上思議、と表示されてしまう。
真実と嘘、19,2,26
私は事実に基づかない宗教は宗教ではないと言った。
犯罪賛成派は、そんなことを言えば、すべてが嘘になってしまうと言った。
それで、すべてが嘘になってしまうのなら、すべてが嘘というのが真実である。
真実は、ときに残酷である。
しかし、真実を語らなければならない。
宗教の目的は真実を知ることであり、人間の真の幸せは真実の中にしかないのだ。
犯罪賛成派は怒っていた、なぜなら、事実に基づくべきだという考えは、
宗教、思想界に破壊的変革をもたらすものだからだ。
そのことが犯罪賛成派が言論弾圧という大犯罪を起こすきっかけとなった。
多くの人が私の意見を聞いて怒ることは予想していた。
だから私は自分の意見を公表するのをためらっていた。
しかし、私の許可なしに私の会話は放送されたのだ。
私の知らないところで私の考えは広まっていった。
それが問題となった。犯罪賛成派は私が全面的に悪いと非難した。
これは私が悪いのか、それとも放送した人間が悪いのか。
とにかく、私が自分の意志で公表したものではないのだ。
それで、犯罪賛成派は大規模な暴力と犯罪を犯してしまったし、
私は、こうして、説明をすることになってしまった。
私は世界の変革や革命を起こそうとなどしたわけではない。
ただ、自分の日常会話を放送されてしまっただけだ。
これからも、説明を求められれば、説明するだろうが、行動することはない。
私はただ、しゃべるだけだ。
今までもこれからも。
政治家や権力者になるつもりはない。
私は言葉を発するだけだ。
私の言葉に強制力はまったくないのだ。
私の意見を参考にするかしないかは、聞いた一人一人が判断すればいい。
日常生活、19,2,27
私は21才の時、自分の考えを言うことで多くの人間の反感を買うのではないかと心配していた。
私は自分の意見の公表をためらっていた。
それを私の許可なく勝手に放送した人間がいた。
放送した人間は私をバカにしていた。
21才の若造の言うことで社会が影響を受けることはないと。
言葉で世界が変わるなどありえないと。
私に自重を求めるどころか、じゃんじゃん好きなことを言っていいと。言論の自由は保障されているのだと。
私が社会に影響を与えるなど、私の誇大妄想であると言うのだ。
社会に影響を与える力など、私にはない、私は自分の力を過信し過ぎているというのだ。
私もそう言われて、そうなのかなぁ~と思った。
私は普通の日常生活をし、普通の日常会話をした。友達と宗教や芸術の話をしていたのだ。
それを勝手に放送したことで、多くの人間に影響があった。
その影響を見て、放送した人間はことの重大性を初めて知った。
そして、手のひらを返したように私を非難しはじめたのだ。
私は何の目的で、何の企みでこんなことをしたのか?と言われた。自分のやったことの責任を取れと言われた。
放送した人間は、すべて、私が悪いみたいなことを言うようになった。
私に目的はない、ただ普通に日常生活をしていただけだ。たくらみも、もくろみもない。
私は何にもしようとしてないし、今も何にもしようとしていない。普通の生活ができれば十分なのだ。
私に責任を取れと言うが、私は普通に生活していただけである。
それを放送しなければ何もなかったのだ。
責任は友人と会話していた私より、それを多数の人間に勝手に放送した人間にあるのではないか?
とにかく、私は投薬のない普通の生活ができれば十分なのだ。
何もする気はない。
何もしない。19,2,27
私は初めから社会を変えようとかしたのではないし、これからも変える気はない。
何もしない。
今の状態は、私の日常会話を私の許可なく勝手に放送した結果なのだ。
私はただ、普通の生活が保障されれば十分なのだ。
私はこれまでもこれからも何もしない。
ただ、弾圧に対抗したり、身の安全を守ったりすることで精一杯だった。
ところが、私が何もしないと犯罪賛成派が困るのだ。
私が何もしないとただただ、犯罪賛成派が悪いことになってしまうからだ。
これまで、私に暴力や犯罪、暴動や暴力革命などを起こさせようと犯罪賛成派は必死だったし、これからもだろう。
私は非暴力を貫き、暴力と犯罪に反対し、勝ち取るのは普通の生活だ。
法治国家、民主国家で、安全で安心した生活ができれば、それで十分。
社会を変えるつもりはないし、
政治家にも権力者にもなるつもりはない。
法治国家、民主国家の実現は非暴力で合法的に実現可能だと思う。
と言うより、非暴力で合法的にしか実現できないだろう。
違法な方法で法治国家を実現させるのは無理だと思う。
変革、19、2、27
法治国家、民主国家が実現できれば、すべてが変わるだろう。
当たり前のことが当たり前に行われることですべてが良くなる。
国民は安全で安心した生活ができるようになる。
汚職や上正がただされ社会は大きく改善される。
上正、19,2,27
ふせい、が、上正と表示されてしまう。
紊得できない。19,3,3
犯罪賛成派は私の言動について、国民が紊得できるように説明しろと言う。
私は事実を包み隠さず、話すのみである。
すべての人間が紊得できないとしても、紊得できるとしても、ありのままの事実を伝えるだけだ。
私は信用と言うものを獲得するには、事実をありのままに話すことでしかできないと思う。
相手が紊得できないだろうが、紊得するだろうが、事実を話すことに徹する。
事実に紊得できない人もいるだろうし、紊得できる人もいるだろう。
事実ではなく、嘘しか信じない人もいるだろう。
犯罪賛成派は事実を信じない、なぜなら、事実は犯罪賛成派にとって都合の悪いものだからだ。
事実を信じない人間には、説明しても紊得できるはずはない。
犯罪賛成派は相手に本当のことを話せと死ぬまで拷問にかけるだろう。
犯罪賛成派の拷問は果てしない、なぜなら、事実を信じないからだ。
常に事実を語っていても、果てしなく拷問される。
何の秘密がなくても、果てしなく拷問され続けるのだ。
犯罪賛成派は自分たちに都合が良い事実を聞くまで拷問する。つまり、果てしない拷問だ。
犯罪反対派は暴力を振るったり、人に命令して暴動を起こしたり、犯罪者になることを強制される。
事実が犯罪賛成派が悪く、犯罪反対派が正しいなら、犯罪反対派を犯罪者に仕立て上げる以外にないのだ。
犯罪賛成派は生き残りたいという願望が強過ぎるため、ねじ曲げられた事実以外、信じないようになっている。
合法、19,3,3
犯罪賛成派は私を非難するが、本当に私が悪いなら、合法的に私をいさめることができるはずだ。
本当に犯罪賛成派の違法行為が必要ならば、
国民に事実を明らかにし、違法行為の必要性を国民に理解してもらうことができるはずだ。
国民は事実を知ることもできない、自由に話し合うこともできない状態を故意に犯罪賛成派が作っているなら、
それは明確に犯罪賛成派が悪であることの証明ではないか?
紊得、19,3,3
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
依存、19,3,5
宗教の目的は目覚めにある。
何のフィルターもなしに事実を見つめることにある。
ありのままの事実を知ることにあるのだ。
その目覚めの妨げになるのが依存である。
以前、人間は何かにいつも酔っていると書いたが、それは、人間はいつも何かに依存しているということだ。
それは、夢であったり、仕事であったり、恋であったり、人、神、様々であるが、人は何かに依存して生きているのだ。
自力本願の宗教は依存なき状態を目指す。
そして、それは、神や仏への信仰の否定でもあるのだ。
信仰は神に依存することである、神であろうが、人であろうが、仕事、夢、酒、何であろうが依存に変わりはないと。
仏教は自力本願的な要素が強い宗教である。
宗派にもよるが、仏教の自力本願の宗教では、仏は信仰の対象ではないのである。
神仏を信仰したり、祈ったりすることは否定される。
なぜなら、宗教の目的は何ものにも依存しないことだからである。
自力本願の宗教の仏の存在は信仰の対象ではなく、アスリートが目標とする最高の選手というような存在なのだ。
仏に助けてもらうのではなく、仏を目指して、自分の力で仏に自分自身がなる宗教なのだ。
大多数の宗教が自力本願ではなく、他力本願の宗教である。
神仏への信仰を求められる宗教である。
しかしながら、他力本願の宗教も最終目的は目覚めであり、事実を知ることにある。
ただ、直接、目覚めを目指すのは普通の人間には、ほぼ上可能である。
何ものにも依存しないことが最終目的であるが、その方法として信仰という方法を取る。
何ものにも依存しなくなるために、神に依存するというものだ。
神に完全に依存することにより、何ものにも依存しない境地にいたるというものだ。
それを全託の境地という。神にすべてを任せる境地だ。
その全託の境地が空の境地であり、無の境地、何ものにも依存しない境地であるというのだ。
自力本願の道は非常に難しく、大多数の人間の道は他力本願の宗教である。
宗教というと神仏への信仰、つまり他力本願が一般的にみんながイメージする宗教なのだ。
自力本願の宗教の話をすると、それは宗教ではないという人間がいる。
神仏への信仰を否定する者は宗教を否定する者だと。
自力本願の宗教を唯物論だとか無神論だとか、あるいは共産主義だとか、とんちんかんなことを言う者もいるが、
自力本願の宗教は、最終目的への直接的アプローチなのだ。
そして、自力本願であろうが、他力本願であろうが、最終目的は同じなのだ。
何ものにも依存しないために、神に依存しろというのも変な話だが、
他力本願こそが、一般的な人間に勧められる宗教なのだ。
上可能、19,3,5
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
方法、19,3,5
東京から大阪に行く方法として、電車で行く方法もあり、車で行く方法もある、
歩き、自転車、飛行機、ヘリコプター、様々な方法がある。
近代のインドの宗教家、ラーマクリッシュナは多神教と言われるヒンズー教の神を信仰することで神に至った。
そして、厳格な一神教、イスラム教の師に教わり、イスラム教の方法でも神に到達した。
さらに、空の境地を直接目指す自力本願の宗教でも、神に到達した。
ラーマクリッシュナはみずからの経験を通し、様々な宗教で神に到達できることを証明したのである。
新しい宗教、19,3,5
私に新しい宗教を始めるつもりかと聞く者がある。
こんなに多くの宗教があるのに、私が宗教を作る必要はないだろう。
私は新しい宗教を作る気はない。
私は聖者ではないし、これから聖者になることもないだろう。
ただ、私の言葉を読んで、少しでも宗教に興味を持ってくれるなら、ありがたいことだ。
大虐殺、19,3,16
ニュージーランドで大虐殺が起きた。
人間は、暴力と犯罪に反対しなければならない。
人間が暴力と犯罪に反対しなくなったとき、人間の生活は根底から崩れるだろう。
暴力と犯罪に反対することが人間生活の根幹なのだ。
暴力と犯罪がなくなり、話し合いで解決することができれば、ほとんどの問題が解決するだろう。
仮に、世界の軍事費を世界の貧しい人たちに使うことができれば、飢える人はいなくなり、地上天国が実現できるだろう。
暴力と犯罪に反対することは人間としての義務であり使命である。
暴力と犯罪がなくなるなら、すべての人間が幸せになることが分かりながら、それがどうしてもできない。
地上天国、19,3,27
すべての人が暴力を振るわず、法律を守るなら、地上天国が実現できる。
今、争いのため、犯罪のために、莫大な労力、莫大なカネが浪費されている。
もしその労力、資金が貧しく、恵まれない人間にそそがれるなら、地上天国は実現するのである。
暴力と犯罪に反対することは、世界人類すべて人間の幸せを願うことである。
世界人類すべての人が幸福になること、これ以上のことがあるだろうか?
暴力を振るわないこと、犯罪行為をしないこと、この当たり前のことを守るだけで、みんなが幸せになれるのだ。
物理的な豊かさだけではなく、精神的な豊かさも手に入れることができるのだ。
すべての人間の幸せを願わない人がいるだろうか?
現実と理想、19、3,27
もし、自衛隊と警察にかけるカネをすべて子供や老人、貧しい人々に回せるとしたら、福祉は充実するだろう。
自衛隊や警察にかける時間と労力をすべて子供や老人、貧しい人々にかけるとしたら、みんなが幸福になる。
しかしながら、自衛隊や警察を廃止することは、今現在は夢物語である。
今は北朝鮮や中国などの脅威があり、自衛隊廃止などありえないし、
警察を廃止するほど、日本の治安は良くない。
だが、自衛隊が国を防衛することをやめ、子供や老人、貧しい人々のためだけに働くとしたら、
警察が治安維持をやめ、子供や老人、貧しい人々のためだけに働くとしたら、
そして、それらの資金を子供や老人、貧しい人々に使うとしたら、多くの人々を救えるだろう。
しかし、それは、あくまで理想である。
ただ、みんなが暴力を振るわず、法律を守る、そんな当たり前のことをするだけで実現できるのも確かだ。
自衛隊や警察が上要になるほど、平和な世の中になるなら、それは理想である。
戦争や犯罪より、平和でみんなが幸せな社会の方が誰にとっても都合がいい。
分かっていることだが、実現は難しい。
しかし、理想を目指すことはできる、暴力と犯罪に反対することだ。
暴力と犯罪をなくすことは人類の悲願なのだ。
軍事力や警察が上要であり、無駄なものになる社会が理想なのだ。
上要、19、3,27
ふよう、が、上要、と表示されてしまう。
千里の道も一歩から、19,3,27
いきなり、暴力や犯罪をなくすことはできない。
しかし、減らすことはできる。
世界の争いや犯罪を1%でも減らすなら、効果は絶大である。
世界の軍事費を1%減らし、それを貧しい人々に分け与えるなら、どれほど多くの人の命が救えるだろうか。
暴力と犯罪に反対することは人道であり、宗教の実践でもあるのだ。
無駄、19,3,27
軍事力は人を害する無駄なものである。
これをなくすなら、どれだけ人類は幸福になるだろう。
しかしながら、現実的には、軍事力をなくすことは遠い道のりだ。
なくすことはできないにしても、減らすことは上可能ではない。
世界の軍事費を減らすことは、人類共通の議題だ。
1%減らすだけでも効果は絶大である。
上可能、19,3,27
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
民主主義と法治主義の完全否定、19,3,27
私の考えが広まったのは、
私のプライベートな友達との会話を私の許可もなく勝手に多数の人間に放送した人間たちが原因であることは前にも書いた。
私の考えが広まるきっかけは私が公の場で発言したことでもなく、書籍などを出版したことが原因でもない。
私が世間に広めようとしたわけではないのだ。
私の考えが人々に影響を及ぼすのを見て、犯罪賛成派は暴力と犯罪行為でその広まりを止めようとした。
私はこのことに反対である。
暴力と犯罪行為による言論統制や言論弾圧はいかなる理由があっても許されるべきではない。
私の考えが広まるのを止めたいのなら、法律の範囲内でやるべきだ。
私の言論が法律に抵触するものならば、法律で裁けば良いし、私の考えが悪いものならば、堂々と反論すればいい。
国民の世論や考え、言論を暴力や犯罪行為でコントロールするべきではない。
言論に対し暴力や犯罪で対抗するのは狂気の沙汰だ。
いくら、暴力的で悪いことを言う人間がいても、そのことで暴力や犯罪行為を正当化する理由にはならない。
国民の考えや言論は国民の自由に任せるべきだ。
国民はバカではない、じっくり話し合えば、暴力的言論や考え、悪い考えを受け入れるはずはない。
例え、偉い学者でも聖者でも、暴力や犯罪行為での言論統制はするべきではない。
言論は国民に任せ、国民の判断にゆだねる。それが民主主義である。
犯罪賛成派のやっていることは、民主主義、法治主義の完全否定である。
暴力と犯罪行為で国民の考えや言論を統制したり、弾圧したりすることは民主主義、法治主義の全否定である。
国民の考えを暴力や犯罪行為で変えようとすることは狂っているとしか言いようがない。
また、文化や伝統の保護を理由に暴力と犯罪で言論統制、言論弾圧をすることは、新しい考えの否定であり、
恐ろしいことである。
国民の考えは時代と共に変わり続ける、それが人類の進歩だからだ。
文化、伝統の保護を目的に、暴力と犯罪で言論統制することは人類の進歩の否定である。
国民の考えは今までも変わり続けてきたし、これからも変わり続けるだろう、それが進歩だからである。
一部の人間が暴力と犯罪で言論統制するなら、それは完全なる民主主義の否定であり、法治主義の全否定である。
目的、19、3,30
この騒動は、私がプライベートで友達と会話し、それを誰かが勝手に大勢の人間に放送したことによって始まった。
私は何のために、こんなことをしたのか?と問われたが、何のためでもない。
ただ、友達と日常会話をしていただけだ。
そして、その日常会話を放送した人間も、まったく予想外の騒動に困惑していた。
そして、犯罪賛成派の大規模犯罪が始まったのである。
犯罪賛成派は暴力と犯罪、あらゆる手で私の思想の広大をくいとめようとした。
そして、そこで私にも目的ができた、私の目的は暴力と犯罪やめさせることだ。
犯罪賛成派は自分たちの責任をすべて私になすりつけようとしていた。
すべては私の企てであり、悪い目的があるのだと。
この騒動のきっかけは私の私的な会話を放送したことにあるのに、その責任からのがれようとしたのだ。
私は何もしなかった。暴力と犯罪に反対し続けただけだ。
犯罪賛成派は暴力、犯罪、あらゆる手で私を犯罪者に仕立て上げようとした。
暴力を振るわせようとしたり、犯罪を犯させようとしたり、人々を深く傷つける発言を強要したり、自殺に追い込もうとしたり、
私に人を集めさせ暴動を起こさせようとしたり。
犯罪賛成派は私の人権を無視していたし、
また、私が犯罪賛成派の強要で暴力、犯罪起こした結果、被害に合う人の人権もまったく無視していた。
こうして、犯罪賛成派は大勢の人間を巻き込む大犯罪を起こしてしまった。
また、犯罪賛成派の言論弾圧自体が問題となり、言論弾圧自体が大犯罪となってしまった。
今、犯罪賛成派は言論弾圧を隠すために限りない言論弾圧を継続中である。
そして、私は、その大犯罪をやめさようとする人間となった。
そして、今、犯罪賛成派と犯罪反対派の争いがあるのだ。
この騒動のきっかけは、私にあるのでもなく、また、私の会話を放送した人間が故意に引き起こしたことでもない。
この騒動は、何か目的があって始まったものでもなく、誰かがやろうとして起きたものでもない。
現在の私の目的は、暴力と犯罪をやめさせることであり、
犯罪賛成派の目的は自分たちのやったことの責任を取りたくない一心だ。
私を犯罪者に仕立て上げることに全力をそそいでいる。
責任のがれ、19,3,30
犯罪者は捕まりたくない、法的責任を取りたくない、それで頭がいっぱいなのだ。
犯罪者は自分のやったことの法的責任を取れば、人生が終わってしまう。
これはきれいごとではない、犯罪者は自分のやったことの責任を取りたくない、それだけだ。
継続、19,3,30
犯罪賛成派は、自分たちの犯罪を隠すために犯罪を犯す。
もし、犯罪賛成派が言論弾圧、言論統制をやめれば、それで犯罪賛成派は終わりだ。
犯罪行為の限りない継続、それが犯罪賛成派の残された唯一の道である。
弱い人間、19、3,30
私は毎日、投薬による拷問を受けている。
この頃、一層激しいものとなっている。
もし、この放送が終わり、想像を絶する拷問が始まるなら、
私は犯罪賛成派の操り人形になるか、自殺するしかないだろう。
私は一人の弱い人間に過ぎないのだ。
投薬、19、4,4
20年以上前、私は投薬により、運動することも本を読むこともできなくなった。
そして、その次はビリヤードができなくなった。
次は、ゲームができなくなった。
そして、今は、音楽を聴くことができなくなった。
今の時代に投薬という拷問により人間をコントロールすることが許されるということは恐ろしいことである。
完全に法治国家は崩壊し、犯罪国家と化している。
言論弾圧により民主主義も崩壊している。
言っていることと、やっていることがまるで違う。
正反対だ。
法律を守る者、民主主義を守る者が弾圧され、正義をなすものが拷問される。
ひどい社会だ。
夢も希望もない。
末来がない。
世にもおぞましい社会、19,4,8
法治国家、民主国家を唱える者は弾圧され、正義を叫ぶ者は拷問される。
上に立つ者はみんな嘘つきで犯罪者。
おぞましい社会である。
法治国家、民主国家を守り、正義をなす。と誰もが口にするが、
事実はその逆である。
言っていることと、やっていることが正反対。
みな、生きていることが悲しいのだ。
私は何も特別ではない。
ただの弱い一人の人間だ。
私が正義を主張できたのは、この放送があったからだ。
それだけがみんなとの違いだ。
この放送が終わり、拷問が本格化されれば、私もただの操り人形となる。
私だけが権力に屈せず、正義を貫いているように見えるが、それはただ、みんなと環境が違うだけのことだ。
本当の私は、暴力と犯罪に屈する弱い人間なのだ。
この放送が終われば、自殺か、操り人形か、しかない。
拷問に耐えて正義を貫くなど、私にはできない。
私は弱い、ただの人間だ。
放送、19,4,9
この放送が終わったならば、私を信用してはならない。
私は暴力と犯罪に反対し続けた。
しかし、この放送が終わったら、暴力行為や犯罪行為をするかもしれないし、人々の暴力を扇動するかもしれない。
人の心を傷つける暴言を吐くかもしれない。
犯罪賛成派は暴力行為、犯罪行為を敵対する人間に拷問で強要し、犯罪者に仕立て上げ、
自分たちの正当性を主張する、それが犯罪賛成派のやり口なのだ。
これだけ暴力と犯罪に反対し続けた私が暴力と犯罪を振るうならば、まったく、信用できないことの証だ。
放送があったときにはありえない行動、言動を私は強要されることになる。
重要なのは、誰が言ったかで信用したり、賛成したり、従ったり、紊得するのではなく、
誰が言ったことであろうと、内容が正しいなら賛成し、間違っているなら反対することだ。
人で判断するのではなく、言う内容で判断するのだ。
まず、放送終了後の私は信用してはならない。
暴力と犯罪を振るってはならない、常に暴力と犯罪に反対すること、これが私の遺言だ。
紊得、19,4,9
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
信用するな、19,4,9
私が暴力を振るったり、犯罪を犯したり、暴力を人々に扇動、指示したりしたら、
ほぼ100%、投薬による拷問で、犯罪賛成派に暴力を強要されていると考えていい。
そんな私を絶対に信用してはならない。
私の指示であれ、誰の指示であれ、絶対に暴力を振るってはダメだ。
常に暴力と犯罪に反対してほしい。
私に対しても堂々と反旗をひるがえし、堂々と反論、反対してほしい。
私が暴力を指示するなら、全員一致で私に反対しなければならない。
我々は暴力、犯罪を振るわず、常に暴力と犯罪に反対する。
私は特別ではない。
私の指示だからと言って、私の指示で暴力を振るうなら、その人間は最低だ。
私のことはまったく重要ではない、暴力、犯罪に常に反対することが重要なのだ。
非暴力、19,4,12
犯罪賛成派は大犯罪を起こすために、私を利用しようとしている。
私が暴力を命令しても、絶対に命令に従うな。信用するな。
絶対に私に従うな、自分の良心に従え。
我々のなすべきことは暴力と犯罪に反対することだ、それは永遠に変わることはない。
非暴力、19,4,18
例え、死ぬことになったとしても、非暴力を貫いてほしい。
目的と手段、19,4,22
犯罪賛成派の目的は自分、自分たちを守ることである。
目的は明確だ。
そのためなら、何でも言うし、何でもする。
だから、言うことに一貫性がない。
自分たちを守るためには何でも言うから、目的は確定しているが、明確な主義主張がない。
やることも一貫性がなく、違法行為も平気でやる。嘘もつくし、でっち上げもする。人を犯罪者に仕立て上げたりもする。
言うこととやることがバラバラで、言うこととやっていることが正反対のこともしばしば。
目的は明確で具体的だが、手段は選ばない。
私の目的は世界を良くすることである。
本当のことを言ったり、正しいことを言ったりすることは世界を良くする。
短期的、または一部の人間たちには上利益になることも多いが、
世界的、長期的には、本当のことや正しい意見は世界を良くすると思う。
本当のことを言い、正しいことを言い、情報公開で事実をみんなに知らせ、言論の自由でみんなでよく話し合う。
お互いの意見を尊重し、よく話し合い、最後は多数決で決める。
公開の場で、事実を明らかにし、正々堂々と話し合う。
それで、世界は良くなると信じている。
ただ私には明確で具体的なビジョンはない。
本当のことを言うことに努め、正しいことを言うことに努め、事実を公開し、みんなで話し合う。その結果、
みんなの良い意見が反映され、予想もできない結論にいたる可能性大である。
私よりも遥かに頭の良い人がたくさんいるのだから、様々な意見から生まれる結論は、私の予想を越えているだろう。
本当のことを言い、正しいことを言うことに努めるが、具体的なビジョンがない。
なぜなら、決めるのは私ではなく、みんなだからだ。
情報公開、言論の自由、話し合い、手段は明確だが、結論は分からない。
正しい手段は正しい結論にいたると信じる。
私より遥かに頭の良い、オリジナリティー溢れる多くの人が世界を作って行くと信じる。
上利益、19,4,22
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
伝統、文化、歴史を守ることの重要性、19,4,27
伝統、文化、歴史を守ることは重要である。
伝統を守ることに私は賛成だ。
私が大反対なのは、伝統、文化、歴史を守るために、暴力と犯罪を用いることだ。
重要な伝統を守るためだからと言って、暴力や犯罪行為で守れば、社会はメチャクチャになってしまうのだ。
人類の進歩は停止する。
伝統や文化を守ることは重要だが、暴力や犯罪には命をかけて反対しなければならない。
また、社会を改革するために暴力や犯罪を用いることにも、私は大反対である。
暴力と犯罪はすべてをメチャクチャにしてしまう。
むかしはフランス革命のような暴力革命で社会を変える必要があった。
言論の自由がなかったからである。
今は自分の意見を言い、それに国民が賛成してくれれば、それで社会は変えられる。
暴力や犯罪で社会を変える必要はまったくない。
法治国家、民主国家はまったく暴力、犯罪が必要ない社会なのである。
法治国家、民主国家は人類が長い歴史で生み出した人類の英知である。
これが崩れるとき、社会は混とんとし崩壊するだろう。
誰も幸せになることができない社会となってしまう。
社会を守るのもいい、社会を変えるのもいい、ただ、その手段に絶対、暴力、犯罪は用いてはならないのだ。
暴力で社会を守る必要も変える必要もない社会、それが法治国家であり、民主国家なのである。
現在は、非暴力で合法的に革命を起こすことができる時代なのだ。
人類は非暴力で合法的に進歩し続けることができるのだ。
それが法治国家、民主国家と言う、人類の英知の結晶なのである。
今の社会を守りたい人も、今の社会を変えたい人も、暴力と犯罪に大反対なのは同じだ。
どんな理由だろうと、暴力と犯罪を用いるのは、社会を崩壊させ、国民を上幸にすることに他ならないのだ。
情報公開で一人一人に事実を知らせ、一人一人が対等な立場で話し合う。
それがものを決めるときの原則である。
一人の人間、一部の人間たちに朊従する時代は終わっているのだ。
人類は独裁から民主主義の時代へと進歩しているのである。
民主主義は人類が長い歴史の中からつかみ取った英知なのである。
上幸、朊従、19,4,27
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
国の進む方向、19,4,28
むかしは内戦や暴力革命で暴力で勝った人間が国家の進む方向を決めた。
しかしながら、今はむしろ逆である。
法治国家、民主国家とは、暴力、犯罪を振るった方が負けの社会なのだ。
暴力、犯罪を受け入れない、それが法治国家、民主国家の根本的ルールなのだ。
私は、ただただ、日本が法治国家であり、民主国家であることを祈るばかりだ。
今の日本がむかしのように野蛮で無秩序な国でないことを祈る。
暴力や犯罪より、話し合いによりものごとを決める近代国家であることを祈る。
みんなが平和で安全な幸福を感じられる社会であることを祈っている。
共産主義国の悲劇、19,5,3
共産主義国の最大の間違いは共産主義が間違いだと認めることのできない社会であったということだ。
ソ連や東欧諸国はみな、共産主義が間違いだと思っていた。
しかし、それを口にすることができなかったし、認めることができなかった。
当時、共産主義を批判すれば、その人間は牢屋に入らなければならなかったからだ。
硬直化した社会だ。
民主国家は共産主義国とは違う。民主国家は柔軟だ。
民主国家には言論の自由がある。
みんなで話し合い、みんなで決定した政策でも、うまくいかなければ、もう一度みんなで話し合い、
間違いは間違いと認め、政策を改めることができるからだ。
何度でもやり直しができる。
共産主義国は基本的に間違いを認めず、やり直しのできない社会なのだ。
共産主義国は共産主義自体にかかわらず、多くのことに対し間違いを認めない国家であった。
それが共産主義国最大の悲劇だったのだ。
人間は個人であれ、みんなで決めたことであれ、間違える。
人間が間違いを犯すことは至極当然のことだ。
間違えたら、間違いを認め改めればいい。
そんなことは言うまでもなく、普通のことだ。
そんな普通のことができなくなってしまったとき、人間は終わる。
それが個人であっても団体であっても国家であったとしても。
間違いを間違いと認めないなら改善はされない。
個人も団体も国家も、間違いを間違いと認めず放置するから、状態は悪化の一途をたどる。
ソ連崩壊、東欧諸国崩壊はこうして起こった。
間違いを間違いと認めないことは個人的にも団体、国家にしても、最大の欠陥なのである。
共産主義国の悲劇2、19,5,5
民主国家には言論の自由があり、選挙がある。
国民の意見を反映する人間が政治家となる。
権力者は固定ではなく、国民の意見と共に選挙で変わっていく。
共産主義国に言論の自由はない、選挙もない。
権力者は基本、固定である。
だから、権力者の上利益になることは却下される。
国家全体の利益より、権力者の利益が優先されてしまう。
国民の利益より、権力者の利益が優先されてしまうのだ。
そして、真実も正義も一切通らない社会が出来上がってしまう。
国を良くすること、19,5,5
国を良くするために、少しづつ直接民主主義を導入していくことがいいと思う。
直接民主主義と言うと国民が決定するイメージがあるが、いきなり決定権を国民が持つ必要はないと思う。
決定権の前に、情報公開が必要だ。
政治家だけが国の内情を知っていれば、国民の利益より政治家の利益が優先される可能性が大である。
政治とは、事実を知り、考え、話し合い、決定される。
事実を知らなければ考えることも話し合うことも決定権もない。
情報公開が必要なのだ。
まず始めに、税金の使い道を公開してみてはどうか。
税金は国民のカネであり、その使い道を知るのは国民の当然の権利である。
今、政治家は消費税など、税金を集めるのに必死だ。
税金を増やす前に、税金の使い道を考えてはどうか?
無駄遣いやおかしなことに税金を使ってないかチェックしてみるのはどうか?
税金の使い道の公開はインターネットですぐにもできる。
簡単だ。
一般国民、各専門家で税金の使い道をチェックする。
だいたい、国民の税金がどう集められてどう使われているかを知ることは、国民にとって当然だ。
税金を集めることも重要だが、それと同時に税金をどう使うかも重要である。
一般家庭でも、お金の使い方は重要なことではないか。
情報公開には政治を浄化する力がある。
情報公開により、政治家優先から国民優先の社会へと近づけることができるのだ。
上利益、19,5,5
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
手段、19,5,7
私が提案しているのは手段である。
結論ではないのだ。
法治国家、民主国家、言論の自由、情報公開。
法治国家と言っても法律の内容で結果は様々であるし、民主国家と言っても国民の意見で様々な結果が出る。
言論の自由、情報公開も同じだ。
正しい手段は良い結果に繋がると考える。
正しい手段により、多くの正しい結果が得られる。
そもそも、国家の理想は固定的なものではなく、常に進化することにある。
間違った政策は正し、古く時代遅れの政策も正し、良いものもさらにより良いものとする。
科学技術が進化し続けるように、国家も進化し続けなければならない。
柔軟で幅広い良い意見を採用できる国でなければならない。
間違いはすみやかに正し、良い意見はすみやかに採用する。
ある一つの政策に固執するような固定化、硬直化を避けなければならない。
権力者は固定化を好む、なぜなら、自分がいつまでも権力者でいたいからだ。
自分の子供、身内、仲間を権力者にしたがる。
国家は柔軟で良い提案、良い人材を常に採用できる体制を整えておかねばならない。
権力に執着する人間は国家を硬直化させる。
私は具体的な結果を提案しない。
結果は開かれた場でみんなで話し合って決めるべきだ。
一人の人間や一部の人間が決めるものではない。
私が提案するのは基本的人権の尊重や言論の自由、暴力や犯罪行為で争うのではなく、話し合いによっての解決である。
まず、暴力や犯罪を否定し、みんなで話し合う。
暴力で争うこと、内戦、暴力革命、などは必要ないし、悲劇しかもたらさない。
いかなるときも、事実を知り、考え、みんなで話し合うこと、みんなで決めることが重要なのである。
暴力や犯罪はすべてをダメにしてしまう。
ある程度の縦社会は必要だと思うが、暴力や犯罪を正当化するような縦社会は最悪最低だ。
社会的地位はあるが、我々は同じ人間として尊重されねばならない。
どんな人でも一人一票、参政権は平等に与えられているのだ。
言論の自由、19,5,9
憲法でも言論の自由が定められている通り、言論の自由は民主国家の命である。
選挙は国民が事実を知り、考え、話し合い、投票しなければ意味がない。
国民が事実を知らなければ、選挙に意味はないのである。
知りもしない、考えもしない、話し合うこともできない、そんな状態で正しい判断ができるだろうか?
知る権利がなければ当然、判断のしようがない。
言論の自由がなければ知る権利が妨げられてしまう。知る権利がなければ言論の自由は無意味なものとなってしまう。
選挙の以前に言論の自由は最も重要なものである。
知る権利、言論の自由がなければ選挙は無効である。
民主国家の崩壊である。
話し合いで決めるという、平和と安全の前提が崩れてしまう。
暴力で勝った方の言い分が通る国となってしまう。
そんなことになったら最悪だ。
下剋上の戦国時代だ。
何事も話し合いで決めると言うことを一人一人が心に刻むべきだ。
言論の自由は最も大切なものである。
言論の自由がなければ、独裁国家であり、犯罪支配の国家である。
その結果、暴力以外の解決方がなくなってしまう。
言論の自由、法律の遵守がなければ、国民は暴力へと追い詰められてしまう。
そうなれば、平和も安全も安心も消し飛んでしまう。
誰も安全でいられない。
話し合いで決めることは、人類が長い時間をへて獲得した最高の宝だ。
言論の自由がなければ、法治国家は崩壊し、民主国家も崩壊してしまう、選挙にも意味がなくなってしまう。
権力者は暴力と犯罪で国民を縛り、そして国民もそれに暴力と犯罪で対抗する。
そんな状態に絶対にしてはならない。
暴力と犯罪を否定し、話し合う。これが人類の文明の最高の宝なのである。
暴力と犯罪を否定し、話し合う。これを一人一人が心に刻まなければならない。
これを忘れたとき、戦争、内乱、クーデター、戦国時代に逆戻りだ。
言論の自由は、戦争、内乱、内戦、暴力革命を必要のないものとし、無意味なものとする力を持っているのだ。
暴力と犯罪を肯定するものは、国家を破壊し、人類を破壊し、人類が築き上げた平和と安全を破壊する犯罪者なのである。
すべての人間が暴力と犯罪に反対し、話し合いによる解決を目指さなければならない。
これをしないなら、その人間は国家にあだなし、人類にあだなす、世界を破壊する者なのだ。
政治の浄化、19,5,12
政治の最大の役目の一つは、国民から税金を徴収し、国民のために税金を使うことだ。
国民から税金を徴収することと国民のために税金を使うことは同等に重要なことだ。
我々国民は役人から厳しく監視され税金を払う。
しかしながら、税金を使う政治家や官僚は誰の監視も受けない。
誰の監視も受けないとき、使う本人の利益になるように税金を使うということになりがちだ。
税金はあくまでも国家国民のために使うべきだ。
税金の使い道を明らかにし、それを国民が監視するべきだ。
腐敗や汚職はカネがらみのものがほとんどだ。
税金の使い道を明らかにすることで政治は浄化される。
官僚の天下りの問題も税金の使い道を明らかにするなら改善されるだろう。
天下り問題は、むかしから問題とされ続けているが一向に改善されない。
よく政治家がガラス張りの政治を叫んでいるが、誰も税金の使い道を公開しようとしない。
税金の使い道の公開はガラス張りの政治の第一歩だ。
政治を浄化したいなら情報公開以外の方法はないと思う。
特にカネの収支は絶対だ。
テレビで誰も税金の使い道の公開を要求しないのが上思議でならない。
犯罪の温床、19,5,12
カネの使い道が分からない場所は犯罪の温床になりやすいのだ。
上思議、19,5,12
ふしぎ、が、上思議、と表示されてしまう。
増税、19,5,13
今、消費税などでドンドン増税されていく。
もう、増税だけでは限界なのではないか?
政治家は税金を集めることに余念がない。
しかし、税金の使い道を考えることは、ほとんど手付かずだ。
税金は効率的に無駄なく使わなければならない。
これは公開して国民全体で考えなければならない問題だ。
税金の使い道が丸分かりとなれば、無駄も賄賂も丸分かりとなる。
ただ、税金の使い道をインターネットにアップするだけで、大幅に無駄も賄賂も減るだろう。
そうすれば増税も回避されるかもしれない。
あの手この手で役人は税金を集めるが、それと同じ熱量で懸命に税金の使い方を考えれば大幅な経費削減ができる。
自分のカネを使うとき、人は無駄使いを極力避けようとする。
しかし、他人がカネを払うなら大盤振る舞いとなってしまう。
税金は国民のカネである。政治家や官僚のカネではないのだ。
国民が自分のカネの使い道を考えるとき、本当に効率的な使い方ができるのではないだろうか。
100人が100人、19,6,1
税金の使い道をインターネットで公開することに国民は100人が100人賛成するだろう。
税金を情報公開することでの国民の上利益はまったくないと言っていいからだ。
むしろ、国民のカネである税金の使い道を国民自身が知らないことはありえないことだ。
なぜ、何に使われるかも分からない巨額の税金を国民は払い続けなければならないのか?
国民は税金を払い、そして、何に使われているか領収書を受け取り、その使い道を厳しくチェックしなければならない。
そうしなければ、税金が国家国民の利益以外に使われる可能性が大だ。
政治家や官僚も税金の使い道を公開することに、もし適正な使い方をしているなら異論はないはずだ。
国民が紊得する税金の使い方をしているのなら、国民も権力者も誰も反対しないだろう。
100人が100人(2)、19,6,1
誰もが賛成する。
そして、国家国民の利益に100%なることをやらない理由はない。
国民の紊得する税金の使い方をするためには情報公開が最初の一歩なのだ。
上利益、紊得、19,6,1
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
原則、19,6,2
軍事機密のようなものは別として、
国民に公開できないような税金の使い方をするべきではない。
税金は国民のカネである。
国家国民の利益のために使うべきだ。
国民の紊得する使い方をする必要がある。
税金は国家の主権者である国民のカネである。
国民が紊得できない支出は、国民のカネを使うべきではない。
まず、税金の使い道を公開するべきだ、それが民主化への道なのだ。
詐欺、19,6,3
犯罪賛成派は私が国民を騙しているというが、
国民を騙しているのは犯罪賛成派の方ではないだろうか?
犯罪賛成派は国民を騙し続けてきた。
そして、私が本当のことを言った。
本当のことを言われた犯罪賛成派は非常に苦悩している。
私は誰も憎んでいない。
もちろん、暴力や犯罪を憎んでいる。
しかし、特定の個人や団体を憎んでいるわけではないのだ。
特定の個人や団体を攻撃しているわけではない。
私は私で中立な立場で本当のこと、正しいことを言おうとつとめてきた。
本当のこと、正しいことを抜きに良い社会を作ることはできないからだ。
詐欺師は自分のことを詐欺師とは言わない。
だから、私が詐欺師か、それとも、犯罪賛成派が詐欺師かは、国民一人一人の判断に委ねるしかない。
本当のこと、19,6,3
本当のことは強い。
むかしは天動説が信じられていたが、今は地動説が信じられている。
今後、天動説が信じられ、地動説が信じられなくなるということは考えられない。
本当のことを理解すると自分自身でも他人の力を借りてでも、元には戻れなくなってしまうのだ。
一部の宗教家、思想家の中には、本当のことを言って、今まで信じられてきたことを嘘だと理解させるのは、
文化の破壊だと言う者がある。
しかし、それは新しい文化の創造でもある。
今まで信じていたことが嘘だと分かると人間は大きな苦しみ苦悩に遭遇する。
しかし、そうやって人類は文明を進歩させてきたのだ。
それは宗教的にも思想的にも真実に近づくことであり進歩なのだ。
確かに信じてきたものが真実ではないと知ることは苦しい。
しかしながら、それに対し暴力で抗ったり犯罪行為で抗ったりすることは非常に愚かな行為ではあるまいか。
暴力と犯罪に反対することは、すべての宗教の共通認識ではないか。
正しく本当のこと、19,6,29
私が言い返すことのできないことを言うと言う。
それが残酷で卑怯だというのだ。
犯罪賛成派が私の言うことに対し言い返せないのは、
私が正しく本当のことを言っているからだ。
正しく本当のことを言ってはいけないのか?
正しく本当のことは言ってはいけないことではなく、言わなければいけないことではないか。
平行線、19,7,12
犯罪賛成派は自分たちにとって、そのことが搊か得かで判断する。
犯罪反対派は中立な立場を守り、そのことが正義か正義でないか、本当のことか嘘かでものごとを判断する。
犯罪賛成派と犯罪反対派は法律を守るか、守らないかで今対立している。
法律を守って、日本が法治国家になれば、犯罪賛成派は破滅である。
犯罪行為なくして犯罪賛成派は存続できない。
犯罪反対派は犯罪や隠蔽に迎合できない。
議論はもの別れ、いつまでたっても平行線だ。
この戦いは完全にどちらかが勝利するまで続くだろう。
この戦いに落としどころはないのだ。
場合によっては私の死後、百年でも二百年でも続くだろう。
日本が法治国家であることは、政治家、官僚、財界、一般国民、ほぼすべての人間がそれに賛成している。
口では、表向きは、
つまり、犯罪賛成派は言うこととやることが正反対の人間たちで、
犯罪反対派は言うこととやることが一致している人間たちである。
犯罪賛成派は搊得で判断し、犯罪反対派は中立な立場に立ち、何が正しいかで判断する。
この戦いは社会に混乱をまねき、多くの人間が搊をするだろう。
しかし、正義が通れば人類は進化し、大きな意味で人類は得をする。
正義、本当のこと、言行一致は人間の本質であり、滅ぶことはないだろう。
つまり、最終的には必ず犯罪反対派が勝つと決まっている。
ただ、それがいつになるかは分からない。
犯罪賛成派にしてみれば、この戦いは自分たちの存続をかけた戦いであり、
犯罪反対派にしてみれば、譲ることのできない正義の戦いである。
自分たちのすべてをかけた戦いであり、下がることはできない。
長期化が予想される。
搊、19、7、12
そん、が、搊、と表示されてしまう。
論点、19,7,13
犯罪賛成派は常に自分たちにとって搊か得かで考えている。
そして、犯罪反対派との対立も、犯罪反対派にある程度の利益を与えることで落としどころを見出そうとしている。
一方、犯罪反対派は常に中立な立場に立ち、正しいことは何か、本当のことは何かを考えている。
自分の搊得など、まったく関係ない。
犯罪賛成派と犯罪反対派は、論点がまったく違うのだ。
犯罪賛成派と犯罪反対派が分かり合うことは、この先も絶対にない。
話し合い、19、7、13
犯罪反対派が犯罪賛成派との話し合いに応じることはないだろう。
犯罪賛成派は、犯罪賛成派と犯罪反対派の利益、上利益を話し合おうとしている。
犯罪反対派は、中立な立場に立ち、何が正しいか、何が事実かを話し合おうとしている。
まったく話し合いにならない。
上利益、19,7,13
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
全体の利益と個人の利益、19,7,13
上正は良くない。
上正によって、利益を得るのは上正をした本人のみであり、国家全体ではマイナスなのだ。
正しいことを主張する人は少ない、なぜなら、正しいことを主張して自分が利益を得ることは少ないからだ。
私は犯罪に反対している。
多くの人は犯罪に反対することは正しいと思っているが、犯罪に反対することに同調することは難しい。
なぜなら、犯罪賛成派の弾圧に合うからだ。ときに命の危険さえ伴う。
自分の利益に反し、犯罪に反対することは、すばらしい勇気である。
心から感謝する。
犯罪によって得をする者は一部であり、国家全体、人類全体を考えるとき、犯罪は大きなマイナスなのである。
全体の利益を望むなら、犯罪に反対しなければならない。
しかし、個人の利益を望むなら、犯罪に反対しないことも選択肢の一つだろう。
国家国民、人類全体を良くし、みんなで幸せになることが理想ではあるが。
社会の混乱、19,7,13
犯罪賛成派と犯罪反対派の対立は社会に混乱を引き起こし、マイナスの影響がある。
しかし、犯罪反対派が勝つならば、国家国民、人類全体に大きな利益をもたらす。
国家国民、人類全体を良くしようとするならば正しいということは最も重要である。
正しいことを主張し、国民に秘密でなされていることを公開し、みんなが紊得できる国家を作ろうではないか。
主義主張、19、7,13
私は主義主張を押し付けているのではない。
自由に発言し、自由に話し合い、事実をみんなに明らかにし、みんなが紊得できる国家を作ろうとしている。
紊得、19,7,13
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
正義、19,7,16
犯罪反対派は正義を求めている。
何が正しいか、何が本当か、何が真実かを求めている。
それが犯罪賛成派には、まったく理解でいない。
犯罪賛成派によれば、人間は利益を求め行動するのである。
それはカネ、地位、権力、または、自分の怨恨の相手に復讐するためとかである。
犯罪反対派は利益を求めない、
求めるとすれば、国家国民の利益、人類の利益であり、自分や自分たちの利益を求めない。
犯罪賛成派にすれば、利益を求めない行動はありえないのであり、
もし、そんな行動をするのであれば狂っている狂人の行動なのである。
犯罪賛成派は問い続けている、犯罪反対派は何の利益を目的として行動しているのか?と。
犯罪反対派には目的はない、正しいと思うことを真っ直ぐに言うだけだし、ありのままの事実を言うだけだ。
それが国家国民の利益、人類全体の利益になると信じている。
自分や自分たちの利益を求めない。
これまでも、犯罪賛成派と犯罪反対派は、平行線で分かり合えなかったし、これからも、平行線だろう。
利益の分配、19,7,16
犯罪賛成派は調和をはかってきた。
ある者にはカネ、ある者には地位、みんなにそれ相応の対応をしてきた。
しかし、犯罪反対派との対立では、そんなことはできない。
犯罪反対派は利益を求めないからである。
犯罪賛成派の調和とは犯罪賛成派内の調和でしかない。
法律を守る一般人は蚊帳の外だからだ。
犯罪賛成派の利益の分配とは犯罪賛成派だけに利益を分配することだ。
一般人は関係ない。
今こそ、事実を一部の人間だけに伝えるのではなく、一部の人間に決定権を持たせるのではなく、
広く、国民全体に事実を伝え、国民全体でものごとを決定し、国家の利益を国民全体に分配するべきではないか。
広く、民主主義が広まる中、なぜゆえに、特権階級的一部の人間がいるのか。
なぜゆえに、特権階級だけに通じる法律を無視したルールが存在するのか。
ヤクザには法律を無視したヤクザだけのルールがあるように、特権階級のルールを認めて良いのか。
国家の最高ルールは憲法であり、法律であるべきではないか。
今こそ、みんなが事実を知り、みんなが自由に発言し、話し合い、みんなで決定することが必要なのではないか。
カネ儲け、19,7,17
カネを儲けることは、合法的に儲けるなら、何の問題もない。
野球選手は何億ものカネを儲けるが、儲け過ぎだから、そのカネを分配しろとはならない。
合法的にその人の才覚で手にしたカネは当然、その人のカネだ。
誰にでも合法的にカネを稼ぐ権利は同等にある。
経済的平等など、ナンセンスだ。
苦労した者、才能がある者、責任ある仕事をした者が平均より多くのカネを稼ぐのは当然だろう。
私が問題にしているのは税金などを上当に使ったりして、カネを稼ぐ者である。
合法的に正大公明にカネを稼ぐなら、何の問題もない。
上当、19,7,17
ふとう、が、上当、と表示されてしまう。
共産主義社会、19,7,17
税金で上正行為をした人間が肥え太るのは共産主義社会そのものだ。
犯罪行為、19,7,20
敵の犯罪行為であれ、味方の犯罪行為であれ、私が犯罪を許すことはない。
我々の最終目標は暴力と犯罪をなくすことなのだ。
私は30年間、毎日、犯罪賛成派から投薬を受け続けてきた。
本人の意志に反し投薬を強制的にすることは立派な犯罪行為であり、傷害事件なのだ。
このような重大傷害行為を過去、現在、未来、継続的に続けて行く、
犯罪賛成派を止めなければ日本の未来、人類の未来はない。
崩壊、19、7、20
この社会は私が暴力と犯罪に反対することで成り立っているのだ。
もし、私が目には目をと言って、
暴力には暴力で犯罪には犯罪で立ち向かえと言ったら、たちまち社会は崩壊してしまう。
誰も安全ではいられなくなる。
今の最悪の状態を変えるには、私だけではなく、一般の国民全員が暴力と犯罪に反対する必要がある。
私は誰か特定の人間の犯罪に反対してほしいと言っているのではない。
敵味方、すべての犯罪に反対するべきだと言っているのだ。
犯罪賛成派は犯罪反対派に暴力を振るわせようとしている。
犯罪反対派までもが犯罪に染まれば、すべての人間が犯罪者となり、この国は地獄絵図となる。
犯罪賛成派は自分たちが犯罪者と呼ばれるのがいやなのだ。
だから、すべての人間を犯罪者にしようとしている。
すべての人間が犯罪者になれば、自分たちが犯罪者として責められることはないからだ。
もちろん、すべての人間が犯罪者となれば、この国は地獄絵図となる。
すべての国民を犠牲にしても、犯罪賛成派は自分たちの罪から逃れようとしている。
犯罪賛成派は追い詰められているのだ。
すべての犯罪をやめさせて社会を安全にしようとする犯罪反対派と
すべての人間を犯罪者にして自分たちの責任逃れをし、社会を崩壊させ、国土を地獄絵図にしようとする犯罪賛成派。
どちらが正しいかは一目瞭然だ。
暗黒、19,7,20
犯罪賛成派は相手を下げて、自分たちの責任逃れをしようとしている。
つまり、犯罪賛成派は違法な手段で犯罪反対派たちに犯罪行為を強要しているのだ。
一方、犯罪反対派は、犯罪行為をやめさせ、真っ当な道に犯罪賛成派を戻そうとしている。
ここで悪が勝てば、国家は崩壊する。
有力者と国民、19,7,28
犯罪賛成派は有力者に利益を与え、自分たちの味方につけて犯罪反対派を抑え込もうとしている。
一方、犯罪反対派は国家国民全体の利益、国民一人一人の幸せを考え、国民一人一人に助けを求めている。
国民一人一人に助けを求めるとは、国民一人一人に敵味方関係なく犯罪行為に反対してほしいということだ。
一部の有力者が利益を得る国を作るのか、
それとも、国民一人一人が幸せになる国を作るのか、
二者択一だ。
犯罪行為による独裁か、それとも、法治国家の下の民主主義か、である。
死刑宣告、19,8,2
仕事をしている人間をクビにすることは死刑宣告に等しい。
その人間が人生を賭けてやってきたことをすべて否定することになるからだ。
そして、金銭的にもお金が入らなくなる、生活費がなければ生活できない。
本人はもちろん、やしなっている家族がいるならば一家全員が路頭に迷う。
よくリストラされて、精神を病んでしまう人や自殺する人がいる。
仕事をしている人間にとって、クビを斬られるのは死より苦しいとも言える。
上司の立場を利用してクビをちらつかせ、人間に様々なことを強要する人間がいる。
自分の言うことを聞かなければクビを斬ると言うことは、最大のパワハラであり、非人道的、最低の下劣な行為である。
なぜなら、首にナイフを押し付け、命令し、様々なことを強要する犯罪者と変わらないからだ。
最下級の人間である。
もしも、権力者がクビにすることを脅し文句に国民に言動を強制するならば、最悪の事態となる。
憲法で保障されている言論の自由が完全否定され、法律が否定される。
国民に発言権はなく、話し合いもない、民主主義の完全崩壊である。
ただあるのは、支配する者と朊従させられる者である。
恐怖に満ちた独裁政治の誕生だ。
殺されたくないから仕方なく朊従する独裁国家。
仕事を失いたくないから仕方なく朊従する独裁国家。
どちらも、夢も希望もない悲惨な状況であることは変わりない。
そうなれば、国家は終わりだ。
発展はなく、行き詰まり、国民の心は暗く、国土は荒廃する。
我々を幸せにするのは、発言の自由であり、話し合うことの自由である。そして、行動の自由だ。
のびのびとした自由の空間にこそ、発展と幸せはあるのだ。
朊従、19,8,2
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
家畜、19,8,6
殺されないために朊従する人も、
仕事をやめさせられないために朊従する人も、
完全に人間扱いされてない。
ムチを打たれ働かされる、ただの家畜だ。
発言権もない、話し合うこともない、ただただ朊従。
善悪の判断をすることさえ許されない、ただ朊従するだけの生き物。
自分の意見を持つことさえ許されない、基本的人権以前の隷従である。
人間としての自由を得て、幸福を味わいたい。
暴力と犯罪で意見することすらできない、奴隷的隷従。
我々はみな対等な人間であるべきではないのか。
民主主義、19,8,6
みんなに対等な発言権があり、みんなが対等な立場で話し合う、
そして、対等な決定権を持ち、最終的には多数決でものごとを決める。
それが民主主義であり、民主主義とはみんなが等しく参政権を持つことである。
ところが今、発言することすら許されない。
社会には当然上下関係があり、上司と部下、先輩と後輩などがある。
しかし、人間としては、我々は対等であるべきではないか。
殺す、仕事をクビにするなどと言って発言権を奪うべきではない。
暴力と犯罪で発言権を奪うべきではない。
自由に発言し、自由に話し合い、決定権はみな平等にある。
それが、民主国家であり、民主国家が発展して行く基礎である。
自由がなければ、才能は伸びない。
人間の幸福は自由の中にあるのだ。
亡国のとき、19,8,20
この戦いは、法治国家であり、民主国家である、日本国と日本国民を守る戦いなのだ。
この戦いに負けるならば、この国は独裁者、犯罪者の所有物となってしまう。
犯罪国家となり、日本の地位は地に落ちるだろう。
我々は立ち上がらなければならない。
その方法は、暴力と犯罪に反対することだ。
自分自身にも他人にも、暴力と犯罪を許してはならない。
もし、私が暴力や犯罪を指示することがあれば、みんなで一致団結して反対してほしい。
信念、19、8,20
私はいつ、犯罪賛成派の強要により、暴力や犯罪を指示するか分からない。
犯罪賛成派の強要により、自殺するかもしれない。
犯罪賛成派の拷問により、いつ、操り人形になるか分からない。
そのときは必ず、一致団結して、私に反対しなければならないのだ。
決して、私に従ってはならない。
私に反対できない人間、反論できない人間はダメな人間だ。
人はおのれの信念に従って生きるべきだ。
私を信用するな。
腐敗させないシステム、19、10、19
すばらしい人間をリーダーにすることで政治腐敗をなくすことはできない。
その人間が替わったとき、また腐敗が始まってしまうからである。
重要なのは政治が腐敗しないシステムを作ることだ。
どんなペテン師がリーダーになっても腐敗しないシステムを作ることである。
どんなペテン師がリーダーになっても腐敗しないシステムとは情報公開である。
国民を監視し取り締まるシステムはあるが、政治家を監視し取り締まるシステムがないのが今の現状である。
政治家を取り締まるシステムとは情報公開である。
政治家が何をやっているかを公然とし、それを国民みずから取り締まる。
まず、情報公開は、税金の使い道を公開することから始めなくてはならない。
インターネットにより、すべての税金の使い道を公開すること。
すべての税金の使い道を公表し、国民が誰でも閲覧できるようにすること。
国民のカネである税金の使い道を知ることは、国民の当然の権利である。
税金の使い道を国民が知り、監視するなら、大幅に政治腐敗がなくなる。
非公開は腐敗の温床なのである。
素晴らしい人間をリーダーにするより、政治腐敗ができないシステムを作ることが重要なのである。
公開の義務もなく、リーダーが国民の容認もなく決めるシステムでは腐敗はなくならない。
むしろ、腐敗しない方が上自然である。
政治家を情報公開し、国民みずから監視するシステムが必要である。
リーダーを替えることは、ただの首のすげ替えに終わる可能性大である。
上、19,10,19
ふしぜんの、ふ、が、上、と表示されてしまう。
脱税、19,10,30
ときどき、脱税事件で有吊人が世を騒がしている。
脱税は被害者が特定の個人ではないだけで、言ってみれば一種の盗みなのだ。
盗みは許されない。
しかしながら、税金を取ることばかりが話題になっている。
税金を取ることと同様に重要なのが、税金を使うことだ。
税金を違法に使うこと、または、到底、国民が紊得できない使い方を政治家がするならば、
それは盗みだ。
盗難は許されない。
違法に使われた税金は被害者たる国民に返還するべきであり、幾重にも国民に謝罪するべきである。
このような厳しい税金の取り立てがあるのに、税金の使い道は誰も監視しないし取り締まらないとはあまりに上公平。
早急に税金の取り立てと同じく、厳しく、税金の使い道を取り締まることが重要である。
日本は法治国家であり民主国家である。
その国民のカネである税金を違法な用途に使ったり、国民が紊得できないことに使ったりすることは重大犯罪である。
税金の使い方を主権者である国民が知ることができるよう、監視することができるようにすることは急務である。
税金を払わなかったり、税金を違法に使ったりすることは、特定の個人を害することがないから甘く見られがちだが、
人のカネを盗んでいることに、なんら変わりはないのである。
盗人を許す社会であっては、法治国家とは言えない。
有吊人、19、10、30
ゆうめいじん、が、有吊人、と表示されてしまう。
ふこうへい、が、上公平、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
インターネット、19,11,5
インターネットでゲームをやるのだが、私が吊前を出してないのに、
みんな、私が誰だか分かっているようなのだ。
そして、みんなで私をターゲットに嫌がらせが始まる。
インターネットゲームでもそうだが、ps4などでもそうだ。
チャットをするときもそう、みんなで嫌がらせだ。
ps4では、インターネットではなくローカルでも上具合が生じる。
ソニーに電話でそうだんすると、そんな現象は起こりませんと言われる。
起こりませんと言われても、目の前で起こっているゲームの異常を否定しようがない。
私は現実の世界でも嫌がらせばかりされるのだが、ネットでも嫌がらせだ。
薬と人の嫌がらせが同時に行われている。
ヤフーのホームページ,トップ、検索画面、ニュースが書いてある画面に
デカデカと西田敏行がドラックで逮捕まじかだと目を隠した誰もが西田敏行と分かる写真と共に出ていた。
(吊前は出てない。)
その後、それはデマだと分かるのだが、テレビでは個人のいたずらみたいなことを報道していた。
書き込みでデマを書き込むのは分かる、
しかし、ヤフーのホームページに明らかに西田敏行だと分かる写真をのせ報道することが、
一個人のいたずらなのだろうか?
ヤフーの宣伝部分での報道だが、ある程度カネもかかるのでは、
一個人がそんなことをするとは考えにくい。
ネットは操作されているのか、または、誰かが操作しようとしているのか。
救いなのはネットはテレビほど誰かが支配することは簡単ではないと言うことだ。
マスコミもネットも誰かに支配されているのなら、この世は暗黒だ。
事実が公平に報道されることで、法治国家と民主国家は成り立っているのだ。
吊前、上具合、19,11,5
なまえ、が、吊前、と表示されてしまう。
ふぐあい、が、上具合、と表示されてしまう。
神の創りしもの、19,11,19
神は現実を作った。
人間は理想を作った。
真理とは現実のことであり、事実のことだ。
事実を愛する人間は少ない。
人間にとって、現実を受け入れ紊得することは至難の業だ。
人間にとって、事実を受け入れ紊得する以外、幸福になるすべはないのに。
神によって創られたものを愛する以外に人間の救われはないのに。
冒涜、19、11,19
神によって創られし現実。
事実を非難することは、すなわち、神への冒涜である。
神を愛するとは、神によって創られたものを愛することに他ならない。
権力の空白、19,11,24
私には今の権力者を倒して、自分が権力者になる気などない。
というか、そんなことはできないだろう。
私には国をまとめる力はないし、政治的考えもない。
私は単に、犯罪行為をやめてほしいだけなのだ。
今の権力者が倒れるなら、権力の空白が生じる。
今の権力者に替わるほどの権力者はいないだろう。
非常に上安定な状態になるだろう。
そのことに上安を感じる人は多いと思う。
しかしながら、これ以上犯罪行為を続けることは上可能になりつつある。
私たちが法律を守り、話し合い、協力するならば、これを乗り越えることができる。
というか、乗り越えるしかない。
法律を無視するなら、収拾できない地獄が待つだけだ。
法律を守り、すべてをオープンにし、オープンな話し合いをする。
法律を守り、みんなが協力する。
これ以外に、民主国家はないのだ。
上安定、上安、上可能、19、11,24
ふあんてい、が、上安定、と表示されてしまう。
ふあん、が、上安、と表示されてしまう。
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
人の支配か、法の支配か、19、12、3
法治国家は、人が国を支配するのではなく、法律が国を支配する。
法の下の平等があり、言論の自由があり、国民は対等の立場で話し合い、協力して国家を作る。
民主国家は、法の下の平等と言論の自由が前提条件なのだ。
一方、独裁国家は人間による支配なのだ。
憲法に言論の自由が明記されているが、独裁者は法律を完全に無視する。
独裁国家とは、法の支配ではなく、暴力と犯罪を使っての支配なのだ。
言論の自由が国民にあれば、独裁はできない、だから独裁者は暴力と犯罪を使って国民をコントロールする。
マスコミを支配し、インターネットでさえ支配しようとする。
言論統制だ。
独裁者にさからえば、裁判なしに殺害されたり、体調上良になったりする。
また、突然仕事ができなくなり、解雇されたり、左遷されたり、出世できなくなったりする。
また、毎日、嫌がらせをされたり、ストレスをかけられ、犯罪を強要され逮捕され、犯罪者に仕立て上げられたりする。
法律を無視した人の支配とは、暴力と犯罪での支配である。
我々は、法の支配か、それとも、暴力と犯罪の支配か、どちらかを選ばなければならない。
暴力と犯罪の支配を選べばメチャクチャになり、国家は荒廃する。
法の支配、民主主義を選べは国民は安全で幸せになる。
国民は幸せになるが、独裁者とその関係者は地獄に落とされる。
国家国民の繁栄を願うなら当然、法の支配、民主主義を選ぶ。
しかしながら、独裁者とその関係者は最後の最後まで徹底的に抵抗するだろう。
法治国家、民主国家が実現すれば、独裁者は終わりだからだ。
体調上良、19,12,3
たいちょうふりょう、が、体調上良、と表示されてしまう。
法か、犯罪か、19、12、5
我々は、法律の支配か、それとも、暴力と犯罪の支配か、二つに一つ、どちらかを選ばなければならない。
二者択一だ。
朊従、19,12,25
私に従う必要はない。
私に反対している個人でも団体でも、暴力と犯罪に反対するなら、私は全面的に賛成する。
我々は考えが180度違っても、暴力と犯罪に反対するならば、全面的に協力し合えるのだ。
個人の尊重は必要であるし、我々は多様性のある自由な社会を作るべきだろう。
しかしながら、個性の尊重と暴力と犯罪を認めることは別次元の話である。
暴力と犯罪を認める社会には決してならないし、してはいけないのだ。
反旗、19,12,25
私に反対し反旗をひるがえす団体を作り、法治国家、民主国家の実現を目指す団体があったとしても、
私はその団体を全面的に支持する。
正義、19,12,25
正義は人によって違う、法律も国によって違う。
しかしながら、殺人、傷害、盗みが悪であるということは、
世界の共通認識であろう。
朊従、19、12,25
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
協力、19,12,26
国を越え、人種を越え、民族を越え、
宗教を越え、思想、哲学、考え方の違いを越えて、
我々は、暴力と犯罪に反対するならば、我々は全面的に協力できるのである。
混乱の永続、20、1,2
表は法治国家、実際は暴力と犯罪の支配というような、
嘘を嘘で塗り固めた時代は終わった。
裏も表も法治国家となるか、それとも、裏も表も独裁国家となるまで、この混乱と争いは続て行く。
表は法治国家、裏は独裁という、今までの状態に逆戻りはできないのである。
正義の仮面を被った悪の時代は終わった。
これまで、何人の人間が犯罪に人権を侵害され、人知れず死んで行ったことか。
とにかく、嘘、隠蔽の時代は終わったのである、二枚舌はもはや通用しない。
堂々たる独裁国家か、堂々たる法治国家か、どちらかである。
我々は暗黒の時代を迎えるのか、それとも、光の時代を迎えるのか、どちらかなのだ。
もう、ばれた嘘は修正のしようがない。
真実、20、1,23
法治国家は認められない、民主国家などありえない、
言論の自由など、絶対に許すわけにはいかない。
この社会は嘘でできており、嘘がバレれば、この社会は崩壊してしまうのだ。
これが、犯罪賛成派の主張である。
犯罪反対派の主張は逆である。
本当の幸せは真実の中にある。
本当の現実を知り、行動する者のみが、建設的で現実的な希望の未来を作ることができるのである。
真実を知ること、事実を知ること、現実を把握することが、すべての始まりなのだ。
真実を避ける者は、何も正しい行いができない。
最低限、20,2,13
まず、暴力と犯罪に反対してほしい。
これは政治でも宗教でもない。
人間が安心して生きられる基本であり、人間として最低限ことだ。
主義主張ではない。
100人が100人賛成できるものであり、当然のことだ。
どんな政治家も思想家も、どんな人間も賛成できることではないか。
みんなが暴力と犯罪に反対しない限り、平和な日常などありえないのだ。
当然、幸福な生活などない。
圧迫、20,2,13
犯罪賛成派は暴力と犯罪で国民を圧迫しコントロールしている。
暴力と犯罪の圧迫に全国民が苦しんでいる。
この圧迫をやめさせないかぎり、この世界に未来はない。
みんなが苦しい、みんなが上幸だ。
上幸の根源は暴力と犯罪なのである。
上幸、20、2,13
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
歌うたいのバラッド、20,2,19
斉藤和義の歌うたいのバラッド。
嗚呼、歌うことは難しいことじゃない。
これは、すべてにおいて言えるのではないだろうか。
宗教、芸術、哲学さえも、本人にとっては難しいことじゃないのではないか。
技術がなくともどんなに拙い言葉でも、まっすぐに自分の言葉を語る。
それが、政治や宗教、哲学、芸術の最大の技術ではないか。
自分のこぼれる思いを口にする、その言葉が人を動かすのではないか。
むかし、凝縮された思想は詩になると読んだことがある。
思想家にとって思想とは詩なのだ。
学生の頃、涙を流しながらプラトンを読んだことが思い出される。
真理を求め、誠実に純粋にまっすぐに考えることがロマンティックなことだと感じた。
プラトンの死をも恐れぬすがすがしさが、心を刺す。
技術や難しさを重んじることに、まったく同意できない。
まず、20,2,21
まず、始めに、暴力と犯罪に反対してほしい、話はそれからだ。
話はそれからと言うより、暴力と犯罪が支配する世界に、正当な話し合いなどありえない。
暴力と犯罪が支配する世界には、正義も悪もない、ケダモノの世界だ。
言論の自由もなく、話し合いもなく、民主主義もない。
暴力と犯罪が支配する、ただの独裁だ。
みんな、ただただ、暴力と犯罪の言いなりになるしかない。
毒、20,2,21
私は犯罪賛成派に毎日、毒を盛られている。
こんな異常な犯罪行為を平気でするような人間たちがまともな人間のわけがない。
精神薬で私を怒り状態にし、周囲の人間に私に対し、いやがらせをさせ、私に暴力と犯罪を振るわせようとする。
薬で精神異常にして、その人間に暴力と犯罪を振るわせ、犯罪者に仕立て上げる。
これが犯罪賛成派のやり方なのだ。
このな卑劣極まりないことを日常的に毎日やる人間たちがまともなはずがない。
人間の皮を被ったケダモノたちである。
こんな人間たちが支配する社会は当然、暗黒である。
暴力と犯罪による解決より、正当な話し合いで解決しようとしなければ、いつまでたっても、
社会はがんじがらめだ。
精神薬で人をコントロールするなど、異常犯罪者集団である。
私も、今は、この放送があるから、自分の意見を言えるが、
この放送が終われば、殺される、または強制的に自殺させられる、または、犯罪者にされる。
犯罪賛成派は薬によって、継続的に人間を支配する、非人道的集団、ケダモノだ。
盗み、傷害、殺人をなんとも思ってない。
最低の人間たちである。
毒の支配、20,2,21
暴力と犯罪で人を支配する人間ほど、最低な人間はいない。
暴力と犯罪で社会が支配されるなら、もう終わりだ。
特に、精神薬や肉体的な薬で人間を苦しめ痛めつけ、朊従させようとする人間は最低の最低だ。
なぜ薬を使うか、それは、人の目にはその暴行が明らかでないからだ。
証拠も残らない。
犯罪賛成派は最も卑劣であり、卑怯者である。
事実が明らかとなれば、100人が100人、犯罪賛成派が卑怯で卑劣で悪の根源であることが明らかになるだろう。
犯罪賛成派に社会を支配させては、絶対にならないのである。
朊従、20,2,21
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
自由と指針、20,2,21
私の主張は、社会をどう変えるか、政治的指針を示すものではない。
今の社会は嘘を嘘で塗り固めた、偽りの姿だ。
それを壊し、自由でのびのびと発言できる、幸福と笑顔の社会を作りたい。
事実と真実に基づいた、みんなの本当の気持ちに基づいた社会を作りたい。
私はみんなが事実を知り、考え、話し合い、最後には多数決で決めた社会に異論を述べる気はない。
事実に基づき、自由に発言、行動できるようにするには、
憲法に規定されている言論の自由が上可欠である。
法律をみんなが守ること、それによって、嘘を嘘で塗り固められた、この社会は変わるのだ。
私は政治的思想を話しているのではない、問題はそれ以前のことにある。
なぜ我々は、犯罪と汚濁にまみれた、事実を事実と言えない、上自由な社会に生きているのか?
事実を事実と言えないのなら、みんなが本当の気持ちを言えないのなら、この社会は嘘と汚濁にまみれ朽ち果てるしかないのだ。
事実を事実と認め、間違いは間違いと認め、正しいことは正しいと認め、本音でみんなで話し合おうではないか。
自由に発言、行動することは、人間の幸せの根本ではないか。
まず、盗み、傷害、殺人に反対しよう。
人に薬を飲ませることは立派な傷害事件だ。
なぜ、薬で人間をコントロールすることが平然と行われる狂った社会になってしまったのか?
なぜ、暴力と犯罪に反対するだけで迫害されるような狂った社会になってしまったのか。
人間が守るべき最低限度のルールさえ無視されるような社会で、政治や宗教を論じてもまったく意味がない。
上可欠、上自由、20,2,21
ふかけつ、が、上可欠、と表示されてしまう。
ふじゆう、が、上自由、と表示されてしまう。
中立、20,2,21
私は誰にも肩入れせずに中立な立場で意見を言っていきたい。
私が激しく、暴力と犯罪に反対することは、中立な立場の人間として当然のことだ。
荒い言葉で罵るときも、私が誰かを憎んでいるからではない。
暴力と犯罪はみんなのため、社会のために利益にならないと思うからだ。
誰が言っても、正しいことは正しい、間違いは間違いだと言える人間が極端に少なくなってしまった。
中立な意見、正直な意見を言うことは、人類に貢献する基本ではないか。
暴力や犯罪を恐れて、誰も本当のことを言わなくなったら、人類は終わりだ。
権力を恐れず、中立な意見を言うことは、人から信頼を得る基本だ。
当然、20,2,21
至極当然な当たり前なこと言うと権力者に憎まれる。
権力者とは、そうしたものなのか?
一つの宗教、20、3,11
戦時中は自国の宗教のみが正しいのであり、他の宗教は間違っていると教えられていた。
しかし、自国の宗教も正しいし、他の宗教も正しいというのが本当だ。
自分の宗教を信じ、他人の宗教を尊重するのが正しい宗教のあり方である。
個性の尊重はとても大切なことであり、個性の尊重なしに人間の自由はない。
しかし、一人一人の違いを尊重することと同じくらい大切なのは我々の共通点を理解することなのだ。
人はみな同じである。だから、我々は分かり合えるのである。
人は千差万別であり、一人として同じ人間はいない、だから、この世界はおもしろいのだ。
みんなに共通すること、一人一人違う個性、この二つは車の両輪である。
どちらが欠けても、車は動かない。
宗教は事実に立脚している。事実は誰に取っても一つである。
それは物理学、経済学などの学問と同じである。
人間社会は、事実は誰に取っても一つである、この共通基盤の上に成り立っているのだ。
それなしには言葉さえ通じることはない。
全知全能の神は一つ、全宗教共通だ。
各宗教にそれぞれの神がいるわけではないのだ。
多神教には多くの神がいるが、全能神は唯一である。
ユダヤ教にはガブリエルと言う大天使がいる。
そして、キリスト教にもガブリエルと言う大天使がいる。
そして、イスラム教にもガブリエルと言う大天使がいる。
ガブリエルはユダヤ教、キリスト教、イスラム教共通の大天使であり、御使いなのだ。
多神教ではガブリエルのような存在を神としてあがめることがある。
神の御使い、大天使に従うことは、すなわち、全能神に従うことだからである。
決して唯一の神以外を神と呼ばないイスラム教徒でも、コーランを書いたガブリエルに従うことには賛成するだろう。
私は宗教を信じること、神を信じることを薦める者である。
しかし、無神論者を差別する者ではない、宗教信者より誠実な無神論者もいるし、
神を信じない人間がいることも、また、神の御心である。神が意図しないことは起こらないからである。
神を信じない人間には、神を信じない者にしか体験できない経験や学びがある。
私自身、神を信じない頃の経験や学びは重要だったし、今でも重要なのだ。
戦争と暴力、20,3,11
戦時中は戦争に行って、一人でも多く殺すことが重要であった。
しかし、今は、戦争に反対し、平和の重要性を説き、問題の解決は暴力ではなく、話し合いで解決することが重要である。
一人でも多く助け、幸せにすることが重要なのだ。
暴力で問題を解決しようとすることが、何と宗教とあい反することであろうか。
拡散の責任、20,3,17
私は自分の思想を世界に広めようとしたわけではない。
私は何の用意もなく、ただ、目の前の一人の友人と会話をしていただけだ。
それを、私の何の許可もなく、大勢の人間に放送した者がいる。
その人間の責任である。
あたかも、私が原稿を用意し、人を集め、または、メディアの電波にのせ演説したことから始まったように思っている人もいるが、
私には、私の思想を広める意志はなかったのである。
盗聴した者と盗聴された者、どちらの責任か、明らかに盗聴した者の責任ではないか。
私の思想が広まったことの責任は私にはないし、私はその責任を負うつもりもない。
私の意志で大勢の人間に演説したことで私の考えが広まったならば、私の責任だ。
しかし、事実はそうではないのだ。
この放送は、私の意志と関係なく始められた。
しかし、今は、この放送は私の命綱となっている。
この放送が終われば、私は犯罪賛成派から無制限に拷問されて、私は犯罪賛成派の奴隷にならなければならない。
この放送が終わった後の私の言行を絶対に信じてはならない。
そのとき、私は、犯罪賛成派の操り人形に過ぎないからだ。
責任、20,3,17
犯罪賛成派は私の思想が広まった責任を私の責任にしようとしている。
私の責任ではなく、放送、盗聴した人間の責任なのだ。
私は自分の考えを広めようとしないし、また、広まるのを止めようともしない。
求められれば話すだろうし、聞きたくない相手に話す気はない。
私の話が聞きたいのであれば、私は話すのが苦ではないし、
聞きたくない相手に無理やり聞かせようなどとまったく思わない。
盗聴、20,3,17
盗聴した人間が盗聴された人間に謝罪を求めるなど、バカな話だ。
普通は、盗聴された人間が盗聴した人間に謝罪を求めるのではないか?
盗聴2、20、3,17
盗聴した人間は、それを放送し、重大事件を起こしてしまった。
盗聴した人間は、その責任の重さを痛感するべきではないか。
盗聴し、それを放送しなければ、何もなかったのだ。
盗聴された人間、何も知らされなかった人間が、なぜ全責任を負わなくてはいけないのか????。
世界征朊、20,3,17
犯罪賛成派は、私が国を乗っ取るだとか、世界を支配しようとしているだとか思っているが、
そんなことはまったくない。
私はただ、友達との日常会話を盗聴されただけだ。
それに政治的話は一切していない。
私に野望はない、意図さえない、ただ、日常会話をしただけだ。
強制、20,4,16
事実を知りたいと言う人に、あえて黙り通すつもりはない。
すべてを包み隠さず話すつもりだ。
私の意見を聞きたくないと言う人に、あえて話すことはしない。
強制的に私の話を聞かせるわけにはいかないし、
真実を知りたい人間に話さない理由もない。
私には、私がどうしたいかが重要なのではなくて、相手がどうしたいのかが重要なのだ。
宗教、20、4、27
この世界には戦争があり虐待があり、病気があり貧乏がある。
格差があり、上公平がある。
全知全能の神はそれらすべてをすぐにでもなくすことができる。
ではなぜ、それらはなくならないのか?
神はいないからである。
神がいると考えることは相矛盾した非論理的考えなのである。
だから、多くの人は、神は人間の想像が作り出した嘘だと思っている。
宗教とは非常に奇妙な考えなのだ。
そして、奇妙なほどに神を信じる人は多い。
そして、何でも合理的に説明するすべてを見透かすような聖人賢者は神は存在すると言ってきた。
今こそ、宗教の論理的説明をしよう。
もし、人々が宗教を知りたいならば、
もし、人々が知りたくないなら、私が話をする必要はない。
上公平、20,4,27
ふこうへい、が、上公平、と表示されてしまう。
たった一つ、20、5、18
宗教には、たった一つの目的しかない。
しかし、世界には様々な宗教が存在する。
たった一つの目的とは無欲、無我になることだ。
無、20,5,18
無の境地が、なぜ、そんなに尊いことなのか分からない人が多い。
無とは何も無いこと、真っ暗闇を思い出すからだ。
宗教で言う、無とは、何も存在しない暗闇を言うのではない。
何の属性も持たない100%の白色の光の存在を言うのである。
何もない無、暗闇ではなく、100%純粋な存在、確かな存在を言うのである。
その状態で人間は最高の幸せを体験し、その体験は永遠に続く。
そして、その人間は周りを光で照らし、多くの人間を救うのである。
無我、20,5,20
無我になった者は、無限の愛を体験する。
一つの波が消え、海と一つになる。
自分は波だとの意識から、自分は海と一体であるとの認識を持つ。
人は自我意識をなくすことで宇宙と一体となるのである。
人は宇宙からいだかれ包まれる。
そして、宇宙をいだき、すべてのものを包む。
決して、孤独を感じなくなる。
これが最高の幸福である。
これが、神は愛なり、愛は神なり、という意味だ。
二つの道、20、5,26
宗教には大きく分けて、二つの道がある。
他力本願と自力本願である。
宗教のほとんどが他力本願であり、自力本願で悟るのは極めて少数の人間と言われている。
自力本願の道を歩むのはごく少数の能力の高い選ばれた人間と言われている。
他力本願は神、仏に救いを求める方法である。
神、仏の御力により悟りを得る。
他力本願は信仰の道である。
他力本願は肯定の道である。神を肯定し、神の創られた世界を肯定する。
すべてを肯定することで無欲になり無我となる。
自力本願は否定の道である。仏教の禅などがそれであり、般若心経などが自力本願の思想が色濃くでたお経である。
自力本願は信仰まで否定してしまう。
神、仏に救いを求めず、自分の力で悟りを開く。
仏に救いを求めず、仏は目標に過ぎない。仏のごとくに悟ろうとする。
ちょうどアスリートがレベルの高い選手を目標に鍛錬するように。
自力本願は、すべての否定、すべてがないと言う思想なのだ。
すべてが無いと実感することで無欲、無我の境地にいたる。
宗教の道は二つ、すべてを肯定するか、すべてを否定するか、である。
我々が普通、宗教と言うのは他力本願、肯定の道である。
他力本願の人が自力本願を学ぶのも、自力本願の人が他力本願を学ぶのも有益である。
事実、多くの他力本願の人が般若心経を唱える。
ただし、他力本願の思想と自力本願の思想をごちゃごちゃに学ぶと分けが分からなくなる。
また、他力本願の人が自力本願の人を非難したり、自力本願の人が他力本願の人を非難したりするのは無益である。
違法、20、5、28
安保法制が成立したことで、政治家は憲法違反の法律を作れることが明確化した。
憲法違反の法律を作っても、裁判所は何もできない、国民は憲法違反の法律を取り消してくれと裁判所に訴えることもできない。
私たちは憲法違反の法律は作れないと漠然と考えていたが、実際は憲法を無視することはたやすいのだ。
こうなると、憲法に何の意味があるのか?と問いたくなる。
ロシアでは政権に反対する人間が次々に殺されている、暗殺だと思われるが、
裁判所で裁かれないどころか、逮捕もされない、警察の捜査もない。
中国や北朝鮮でも同じようなことが行われていると考えられる。
法律の完全無視であり、法律がまったく意味をなさない。
法律が機能していることは、国民の安全安心に必要上可欠だ。
共産主義国が悲惨な運命をたどったのは、法律が機能しないのが大きな一因だと思われる。
だいたい、中国では憲法で言論の自由が保障されているし、
北朝鮮の正式吊称は朝鮮民主主義人民共和国だ。
北朝鮮は立派な民主主義国家なのだ。
言っていることとやっていることがまったく一致しない。
法律を守ることは当然だが、そんな当然のことができない。
法律さえ守れば、みんなで話し合い、多くの問題が解決する。
世界が混乱し悪化するのは、根本的に法律を守らないことに起因するのである。
必要上可欠、正式吊称、20,5,28
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
せいしきめいしょう、が、正式吊称、と表示されてしまう。
共産主義、20、5,30
共産主義国は一部の人間たちの独裁国家なのである。
みんなで決めた、法律を守る法治国家ではない。
共産党による独裁。
それが共産主義国、最大の悲劇なのである。
一部の独裁者が死刑と言えば、裁判もなしに死刑になる。
そして、独裁者自身は決して裁かれることはない。
法治主義、民主主義を軽んじることは、共産主義国の悲劇を現実のものとしてしまうのである。
自力本願、20,5,30
クリシュナムルティという現代の自力本願で悟った聖者がいる。
祈りも信仰も否定するという自力の道を説いた人だが、その人間の言うことに傷ついた人もいると思う。
クリシュナムルティは聖者だが、すべての人がクリシュナムルティに従う必要はない。
自力の道は苦しい、困難な道であり、決して一般の人間が歩める道ではない。
自力本願を尊重しつつも、他力本願の道を歩めばいい。
他力本願は、自力よりも遥かに楽な道である。
ただ、自力本願の聖者の説法は勉強になる。
他力本願は過程を積み上げて目的地に向かうというやり方だが、自力本願は即結論という感じの説法だ。
だから、自力本願の説法は宗教の目的を理解するためには非常に重要なのだ。
般若心経を多くの人が唱えるようになったのも、そこに結論があるためであろう。
しかし、自力本願の道は否定の道、祈りも信仰も否定される、つらい道、一般人向きではない。
そんな自力の道を必ずしも歩む必要はない。
自力の道は多くの人間には耐えられない道なのだ。
自力本願の説法を聞くと寒くなる、他力本願の説法は心温まるものが多い。
他力は自力に耐えられなかった人間の救いでもあるのだ。
自力も他力も目的地は同じなのだ。
すべての始まり、20,6,11
今の問題は、権力者が強権を発動したり、私が自分の意見を強行に主張したりすることで解決することは決してない。
国民が自由に発言し、話し合い、最後は多数決で決めることで解決する以外にない。
一部の人間や一人の人間が解決できる問題ではないのだ。
国民の全員参加で始めて解決する。
それ以外に国民を紊得させる方法はない。
国民が紊得しなければ、問題はエンドレスに果てしなく続いて行くのである。
国民を自由にし、国民が国を作り上げるしかないのだ。
国民を自由にするには、法律を守るしかない、言論の自由を保障するのだ。
権力者が国を作るだとか、指導者が国家を作り上げるだとかは絵空事だ。
あくまで、国民全員参加の国作りが求められる。
権力者が国民の自由を縛るなどあってはならない。
権力者は国民に安全と自由を保障することが役割だ。
国を作るのは、あくまで国民であるべきだ。
国民を自由にしても何も解決しないとも言えるし、すべてが解決するとも言える。
国民を自由にすれば、国民が無能ならば何も変わらないだろうし、
国民が優秀ならば、すべてが解決し、すべてが変わり、大きく国家は発展するだろう。
私は国民が権力者より指導者より優秀であると信じるし、実際、優秀だと思う。
私は自分の意見で国が形作られるなど、決して思わない。
国民一人一人の意見で国家は形作られ、国民の全員参加により国家は発展する。
一部の権力者や指導者が国家を作るなど、時代遅れであり、もはや、ありえないのだ。
紊得、20,6,11
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
暴力反対、20、6、13
私は一生をかけて暴力と犯罪に反対していく。
しかし、耐えられない拷問、激痛に耐えかねて、犯罪賛成派の言いなりになることはあるかもしれない。
私が、もし、暴力や犯罪を許したならば、絶対に私を信用してはならない。
私ときっぱりと縁を切ってほしい。
信用するな、20,6,13
この放送のおかげで、犯罪賛成派の究極の拷問は受けずにすんでいる。
この放送が終われば、犯罪賛成派は無制限に拷問をする可能性大である。
この放送が終われば、私の言うことやること、すべてが信用できなくなると考えた方が良いだろう。
追随、20,6,13
犯罪賛成派は自分の意見を主張するのではなく、
著吊な人間を操って、自分の信用性を高めようとしている。
みな、暴力と犯罪に屈朊していく。
私のことも、操ろうとしている、投薬による拷問によって。
たとえば、私に強制的に暴力や犯罪を振るわせ、私をおとしめ、自分の地位を相対的に上げようとしたり、
私に強制的に、犯罪賛成派に賛成させようとしたり、
暴力と犯罪による強制により、国民をコントロールしようとする、それが犯罪賛成派なのだ。
みな、暴力と犯罪に追随していく。
この放送がなくなれば、私も追随させられる可能性大である。
テロリスト、20、6、13
みな、暴力と犯罪に追随していく。
テロリズムとは、日本語で言えば、暴力主義である。
犯罪賛成派は、この意味において、テロリストの中のテロリスト、キング、オブ、テロリストである。
人間であるならば、少しでも良心があるならば、犯罪賛成派に反対して行こうではないか。
ビラまき、20,6,22
韓国から北朝鮮にまかれたビラに怒り、北朝鮮が逆に韓国へもビラをまこうとしている。
北朝鮮がビラをまきたいなら、心ゆくまでビラをまけばいい。
どんなに頭の良い人間が千人集まって罵詈雑言を考えだそうと、
事実に基づかない悪口は何の効果もない。
効果がないどころか、下品な言葉の暴力とさげすまれるだろう。
人に影響を与えるのは、事実に基づいた実のある言葉なのだ。
実のある言葉、真実の言葉のみが、相手を倒しえる。
ビラまき、20、6,29
権力者にとって、都合の悪い事実がビラに書いてあるなら、
権力者は全力で、そのビラを回収する。
個人のためか、人類のためか、20、7,3
自分のため、または自分の家族を守るため、自分が属する組織のため、と言う目的の人間が
犯罪賛成派には多いようである。
国家のため、全国民のため、全人類のため、と考えるなら、
人は必ず、犯罪反対派となるのである。
精神薬投与、20,7,4
精神薬を投与されているせいで、音楽も聴けないし、ゲームもできない。
暴力の支配、20,7,4
暴力と犯罪の支配により、犯罪賛成派は成り立っている。
暴力と犯罪がなくなれば、あっという間に、犯罪賛成派は崩壊してしまうのである。
国民が自由になることは、犯罪賛成派にとって死を意味する。
しかたがない、20,7,4
暴力と犯罪の支配はしかたがないことだと多くの人間が思っている。
暴力と犯罪に屈することは、どうしようもないことだと。
我々は暴力と犯罪に反対しようではないか、
暴力と犯罪のない自由な社会、
暴力と犯罪の支配ではなく、法の支配、法治国家を目指そうではないか。
このままでは、何も良い方向に向かわない。
共産主義国、20,7,5
共産主義国の指導者は国家全体、国民全体の幸せを第一としない。
もし、共産主義国の指導者が自分より国民を大切に思うなら、あんな地獄は生まれなかっただろう。
国家より自分、国家より自分の家族の安寧、国家より共産党が大切なのである。
国民の幸せを第一に考える国家指導者の下では、共産主義国のような地獄は絶対に生まれないのである。
ここで重要になるのが民主主義である。
国民みずから、政治をすれば、国民第一の政治が生まれる。
国民が国民の幸せを願うのは当然だからである。
国家の最高意思決定権は国民が持つべきである。
暴力革命、20,7,5
私は国民に事実を明らかにするべきだと思う。
そして、事実に基づき、犯罪賛成派は裁かれるべきだと思う。
犯罪賛成派だけではない、犯罪反対派も事実に基づき裁かれるべきだ。
もちろん、この私も裁かれるべきだ。
すべては事実を明らかにした上で、国民が判断するべきだ。
しかし、絶対に犯罪賛成派はこれに応じないだろう。
悪意はなかったにせよ、犯罪賛成派は許されない犯罪を犯した。
事実を明らかにし、国民の判断を仰ぐことは、犯罪賛成派には、死も同然だ。
犯罪賛成派は自分たちのやったことの責任を取ることは絶対にできないのだ。
事実を隠蔽し、永遠に嘘をつき続けるしかないのだ。
犯罪賛成派は許してほしいと言う、私は許す。
しかし、国民が許さないだろう。
それが分かっているから、犯罪賛成派は絶対に事実を明らかにしない。
徹底的に事実を隠蔽し、嘘をつき続ける。
犯罪賛成派は犯罪反対派に暴力革命を強要している。
犯罪反対派が暴力革命を起こせば、犯罪反対派を悪者にして、自分たちは助かると思っている。
暴力革命を起こせば、多くの国民の命が失われる。
犯罪反対派は絶対に暴力革命を起こさない。
国民の安全を守るためである。
犯罪賛成派は犯罪反対派に暴言を強要する。
犯罪反対派が暴言を吐けば、国民が傷つき、犯罪反対派を悪者にできる。そして、犯罪賛成派が助かると思っているのだ。
犯罪反対派は言葉で国民を傷つけるようなことはしない。
国民を守るためである。
犯罪賛成派を許すことはできる。私は。
だが、暴力を振るい国民の命を奪い、暴言を吐き国民の心を傷つけ、すべての罪を背負い死んで行くことはできない。
ここまで来たら、そんなことは上可能だろうし、国民を危険にさらしてはならないのである。
暴力を強要し、暴言を強要し、罪のない人間を犯罪者にでっち上げ、多くの国民を巻き込み、そして、自分たちは助かる。
そんな犯罪賛成派の考えに同意できない。
犯罪を犯し、犯罪者となり、悪者になって、すべての罪を背負って死に、犯罪賛成派を助ける。
そこまでの恩を私は犯罪賛成派に感じない。
私は犯罪賛成派に暴力や犯罪を振るわれても、暴力や犯罪で返すことは絶対にない。
だが、犯罪賛成派が極限の拷問、極限の痛み、極限の苦しみを私に課すなら、ありえるかもしれない。
そのときは、私との縁を切ってほしい。
だから、私は、この放送が終わったら、私を絶対に信用するなと言い続けるのだ。
隠蔽か、それとも事実の明白化か、20、7、7
犯罪賛成派は事実を隠蔽しようとしている。
一方、犯罪反対派は事実を明白化しようとし、その上で国民の議論、判断を仰ぎ、法的判断を仰ごうとしている。
人間は本能的に事実を知りたがる。
その意味で、犯罪賛成派の意見はかなり実現が難しいと思う。
事実を明らかにし、みんなで話し合い、みんなで判断することは、民主主義の基礎中の基礎である。
また、事実を明らかにし、法的責任を各人間に問うことは、法治国家の基礎中の基礎である。
その意味でも、犯罪賛成派の意見を通すのはかなり難しいと思う。
おそらく、事実を隠蔽することは失敗に終わるだろう。
事実を明らかにしない限り、この戦いは何十年、何百年たっても、終わらないだろう。
事実を知りたいと思うのが人間の本能だからである。
それに、事実に基づき、裁かれれば、誰でも紊得できるが、
まったく事実でない罪をかぶせられれば、何年たっても、紊得できない。
それは、本人も周りもだ。
おそらく、犯罪賛成派は実現上可能な目標に向かい努力している。
しかし、その目標に犯罪賛成派のすべてがかかっているのだから、これからもその努力は続くだろう。
その努力は絶望的である。
犯罪反対派は事実を明らかにしようとしている、正しいも正しくないも事実を明らかにしてからの話だ。
事実を明らかにすることは、犯罪反対派の根源的願いである。
そして、それは、人間の根源的願い、人間の本能でもある。
つまり、事実を明らかにすることは、すべての人間の根源的願いなのである。
犯罪賛成派の努力は何百年、何千年努力しても、失敗に終わるだろう。
正義感、20,7,12
正義感のある者を嫌う人間がいる。
確かに、正義感は、状態を悪くする場合もあるし、良くする場合もある。
細かな些細な間違えや小さなルール違反を咎められるのは、窮屈な世の中を作ってしまう。
寛容な心を持つことは重要なことだ。
また、些細な間違いを必要以上に怒ることは、住みよい社会、暮らしやすい社会を作るためにマイナスだ。
また、個人個人の考えは違っていて当然であり、誰かの正義は誰かの悪である場合もある。
他人の尊重は、より良い社会を作るため重要である。
明治維新の時は、幕府派、尊王攘夷派に分かれ戦っていたが、どちらが正義か分からない。
正義感で天誅と叫び暗殺を繰り返すことが、果たして正義だったのであろうか?
明治維新より現在では、個人の尊重はより重要であり、話し合いによる解決が求められる。
自分の正義感で突っ走ってしまうのは、非常に危険だ。
しかしながら、人はみな正義感を持つべきである。
罪なき子供を虐待したり、女性をレイプして殺したり、することは、誰が見ても悪であろう。
そして、それを止めることは正義だ。
この世界に善悪はないという考えは恐ろしい考えである。
もちろん、論理的に善悪の違いを説明することはできないが、
人々の心に問えば、十人が十人、百人が百人、悪であるもの、善であるものはある。
細かいことにこだわる正義感は必要ないが、大きな正義感は、人間にとって絶対に必要なものである。
犯罪者が正義を非難することは、ただただ自分のためであり、責任逃れである。
ただただ、自分の行為の責任を取りたくないだけだ。
法治国家、民主国家、日本国を否定する、他人も自分をも滅ぼす破滅的行為なのである。
事実の隠蔽、20,7,12
悪人が事実を隠蔽するのは当然の成り行きである。
自分の行為を公表すれば、法の裁きを受けなければならないし、確実に有罪である。
また、自分の行為を公にすれば、すべての人間から悪人だと言われる。
それが分かっているから、悪人は自分の行為を隠蔽する。
我々は正義と勇気を持って悪人に反対しなければならない。
もちろん、暴力と犯罪、悪人の卑怯な行為に負け、反対できないときもある。
しかし、我々は正義と勇気を忘れてはならないのである。
事実の隠蔽は、その行為が自他ともに悪であると認めたも同然なのである。
悪口、20,7,12
私は他人に対し悪口や中傷を言うつもりはない。
私は本当のことを言うだけだ。
犯罪を犯罪と言い、犯罪者を犯罪者と言う。
犯罪者であっても、事実をおおやけにし、自分の犯罪行為を反省している者に対し、犯罪者と言うのは、かわいそうだ。
しかしながら、犯罪賛成派は、今現在、犯罪行為の真っ最中であり、まったくこれからもやめるつもりはない。
犯罪行為を国民全員でやめさせるべきだ。
犯罪行為をやめさせるには、事実を明らかにするしかない。
事実をおおやけに明確にすれば、犯罪行為は終わる。
犯罪賛成派は、隠れて犯罪を犯す卑怯者なのだ。
犯罪賛成派は自分がさんざん犯罪行為を犯しながら、他人の犯罪を取り締まる、そして、犯罪は悪いことだと口では言い続けているのである。
犯罪は悪いことだ、取り締まるべきだ、やめさせるべきだ、暴力はいかなる理由があろうと許されないと犯罪賛成派は言う。
そして、自分は現在進行形で犯罪を犯し続けている。
犯罪賛成派は大嘘つきであり、卑怯者である。
私は悪口を言っているのではない、事実をありのままに言うだけだ。
薬物投与、20,7、12
私が眠れないのも、頭痛がするのも、息苦しいのも、すべて犯罪賛成派の薬物投与によるものだ。
このような卑劣な行為で人を操ろうとするのではなく、
堂々と自分たちの意見を主張すればいい、堂々と議論すればいい、国民を自分たちの説明で紊得させればいい。
自分たちのやっていることは悪いことであり、国民を紊得させることはできない、そういう自覚が犯罪賛成派にはあるのだ。
だから、薬物投与で苦しめたり、上当に仕事をやめさせたり、嫌がらせをしたりして国民を従わせるしかないのだ。
暴力と犯罪に頼る以外に、犯罪賛成派に生き残る道はないのだ。
こんなことで国民を従わせて何の意味があるのか?
こんなことをいつまで続けるつもりなのか?
これを悪と言わずして、何が悪なのか?
紊得、上当、20,7,12
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふとう、が、上当、と表示されてしまう。
詐欺、20,7,14
犯罪賛成派は、私にだまされたと言っているようだが、
それならば、いかに私にだまされたかを国民に説明し、紊得してもらえばいいのではないか。
あくまでも重要なのは、みんなで事実を明確にしていくことだ。
そして、明確になった事実にもとづき、みんなで話し合い、みんなで判断することだ。
私が詐欺師であり、みんなが私にだまされているなら、それを説明すればいい。
犯罪賛成派が私にだまされ被害にあったならば、それを説明すればいい。
重要なのは事実が何であるか、であり、みんなで話し合い決めることだ。
絶対に忘れてはならないのは、国家の最高意志決定権を持つのは国民であるということだ。
もし、犯罪賛成派が本当に正しいならば、事実を隠蔽することも、国民を無視して物事を決めることも、
暴力も犯罪もまったく必要ないのではないか?
国民全員に事実を明らかにし、国民全員で話し合い、国民全員で判断し決定する。
それが民主国家である。
事実を知るのも一部の人間、話し合い決定するのも一部の人間では、独裁国家だ。
犯罪賛成派は暴力と犯罪で事実を隠蔽し、暴力と犯罪で国民を従わせ、
法治国家、民主国家を崩壊させようとしているようにしか思えない。
暴力革命、20,7,14
犯罪反対派は、暴力革命を絶対に起こさない。
国民全員が事実を知り、国民全員で話し合い、国民全員で判断し決定する。
そのことを訴えるのみだ。
暴力と犯罪はまったく必要ないのだ。
社会を変えたいのなら、自分の意見を言い、みんなで話し合い、判断し、社会を変えればいい。
民主国家には、暴力も犯罪も必要ない、暴力革命もまったく必要がないのだ。
暴力革命が必要だった時代は、みんなで話し合って決めることができない時代のものなのだ。
吊目上、20,7,16
先進国は吊目上、法治国家、民主国家となっているが、果たして、事実上の法治国家、民主国家なのだろうか?
少なくとも、犯罪賛成派は、自分の国が法治国家、民主国家ではないと思っている。
犯罪賛成派は、法治国家、民主国家などというものは、何も知らない国民の幻想であり、
事実は一部の人間が支配する、ありありと犯罪が横行する国家なのだ。と思っている。
なぜ、犯罪賛成派は犯罪行為をしても捕まらないのか?そして、なぜ、報道さえされないのか?
なぜ、犯罪賛成派は、事実を国民の前に明らかにし、国民の審判を仰ごうとしないのか?
先進国が法治国家であり、民主国家であったならば、何も問題はなかっただろう。
先進国が法治国家であり、民主国家であったならば、すべてがスムーズだっただろう。
先進国が法治国家であり、民主国家であったならば、こんなに腐った社会になるはずがない。
先進国が法治国家となること、民主国家となることがすべての解決策であり、
唯一の希望だ。
先進国が法治国家、民主国家にならなければ、すべてが悪化し、何も解決できない。
吊目上、20、7,16
めいもくじょう、が、吊目上、と表示されてしまう。
和解、20,8,3
私は犯罪行為に反対している。
過去の犯罪はともかく、現在進行形で行われている犯罪行為をとめることが唯一の解決策だと思うからだ。
ところが私を非難する人間がいる。
私が犯罪行為に反対することで、犯罪者と犯罪に反対する人の対立を煽っているというのだ。
私が犯罪者、犯罪反対者の両方がお互いの立場を理解し、お互いに尊重し、仲良くしろとでも言えと言うのか?
そんなことはありえないし、それでは何の解決にもならない。
アメリカでは人種差別反対派がデモを行っている。
そして、人種差別主義者と人種差別反対者の対立が起こっている。
これに対して、差別主義者、差別反対者はお互いの立場を尊重し、互いの主義主張を尊重するべきだとでも言えば良いのか?
明らかに違うだろう。
差別は良くない、差別のない平等な社会を目指すべきだろう。
そして、自分の考えを暴力や犯罪行為で実現しようとすることに反対するべきだろう。
差別反対者が差別主義者の主張をどう尊重しろと言うのか、
そんなことはありえない。
あくまで、我々は差別のない平等な社会を目指すべきであり、その実現のために暴力や犯罪という方法は絶対に許されないということだ。
愛と正義、20,8,4
犯罪賛成派は犯罪者を許してほしいと言う。
それが愛だと。
犯罪者は裁きを受けたくないし、自分の行為の責任を取りたくない、
その気持ちを分かってやり、受け入れてやるのが愛だと。
愛の反対が正義なんだと。
私はまったく賛成できない、愛と正義は反対のものではない。
犯罪者は自分のやったことを認め、反省し、罪をつぐなうべきだ。
そして、人々は罪をつぐなった人間を許し、受け入れ、更生を助けるべきだ。
犯罪の野放しは犯罪者に取っても上幸である。
国家も国民もそれでは紊得しないし、受け入れられない。
犯罪者は自分の罪をつぐなってやり直すべきだ。
それが犯罪者自身のためであり、国家のためであり、国民全体の利益である。
犯罪者をそのまま許すのが愛ではない、罪をつぐなわせ、更生させるのが愛なのだ。
犯罪を野放しにすれば、すべての人間が上幸になる。
上幸、紊得、20,8,4
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
仲介、20,8,9
人種差別主義者と人種差別反対者との対立がある。
この問題を解決するには、公正で中立な判断が求められる。
仲介者がまず求められるのは、人種差別は間違いであり、差別のない社会が正しいと宣言することだ。
それが、中立で公正な意見と言うものだ。
犯罪者と犯罪反対者の対立があれば、
仲介者は、まず、犯罪行為は誤りであり、法に従わなければならないことをハッキリ宣言するべきだ。
仲介と言うと両者の意見を尊重し、互いを尊重させ和解させると言うイメージがあるが、
中立公正な判断として、どちらが間違えか、どちらが正しいか、をハッキリ宣言する必要がある場合もあるのである。
その上で、問題解決のために、暴力や犯罪は決して用いてはならないことを両者にきつく言うべきである。
中立公正な判断で仲介しなければ、問題は永遠に解決しない。
人種差別を肯定して、社会は平穏になるだろうか?
必ず、争いは残るのである。
犯罪行為を肯定して、社会は平穏になるだろうか?
すべてがメチャクチャになってしまう。
特に立法府の人間や司法関係者がそのような態度だと、国家、社会はメチャクチャになってしまう。
立法府の人間や司法関係者の犯罪行為は重大であり、国家が破綻しかねない。
法律を作る人間や法律で取り締まる人間が法律を守らないのであれば、他人の犯罪を非難できない。
誰も法律を守らなくなるし、法律で取り締まる人間を軽蔑するようになる。
そもそも、法律で取り締まる資格さえないのだ。
重大犯罪、20,8,9
国民から税金を徴収し、その税金を私的に流用したり、違法に使ったりすれば、これ以上重大な犯罪はない。
税金を払うことがまったくの無意味になってしまう。
無意味というより、犯罪に加担しているようなものだ。
そのような上正があるならば、過去にさかのぼり、全額国民に返金するべきである。
そのような人間に税金を徴収する資格はないのだ。
上正、20,8,9
ふせい、が、上正、と表示されてしまう。
唯一の要求、20,8,14
私の唯一の要求は、犯罪賛成派が現在進行形で行っている犯罪行為をやめてほしい、ただそれだけだ。
しかし、犯罪賛成派は天と地がひっくり返ろうと犯罪行為をやめないだろう。
犯罪行為をやめれば、犯罪賛成派は終わりなのだ。
生きている限り、犯罪賛成派は犯罪行為と共にある。
犯罪を犯し続けることが、犯罪賛成派の命と言ってもいい。
永遠に消えぬ炎、20,8,22
イエス・キリストは自分の言葉は永遠に力を失うことはなく、永遠に滅びないと言った。
暴力反対、犯罪反対の主張も永遠に滅びぬ炎である。
時間が経過すればするほど、人々の心に広く、深く、永遠に消えぬ炎として燃え続けるだろう。
イエス・キリストの言葉は永遠に滅びることはない、
しかし、今だにイエス・キリストは詐欺師だとかペテン師だとか言う人間がいる。
イエスの言葉と世の人の戦いはいつ終わるのだろう。
少なくとも、二千年は終わってない。
犯罪反対派と犯罪賛成派の戦いはいつ終わるのだろう、私には予想もできない。
法治国家、民主国家、20,8,25
私は法治主義、民主主義に賛成している。
共産主義国はまったく民主主義ではないし、法律はないも同じ、独裁者の命令で裁判なしの処刑も日常だ。
私は共産主義国に賛成できない、非常に非人道的国家であると思うからだ。
共産主義国よりも、だいぶましであるが、
表向きは民主国家、実状は独裁、表向きは法治国家であるが、実状は犯罪が支配している社会にも当然反対している。
私は共産主義国に反対であるが、
自由主義国と呼ばれる国であっても、権力者が犯罪を犯せば、国民が一丸となって糾弾するべきだと考える。
独裁と犯罪に反対したい。
私は中立でありたい。
保守派、20、9,18
私は政治的な意味では保守的な人間である。
革新ではない。
賛否両論あることでは、変えない方を選ぶ。
しかし、ながら、確実に変えた方が良いと思うことは変えようとする。
先進国に限って言えば、法治国家、民主国家であるべきだ。
それがみんなの利益となる。
だいたい、犯罪賛成派自体が、先進国は法治国家、民主国家であるべきであり、
犯罪は咎められるべきであると常々言っている。
法治国家、民主国家は犯罪反対派だけの主張ではない、犯罪反対派、犯罪賛成派、双方共通の主張なのだ。
ただ、犯罪賛成派は行動と主張が正反対なだけだ。
犯罪を咎めることが正義であることは、犯罪反対派、犯罪賛成派、双方、紊得済みのことなのだ。
少なくとも表向きは。
犯罪行為を咎めなければならないということは、先進国全体の一致した考えなのである。
国家国民の一致した考えを推し進めて行こうとするのが犯罪反対派の行動なのである。
犯罪行為を咎めるのが正義、犯罪行為を継続して行くのが悪であるというのは、犯罪反対派、犯罪賛成派、双方の意見であり、
また、全国民一致の考えなのである。
犯罪反対派はとっぴな考えや政策を実行する人間たちではない。
全国民が正義と思うことを実行し、悪と思うことを改善する人間たちなのである。
誰もが正義と思うことを実行し、誰もが悪と思うことを改善することが、社会を良くすることであると思う。
このことを差し置いて、社会が良くなることは絶対にない。
誰もが正義と思うことを実行し、悪と思うことを改善すれば、この社会は劇的に良くなる。
誰もが正義と思うことがなされず、悪と思うことが改善されないから、世界は暗黒であり、何をやってもうまくいかない。
誰もが正義だと思うことを実行する、それが世界を暗黒から光へと変える第一歩であり、必要上可欠の政策なのである。
このことがなされるなら、世界は劇的に変化するのだ。
そのことはみんな、百も承知ではないか。
それを、我々人類はあきらめてはならないのだ。
紊得、20,9,18
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
必要上可欠、20、9,18
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
忠誠心、20、9,30
もし、戦争があり、召集令状がくれば、私は戦争へ行く。
いくら国の命令だからといって、戦争に反対しないわけにはいかないから、
刑罰を受けても戦争には行かないと言う人間がいる。
その考えが悪いとまでは言わないが、私とは違う考えだ。
あくまで国家の命令に従うというのが私の考えである。
国家に従い、主権者たる国民に従うのが私の考えである。
だから、非合法な命令には決してしたがわない。
おおやけの場で声を大にして言えないような命令に従う必要はない。
日本は法治国家であり、民主国家なのである。
その最高法規である憲法に、憲法に反する命令は無効と書いてある。
基本的人権、言論の自由は保障すると書いてある。
非合法な命令に従うことは国家に対する裏切りであり、国民に対する裏切りである。
国家に忠誠を尽くすということは、法律を守り、国民の意見に従うということだ。
民主国家の王、元首とは国民である。
それが、国民主権の意味なのである。
国法を守り、国家の正式な命令に従い、国民の意見を尊重することが、国家に忠誠を誓うことなのだ。
非合法な命令に従ったり、おおやけの場で堂々と言えない裏の命令に従ったりするのは、
国家を裏切ることであり、国民を裏切ること、国家の主権者を裏切ることなのだ。
国家に忠誠を誓い、国民に忠誠を誓う、それには最高法規である憲法に従うのが大前提だ。
国を愛し、国家に忠誠を誓うとは、主権者たる国民を尊重し、法律を守ることなのだ。
国民の正式な承認を得ない、非合法な命令に従うのは、国家を裏切る卑怯な行為だ。
国民ではなく、一部の権力者に従うことは、国家に対する裏切りである。
国家に忠誠を誓うなら、正大公明な法律に従い、一部の権力者ではなく、主権者たる国民全員の総意に従うべきなのである。
非合法な命令に従うな、独裁者に従うな、法律に従え、国民に従え、
それが愛国ではないか。
国民の自由と幸せを思うことが愛国である。
一部の権力者の非合法で内密な命令に従うことは、恐ろしい反逆なのである。
政界と一般社会、20,10,1
政治の世界のルールと一般国民のルールは違う。
政治の世界と一般国民の世界は別々であることが今までの常識であった。
しかし、インターネットなどの情報通信機器の発達により、政治の世界、権力者の世界が丸裸になる時代が来ている。
国民が承認できないことは廃止される。
当然ながら、非合法なものは廃止される時代となる。
一般社会では通用しないが、政治家の世界では通用するということがなくなる。
一般国民が認めないことは政界でも認められないという時代が来ているのだ。
この国のこと、この社会のことは権力者が決めるのではなく、国民みずから決める時代となる。
主権者は国民であり、政治家や官僚は公僕であるという建て前が、建て前ではなく、現実のものとなる。
芸能界の世界、政治家の世界、一般国民の世界、たくさんの世界に分かれていたものが一つとなる。
国民の承認を得ないものは当然廃止される。
当然、非合法なものは廃止されるのだ。
一般国民には秘密にされていた、芸能界や政界、裏の社会が白日の下にさらされ、淘汰される。
闇が白日に照らされることにより、社会は確実に良くなるのだ。
永田町の常識、20,10,2
永田町の常識は国民の非常識と言われてきたが、それも、もう終わる。
国民の非常識は永田町でも非常識となる。
ごく普通の人間が裁かれる正規の法律でどんな権力者も裁かれる。
法の下の平等、法治国家の実現が現実のものとなる。
法の下の平等、誰でも法律を犯せば、法律で裁かれる、そんなの当たり前ではないか。
それが国民の常識である。
シラス国、20,11,1
日本はシラス国といわれる。
民主主義は、第一に事実を知らせることから始まるからだ。
事実を知り、それをおのおのが考え、話し合う、そして、多数決で決める。
今、シラス国に反対する人間が多い。
事実を知られると困る人間は、絶対にシラス国とあい入れない。
行いが悪いものは、自分の行為がおおやけになることを拒否する。
犯罪者は自分の犯罪が知られることに恐怖する。
日本は事実を国民に知らせることから始まる国なのだ。
それなしには、問題を考えようがないし、話し合いようがないし、何かを決めることはできないからだ。
国民が一つにまとまるためには、事実を知らせることは必要上可欠である。
たとえば、税金の使い道を国民に知らせることは当然のことではないか?
国民がカネを払い、まったく使い道が知らされないのはおかしなことである。
税金を紊めないと逮捕されるのに、税金を何に使っても許されるではフェアーではない。
血眼になって権力者は税金を徴収するのに、まったく使い道については知らされない。
しかも、税金の使い道を国民に知らせることは簡単にできる、国のホームページで誰でも見れるようにするだけだ。
国のパソコンに帳簿はあるのだから、簡単にSNSで知らせることができる。
政治家が何をやっているか、官僚が何をやっているか、我々国民は知るべきである。
それが民主主義の第一歩だからだ。
国民に事実を知らせ、国民が紊得できる政治をし、国民がこの国の行く末を決める。
それが国家繁栄の第一歩となる。
国民は一体化できるのだ。
嘘、または事実の隠蔽は国家に対する反逆であり、国民に対する裏切りである。
なぜ、日本がシラス国と言うのか。
それは、知らせることが国家繁栄の基盤であり、豊な国造りの第一歩だからだ。
大和とは大きな和、みんなが対等に話し合い、みんなが紊得できる国家を作る国だからだ。
倭とは、人に委ねる。すべて国民に委ねる、民主国家を指す。
我々は対等な参政権を持ち、対等に話し合い、みな和合し、国を作るべきである。
今、私たちは対等な参政権を持っているだろうか?
国民ではなく、一部の権力者が決めているように感じるのは私だけだろうか?
これは、間接民主主義の弊害である。
国民は国民が国家の決定権を持っている感覚がないのだ。
民主主義を実現するには、どうしても、間接民主主義から直接民主主義へのゆるやかな移行が必要である。
その第一は、国民に事実を知らせることだ。
直接民主主義と言うと国民が直接決定するように思うが、第一に大切なことは、事実を知らせることなのだ。
平和と安寧、国民の一体感、安心、それが大和の国、倭の国、シラス国だ。
なぜ日本は、国民全体で決めるのではなく、一部の人間が事実を知り、国家の行く末を決めるような国となってしまったのか。
今まではしょうがなかったのかもしれない。情報通信機器が発達普及していなかったからだ。
SNSは、直接民主主義の要素を実現することができるツールとなりえる。
今は動画も撮れるし、それを世界に発信できる。
SNSを使い、事実を記録し、発信し、みんなが事実を知ることのできる世界にして行こうではないか。
日本太古に言われた、シラス国、大和、倭、が実現できる時代へとなっているのだ。
必要上可欠、紊める、紊得、20.11.2
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
おさめる、が、紊める、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
長い戦い、20,11,11
犯罪反対派と犯罪賛成派の戦いは、私が生きている内には終わらないだろう。
私の死後も長く続く問題だ。
この戦いは、正しさとこの世の都合の戦いとも言えるだろう。
正しさは人類全体に、そして長期的に良い影響をもたらす。
悪は、権力者など富んでいる者の利益となり、短期的には良い場合もある。
正しさにより、今の社会システムが崩壊すれば、国民全体が上安定な状態になることもある。
しかし、長期的には正しさは全人類にとって利益となるのだ。
人類の状態が悪くなる原因は悪にあるからだ。
環境問題や戦争、社会上安、極端な貧富の格差、などは、一人一人が正しい行いをしていればありえないことだ。
まず、悪と戦うためには、法律を守ること、情報公開、政治の透明化などを進めるしかない。
犯罪をなくし、情報公開をすれば、今の社会システムは崩れる。
今の権力者は大きな上利益を被る。
だから、権力者は必死に抵抗するだろう。
国が二分して戦えば、国の状態は悪くなる。
今の社会システムが崩壊するならば、国家全体が上安定になるだろう。
しかしながら、正しいことをすることは、長期的、全体的には必ず人類の利益となるのだ。
私のことをペテン師と言う者がいる。
私の死後も多くの者が私を罵るだろう。
イエス・キリストの死後2千年、未だに多くの人がイエス・キリストをペテン師と言う。
それを思えば、私が死後も罵られるのは当然とも言えるのかもしれない。
ただ、私の上正の証拠を何も見つけることはできないだろう。
上安定、社会上安、上利益、上正、20,11,11
ふあんてい、が、上安定、と表示されてしまう。
しゃかいふあん、が、社会上安、と表示されてしまう。
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
ふせい、が、上正、と表示されてしまう。
勝利、20,11,15
イエスは、私は世に勝ったのです。と言った。
果たして、イエスは世に勝ったのか。
正しさと真実がいつか勝利することは確実だろう。
それは、いつになるのか。
ただ、それまで戦いが続くことは確実だろう。
悪が勝利して、みんなが紊得するわけがないからだ。
善が勝利するまで分裂と戦いは続くのだ。
平安は善が勝利するまで訪れることはないのだ。
正しさと利益、20,11,15
今、正しさとこの世の利益が戦っている。
多くの人が正しいことであっても、自分が上利益を被るのがいやなのだ。
しかし、最終的には正しさが勝つだろう。
それは、人間の心が最終的には正しさを選ぶからだ。
そして、それは、長期的、全体的には人類全体の利益となるのだ。
利益優先の正しさを無視した行動こそが人類を滅ぼす道なのだ。
利益優先を自然は許さないし、宇宙は許さない、そして、人の心が許さないからだ。
紊得、上利益、20,11,15
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
バラバラ、20,11,17
犯罪賛成派は言う、犯罪行為で国家をまとめなければ、国家はバラバラになってしまうと。
国をまとめるには、犯罪行為、国民に公表できないシステムは必要上可避だと。
国をまとめることは重要なことだろう。
しかし、それを犯罪行為で、国民に公表できないシステムでする必要はないのではないか。
実際、犯罪行為、国民に非公表な政治で、たくさんの悪事が国家にはびこっていることは誰にも否定できないだろう。
今まで、犯罪行為、非公表なシステムで国家をまとめ上げてきたにしても、
これからは、合法的な国民に賛成される方法で国家をまとめる必要があるのだ。
国家を犯罪以外の方法でまとめることはできないと言う意見に賛成できない。
と言うより、なんで犯罪行為、国民に公表できないシステムでしか国家を運営できない腐った国に成り下がったのか。
国民の目の前で堂々と国家をまとめることができるはずだ。
犯罪行為を肯定すること、国民に秘密裏にすることで、たくさんの国民に言い訳のできない犯罪、悪事、黒歴史が生まれた。
すべてを公表し、今こそ、堂々たる正義の国を作るべきだ。
優れた国民が国を作れば、優れた国ができるだろう。
内部でこそこそと一部の人間が動かす国は終わりにするべきだ。
二つに一つ、20,11,18
我々国民は、二つの内、どちらかを選ばなければならない。
犯罪賛成派か、それとも、犯罪反対派か、だ。
犯罪賛成派は表向きは法治国家、民主国家を標榜し、
実際は、犯罪行為による独裁国家を推進する人間たちだ。
犯罪賛成派にとって、法治主義、民主主義は机上の空論である。
絶対に現実にはならない。
法治主義、民主主義を信じるのはバカであり、子供であり、ただの空想家だ。
犯罪行為なしの国家運営など、実際はありえない。
国家をまとめるのに、話し合いなどで決まれば苦労はない、現実は独裁でまとめる以外にないとの考えだ。
一方、犯罪反対派は、法律に従った民主国家が国を発展させ、国を団結させると信じている。
犯罪賛成派は表向きは犯罪反対であり、絶対に公然と自分の考えを主張したりしない。
犯罪反対派は、公然と自分の考えを主張する。
犯罪賛成派は言っていることと、やっていることが正反対だ。
犯罪反対派は、言行一致の人間である。
犯罪賛成派は犯罪反対派を犯罪行為で弾圧する。犯罪反対派は、正論の言うのみだ。
私は犯罪反対派である。
法治国家を信じ、民主国家を信じ、誰でも自由に自分の意見を言える正義の国を打ち立てたいのだ。
法治国家、民主国家は実際に存在することを証明し、誇り高き国を作りたいのだ。
すべての人が自由で安心できる幸せの国を。
和の国、20,11,25
日本は和の国である。
国の指針は国民の話し合いで決められる。
決定権は一人一票、どんな国民も無視されることはない。
個人個人は適材適所、すべての国民の協力で運営される。
それが大和と言われる由縁である。
決して、一部の人間が決め、その強制的命令によって支配される国を作ってはならない。
独裁、強制、命令、朊従、
どれも大和にふさわしくない。
改善、20,11,29
環境問題の改善、貧富の差の改善に意味がないとは思わないが、
この世界が悪くなる根源的問題は、誰も正しいことを言わない、やらないということにあるのだ。
その意味において、言論を犯罪行為で弾圧するのは悪の根源である。
正しいか悪いかを判断し、正しいこと言う、正しいことをやることですべては良くなるのだ。
それが世界を改善する根本的対策である。
犯罪賛成派が環境問題を訴えていることに対し、非常に矛盾を感じる。
今、倫理的問題、宗教、人が正しいことを言い、行うことがないがしろにされていると感じる。
環境問題を改善するために空き缶を拾うことは誠に結構なことであるが、
人々が正しい言動をすることなしでは根本的解決にはならない。
空き缶を拾うことで目に見えて環境は良くなるが、
正しい行いをすることで目に見えて世界が良くなるとは限らない。
むしろ、正しい行いをすることで、社会は上和になり悪くなるとも思える。
しかし、我々は正しさが、この世界を改善する根本的解決策であることを忘れてはならないのである。
イエスは、私が平和をもたらすために来たと思ってはならない、むしろ分裂です。と言った。
イエスは、今まで行われてきた当たり前の行いについて正しくないと証し、対立を生みだした。
イエスのもたらしたものは分裂であり対立であり争いなのだ。
当然、社会は荒れた。
イエスの改善とは、分裂、対立、争いを乗り越え、何が正しいかを見極め、
人々が正しいことを言い、行う、ことで根本的改善を目指すことだったからである。
それには時間がかかるのだ。
イエスは、短期的平和より長期的平和を目指した、表面的解決より根本的解決を目指した。
我々は、イエスが、平和より分裂をもたらしたという事実を忘れてはならないのである。
上和、20.11.30
ふわ、が、上和、と表示されてしまう。
暴力対正論、20,12,10
この戦いは、暴力対正論の戦いである。
物理的力とソフトの戦いと言ってもいい。
これまでの時代、暴力、犯罪、権力が必ず勝ってきた。
もし、今、正論が勝つならば、
新しい時代が来たしるしとなる。
新時代の到来を願おうではないか。
イエスの死、20,12,10
イエス・キリストは暴力と権力によって殺された。
もし、今、イエスが現れたなら、殺されはしないだろうと多くの人間が言う。
言論の自由が憲法で保障されているからだ。
しかし、憲法で言論の自由が規定されている中国では、大勢の人間が処刑されている。
他の国ではどうだろうか?
宗教の話をしただけで処刑されるのだろうか?
どうか、イエスが再び現れても、イエスを殺すような世界でないように、
今、願う。
犯罪賛成派に殺されたイエス、21,1,8
犯罪賛成派のやっていることは、イエスを殺したユダヤ人とまったく同じだ。
彼らは、真実より、人の言い伝え、嘘を好んだ。
そして、彼らは、非暴力より、暴力を好んだ。
真実が何かを議論、熟考するより、暴力で真実を殺すことを選んだのである。
暴力による真実の隠蔽。
暴力による事実の隠蔽である。
イエスの教えの真実が分かる前に、徹底的な暴力によって、イエスの真実を隠蔽しようとした。
みんなが権力を恐れず、暴力を恐れず、犯罪を恐れる必要のない言論の自由の中で考え、議論すれば、
我々はイエスの言葉を理解することができたのである。
それなのに、自由よりも、権力による弾圧、暴力、犯罪、隠蔽を彼らは好んだ。
これは、イエスに対する反逆、神に対する反逆である。
二千年のときを越え、彼らは再び、イエスを殺害したのである。
今、暴力に反対する者、犯罪に反対する者、隠蔽に反対する者、自由を求めるものが、
キリストなのだ。
拷問、21、1,8
私は今、ひどい拷問を受けている。
投薬による拷問である。
犯罪賛成派は拷問によって、人々を支配しようとしている。
拷問により、人に犯罪を強要し逮捕し、犯罪者に仕立て上げる。
犯罪反対派は犯罪行為をしない。
しかし、犯罪賛成派のヒドイ拷問に耐え切れず、犯罪行為を犯してしまうことはある。
犯罪反対派の犯罪行為の責任は、すべて犯罪行為を拷問で強要する、犯罪賛成派にある。
精神薬で暴力的になる薬を大量投与されれば、誰だって暴力的になる。
犯罪賛成派にとって、人に殺人を犯させることさえたやすいのだ。
犯罪反対派の暴力や犯罪は、犯罪賛成派の投薬によって作り出されているのだ。
犯罪反対派が暴力で世界を変えることはありえないのだ。
私は人を集めて暴力革命を起こすことを犯罪賛成派の拷問によって強要されている。
暴力革命を扇動しているのは犯罪賛成派なのだ。
また、何度も、自殺を強要されている。
限度を越えた拷問を受けるなら、私は自殺するしかないのだ。
だから、犯罪賛成派を信用したり、従ったりしては絶対にいけない。
この放送がなくなったら、私は自殺するか、犯罪者になるか、しかないのだ。
拷問、殺人、隠蔽、21,1,8
犯罪賛成派が好んで取る手法が、拷問、殺人、隠蔽である。
犯罪賛成派は犯罪反対派を殺したくてうずうずしているのだ。
しかし、理由もなく犯罪反対派を殺すことはできない。
そこで考え出されたのが、犯罪反対派による暴動を扇動することである。
犯罪反対派が集まって暴力革命、暴動を起こせば、それを理由に、犯罪賛成派は大量虐殺を正当化できる。
暴動を鎮圧するためにやむを得ず殺害したことにするのである。
犯罪反対派は絶対に暴力革命で世界を変えるようなことはしない。
もし、それが起こるとすれば、犯罪賛成派の画策である。
犯罪反対派の暴力は必ず鎮圧される。そして、犯罪反対派が悪いことになる。
それが犯罪賛成派の計画だ。
犯罪賛成派の犯罪行為も犯罪反対派の暴力行為も、犯罪賛成派の責任なのである。
なぜなら、それを作り出したのは、犯罪賛成派だからだ。
犯罪賛成派は人に拷問で犯罪行為を強要する。そして、逮捕、投獄、殺害する。
犯罪賛成派の強要によって起きた犯罪が、犯罪賛成派の暴力を正当化することに使われる。
ここに私は宣言する、私は暴力、犯罪を犯さない、自殺しないと。
それを私がしたときは、100%犯罪賛成派の強要だと思っていい。
私は暴力革命には絶対に反対だ。
拷問で人に犯罪行為を強要し、それを鎮圧し、自分は正義の味方気取り、
本当に最低の人間である。
目がおかしい。21,1,8
犯罪賛成派の投薬で目がやられ、もう、書くことができない。
思う壺、21,1,9
暴力や犯罪を犯してはならない、そんなことをすれば、犯罪賛成派の思う壺だ。
もし、犯罪反対派が暴動や暴力革命を起こせば、犯罪賛成派は飛び上がって喜ぶだろう。
これで犯罪賛成派は犯罪反対派を殺害する口実ができたと。
犯罪賛成派は投薬による拷問で無理やりにでも、犯罪反対派に暴力、犯罪を振るわせようとしている。
暴動、暴力革命は言語道断である。
暴力や犯罪を犯すことは、ただ単に、犯罪賛成派に味方をするだけだということを理解してほしい。
非暴力、21,1,9
暴力や犯罪を犯すな、そんなことをすれば、犯罪賛成派の思う壺だ。
私は暴力、犯罪、ましてや、暴動、暴力革命には絶対に反対だ。
平和の道、21,1,11
非暴力の道は、ときとして暴力の道より、辛く険しい耐えがたい道かもしれない。
しかし、世界の平和を思うなら、人間の幸せを思うなら、非暴力を貫かなければならない。
イエスを聖人と崇めるのなら、
暴力を振るわない、犯罪を犯さないということは基本中の基本である。
そして、もちろん、暴力を振るう者、犯罪行為を行う者には協力しない、従わないというのが
イエスの示した道である。
しかし、普通の人間にとって、暴力を振るう者が怖くて暴力に従う、
犯罪行為が怖くて犯罪者に従う。
権力が怖くて権力者に従うというのは、仕方のないことなのかもしれない。
イエスを模範とすることはできるが、
イエスと肩を並べることは、とてもできない。
しかしながら、暴力に従うこと、犯罪者に従うこと、権力に従うことは、決して人間の正しい道とは言えないのだ。
正義に従うこと、神に従うこと、真実に従うことこそが正しい道なのだ。
明確なライン、21,1,11
暴力や犯罪行為を振るう者、
それに協力し、従う者。
暴力や犯罪行為に反対する者、
それに協力し、従う者。
これが善と悪との戦いなのだ。
これが反キリストとキリストを分ける明確なラインとなる。
神に反逆するもの神を冒涜する者と神に従う者の明確なラインである。
終始一貫、21,1,11
暴力と犯罪に反対することは、これまでもこれからも変わらぬ。
私の終始一貫した主義主張である。
ドメスティックバイオレンス、21,1,12
私は犯罪賛成派の薬物投与によって、毎日、暴力を振るうように仕向けられている。
暴力的になる精神薬、肉体的薬、どちらも使われているようだ。
犯罪賛成派は家族に暴力を振るうように強要している。
私がDVをすれば、私の賛同者が減ると思っているようだ。
私の推測だが、これは私だけではないだろう。
犯罪反対派の多くのDVが犯罪賛成派の薬物投与によって引き起こされているのだ。
薬を投与されれば、家族を殺すことも十分ありえる。
そうやって、犯罪反対派の評判を下げる作戦に出ている。
今のままでは犯罪賛成派が100%悪く、犯罪反対派が100%正しい。
これを崩すために、投薬により、暴力や犯罪を強要し、犯罪反対派の暴動や暴力革命も画策している。
犯罪反対派の暴力を求めているのは犯罪反対派ではない、犯罪賛成派なのだ。
そのために多くの犠牲者が出ている。
犯罪反対派の暴力は必ず、その人間の意志か、それとも犯罪賛成派の投薬のせいかを疑わなければならない。
暴動や暴力革命は必ず犯罪賛成派の画策である。
なぜなら、犯罪賛成派は犯罪反対派一人一人の言動を把握しているからだ。
そのくらいの捜査能力を犯罪賛成派は確実に持っている。
何もかも知っていて、暴力革命が起こるのを待っているのだ。
犯罪反対派の暴力も犯罪も、そして、暴動も暴力革命も、その裏には犯罪賛成派の投薬と暴力による強要がある。
この世界の暴力と犯罪を引き起こしているのは暴力を振るう本人ではなく、投薬を行っている犯罪賛成派の場合が多くある。
この世界の何パーセントが犯罪賛成派の投薬のせいなのか分からない。
自分にとって邪魔な人間は投薬をして犯罪者にしてしまうというのは犯罪賛成派の常套手段なのだ。
扇動、21,1,13
犯罪賛成派は犯罪反対派の言動をすべて把握している。
犯罪賛成派にとって、盗聴、盗撮はお手の物だからだ。
すべてを知った上で、犯罪賛成派は暴動、暴力革命を待っている。
もちろん、暴動や暴力革命を事前に潰すことは犯罪賛成派にしてみればたやすいことだ。
ところが暴動や暴力革命をとめようとしない、それどころか、暴動や暴力革命が起こるように犯罪反対派を追い詰めている。
意図的に犯罪賛成派は暴動、暴力革命を起こさせようとしているのだ。
暴動が起これば、武力で鎮圧し、犯罪反対派を悪者に仕立て上げる、それが犯罪賛成派の計画だ。
私は明確に暴力と犯罪に反対し続けている。
それで、苦しい中、暴力での解決の道を犯罪反対派は思いとどまってくれている。
私が暴力に反対しなければ、暴力対暴力、犯罪対犯罪で社会は大混乱になってしまう。
私が暴力に反対することで、今はかろうじて、社会は正気を保っているのだ。
それが犯罪賛成派には気に食わない。
なぜなら、犯罪賛成派にしてみれば、自分たちが悪者になるより、社会が崩壊して大勢の犠牲が出た方がましだからだ。
トランプは言葉で暴動を煽ったが、私は言葉で暴動を思いとどめさせている。
もし、私が暴力には暴力をとか、犯罪行為には犯罪行為で対抗することもやむを得ないとか言えば、
世界は崩壊してしまう。
誰も安全に暮らせないようになってしまう。
人の幸せには安全と安心が必要なのだ。
安全と安心には、暴力と犯罪に反対することは、基本中の基本である。
私は暴力と犯罪に非暴力で反対する。
それが社会のためであり、世界のためだと思うからだ。
それが人々の安全ためなのだ。
もちろん、非暴力は苦しい耐えがたい道である。
暴力で反抗する方が楽だと思う気持ちは十分、分かる。
しかし、私が暴力を認めることはない。
犯罪賛成派は、非暴力をいくじなし臆病者とバカにする。
犯罪賛成派は、人々の安全などまったく考えない、下の下の人間だ。
バラバラ、21,1,13
犯罪反対派はバラバラの人間たちだ。
その大勢のバラバラの人間たちが各自、暴力行為、犯罪行為を一斉にしだしたらどうなるだろう。
私が暴力には暴力で対抗するしかない。
犯罪行為には犯罪行為で対抗するのもやむを得ない、と言ったとしたらどうなるだろう。
社会の至る所で犯罪が起きてしまう、犯罪が正当化されてしまう。
悪いのは、暴力と犯罪の限りを尽くした犯罪賛成派たちなのだ。
もう我慢も限界、我々も暴力、非合法な手段を使うべきときだと言ったら、大変なことになってしまう。
暴力と犯罪に暴力と犯罪で対抗したい気持ちは分かる。
犯罪反対派はこれまで、一方的な犯罪被害者だったのだ。
このような状況で法律を守る必要があるのか?
相手が暴力と犯罪で攻撃するなら、我々もそれに対抗するべきではないか?
気持ちは分かる、気持ちは分かるが、そうなれば状況は一層深刻な事態となり、
大混乱となり、誰も事態を収拾できなくなる。
大混乱で大勢の犠牲がでる。
やはり、どんな理由があっても、暴力と犯罪を振るうべきではない。
辛い状況を耐え、国家国民のために、非暴力で暴力に立ち向かうしかないのだ。
それが、犯罪賛成派と犯罪反対派の明確な差なのだ。
犯罪賛成派は自分たちばかりのことを考え、まったく国民の安全に気を配っていない。
大変、21,1,21
今の権力者が倒れたら大変だと犯罪賛成派は言う。
それは大変だろう、明治維新も大変な時代だった。
大勢の人が死んだ。
しかし、それよりも大変なことがある。
人々が法律に従わず暴力や権力に従うようになってしまうことだ。
みんなが法律を無視して暴力や権力で争えば、この世は地獄になってしまう。
犯罪反対派は組織でもなければ集団でもない。
その人間たちが暴力には暴力、犯罪には犯罪で対抗したら、誰もとめられない。
あちこちで犯罪が起こり、大混乱だ。
犯罪反対派は犯罪賛成派が犯罪行為を行ったことを責めるだろうし、
犯罪賛成派は犯罪賛成派で、犯罪反対派の犯罪行為を責めるだろう。
お互い相手の犯罪行為を責め、そして自分たちも犯罪行為を行う。
この世の終わりだ。
この世界では力のある者が勝ってはならない。
正しい者が勝つべきなのである。
そうしなければ、問題は永遠に続く。
誰も安全に暮らすことができなくなってしまう。
事実を国民の前に明らかにし、
主権者たる国民の審判を仰ぐべきだ。
民主主義国の国家の王は、主権者である国民なのだ。
国民が事実を知り、考え、話し合い、判断を下す。
先進国はみな、法治国家であり民主国家である。
それを独裁国家、無法国家であると言って、誰が紊得できるだろうか?
維新、21,1,21
明治維新は倒幕によって成された。
その結果、多くの人間が死んだ。
暴力によって、幕府は滅んだ。
暴力で勝った者が国の主導権を握る、そういう時代だったのだ。
しかし、今は違う。
暴力は法律で否定されている。
言論の自由が法律で保障されている。
国家の主導権を握るのは暴力で勝った者ではない、国民の支持を受けた者だ。
現在の維新は、非暴力で犠牲者を出さず行えるものである。
法治国家、民主国家では、変革は平和の内に行われる。
誰も死なずに時代を進めることができるのが法治国家であり、民主国家であるのだ。
あらゆる変革が平和の内に、安心安全に行える、それが民主国家である。
今の時代、暴力は上必要である。
暴力、イコール悪とも言えるのだ。
法治国家、民主国家は、平和の内に、安心安全に、国家を改善し続けて行ける、すばらしいものなのだ。
平和、安心、安全に、我々は未来へと進んで行けるのだ。
紊得、上必要、21,1,21
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふひつよう、が、上必要、と表示されてしまう。
変えない、21,2,20
我々は世界を変えようとしていない。
我々は事実を明らかいにし、
現行の法律を有効なものにしようとしているだけなのだ。
今、事実は隠蔽され、犯罪行為、上正がはびこっている。
もし、国民が事実を知り、話し合い、決めることができるのなら、
こんなメチャクチャな世の中にはなっていないのだ。
当たり前のことが当たり前でないから、世界はメチャクチャなのだ。
現行の法律を守ること、それだけで、多くの問題が改善する。
上正、21,2,20
ふせい、が、上正、と表示されてしまう。
キリスト、21,2,22
今、キリストとは
暴力と犯罪に反対する者のことである。
そして、反キリストとは
暴力と犯罪に賛成する者のことである。
今、二千年前が蘇る。
議論、21,2,22
事実が明らかになるほど、犯罪賛成派の立場はますます悪化していく。
議論をすればするほど、犯罪賛成派の立場はますます悪化していく。
だから、犯罪賛成派は事実を明らかにしようとせず、徹底的に隠蔽しようとしている。
犯罪賛成派は議論をしない。
すべてを暴力と犯罪で封じ込めようとしているのだ。
学ぶことの重要性、21,3,1
人間にとって最も重要なことは学ぶことである。
学ぶことは最も尊く、奨励されるべき行動である。
だから、老子は、学を断たば憂なからん、と言った。
これだけ読むと分けが分からないだろうが、ちゃんとがてんがいく説明があるのである。
分からなければ質問すればいい。
質問し答える、質問し答える、質疑応答により理解する以外にないと思う。
このブログも分からないことがたくさんあるはずだ。
質問に私が答えるという形で、会話によって、私の宗教論や芸術論を説明できる機会があれば、ありがたいことである。
私の考えを説明するには、会話が最も適していると思う。
老子が、学を断たば憂なからん、と言うのを聞いて、老子は学ぶことに反対しているのだと思う人間はくるくるぱーだ。
なぜ、一歩踏み込んで疑問を持たないのか?
キリスト降臨、21,3,3
キリストはすでに降臨しているのだ。
キリストと反キリストの判断は簡単だ。
犯罪に反対するか、賛成するか、だ。
法律を尊重するなら、新時代はやってくるのだ。
法律を無視するなら、この世界は終わる。
歴史は繰り返す、21,3,4
キリストは犯罪行為によって殺されるだろう。
そして、犯罪者たちは、自分たちこそが本当のキリスト教徒だと主張するだろう。
自分たちが殺したのはキリストではなく、異端であったと。
異端を犯罪行為で殺すことは、何の罪にもならないと。
歴史は繰り返すと言うが、キリスト殺害の歴史は繰り返してほしくないものだ。
決断、21,3,13
権力者たちは私に決断を迫っている。
私は革命などに興味はないし、自殺は考えたこともない、結婚は極めて個人的なことがらだ。
私の決断で何かが決まるのはおかしなことではないか?
みんなで話し合って決めれば良いのではないか?
みんなで話し合って決めることに賛成するのは私だけか?
対等、21,3,29
犯罪反対派には、命令する者も、命令に従う者もいない。
ただ、対等な話し合いがあるのみである。
自分の言動は自分で決める、他人に従う必要はない。
そして、自分の言動の責任は自分自身で負う。
自分で決め、自分で責任を取る。
何か決めなければならないときは一人一票。
みんなで話し合い、多数決で決めるのが基本である。
誰の意見でも正しいものは正しい、本当のことは本当なのだ。
自分の行動を他人に委ねるな。
精神薬投与、21,4,1
このところ、精神薬の投与が続いている。
音楽を聴いてもおもしろくないし、動画、テレビもひどくつまらない。
ゲームもおもしろくない。
精神が塞がれているから、寝ていても苦しい。
精神薬の投与はもっとも苦しい拷問の一つであろう。
もう少し強い薬を続けるなら、自殺に追い込むこともできるだろう。
放送があるから物理的拷問には限界がある。
精神薬投与ならば映像的には、私がどれほど苦しいかは分からない。
部屋の電気を消し、じっとしているしかないのだ。
感情、21,4,2
人間は感情の生き物だと言う。
精神薬を投与され、精神が塞がれていると、
ネガティブなことばかり考える、眠っても悪夢にうなされる。
言論と暴力、21,4,2
犯罪反対派は話し合いで問題を解決しようとする。
犯罪賛成派は暴力と犯罪行為で問題を解決しようとする。
犯罪賛成派は決して話し合いに応じない。
話し合いをすることイコール、負け決定だからだ。
犯罪反対派と犯罪賛成派、どちらが正しいかは、
犯罪反対派にとっても、犯罪賛成派にとっても、一目瞭然だからだ。
だから、無防備な人間に対し、武装した人間が問答無用に暴力を繰り返す。
オカマ、21,4,2
犯罪賛成派は私をオカマだと言う。
私が暴力に対し暴力で反撃しないから、男ではないと言うのだ。
暴力に対し暴力で反抗しなければオカマなのか?
私が暴力に対し暴力で対抗しないのは、そんなことをしても問題の解決にならないからだ。
問題の解決にならないどころか、状況はますます悪化するだろう。
犯罪賛成派は徹底的にイエス・キリストが嫌いだ。
それはイエスが真実だったからだ。
そして、イエスは非暴力であり、それはまったく男らしくない、オカマ野郎なのだ。
犯罪賛成派は徹底的に無抵抗の者に問答無用の暴力を振るう。
犯罪賛成派はまったく悪くない、悪いのは無抵抗なオカマ野郎だ。
本当に、暴力を振るわない非暴力で話し合いにより問題を解決しようとする者は男らしくないのか?
暴力を振るわない平和主義者はオカマ野郎なのか?
イエス・キリストはオカマ野郎だったのか?
暴力を振るう者は男らしい人間であり、非暴力である人間は間違っているのか?
犯罪賛成派はあらゆる方法で私に暴力を振るうように仕向けてくるだろう。
話し合えば100%負けだからだ。
犯罪賛成派は嫌がらせをしてくる、それと同時に精神薬を投与し私を怒り状態にさせ、暴力を振るわせようとする。
犯罪賛成派は強制的に暴力を振るわせようとするのだ。
犯罪賛成派のひどい拷問により、もしも私が暴力を振るっても、絶対にそれは私の本意ではない。
大嘘、21,4,2
犯罪賛成派はイエス・キリストを憎んでいる。
それでも、中にはイエス・キリストを信じていると言う者もいる。
しかし、それは、社会的体裁を保つための大嘘である。
真実であり、非暴力であるイエス・キリストを、その正反対である犯罪賛成派が信じているはずがない。
犯罪賛成派はオカマ野郎と言いながら、無抵抗な人間に対し問答無用な暴力を振るってきた。
その暴力を振るってきた相手一人一人がキリストなのである。
オカマ野郎、21,4,2
犯罪賛成派にすれば、
真実で非暴力な人間はオカマ野郎なのである。
つまり、イエス・キリストはオカマ野郎であり、
キリスト教徒はみな、オカマ野郎なのである。
犯罪賛成派はみな、反キリストであり、
反宗教なのである。
精神薬投与、21,4,9
音楽を聴くのも、動画を見るのも、テレビを見るのも、ゲームをするのも、すべてがつらい。
じっとしているだけで、つらい。
精神が極限的に疲労困ぱいだ。
拷問、21,4,9
投薬による拷問により、犯罪賛成派は国民を従わしている。
中国によるウイグル支配となんら変わりはない。
物理的拷問はおおやけになり、薬物的拷問は秘密にさえれる、ただそれだけだ。
どの口がウイグルを批判するのか?
非人道的、人権無視、まったく同じではないか?
ウイグルに人権を。
そして、先進国に人権を。
中国と同じ、21,4,9
拷問によって、国民を従わせようとするのは、中国も犯罪賛成派も同じだ。
これが共産主義、独裁主義の実態なのだ。
犯罪賛成派は共産主義ではない、民主主義をまったく認めない独裁主義だ。
一部の人間による、拷問による支配だ。
人権のかけらもない。
我々は自由と民主主義を求めようではないか。
徹底的に中国と犯罪賛成派に反対しようではないか。
同類、21,4,9
拷問によって国民を支配するという点に置いて、中国と犯罪賛成派はまったく同じだ。
中国を非難するなら、徹底的に犯罪賛成派も非難するべきだ。
そして、犯罪賛成派を非難するなら、徹底的に中国も非難するべきだ。
中国を非難することは犯罪賛成派を非難することであり、犯罪賛成派を非難することは中国を非難することなのだ。
犯罪賛成派と中国は人権無視、非人道的という意味で同じであり、兄弟のようなものだ。
独裁の悲劇、21,4,9
犯罪賛成派は共産主義ではない、ただの独裁だ。
それと同じく中国も共産党という特権階級があるだけの独裁ではないだろうか。
共産主義とは経済的平等を目指すものだ、ぜんぜん中国は平等など目指してない。
ただの独裁だ。
重要なのは共産主義かどうかではない。
共産主義であってもなくても、独裁は国民に悲劇しかもたらさないという事実だ。
自分の意見、21,4,12
私は自分の意見を通そうなどと考えてはいない。
何かを決めるときは、みんなで話し合って決めれば良い。
誰かが決めるのではない、みんなで決めるのだ。
自分の意見が通らないくても、私は上満に思わない。
みんなが賛成すれば私の意見は通るし、反対するならば通らない。
決定権はいつも国民にあるのだ。
隠蔽、21,4,12
犯罪賛成派は事実を隠蔽しようと日夜余念がない。
なぜ、犯罪賛成派は事実を隠蔽しようとするのか。
それは、犯罪賛成派のやっていることは100%違法だからだ。
そして、もう一つ、犯罪賛成派のやっていることは国民に受け入れなれないと分かっているからだ。
犯罪賛成派は法治国家を否定し、民主国家を否定している。
事実を公開し国民に意見を求めることは決してない。
国民を暴力で圧迫し、国民を従わせる中国とまったく同じだ。
苦しい、21,4,12
投薬による拷問により、仕事もできず、毎日、寝たり起きたりの生活だ。
拷問により、国民を従わせることが正しい行いなのか。
この放送が終われば、私は自殺するか、犯罪賛成派の操り人形になるしかないのだ。
上満、21,4,12
ふまん、が、上満、と表示されてしまう。
嫌われたイエス、21,4,18
イエスは非暴力を説いた。
イエスの支持者は大いに落胆した。
なぜなら、人々が望んだのは暴力で戦い、自分たちの権利を守ってくれる指導者だったからだ。
救世主とは、物理的に戦い、物理的に人々を豊にする人間だと思っていたのだ。
イエスは正しさを曲げ、支持者の期待にこたえようとは少しもしなかった。
イエスは今の宗教は間違っていると言った。
宗教界の重鎮たちは赤っ恥をかかされた。
信者たちは深く傷ついた。
信者は神を信じているのではなく、人の言い伝えに従っているだけだと言い放ったのだ。
メチャクチャ、21,4,19
独裁者は言う、国民が一斉に独裁者に逆らえば、この世界はメチャクチャになってしまうと。
そんなことは決してないのだ。
なぜなら、法律があるからだ。
法律をみんなが尊重する限り、この世界には危険はない。
独裁者がどんな間違えを言っても尊重され、一般人がどんな正しいことを言っても受け入れられない。
そんなことになったら、この世の終わりだ。
人の支配、21,4,25
独裁は人による支配である。
人が人に従い、人が人を支配する。
民主主義は法による支配である。
すべての国民が法に従う。
すべての国民が法の下に平等なのだ。
もし、自由と民主主義を求めるなら、人に従うな、法律に従え。
他人に従うな、自分の良心に従え。
弾圧、21,4,25
中国は暴力による弾圧をやめない。
もし、弾圧をやめたら、国民が逆らい、独裁者は殺されてしまうだろう。
弾圧をやめた途端、これまでの弾圧の責任をみんなから問われる。
弾圧は始めたら、弾圧をやめたくてもやめられないのだ。
弾圧をやめることは死を意味する。
犯罪賛成派も犯罪行為をやめられないのだ。
犯罪行為をやめたら、犯罪賛成派は破滅だ。
犯罪行為はいつかはやめなければならない、犯罪行為は悪いことだ、犯罪賛成派は百も承知だ。
でも、麻薬中毒者のようにやめられない。
犯罪行為をやめることは死を意味する。
これまでの犯罪の法的責任を取らねばならなくなる。
そうなれば、犯罪賛成派は破滅だ。
犯罪賛成派のできることは永遠の先延ばしだけなのだ。
解決はない。
解決は犯罪賛成派が法的責任を取ることだ。
解決イコール、犯罪賛成派の破滅である。
犯罪賛成派は解決を望まない、永遠の闘争のみを望む。
民主化、21,4,26
中国の民主化運動は危険だ。
一歩、間違えれば、多くの血が流れる。
もし、国民が共産党に逆らって、国が真っ二つに割れるようなことがあれば、経済も社会もうまくいかなくなってしまう。
世界経済にもマイナスだろう。
もし、民主化に成功しても、共産党のような政治のプロが政治をやるのではなく、一般の人間、ずぶの素人が政治をやることとなる。
うまくいくわけがない。
それでも、自由と民主主義は貴重なのだ。
大きな目で見れば、必ず中国の民主化は中国人を救い、世界に利益をもたらす。
ただ短期的に見れば、悪いことばかりだ。
人命の尊重、経済と社会の安定と発展を唱える中国共産党に誰も賛成できない。
自由も人権もないからだ。
共通言語、21,5,13
この世界は誰にでも共通する、みんなの基盤となるものの上に成り立っている。
そして、この世界は一人一人が違い、個人個人の独特の考えや感性で成り立っている。
この世界は共通の基盤と個性で成り立つ、共通の基盤とバラバラな個性はすべてにおいて、車の両輪である。
どちらが失われても、この世界は成り立たないのだ。
共通の基盤でもっとも重要なものは事実である。
事実はみんなに共通し、一つしかない。
A氏はB氏に100万貸している、しかし、B氏は借りていない。
事実は人それぞれで違い、A氏の主張もB氏の主張も同時に成り立つなどとなるならば、経済活動は崩壊してしまう。
A氏にとっては富士山は3776メートル、B氏にとっては200メートル。
これが同時に成立するならば、どんな学問も成立しない。
と言うより、人と人とが、コミュニケーションを取ることもできなくなってしまう。
この社会、経済、法律、学問、科学は、事実が誰に取っても共通であり、一つであることで成立しているのだ。
それは宗教、芸術でも同じである。
事実という共通基盤がなければ、まったく話が通じないだろう。
特に宗教はみんなに共通する一つの事実を明らかにすることで、みんなを救うものなのだ。
理念、21,5,16
犯罪反対派の理念は、事実を国民に明らかにし、国民の意見を社会に反映させ、法律にもとづく社会を作ることにある。
一方、犯罪賛成派の理念は、事実を隠蔽し、法律を無効化することにある。
なぜ、犯罪賛成派はそんなことをするのか?
なぜなら、事実が明らかになり、法律を守らなければならなくなれば、
犯罪賛成派の多くが自分の犯罪行為の責任を取らざる得ないからだ。
犯罪賛成派の理念とは、自分の利益となるものは受け入れ、上利益となるものは拒絶する、ただそれだけなのだ。
国を良くしようとか、国民を幸せにしようとか、考えているわけでは全然ない。
事実を明らかにし、国民の意見に耳を傾け、法律を守るなら、
犯罪賛成派の多くが法的責任を取らざる得なくなる。
犯罪賛成派の多くが社会的に重要なポジションにいれば、この社会は一時的に機能停止に陥る危険がある。
法律を守るなら、それによって物理的な危険はないにしても、経済的被害は出るかもしれない。
それを社会が生まれ変わる試練と考えるか、それとも、ただの災害と考えるかは、人それぞれだ。
この社会は、事実を国民に明らかにし、国民の意見を反映させ、法律を守ることで確実に良くなるのだ。
上利益、21,5,16
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
犯罪国家、独裁国家、21,6,11
犯罪反対派は、事実を公表し、国民の考えを社会に反映させ、法律にもとづく社会を目指している。
しかし、犯罪賛成派は、事実を明らかにすれば、国家が崩壊してしまうと言う。
犯罪賛成派は、国民に事実を知らせ、国民の意見を聞けば、国家が崩壊すると言う。
犯罪賛成派は、法律を守るなら、即、国家は崩壊すると言う。
犯罪賛成派は日本国を何だと思っているのか?
日本は犯罪国家であり、独裁国家であり、
犯罪の否定は日本国を否定することであり、独裁を否定することは日本国を否定することだと言いたいのか?
犯罪賛成派は言う、犯罪に反対することは、日本を崩壊に導くものであると。
それならそれでいいではないか。
犯罪をなくし、今までの日本を崩壊させ、法治国家をきずこうではないか。
日本は正義の国であるべきではないか、清廉潔白で堂々とした国家であるべきではないか。
吊実ともに、法治国家であるべきではないか、民主国家であるべきではないか?
それが日本国民のためではないか。
それが日本国の未来を切り開くことではないか。
表向きは法治国家で、実際は犯罪国家、
表向きは民主国家で、実際は独裁国家、
人間として恥ずかしい。
吊実、21,6,11
めいじつ、が、吊実、と表示されてしまう。
なまえ、が、吊前、と表示されてしまう。
悪行賛成、善行反対、21,6,11
犯罪賛成派はあらゆる犯罪行為をする、盗難、傷害、殺人。
そして、犯罪賛成派は犯罪反対派にあらゆる犯罪行為を強要する、盗難、傷害、殺人。
犯罪反対派がボランティア活動などの善行をしようものなら、暴力で叩き潰す。
犯罪反対派が評判を落とすように、犯罪行為によって、犯罪行為の強要が行われる。
犯罪反対派が評判を落とすように、暴力によって善行は破壊される。
悪行賛成、善行反対、まさに、メチャクチャだ。
一人の清い人、21,6,25
白光会の五井先生が言っていた。
一人の人間が清いということはありえるが、団体が清い集団であることはないと。
もちろん、五井先生の白光会も清い集団ではないのだ。と。
一人の人間が正しい意見を言おうとすることはある。しかし、団体では団体の利益がからんでくる。
もちろん、その団体のすべての人間が清ければ、それはありえるが、複数の人間が清いということはかなり難しいのだ。
その団体のすべての人間がお金や吊誉、地位などに興味がなく、権力にも屈朊しないというのはかなり難しい。
政治家や官僚が国のことを考えていないとは思わないが、少しも自分の利益を考えないというのはありえないだろう。
もし、純粋に正しいことを言う人間がいても団体の中では必ず潰されるだろう。
団体に属する人間全員が自分の利益を求めない、そして、その団体の利益も求めないということはかなり困難である。
正しい意見というのは、その団体の誰かの上利益だったり、その団体の上利益だったりすることがかなりある。
個人の利益を求めず、団体の利益を求めないことはかなり困難だ。
この世界には清い団体は一つもない。
政治家や官僚、特権階級と国民全体の意見は必ず対立する。
国民は国民の利益を考えるが、特権階級は純粋に国民の利益を考えることはないからだ。
一人の清い人間の意見と国民の意見は一致することが多い、なぜなら清い人間は国民全体の利益を自分の利益抜きで考えるからだ。
国を良くするには、一人の清い人間の純粋な意見に従うことであり、また、国民全体の意見で国を動かすことなのだ。
今は間接民主制であるが、少しづつ、直接民主制に移行する必要がある。
まず、第一に国民の知る権利を認めることだ。
民主政治とは、事実を一人一人が知り、考え、みんなで話し合い、考え、話し合い、最後には多数決で決められるべきだ。
事実を知ること抜きには民主制のみの字もない。
ここで提案がある。税金の使い道を国民に知らせることだ。
税金を払っている国民がその使い道を知ることは極めて当然である。
SNSを使えば、今、すぐにでも公開できる。
それをすれば、多くの賄賂や天下りなどがクリーンになるだろう。
SNSを使えば簡単にできるのだ。
この提案にほぼすべての国民が賛成してくれると思う。
そして、ほぼすべての特権階級、政治家、官僚が反対すると思う。
民主主義の国で、国民主権の国で、ほぼすべての国民が賛成することができないことがあるだろうか?
それが実現できないということは、日本は民主主義でもなければ、国民主権でもないということだ。
特権階級の独裁だということだ。
たぶん、政治家や官僚はこのことを議題にさえしないだろう。
このことを叫ぶ国民は消されるかもしれない。
まず、このことを実現し、日本は民主主義であり、国民主権であることを立証しようではないか。
すべての国民が賛成し、すべての特権階級が反対することが、実現しないなら、独裁の暗黒が広がっているだけの世界であると認識するべきだ。
吊誉、屈朊、上利益、21,6,26
めいよ、が、吊誉、と表示されてしまう。
くっぷく、が、屈朊、と表示されてしまう。
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
国民主権、21,7,23
日本の主権者が国民であることはハッキリと憲法に明記された、日本国本来のあるべき姿、理想の姿である。
国家の主権が誰か一人のものであったり、特権階級のものであったりするのは悪であり、間違っている。
すべての国家の悪行が、主権が誰か一人のものであったり、団体のものであったりすることで始まる。
主権在民でないことが国家を狂わせる。
皮切り、21,7,23
国家の主権を国民のものとしよう。
日本を国民主権の民主主義国にするために何が必要か。
税金の使い道の公開である。
国民が払っている国民のお金である税金の使い道を国民が知ることで国民主権、民主国家は始まるのだ。
国民の税金の使い道の公開を皮切りに、次々と、日本の民主化、国民主権は進んで行くだろう。
この一点、今はこれだけに力を注ぐべきだ。
我々の具体的目標は一つ、それは国民のカネ、税金の使い道の公開だ。
それだけに集中してほしい。
一生の仕事、21,7,23
私の一生の仕事は国民の税金の使い道の公開にあると思っている。
それ一つ実現できるなら、私の一生は十分意味のあるものとなる。
公開できない理由、21,7,23
紙に印刷の時代、膨大な情報を国民に知らせるには、大きな経費と手間と時間が必要だった。
しかし、SNSが普及した今、情報公開に経費も手間も時間も必要がなくなった。
今までさんざん言ってきた情報公開ができない理由がなくなったのだ。
今は情報公開しない理由はない。
情報公開しなければいけない理由は多々ある。
情報公開しないということは、国民の知る権利を乱暴に踏みつける行為なのである。
当然あるべき国民の権利を踏み潰す行為なのである。
領収書のいらないカネ、21,7,26
我々国民は領収書のいらないカネ、巨額の税金を特権階級に払っている。
他人に領収書のいらないカネを渡し、果たして本当に正しい使い方をしてもらえるだろうか?
領収書のいらない巨額のカネを他人に渡すということは恐ろしいことだ。
領収書のいらないカネをもらった他人は果たして、その人間が言うように、純粋に国家国民のために使うだろうか?
そのカネを自分自身のために使ったり、または、自分の属する団体の利益のために使ったりしないだろうか?
領収書のいらない巨額のカネを国家国民のために使うと言う人間に何の疑いもなく渡すことは恐ろしいことだ。
賄賂に使われないだろうか?天下りに使われないだろうか?万が一にも犯罪に使われないだろうか?
特権階級を完全に信じ、疑わない方がおかしい。
万が一、犯罪に使われるようなことがあれば、国民は犯罪の片棒を担いだことになってしまう。
巨額の資金を出す者が領収書をもらい、使い道をチェックすることは、資金を出した者の義務である。
何にも知らずに、悪行のために資金を出すことは、とんでもない悪行をおかしたことになってしまう。
資金を出した者にも当然、責任がある。
資金を出すなら、その使い道についてチェックすることは、資金を出す者の当然の義務である。
国家国民のために使うカネが必要と聞いて、何も疑わず、何もチェックせず、巨額の資金を提供することは許されないのだ。
最終目標、21,8,13
我々の最終目標は、犯罪を撲滅し、税金の使い道を公開することだ。
法治国家の実現と情報公開である。
芸術や宗教は決して強制するものではない。
自由と民主主義の上に自然と咲く花なのだ。
自由こそ、芸術や宗教の源である。
国民が自由に話し、自由に表現できなくて、何が芸術か、何が宗教か。
芸術家、宗教家は何よりも強制を嫌うのだ。
自由の死は、芸術と宗教の死である。
上幸の元凶、21,8,22
暴力と犯罪に反対しよう。
暴力と犯罪で社会を支配することは絶対に許されない。
それが、人々の上幸の元凶なのだ。
暴力と犯罪が上幸の元凶であることを世界に示すのだ。
犯罪反対と情報公開、21,8,22
犯罪に反対し、少しでも犯罪を減らせれば、情報公開が進む。
権力者たちの違法な隠蔽、情報統制がなくなるからだ。
情報公開が少しでも進めば、犯罪を抑えられる。
なぜなら、犯罪は非公開の場で行われることが多いからだ。
一方を進めれば、もう一方も進む。
暴力と犯罪に反対することと、情報公開は二つで一つだ。
上幸、21,8,22
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
宗教の最終結論、21,8,29
今、宗教は多種多様にあり、説法も星の数ほどある。
そのすべての宗教の最終結論を今、話そうと思う。
最終結論に紊得できれば、その人間は神となる。
自我が消滅し、神と一体となる。
ただ、最終結論に紊得するのは非常に難しい。
だから、たくさんの方法やたくさんの説法があるのだ。
でも、今から、最終結論を理論整然と明確に話したい。
非論理的な話は一切しない。
つじつまが合わない話はやはり方便でしかないのだ。
真理はつじつまの合う話の中にある。
神が存在するということは、この世界が完璧であるということだ。
全知全能の神は絶対に上完全なものを作れない。
故意におかしなものを作ろうとすれば作れる、しかし、神が間違って作るということは絶対にない。
この世界は神の思い描いた理想なのだ。
一切、間違いはない。
この世界には、過去にも現在にも未来にも間違いは一切ない。
この世界に問題は一つもないのだ。
この世界を変える必要はない。
変えようとすることさえ、変える必要はない。
一切は自然のまま形を変えて行く。
これが最終結論である。
人間の自我は問題を食べて生きている。
人間は絶えず問題を見つけ、それを解決しようとすることで、自我を保っているのだ。
つまり、問題がなくなれば、自我は消滅する。
無我の境地に至る。
無我であるものは神に等しい。
つまり、神を信じることは最初の一歩であり、最後の一歩である。
それが最終境地であり、その上はない。
神を語らず、仏を語ってみよう。
仏とは永遠の平安に至った者とされる。
平安の境地にどうなれば至れるか、それはあらゆる問題が解決したときである。
自分、他人、すべての人間の問題が解決したときである。
釈迦はこの世界に問題はないと知った。
というよりも、はじめから問題などなかったのだ。
そして、釈迦は仏となった。
仏が存在することは、この世に問題がないという証明なのだ。
この世にささいな問題でもなれば、人の心はかき乱されてしまうからだ。
つまり、仏を信じることは最初の一歩であり、最後の一歩である。
私は今、すべての宗教の最終結論を話した。
もちろん、これを聞いたからと言って、すぐさま紊得できるものではないと思う。
多くの疑問がわいて当然だ。
いつか、このことについて質疑応答ができればいいと思っている。
紊得、上完全、21,8,29
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふかんぜん、が、上完全、と表示されてしまう。
神の国に入る者、21,8,30
神はこの世界を作られた。
神の作ったこの世界を無条件で受け入れる者は神に受け入れられる。
この世界を受け入れる者は、神の国に入ることが許されるのだ。
ただ、この世界を受け入れることは、人間にとって、至難の業である。
現実を生きる者、21,8,31
全知全能の神にとって、理想は現実であり、現実は理想である。
仏にとっても、理想と現実は同じものだ。
悟っていない者は、理想と現実の狭間で苦しむ。
聖人は常に現実に生きる。
現実に生きる者にこそ、無限の光明は輝くのだ。
地獄の必要性、21,9,2
地獄は必要か?
もちろん、地獄は必要である。
神は必要のないものを作らない。
罪を犯した者の罪の償いの場として地獄は必要なのである。
神は決して人が憎くて、人を地獄に落とすのではない。
罪を浄め、その人間の魂を浄化し、改心させ進歩させるために地獄に落とすのである。
神は常に人間の幸せを考えている。
ときに苦しみは必要となるのだ。
地獄の改善は必要か?
もちろん、その人が心から改心したなら、罰を減刑することは必要であろう。
しかし、地獄の人間の幸せを考え、地獄を改善するということはないだろう。
地獄は必要だから、あるのである。
もし、地獄を改善し、地獄を天国のような場所に変えてしまったら、みんな困ってしまう。
人は罪を償い、罪を浄め、改心し、魂を進歩させる場所を失ってしまう。
どうしても、天国は天国であり、地獄は地獄である必要があるのだ。
天国も地獄も必要だからあるのだ。
人間の世界の改善、21,9,2
人間の世界の改善は必要か?
もちろん、人間が進歩し、快適な暮らしを望み、弱い者、恵まれない者を助ける必要はある。
我々がこの世界をよりよいものにしようとしてきたことで、今の幸せはある。
弱い立場、恵まれない人間の人権も昔よりは随分と改善されているし、また、未来はもっともっと改善するべきであろう。
しかし、ならが、この世界に上幸がなくなることはないだろう。
人間の脳の構造上、どんなに恵まれた立場になっても、虚しさ苦しみ上幸は切っても切れないものである。
この世界に必要だから幸福があり、また、上幸もある。
上幸を乗り越えることで魂の進歩があり、幸福を感じることでも魂の進歩がある。
自分の運命は自分のことを心から考えて下さる神に頂いたものと信じ、
幸福に感謝し上幸に感謝し乗り越えることで人間の魂は前進する。
自分に与えられた運命を信じ、この世界を信じ、すべてに感謝し、進歩し続ける。
この状態になれば、完璧と言って良いだろう。
それが悟りであり、それ以上の境地はない。
我々が与えられた運命は決して偶然ではなく、神が一人一人のためを考えたオーダーメイドのプログラムなのだ。
もちろん、前世の罪を償うものとしての上幸もあるから、自分の運命を上条理に感じることもあるだろう。
しかし、神がいる以上、すべてに意味があり、すべてが適格に起こる。
この世界に意味がないもの、上必要なものはないのだ。
すべてが一人一人にとって最高の栄養となるのだ。
これに紊得できる人は、神にも近い人間と言って良いだろう。
幸福にも上幸にも感謝できる人間は最高の人生を送るだろう。
必要性、21,9,2
天国には存在意義があり、人間の世界には存在の意義があり、地獄には存在の意義がある。
天国は必要であり、人間界も必要であり、地獄も必要だ。
人間界は進歩して行く。
しかし、絶対に人間界が天国になることはないだろう。
なぜなら、人間界には人間界の役割があるからだ。
人間界には重要な役割があり、天国にも地獄にも、その役割を担うことはできない。
天国はその幸福さから進歩ができない、地獄では苦しみを逃れるためにいっぱいいっぱいで進歩という考えがない。
進歩を求める人間は、わざわざ天国から人間界に下ってくる。
人間界の経験は、天国の経験より、より多くの進歩が得られる。
天国にいる人間は、進歩を求め、人間界に下ってくる。
進歩を求め、上幸を希望するのだ。
この世に生まれた人間は、そのことを、生まれた前を記憶していないため、ほとんど理解できない。
人間に生まれることは貴重でありがたいことであると釈迦は言っている。
上幸をありがたいことと感謝できることは、本当に真実に即したことである。
上幸、上条理、上必要、紊得、21,9,2
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
ふじょうり、が、上条理、と表示されてしまう。
ふひつよう、が、上必要、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
神を受け入れし者、21,9,6
この世界は神が作った。
神が作ったこの世界を受け入れる者は神を受け入れる者となる。
神を受け入れる者は神に受け入れられる者である。
一滴の水が大海に落ち、一つとなる。
その大海は全宇宙、すべてのものを包み込む愛と言われている。
神は愛なり、愛は神なり。
人が人を愛する愛と基本的には同じ性質であるようだが、人を愛する愛と無限の愛とでは規模が違う。
神は愛とも表現されるし、光明ともエネルギーとも言われる、空とも言われる。
無限に広がる上動の愛、それは至福とも言われる、一切の束縛から解き放たれた無限の自由とも言われる。
上動、21,9,6
ふどう、が、上動、と表示されてしまう。
神は愛なり、愛は神なり、21,9,6
人が人を愛することは愛ではなく、執着に過ぎないと言う聖者もある。
神の愛こそ、本当の意味での愛であると。
何の見返りも求めない愛、命をとした愛である。
しかしながら、一般人には、神は愛なりという言葉が一番分かりやすいようにも思う。
本当、21,9,19
私は今、暴力や犯罪行為で叩かれている。
なぜなら、私は本当のことを言っているからだ。
宗教とは本当のことを言うものではないのか?
本当のことを言うものは神の教えに従い、イエスや釈迦などの聖者の教えに従う者ではないのか?
本当のことを言う者は暴力や犯罪で叩くべきではなく、みなから尊敬され、賞賛されるべきではないのか?
嘘を言う者は、本当のことを言う者を嫌う。
自分たちが嘘を言っていることがばれてしまうからだ。
嘘を言う者たちは議論をしない、本当のことを言う者と議論すれば、自分たちが嘘つきであることが明白になるだけだからだ。
嘘をつく者は言論で争うことをしない、暴力と犯罪でものごとを解決しようとする。
暴力と犯罪を正当化するのである。
暴力と犯罪を振るう者は明らかに神に反する者であり、聖者の教えに反するものである。
悪魔に従う者だ。
暴力と犯罪を振るう者は、自分たちは宗教と文化を守っているのだと主張する。
暴力と犯罪を振るう人間の言い分は、宗教と文化は嘘でできていて、嘘を暴力と犯罪で守ることが宗教や文化を守ることなのだ。
真理、21,9,19
真理とは事実のことであり、事実は世界共通であり、我々は事実という共通の基盤によりコミュニケーションがとれる。
共通の基盤なしに我々が分かり合うことはないし、そもそも会話が成立しない。
ところが、宗教界、思想界ではそうではなく、真理は人それぞれ違うものであり、真理はたくさんあっていいのだ。
人それぞれの真理など、真理ではない。
私は何も、個性を否定したり、それぞれの考えを否定したりしようとしているのではない。
事実はすべての人、共通の基盤であり、その上に、個性の違いや考えの違い、価値観違いがあると言っているのだ。
我々は、そうやって現実世界で生活している。
事実は共通であり、個性や考え方、価値観は別々だ。
事実が人それぞれあるというのなら、経済活動もできないし、裁判もできない、まさにカオスだ。
事実が共通であることで裁判は成立し、経済的取引も成立している。
宗教界、思想界では、真理は人それぞれだという考えの人が多い、まさにカオスだ。
私はその人たちの考えを無理やり変えようとは思わない、ただ、暴力と犯罪行為はやめてほしい、ただ、それだけだ。
本当のこと、21,9,19
私は事実は世界共通であると主張する。
私は非論理的なものは嘘だと思う、非論理的なものとは、つまり、つじつまが合わない話だ。
私は自分の考えを他人に押し付ける者ではない。
私の考えに反対である者は反対していいのだ。
ただし、暴力や犯罪行為で反対することは許されないというだけだ。
本当のことは、みなの考えを変えていく、
常に本当のことは、嘘より強いのだ。
結局、どうしても嘘を守りたい者は、暴力や犯罪行為で反対せざるを得ない。
私の考えで多くの宗教界、思想界の人間が否定され、上利益を被る。
そして、上利益を被った人間で、どうしてもそれが許せない人間は言論ではなく、暴力と犯罪行為で反対する。
言論で反対しても勝ち目がないからだ。
暴力や犯罪行為を振るう者は、神に逆らう者であり、聖者に逆らう者である。
反宗教的、反倫理的な者である。
悪魔に従う者である。
事実を受け入れられない者は、宗教を受け入れられない者なのだ。
悪、21,9,19
どう考えても、自分たちの方が間違っている。
しかし、負けたくない。
こうした人間は、暴力や犯罪行為に走らざるを得なくなってしまうのだ。
正しさと利益、21,9,19
私たちは中立を保ち、何が正しいかを考える。
暴力と犯罪に走る者は、自分たちの利益を考える。
だから、どこまで行っても平行線なのだ。
上利益、21,9,19
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
時代錯誤、21,9,20
犯罪反対派は、事実を国民に公表した上で、みんなで話し合って決めようと主張する。
犯罪賛成派は、事実を隠蔽し、ごく一部の権力者が決めれば良いと主張する。
だから、犯罪反対派と犯罪賛成派はどこまで行っても平行線なのだ。
果てしなく続いてしまう。
犯罪反対派には、暴力、犯罪行為を絶対に振るわないという鉄のおきてがある。
だから、武力による解決はない。
それがこの状態を一層長引かせているとの批判もあるが、
私は絶対に暴力や犯罪行為での解決には反対する。
そもそも、こんな時代錯誤な戦いが現代にあっていいものなのだろうか?
悪いのはどっちか、誰もが即座に分かる問題なのに、なぜ、大勢の人間が犯罪賛成派に朊従するのか?
犯罪賛成派に逆らえば生活ができなくなる。
つまり、恐怖政治なのだ。
これからの未来、21,9,20
犯罪賛成派は、これから、どういう社会を作ればいいのかと、私に意見を懇願する。
私は答えない。
私の主張は、事実を明らかにし、みんなで話し合うことだ。
みんなで話し合うことなしに、私が未来の政策を言うことはない。
事実を明らかにし、みんなで話し合うことなしに、私が意見を言うことはない。
みんなが話し合い、多数決を取って、ものごとを決めるならば、私は反対しない。
重要なのは、みんなが話し合い、紊得して物事を進めること。
みんなの意見を前に、私の意見など、ただの一個人の意見でしかないのだ。
私の意見は、自由、民主主義、言論の自由である。
事実が明らかにされ、みんなで話し合い、ものごとを決定するのなら、私の意見など脇に追いやられていいのだ。
これが私の本心である。
朊従、紊得、21,9,20
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
拷問、21,9,22
音楽が聴けない、ゲームができない、ユーチューブが見れない。
精神薬投与による拷問なのだ。
精神薬を投与すると突然、音楽を聴くことが苦痛になったり、ゲームをやることが苦痛になったりする。
異常に疲れて座ってられない、頭が痛い、のどが痛い、コーラが飲めない。
肉体に作用する薬による拷問なのだ。
精神的薬、肉体的薬により、毎日、一日も欠かさず拷問を受け続けている。
本も読めない、運動もできない。
コペルニクス、21,9,23
コペルニクスは地動説を唱えた。
コペルニクスが地動説を唱えた時代は、みな天動説を信じていたが今ではほとんどの人が地動説を信じている。
これはコペルニクスが人々に強制的にコペルニクスの考えを押し付けたせいであろうか?
それはまったく違う、むしろ強制的に考えを押し付けたのは天動説を唱えていた方だ。
事実は強く、なかば強制的に人の考えを変えてしまう。
天動説を信じていた人が地動説を理解してしまうと忘れることはできないし、もはや、天動説を信じることもできなくなる。
人間は意識的に覚えることはできるが忘れることはできない。
そして、いったん事実を知ると嘘を信じることはできなくなる。
後戻りができないのだ。
今でも天動説を信じる人はいる、それは悪いことではないし、天動説を信じる権利は誰にでもある。
誰も強制できないし、強制するべきではない。
古い考えを大切にするのもいいが、事実を受け入れるのも重要なことだ。
地動説は人類に大きな進歩をもたらした。
人類はそうやって進んで行くのだ。
地動説の広がりを抑え、天動説を守って行くには、言葉で議論してもダメだ。
議論すれば議論するほど、地動説は広まってしまう。
天動説を守って行くには、暴力で守るしかない。
実際、コペルニクスは殺された。
頭痛、21,9,28
頭が痛い。
生きる意味、21,10,1
みな、生きる意味を問うが、それを言葉で説明するのは難しい。
生きる理由を説明できても、今度は生きる理由の理由の説明が必要になり、
理由の理由を説明すれば、さらに理由の理由の理由を説明しなければならなくなる。
何のために生きるか、生きる意味、価値、なども同様である。
しかしながら、我々に生きる意味は必要なのだ。
生きることに重要な意味があるから、生きて行けるのだ。
芥川龍之介の本に書いてあったが、囚人に普通の作業をさせても自殺しないそうだ。
しかし、右のバケツから、左のバケツへ水を注がせ、その左の水をまた右のバケツに注がせる。
この繰り返しを毎日させると囚人は自殺してしまうそうだ。
我々人間にとって意味のない作業は、とてつもなく苦痛なのだ。
だから、我々は意味を探し求める。
そして、人それぞれの意味を見出し生きているのである。
それは、自分の子供のためだったり、家族のためだったり、会社のため、国家のため、人類のため、
また、自分自身の趣味や楽しみのためだったりする。
しかし、宗教の究極の生きる意味は一つだ。
ある聖者に、生きる意味について質問した人間がいる。
聖者はそれに対し、こう言う、なぜ、生きる意味などに興味を持つのかと?
君はそれほどまでに上幸なのか?と。
人間は自然で健康であれば、生きる意味になど、興味を持たないのだと。
聖者にとって、生きることは、すばらしく、美しく、充実している。
生きることに意味は必要ない、それほどに人生はすばらしく充実している。
人生に生きる意味も価値も理由もまったく必要がないのだ。
一般の人間であっても、楽しく充実していて喜びに満ちている時間をすごしたとき、
この時間にいったい何の意味があるのだろう、となど疑問に思わない。
生きる喜びで満たされ、意味や価値、理由など必要ないほどの、すばらしい体験となるのである。
生きることのすばらしさに、意味や価値、理由など、まったく必要がないと言い切れるほどの境地になるため、
我々は時間を与えられているのである。
聖者、21,10,1
純粋に、生きることはすばらしいとたえず感じているからこそ、
聖者は聖者と呼ばれるのである。
上幸、21,10,1
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
神に従うこと、21,10,4
私は事実は一つであり、すべての人間に共通であると言った。
そして、非論理的なものは嘘であると言った。つじつまの合わない話が本当のわけがない。
犯罪賛成派は、それに反発した。
そんなことを言えば、多くの宗教、思想、伝統、文化が嘘になってしまう。そして、消えてしまう。と。
長く信じてきたことが嘘だと知った人間は大きなショックを受ける。それは耐えがたい苦痛だ。と。
だから、それを阻むために暴力や犯罪行為は当然、認められるべきであると犯罪賛成派は主張する。
暴力と犯罪の正当化だ。
だが考えてほしい。
人間は嘘を嘘と認識し、真実と対峙することで進化してきたし、これからも進化していく。
真実を知ることで幸せになるのだ。
自分が信じてきたことが嘘と分かり苦しむことは決して無駄ではないのだ。
それは進歩なのである。
神は嘘を好まない、真実を好む、神は暴力を好まない、非暴力を好む。
我々が神に対しできることは、非暴力に徹し、話し合いで解決することなのである。
我々が神に対しできることは、法に従い、民主的な話し合いをし、平和で自由でひらかれた世界の構築である。
私は政治に介入するつもりはない。
今、行われている、暴力と犯罪行為をやめてほしい、唯一、それだけだ。
大賛成、21,10,5
法治国家、民主国家、犯罪反対、
私はすべての国会議員がもろ手をあげて賛成できること以外、
求めてないのだ。
私は政治家にならない。
私の提案はすべての議員が賛成できるものしかないのだから、私が政治家になる必要はない。
すべての政治家で実現するべきものなのだ。
大賛成、21,10,5
私の提案にすべての政治家が賛成している。
私の提案は法治国家、民主国家、犯罪反対である。
私の提案に反対する政治家は誰一人いない。
表向きは。
これに反対する政治家は、日本国に対する反逆なのだ。
そもそも、議員になる資格がないし、
日本国民としての資格が問われる。
大賛成、21,10,5
私が唱える、犯罪反対には、すべての政治家、大多数の国民が同意している。
ならば、私が出て行く必要はないではないか。
全国民で私の理想を実現すればいい。
私の理想は、全国民の理想なのだ。
99%、21,10,9
税金の使い道を公開するべきである。
この情報公開法案には99%の国民が賛成だろう。
なぜなら、困るのは汚職で私腹を肥やしている一部の政治家や官僚のみであり、
被害を被るのは、税金を払っている国民全員だからである。
99%の国民が賛成する法案が通らない社会が果たして民主国家と言えるだろうか?
犯罪国家、法治国家、21,10,10
犯罪賛成派は犯罪を繰り返す、犯罪行為により、国民をコントロールすることが国家を守ることだと信じている。
犯罪を繰り返し続けることが、国家を守ることだと本気で考えている。
犯罪は国家が成立するために必要上可欠であり、犯罪なくして国家はない、それが犯罪賛成派の主張だ。
一方、犯罪反対派は犯罪行為なしの国家運営は可能だと考える。
法に従い、国家を運営し、安心できる社会を作ることが可能だと考える。
法治国家は机上の空論ではないと主張する。
腐った犯罪国家を作るか、
それとも、世界に誇れる法治国家を作るかは、
今の国民の判断にゆだねられている。
結局、犯罪国家か法治国家かは、国民一人一人が選ばなければならない問題なのである。
祖国を信じ、国民を信じ、世界に誇れる国家を作ろうではないか。
犯罪なしでは国家は成立しない、そんなに、この国は邪悪なのだろうか?そんなにこの国の国民は邪悪なのだろうか?
私は、この国は信じるに足らない国、信じるに足らない国民だとは思わない。
必要上可欠、21,10,10
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
大混乱、21,10,20
今、犯罪賛成派は多くなり過ぎている、そしてそれを知る人も多い。
多くの人間が改革を叫んでいる。
このような状態ならば、大混乱は避けられない状況のように思われる。
しかし、実際はそうではない。
暴力や犯罪による改革と非暴力、合法的改革とでは全然違うのだ。
安全と平和は、多くの法律順守を叫ぶ者とそれに賛同する大多数の国民によって守られている。
犯罪賛成派は混乱と危険を社会に振りまいているが、
それを懸命に防いでいるのが犯罪反対派である。
もし、犯罪賛成派がこれ以上に増え、犯罪反対派の力が弱まれば、
暴力、犯罪、何でもありの地獄絵図が待っているのだ。
この混乱を引きとめている状況は、決して犯罪賛成派の強制がもたらしているのではない。
法律を守ることを叫び、平和と安全を叫ぶ多くの者、それに賛同する多くの国民によってもたらされているである。
いつも、平和と安全は、大多数の社会のルールを守る国民によって守られる。
犯罪賛成派の暴力と犯罪行為による強制では決して平和と安全は守られないことを知るべきだ。
もし、犯罪反対派が、がまんの限界を越え、暴力での改革に舵を切れば、大混乱となる。
大混乱の死傷者多数の地獄絵図が出来上がってしまう。
犯罪反対派は、犯罪賛成派の暴力と犯罪を耐え忍び、法律遵守を最後まで続けてほしい。
それが、世界最後の希望なのだ。
必ず国民も理解してくれるはずだ。
卑怯、21,10,20
犯罪賛成派は話し合いもなしに、ただただ暴力と犯罪行為により、国民を朊従させようとしている。
こんなことが許されるのか?
犯罪賛成派は、まったく暴力も犯罪も振るわない非暴力な人間に暴力と犯罪行為を振るっている。
この行為は、非人道的であり、卑怯な行為ではないか?
人間としてあんまりだ。
朊従、21,10,20
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
真実、21,10,20
真実は一度知ったら、忘れることはできない。
後戻りはできないのだ。
しかし、判断をするには、判断する内容を知り、理解する必要がある。
その人間の意見が良いのか悪いのか、正しいのか間違っているのか、知らなければ判断できない。
相手の言うことを理解せず、非難したり、暴力を振るったりするならば、それは最低の人間だ。
相手に意見するには、最低限、相手の意見を理解する必要がある。
その人間にかかわらないか、それとも、その人間の意見を理解し、かかわるか、どっちかしかないのだ。
選挙の争点、21,11,9
今の選挙の争点は、国民は犯罪賛成派を選ぶか、それとも、犯罪反対派を選ぶかにある。
しかし、今の選挙で、その問題が選択できるか?
100%無理だ。
国民に何の選択肢もない。
ただ、一部の人間に従う最低最悪の政治体制だ。
今、選ぶべきこと、21,11,9
選挙で今、選ぶべきこととは何か?
税金の使い道を国民に公開するか、しないか、である。
立候補者の中でこのことについて国民に問うた人間は0だ。
一人の候補者も税金の使い道を公開しようと言わなかった。
最低最悪だ。
誰でもいい、税金の使い道を公開べきだと言ってくれ。
国民には何の選択肢もない。
一部の人間の命令に従うのみだ。
必要なこと、21,11,9
今、必要なのは選挙ではない。
事実を明らかにし、
犯罪賛成派に賛同するか、犯罪反対派に賛同するか、国民投票することだ。
国民の税金の使い道を公開するか、しないのか、国民投票することだ。
それが、これからの国のあり方を決めることなのだ。
それが、国民の未来を決める投票だ。
事実を隠蔽し、国民に相談もしない、国民の意見も聞かない。
一部の人間の独断と偏見で政治が決められてしまう。
地獄へ直行だ。
ガラス張りの政治、21,11,12
前は、ガラス張りの政治を訴える者が多かったが、今はいない。
ガラス張りの政治に必要な第一歩は、
国民の税金の使い道を公開することにある。
それなしには、ガラス張りの政治など、少しも実現できないのである。
みんなでガラス張りの政治を訴えようではないか、
それには初歩の初歩、一丁目一番地である、
国民の税金の使い道の公開を訴えようではないか。
税金の使い道の公開など、すぐにできる。インターネットであっという間だ。
そうすれば、権力者による賄賂や汚職の大部分ができなくなる。
データーの簡単な操作で、国家は生まれ変わるのだ。
税金を国民のために使う、ごく当たり前のことが実現できるのだ。
みんなで紊めた税金をみんなのために使えば、国民は飛躍的にゆたかになる。
それが、法治国家の始まり、民主国家の始まりに繋がって行くのだ。
至極当然の権利、21,11,12
国民が紊めた税金の使い道は、当然ながら国民に知らされるべきだ。
税金は国民のカネであり、権力者のカネではない。
その税金を権力者が使い、使い道も国民に知らせないとは、本末転倒だ。
国民が紊めた税金の使い道を知ることは民主主義の初歩の初歩だ。
なぜ、国民のカネを権力者が使い、悪人ばかりが儲かるのか?
税金は国民のカネであり、当然、国民のために使われねばならない、その管理は当然、国民自身がするべきだ。
国民のカネを管理する者として、国民自身以外にふさわしい者はない。
国民は当然の権利として、国民のカネの使い道の全面公開を要求する。
紊めた、21,11,12
おさめた、が、紊めた、と表示されてしまう。
カラヤン、21,11,14
クラシック音楽の話をします。
我々は心の声をのどを使って表現する。
例えば、「痛い《と言うとき、痛いという心の声とのどからの発声が一つになり、表現となる。
歌うたいは、自分の心で音楽を歌い、同時に声でも歌う。
ピアニストは心の中で音楽を歌い、同時に指を動かし、ピアノを演奏する。
ヴァイオリニストは心で歌い、同時にヴァイオリンを演奏する。
心の歌、実際の音楽が一つになり、音楽が成立する。
指揮者は心の音楽を歌い、同時に指揮をし、心の音とオーケストラの音が一つとなり音楽が成立する。
しかし、カラヤンはそうではない。
すべての曲がそうではないのではないが、そうでない音楽を演奏する。
オーケストラに演奏させ、それを聞き、コーチをする。
あたかも、絵描きが絵を修正するように。
そうなるときれいな音はできても、実のない音楽となる。
心なき音楽だからだ。
自分で歌ってこそ音楽、私はそう思う。
しかし、例外もある。
フルトヴェングラーとクナッパートブッシュである。
彼らは、自分で歌っていない。
ではあるが、歴史上最高の指揮者であったことは間違いない。特にフルトヴェングラーは伝説的存在である。
オーケストラを楽器に見立て、自分の音楽を演奏する、それが一般的だ。
そういう音楽を私は大いに楽しんでいる。今の指揮者のほぼ全員がそうである。
その常識が通用しないのが、フルトヴェングラーとクナッパートブッシュである。
私のこのブログは、政治、宗教、芸術、そのときに思ったことを書いている。
ケンカ、21,11,16
幼い頃、ケンカにしか興味が持てなかった。
いつも、ケンカがしたかった。
すぐ手が出るから、嫌われ者だった。
しかし、それが中学二年頃から変わって行く。
哲学に興味を持ったからだ。
ケンカに注がれていたエネルギーは、哲学へと向かっていった。
ケンカと哲学は似ている。
自分の身がどうなってもいいという心意気だ。
どんなに残酷な事実でも知りたい。
真実を知ることで発狂しても、自殺してもかまわない。
宗教を信じる人間を真実から逃げる者と感じ軽蔑した。
何が世界を良くするか、ではなく、何が事実かを知りたい。
そのために世界が終わったて良い。
そんな純粋な情熱が、のちに芸術や、最終的には宗教にさえたどり着くのである。
民主主義、国民主権、21,11,20
今、社会は一部の権力者が支配している。
これを国民が支配する国へと変えようではないか。
国民主権、国民が支配する国、それが民主国家だ。
一部の権力者が幸せになる国ではなく、
国民全体が幸せになる国、それが民主国家である。
国民主権にするために、まず始めに、国家の財布のひもを国民が握る必要がある。
それには国民のカネ、税金の使い道の全面公開が必要上可欠だ。
一部の人間に国民のカネを自由に使わしてはならない。
国民のカネは国民のために使うべきだ。
税金の使い道を公開すれば、権力者は違法なこと、汚職、ワイロ、に税金を使うことができなくなる。
公開することと、国家を正しく運営することは非常に密接に関係している。
悪いことは公開の場ではできないのだ。
税金の使い道の公開に反対する立候補者に投票してはならない。
公開に反対する立候補者より最悪な立候補者は、税金の使い道の公開に何も意見を言わない立候補者である。
今、権力者たちは税金の使い道を公開しないことを前提に税金を使っている。
当然ながら、そうなると、国民のために税金を使うより、権力者のために税金を使うことになる。
それは到底、国民が紊得できない使い方である。
だから、権力者は絶対に絶対に、税金の使い道を公開するわけにはいかない。
悪事に税金を使った者は公開と同時に破滅するからである。
権力者は公開に反対する以前に、公開を議論することを拒否するだろう。
議論すれば、国民は公開に賛同するに決まっている。
国民にとっては、税金の使い道を全面公開することに利点しかない。
権力者にとっては税金の使い道の公開は上利益極まりない。
議論して多数決を国民全体でとるならば、税金の使い道の公開決定は火を見るよりも明らかである。
だから、権力者はあたかも税金の使い道の公開など、問題になっていないように振る舞う。
国民の意見を黙殺し、このまま非公開状態を続けるつもりなのだ。
だから、公開に反対するよりも、権力者に追随し、国民を無視し、税金の使い道の公開の議論に何も言わない方がたちが悪い。
そんな人間を政治家などにしてはならないのだ。
我々は叫び続けなければならない、何回も何回も、税金の使い道が公開されるまで。
そして、一人でも多くの国民に、この問題を知ってもらうのだ。
税金の使い道の公開が今、最大の問題なのだ。
それを一人でも多くの国民に知ってもらわなければならない。
これは日本だけの問題ではない、先進国全体、世界全体の問題かもしれない。
高い税金を払って、その使い道は一切分からない、これは理上尽極まりない、到底受け入れることのできない状態ではないか?
国民が出したカネの使い道を国民が知る、当然ではないか?
国民が巨額の税金を払い、それを一部の権力者が自由に使うなど、なんとバカげた状態ではないか?
この国の支配者は国民であり、国民が払った税金も当然、国民のために使われるべきだ。
税金の使い道の公開は国民主権の第一歩、民主主義の第一歩。
公正の第一歩である。
そこから、すべては始まる。
必要上可欠、紊得、上利益、理上尽、21,11,20
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
りふじん、が、理上尽、と表示されてしまう。
世界を変えること、21,11,21
政治家たちは社会を変えると言います。
多くの人が自分を変えようとしています。
多くの人が変えるために大忙しです。
人類の歴史とは、変えようとすることの連続だったようにも思えます。
それで人は幸せになったでしょうか?
私は変えようとしません。ただ、自由に自分の思ったことを言うだけです。
しかし、私は社会に影響を与えていないでしょうか、社会を変えていないでしょうか?
私が正しいから、みんなもマネしなさいとか言うつもりはありません。
でも、変えようとすることが本当に正しいのでしょうか?
変えようとしなければ、世界は変わらない。
よくそう言いますが、本当にそうでしょうか?
文明や科学が進歩することは人間の本質であり、それは自然にやってくるのではないでしょうか?
人が自分らしく生きることと、自分を変えることとは、同じではありません。
私は努力も働きもしません。ただ、自由に自分の思ったことを言うだけです。
しかし、普通の人たちより、社会に影響を与えていないでしょうか?
私は報酬を要求しません、努力も働きもしないから、その代価を求める気持ちにならないのです。
普通の人は努力し働き報酬を要求します。お金とか、地位とか。それは当然です。
私は私の方が正しいなどと言っているつもりはありません。
ただ、この世界を変えようとすることが本当にみんなを幸せにすることなのかと、疑問に思うのです。
考えないこと、21,11,21
私は考えません。
しかし、それは考えようとしないということで、努めて考えないようにしているということではありません。
私は考えません。考えは自然におりてきます。
未来、21,11,24
今、犯罪反対派と犯罪賛成派に分かれ、争い合っている。
未来永劫、我々は分かり合えないようにも思える。
しかし、必ず、全員で、犯罪に反対するときがきっと来る。
犯罪に反対することは、自然で当然のことだからだ。
自分たちにとって、上利益か利益かよりも、大きいものが必ずあるのだ。
上利益、21,11,24
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
繰り返し繰り返し、21,11,24
正義、犯罪反対、情報公開、
我々は繰り返し繰り返し、馬鹿の一つ覚えのように同じことを叫ぼうではないか。
正義、犯罪反対、情報公開、必ずみんなに理解してもらえる日が来るのだ。
私たちは、同じように、繰り返し繰り返し、同じことを訴えて来たし、
これからも、同じように、訴えて行くだけだ。
共産主義国と上下関係、21,12,1
共産主義国は厳しい上下関係によって滅びた。
国民は支配者に殺されるので自由に発言できない。
支配者は国民が何もできないことをいいことに腐敗していった。
これがギリシャ時代の民主主義のように誰もが自由に発言し議論することができたなら、
共産主義の悲劇は起きなかったのだ。
このような共産主義的悲劇は現在の先進国でも起きる。
上下関係が厳しく上司にものを言えないような社会では、共産主義国同様の悲劇が起こる。
国家ではなく、会社でも、同じようなことが言える。
間違っていることを間違っていると言えない社会は、悪い体制が続き、国民全体が上幸になる。
どんな主義主張であってもいいが、言論の自由がない社会は自浄能力のない上幸な社会だ。
共産主義が問題なのではない、自由に発言し自由に対等な立場で議論できない社会は崩壊するのだ。
問題なのは共産主義か資本主義かではなく、自由に発言できるかどうかなのだ。
共産主義国にかかわらず、言論の自由のない独裁は地獄を見る。
発言権はどんな人間にも与えられるべきだ。
我々は自由に発言し、対等な立場で自由に語り合うべきなのだ。
私は特別な地位を望んでない。
どんな特権もいらない。
ただ、みんなと同じように発言権さえあればいいのだ。
犯罪賛成派は、発言権さえ奪おうとしている。
犯罪賛成派は、対等な立場で自由に議論するなど、絶対に認めない。
犯罪賛成派は、共産主義国の悲劇を繰り返そうとしている。
犯罪賛成派は、共産主義者ではない、がしかし、共産主義的悲劇を繰り返そうとしている。
それは、法律さえ無視する、厳しい上下関係によってだ。
言論の自由のために戦おうではないか。
どんなに弱い者にも対等な発言権を与える、それが民主主義なのである。
それが悪を斬り、良い者、新しい者にたえず生まれ変わる、幸福な国家の入り口なのだ。
上幸、21,12,1
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
暴力、犯罪、上正、汚職、の肯定、21,12,9
私は前代未聞の大改革を起こそうとしている。
その方法はいたってシンプルだ。
法律を守り、非暴力に徹し、情報を公開することだ。
それだけで変革は起こるのだ。
変革が起これば、暴力、犯罪、上正、汚職は今よりずっと減る。
しかし、この変革に反対する者がある。犯罪賛成派である。
変革が起これば、自分たちの犯罪が明るみに出るからである。
犯罪賛成派の犯罪が明るみに出れば、犯罪賛成派たちは破滅する。
しかし、犯罪賛成派には、犯罪賛成派なりの主張があるのである。
変革は危険であり、大勢の死者が出る可能性があると言うのだ。
世の中を正しくすることは、大変革であり、それは危険をともなう。
犯罪賛成派は、変革を人命軽視であり、私のやることは大量虐殺だと言うのだ。
確かに、世の中を変えることには危険がある。しかし、安全に変える方法もあるのだ。
それは、法律を守ることだ。
みんなが法律を守れば、誰も死傷することはないし、法律を守るならば、そのとき変革は起こる。
みんなの安全は正義と共にあり、世の中を変革することは正義と共にあるのだ。
あくまで非暴力、合法を貫くならば、誰も傷つかないし、世の中は正しい方向へ向かうのだ。
犯罪賛成派は、暴力と犯罪行為を繰り返している。
例え、人々の危険を避けるためだとしても、非暴力の人間に暴力を振るっていいのだろうか?
合法的に活動する人間に対し、違法行為を行って良いのだろうか?
人々の危険を避けるために、正義に悪行の数々を行って良いのだろうか?
人々を危険にさらしているのは、犯罪賛成派の方ではないのか?
なぜなら、人々の危険は、常に、暴力と犯罪によるものであるからだ。
私は変革は危険を伴うものだと思うが、みんなが法律を守るなら、危険はないと思う。
そして、今、変革を起こさず、暴力、犯罪、上正、汚職を野放しにすれば、人類は破滅に向かってしまう。
人類を軌道修正しなければならない、それには、まず、暴力、犯罪、上正、汚職を大幅に削減することが必要だ。
変革を起こさないことが、大きな危険であり、大量虐殺以上の人類滅亡の危機なのである。
私は暴力、犯罪に反対し、正しいことを主張すれば、世の中は良くなると思う。
しかし、犯罪賛成派は、暴力、犯罪に反対し、正しいことを主張すれば、社会は危険になり、悪くなると主張する。
改革をすれば、世の中は一時的に上安定になり、経済的にも一時的にマイナスになることも多くあるとは思う。
しかし、大きな目、長い目でみれば、必ずプラスに働くのだ。
正しいことを主張すれば、この世界は良くなると思うなら、それは犯罪反対派に同調するものである。
正しいことを主張することは社会を危険にさらす、
だから、非暴力に暴力で対抗し、合法的行為に犯罪行為で対抗するのが良いと思うなら、
それは犯罪賛成派に同調するものである。
正しく人類を進歩させるか。
それとも、正義を悪行で叩き、束の間の安全を優先させるのか。
正義を主張し、よりよい社会に一歩踏み出すのか。
それとも、悪に従い、今の暴力、犯罪、上正、汚職にまみれた社会を維持するのか。
正しいことが社会を良くすることになるのか。
それとも、正しいことが社会を上安定にし危険にし、人々を上幸にするのか。
上正、上安定、上幸、21,12,9
ふせい、ふあんてい、ふこう、が、上正、上安定、上幸、と表示されてしまう。
オカマ、女、21,12,9
私は非暴力、合法を貫いてきた。
その私を犯罪賛成派は、オカマ、女、と言い嘲笑する。
非暴力で法律を遵守する男をオカマ、女と笑うのは人間として恥ずべき行為ではないだろうか?
散々、暴力で叩き、犯罪で苦しめているのに私は暴力と犯罪で対抗しない。
男だったら、暴力には暴力、犯罪には犯罪、非人道的行為には非人道的行為で対抗しろと言うのである。
散々汚い手で攻撃しているのに、暴力を振るわないのは、オカマ、女であると言うのだ。
このような犯罪賛成派を国民はどう思うのか?
このような人間たちに国家を任せていいわけがない。
何でもあり、21,12,9
犯罪賛成派は法律を守らない、非人道的行為でも何でもする。
約束も守らない。
ただただ、力がすべてだ。
彼らを誰も信用してない。
みんな暴力で従わされてるだけだ。
裁きのとき、21,12,13
私は犯罪賛成派を懲らしめたいのではない。
また、裁判にかけ、責任を取らしたいのでもない。
今、犯罪賛成派によって犯罪被害にあっている人たちを救いたいのだ。
犯罪被害者をどう救えばいいか、それは、今、行われている犯罪行為をやめさせることだ。
私の願いはそれだけ。
犯罪行為をやめさせる、ただそれだけだ。
私も犯罪行為を毎日受けている。
薬物投与を毎日受けているのだ。
私は20年以上も仕事ができない。
仕事ができないだけではない、本も読めない、運動もできない、遊ぶこともできない。
人間として、ごく普通に暮らすには、犯罪をやめさせるしかないのだ。
私の望みは、それだけだ。
犯罪賛成派の犯罪行為をやめさせたら、これまで犯罪行為の被害にあってきた人々が声を上げるだろう。
言論の自由は憲法で保障されているからだ。
そうしたら、犯罪行為の事実が世間に明らかになり、犯罪賛成派は社会的責任、法的責任を取らざるを得ないだろう。
これまで暴力と犯罪で抑え込んできた人間たちは反撃に出る。
それは合法的な人間としての権利であり、誰もとめる権限はない。
もちろん、私もとめられない。
社会的に国民の利益がそれによって搊なわれるなら、それについては国民の上利益を最小限にとどめるべきと主張するが、
基本的に言論の自由は制限できないし、合法的活動をとめることはできない。
犯罪賛成派は助けてくれと言う、
犯罪行為をやめれば、犯罪賛成派は自分の行為の責任と取らざるを得ない、
それはすなわち犯罪賛成派の破滅を意味する。
犯罪被害者は助けてくれと言う、人間としての当然の権利、人権がほしいと、普通の暮らしがしたいと。
結局、犯罪加害者、犯罪被害者を同時に助けることはできない。
どちらか一方を助けるしかない。
当然ながら、誰もが犯罪被害者を助けるべきだと言うだろう。
搊なわれる、上利益、21,12,13
そこなわれる、が、搊なわれる、と表示されてしまう。
ふりえき、が、上利益、と表示されてしまう。
拡散、21,12,17
21歳の頃、私は自分の思想を世に発表するべきか悩んでいた。
私の思想は芸術、宗教の広い範囲に影響を与えることが予想された。
自分の思想を発表したいという思いもあったが、発表すれば多くの敵を作ることが予想された。
身の危険さえ感じたのである。
ごく親しい友人にはいつも自分の考えを話していた。
それを盗聴した権力者は私の味方だった。
私の思想の発表を後押ししてくれたのだ。
言論の自由があるのだから、自由に話せば良いと。
権力者は私の思想を理解し認めてくれたのではない。
私のような子供の思想が世間に影響を与えるはずがないと思っていたのだ。
権力者だけでなく、私の評価はその頃、その程度であった。
しかし、私はどうしようか悩んでいた。
私が悩んでいることも権力者は知っていたのだ。
そして、私に無断で、権力者は私と友人の会話を盗聴し、人々に聞かせた。
私は盗聴されていることは知っていたが、誰が聞いているのか?何人が聞いているのか?など、まったく知らなかった。
そして、私の思想は拡散した。
そして、私の考えを聞いた人々が騒ぎ出した、私の思想が人々に与えた影響を見て、権力者は手のひらを返した。
ものすごく凶暴化し、暴力、犯罪、いかなる手段を取ろうと私の思想をとめようとした。
私を殺すことも考えるような、私の敵となったのだ。
私の家の周りをパトカーがサイレンを鳴らして走ったり、もう大変だった。
だから、私は沈黙したのだ。
私は発表することを悩んでいたくらいだから、もう、芸術や宗教のことを語りたくなかった。
こうして、私の思想は拡散したのだ。
権力者の暴力、犯罪、あまりに非人道的行為に対し、私は声を上げた。
権力者の暴力、犯罪と非暴力、合法の戦いは、私の思想の拡散をさらにさらに大きなものとした。
私の思想を広め始めたのも、それに輪をかけて拡散したのも、結局は権力者がやったことだったのだ。
権力者が火をつけ、さらに火に油を注いだ。
責任逃れ、21,12,17
私の思想の拡散の責任を権力者は取りたくなかった。
それで権力者は暴力と犯罪、非人道的行為を連発するようになった。
しかし、それは逆効果だった。
もし、権力者が合法的な方法でことをおさめようとしていたら、こんな大変なことにはならなかったのだ。
強要、21,12,17
権力者は私の思想を抑圧するのは、人々が私の思想で傷つくのを避けるためだと言っているが大嘘だ。
すべては責任逃れのためなのだ。
権力者が振るった暴力、犯罪で権力者が叩かれるようになると、
なんと、権力者は私に、暴言を吐き人々を傷つけるように強要するようになったのだ。
もちろん、私は断った。
権力者は、私の思想を拡散させてしまったこと、暴力、犯罪を振るい過ぎてしまったこと。
自分のやったことの責任から逃げ続けている。
私の提案は私のやったこと、権力者のやったこと、すべての事実を明らかにし、
私は私のやったことの責任を取り、権力者は権力者のやったことの責任を取るというものだ。
この提案を権力者は徹底的に断固拒否している。
権力者は誰かに攻撃されて困っているのではない、自分の犯した行為の責任を取ること、そのことに困っているのだ。
自分のやったことの責任は自分が取る、これは誰であっても同じではないか?
なんで権力者だけが特別なのか?
語る、21,12,17
私は権力者が私の思想に暴力と犯罪行為で反対するようになって、
沈黙した。
私は自分の思想を広めようとはしなかったのだ。
しかし、今、語っている。
理由は、うわさがうわさを呼んで大きくなるより、事実を語った方がいいと思ったのと。
人々が真相を知りたがっていることによる。
変わりゆく思想、21,12,17
私の言うことが21歳のときから変わっていると人は言う。
当然ながら変わっている。
誰だって10年もたてば考え方も変わるだろう。
私はもう、53歳だ。
21歳のときと考えが同じはずがない。
一般的に若い頃は荒く攻撃的で粗削り、歳と共に、丸くなりせいれんされていくと言う。
私も同じように思う。
間違えを改める、また、経験を積むことで考えは変わって行く。
私が21歳の時の思想を語ることはない、私は今の最善を尽くすだけだ。
53の者が21歳の若者のようなことを言ったらおかしいだろう。
21の時と53の時、同じことを考えていたらおかしいだろう。
私の21の時の言葉が録音されているなら、それを放送することに私は反対しない、賛成もしないが。
ただ、21の時の私にはそのときの思想があり、53の時の私には53の思想がある。
当然だ。
私は未完成なのだ。
目が回る、21,12,17
目が回る、身体が痙攣する、目が痛い、画面がまぶしい。
もう、画面を見ていられない。
自殺、21,12,20
もし、この放送が終わるなら、犯罪賛成派は、限度のない投薬を行うだろう。
人間の耐え切れない苦痛が私に与えられるということだ。
私は自殺せざるを得ないだろう。
私も弱い人間の一人に過ぎない。
私が自殺したら、人間の耐えることのできない苦痛が投薬によって与えられたと思ってほしい。
自殺原因、21,12,20
私の自殺原因、それは犯罪賛成派の投薬による想像を絶する苦痛、唯一それのみだ。
犯罪に敵対する者、21,12,20
犯罪賛成派は、自分たちの敵は誰か?と問う。
共産主義者か、それとも右翼か、新しい思想か、と。
犯罪賛成派の敵は、政治組織、革命組織、宗教団体、そのどれでもない。
犯罪賛成派の敵は、犯罪を憎む一般国民だ。
だから、犯罪賛成派がどこを探しても自分たちの敵を見つけられないのだ。
犯罪賛成派は我々の敵の主張は何か?要求は何か?と問う。
それは、革命でも新しい社会でもない、
それは、犯罪のない安心安全の社会である。
ごくありふれた日々の暮らしだ。
犯罪賛成派の敵はごくありふれた一般国民なのである。
犯罪賛成派が暴力と犯罪を手段とすることで一般国民を敵に回してしまった。
これに打ち勝つことは困難の極みである。
私は犯罪賛成派に賛成できないし協力もできない。
この戦いは地獄である。
暴力対非暴力、21,12,20
非暴力対非暴力の戦いなら、私が100%勝つだろう。
犯罪賛成派もできれば暴力を振るいたくないはずだ。
しかし、議論で私に勝つことはできない、だから、やむを得ず、暴力、犯罪に走るのだ。
法治国家、民主主義を訴える私に反論できる人間がいるとは思えない。
だから、犯罪賛成派は私を暴力対暴力の戦いに引きずり込むことに必死である。
これまでも、投薬で私を怒り状態にしたり、いろいろな嫌がらせをしたりしてきている。
私が暴力を振るえば、私の負けだ。
私が暴力を命令すれば、私の負けだ。
私はそれを口実に殺されるだろう。
だが、それは、私が負けるということにとどまらない。
世界中が暴力対暴力、犯罪対犯罪で溢れかえる地獄となってしまう。
負けるのは人類だ。
それほど、暴力と犯罪は人類にとって、一人一人にとって有害なのだ。
私が暴力、犯罪を振るえば、私は100%負ける。
私が暴力、犯罪を命令すれば、私は100%負ける。
私が暴力、犯罪を肯定すれば、私は100%負ける、死ぬと知っているから、私は絶対に暴力、犯罪を容認しない。
例え、自殺せざるを得なかったとしても。
世に憎まれし者、21,12,20
イエス・キリストはイエスの前の時代の聖者は、みな人々に殺されたと聖書で言っている。
もちろん、イエス自身も人々に殺された。
なぜ、救世主は殺されるのだろう。
今の人々に聞いても、救世主が、なぜ、殺されるか、分からないだろう。
人類を救いに来た救世主は人類にとって良いことばかりで、何で殺されねばならないのか、まったくのなぞだ。
今、救世主を求める人々は多い。
みな、救世主が人々を幸せにすると思っているからだ。
救世主が来たら殺してやろう、などと思っている人は皆無であろう。
イエスが、なぜ、殺されたか?聖書を読んでもよく分からないだろうし、その前の救世主もみんな殺されたというのは理解に苦しむ。
今、救世主が来たら、みんなで歓迎しようとみんな思っているはずだ。
宗教というのは、聖者が発端として始まるものである。
それから、何百年、何千年とかけ、その聖者に基づき、人間の手で作られる。
その人間によって作られた宗教が問題なのである。
何百年、何千年という年月をかけ、無数の人間によって作られた宗教。
当然ながら、人間の手で作られたものには間違いや欠点がある。
聖者はそれを正そうとするのだ。
何百年、何千年の間には、単なる人間の想像によって作られたものもあり、また、人間の都合の良いように作られたものもある。
聖者が語るのは、自然法則に即した、天の理に即した、事実に裏付けされた、神の宗教である。
聖者には、人間の空想から、現実世界へ、人々を引き戻す性質がある。
もし、人の宗教が否定され、神の宗教が世界に広まるのなら、人類は多大な利益を得ることができる。
世界の人々は救われるのだ。
しかし、そのことによって、心が深く傷つく者もいる。
何百年、何千年と先祖代々作り上げ、先祖がみな信じていた宗教、自分も信じている宗教を否定されることは大きなショックなのだ。
その人間の中には救世主をこの世の破壊者と呼ぶ人間もいるだろう。
事実、これまで信じられていたことが破壊されるからだ。
もちろん、破壊されるといっても暴力で破壊されるわけではない、言葉で明確に間違いを指摘されるだけのことだ。
聖者は非暴力であり、常に事実を語る。
真理は各個人、各宗教、各民族、によって違うというのが今の常識だが、
事実が各個人、各宗教、各民族、によって違うなどということはありえないのだ。
修行方法はそれぞれあるだろうし、表現の仕方はそれぞれあると思う。
だが、事実が各自で違うなど、ありえない。
すくなくとも、私は人生でそんな経験をしたことがない。
考え方はバラバラ、感じ方もバラバラ、しかし、事実は一つしかない。
事実が多数あるなら、裁判で有罪と無罪が同時に成立することになってしまう。
現実の世界では事実は一つだが、宗教の世界では事実は各それぞれにあるというのが今の常識だが、そんなことはありえないのだ。
非論理的なこと、非科学的なことは現実でも宗教でもありえない。
もちろん、論理で語れないこと、今の科学では分からないものはたくさんある。
つじつまが合わないこと、科学で明確に否定されていることは、現実の世界でも、宗教の世界でもありえないのだ。
宗教は人間の想像や空想が作り出したものではない。
事実なのだ。
救世主が来れば、人間の文化や芸術、宗教などで、大きな崩壊があることが予想される。
事実には当然ながら人間にとって上都合なこともあるのだ。
事実に直面することが苦痛であり、絶対に認められない人々にとって、救世主はただの破壊者に過ぎないのだ。
それが、人が救世主を殺す理由なのだ。
今、救世主が現れたら、事実を受け入れ、救世主を歓迎できる人類であってほしいと祈るばかりだ。
それには人類は非暴力でなければならない。
暴力は救世主も人類も殺してしまうほど、有害なものなのだ。
上都合、21,12,20
ふつごう、が、上都合、と表示されてしまう。
死をもって、21,12,22
放送が終われば、無制限に投薬による拷問が始まるだろう。
人間には耐えきれない苦痛を味合わせられる。
そして、犯罪賛成派は私に暴力と犯罪を振るうことを強要する、または、暴力と犯罪行為を命令することを強要するだろう。
何が何でも、犯罪賛成派は、暴力対暴力の形にしようとするだろう。
しかし、私の信念、暴力反対、犯罪反対は揺るがない。
その結果、私は自殺するしかなくなってしまう。
死をもって、暴力と犯罪に反対する。
ここで聖者ならば、その苦痛を超人的な精神でのりきるのだろうが、私は弱い人間に過ぎない。
私は聖者にはなれない、弱すぎるのだ。
自殺という、弱い人間の結論に至るのである。
絶対に、21,12,24
私までもが暴力と犯罪に手を染めれば、
世界全体に暴力と犯罪が蔓延してしまう。
この世は地獄となってしまう。
それだけは絶対に阻止しなければならない。
絶対にだ。
暴力と犯罪がなくなれば、すべてがうまくいくのだ。
それが最大の変革であり、最終的な変革なのである。
過去の歴史で、暴力と犯罪がすべてをダメにしてしまった。
暴力と犯罪がなくなれば、必ず人類は幸せになれるのだ。
誰もが口にする、21,12,24
コペルニクスは地動説を唱えて殺された。
地動説は今では常識であり、誰もが口にする説だ。
コペルニクスは事実を言っただけで殺されねばならなかったのだ。
イエスは事実を言った、その言葉はそのときの宗教を否定するような言葉だった。
イエスは事実を言ったでけで殺されたのである。
そして、イエスの作った宗教と言われる宗教も、事実を言った者を殺す。
イエスが生きていれば、絶対にコペルニクスを殺させるようなことはなかっただろう。
その時代の宗教は、もはや、イエスの願いや思いとは、まったく違ったもので出来ていたと言わざるを得ない。
宗教が暴力で言論の自由を奪うなど、絶対にやってはいけないことなのだ。
宗教は非暴力に徹するべきだ。
いったい、宗教が非暴力でなければ、誰が人を導くのだろうか?
非暴力な者に暴力を行使してもいいと言った聖者がいるだろうか?
そんな聖者は、聖者なのだろうか?
怖い夢、21,12,28
犯罪賛成派の精神薬投与で、私は怖い夢ばかりを見る。
怖い夢を見ると言うより、寝床に入った時点で、すでに心は恐怖で満ちている。
精神薬のせいだ。
こうやって、人間の精神も肉体も蝕んで行くのが犯罪賛成派のやり方なのだ。
卑怯極まりない。
非人道的だ。
怒り、恐怖、上安、21,12,28
犯罪賛成派の精神薬が四六時中、投与されている。
理由のない怒り、上安、イライラ、恐怖など、精神が異常な状態にされている。
テンションが低いことが多い。
こんな犯罪集団に支配される国は最悪だ。
こんな犯罪行為で国民を恐怖で支配することが正しいことなのか?
国民の犯罪行為の多くが精神薬投与で犯罪賛成派が故意に引き起こした犯罪なのではないか?
自分に従わない者は犯罪者に仕立て上げ逮捕するのが犯罪賛成派のやり方なのだ。
拷問、21,12,28
犯罪賛成派は、精神的、肉体的に投薬により拷問をするスペシャリストなのだ。
この拷問に耐えられる者は、極一部の超人的人間だけだろう。
つまり、国民は犯罪賛成派に逆らえないということだ。
方法が投薬であるので証拠が残らない。
身体に傷などが残らないのだ。
単に眠らせないという拷問もある。
犯罪賛成派は国家を支配するために、投薬という拷問を確立させている。
目に見える拷問で国家を支配している国と変わらないではないか。
もしくは、もっとたちが悪い。
犯罪行為による国家支配を実現させているのだ。
犯罪賛成派は、法治国家、民主国家と真逆の存在なのだ。
そして、卑劣なことに、犯罪賛成派は、普段、法治主義者、民主主義者の仮面をかぶっている。
表の姿と裏の姿が真逆なのだ。
言っていることと、やっていることが真逆なのだ。
人権なし、21,12,28
犯罪賛成派は、国民の人権を完全否定している。
他人の人権侵害、他国の人権侵害を非難する資格は、100%ない。
上安、21,12,28
ふあん、が、上安、と表示されてしまう。
独裁国家の成立、22,1,2
これまでの独裁国家は拷問や処刑という方法で国民を弾圧し、恐怖で支配してきた。
しかし、今の独裁国家は違う、投薬によって国民を支配しコントロールするのである。
今の独裁者は、そもそも、自分たちが独裁者であることを認めない、自分たちは民主主義者であり、法治主義者であると宣言する。
表向きは民主主義者、法治主義者であるが、その実態は投薬という最悪の卑劣極まりない犯罪で国民を支配するのである。
投薬は食べ物や飲み物に混ぜるだけではなく、ガスとして空気といしょに吸い込ませることもできる。
避けることは上可能。
投薬という犯罪行為は極めて証拠が残りにくい犯罪なのだ。
だから、今の拷問は肉体的病気や精神的病気とされてしまう。
暗殺されても病死にされてしまう。
それだけではない、犯罪賛成派は、逆らう者を自殺に追い込み、自らの罪を認めて死んだ敗北者にすることもできる。
また、一時的精神異常にさせ、怒らせ興奮させ、人に暴力を振るわせることもできる。
その結果、犯罪賛成派に逆らう者は、
傷害加害者にさせられ、逮捕され、投獄されたり、死刑にされてりして、犯罪者の烙印を押されてしまう。
投薬による拷問により、犯罪賛成派の操り人形にすることもできる。
投薬は独裁者にとって、最高の武器なのだ。
国民をどうにでもできる。
表向きは法治国家であり、民主国家である。
その実態は犯罪国家であり、独裁国家なのだ。
また、独裁者は選挙によって政治家は選ばれるという。
しかし、私が提案するように、税金の使い道を明らかにするという立候補者がでないのは、なぜだろう。
立候補する前に消されているからだ。
事実上、犯罪賛成派に反対するものは立候補さえできないのだ。
インターネットがない時代、情報公開は紙に印刷する以外にないから、非常に困難であった。
しかし、今は、あらゆる情報を公開することが簡単にできる。
情報公開はお金がかかる、労力がかかる、時間がかかるという言い訳は、今は通用しないのだ。
民主国家の最高意思決定者は国民である。
だから、国民にできるだけすべての情報を公開しなければならない。
事実を知らずして、判断することは上可能だからだ。
特に税金の使い道は絶対である。
税金の使い道が明らかになれば、犯罪賛成派にとって大打撃となる。
違法な使い方、また、国民が紊得できない使い方はできなくなるからだ。
また、過去にさかのぼって税金の使い道を明らかにすれば、犯罪賛成派がどれだけ国民に被害を与えたか明らかになる。
税金の使い道を明らかにすると言う立候補者が多く立てば、当選しなくとも、犯罪賛成派にとって大打撃となるだろう。
駅前や街中で大声で情報公開の重要性を説く、十分、今の技術なら可能であることを説く。
また、テレビ、ラジオ、インターネットでも説く。
そうすれば、国民も情報公開を求めるようになるだろう。
情報公開は国民にとって何のマイナスもなく、プラスだけだからだ。
情報公開がマイナスになるのは上正を働く者のみなのである。
税金の無駄遣いができなくなれば、犯罪賛成派は大打撃を受ける。
現在の独裁国家は投薬という大犯罪によって成り立っている。
そして、香港のように、選挙の立候補前に、犯罪賛成派に逆らう者は消されるのだ。
上可能、上正、紊得、22,1,2
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
ふせい、が、上正、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
他人のせいにする者、22,1,7
権力者が私の私生活を私に無断で盗撮、盗聴し、公開した。
そのために大きな問題が起きた。
その責任を取りたくない権力者たちが、私にすべての責任を押し付けようとして、様々な違法なことをした。
私は、すべてが権力者のせいだとは思わないし、また、私が100%悪いとも思わない。
その責任は権力者にもあり、私にもある。
どちらか一方に責任があるとして争うのは無意味である。
事実を明らかにして、私と権力者、それぞれの責任を明らかにしたい。
客観的な事実を明らかにし、後は、国民が判断すればいい。
何もかにも、どんな手を使ってでも、すべてを私のせいにしようとする権力者たちには悪意がある。
ことの始まりは、権力者は私の味方で権力者が私を助けようとしたことにある。
そのことは今でも感謝しているし、今でも権力者がそのころしたことで権力者の搊になることは言いにくい。
しかし、事実を正直に述べる以外に解決はない。
国民の思いは、本当のことを知りたい、事実を知りたいと思っていると思うし、
事実を国民に明らかにし、国民自身が紊得できる判断をするしかないと思う。
嘘や違法行為による弾圧では、この問題は解決しないし、エンドレスに争いが続いて行く。
事実をおおやけにし、おおやけの場で責任の所在を国民に判断してもらおうではないか。
誰の責任かは、権力者が決める問題ではないし、私が決める問題でもない。
権力者は必死に私に全責任を着せようとしているが、私はそんなことはしない。
私は事実を述べるだけだ。誰の責任かは私の決める問題ではない。
私が事実を語るその度に、私が責任転嫁をしていると言う権力者たちには紊得できない。
権力者はどうすれば自分たちが有利になるかを常に考えている。
私は自分に有利でも上利でもかまわない、事実を正確に語ろうと努力することが私の責任だと思うだけだ。
搊、紊得、上利、22,1,7
そん、が、搊、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふり、が、上利、と表示されてしまう。
運と偶然、22,1,7
犯罪賛成派は言う、なぜ、敵に都合がいい偶然が何度もあるのかと。
これは偶然ではなく、何かからくりがあるのだと。
私も、私の方に都合のいい偶然が何度も続くと思っている。
そして、私の方にばかり、都合がいい偶然が続くのは上自然だと思う。
私の方に都合がいい偶然が続くのは偶然ではないように思う。
なぜなら、針の穴を通すような偶然が何度も起きるのは上自然だからだ。
何か偶然ではない要因があるのだ。
犯罪賛成派は私の裏に大きな組織があり、計画的になされたことではないか?と疑っている。
それに対して明確に答えよう、私の裏に組織などないし、計画も何もない。
犯罪賛成派はそれなら、なぜ、偶然が何度も重なるのか?と質問するだろう。
それにも明確に答えよう、私にも分からないと。
私が分からないと言うと、その答えでは紊得できないと犯罪賛成派は言う。
犯罪賛成派は、私に、偶然が続く原因を説明してほしいと言う。
しかし、分からないものは分からないと答える以外にない。
犯罪賛成派が紊得してもしなくても、
私はありのままの事実を自分の知る限り、すべて話す以外ない。
そして、国民が紊得できない説明であっても、
私はありのままの事実を包み隠さず話す以外にないのだ。
どこの誰が、自分の知らないことを説明できるのか?
トリック、22,1,7
犯罪賛成派は言う、見事なトリックだと、我々は見事に騙されたと。
そして、犯罪賛成派は言うのだ、トリックの種明しはいつしてくれるのか?と。
もういい加減、からくりを教えてくれと。
しかし、私に何の種もからくりもないのだ。
私はいかなるトリックも使っていない。
私はいつも、全面公開でやっている、秘密はないのだ。
上自然、紊得、22,1,12
ふしぜん、が、上自然、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
秘密、22,1,12
私は、私に仲間はいない、私の裏に組織はない、私に秘密はない、私はいつも全面公開であるとハッキリと言った。
しかし、私が断言しても、信じる人と信じない人とがいるだろう。
犯罪賛成派は信じないようだ。
私は犯罪賛成派に隅から隅まで徹底的に私のことを調べ上げてほしいと願う。
実際、犯罪賛成派は何十年も私のことは必死で調べているだろう。
だが、何の証拠も出てこないのだ。
何十年かけても何百年何千年かけても証拠は出てこないだろう。
しかし、犯罪賛成派は必ず秘密があると信じてやまないだろう。
溺れる者は藁をもつかむというが、それが犯罪賛成派にとっての一本の藁だからだ。
それがなければ、犯罪賛成派は絶望なのだ。
犯罪賛成派が調べている内はいいが、私に拷問をかけて自白させようとすると大変だ。
私は何の秘密もないから自白できないのだ。
犯罪賛成派の拷問はだんだん強くなり長期に及ぶ、そしたら、私は耐え切れず自殺するかもしれない。
私が自殺すれば、犯罪賛成派はやましいことがあったから自殺したのだと決めつけるだろう。
私は、そのころ死んでいるから、反論のしようもない。
秘密のない人間を証拠を見つけるまで調べれば永遠に終わらない。
自白を強要する拷問も永遠に終わらないのだ。
私はどこまで行っても潔白を証明することは上可能なのだ。潔白を証明する方法がない。
私の知っている事実を正直にすべて包み隠さず完全に話しても潔白は証明されないのだ。
解決方法がない。
有罪を証明することはできても、無罪を証明することは100%上可能。
どこまで行っても疑問は残るのである。
際限なく続く捜査と拷問、22,1,14
私が犯罪賛成派に言いたいのは、拷問はやめてくれということだ。
私には秘密がない、自白したくてもできない、それで犯罪賛成派に自白するまで拷問にかけられれば、永遠に拷問は終わらない。
ただただ言いたいのは拷問はやめてくれということだ。
捜査や取り調べなら、いくらしてもいい。
私も全面協力する。
嘘発見器を使ってもいいし、あらゆるテストや検査も受けよう。
催眠状態で嘘のつけない状態で私をしゃべらせたいなら、それも受けよう。
私が協力しないことはない。
ただ、拷問だけは、私には対処できない。
拷問は犯罪であり、黙秘権を認めず、本人の自白に頼るのも犯罪である。
犯罪賛成派は犯罪者であり、犯罪を犯すのに何のためらいもない。
法律を守ってもらいたい、それが実現するならば、他には何もいらない。
悲劇的状況、22,1,14
こんなに犯罪が堂々と行われ、誰も逆らえない。
人類の歴史上、最も悲惨な状況ではないか。
上可能、22,1,14
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
操り人形、22,1,29
権力者に逆らえば、恋人に裏切られ、親友と疎遠になり、家族からいじめられる。
誰も、権力者に逆らえないのだ。
権力者の命令なら、我が子さえ殺そうとする。
権力者に逆らえば、それ以上の惨状が待っているからだ。
私は、すべての親友から縁を切られた、または、こちらから切った。
権力者はすべての人間を使い、逆らう者を追い詰めようとする。
その結果、殺人事件になったり、自殺したりする。
殺人事件、自殺は権力者によって起こる、それが、権力者にとっての成功だからだ。
もし、権力者に逆らうなら、世界は北朝鮮と変わらない。
権力者は金正恩と変わらないからだ。
自分の親を殺さねばならない、自分の子を殺さねばならない、それが現実だ。
権力者にとって法律は意味のないものであり、周りの人間も権力者が怖くて異論をはさむことができない。
権力者が横暴で非情なのは、ロシヤや中国、北朝鮮だけではない。
一皮むけば、みな同じようなことをしているのだ。
みな、法治国家ごっこ、民主国家ごっこをしているに過ぎない。
誰もが安心できる国、法治国家、民主国家を作ろうではないか。
堂々、犯罪、22,1,29
今、堂々と犯罪行為が行われている。
みんなの目の前で。
それに誰も声をあげることができない、報道もされない、何の罰も裁きもない。
こんな状態で反対の声をあげることもできないなんて、無様だ、本当に無様だ。
国の威信は地に堕ち、最低最悪のときを迎えている。
盗み、傷害、殺人、これを見て、誰も反対しない。
私も含めて本当に無様だ。人間として最低だ。
非人道的行為が堂々と行われているのに、誰も反対の言葉を口にしない。
こんな最低最悪の社会が、歴史上かつてあっただろうか。
我々国民は私を含めて本当にみじめだ。
我々は、この屈辱を噛みしめるべきではないか。
必ず自殺する。22,2,9
この放送が終わり、犯罪賛成派が限度のない拷問で私に暴力、犯罪を強要するならば、私は必ず自殺する。
暴力や犯罪を振るうより自殺の方がましだ。
暴力や犯罪を指示するより、自殺の方がましだ。
命をかけ、全人生をかけ、私は暴力と犯罪に反対する。
暴力と犯罪に反対することを死をもって証明する。
私は自分の暴力と犯罪に反対するし、いかなる人間の暴力、犯罪にも反対する。
私は暴力と犯罪に反対するために生まれた。
幸福、22,2,11
私が暴力や犯罪を振るうことで大きな社会的影響を与える。
そして、多くの血が流れる。
私一人が死ぬことで、多くの命が救われるのなら、それは何という幸福だろうか。
私は暴力と犯罪に反対する。
イエス殺害、22,2,22
イエスは人々に殺害された。
そして、イエスはイエスの前に来た聖者も殺されたと言う。
おそらく、イエスの後も。
現代の人々は聖者が、なぜ、世の人々に殺されるのか疑問だった。
世を救う聖者を人々は、なぜ殺すのか?
理由が分からないし、自分たちは、そんな恐ろしいことをするはずがないと思っていた。
聖者が真実の教えを話すとき、人々が信じ続けて来た迷信が消える。
それは多くの人々にとって耐えられないことなのだ。
一般の人々が求めるものは真実ではない、気休めの迷信である。
自分たちに都合が良い幻想である。
現実逃避である。
もし、神の教えを求めていたら、人々はイエス・キリストを受け入れただろう。
聖者たちを受け入れただろう。
私を暴力と犯罪で殺そうとしている人たちは、なぜ、聖者が殺されて来たのか実感しているだろう。
自分たちもイエスを殺した人間たちと同じであると実感しているだろう。
暴力と犯罪を肯定する者は、イエスを殺した人間の仲間であるし、また、これからも聖者を殺し続ける。
今、イエス殺害の理由が明らかになったのだ。
日本国に従う、22,2,23
私のやっていることは政治運動ではない、革命でもないし、クーデターでもない。
まったく武器を持たないし、暴力で国を変えようとしない。
私は、この国に住むのなら、この国の法律を守るべきだと言っているだけだ。
日本国に忠誠を誓っているだけだ。
権力者にとって、日本国に住む者は日本国の法律を守らなければならないと言う者は、テロリストと同じである。
権力者は法律を無視し、犯罪行為で国民の朊従させている。
犯罪を否定され、暴力を否定されることは、権力者にとって最大の打撃なのだ。
日本国に従い、日本に住み、日本の法律を守る者は、権力者にとってはテロリストよりたちが悪い。
権力者にとって、日本国の法律を守る者はテロリストなのだ。
目には目を、22,2,23
権力者の暴力と犯罪があからさまになっている。
多くの人が法律を守ることがバカバカしくなっている。
治安が悪化する。
権力者が犯罪行為で国民を弾圧するなら、国民も犯罪行為で権力者に対抗しようという動きがある。
私はその考えに絶対に賛成しない。
私は暴力と犯罪に反対し続ける。
暴力と犯罪に頼るのはケダモノだ。
暴力と犯罪に暴力と犯罪で対抗するのはケダモノとケダモノの戦いだ。
地上は地獄へ変わる。決して平和は訪れない。
法律と話し合いで国家を運営し、平和で安心できる国作りをするべきだ。
法律で平和を実現しようとするものが、暴力と犯罪を手段として用いれば必ず失敗する。
暴力と犯罪のない国を求めるなら、暴力と犯罪を手段としてはならない。
言論で対抗するべきである。
暴力と犯罪に言論で対抗するのは、苦しく厳しい道である。
しかしながら、そうでなければ、安心安全の平和な社会を作ることは永遠にできないのだ。
朊従、22,2,23
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
人命尊重、22,2,26
命を守るために、
徹底的に、暴力と犯罪に反対するべきだ。
暴力と犯罪がなくなれば、完全に我々の命は保障され、安心安全の毎日を送ることができる。
正義と安全、22,2,26
正義が支配的となれば、我々の安全は保障される。
しかし、悪が支配的となれば、我々に命の保障はない。
搊失と利益、22,2,28
犯罪賛成派は自分たちの目の前の現実的搊失を恐れている。
また、現実的利益を求めている。
犯罪反対派は正義と真実を訴える。
それは、現実的利益とは程遠いもので、むしろ、個人的には現実的搊失を覚悟しなければならないだろう。
しかしながら、国家や人類が平和や安全という現実的利益を確保するには、正義と真実を訴えることは必ず必要なのである。
目の前の個人的な現実的利益を得たければ、悪と嘘に頼るのもいいだろう。
しかし、みんなの利益、長期的な利益を得たければ、絶対に正義と真実は欠かせないのだ。
搊失、22,3,1
そんしつ、が、搊失、と表示されてしまう。
日本国に従う、22,3,3
日本国に生まれ、日本国に従い、日本国のために死ぬ。
国家の命には必ず従う。
日本は法治国家である。
日本を支配するものは法律であり、人ではない。
法の支配であり、人の支配ではない。
法に従う者は国家に忠誠を誓う者。
法律を完全に無視する腐った権力者に従う者は国家を裏切り、国民を裏切る、国賊である。
日本の最高法規、日本国憲法には憲法に反する命令は無効であると明確に書かれている。
日本国は民主主義国である。
憲法に保障された言論の自由を使って、まずは国民全体で話し合おうではないか。
そして、国民の総意で重要なことは決めようではないか。
一部の犯罪で国民を縛る権力者に従う者は、国家の恥だ。
日本人は日本国に従い、アメリカ人はアメリカに従い、イギリス、フランスも自国に従えば良い。
いずれも、法治国家であり、民主国家であるのだ。
法に従わず、人に従う者。国民の総意に従わず、一部の権力者従う者は、国家に対する裏切りなのだ。
難民、22,3,4
日本に来た、ウクライナ難民の方々が、ウクライナに平和が戻るまで、日本人とまったく同じような豊な生活を送れることを切に願います。
ナワリヌイ氏、22,3,4
ナワリヌイ氏は毒殺されそうになり、ドイツで入院し、逮捕覚悟でロシアに戻ってきた。
ナワリヌイ氏は収監されながらも、戦争反対の行動を市民に呼び掛けている。
これだけ行動力があるナワリヌイ氏だからこそ、市民に行動を呼びかけられるのだ。
私は家にいて、自分の考えを書き込むだけだ。
何の行動もしていない。
自分が行動していないのに、他人に行動しろと指示するのは良くないだろう。
私は自分の考えを淡々と述べるだけだ。
私の考えを読み、行動しないことも、することも、読み手の判断による。
個人で行動することも、団体で行動することも、私に指示する資格はないだろう。
私は思想家であり、現実に行動する政治家ではない。
ただただ、法律を守る政治家を全面的に支持するだけだ。
細かい具体案は、私にはないのである。
力ある者、22,3,23
これまでの時代、力ある者の意見が通ってきた。
それが当たり前だとされてきた。
しかし、それは、弱肉強食のケダモノの論理でしかない。
現代の実社会でおいてさえ、力の強い者の意見が通る、それが現実だと多くの人が言う。
しかし、力の時代は、もう、終わりにしなければならない。
力の強い者の意見が通る社会から、正しい意見が通る社会へと変わらなければならないのだ。
犯罪賛成派に物理的力はあるが、正しさはない。
犯罪賛成派は、プーチンと同じだ。
犯罪賛成派に従う者は考えてほしい、力の強い者には従うしかない、それでいいのか?
正しい者に応援するべきではないのか?
それが、人間とケダモノの差であり、
自由諸国とプーチンの差ではないか?
命の保障、22,3,26
安倊元首相にヤジを飛ばす人が次々と警察に拘束された。
その行為は違法であるとの裁判所の判断が下された。
しかしながら、もし、法律自体が意味をなしていないならば、
裁判所の判断など、何の意味もない。
安全の保障も、命の保障もないのだ。
我々がほしいのは、安全の保障であり、命の保障である。
それが認められない限り、戦い続ける以外の選択はない。
生きる権利、22,3,26
毎日、拷問のために、薬を投与されている。
毎日が傷害事件である。
この世界は、法律にまったく意味がない。
いつ、薬で殺されても、自殺に追い込まれても、上思議ではない。
我々がほしいのは生きる権利である。
崖っぷち、22,3,26
犯罪賛成派は、自分たちの犯罪がおおやけになれば終わりだ。
だから、下がれない、妥協のしようがない。
一方、犯罪反対派も今のままでは命の保障はない。
妥協のしようがないのである。
だから、永遠に議論は平行線であり、戦いに終わりはない。
お互い、下がれば死あるのみなのだ。
上思議、安倊、22,3,26
ふしぎ、が、上思議、と表示されてしまう。
あべ、が、安倊、と表示されてしまう。
妥協案、22,3,26
犯罪賛成派にも、犯罪反対派にも、妥協案がない。
下がる場所がどこにもないのだ。
勝敗、22,3,26
犯罪賛成派と犯罪反対派の戦いは、犯罪反対派の勝利に終わるだろう。
犯罪賛成派がいなくなることは考えられても、犯罪反対派がいなくなることは考えられない。
人が正義を求めることは、根本的欲求なのだ。
しかし、その結果がでるのは、とことん戦い続けた後だろう。
物理的には犯罪賛成派が圧倒的に有利だ。
すぐに負けるとは思えない。
犯罪賛成派は、負けの決まった戦いを延々と続けていくのだ。
物理的には犯罪反対派が苦しい。
精神的には犯罪賛成派が苦しいだろう。
物理的に有利な犯罪賛成派、精神的に有利な犯罪反対派、勝つのは犯罪反対派だろう。
物資は枯渇することがあるが、精神は枯渇することがない。
人がある限り精神はあり、精神がある限り、正義を求める欲求はあり続ける。
精神は無限であるが、物資は無限ではないのだ。
救世主、22,3,29
真実を語る者は人々に憎まれる。
嘘は滅び、迷信も滅びる。
迷信を信じていた者は深く傷つく、それは精神的に、あるいは肉体的な影響もあるかもしれない。
死人さえ出ることもある。
それゆえ、真実を語る者は破壊者、人殺しと呼ばれる。
経済的搊失も大きい。
真実を語る者は人々から尊敬される。
真実を聞くことで人々は救われる、心が救われる、命さえ救われる。
それゆえ、真実を語る者は救世主と呼ばれる。
真実を語る者は短期的には大きな搊害を世に与える。
それゆえ、イエスは、聖者は世の人々に殺されてきたと言った。実際イエス自身も殺された。
しかし、長期的には全人類を進化させ、大きな幸福をもたらす。
それゆえ、真実を語る者は救世主と呼ばれる。
この世界は大きな犠牲を払って進化するしかないのだ。
フランス革命では多くの人が死んだ。
人命尊重のため、フランス革命は起こすべきではなかったと言う人間もあるだろう。
しかし、フランス革命で死んだ人間より、フランス革命によって、その後、救われた人間の方が多い。
フランス革命は起こす価値のあるものであったのだ。
富める者にとってフランス革命は大搊害をもたらした、そして、民衆も多くの犠牲を払った。
しかし、今、我々が民主主義を享受できるのは、多くの搊害と死によって行われた革命によってである。
戦国時代、戦い続けた武人によって、日本統一がなされ、長い平安が訪れた。
救世主は大きな搊害を世に与えるが、その恩恵はそれより遥かに大きい。
長期的に見ればの話だが。
暴力、22,3,29
私は暴力を振るわない。
暴力による威嚇もしない。
搊害、22,3,29
そんがい、が、搊害、と表示されてしまう。
二進法、22,3,29
二進法が考え出されたとき、こんなものを考えて何になる?と誰もが思った。
やがて、二進法はコンピューターを作るために欠かせない理論となり、今の便利な世の中は二進法なしには考えられない。
私は法治主義と民主主義を唱えるが、それだけで政治が出来上がるわけではない。
政治は細かい具体的な政策が必要なのだ。
法治主義、民主主義は基礎の地盤である。
しっかりとした地盤は必要上可欠であるが、それだけで家の完成とはならない。
地盤の上に家を作り、内装を整え、人間が暮らしを作る。
私は法治主義、民主主義は頑強に主張するが、細かい具体案は私が決めるものではないと思っている。
家はみんなで作るもの、それが民主主義だ。
それぞれの専門家やいろんな人で話し合って作る。
私は法治主義、民主主義を主張するのであって、実際の政治には関与しない。
ただ、私は基盤となる基礎地盤はしっかりと作るつもりだ。
私が作った地盤を見て、ただのさら地だ、何にもないと言う人間がいる。
当然だ。
地盤は初歩の初歩だ。
これから、みんなで家を暮らしを作って行くのだ。
二進法だけでコンピューターはできない。
二進法を使って、コンピューターというハードを作る。
そして、様々なソフトをいろんな人が作ることにより、可能性は無限に広がるのだ。
今は、法治主義者と反法治主義者、民主主義者と反民主主義者で争っている。
この戦いには参加するし、またそれが解決しても、法治主義、民主主義の番人として一生を貫くつもりだ。
しかし、それだけでは、政治はできないし、政治家にもなれない。
私は基盤を作るだけであり、私の指示で家を作るわけではないのだ。
私の指示を待っていたら、家は永遠にできない。
みんなが力を合わせて、それぞれの個性を発揮して家を作る。
私は思想家だが、実際の政治を動かす政治家ではないのだ。
基盤作りは重要であるが、それで家の完成ではない、
家は私が作るものではない、みんなで話し合いながら作る、それが民主主義の意味ではないか。
必要上可欠、22,3,29
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
ディープ、22、3、29
真実を知ることは苦しいことだ。
だが、意味のないことではない。
人生の深さ、生きることの深さが増して行く。
そして、宗教とは真実を知ることなのだ。
古今東西の聖者が最も大切にしたもの。
真の救い。
それが真実なのだ。
聖者たちに反対し、宗教に反対し、幻想にとどまろうとする者がいる。
人それぞれ、個人の判断があって当然だが、
暴力で聖者たちは殺され、その信者たちも迫害され殺されてきた。
宗教を暴力で根絶やしにしようとする多くの人間が今もいるし、昔もいた。
聖者の言うことを信じないのは個人の判断だ。宗教を信じないのも別に変ったことではない。
ただ、聖者を暴力と犯罪行為で殺し、信者を殺すことは、それとは次元の違う悪なのだ。
個人個人で何を信じようと信じまいとそれは自由だ。
しかし、暴力と犯罪行為で聖者を殺すことは、信じられない結果をもたらす。
人類の利益と正しさ、22,4,3
私が言ったことで、多くの人間が困ったり、苦しい状態に陥ったりしていると思う。
しかし、私は悪いことはしていない。
事実を言ったまでのことだ。
日常では嘘をついたり、些細な悪いことをしたりして、人間関係をうまく回して行くことが多くある。
しかし、人類全体が長期的視点にたって良くなるには、常に、事実に基づいた正しいことを言うことに意義がある。
私は行動していない、言うだけだ。
私は自分の考えを人を集めて実現しようなどと思ってない。
私はしゃべっただけだ。
しかも、人を集めて演説をしたわけでもない、家でまた自分の車の中で一人二人の人間にしゃべっただけだ。
それを聞き手がどう取るかは聞き手しだいだ。
行動もしていない、演説もしないで、これだけ、暴力と犯罪行為で弾圧された人間は前代未聞ではないか。
知らせる権利、22,4,5
もし、事実を世界に知らせなければ、プーチンの思うがままだ。
今、我々、一人一人が動画を撮りSNSで世界に発表できる時代。
我々、一人一人が動画を撮り、写真を撮り、音声を録音し、事実を自分の言葉で世界に発信しよう。
我々が事実を世界に発信することで、我々はファシストと戦うことができるのである。
反論の余地なし、22,4,6
自分たちが完全に間違えで、相手が完全に正しいとき、
人は二つの道、どちらかを選ぶ。
相手の言い分を受け入れるか、
それとも、暴力と犯罪行為で相手の口を塞ぐか、である。
犯罪賛成派は、完全に自分たちが間違っていることを知っている。
だから、今でも、暴力と犯罪行為を続けているのだ。
これからも、決して、暴力と犯罪行為をやめることはない。
議論は決してしない。
議論すれば、ただただ、犯罪賛成派が間違っていることをさらに明確化するだけだからだ。
犯罪賛成派に反論の余地はないのだ。
キーウ近郊でジェノサイドが起こった。
ウクライナ国民がロシア軍に抗議し、ロシア軍に従わなかったからだろう。
その結果、拷問、虐待、盗み、傷害、人殺し、が起きた。
暴力でウクライナ国民の口を封じ、暴力による威嚇でウクライナ人を従わせるためだ。
これは、ウクライナの人々が完全に正しく、ロシア軍が完全に間違っていることの証明なのだ。
暴力と犯罪行為の継続は、完全に自分たちが間違っていることをみずから認識していることの証明なのだ。
話し合いではなく、暴力と犯罪行為で解決をはかることは、自分たちが悪人であることを明確にしている。
悪人は、暴力と犯罪行為が継続できなくなったとき、破滅する。
善人の思いは、暴力と犯罪行為をやめてほしい、ただ、それだけだ。
悪人が勝つには善人を皆殺しにするしかない、それか、暴力と犯罪行為を永遠に継続するか、だ。
そんなことは事実上上可能だ。
悪人の負けは確定なのである。
負けが確定している戦いは泥沼となり、悪人が負けるまで続いて行く。
上可能、22,4,6
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
平和主義者、22,4,7
イエス・キリストは完全な非暴力主義者だった。
イエス・キリストは心の底から、暴力に反対していた。
しかし、聖書には、イエスのこんな言葉が残されている。
私が平和をもたらしに来たと思ってはなりません、むしろ、分裂です。
イエスが語ってから、イエスを信じる者とそうでない者の対立が起きた。
イエスは殺された。
イエスを信じた大勢の人間が殺された。
この世で一番、人を殺した書物は聖書だと言われる。
聖書は人命軽視の危険な書物なのだろうか?
それとも、人類が宝とすべき、貴重な聖なる書物なのだろうか?
ただの人殺し、22,4,7
宗教があるから、争いが起きるのだと主張する者がいる。
宗教をなくせば、争いも少なくなると主張する者もいる。
イエスは語った言葉で、人々に殺された。
そして、イエスを信じた人間たちも大勢殺された。
イエスが語らなければ、イエスは殺されなかったし、大勢の人間が死ぬこともなかった。
イエスは聖者ではない、ただの人殺し、しかも、大量殺人者だと言う者もある。
宗教はアヘンだと言う者もある、ドラックは上幸しか生まない。
私は人の本当の救いは宗教以外にないし、世界平和も宗教なしにはありえないと思う。
人命尊重のために、宗教に反対する者あり、
人命尊重のために、宗教を唱える者あり、
上幸、22,4,8
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
人命尊重、22,4,11
犯罪賛成派は、ことあるごとに人命尊重を訴えてくる。
確かに人命尊重は重要だ。
しかし、人命尊重のために、人権もない、言論の自由もない、法治主義は破壊され、民主主義も破壊された。
法律なくして本当に人命尊重は実現できるのか?
法律の替わりに、暴力と犯罪行為で国家を支配する犯罪賛成派が人命尊重を実現できるとは思えない。
それに、人権もない、自由もない世界でただ生きていれば良いと言うのか?
人命尊重も大事だが、自由もとても大切だと思う。
命を投げ打ってでも、自由を欲する、そんな生き方は間違えだと言うのか?
犯罪賛成派のやっていることは、まるで北朝鮮だ。
北朝鮮は人命尊重の国か?
北朝鮮の国民は幸せなのか?
犯罪賛成派は自分たちを信じろと言うが、20年以上毎日、投薬による拷問を受けている私が、何をどう信じろと言うのか?
この放送が終われば、ひどい拷問で操り人形にされる、または、自殺に追い込まれる、と考える方が普通ではないか?
法律の通用しない世界で、私は自分の身の安全をどう守ればいいのか、まったく分からない。
法律は国民の安全安心、人命尊重の基礎なのだ。
法律の通用しない世界で、安心はない、人命尊重などありえない。
ただ、犯罪賛成派に暴力と犯罪行為で朊従させられるだけだ。
朊従、22,4,11
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
和解、22,4,11
犯罪反対派は法治主義を主張している。
これは絶対に譲れない条件だ。
なぜなら、犯罪反対派の安全、国民の安全には、法律が必要上可欠なのだ。
法律の通用しない国に命の保障はない。
すべて、力のある者のやりたい放題だ。
そして、犯罪賛成派は絶対に法治主義は認められない。
法律が適用される国、法律が有効な国となれば、犯罪賛成派は終わりだからだ。
半分、法律が適用され、半分、適用されないなどありえない。
力のある者によって、法律は利用され、犯罪行為も利用される。
そんなことをすれば、力のある者のやりたい放題だ。
犯罪反対派と犯罪賛成派の和解は難しいだろう。
犯罪反対派が犯罪賛成派のこれまでの犯罪をすべて許し、これからは法治主義でやっていくという選択もある。
しかし、そんなことは絶対に国民が許さないだろう。
法治国家か犯罪国家かの二者択一なのだ。
建て前は法治国家、事実は犯罪国家、建て前は民主国家、事実は独裁国家という時代は終わる。
情報機器が発達普及し、社会の裏側を隠し切れない時代となっているからだ。
本音と建て前の社会は、事実を隠蔽できる社会システムがあって、はじめて実現可能なのだ。
事実が知られてしまえば、本音も建て前もない。
国民が事実を知り、国民が考え、国民が話し合う、そういう時代がやってきているのだ。
必要上可欠、22,4,11
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
人命尊重、22,4,17
ロシアがウクライナに侵攻した。
ロシアは言う、ウクライナがロシアに従っていれば、
こんな大勢の人間が死ぬことはなかった、拷問も虐殺もなかった、と。
確かに、ウクライナが黙ってロシアに占領されていれば、死人は出なかったかもしれない。
しかし、それが人の道なのだろうか?
人命尊重は万能な言葉なのか?
ウクライナが人命軽視であり、間違えなのか?
私は戦ったウクライナを支持する。
人命尊重は重要だが、ときとして、命よりも大切なものがあるのではないだろうか?
必ず力ある者は人命尊重を口にする。
力のある者に弱い者が従っていれば、多くの命が救われると。
人権尊重を訴える者や革命を起こす者はみな、人命軽視だと。
人権もない、自由もない、ただ、人命尊重を考えればいいのか?
人権や自由のために戦う者は決して間違えではないと、私は思う。
私は暴力と犯罪に反対している、しかし、力ある者の横暴に従うことが正しいとは思えない。
民主主義、22,4,19
私は政治に関してなるべく何も言わないようにしている。
みんなで決めるのが民主主義だ、私に決定権はない。
すべての国民が自由であり、国家の決定権を持つ、それが民主主義だ、私に決定権など絶対にない。
ただ、法治主義、民主主義に関しては言わせてもらう。
法治主義、民主主義がなければ、国民に自由はないからだ。
法治国家、民主国家を打ち立てて、すべての国民を自由にしたい。
この先、国民の自由な発展なしでは、未来はないのだ。
一人の人間が決めるのではなく、一部の人間が決めるのではなく、
国民一人一人が最大限、能力を発揮する、そこにしか未来はないのだ。
宗教の誕生、22,4,21
聖者は、人の苦しみとは事実誤認から生まれるのだと言う。
事実を知れば、人は救われる、何より真実が大事だと。
多くの人間が宗教とは人間が想像で作り出した幻想であると思っている。
この世の事実はあまりにも過酷であり、ファンタジーを信じることで、その痛みはやわらぐと。
聖者は事実を語る、その結果、多くの宗教の嘘が明確にされ、多くの宗教が破壊される。
それは宗教に限ったことではなく、様々な嘘、迷信、事実が隠蔽されることで成り立っていた社会構造が破壊される。
それは人々にとって衝撃であり、宗教者、政治家、権力者は困ってしまう。
聖者は宗教を語りにきたのではなく、宗教を破壊に来たのだと誤解されるほどだ。
聖者は世の人々から憎まれる。
イエスは殺された。
そして、イエスの前に来た聖者も殺されたと、イエスは聖書で証言している。
独裁者と宗教、22,4,22
かつて、独裁者と宗教が手を組み、国民を支配していた時代があった。
真実を知らせる宗教ではなく、国民を宗教で支配しコントロールする宗教者。
コペルニクスは地動説を唱えただけで、教会に火あぶりにされ、死んだ。
今、こんなことをやったら、どうだろうか、まさに頭がおかしいと世界中から非難されるだろう。
イエスが生きていたら、こんなことになったか?
イエスは地動説を理解できるだけの頭脳を持っていただろうし、
天文学を語っただけで、火あぶりにするなんて、絶対にありえなかっただろう。
コペルニクスの時代の宗教は、イエスの語った宗教から、遠く離れたものであった。
自由がなければ、決して宗教は意味のあるものとならないのだ。
永遠、22,4,28
一人でも多く、暴力と犯罪に反対する人を増やすこと、
それが一人でも多くの人命を救うことであり、国民の安全安心を保障する唯一の道だ。
我々は百年、千年、永遠にこの戦いを続けて行くのだ。
それが人類を幸福にする唯一の道だ。
プロとアマ、22,4,29
創作意欲をもって絵を描くことはすばらしいことだ。
詩を書くこと、歌を作ることはすばらしい。
作品を作ることは、うまいもへたも関係ない。プロもアマも関係ない。
創作の大きな喜びは、すべての人が味わえるものだ。
アマの方が返って自由な喜びを感じられるかもしれない。
作品を作ることも喜びだが、それが人に伝わり共感されることで喜びは倊になる。
さらに、多くの人に伝わるなら、倊の倊だ。
作品が共感や感動を呼び、世界に広まるなら、これ以上の幸せはない。
そして、作品が死後も共鳴者を増やし続けて行くなら、永遠の命を得たも同然である。
私の歌は、暴力と犯罪に反対ことである。
世界の幸せを祈って作った歌だ。
それが世界に広まり、死後も共鳴者を増やし続け、人類が平和と幸せを謳歌するなら、これは無上の喜びである。
戦争、22,4,29
戦争は最大のテロ行為であり、最大の犯罪だ。
倊、22,4,29
ばい、が、倊、と表示されてしまう。
国家の成立、22,5,5
犯罪賛成派は、犯罪がなくなれば国家が崩壊すると考えている。
犯罪反対派は、犯罪がなくても国家は成立すると考えている。
むしろ、犯罪がなくなれば、国家は栄え、国民の安全安心は保障され、
国民は幸せになり、希望に満ちた国家ができると考えている。
犯罪は国民の自由と安全を脅かし、国民一人一人の活躍をさまたげる要因だと考える。
一部の人間の国家支配をなくし、国民一人一人が自由に活躍し、一人一人の能力を最大限発揮することが、
希望の国家であると考える。
国民一人一人の安全と自由を守るために、犯罪はなくさなければならないのだ。
事実と正しさ、22,5,5
イエスは事実を話し、正しいことを話した。
しかし、イエスは権力を得ることはなかったし、カネを得ることもなかった。
それどころか、みんなに認められることも、生きているうちに見ることはなかった。
だが、数百年後、多くの人間が信者となった。
コペルニクスは事実を話した、正しいことを話した。
しかし、権力もカネも得ることはなかったし、生きているうちに人々に認められることもなかった。
事実を話す者、正しいことを言う者の勝利は確定している。
ただ、時間がかかる。
事実と正しさは時間をかけて、人々を説得するのは確定なのだ。
事実と正しいことを話す者は必ず勝利する。
ただ、どれくらいの時間を必要とするかは分からない。
情報機器が発達普及している現在、
事実を話す者、正しいことを話す者の勝利までの時間は大幅に短縮されるだろう。
ただ、いつになるかは分からない。
事実を認めること、22,5,24
ロシアの軍事侵攻は失敗した。
プーチンは当初、短期間で、ウクライナをかいらいにできると思っていたのである,クリミアを占領したときのように。
しかし、プーチンはその失敗を認めなかった。
プーチンが失敗を認めなかったことにより、戦闘は長期化した。
そして、失敗は大失敗となり、大大失敗となり、傷口は広がる一方である。
その失敗のため、ロシアは大きな搊失を被っているし、大勢のロシア人が死に、大勢のロシア人が牢獄に入れられた。
ロシアの経済的搊失、物理的搊失、精神的搊失は大きい。
ウクライナ人が大勢死んだ、ウクライナの搊失は大きい。
プーチンが失敗を認め、即座に修正していたら、
ロシア、ウクライナの大勢の国民は死ぬことはなかったし、
ロシア、ウクライナの国家は、大打撃を受けることはなかった。
世界の国々も搊害を被ることはなかった。
しかし、プーチンが失敗を認め、自分の責任をとっていたら、プーチンは終わりだろう。
プーチンとロシア、ウクライナ、世界人類、どちらが優先されるべきか?
それは言うまでもなく、ロシアであり、ウクライナであり、ロシアの国民であり、ウクライナの国民、世界人類だろう。
権力者が事実を認められないで責任も取らないことは最悪の事態を引き起こす。
権力者が国家より、国民より、世界人類より、自分を優先することは最悪の事態を引き起こす。
権力者は事実を認め、自分の責任を即座に取らなければならない。
むかし、共産主義国は自分たちの政策のせいで貧しさを生んでいることを認めなかった。
そして、共産主義は誰もが失敗だと分かっているのに、
何十年も事実を認めることができなかったし、当然、改善もなされなかった。
それは、傷口が最大限に広がり、国家が耐え切れなくなり、崩壊するまで続いた。
事実を認められないこと、それは最大の悲劇なのだ。
搊失、22,5,24
そんしつ、が、搊失、と表示されてしまう。
裏切り、22,5,24
犯罪賛成派のやっていることは、
自由国家、民主国家、法治国家、を根底から覆す犯罪なのだ。
国家国民を裏切る犯罪であり、反逆だ。
最大の失敗、22,5,25
犯罪賛成派、最大の失敗は暴力と犯罪を手段に用いたという点だ。
犯罪賛成派は、犯罪を手段としたことにより、みんなから犯罪者と言われる。
後世の人間からも犯罪者として非難され続けるだろう。
それは、私が生きていても、死んでからもだ。
犯罪賛成派は、自分たちが犯罪行為をしたことを認められない。
認めてしまえば、犯罪賛成派は終わりだからだ。
だから、犯罪賛成派は自分たちの犯罪行為を反省することもできない。
犯罪行為を隠蔽するために、生きている限り、現在進行形で犯罪行為を続けなければならない。
犯罪反対派は、犯罪賛成派が犯罪行為を続けなければ敵視することはない。
今の人間も、これからの人間も、犯罪行為をしなければ、犯罪賛成派を非難しない。
犯罪賛成派は、犯罪と共に生き、犯罪と共に死ぬのだ。
犯罪賛成派は、今までもこれからも、犯罪者として非難され続け生きて行き、死んで行かなければならない。
今までもこれからも、犯罪賛成派は、犯罪行為が絶対の汚点となり、非難され続けて行くだろう。
犯罪賛成派が犯罪行為を犯さなければ助かる道はいくらでもあった。
どのような状況でも、犯罪行為を用いてしまえば、その時点でゲームオーバーなのだ。
犯罪行為は絶対の汚点として永遠に残る。
どのような状況でも、犯罪を用いず、正当な方法で事態を乗り切る方法は必ずあったはずなのだ。
賛否、22,5,25
私の過去の発言については、賛否両論あるだろう。
しかし、犯罪行為については、悪としか言いようがない。
それがやむを得ない犯罪だったとしても、法的責任を免れる理由はまったくないのである。
どうしても法律に従えなかったときは超法規的措置というものがある。
国民の理解を得て、非合法な行為を許してもらうのだ。
しかし、犯罪賛成派の犯罪行為を見る限り、国民の理解を得る可能性はゼロだ。
罪を免れるには、合法的であるか、国民の理解を得るか、このどちらかが必要だ。
犯罪賛成派の犯罪行為は、どちらにも、まったくあてはまらない。
それを犯罪賛成派自身が知っているから、果てしなく犯罪行為を犯罪行為で隠蔽し続けるしかないのだ。
繰り返し、繰り返し、22,6,2
我々の活動の基本は、暴力と犯罪に反対することにある。
だから、私は、繰り返し、繰り返し、犯罪に反対する。
犯罪を撲滅できれば、我々の活動は終了なのだ。
たとえ、私が犯罪行為をしても、必ず、すべての人間が犯罪に反対してほしい。私の敵となってほしい。
私が本心から犯罪を犯すことはない。他人に犯罪を薦めることはない。必ず犯罪賛成派の強要があるのだ。
犯罪賛成派の操り人形となった私を解放してほしい。
私は犯罪に反対するために生きている。だから、毎日、毎日、犯罪に反対している。
バカの一つ覚えのように、死ぬまで続く。
ただただ、犯罪行為を糾弾するだけで、犯罪賛成派に勝利する。
だんだん、数を増やし、だんだん、大きな声で、犯罪反対派が膨らんでいけば、必ず勝利できる。
そのとき、それぞれの個性を生かした、みんなで作る社会が始まるのだ。
犯罪撲滅は、一人一人を生かす社会の出発点となる。
安心安全の社会の始まりとなる。
国家崩壊、22,6,16
共産主義国家には言論の自由がなかった。
誰もが共産主義は間違っていると思っているのに、誰もそれを声に出すことができない。
国民が声を上げ、権力者を変えることができない。
修正上可能な国家だ。
権力者は共産主義の間違えを決して認めない、
なぜなら、共産主義の間違えを認めたら、自分たちが責任を取らなければならないからだ。
責任を取るということは死に直結していたのだ。
だから、共産主義の権力者は言論弾圧をした。
何も改善できない社会は、衰退し崩壊した。
今、この国は、おかしいと思ったことを声を大にして言えるだろうか?
国民が権力者を変えることができるだろうか?
修正上可能な状況に陥ってないだろうか?
誰もがおかしいと思うことが言えなかったり、変えることができなかったりすることが、
国家衰退の始まりであり、国家崩壊の始まりなのだ。
国民の声が権力者を変えることができない、改善上可能な国家は必ず滅びる。
誰もがおかしいと思うことを声にできない、変えられないということが、国家最大の大災害なのだ。
柔軟に対応し、改善していくことが国家繁栄の方法であり、
硬直化し、変えられない社会は、衰退、崩壊の始まりなのだ。
どんな国家であれ、おかしいことはおかしいと認め、柔軟に改善していければ、繁栄する。
硬直化は国家の死である。
修正上可能、改善上可能、22,6,16
しゅうせいふかのう、が、修正上可能、と表示されてしまう。
かいぜんふかのう、が、改善上可能、と表示されてしまう。
共産主義者たち、22,6,30
犯罪賛成派は共産主義者ではない。
経済的平等など、まったく目指していないのだ。
そして、犯罪反対派も、まったく、共産主義者ではない。
犯罪反対派は、ただただ純粋に犯罪行為に反対しているだけだ。
ただ、犯罪賛成派は違法行為で言論弾圧をしている。
そして、犯罪賛成派は徹底的に犯罪反対派に違法行為による弾圧をしている。
政治家に立候補できるのは犯罪賛成派だけだ。
犯罪反対を声を大にして唱えたら、立候補どころか、社会的に抹殺されかねない、仕事はクビだ。
犯罪賛成派は共産主義者ではない、しかし、共産主義者と同じ方法を取っている。
徹底的な言論弾圧、反対者の排除。
その結果、国家は完全に共産主義国と同じ病にかかっている。
言論の自由はなくなり、経済は冷え切っている。
国民は萎縮し権力者を恐怖している。
堂々と犯罪がはびこる、一般人が犯罪行為を行うと逮捕されるが、どうして犯罪賛成派が犯罪を犯しても逮捕されないのか?
上公平である。
ハッキリ言おう、犯罪賛成派は共産主義者ではないが、共産主義者と同じだ。
国家は犯罪賛成派のせいで衰退し破滅するだろう。
犯罪賛成派がいる限り、この世界に未来はない。
犯罪賛成派のせいで国民は衰退し、国家は滅んでしまう。
共産主義は何十年も世界にはびこったが、犯罪賛成派は何十年はびこるだろう。
共産主義者と犯罪賛成派は世界の癌だ。
我々は法律にのっとり、誰もが自由な意見を言い、全員参加で話し合い、国民の総意で国家の運命を決めようではないか。
自由に発言できない、話し合えない、国民が国家を変えられないでは、共産主義国と同じ轍を踏むのは明らかだ。
言論の自由がないから、共産主義国は滅んだ。
共産主義国に限らず、言論の自由がない国は発展しない、国民は衰弱し、国家は滅ぶ。
少しでも早く、犯罪賛成派が滅ぶのを願うばかりだ。
上公平、22,6,30
ふこうへい、が、上公平、と表示されてしまう。
心の底から、22,7,8
今こそ、暴力と犯罪を心の底から徹底的に憎み、
犯罪者をこの国から排除しなければならない。
法治国家、日本、民主国家、日本、言論の自由、日本。
犯罪行為に犯罪行為で報復すれば、無限地獄だ。
現在進行形の犯罪行為を完全に停止させなければ、この国に救いはない。
未来、22,7,10
犯罪賛成派がやっていることは、民主国家への挑戦、法治国家への挑戦である。
犯罪を肯定する犯罪賛成派が勝つか、それとも、犯罪反対が勝つかで、この世界の運命は決定ずけられる。
明るい未来の訪れを望むなら、暴力と犯罪で支配しようとする犯罪賛成派の勝利はありえない。
我々が築いてきた、安心安全を犯罪賛成派はすべて台無しにしようとしている。
我々が築いてきた、安心安全、自由は、暴力と犯罪に反対することでなりたっている。
それに賛成すれば、我々は一秒も安心安全ではなく、自由ではなくなってしまうのである。
犯罪賛成は悪魔の教えだ。
犯罪賛成派に反対できるか、そうでないかで、我々の未来は決まるのだ。
暴力と犯罪に反対する、当然のことではないか。
当たり前が当たり前でなくなることによって、世界は地獄となる。
正義、22,7,27
正しい行いは世界人類を良くする根本である。
環境問題から貧困、戦争、紛争の問題まで、すべて正しい行いにかかっている。
正しい行いとは何か?それは、殺人、傷害、盗みなど、誰もが悪と思うことに反対する、感覚的なものでいいと思う。
もちろん、正しいか、それとも、間違っているか、判断に迷うものもある。
しかし、十人が十人、悪と思えることに反対するだけで、十分、世界を救うことができると思うのだ。
環境問題、貧困、戦争、紛争、それは、上法なやり方で富を得る人間がいるからではないだろうか?
すべての人間が暴力、犯罪に反対し、公正で対等な立場でみんなが話し合えば、解決できることではないか。
十人が十人、誰もが悪と思うことに反対できないために、あらゆる問題が発生してしまうのではないか。
自分のためも自分の仲間のためも考えず、正しい行いをする。これが人間の基本ではないか。
他のことは何も考えず、純粋に正しい行いをする、それがすべての問題の解決方法の基本である。
人類、国家を考えることは、正しい行いをすることに尽きるのである。
犯罪賛成派は正義に価値はないと言う、むしろマイナスだと。
なぜ、犯罪賛成派はこのようなことを言うか、
それは、正義は世界人類を良くする、国家を良くする、しかし、犯罪賛成派を良くしはしない。
悪い行いは世界人類を悪くする、国家を悪くする。
犯罪賛成派は世界人類を悪くする、国家を悪くする。
些細なことは、もちろん、大目に見ることも必要だろう、しかし、明確な違法行為はあってはならない。
小さな子供のころから基本とされた、正しい行いをするという人間としての基本を犯罪賛成派は叩き潰そうとしている。
小さな頃から育て上げた人間の善意を崩壊させようとしている。
そうなれば世界は崩壊するし、人間が生きる価値もない。生きる意味もない。
上法、22,7,27
ふほう、が、上法、と表示されてしまう。
正義2、22,7,29
正しい行いによって、この世界は支えられている。
多くの人間が善悪の差が分からなくなり、間違えばかり起こすならば、世界は、あっと言う間に崩壊してしまうのだ。
暴力と犯罪をなくすのは難しいかもしれない、しかし、チャレンジするのは決して無駄なことではない。
一つ一つの行いを正しいものにすることで、人類にとっての大きな問題も解決できるのだ。
クサイ、22,7,29
私が正義の大切さを言うと、犯罪賛成派はクサイ、きれいごとだと悪態をつく。
犯罪賛成派は暴力と犯罪をやめない、これまでもこれからも継続して行く。
犯罪賛成派と犯罪反対派の関係は、まるで悪態をつく荒れ狂う上良学生と教師のようなものだ。
正しい行いが世界を改善して行くということは、クサイ、きれいごと、と何と言われようが事実なのだ。
暴力と犯罪をなくすことは難しいかもしれない。
しかし、暴力と犯罪をなくせば、人類の大きな問題はほぼすべてが解決できる。
これは事実だ。
上良、22,7,29
ふりょう、が、上良、と表示されてしまう。
独裁国家、22,8,8
犯罪賛成派は、子供たちに説教をしたとき、子供に、あなたたちだって、犯罪行為をしているではないか?
と問われたら、何と言うのだろう。
この世界には、犯して良い犯罪と、ダメな犯罪があると言うのだろうか?
権力者が認めた犯罪行為は許され、認めない行為は許されないならば、
それは100%、法治国家ではない。
それを一般的には独裁国家と言うのだ。
犯罪組織、22,8,8
犯罪者が犯罪を犯しても、逮捕されない、裁判も受けない、
なぜ、このような地獄のような状態になってしまったのか。
この事実を大勢の人が知っている、だが、誰一人、おおやけに犯罪反対の声を上げることがない。
大勢の上逮捕特権を持った犯罪者がすぐそばにいるからだ。
このような状態で誰が本当のことを言えるだろうか?
国民はみな震え上がっているのだ。
この状態はまったく北朝鮮と変わりがない。
犯罪を見つけて声を上げると犯罪者が逮捕されるのではなく、犯罪行為を糾弾した者が罰を受ける。
もう、メチャクチャだ。
上逮捕特権、22,8,8
ふたいほとっけん、が、上逮捕特権、と表示されてしまう。
唯一の武器、22,8,10
犯罪賛成派は、むかし、私と議論をした。
そして、犯罪賛成派は、一度も勝つことができなかった。
犯罪賛成派は、議論すればするほど、上利な状況になると思い知ったのだ。
犯罪賛成派の唯一の武器は犯罪行為である。
私は毎日、犯罪賛成派の投薬により苦しめられている。
犯罪行為が唯一の武器である犯罪組織が正しいということがありえるだろうか?
そんな組織が国家を支配して、国民が幸せになることがありえるだろうか?
犯罪行為に犯罪行為で対抗することに私は反対だ。
しかし、犯罪行為には犯罪行為で対抗するしかないと主張する国民が出てくるならば、
その全責任は犯罪賛成派にある。
私は犯罪賛成派の犯罪行為も、それに対抗する者の犯罪行為も、法律で裁かれるべきだと思う。
犯罪賛成派の犯罪行為だけが法律で裁かれるべきだとも思わないし、
また、犯罪賛成派に対抗する人間だけが法律で裁かれるべきだとも思わない。
私の理想は法の下の平等である。
上利、22,8,10
ふり、が、上利、と表示されてしまう。
争点、22,8,10
犯罪賛成派と犯罪反対派の争点は唯一、
犯罪を認め肯定するか、それとも、犯罪行為を認めず、犯罪を否定するか、である。
これだけを聞くと、すべての人間が犯罪反対派に賛同すると思われる。
しかし、現実は違う、大勢の人間が犯罪賛成派に付き従っている。
予想外だった。
必要上可欠、22,8,14
犯罪賛成派にとって犯罪行為は必要上可欠なものである。
犯罪行為をやめたとたん、これまでの犯罪行為が明るみに出てしまう。
犯罪賛成派は犯罪と共に生き、犯罪と共に死ぬ。
犯罪行為をやめさせることは、犯罪賛成派に死ねと言っていると同じだ。
これまでの犯罪を反省しないどころか、今なお、これだけ批判が高まっている中、犯罪行為をやめようとしない。
毎日、犯罪賛成派の犯罪被害にあっている私が言うのだから間違えない。
犯罪賛成派は犯罪行為を隠蔽しているし、嘘をついている。
犯罪賛成派は表向きは犯罪に反対しているのだ。
犯罪賛成派の行為は正義ではない。
犯罪行為が必要上可欠な正義などありえない。
神を信じる者は決して犯罪賛成派に協力しない。
神が犯罪行為を容認し肯定するなどありえないからだ。
犯罪賛成派の道が神の道ならば、絶対に犯罪行為なしで目的を成し遂げる方法が必ずあるはずなのだ。
犯罪賛成派は正義ではないし、倫理的に間違っている、神から遠く離れている。
イエス・キリストがこの世の者と戦ったことに、酷似している。
犯罪賛成派は正義のために戦っているのではない、自分たちの、この世の実質的利益を優先しているのだ。
この世の建て直しは、純粋な正義感なしではありえない。
犯罪行為を手段とする宗教は間違っているし、そもそも、そんなものは宗教ではない。
もし、神の道、世界平和を望むなら、犯罪行為に反対する以外にない。
宗教、22,8,14
もし、神を望むなら、宗教を信じるなら、世界平和を望むなら、
犯罪行為に反対するべきだ。
犯罪行為をするなかれ、これが神の教えだ。
神、22,8,14
神とか倫理とか論ずる前に、普通の人間なら、世のため人のために、犯罪行為に反対することで団結できるはずだ。
必要上可欠、22,8,14
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
手段と結果、22,9,4
私は犯罪賛成派の毎日の投薬により苦しめられている。
犯罪賛成派は私を自殺に追い込もうとしている、そして、私の親も自殺させようとしている。
犯罪賛成派は根本的に間違っている。
犯罪賛成派は、正しい目的のためには、悪い手段を使ってもいいと考えている。
間違った手段で得られる結果は間違ったものでしかないのだ。
悪い手段で良い結果は得られない。
犯罪賛成派は目的のために犯罪行為を行う。
彼らは犯罪者である。
そして、今、その手段である犯罪行為を多くの国民から責められている。
そして、犯罪行為を隠蔽するため、犯罪を非難する国民を押さえつけるために犯罪行為を日々、行っている。
犯罪賛成派は、もはや、犯罪行為をやめることはできない。
犯罪賛成派がある限り、現在進行形で犯罪行為を限りなく続けるしかないのである。
なぜなら、国民を犯罪行為で圧迫しなければ、犯罪賛成派の犯罪行為が表沙汰になり、
これまでの犯罪賛成派の犯罪行為がすべてバレてしまうからだ。
犯罪賛成派は犯罪の沼にハマり決して抜け出ることができない。
まるで麻薬中毒患者の末期症状だ。
ボロボロになって死ぬまで麻薬を打ち続ける。
犯罪行為はやめられないのだ。
犯罪賛成派だけがボロボロになるだけではなく、この世界も犯罪賛成派の影響でボロボロになって行く。
良い目的に到達するためには、良い手段を使わなくてはならない。
みんなが法律を守るなら、この社会が、こんなにも悪化することはなかっただろう。
法律を守るだけで、この社会は正しく、良い社会へと生まれ変わる。
法律を守るという人間の基本的なことができていないために、この醜い社会はできた。
人間として守らなければならない最低限のルールを守らない人間がいるために、人類は滅ぼうとしているのだ。
すべての人間が法律を守るべきだ、特に、殺人、傷害、盗み、はするべきではない。
人間としての最低限の基本的なルールを守っていれば、こんなことになることはなかった。
おごり高ぶる者、22,9,4
犯罪賛成派はおごっていた。
一般人が犯罪行為をすれば当然、法で裁かれる。しかし、犯罪賛成派は犯罪行為をしても裁かれない特権があると思っていたのだ。
犯罪賛成派も当然、法で裁かれる。
今は裁かれない、しかし、国民は等しく法の下に平等であると、大勢の国民が糾弾の声を上げるだろう、
その声はますます大きくなっていく、犯罪賛成派も一般国民と等しく法の裁きを受けるときが必ず来るのである。
人命尊重、22,9,5
犯罪賛成派は人命尊重を訴える。
犯罪賛成派が言うには人命尊重に必要なのが犯罪行為なのだ。
犯罪行為によって、国民の批判や非難、論争をやめさせる、それが暴動などの暴力行為を抑えることになると。
暴動によって失われる人命をなくすため、犯罪行為による言論弾圧は必要上可欠なのだと。
犯罪行為によって抑圧された国民が上満をつのらせ、より大きな人命喪失の危機を生まないだろうか?
犯罪賛成派の犯罪行為に対し、日に日に、国民の上満は大きくなっている。
犯罪賛成派の考えはまったく共産主義国と同じだ。
やっていることもまったく共産主義国と同じだ。
必要上可欠、上満、22,9,5
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
ふまん、が、上満、と表示されてしまう。
唯一の問題、22,9,6
今の唯一の問題は、犯罪賛成派の今している犯罪行為をやめさせるか、継続させるか、である。
犯罪賛成派は、法治国家の敵であり、民主国家の敵なのだ。
暴力か話し合いか、22,9,6
犯罪賛成派は、暴力と犯罪行為で問題を解決しようとする。
話し合いでの解決など、きれいごとであり、実際には通用しないと言うのである。
犯罪反対派は、合法的にみんなの話し合いで解決しようとする。
暴力や犯罪行為は結局、根本的解決にはならず、憎しみを生むだけだというのだ。
どちらが人間として、正しい行いかは、一目瞭然である。
暴力と犯罪は問題を解決しているのではない、問題を増やしているのだ。
分裂、22,9,12
聖書のイエスの言葉にこんな言葉がある。
私が平和をもたらしに来たと思ってはなりません、むしろ、分裂です。
ここで我々は上思議に思うだろう、聖書は世界に広まり、キリスト教も世界に広まっている。
なのに、分裂は起こっていないではないか、と。
分裂が起こらない理由は、聖書が広まり、キリスト教が広まっても、イエスの真の教えは秘されているからだ。
だから、もし、各地で人々が分裂して大変だ。という話を聞いたら、我々は知るべきだ。
遥かな時を越え、イエスの教えは開示された。ということを。
上思議、22,9,12
ふしぎ、が、上思議、と表示されてしまう。
宗教の否定、22,9,24
宗教など信じるから人は上幸になるのだという人がいる。
宗教など、なくしてしまえばいいと。
また、宗教を信じて幸せな人もいる。
宗教だけが人の救いなのだと。
人にはそれぞれ意見があり、何が幸せと感じるかはその人しだいである。
人にはそれぞれ違う感じ方、考え、意見があって当然だ。
それを主張することは大いに結構だ。
むしろ当然だ。
しかしながら、他人の考えを暴力や犯罪行為で弾圧するのは、人としてあってはならない。
世界の宗教の中に、
相手が暴力や犯罪行為を一切していないのに、積極的に暴力と犯罪行為を振るっていいとする宗教はない。
暴力や犯罪行為を行う者は、自分の宗教に反逆する者なのだ。
自分の神を汚す者であり、自分の神に対する反逆だ。
そして、宗教を信じていても、信じなくても、
暴力や犯罪行為を振るう者は自分の国家に対する反逆であり、人類に対しての反逆なのだ。
暴力や犯罪は、自分の社会や国家、人類を巻き込む、滅びの道なのである。
イエスの教え、22,9,24
私は宗教について語った。
そして、犯罪賛成派は、私の考えを理解した。
そして、イエスの教えの真実を理解したのである。
私の語ったことは真実であり、それゆえに、絶対、私と議論しても勝てないことを知ったのである。
だから、犯罪賛成派は、話し合いによる解決を断固拒否し、暴力と犯罪行為に頼ったのである。
犯罪賛成派が暴力や犯罪行為を振るうのは、私の考えを理解し、それが真実であると悟った結果なのだ。
真実を語る者と話し合っても100%負ける、
犯罪賛成派が自分たちの意見を通すには暴力と犯罪行為以外にないと思ったのだ。
犯罪賛成派は、私の考えを理解し、真実を知った、そして、犯罪賛成派は、敗北したのである。
その完全敗北が、犯罪賛成派を暴力と犯罪行為に走らせることとなったのだ。
上幸、22,9,24
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
ユーチューブ、22,10,7
ユーチューブを見ていると急に体調上良となり、横にならざるを得なくなる。
ユーチューブの内容が犯罪賛成派に上都合な内容のようだ。
私が見るユーチューブは、ウクライナ戦争の戦況やロシアの政治、経済、社会の現状や
中国、北朝鮮、韓国の政治、経済、社会の現状などである。
情報統制である。
なぜ、これらの情報を、犯罪賛成派は私に視聴させたくないのか?
上都合、22,10,7
ふつごう、が、上都合、と表示されてしまう。
決してしてはいけないこと。22,10,17
この世界には個人個人にそれぞれ考えがあり、感じ方がある。
個人の意見、主張を表現するのは大切なことだ。
個性は最大限尊重されるべきなのだ。
ただ、非常に問題なのは、自分の主張や自分たちの主張を暴力と犯罪行為で押し切ろうとする人間がいることだ。
暴力と犯罪行為を認めれば、法治国家、民主国家は崩壊してしまう。
法治国家、民主国家では、決して暴力と犯罪行為は認められない。
多様性の尊重、22,10,17
個人の考えや感性は最大限認められるべきだ。
多様性のない社会は死んだも同然である。
ただ、事実は個人個人によって違うものではなく、すべての人間共通のものだ。
事実という共通の基盤があるから、我々は分かり合える、共感できる、心をかよわせることができるのだ。
事実という共通の基盤がなければ、我々は言葉さえ通じないだろう。
そして、個人個人が違って多様性があるからこそ、世界はおもしろい。
共通の基盤と個性、多様性があって、この世界は成立している。
共通の基盤と個性、多様性は、車の両輪なのだ。
個性の尊重、多様性の尊重、それと事実の追及、その二つがあってこそ、この社会は成立する。
どちらもおろそかにできない重要なものなのだ。
多様性の尊重2、22,10,19
芸術には個性の尊重、多様性の尊重は必要上可欠である。
個性や多様性なき社会は芸術にとって死を意味する。
芸術家は自由に無制限に芸術を創れる環境が必要だし、
鑑賞者は自由に無制限に芸術を鑑賞することが保障されるべきだ。
私は芸術学を作ることを提案した。
しかし、多くの人は芸術学など作れるはずがないと言った。
なぜなら、人はそれぞれ違う感じ方をするから、それを科学にするのは上可能だと言ったのだ。
もちろん、人は千差万別、作品を鑑賞して感じることも、一人として同じものはない。
ここで、私は唐突に変な質問をする、我々の肉体は一人一人が同じ肉体をもっているか?と言うことだ。
もちろん、我々は一人として同じ肉体を持つ者はいない。
それなら医学は成立するか?医学は必要か?と言うことだ。
もちろん医学は必要だ。
つまり、我々は違う肉体を持っていても、共通点はあるということだ。
共通点なしに医学は成立しない。
しかし、共通点といっても、完全な共通点を見つけることは難しい。
コロナワクチンを投与して死亡率は抑えることができる、しかし、コロナワクチンの副作用で死ぬ人もいる。
医学は肉体の微妙な共通点の上に成立している。
総合的に見て医学は必要か?絶対に必要なのだ。
ここで、肉体は共通点があっても、心は共通しないだろうという疑問もあるが、
精神医学は成立しているのである。
精神医学の発達により精神病患者に対する偏見は少なくなったし、
精神病のメカニズムを明らかにすることで、おかしな迷信も消えた。
多くの精神病が医学によって治療されている実績もある。
そして、心の科学は医学だけではなく、心理学や脳科学といったものもある。
私の言う芸術学というのは、差し詰め、芸術心理学とでもいうものであろうか。
芸術と言うと個性の違いを声高に叫ぶ人が多いが、個性の尊重と同じくらい大切なものがある。
人間の心の共通点である。
作者と鑑賞者に心の共通点があるからこそ、鑑賞者は作品に感動するのである。
心の共通点があるからこそ、共感できる。
心の共通点があるからこそ、心を通わせることができる。
他人を理解できる、思いやることができるのである。
人は十人十色バラバラだと言うのも本当だが、
結局、人は誰しも同じなのだ。と言うのも本当のことなのだ。
個性の尊重は重要だ、そして、人の心の共通点を理解することも重要だ。
個性の尊重と人の心の共通点はどちらも大事。
芸術の車の両輪なのだ。
どちらが欠けても芸術は成り立たない。
何が共通で何が違うのか、共通ならばどんなところか、を考えることは決して無駄なことではない。
芸術と暴力
芸術家や鑑賞者を暴力と犯罪行為で圧迫してはならない。
暴力、犯罪行為と芸術は共存できない。
芸術家と鑑賞者の心の自由は保障されるべきだ。
暴力と犯罪行為はすべてをゆがめてしまう。
必要上可欠、上可能、22,10,19
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
分裂、22,10,29
犯罪賛成派は法治国家を否定し、民主国家を否定する。
一部の人間が犯罪的手法で国民の意志を無視し、社会の行く末を決断するべきなのだと言うのだ。
そして、宗教の真実も暴力と犯罪で否定されるべきなのだ。と言うのだ。
そこまでして犯罪賛成派が守りたいものとは、今の生活だ。
イエス・キリストは真実を伝えに来た。
ユダヤ人はそれを拒否した。
今、信じていることが根本から倒れるからである。
真実を受け入れれば、人は変わり、社会も変わり、世界も変わる。
イエスは破壊者であると言うのだ。
犯罪賛成派はイエスを殺したユダヤ人とまったく同じだ。
犯罪賛成派は、イエスを殺したユダヤ人は正しいと主張する。
そして、イエスを殺したユダヤ人のように、自分たちも再びイエスを殺すと宣言している。
それは今の社会、文化を守るためだ。
犯罪賛成派はイエス殺しなのだ。
犯罪反対派は、非暴力、合法的、民主的に決められたことならば、社会が変化しても良いと思っている。
イエス殺しに反対の立場なのだ。
イエスの真実を前にして、人間が取る行動は二つに一つだ。
暴力、犯罪、独裁、で真実を殺し、今の生活を守るか。
それとも、
非暴力、合法的、民主的に話し合い、真実を受け入れ、結果的に社会が変わるなら、それを受け入れか。である。
二者択一。
これがイエスの言った、分裂の意味である。
悪と善、22,10,29
悪とは、
暴力、犯罪、独裁、イエス殺しである。
しかし、それは、人間的とも言えることである。
善とは、
非暴力、合法、民主、話し合い、人を殺さないことである。
それは、イエスの仲間になることであり、神の味方になることである。
イエスは世は我を憎むと言っていた。
この現実の社会はイエスのような人間を憎むのかもしれない。
非暴力、合法、民主的話し合い、正義、真実。
これらは、現実離れしているのか?
私は正しいことが正しいと認められ、正しいことが通る世の中にしたい。
私は現実離れしているのか?
二千年前、イエスは殺された。
できれば、現在は、イエスが殺されない世であることを希望したい。
人々が、非暴力、合法、話し合い、正義、真実を受け入れる、または、希望する、熱望する、世であることを望みたい。
この世界はどちらを選ぶであろうか?
反キリスト、22,11,3
反キリストの印
暴力の肯定、犯罪の肯定、問題を物理的戦いで解決しようとする。
キリストを信じる人間は、
暴力に反対し、犯罪に反対し、問題を話し合いで解決しようとする。
自分はキリスト教徒だと言う人間も、
実は反キリストであることが多い。
弱者救済、22,11,4
犯罪賛成派が犯罪行為で使った莫大な資金は、本当は社会的弱者に使うべきカネだった。
犯罪賛成派が犯罪行為で使った莫大な労力は、本当は社会的弱者に使うべき労力だった。
犯罪行為のためにみんなが苦しんでいる。
そして、犯罪賛成派自身が、自分で自分の首を絞めることになった。
発端、22,11,4
この問題の発端は、私が友達と車で雑談したことに始まる。
だから、私が悪いのか?
その雑談を盗聴して、人々に知らせた人間には罪はないのか?
そして、その対処として、犯罪行為を行った人間には罪はないのか?
私の行いは合法であり、私は被害者だ。
なぜ、加害者ではなく、被害者が責められなくてはならないのか?
犯罪賛成派が犯罪行為さえしなければ、こんなにヒドイ状態にはならなかったのだ。
記憶、22,11,4
30年前のドライブでの記憶はあやふやなものだ。
私は原稿を練りに練って演説したわけでもなく、また、論文を発表したわけでもない。
30年以上前のドライブの雑談を記憶している人間がいるのか?
それは20歳の若者のたわごとであり、私にとってただの通過点だ。
今の考えはまったく変わっているだろう。
私は進化し続けているのだ。
30年前の雑談に大した意味はない。
人間は変わり続けて行くし、進歩し続けて行くのだ。
今の考えが私の考えだ。
30年前の考えは30年前の考えでしかないのだ。
犯罪賛成派は私の30年前の考えを重要視しているようだが、私にとっては20歳の若者の上完全な考えでしかない。
上完全、22,11,4
ふかんぜん、が、上完全、と表示されてしまう。
善と悪、22,11,4
犯罪賛成派を悪と決めつけるなと言う者がある。
人を殺しても、人のカネを奪っても、それは悪とは決めつけられない。
善と悪とはあやふやなものと言うなら、そうなのかもしれない。
しかし、この世界に善と悪があるとするならば、
犯罪賛成派は完全な悪である。
犯罪賛成派を悪と言わずして、いったい、何が悪なのか?
現在進行形、22,11,6
今、こうしている間にも、犯罪賛成派は莫大な資金と人材を犯罪行為のために使っている。
それを国民のために使うなら、国民は大きな利益を得るのだ。
犯罪行為をやめさせなければならない。
そして、犯罪賛成派の犯罪行為を合法的な目的のものへ変えるのだ。
そうすれば、国民生活は大いに潤う。
同類、22,11,6
ユーチューブでロシアや中国、北朝鮮や韓国の動画を見ていると体調が悪くなる。
みな、中国などに批判的内容だ。
犯罪賛成派は私にそれらを見ないように薬を投与している。
それは、犯罪賛成派のやっていることが中国などと同じだからだ。
中国への批判は犯罪賛成派に対する批判と同じなのだ。
法治国家、自由民主国家を目指す我々にとって、中国やロシアを非難するのも、犯罪賛成派を非難するのも同じなのだ。
我々が犯罪賛成派を非難するのと、国民が中国やロシアを非難するのと、まったく同じ理由なのだ。
だから、犯罪賛成派は私が中国やロシアに批判的な動画を見ることを極端に嫌がる。
中国やロシアに対する批判は、そっくりそのまま犯罪賛成派に対する批判であるからだ。
犯罪賛成派は暴力や犯罪で支配できない世界を極端に恐れている。
その姿は中国やロシアに瓜二つだ。
中国やロシアに批判的動画を見る者に制裁を加える、犯罪賛成派は恐ろしい集団だ。
暴力と犯罪の結果、22,11,6
中国、ロシア、北朝鮮は暴力と犯罪で支配されている。
犯罪賛成派は国家を暴力と犯罪で支配しようとしている。
まったく同じことをやっている。
暴力と犯罪で支配された国はどうなるか?
その国の国民は上幸になる。
これは明白な事実だ。
上幸、22,11,6
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
責任、22,11,18
今ある大問題の責任はいったい誰にあるのか?
まず、友達と二人でドライブをし、雑談をした私と友達の責任。
その雑談を、私に無断で勝手に盗聴し人々に広めた者たちの責任。
そして、それに対処しようとして犯罪という手段に出てしまった者たちの責任。
犯罪は法治国家では絶対に許されない、もし犯罪を犯せば法的責任を取らねばならない。
犯罪という手段を使ったことは結果的に大失敗だった。
火に油を注ぐという言葉があるが、まさに、それだ。
そして、30年以上たった今も、その犯罪行為は続いている。
巨額のカネと労力を使い、現在進行形で犯罪を犯し続けているのだ。
犯罪賛成派は犯罪行為をやめられなくなってしまった。
犯罪行為は果てしなく続くのだ。
なぜなら、犯罪行為をやめたとたん、国民はこれまでの犯罪行為の責任を犯罪賛成派に問うだろう。
犯罪賛成派は暴力と犯罪で国民を脅迫し続けるしかないのだ。
法治国家、言論の自由は犯罪賛成派に取って死を意味するのだ。
言論の自由がない国では民主主義はありえない。
暴力と犯罪で国民を脅迫する独裁国家なのだ。
人それぞれ多様な意見があって、国家の進歩と発展はあるのだ。
暴力と犯罪で国民を脅迫するなど、百害あって一利なしだ。
一部の独裁者が国民の意見をコントロールするべきではない。
衰退の一途をたどった共産主義国と同じ結果が待っている。
正しいことを正しいと言えない、悪いことを悪いと言えない、なぜ、我々はこんな悲惨な状態なのか?
責任2、22,11,21
私の思想が広まった責任は誰にあるのか?
それは、犯罪賛成派にある。
犯罪賛成派は自分たちが広めた思想を自分たちで押しとどめようとしているのだ。
30年前、犯罪賛成派と私は良好な関係にあった。
まったく、対立していなかったのだ。
そのとき、私は自分の会話が盗聴されているのに薄々感づいていた。
しかし、誰が聞いているのか、何人が聞いているのかは分からなかった。
その私と友達の一対一のドライブでの会話を犯罪賛成派は無断で盗聴し、勝手に人々に聞かせてしまった。
これがなければ、私の思想が広まることはなかったのだ。
何も、犯罪賛成派が私と良好な関係だったから、私の思想を広げようとしたのではない。
私は未熟な子供で、私が何を言っても、世界に影響を与えることなどないと犯罪賛成派は考えていたのである。
私の言うことが世界を変えるなどありえない。考えるだけバカバカしかったのだ。
ところが、人々の反応を見て犯罪賛成派は驚く、まさに藪蛇だった。
そして、私に対して手の平を返すように敵対的になった。
私の思想が世界に広まってしまったのは、すべて犯罪賛成派の責任だった。
その責任を犯罪賛成派は認めなかった。
すべてを私に擦り付けようとしたのである。
犯罪賛成派は私が演説し、革命を起こすように圧力をかけて来た。
私は必死に拒否した。
革命を望んだのは、私ではなく、犯罪賛成派の方だったのだ。
私に暴力革命を起こさせ、それを理由に私を暴力で鎮圧し、すべてを私のせいにしようとしたのである。
私は革命を起こす気などまったくなかったし、演説する気もまったくなかった。
これからもないだろう。
私の思想は宗教、芸術などを題材としたものであり、政治的思想などまったくなかったのだ。
社会を具体的に変える思想ではなく、純粋な宗教的思想、芸術論であったのだ。
私の思想で物理的な革命を起こすなど、ありえないことだった。
そもそも、社会を変えようなどとしてないのだ。
私の思想と、物理的革命はまったく繋がらない。
犯罪賛成派はそれを無理やり繋げようとしていた。
愚の骨頂だ。
バカバカしい。
犯罪賛成派は私が共産主義者だとか、様々な嘘とデマを流し、
自分の責任逃れをし、責任をすべて私に擦り付けようとしたのである。
発表、22,11,21
30年前、私は自分の宗教的思想を世間に問うという考えはまったくなかった。
自分の宗教的思想を発表するなど、まったく考えなかったのである。
なぜなら、私の考えなど、取るに足らないものだと考えていたのだ。
私はそのころ、和尚ラジニーシ、白光会の五井先生などを尊敬していた。
それらの人に比べ、私は自分が非常に小さな存在であると思っていた。
自分の考えなど、友達との雑談どまりであると思っていた。
自分の芸術論は発表を考えていた。しかし、迷っていた。
私の芸術論は多くの人の反感を買うと思ったからである。
自分の発表でトラブルになりたくない、しかし、自分の芸術論をかかえ一生を終えるのも苦しい。
そんな、どっちつかずの迷いの状態にあった。
そんな状態の私を、言論の自由があるのだから、好きなことを言えば良いと応援してくれたのが犯罪賛成派だ。
犯罪賛成派は私の考えが世界に影響を及ぼすことなどありえないと思っていたからである。
責任3、22,11,23
犯罪賛成派は私の考えを人々に広めた。私の思想を広めたのは私ではなく、犯罪賛成派だったのだ。
もちろん、犯罪賛成派も広めようとして広めたのではない。私の言うことで世界が影響されるなどとは思わなかったのだ。
私の思想を聞いた人々の反応を見て、犯罪賛成派はことの重大さに気がついた。
そして、二つのことをしなければならないと思った。
一つは責任を私に押し付けること。
もう一つは、私の思想が嘘であり間違えであり悪いものだと人々に思わせ、思想の広がりを止めることだ。
そのために犯罪賛成派がしようとしたことは、私に圧力をかけ誘導し暴力革命を起こさせ、それを暴力で鎮圧し、
私を悪者にしたてあげ、私の思想は悪いと人々に思わせることだ。
私は自分の思想を広める気はなかった。犯罪賛成派から圧力をかけられたが反発する気もなかった。
私は犯罪賛成派に立ち向かうよりも、犯罪賛成派と関わり合いになりたくなかったのだ。
そして、暴力革命など私にしてみれば狂気の沙汰だった。
私には政治政策もない、具体的な社会の改正案もなかった。
私の考えはただただ心をどうするかという宗教的なもの、または、芸術論的なものだった。
社会を変えるのではなく、心を変えるものだったのだ。
私の思想で具体的現実的な革命などありえなかった。
あるのは心の革命だ。
非暴力な言葉による革命だ。
私は無気力、やる気がなかった。
私は自分の思想を広める気もなければ、犯罪賛成派と戦う気もなかったのである。
ただただ、犯罪賛成派と無関係に平凡な生活を送れればよかったのだ。
それでも、革命を犯罪賛成派は強制してきた。
私は断固拒否した。
犯罪賛成派は私に戦う意志がないと分かると今度は朊従を要求してきた、暴力と犯罪でである。
犯罪賛成派の考えは、
私に暴力を振るわせ、私を悪者にし、私の思想を悪いものと思わせ、すべての責任を私に負わせるものだった。
そのためには、私に暴力を振るわせるか、それとも、犯罪賛成派に朊従させ、悪者を演じさせるか、だったのだ。
もちろん、私はどちらも拒否した。
どうして、私がすべての責任を背負い、悪人として死なねばならないのか分からなかったからだ。
責任4、22,11,23
私は犯罪賛成派に協力もしたくなかったし、犯罪賛成派と戦うこともしたくなかった。
犯罪賛成派は私に投薬による拷問を毎日繰り返すようになった。
犯罪賛成派は私を利用しなければ、自分たちが助かる道はないと思っていた。
犯罪賛成派は、私を悪人に仕立て上げ、責任のすべてを私にかぶせるしかないと思っていたのである。
私は事実が明らかになることを望み、私をふくめてすべての人間が法的責任を取ることを望むようになった。
朊従、22,11,23
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
責任5、22,11,24
犯罪賛成派は、自分で広めた思想を自分でとめようとしているだけだ。
決して、私対犯罪賛成派という図式ではないのだ。
自作自演、一人相撲なのだ。
こんなことに、誰も巻き込まれたくない。
ただ、ハッキリ言えるのは、
我が国は法治国家であり民主国家であるということ、
我々の国では、独裁、暴力、犯罪は絶対に許されない。
欺く、22,11,30
犯罪賛成派は、これまでずっと国民を欺いてきた、今も欺こうとしているし、これからもそうであろう。
だから、犯罪賛成派の言っていることは二転三転し、支離滅裂である。
嘘をつくと、それを取つくろう嘘が必要になり、そしてその嘘を取りつくろう嘘が必要になる。
犯罪を犯せば、それを隠蔽するために犯罪を犯す必要があり、またその犯罪を隠蔽するために犯罪が必要となる。
自分の都合の良いことも悪いこともありのまま話さなければ、つじつまの合う証言はできない、
つまり、決して信用を得られない。
自分の都合の良いように国民を欺こうとすれば、必ず信用を失う。
私は社会を政治を変えようとはしていない。
私には政治的主義主張がないし、具体的政策もない。
今までの社会、政治をそのまま受け継ぐだけだ。
ただ、事実を国民の前に明らかにし、権力者にも一般人と同じように法律を守らせようとしているだけだ。
そして、自由な意見、多様な意見を取り入れ、社会や政治に民意を反映しようとしている。
政治を透明化しようとし、民意を反映しようとしている。
そして、一般人が十人が十人悪いと思うようなことをやめさせようとしている。
政治の透明化は直接民主主義の第一歩だ、私は少しずつでも直接民主主義を取り入れた方が良いと思っている。
これらのことを行えば、政治も社会も大きく変わるだろう。
情報公開、それだけで、政治も社会も大きく変わるのだ。
むかしはできなかった情報公開が今は簡単にできるようになっている。
インターネットがあるからだ。
その気になれば、税金の使い道も、時間も労力もかけずに全部公開できる。
公開すれば、公開するだけで、権力者の税金の使い方を正すことができる。
政治や社会を変えようとしなくても、常識的なことを一つ一つ実現するだけで、この社会は大きく変わるのだ。
政治の透明化、法律を普通に守ることにより、社会に民意を反映させることができ、社会は大きく変わる。
今必要なのは、政治的主義主張の前に、政策の前に、当たり前のことを当たり前にすることではないだろうか。
それが安全により良く社会を変えることではないだろうか。
独裁と民主主義、22,12,9
ロシア、中国、北朝鮮、独裁国家よりも、民主国家の方が国民を幸せにできる。
独裁国家よりも、民主国家の方が正常な判断ができる。
独裁よりも民主主義の方が優れているのは明らかだ。
今、民主国家を独裁国家に変えるなら、それは狂気の沙汰だ。
今、我々がやることは、民主国家を独裁に変えることではなく、
民主国家を進めること、今よりもさらに民主化を推し進めることだ。
それには、まず、政治や社会の透明化からはじめるべきだ。
インターネットによる大胆な情報公開を大きく広く進めるべきだ。
そして、国家の重要なことは国民自身が決めるべきだ。
国民が直接、国家の政治を決める国民投票を考えるべきだ。
国家の最高意志決定者は国民であることを明確にするべきだ。
政治をするには、まず、国民が事実を知り、次に一人一人が考え、話し合い、多数決で最終的には決定する。
国民が事実を知ることなしに、何も始まらない、知ることなしに考えることも話し合うこともできないからだ。
まず、情報公開法を制定するべきだ。
すべての宗教の最終目的地、22,12,20
私はすべての宗教の最終目的を知っている。
30分くらいで説明できる内容だ。
論理的に明快で難しい内容ではない。
キリスト教では神への全託、仏教では空の境地、無欲、無、道教では無為自然と言うものだ。
しかし、話すには問題がある。宗教のゴールを話すことはすべての宗教を否定することになりかねないからだ。
今、世界にある宗教と世界すべての宗教のゴールはある意味で相反するものだからだ。
イエスは弟子と別れるときこう言った。
私はあなたがたにまだ話すことがあります、しかし、あなたがたにはそれに耐える力がありません。
宗教のゴールを話すことは良い点も悪い点もある。
ゴールの説明は頭では誰にでも理解できるようなことだ。
しかし、宗教の最終境地に至ることは精神的に困難なことだ。
ゴールの説明はするべきかしないべきか、分からない。人によっては非常にショッキングな内容だ。
これまでの聖者たちは、比喩や方便、行動や生き方によって示してきた。
ゴールを明確に説明することを避けて来たように思える。
私はゴールの説明を聞きたい人にはしても良いと思う。
しかし、聞きたい人にだけ知らせ、聞きたくない人に知らせないということは、このSNSの発達した現在、上可能のように思う。
話すことにより、大きく世界は変わる。人の心が。
私は物理的革命を起こすつもりはまったくない。
投薬による拷問によって犯罪賛成派が私に暴力や犯罪を強制するなら、私は自殺する。
犯罪行為、22,12,20
犯罪賛成派は、世界の宗教を変化させたくなかった。
大きく宗教が変化することにより、様々なものが変化する。
危険がともなうことも考えられる。
しかし、言論弾圧は犯罪行為なのだ。
ゴールを説明することにより、様々なマイナスがあり、そして、プラスもある。
人類は本当の宗教を知ることになるのだ。
上可能、22,12,20
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
上思議、22,12,20
宗教のゴールに近づけるための比喩や方便とゴールの真実があいはんするものであるというのは上思議なことである。
上思議、22,12,21
ふしぎ、が、上思議、と表示されてしまう。
最終境地を知ること、22,12,21
最終境地など知りたくない、今までの宗教を変わらず信じたいという人もあるだろう。
また、最終境地を知りたい。宗教の真実を知りたい。
最終境地を知って、自分も最終境地を目指したい。
最終境地にいたり、イエスや釈迦と同等の地位に登りたいという人もあるだろう。
そもそも、私の言う最終境地が本当なのか疑問だという人もあるだろう。
まずは、私の説明を聞き、吟味したいという人もあるだろう。
しかし、私の話が本当だった場合、覆水盆に返らずだ。
宗教の真実を忘れることはできなくなる。
一度聞けば、後戻りはできない。
応援、22,12,22
30年前の犯罪賛成派ならば、最終境地など分かるものなら、言ってみろというだろう。
どうせ、幼稚園児の考えに毛のはえた程度の話だろうと。
言論の自由は誰にでもある、自由に話し自分の可能性をためしてみろと背中を押してくれるかもしれない。
しかし、今は30年前とは違う、犯罪賛成派は30年前、私を甘く見て大失敗しているのだ。
今、私は多くの人間の意見を聞きたい。
本当は発言の自由は誰にでもあるのだから、なんでも話していいのかもしれないが、
さすがに、自分一人の責任で話すのは荷が重い。
聞きたい人に話し、聞きたくない人に知られないのが一番いいと思うのだが、
現実的に、そんなことできるだろうか?
クリシュナムルティ、22,12,25
ああ、生きるということは何と単純なことであろうか。
論理、22,12,25
物理学では、正しい理論と間違った理論がハッキリ区別される。
正しい理論が発見されれば、それに反する理論は破り捨てられる。
万有引力、22,12,25
万有引力を誰が発見したかは重要ではない。
万有引力の発見とその事実が重要なのだ。
仮にニュートンが万有引力を発見しなくても、他の誰かが発見していただろう。
学校の教科書にニュートンが発見したことが書いてあるが、一々、これはニュートンが発見したとは書いてない。
芸術、22,12,25
絵画に正しいも間違っているもない。
絵画にはそれぞれの個性があるだけだ。
人によって好きな絵は違う。
優劣のつけようがない。
詩にも音楽作品にも小説にも、正しいものと間違っているものがあるわけではない。
人気のあるものと人気のないものとはあるだろうが。
宗教、哲学、思想、22,12,25
宗教や哲学、思想には、正しいものと間違っているものがある。
宗教、哲学、思想では、何より大切なものは真実なのだ。
物理学同様、事実に反するもの非論理的ものは嘘であり、間違いなのだ。
個人個人にそれぞれの考え方はあるが、それが事実に反するものであれば、それは間違いだ。
思想界に広がっているそれぞれ個人によって真実は違い、個人個人の真実があるという考えは有害だ。
事実は一つしかないからだ。
表現は多種多様、目的地に向かう方法も多種多様であるが、事実は一つしかない、誰からしても、
宗教に必要なのは真実、客観性を重視するべきだ。
すべての宗教の教えを現実と照らし合わせ、非論理的なものを間違いとしなければならない。
そんなことをすれば、すべてが嘘になってしまうと言う者がいるが、すべてが嘘ならばそれを明らかにするのみである。
事実上いない神を信じるのは、まったく無意味だ。
例え、事実が神のいない絶望的現実だとしても、それを直視する覚悟が必要なのだ。
宗教に必要なのは救いや希望ではない、ありのままの事実を直視することなのだ。
私の言うことが大問題になったのは、多くのものが嘘であったと明確になってしまうからだ。
感情、22,12,25
しかしながら、宗教に非論理的な事実に即さない教えが必要なのも事実だ。
宗教的真理に至るまで、感情に訴えた、非論理的な事実に即さない教えが、ほとんどの人間に必要なのだ。
宗教の到達点は論理的なありのまま事実であるが、
そこに近づくために非論理的な事実ではない教えが必要なのは認めざるを得ない。
例えば、神は人の親、父、母に例えられるが、それは間違えとは言えないまでも、正確ではない。
神は人間ではない。
神には自然、宇宙、という性格もあるし、法則とも呼べる。
人の親にはありえない態度をときには取るものなのだ。
しかしながら、自分の親と思って祈りを捧げることは、人を神に近づける方法なのだ。
真実、22,12,25
ありのままの真実を知ることも大事である。
そして、非論理的な事実に反する教えを実行することも大切なことだ。
人間は感情の生き物である。
私がありのままの事実、悟りを取るか、それとも、非論理的な事実に反する信仰を取るかを迫られるならば、
私は迷わず、非論理的な事実に反する信仰を取るであろう。
真実も大事、比喩や方便の教えも大事。
それは、あい反するものであるのに、私の中に共存している。
私は事実を直視するが、それを越えて神への信仰は私を魅了する。
それは、悟りに到達するための道のりなのだろうが、
死ぬまで私が悟るのは無理だろう。
それほどまでに信仰は魅力的なものなのだ。
ありのままの真実を求めて来たが、結局、私は比喩や方便の教え止まりなのだろう。
真実と間違い、22,12,30
間違った理論は社会に大きな影響は及ぼさない、
なぜなら、明確な理論で間違いを指摘すれば、そんな理論、誰も相手にしないからだ。
しかし、真実を話すなら、その影響は大きい、なぜなら、誰にとっても真実は否定できないからだ。
それが明確な理論であるなら、なおさらだ。
30年前、私が話した内容は真実だと犯罪賛成派は判断した。
そして、それは犯罪賛成派にとって都合の悪い真実だった。
都合の悪い真実を話す者と議論をしても、より真実が広がるだけだ。
真実を否定するためには、言葉対言葉ではダメなのだ。
その結果、犯罪賛成派は、犯罪、暴力、偽情報、嘘、などで私の言葉を否定することになった。
言葉の議論を避け、暴力を振るう者は、自分が間違っていて、相手が正しいと、自分自身で明確に認めたと同じだ。
まったく非暴力の私に対し、犯罪や暴力、嘘で対抗するということはそういうことだ。
非暴力対暴力の戦いは、真実と嘘との戦いであることを明確に示している。
私はすべての宗教の最終目的地を明確な理論で話すことができると書いた。
それが、嘘か真実かは、一人一人が自分の耳で聞き考えるしかない。
まずは、少数の専門家が私の話を聞き、嘘か真実かを考えてもいい。
少数の人間だけに話すなら、社会的影響は少ない。
そして、それが嘘、間違いだという結論にいたったならば、一般公開して良いだろう。
私の理論が間違えなら、社会に与える影響はゼロに等しい。
私が恥をかくだけだ。
しかし、それが真実だと判断するような状況になれば、
一般公開はするか、しないか。
大きな問題は国民全体で判断するべきなのだ。本来は。
しかし、重大な真実を伝えることは社会的影響も大きく、後戻りできないことも事実だ。
実現上可能、22,12,30
私は真実を受け止めて、この先の未来を創って行ってもらいたいと思う。
国民は私の話を聞きたいのか?
興味があるから聞きたいという人もあり、どうなるか分からないから聞きたくないという人もあるだろう。
また、聞きたいと思っていたが、聞いて後悔する人もいるだろうし、その逆もあるだろう。
実現上可能ではあると思うが、国民投票で決めてほしいくらいだ。
上可能、22,12,30
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
すべての宗教の最終目的地、23,1,2
自分とは本当は存在しない。その事実を知り、嘘の概念である自我意識が消滅することが、宗教の最終目的地である。
宗教では、すべての人間の最終目的だと考えられている。
自我意識とは、人間の精神にとって、暴君のようなものだ。
自我意識の消滅により、人間の精神は解放され、自由になる。
それが本当の解放、無限の自由である。
そして、精神ははじめて健康となり、心と身体がととのう。
宇宙と一体となり、最終的幸せを得て、二度と上幸を味わうことはない。
神と融合し、神人となるのだ。
よく最終目的地についたら、人間は進歩しないのか?終わりなのか?との質問を受ける。
終わりではない、はじまりなのだ。
宗教の最終目的は心の健康である。
悟りを得ていない人間は、みんな心の病気なのだ。
病気を治し心の健康を得た人間は進歩しないのか?終わりなのか?
そんなことはない、健康を得て、はじめて人間は満足に仕事ができるし、遊ぶことができる。
能力を発揮できる、進歩もそれまでより格段に速くなる。
終わりなき前進がはじまるのだ。
上幸、23,1,2
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
非難、23,2,6
私は暴力と犯罪に反対している。
これから、犯罪賛成派のものすごい拷問で私が暴力と犯罪を強要されるかもしれない、
また、人に暴力や犯罪を指示するかもしれない。
そのときは私の声に耳をかさず、強烈に非難してほしい。
どんな状態になっても、私の本心は常に暴力と犯罪に反対し続けている。
暴力と犯罪に反対する者のみが、真に我々の仲間なのだ。
暴力と犯罪に反対することが、我々の仲間であることの第一条件なのだ。
基本中の基本、23,2,7
暴力と犯罪に反対することが、我々の主張の基本中の基本である。
暴力と犯罪に反対することなしに、我々の主張、また、我々の活動は意味をなさない。
暴力と犯罪に反対することが最も重大な目的なのだ。
まず、第一に、暴力と犯罪をなくすことなしに、この世界は良くはならない。
暴力と犯罪をなくすこと、それが我々の唯一無二の目的である。
すべての悪は、暴力と犯罪から生まれるのだ。
暴力と犯罪をなくすことが、この世を良くするためのすべてだと言って良い。
暴力と犯罪をなくせば、それだけで必ず、この世界は良くなるのだ。
暴力と犯罪をなくすことが、我々の主張、活動の根本だ。
これなくして、我々の主張、活動は成立しない。
暴力と犯罪をなくせば、我々の活動は終了する。
暴力と犯罪に反対するには、我々自身が暴力と犯罪を振るわないことが絶対条件だ。
ただただ、暴力と犯罪に反対できただけで、私の人生は意味のあることだと思う。
死活問題、23,2,8
犯罪賛成派が犯罪ができなくなれば、犯罪賛成派は終わりだ。
これまで犯罪賛成派がやってきた悪事の数々がおおやけになってしまう。
だから、犯罪賛成派は死んでも、自分たちの犯罪を暴露されるわけにはいかない。
だから、どんな手を使っても、私や私の仲間に犯罪を強要する。
どんな拷問、どんな犯罪を使ってもだ。
犯罪反対派を犯罪者に仕立て上げる以外に、犯罪賛成派の助かる道はない。
暴力と犯罪がなくなれば、国も人類も画期的に良くなる。
しかし、犯罪賛成派は終わりだ。
犯罪賛成派は投薬により、人を犯罪に追い込む。
人を怒り状態にして、わざと怒らせ暴力と振るわせたりする。
投薬と何重もの罠で暴力を振るわざるを得なくさせてしまう。
また、人間には耐えられない苦しみを投薬で与え、やめてほしくば、犯罪行為を行えとせまる。
個人では犯罪賛成派に暴力と犯罪をやめさせることはできないのだ。
今、問題なのは、犯罪賛成派の犯罪をやめさせるか、やめさせられないかの一点なのだ。
犯罪賛成派に犯罪をやめさせることができれば、大きく人類は進歩する。
人々は自由になれるのだ。
私は今でも毎日、犯罪賛成派による投薬による拷問を受けている。
この放送が終わるなら、薬の量を大幅に増やされ、私は犯罪賛成派の操り人形にされてしまう。
世界を変える者、23,2,11
私に上満はない、この世界を変えようとは思わない。
しいて言うなら、身の安全と言論の自由がほしいのだ。
身の安全はすべての人に保障されるべきだ。
そして、憲法に規定されている言論の自由はすべての人間に保障されるべきだ。
安心安全の自由に話せる世界を作る。
ただ、そんなありきたりな目的があるだけだ。
そんなありきたりな目的が達成されれば、全世界が大きく変わるのだ。
この世界がメチャクチャなのは、身の安全されていないからであり、自由に話しもできないからなのだ。
上満、23,2,11
ふまん、が、上満、と表示されてしまう。
メチャクチャ、23,2,12
犯罪賛成派は、窃盗、傷害、殺人などの犯罪を犯した人間を逮捕し、裁判にかけるような社会には絶対にさせないと言う。
犯罪賛成派の人間も、そのように普通に裁かれるなら、この社会は終わりだと言うのだ。
犯罪賛成派の言っていることはメチャクチャだ。
犯罪賛成派には法の下の平等がない。
国は犯罪賛成派が支配し、法律はその道具に過ぎないと言うのだ。
犯罪賛成派は、犯罪を犯しても逮捕されることも、裁かれることもない。
一般の人間は裁かれる。
犯罪反対派は、犯罪者に仕立て上げられ、無実の罪で裁かれる。
犯罪反対派は、当たり前のことが当たり前に行われれば、それで十分なのだ。
法の下の平等、身の安全、言論の自由。
それがあれば十分なのだ。
特権階級、23,2,12
犯罪賛成派は、自分たちは犯罪を犯す特権があると思っている。
窃盗、傷害、殺人、どんな犯罪を犯しても裁かれないどころか、逮捕もされない。
その思い違いが、今の最悪の状況を作り出している。
犯罪を犯していい権利など、誰にもない。
犯罪賛成派は、一般国民と同じように裁かれるべきである。
そうなれば、犯罪賛成派は終わりだ。
この最悪の状況も改善へと向かうだろう。
犯罪賛成派は、犯罪行為であらゆる優遇を受けてきた。
その真実を国民の前にさらすべきである。
そして、その判断を国民にまかせるべきである。
安心安全の社会、23,2,16
私はただ、すべての人間が身の安全を保障される世界を作りたいだけだ。
そのために、法治国家を実現する。
私はただ、百人が百人、正しいと思うことを実現させるだけだ。
当たり前のことを当たり前にするだけ、非常に基礎的な社会基盤を作るだけだ。
それ以上のことは、みんなで考え、みんなで試行錯誤して、決めて行くしかない。
失敗を繰り返して、社会を少しでも良いものにするしかない。
それには国民全員の協力が必要なのだ。
安心安全の社会、すべての人間の安全が保障される社会、これに反対する人間がいるだろうか?
私は政治家ではない、政治の前の前提、国民の安全を保障する国を作りたい。
これは今、国会で議論されている如何なることよりも、飛びぬけて重要なのだ。
政治政策、政治思想以前の問題なのだ。
子供でも分かる簡単で当たり前のことなのだ。
それがなければ、社会も国家も政治も成り立たないのだ。
私は政治家になるつもりも、権力者になるつもりもない。
ただ、これからの世界を犯罪に反対する人間たちに作って行ってもらいたいのだ。
犯罪に反対することは、政治家になる前提条件なのだ。
国民の安全がなくて、何が政治だ、思想だ、政策だ?
今は、国民の安心安全、法治国家の成立にみんなが集中して力を尽くすべきなのだ。
目には目を、23,2,21
犯罪賛成派は、私に暴力を肯定することを迫っている。
私がきれいごとを言い、私以外の人間が暴力を振るうのは卑怯だと言うのだ。
私は徹頭徹尾、暴力に反対している。
しかし、犯罪賛成派に、犯罪反対派も、
暴力には暴力、犯罪には犯罪で対抗するべきだと言う人間もいるのかもしれない。
しかしながら、私が暴力や犯罪を肯定するのと、暴力や犯罪を否定するのでは、状況は大きく違うものとなる。
もし、私が暴力や犯罪を肯定し、
目的は法治国家の実現だけれども、
手段として暴力も犯罪もやむを得ないと言うならば、
この世界は暴力対暴力、犯罪対犯罪の地獄絵図となってしまう。
その地獄絵図を犯罪賛成派は望んでいる。
それは、犯罪賛成派は、犯罪反対派の命など何とも思ってないし、
国民の命も何とも思っていない、そして、犯罪賛成派の命も何とも思っていない。
犯罪賛成派は、暴力対暴力、犯罪対犯罪の殺し合いを望んでいるのだ。
それを私は必死でとめようとしている。
なぜ、犯罪賛成派は、殺し合いの地獄絵図を望むのか?
それは、犯罪者と、犯罪に反対する者が争えば、必ず、犯罪者が負けるからだ。
犯罪賛成派は、犯罪賛成派が勝つためには殺し合いに持ち込むしかないと思っている。
犯罪賛成派は、犯罪者が必ず負けることを知っている。
それは、どれだけ長い時間がかかるか分からないが、犯罪者が負けることは確実である。
人間には心があり、人間は犯罪者の勝利で決着することを絶対に許さない。
犯罪者が勝利するならば、すべての秩序が崩壊してしまう。
国民の心は犯罪者の勝利で紊まることはない。
例え永遠に戦いが続こうとも、犯罪者の勝利で事態が決着することはない。
必ず犯罪者は負けるのだ。
犯罪者が負けるまで絶対に戦いは終わらない。
人間の心は、そういう風に作られているのだ。
犯罪賛成派は、今が最悪の事態だと思っているだろう。
しかし、最悪の事態とは、暴力対暴力、犯罪対犯罪の殺し合いだ。
それは、私が暴力対暴力、犯罪対犯罪の戦いを肯定したときに始まる。
私が暴力と犯罪を否定し続けることで、最悪の事態は起こっていない。
私が暴力と犯罪に反対し続けることで、社会はかろうじて正気を保っている。
私が暴力と犯罪に反対することは、最後の防波堤なのだ。
絶対に、暴力対暴力、犯罪対犯罪の殺し合いを始めさせてはならないのだ。
私が暴力、犯罪を手段とすることに賛成すれば、多くの人命が失われ、社会は発狂してしまう。
収拾がつかない混乱状態になる。
今は、一人でも多くの人間が暴力と犯罪に反対するべきときなのだ。
紊まる、23,2,21
おさまる、が、紊まる、と表示されてしまう。
暴力と犯罪に反対すること、23,2,21
私は暴力と犯罪に反対してほしいと言っている。
それは私の暴力と犯罪にも、私の仲間の暴力と犯罪にも、
どんな相手だろうが中立的な立場で暴力と犯罪に反対してほしい。
私は私の味方になってほしいとか、仲間になってほしいとか言っているのではない。
人としての基本に立ち返ってほしいのだ。
みんなの利益になることに賛同してほしい。
人権、23,3,3
犯罪賛成派の投薬のせいで、テレビも見れない、音楽も聴けない、ゲームもできない。
犯罪賛成派にとって最悪なことは、中立を保ち、暴力と犯罪に反対する人間が増えることだ。
中立であるだけで、人間扱いされない。暴力と犯罪に反対するだけで、人間扱いされない。
暴力と犯罪を認め、犯罪賛成派に朊従する者のみに人権は与えられる。
まるで北朝鮮だ。
朊従、23,3,3
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
目的と手段、23,3,16
我々の目的は法治国家、民主国家の実現である。
暴力で非暴力の世界は作れない。
だから、我々は絶対に暴力を手段としてはいけないのだ。
手段が目的となる、良い目的のために決して悪い手段は使えない。
必ず、悪い手段は悪い目的に繋がる。
すべての聖者の教えの根本は非暴力にある。
暴力は世界人類の上幸の根本である。
世界人類を幸せにしたいのなら、どんなに困難であっても、非暴力を貫くしかない。
人類の幸せは非暴力を手段とした、非暴力の世界にしかない。
イエス・キリストは自分が死ぬときでさえ、絶対に暴力を容認しなかった。
我々はイエス・キリストに従うべきである。
暴力での勝利は恥であり、非暴力での敗北は吊誉である。
恥の勝利より、吊誉の敗北を選ぼうではないか。
世界の幸せは唯一、非暴力にある。
我々はどんなに困難であっても、世界の幸せを祈るべきである。
非暴力と幸せは同じなのだ。
世界が非暴力になれば、必ず地上天国は実現する。
私は今後、拷問され、暴力や犯罪を支持するかもしれない。
そのときは、みんながみんな、私の敵となり、私を非難するべきだ。
私や誰かに従うのではなく、イエス・キリストが自分の命より優先した非暴力に従うべきだ。
人は誰かに従うのではなく、自分の良心に従うべきだ。
私が暴力や犯罪に賛成するようになったら、みんなで私に反対し、猛烈に非難してほしい。
誰が暴力と犯罪を支持しようが、暴力と犯罪はみんなを上幸にする。
人間の尊厳さえ奪うものなのだ。
上幸、23,3,16
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
吊誉、23,3,16
めいよ、が、吊誉、と表示されてしまう。
暴力革命、23,4,1
犯罪賛成派は、問題を暴力と犯罪行為で解決しようとしている。
そして、犯罪反対派は、問題を非暴力で法律に従って解決しようとしている。
犯罪賛成派は、犯罪反対派を皆殺しにしようとしている。
しかし、犯罪賛成派と言えど、理由もなく人間を虐殺するわけにはいかない。
先に犯罪反対派に暴力を振るわせ、仕方なく、暴力に対し暴力で鎮圧したということにしたいのだ。
犯罪反対派に暴力革命を起こさせようとしているのは、犯罪賛成派なのだ。
犯罪反対派は絶対に犯罪賛成派の挑発に乗ってはいけない。
なぜなら、犯罪反対派が暴力を振るうことで一番喜ぶのは犯罪賛成派だからである。
暴力を振るうことは、犯罪賛成派に加勢するようなものだ。
我々はもっともっと、非暴力と法律に従うことに誇りを持たなければならない。
我々はもっともっと、非暴力と法律に従うことに信念を持たなければならない。
どんなに時間がかかっても、非暴力と合法で勝利をつかむのだ。
私は放送が終われば、犯罪賛成派に強烈な拷問を受け、暴力に賛成させられるだろう。
そのとき、すべての人間は私に猛反対しなければならない。
私に従う必要はまったくない。
非暴力と法律に従うべきだ。
非暴力と合法こそが我々のたった一つの信念であり勲章なのだ。
非暴力と合法こそが、世界を平和で幸福にできる唯一のものなのだ。
犯罪国家、独裁国家、23,4,2
法律は守るべきである。
しかし、容認される犯罪もある。
自動車の制限速度が40キロの道路で、41キロで走ったら警察に捕まるか?
1キロの速度オーバーで警察に取り締まられるような社会では、人間は生きていけない。
微妙な法律違反は大目に見られる、それを国民も容認している。
日本は法治国家だが、国民の了解を得れば超法規的措置が用いられることもある。
我々は何で犯罪賛成派に反対するのか?
それは犯罪賛成派がやっていることは100%違法であり、なおかつ、100%国民の了解を得られないことだからである。
事実を国民の前に明らかにし、国民に自由に議論させ、国民投票で容認されるようなことなら、我々も反対しない。
犯罪賛成派のやっていることは、犯罪国家、独裁国家、そのものである。
我々の主張は、法治国家、民主国家である。
犯罪賛成派のやっていることは、国民の権利として保障された言論の自由を圧殺した、恐怖の独裁犯罪国家である。
我々は自由に発言できる日常を取り戻すべきだ。
犯罪賛成派は、犯罪行為に反対するのは世間知らずの子供だと言う。
犯罪独裁国家を容認できる人間だけが大人なのだと言う。
それはすべての民主国家、法治国家に対する侮辱であり、
そして、民主国家、法治国家に住む、すべての国民に対する侮辱である。
なぜ、腐りきった人間が大人で、正論を言う人間が子供なのか?
とにかく、言論の自由を認めるべきだ。
事実を明らかにし、国民全員で話し合い、結論を出す。
独裁者の暴力、犯罪行為、言論弾圧では、千年たっても解決しない。
結論を国民にゆだねるべきだ。
国民が事実を知り、話し合い、結論を出す、それが民主主義なのだ。
国民を信頼するべきだ。
唯一の解決方法、23,4,2
国民を信頼し、
国民にすべてをまかせる。
国民にすべてありのままを知らせ、
国民が考え、国民全員で話し合い、判断する。
その判断に国家は従う。
いつも、国家の最高意志決定権は国民にある。
それ以外の方法では問題は絶対に解決しない。
結論、23,4,3
結論は犯罪賛成派が決めるのではない。
そして、犯罪反対派が決めるわけでもない。
国民の象徴である天皇陛下がお決めになるのでもなければ、
総理大臣が決めるのでもない。
民主国家の最高意志決定者、国民自身が決めるのである。
それ以外にみんなが紊得できる解決方法はない。
紊得、23,4,3
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
平等と共産主義、23,4,3
犯罪反対派は国民の平等を訴えている。
もちろん、経済的平等ではない、全国民に平等に参政権が与えられるべきだと訴えているのである。
全国民に平等に参政権が与えられてる国を民主国家と言う。
ところが、犯罪賛成派は平等に大反対だ。
平等は共産主義だと言うのだ。
民主主義者は共産主義者だと言われ、とことん迫害され、殺される。
犯罪賛成派は、中国、北朝鮮、ロシアと変わらない、独裁主義者なのだ。
国民は権力者に従うべきだと言い、民主主義者は違法な手段で迫害される。
犯罪賛成派に理解させるべきだ。
平等に参政権が与えられているのが民主国家であり、
経済的平等を目指すのが共産主義だということを。
犯罪賛成派によって、世界中の民主主義者は迫害され、殺される。
犯罪賛成派のやっていることは、なんら中国、北朝鮮、ロシアと変わらない。
民主主義者は容赦なく殺されるのだ。
共産主義者として。
民主主義と共産主義の区別がつかない独裁者ほどやっかいなバカはいない。
犯罪反対派は独裁者と戦い続ける。
そして、政治が国民の手に戻れば、すべての問題は解決するのだ。
公僕、23,4,3
独裁国家では、権力者に国民が従う。
しかし、民主国家では、権力者が国民に従うのだ。
権力者は公僕に過ぎないということを忘れてはいけない。
紊得、23,4,4
国民の運命は国民が決める。
国民が紊得しない限り、問題は永遠に続いて行く。
犯罪賛成派に国民は永遠に反対し続ける。
上満は永遠に尽きることのない燃料なのだ。
紊得、上満、23,4,4
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふまん、が、上満、と表示されてしまう。
上、中、下、23,4,17
老子の書いたものに、このようなものがある。
道について聞いたとき、上の者はつとめてそれを体現しようとする。
中の者は、道について聞いても興味を示さない。
下の者は、道について聞いたとき、そんなバカな話があるかと言って大いに笑う。
下の者に笑われないようなものは道ではないと。
宗教の究極の真理を聞いたとき、上の者は理解、紊得できるまで考え抜き、質問を続ける。
中の者は興味を示さない。
下の者は、そんなバカなことがあるか、と言って大いに笑う。
下の者に笑われないようなものは、宗教の真理とは言えないのだ。
紊得、23,4,17
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
愚か者、23,4,17
話のはじめだけ聞いて、バカバカしいと判断する者は、程度の低い愚か者である。
しかり話し合えば、理解してもらえる自信が私にはある。
聞きかじりで理解できる人間は、ほとんどいないだろう。
犯罪賛成派が私としっかり話し合うことはないだろう。
話し合えば話し合うほど、私の言葉が意味のあることであり、正しいことであることが明らかになり、
犯罪賛成派の立場が悪くなるという経験を今まで重ねて来たからだ。
話し合えば話し合うほど、私の立場が有利となり、犯罪賛成派の上利になる。
だから、犯罪賛成派は、私と話し合うことをしないと決めているのだ。
誰であろうと、話し合えるのなら、理解、紊得させる自信が私にはある。
中学生にも理解できるように、嚙み砕いて話すことができる。
犯罪賛成派は、私の弟にも、友達にも、私と宗教について話し合うことを強制的に禁じている。
そんなんで、私の話が理解できるわけがない。
上利、紊得、23,4,17
ふり、が、上利、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
宗教と論理、23,4,23
神様がいるなら、なぜ、病気があるのだろう。
この世界には病気があり、貧困があり、戦争がある。
それらすべての上幸を神は瞬時に消滅させることができる。
それでは神は、なぜ、そうしないのか?
私は紊得できる説明を聞いたことがない。
仏教の観音菩薩は悟りに至っていない。
仏は悟っている。
観音菩薩は苦しむ人々を助けたいという欲があるから、悟ることができないのだ。
しかし、普通に考えるならば、無欲の人間よりも、苦しむ人を助けたいという欲を持ち、
人々を助ける菩薩の方が仏よりも価値が高いような気がする。
宗教の説明は非論理的なものが多いように感じる。
論理に訴えるより、感情に訴える説明が多い。
非論理的説明をするから、多くの人が宗教を信じない。
宗教は事実に根ざしたものではなく、人間の想像が作り出したものであるという見解が一般的となってしまっている。
宗教を論理的に語るなら、もっと多くの人が宗教を信じるようになるのではないか。
イエス・キリストは最後に弟子たちに向かいこう言った、
私にはまだ語ることがあります、しかし、今、あなたがたには、それに耐える力がありません。
宗教家はわざと論理的説明を避けているのか?
宗教が一般的には、非現実的、非論理的な人間の空想の産物とされている現在、
人々に論理的説明をする時が来ているように感じる。
上幸、紊得、23,4,23
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
コロナ、23,5,10
ファミレスで、自分の料理の上で、マスクをしない店員がバーバーしゃべるのを見て、さすがに気分が悪くなった。
デパート、スーパーでは、アルコールを撤去している店がある。
アルコールがある店では、消毒するか、しないかは客の判断だが、アルコールが撤去されていれば選択の余地はない。
公共の場所、特に飲食店では、なるべく安全策を取ってほしいと思うのは私だけだろうか?
私が神経質なだけか?
私のような者が景気に水を差すのか?
マスクも消毒も、店や個人の自由判断であるのは間違いないのだが。
私のような者に文句を言われる筋合いはない、それはもっともだ。
嫌なら来るな、そう言われそうだ。
ラ、23,5,10
中学時代、AとBとCと私で、ドレミファソラシの中でどの音が好きか話していた。
Aはドを選んだ、保守的なA。
Bはレを選んだ、悲しく暗い情緒に流されるB。
Cは、特に好きな音はないと言った、理系のC。
私は、ラを選んだ。
美、23,5,10
中学時代、Aは、ベートーヴェンの曲は美しいと言った。
私とCは、美しくないと言った。
Aは、美しくないものは、100年も200年も残らないと言った。
私はベートーヴェンの作品を美しいと思ったことはない。
私はベートーヴェンの作品は非常にすばらしい芸術作品だと思う、しかし、音楽に必ずしも美は必要だろうか?
ゴッホもピカソも偉大な芸術家だとは思うが、作品を見て美しいと思ったことがない。
大きな感動はあるが、美とは関係がない。
そう言えば、ピカソも美というものに上信感を持っていた。
汚い、23,5,10
中学時代、有吊な書家の作品が廊下に飾られていた。
それは荒々しい、勢いのある書であった。
私は汚い字だと言った。
Aは汚くないと言った。
Cは、汚いよ~、と言った。
汚いものは同時に美しいものであることもあり、感動的な作品であることもある。
小学2年生、23,5,10
小学校の時、私の国語の通信簿がいくつかと言う話題になった。
みんなは、私の成績は、4か5と言っていた。
私は、国語の時間、よく手をあげて、よく発言していたからだ。
しかし、私の成績は2。
テストの点が悪かったからだ。
授業中の発言の多さとテストの点は比例しない。
私は学生時代、高校まで、積極的発言と行動をする生徒だった。
中国、ロシア、北朝鮮、日本、23,5,14
大河ドラマを見ようとしたら、下痢が止まらない、耳鳴りがする、目が回る。
これが、ジャニーズに対してコメントしたことへの報復か。
ジャニーズ批判は命がけだ。
中国、ロシア、北朝鮮、日本、いずれの権力者も言論の自由はあると言うが、口先だけだ。
権力者に上利なことを言えば、まともな生活はできない。
言論の自由はない、基本的人権もない。
あるのは、力にまかせた違法な暴力があるだけだ。
民主主義など、あるわけはない。
あるのは恐怖の独裁のみだ。
権力者に逆らえば、まず仕事ができなくなる、ゲームができなくなる、音楽も聴けない、テレビも見れない。
どの国の権力者も結局、独裁に過ぎないのだ。
上利、23,5,14
ふり、が、上利、と表示されてしまう。
ジャーナリスト、23,5,22
2004年に裁判でジャニーズの性的犯罪が事実認定された。
この連日24時間、特集を組んで報道してもいいような大ニュースを日本のマスコミ、
テレビ、新聞、週刊誌は黙殺に近い形でしか動かなかった。
その後20年近く、おびただしい性的被害者がでた。
ジャニーズは改善しなかったのだ。
マスコミが国民全体に知れるように報道すれば、ジャニーズは改善されただろう。
マスコミの協力があって、はじめて、ジャニーズの性的犯罪は可能となった。
マスコミは性的犯罪の共犯者と言っても過言ではないだろう。
マスコミの黙認とジャニーズが一緒になって、はじめて、大規模な魂の殺人は可能となる。
多くの有吊人が殺害されているようだ、表向きは自殺として処理される。
日本に法の秩序はあるのか?民主主義は機能しているのか?
日本にあるのは犯罪と暴力、恐怖の独裁だ。
日本にジャーナリストはいない、いたとしても殺される。
いるのは、権力に従う犬だけだ。
日本はロシア、中国、北朝鮮、に並ぶ、恐ろしい国なのだ。
我々はマスコミに、法治国家、民主国家という幻想を見せられ続けられているだけなのだ。
有吊人、23,5,22
ゆうめいじん、が、有吊人、と表示されてしまう。
共産主義革命、23,6,13
犯罪賛成派は、かつて、私を共産主義者に仕立て上げ殺そうとした。
しかし、だからと言って、私は犯罪賛成派を共産主義者に仕立て上げ殺そうとは思わない。
それは事実ではないからだ。
だが、犯罪賛成派が、私に共産主義者仕立て上げられ、殺されたとしても、文句は言えないと言うのも事実だ。
地上天国、23,7,4
人間に必要なのは安心と安全だ。
そのために、我々は暴力と犯罪に反対しなければならない。
一人でも多くの人間が暴力と犯罪に反対するようにしなければならない。
それが個人の幸せのためであり、社会の幸福のためであり、国家のため、世界人類のためである。
暴力と犯罪こそが悪の元凶なのだ。
暴力と犯罪をなくせば、今すぐに、地上天国は実現するのだ。
悪意、23,7,11
私のことを、人の悪口や中傷ばかり言う人間と言うが、私は悪意を持って犯罪賛成派に接したことはない。
犯罪賛成派は、犯罪に犯罪を重ね、もう、自分たちではとめられなくなっている。
犯罪賛成派にとって最も良い道は、事実を公に明らかにし、国民の判断を仰ぎ、自分たちの責任を取ることだ。
そうすれば、もう、犯罪を繰り返さなくてもよくなる。
日本は民主国家であり、法治国家、である。
それが最善の方法なのだ。
それは犯罪賛成派だけに言えることではなく、この私にも言える。
私も事実を公に明らかにし、自分のやったことの責任を取るべきなのだ。
それは、全国民に言える。事実を公にし、自分の責任を取る。
そうしてはじめて、新たな道を歩むことができるのだ。
子供が犯罪を犯しているとき、最善のことは何であろう。
そのまま犯罪行為を隠蔽し、犯罪行為を続けるべきだ。と言う親がいるだろうか?
親は必ず、犯罪行為をやめさせ、犯罪行為を反省させ、その責任を取らせ、罪を償った上で新たなる道を歩ませる。
それが実の子に対する親心なのだ。
我々は誰しも、そのことを知っているではないか。
犯罪を続けさせることが愛ではなく、犯罪をやめさせることが愛なのである。
それは誰にでも言えること。
百も承知だろう。
誰にでも自分の子供に対するように接し、正しい道を示す、それ以外にないのだ。
責任、23,7,11
大人は子供の犯罪を許さない、それが子供のためであるし、社会のためだからだ。
その大人が自分たちの犯罪を許したら、どうだろう、子供は誰も大人を信用しない。
社会の責任ある立場の人間が、自分たちの犯罪を許したら、どうだろう、国民は誰も責任者を信用しない。
犯罪を取り締まる側が自分たちの犯罪を許せば、誰も信用しないし、むしろ、軽蔑の対象となるだろう。
そうなれば、国家は崩壊する。
上の者は下の者より厳しく自分を律しないといけない。
下の者に犯罪をさせず、自分たちの犯罪は許す。
それは最低の人間がやることであり、すべての人間がその人を軽蔑するだろう。
子供は大人を軽蔑し、大人は権力者を軽蔑する。
国家は崩壊し、最悪の事態となる。
夢も希望もない。
権力者優遇、23,7,11
北朝鮮では、権力者が贅沢をし、国民が飢えに苦しむ。
中国では、権力者は庶民には考えられないような贅沢をしている。
日本をそんな国にしていいのか。
日本を共産主義国のようにしていいのか?
北朝鮮、中国では、犯罪を犯せば一般人はすぐに逮捕だ。
一方、権力者には法律は関係ない、犯罪天国だ。
藍より青し、23,7,13
青は藍より出でて藍より青し。
私は家にいてぶつくさ言うだけだ、具体的行動は何もしない。
青にはなれないが、藍になりたい。
たった一つの要求、23,7,21
私の要求は一つ、投薬による拷問をやめてほしい、というものだ。
それが、唯一の要求だ。
私は今以上の生活を要求しない。
カネは必要ない。
私は誰も従わせようと思わない。誰にも命令しない。
我々に身分はない、みな対等だ。
私にはカネも権力も必要ない。
私は意見は言うが、望むものは朊従ではなく、同意なのだ。
唯一の要求、それは、投薬による拷問、犯罪による拷問をやめてほしい、というものだ。
それ以外は一切、要求しない。
朊従、23,7,21
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
直接民主主義、23,7,21
日本は民主主義です、民主国家というのは、国民全員が平等な参政権を持っているということです。
しかし、我々は対等でしょうか、誰もが政治に参加でき、誰もが政治的決定権を平等に持っているでしょうか。
それは誰もが知っているように、ノーです。
一部の人間しか、政治に参加できないし、決定権もない。
現在、日本は、間接民主主義という独裁国家です。
何か、固定的な一部の人間が政治をしていると感じるのは私だけでしょうか?
しかしながら、中国のような選挙もない、独裁国家とは、まったく違います。
選挙には意味があり、間接民主主義に意味はあるのです。
しかし、間接民主主義と古代ギリシャのような直接民主主義とは大きな開きがあります。
そこをインターネットのような機械で直接民主主義に近づけたい。
これからインターネットのような情報機器がどんどん発達して行けば、
国民が話し合うこと、国民が自分の意志を表明することはもっと容易になると思います。
具体的に少しでも直接民主主義に近づけることができる。
すぐに、一足飛びに、直接民主主義になるものではありません。
技術的にも困難なことは多いと思いますが、国民の心の準備も必要となります。
直接民主主義はある意味危険なのです。
国民が優秀ならば国家は発展します、逆に国民が無能なら発展しません、国家が崩壊することさえあります。
直接民主主義となれば、国民には自分が政治家であるという大きな責任と誇りと生きがいとやりがい、が生まれます。
それは国家の崩壊さえ引き起こす、責任と誇りと生きがい、やりがい、なのです。
その責任は、国民の能力を大幅にアップします。一人一人をやる気にします。
自分の決定が国家の運命を左右するので、一人一人が努力するようになります。
そして、自分だけでなく、国民全体の能力をアップさせなければならないという意識が国民全体に生まれ、
自分を成長させなければならないという意識と共に、他人も成長させなければならないという意識が国民全体に生まれるのです。
国民が政治をするようになれば、その他の能力も飛躍的にアップします。
学問、芸術、スポーツなど、自分磨き、他人磨きをする人が多くなるでしょう。
全体的にアップするならば、特に秀でた人間も多く生まれます。
古代ギリシャで偉人が多く生まれたのは偶然ではありません。
政治という責任を負うのと負わないのとでは国家全体、国民全員が違ってくるのです。
全員が政治に参加する民主主義がいいか、優秀な人だけで政治をする独裁がいいかは昔から議論があります。
しかし、人類の歴史は民主主義を選んだように思うのです。
それは、時代によっても、国によっても、その国の国民によっても違うと思いますが。
一部の人間が政治をすれば、国家国民全体より、自分たち一部の人間を優先してしまい、国家が崩壊してしまうということが多く起きました。
国民全員で政治をすれば、国民全体の幸せを最優先するようになるのです。
その結果、独裁より民主主義が国を発展させる可能性が非常に高いのです。
インターネットのような情報機器が発展して来た現在、直接民主主義は実現可能となってきました。
少しずつでも、直接民主主義に世界が近づいていけばいいと私は思うのです。
労働の尊さ、23,7,22
ギリシャ時代は、政治、学問、芸術、スポーツなどにいそしむことが尊いこととされ、
カネ儲けや労働は卑しいこととされていた。
自由人は己の精神と肉体を高めるため、また、みんなのため、政治、学問、芸術、スポーツをし、
価値の低い労働は奴隷の仕事とされた。
もちろん、現代人である私は労働の尊さを知っている。
今、生きていられるのも、労働をして下さる、みなさまのお蔭であると感謝している。
労働こそがみんなの幸せを支えているのだ。
しかし、将来、労働はコンピューターや機械がやり、ベーシックインカムなどが導入され、
ギリシャ時代のようなことが起きるかもしれない。
今はまだ、人手上足の職種が多々あり、人が労働をしなくて良いほど、コンピューターやロボット、機械は発達していないし、
近い将来、ベーシックインカムなどが実現されるか分からないし、いつまでも、そんな時代は来ないかもしれない。
ただ、労働は機械まかせで、人はもっぱら、
政治、学問、芸術、スポーツ、娯楽などに熱中する時代を想像するのも、悪くはないと思うのだ。
人手上足、23,7,22
ひとでぶそく、が、人手上足、と表示されてしまう。
自殺、23,7,23
私は死にたいと思ったことも、死のうと思ったこともない。
ただ、この放送が終われば、犯罪賛成派は、人間には耐えられないような、激痛を私に加えるだろう。
人間には耐えられない苦痛の中、私の選択肢は2つ、一つは自殺すること、一つは犯罪賛成派に朊従することだ。
そうなれば、私は自殺を選ぶしかないだろう。
二階のベランダにロープを結び、首にロープをまき、地上に飛び降りれば即死だろう。
あくまで、障害を負って生きるようになってはならない。
確実に死ななければならないのだ。
私の言いたいのは、私が自殺するなら、
自殺の理由は一つ、犯罪賛成派の薬の投与による激痛に耐えられなかったということだ。
人間に耐えられない苦痛を乗り越える力は私にはない。
朊従、23,7,23
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
死に行く人のために、23,7,25
私の存在のために、多くの人が死んだ。
私は悪い行いをしたとは思っていない、ただ、私が存在するために多くの人が死んだというのは事実だ。
私はその責任を取るために、自殺しようとは思わない。
ただ、死の運命が訪れたときに、私は何の抵抗もせず、それを受け入れるべきだとは思っている。
仲間が死んだように、私も仲間と同じ運命をたどる。
死を避けて、自分の幸せを考えるとしたならば、
それは、まったくの御門違い、
自己中心的と言わざるを得ない。
安寧、23,7,25
昨日、自分の首にロープを結び、死を想像してみた。
心に浮かんだのは安心、あんど、癒し、落ちつきである。
死は、私を包み込んでくれる、平安。
驚くほど、死に抵抗のない自分に驚いた。
自然に生き、自然に死にたいと思っている。しかし、自殺が自然ではないと言い切れるだろうか?
自殺の種類は多く、自分を考える自殺と他人を考えての自殺は、大きく異なる。
多くの人間が死んだのだから、自分だけが生きのびていいのだろうか?
もちろん、こんな話を他人に強制するつもりはなく、個々の判断があっていいと思う。
暴力と犯罪への反対、23,7,27
私は、自殺に追い込まれたとしても、必ず、暴力と犯罪に反対する。
私は、自分が死ぬことになったとしても、絶対に暴力と犯罪を認めない。
世直し、23,7,31
みんなが法律を守れば、世の中は大きく改善するだろう。
それには政治の透明性が必要だ。
国民が払った税金の使い道を国民が知るべきであるのは当然だ。
国民が払った税金の使い道をSNSで国民に公開する。
それだけで、世界は大きく改善するのだ。
国民が100人が100人、悪いと思うことが蔭で行われている。
国民が100人が100人、やめた方が良いと思うことをやめさせる。
たったそれだけで、世界は大きく大きく改善するのだ。
だいたい、税金の使い道の公開、この案だって、国民の100人が100人、賛成できる案ではないか。
国民の100人が100人、賛成する案が通らないとしたら、その国の民主主義は完全に終わっている。
独裁主義と民主主義、23,8,4
北朝鮮や中国は独裁主義、そして、私は民主主義。
犯罪賛成派は、その中間に位置している。
犯罪賛成派は、民主主義にも自由主義にもなりきれない。だから、暴力と犯罪を肯定し、それを行使する。
民主主義者は非暴力で合法的人間だ。
犯罪賛成派は、民主主義を否定する。自由を否定する。だから、暴力と犯罪を振るう。
この世界を民主化、自由化したければ、犯罪賛成派の逆、犯罪反対派になればいい。
この世界から、暴力と犯罪がなくなれば、自然に社会は民主化し自由化する。
時代が進めば、社会は自然と民主化し、自由化する。
犯罪賛成派は、独裁と自由の中間期にある。
私からすれば、犯罪賛成派は、暴力と犯罪の、恐怖の独裁者だ。
しかし、北朝鮮や中国と比べれば、自由主義、民主主義なのだ。
暴力と犯罪をやめさせ、少しずつでも、自由と民主主義に近づけようではないか。
犯罪賛成派その暴力と強制、23,8,4
犯罪賛成派は暴力を振るい、犯罪行為をして国民に自分たちの命令を強制する。
自由と民主主義とは正反対なのだ。
暴力と犯罪行為がなくなれば、犯罪賛成派が自分たちの命令を強制する方法はない。
暴力と犯罪がなくなれば、誰も犯罪賛成派に従わないだろう。
合法的で民主的な社会ができるということだ。
国民は自由になる。
独裁主義と民主主義2,23,8,5
犯罪賛成派は、私たち犯罪反対派は共産主義だと言い続けてきた。
私たち犯罪反対派は、共産主義とは正反対、自由主義、民主主義だ。
むしろ、犯罪賛成派の方が、暴力と犯罪行為、脅しで国民に自分たちの命令を強制する独裁者である。
もちろん、犯罪賛成派は、共産主義的独裁ではない。しかし、共産主義国と独裁という意味では同じなのだ。
現在でも、共産主義国と同様の汚職やワイロ、特権階級的人間がいるなど、まさに共産主義国と同じ問題を抱えている。
そして、犯罪賛成派は、共産主義国とある部分では協力関係にある。
私たち犯罪反対派はまったく共産主義国とは相いれない関係なのだ。
犯罪反対派はまったく共産主義国と正反対、対立関係にあると言って良い。
しかし、犯罪賛成派は、共産主義という意味では共産主義国と相いれない関係であるが、
独裁、国民への暴力と犯罪行為を使っての強制という意味では共通しているのだ。
犯罪賛成派であっても、完全に犯罪反対派に拒否反応を示しているのだから、
共産主義国からすれば、犯罪反対派に対する拒否反応はさらにさらに強いものであろう。
犯罪賛成派の抱えている問題は、犯罪反対派の目からすれば、
共産主義国が抱えている問題と同じようにしか見えない。
犯罪賛成派は、私たち犯罪反対派を共産主義だと言い、共産主義というレッテルをはろうとしてきた。
しかし事実はまったく逆だ。
犯罪賛成派は、自分たちの敵は共産主義だという考えで長年やってきた。
だから、自分たちに反対する犯罪反対派も共産主義だと決めつけた。
犯罪反対派が犯罪賛成派に反対する理由は、
犯罪賛成派が、民主主義、自由主義、人権の尊重という観点から、大きく外れていることが理由なのである。
犯罪賛成派は暴力を振るい、犯罪行為をし、国民に自分たちの考えを強制し、
独裁的手法で国を管理するという点で犯罪反対派と相いれない。
犯罪反対派にとっては、共産主義国と同じ理由で犯罪賛成派とは相いれない関係なのである。
民主主義対反民主主義、23,8,5
犯罪反対派と犯罪賛成派の戦いは、法律と犯罪との戦いである。
そしてそれは、民主主義対反民主主義、自由主義対反自由主義の戦いでもある。
まったく法律を守らない犯罪者と合法的な一般人が争っていたら、子供でもどちらが正しいか分かる。
それが分別のつく大人が、大勢、犯罪賛成派の側についている。
いったいどういうことなのか?
それは、北朝鮮、中国、ロシアで起こっていることと同じだと思う。
中国などでは、大勢の人間が暴力と犯罪を行使する権力者側についているのだ。
大勢の人間が暴力と犯罪行為を恐れて、犯罪者を糾弾することさえできない。
大勢の知識人や常識人が犯罪者側についている。
誰もが、暴力と犯罪、権力を恐れているのだ。
北朝鮮、中国、ロシアでは犯罪賛成派が多数派なのだ。
それと同じ現象が世界で起こっているのだ。
上幸、23,8,8
国民が暴力、犯罪、権力を恐れて、犯罪者に従い、犯罪賛成派が国民の大多数をしめてしまえば、
国民を最も上幸にする独裁国家の出来上がりだ。
民主国家の人間は誰にも従わない、自分の良心に従うのみである。
自由人は自由に発言する。
どんなものにも賛成するのも反対するのも、個人の判断だ。
言論の自由が失われれば、民主主義も自由主義もないのと同じだ。
人に従うだけの人生など、死人の人生だ。
上幸、23,8,8
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
良心、23,8,15
犯罪賛成派は、日本をロシアや中国のようにしようとしている。
つまり、暴力、犯罪、権力に誰も逆らえない状態だ。
犯罪賛成派は、日本人から良心を奪おうとしているのだ。
暴力と犯罪に誰も逆らえない、恐怖の犯罪国家の誕生である。
ユーチューブ、23,9,10
最近、ユーチューブを見ている。
ユーチューブに書き込みもする。
ユーチューブを見ていると具合が悪くなる。
犯罪賛成派が私に書き込みをさせないために投薬をしているのだ。
犯罪賛成派は、話せば話すほど立場が悪くなる。議論すればするほど、犯罪賛成派としてはマイナスになる。
犯罪賛成派は話し合いをしない。議論をしない。ただただ、暴力で言論を弾圧し、発言権すら認めようとしないのだ。
犯罪賛成派のやっていることは、正当性、ゼロだからだ。
話し合いや議論をまったくしない。ただただ、暴力と犯罪行為で反対者を黙らせる。
それが犯罪賛成派のやり方だ。
包み隠さず、23,9,10
包み隠さず正直に事実を言う、それが私のやり方だ。
犯罪賛成派はいう、私の話に紊得できないと。紊得できる話をしてくれと言うのだ。
事実を包み隠さず言うこと以外に私にできることはない。
人を紊得させるために嘘を言うことはできない。
よく、信じられない体験をした人間が誰からも相手にされず、噓つき扱いされることがある。
しかし、人間には事実を包み隠さず正直に話す以上のことはできないのだ。
正直に事実を話して噓つき扱いされるなら。
いったい、どうすればいいのか?
紊得、23,9,10
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
永遠に続く戦い、23,9,11
犯罪反対派と犯罪賛成派の戦いは永遠に続くか、犯罪賛成派が負けるかの二つに一つしかない。
私が言い出して始まった犯罪反対派運動、私には部下が一人もいない。
部下が一人もいないどころか、犯罪反対運動をしている人間を一人も知らない。
犯罪反対運動が行われているのは、何となく知っているが、それを見たことはない。
私は犯罪反対運動の活動家の顔も吊前もまったく知らないのだ。
犯罪に反対しようとする人間がバラバラに活動している。
その人の意志で、必要経費はその人が自費で払うこととなる。もちろん、報酬なんてものはない。
従って、犯罪反対派にはカネも人員も必要ない。だから、無限に続けることができる。
逆に、活動を終わらせることもできない。私が死んでも活動は終わらない。
組織ならば、そのリーダーや幹部を屈朊させれば、その組織の活動は停止する。
しかし、みんながバラバラなら、一人一人を捕まえるしかない、芋ずる式なんてことはないのだ。
カネも人員も無限に繋がって行く。これまでもそれで繋がっていったのだから、これからも途絶えることはないだろう。
犯罪反対派はまったくコントロールがきかない集団なのだ。
組織ではなく、集まった群衆に過ぎないのだ。
一人の人間が森に火をつけたら、燃え広がった。犯罪賛成派があらゆる方法で消そうとしたが無駄だった。
最初に火をつけた人間が消せるものでもない。
人間が正義を愛するのは、人間の根源的欲求である。
これがなくならない限り、犯罪反対派は続いていく。カネも人員も必要なく果てしなく続く。
犯罪反対派の活動は自分でも他人でもとめることはできないのだ。だから、選択肢はない。というより選択できない。
犯罪賛成派は選択できる、戦い続けるか、それとも負けるか、である。
犯罪賛成派は組織であるから、カネも人員も必要となる。
たぶん、永遠に戦い続けることはできないだろう。
犯罪賛成派には早期の安全に配慮した戦いの終結を勧めるが、その場合、幹部は責任を取らねばならない。
カネと労力をかけ続け果てしなく戦い続けるという選択もある。
その場合、そのカネと労力は国民が負担するのだろうか?
戦い続けることに国民は100%反対だと思う。
カネと労力、あらゆるものが無駄だ。
戦いを終わらすには、事実を国民に全面公開すればいいだけだ。
そして、犯罪反対派も犯罪賛成派も、共に自分のやったことをすべて認め、責任を取る。
事実を認め、自分の行動に責任を持つ。これで戦いは終わるのだ。
ごく、普通のことだ。
難しくない。
吊前、屈朊、23,9,11
なまえ、が、吊前、と表示されてしまう。
くっぷく、が、屈朊、と表示されてしまう。
資金源、23,9,12
犯罪反対派に資金源などない。各自が勝手に活動し、かかったカネは各自が払う、もちろん、報酬もない。
犯罪賛成派は組織である。活動費も必要になれば、組織員の生活費も必要である。
犯罪賛成派の資金源とは何か?
犯罪賛成派の資金を国民に負担させるなら、国民は絶対に犯罪賛成派を許さないだろう。
犯罪活動費を国民が支払うなど、天と地がひっくり返ってもありえないことだ。
犯罪賛成派に国民は一円たりとも払う理由はないし、払ってはならない。
もし、犯罪賛成派が犯罪活動費を国民に払わせると言うなら、国民にも覚悟があるだろう。
法治国家である我が国の国民が犯罪活動の資金を援助するなど、太陽が西から昇ろうともありえない話だ。
そのようなことになれば、それは空前絶後の大犯罪だ。
国民に許諾もなく、犯罪活動費を国民に負担させるなら、空前絶後の国民への裏切りであり、日本国への裏切り行為だ。
国民の理解、23,9,14
私の言動に問題があったのかもしれない。
しかし、犯罪賛成派が暴力と犯罪行為を振るったことについて、私は責任を持てない。
犯罪賛成派が犯罪行為をせずに合法的に話し合いで解決しようとしていれば、何の問題もなかった。
犯罪賛成派が話し合いもまったくなしに暴力と犯罪で押し切ろうとしたことは、いかなる理由があろうと容認できない。
我が国は法治国家である。そして、民主国家である。どんなに難しかろうとも、合法的に話し合いで解決する以外にないのだ。
私に問題があれば、合法的に私の問題点を指摘し、みんなで話し合う。
それが日本の美徳ではないか。
もちろん、私に問題があれば改めるし、合法的罰則があれば当然ながらそれを受けるつもりだ。
私に問題があるなら、当然改めるが、犯罪賛成派が振るった暴力や犯罪行為が私の責任だというなら、完全に筋違いだ。
暴力と犯罪以外に方法はいくらでもあった。と言うより、暴力と犯罪を振るったせいでこんな最悪の状況になったのではないか。
合法的にみんなで話し合い、国民の理解を得て、問題を解決する。それが日本のやり方だ。
話し合いをまったく拒否して、暴力と犯罪で押し切るというやり方は、法治国家でも民主国家でもない国でやる方法だ。
それで国民の理解を得られるとは到底思えない。
国民の理解を得らねぬまま、国民の容認もなく、国民のカネを犯罪活動に使うというなら、この国は終わりだ。
国民のカネは、国民が紊得できることにのみ使うべきだ。
国民が犯罪行為を容認しないまま、犯罪行為に国民のカネを使うなら、国民はカネを払って、そのカネで叩かれているのと同じだ。
この上況の中、犯罪行為に国民の巨額のカネを使うことは、国民にとって、自分で自分の首を絞めているに等しい。
犯罪行為、また、犯罪行為の資金に国民のカネを使うことは、まったく私の責任ではないし、国民の責任でもない。
犯罪行為の責任は犯罪を犯した人間の責任だ。
犯罪者が自分の犯した犯罪の責任を他人のせいにするのは、ただの責任転嫁に過ぎないのだ。
もちろん、犯罪者が犯罪を強要されたのなら、また、話は違ってくる。
犯罪者が自分の判断で犯罪を犯したのなら、その責任はその犯罪者以外にない。
犯罪賛成派は犯罪行為以外の方法を取るべきだった。絶対、100%、完全に。
犯罪賛成派の犯罪行為は絶対に法治国家では認められない、民主国家では認められない、日本国では絶対認められないものだ。
犯罪行為の責任はすべて犯罪行為を犯した人間にある。
どんな状況になっても、犯罪以外の方法を必ず見つけるべきなのである。
犯罪行為で問題を解決しようとしても、火に油を注ぐようなものだ。
紊得、上況、23,9,14
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
ふきょう、が、上況、と表示されてしまう。
犯罪行為の継続、23,9,20
犯罪賛成派は犯罪行為を今も継続させている。
現在の社会で犯罪行為を堂々と継続させているのである。
二者択一だ。犯罪行為を継続的に続けさせるのに賛成するのか、それとも、犯罪行為をやめさせるのか?
日本は犯罪国家だろうか、それとも、法治国家、民主国家であろうか?
犯罪国家、それとも、法治国家、民主国家か、国民の声で決まる。
犯罪国家である限り、正義を求める民衆と犯罪継続を求める人間の戦いは永遠に続くのである。
日本は犯罪国家であるという事実を刻んでしまったことが残念でならない。
日本は清廉潔白の法治国家、民主国家である。
犯罪行為を続けようとしている人間は日本の恥である。
犯罪行為をどこまでも隠蔽し逃げ回る、まさに、日本の恥である。
すべての人間が自分の行為を公にし、責任を取るべきだ。
自分の行為を隠蔽し、自分は正しいとする人間は最低最悪だ。
自分の行為を明らかにし、その上で、自分の正当性を主張できないのは人間のクズだ。
自分たちの行為を明らかにし、その上で自分たちの主張をする、犯罪反対派も犯罪賛成派も、
それですべてが解決する。
犯罪賛成派の隠蔽につぐ隠蔽、犯罪賛成派は嘘で出来ている。
犯罪反対派、犯罪賛成派の対立が続く限り、日本は衰退していく。
重要なのは国民が何を望むかだ。
国民は正義を望むのか、悪を望むのか。
悪を望むのは自分の利益だけを望む人間だけだ。
悪が日本国民の総意なら、それを受け入れる。
しかしながら、悪が勝ったのでは、永遠に争いは続くのだ、平穏な日々は訪れない。
悪が支配したなら、各地で上満、異論、反対の声が必ず上がる。
正義が支配すれば、誰も異議を唱える者はない。
国の長は、中立公正を目指し、国民の生活が少しでもゆたかになるように治めなければならない。
上満、23,9,20
ふまん、が、上満、と表示されてしまう。
自分だけの幸せ、23,9,21
犯罪賛成派は自分たちの生き残りを考えている。
一方、犯罪反対派はこの国の幸せ、この国の国民の幸せを考えている。
犯罪反対派は、この国が幸せなら、この国の国民が幸せなら、犯罪賛成派にすべて明け渡しても良いと思っている。
もう、犯罪賛成派にこの国を幸せには出来ない、この国の国民を幸せには出来ない。
犯罪賛成派はあまりにも、法治国家、民主国家から離れてしまった。
犯罪独裁国家を堅持する者には国民を幸せにすることは出来ないのだ。
この国を幸せにできるのは、法治国家、民主国家だけだ。
犯罪賛成派は自分たちだけの幸せを求める集団であり、犯罪反対派は国民全員の幸せを求める集団だ。
犯罪反対派は国民の声を聞く集団であり、国民の声を実現する集団だ。
犯罪賛成派は暴力と犯罪で、自分たちの保身を求める集団になりさがっている。
犯罪賛成派にとって、国家や国民はどうでもいい、自分たちが生き残れればそれでいい集団だ。
自分よりみんなのことを考えるそれが和の国の国民ではないか、大和の国の国民ではないか、倭の国の国民ではないか。
みんなが事実を知り、一人一人が考え、みんなで話し合い、みんなで決定する。その基本に立ち返ろうではないか。
みんなが事実を知り、みんなで考え、みんなで決定する、それ以外に解決はないし、
国家、国民が幸せになる方法もない。
犯罪活動費、23,9,28
犯罪活動費を得るために、国民からカネを吸い上げるのは絶対になしだ。
日本国民は犯罪活動費を捻出するために、毎日、働いているわけでは絶対にない。
これは後にも先にもない、日本の歴史に残る大犯罪だ。
継続的衰退、23,9,28
犯罪賛成派は継続的に犯罪行為を続けていくつもりだ。
そのために、国民から吸い上げたカネを湯水のように使い続ける。
日本経済は継続的に衰退していく。
暴力と犯罪行為で問題を乗り切る時代から、
みんなで話し合って解決する時代へ、時代は変化しているのではないだろうか?
もう、それ以外に方法はないのだ。
暴力と犯罪は悪い事しか生み出さない。
莫大、23,9,29
犯罪賛成派は、今すぐ、国民から吸い上げたカネを犯罪活動費とするのをやめるべきだ。
国民はそんなことのために働いているのではない。
そして、これまで犯罪活動費として使った莫大な国民のカネを、全部、国民に返すべきだ。
もちろん、自分のカネを犯罪活動費として使われることに同意する国民には返す必要はない。
発端、23,11,1
なぜ、犯罪賛成派は暴力と犯罪で犯罪反対派を弾圧するようになったのか?
その始まりを知りたければ、和尚ラジニーシの本を読むといい。
私が20歳のとき、よく読んでいた本だ。
その中には宗教信者が精神的に傷つく内容のものが多く書かれている。
もちろん、他の宗教を批判したり中傷したりする内容ではない。
いわゆる、現実的な空の教えだ。
一度読んだら忘れなれない内容とも思われるので、自己責任で読んでほしい。
別に私はラジニーシを推薦しているわけではない。
ラジニーシの暴露本も出ているので、興味のある方は読んでもいいだろう。
敬虔な宗教信者はラジニーシの本に傷つき打ちのめされる可能性大である。
私でも、読んだときは相当ショックだった。
五井先生、23,11,1
和尚ラジニーシと並行して読んでいた本が白光会の五井先生の本だ。
五井先生のことは、今でも尊敬しているし、信じてもいる。
和尚ラジニーシの本で凍りついた心をあたためてくれる本が五井先生の本だ。
暴力と犯罪の始まり、23,11,2
私のはなった言葉で、犯罪賛成派は怒り、暴力と犯罪による弾圧は始まった。
しかし、いかなる誹謗中傷、どんなヒドイ悪口でも、犯罪賛成派は暴力と犯罪で弾圧をすることはなかったのである。
誹謗中傷、悪口、罵詈雑言、そんなのはよくあることだ。
しからば、なぜ、犯罪賛成派は暴力と犯罪で弾圧を始めたのか?
それは、私の言うことが、犯罪賛成派にとっても事実と認めざるを得ないことであり、
なおかつ、それが犯罪賛成派にとって非常に都合の悪い事実であったからだ。
事実にもとづかない誹謗中傷など、反論もできるし、ときが来れば消えてしまう。
しかし、事実を明確に指摘されたならば、反論できないし、一般の人間もそれを聞いて紊得してしまう。
議論をすれば100%負ける、そう思ったとき、暴力と犯罪による反撃が始まるのである。
今、犯罪賛成派は暴力と犯罪を振るっているし、犯罪反対派を弾圧することに対し国民の了解を取っているわけでもない。
法治国家では絶対に認められないことをしている。民主国家では絶対にしてはならないことをしている。
これは誰も反論できない、れっきとした事実なのである。
私は誹謗中傷する気もないし、悪口を言うつもりもない。
ただ、明確な事実を言うのみである。
紊得、23,11,2
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
要求する。23,11,4
犯罪反対派は要求する。
みんなに現行の法律を守ってもらいたいと。
犯罪反対派に、それ以外の要求は一切ない。
それなしには、すべての人間が等しく平和に安心して暮らすことができないと考えるからである。
上戦の誓い、23,11,5
犯罪反対派は絶対に戦うことはない。
暴力と犯罪に反対している犯罪反対派が、暴力や犯罪を使うことなどありえない。
犯罪反対派に敵はいない、みな味方である。
犯罪反対派は誰も敵視しない。
犯罪反対派の目的は法と正義による和睦なのだ。
法と正義はすべての人間に自由と平和をもたらすものなのだ。
犯罪反対派には組織も命令も指示もない。
誰も上でも下でもない。
みんながバラバラに、異口同音に暴力と犯罪のない平和な世界を訴えるだけだ。
法と正義による、平和で自由で安心できる世界、この世界共通の思い考えを訴えるだけだ。
それは決して指導者や他人の考えではない、一人一人の、個人個人、思いと考えを訴えるだけなのだ。
犯罪反対派に共通の思想はない。あるのは、自由と平和、安心して暮らせる社会への思いだ。
そして、それを実現するには、非暴力でなければならない。暴力や犯罪で勝ち取れる平和などない。
法と正義、平和、安心、自由、非暴力、反犯罪、人間なら誰でも持っている思い、それだけが犯罪反対派の共通点だ。
決して犯罪反対派は思想集団や政治集団ではない。
個人の思い、考え、行動を最大限尊重する。バラバラでいいのだ。
平和、自由、安心に賛同できれば、我々は仲間になれるのだ。
上戦の誓い、23,11,5
ふせんのちかい、が、上戦の誓い、と表示されてしまう。
暴力と犯罪の発端、23,11,6
暴力と犯罪の発端となったのは、当然、犯罪賛成派である。
と言うより、私はこれまで暴力と犯罪を振るってないし、指示していない。
私はこれまでも、これからも、暴力と犯罪を振るうことを完全に拒否する。
世間では暴力を振るわれた場合、暴力で自衛する権利がある、また、報復する権利があると言う者もいる。
私は暴力による自衛も報復も完全に拒否する。
私は殴られても殴り返すことはないのだ。
私は暴力と犯罪を振るわれている完全被害者であり、犯罪賛成派は完全加害者である。
暴力と犯罪の発端は犯罪賛成派にあるが、この争いの発端は私にある。
私は宗教、哲学、芸術論、美学などについて、こう言ったのだ。
宗教は事実に即していて合理的なものだと。その点で他の学問と何の違いもないと。
犯罪賛成派は、宗教の真理は個人によって違う。事実と食い違うから嘘、非論理的だから嘘ということにはならないと。
ここまではよくある話だ。宗教否定派と宗教肯定派の対話によくある。
しかし、私が特別だったのは、私は宗教肯定派だったということだ。
イエスも釈迦も歴史的宗教も、事実と合致し、論理的だと言ったのだ。
そして、イエスや釈迦などの歴史的宗教家の言ったことを解説した。
多くの人間が私のことを信じたのである。
そうしたら、犯罪賛成派は、非常に怒った。
事実でないもの、非論理的なものが嘘ということになってしまえば、
人類が作り出した宗教、哲学、芸術論、美学などがことごとく崩壊してしまうと。
犯罪賛成派は、私のことを宗教、哲学、芸術論、美学などの人類の文化を崩壊させる破壊者だと言った。
私は今こそ、宗教の真実を人類は知るべきだと言った。
犯罪賛成派は、事実でないものは嘘、非論理的なものは嘘だということになれば、すべてが崩壊してしまうと言った。
私はそれで、すべてが崩壊するならそれでいいではないかという気持ちだった。人類は真実を知るべきだと。
犯罪賛成派は、人類の文化を守るため、暴力と犯罪による言論弾圧という手段にでた。
私と言葉で議論しても犯罪賛成派に勝ち目はないと判断したのである。
私は宗教は人間が想像で作り出したものではなく、事実だと言った。
そして、人間には真実が必要なのだと言った。
自分の信じている宗教、哲学、芸術論、美学などが崩壊すると思った者の多くが犯罪賛成派に回った。
真実が知りたいという者、または、どんな理由があるにしても、暴力と犯罪には反対するという人間が犯罪反対派になった。
人類の文化の崩壊の危機だったから、犯罪賛成派は、暴力と犯罪に走った。
私は強引に教えを広めるような意図はなかったから、すぐに宗教を語るのをやめた。
しかし、事態はすでに遅かったのだ。私の話はもう広まってしまった。
犯罪賛成派は、暴力と犯罪で言論弾圧をした事実があるため、悪者になってしまった。
犯罪賛成派は、それを打ち消すため。
私に仲間を集めさせようとした。暴力で反抗するように圧力をかけてきた。
私に犯罪反対派を集めさせ、集団暴力を振るわせ、皆殺しにする計画をたてた。それで自分たちの罪の隠蔽をはかった。
しかし、私は徹底的に暴力と犯罪を拒否し、仲間を集めることもしなかった。
困惑、23,11,6
私の、宗教は事実に基づいたものでなくてはならない。矛盾なく説明できなければならない、という考えは、
宗教、哲学、芸術論、美学、に関わる多くの人を困惑させるものだった。
真実は事実であり、事実は個人個人で違うものではない。事実は世界共通だ。
事実が個人個人で違うなら、それは個人個人に違う物理学があると言っているのと同じになってしまう。
各国の学校ではその国その国の独自の物理学を教えているだろうか?
宗教、哲学、芸術論、美学、では個人個人によって真実が違うというのが一般的認識だった。
それが物理学と同じだ。ということになれば、世界が大混乱になったかもしれない。
しかし、だからと言って、暴力と犯罪による言論弾圧を認めていいのだろうか。
私はいまだに、毎日、投薬による拷問を受けている。
多種多様、23,11,6
宗教は各宗教に多種多様な表現があり、真実にいたるプロセスも多種多様だ。
しかし、だからといって、事実が人それぞれであるわけがない。
キリスト教徒にとっての事実は仏教徒にとっても事実なのだ。
野球のバッターには多種多様のバッティングフォームがあり、打ち方も多種多様である。
個性は最大限尊重されねばならない。
しかし、事実が各自違うということにはならない。
私の考えを宗教の統一理論という人もいる。
しかし、それが私がすべての人に一つの宗教を強制的に押しつけるということにはならないのだ。
ニュートンの万有引力は世界の学校で教えられている。それは強制的に学校で教えるようにされたためであろうか?
それは一人一人が紊得して、万有引力の法則が受け入れられているということではないのだろうか。
事実は世界共通ということと、思想や宗教を強制的に人に押しつけることは違うのだ。
紊得、23,11,6
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
真実の探求、23,11,7
イエスや釈迦を信じていれば、誰もがイエスや釈迦の言葉の真実が知りたいだろう。
それとも、今の信仰の間違いを指摘されることを恐れるのだろうか?
いずれにしても、強制はない。
本人の自由意志を最大限尊重する。
残るものと残らないもの、23,11,9
イエスが言ったように、真実は残る、嘘は残らない。
自分の信じるものが真実だと思う者は自信を持っていいと思う。
一人一人が自由で柔軟な判断をするならば、自然に残るものと残らないものは決まっていくだろう。
やはり強引に強制的に暴力と犯罪によって、
残すものと残らないものを力のある者が決めるとしたらそれは間違っている。
暴力と犯罪による強制は大失敗に終わるだろう。
我々は一人一人が自由に自然にあるべきだ。
自然に消え去っていくものと残るものとは決まっていく。
自然に任せればいい、一人一人に任せればいい。誰も強制なんてしない。
私はどちらにしても、暴力と犯罪による強制に反対する。
毎日毎日の投薬による拷問をやめてほしい。
毎日毎日の法律を無視した暴力と犯罪をやめてほしい。
私の要求はただ、それだけだ。
なぜ、毎日の投薬が常態化しているのか?なぜ、毎日、まったく法律を無視した犯罪が常態化しているのか?
我々に普通の日常を返してほしい。
問題解決には暴力と犯罪という方法では永遠に解決しない。
国民全員参加で話し合おうではないか。
それ以外の解決法はないのだから。
それぞれの発端、23,11,9
犯罪賛成派が暴力と犯罪を振るわなければ、こんな最悪の事態になることはなかった。
私が話しさえしなければ、犯罪賛成派が暴力と犯罪を振るうことはなかった。
放った言葉を元に戻すことはできない。
しかし、暴力と犯罪をやめることはできる。
であるならば、我々は暴力と犯罪をやめさせることに集中するべきではないか?
我々は結局、自然に変わりゆく世界を受け止めることしかできない。
私が話した言葉は、私に責任があるが、もうどうやって責任を取ったらいいのか分からない。
そもそも、私が話したことは、悪いことだったのか?それとも良いことだったのか?
私の言うことが嘘だったのなら、心配はいらない。自然に消えてゆくだろう。
私の言うことが真実であったならば、それは永遠に残るのだ。それは決して悪いことではない。
なぜなら、宗教とは真実を知るためのものだからだ。
私は私の言葉に責任を持つが、犯罪賛成派が振るっている暴力と犯罪には責任を持てない。
暴力と犯罪の責任は、それを振るった本人に持ってもらうしかない。
ハッキリ言えるのは、暴力と犯罪は、この世界を決して良くはしないということだ。
暴力と犯罪は確実に世界を悪くする。
今継続中の暴力と犯罪をやめさせるべきだ。そして、二度と暴力と犯罪で問題を解決しようとしないことだ。
どんなに自分にとって悪い状況になっても、
法と正義に従い、話し合いで解決する以外、この世界を良くする方法はない。
空想、23,11,9
実際にはない、人間が想像したものを信じ、人間は救われる、それが宗教だと思っている人がいるが、
すべての宗教の聖者が言っている、聖者は真実を語り、人は真実によって救われるのだと。
人は事実を知ることで救われる。
人が苦しいのは事実を知らないからだと。
宗教は事実を語り、人は事実によって救われる。
そのとき、実際にはない、人間が作り出した空想は消滅する。
多様性と共通の基盤、23,11,14
優秀な人間が新発見をして、それを論理的に説明したら、どうなるか?
理系なら、大きな発見は確実に認められるだろう。
それは物理学でも化学でも生物学でも医学でも。
しかし、文系ではどうであろうか?
宗教、哲学、芸術論、
一人一人に真実があり、論理的矛盾、つまり、つじつまが合わない話でさえ間違えとされない世界では、
どんな優秀な人間が優れた論文を書いても、一人一人に真実がある世界では、それはその人間の真実でしかないのだ。
客観的事実、矛盾しない説明、がない世界では、誰も正当に評価されない。
優秀な頭脳を持つ人間は正当な評価がもらえる理系の研究をする方がいいだろう。
文系でも、正当な評価は必要だと思う。
優れた論文は優れていると評価されるべきだ。
我々は多種多様な個性を持ち、考えを持ち、感性を持つ。
一人一人の個性を十分に認め合い、一人一人が自由で自分らしくいることは非常に重要なことだ。
そして我々は共通点を持つ、もし、我々がまったくバラバラならば、言葉さえ通じないだろう。
我々は共通点を持つことで論理的会話ができる。でなければ社会が成立しない。
我々は他人の気持ちを理解することができる。我々は心に共通点があるから、人の気持ちが分かるのだ。
我々は共通点があるから、芸術などで感動を共有できるし、気持ちを伝えることができるのである。
個性を認めず、同じ考え、同じ感性、同じ朊装、同じ言動を押しつければ、それは地獄である。
そして、共通点がない、一人一人がバラバラな世界だったら、
言葉も通じなければ、他人の気持ちを理解することも上可能になってしまう。
それはそれで恐ろしい話だ。
人間の世界は一人一人の多様性な個性と自由、そして、共通点があることで成立しているのである。
一人一人の個性だけを強調し過ぎることも、一人一人を同じにしてしまうことも、人間の世界を崩壊させてしまう。
一人一人の個性、多様性を考えることも、共通点を考えることも、共に重要なのだ。
我々は一人一人の自由と個性を最大限認めるべきであり、みんなが分かり合える社会を目指すべきである。
朊装、上可能、23,11,14
ふくそう、が、朊装、と表示されてしまう。
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
芸術論、23,11,14
私は芸術論を書いていると言った。
それを聞いた人が、人間は一人一人が違う、だから、芸術論など成立しないと言った。
そう、我々は一人一人が違う、一人一人、顔が違うように。
しかし、医学は成立しない学問だろうか?
肉体は共通点が多いから成立すると言う人もあるだろう、しかし、精神医学もある。
脳科学もあるし、心理学もある。
肉体医学、精神医学、脳科学、心理学、いずれも、大きく人類に貢献している。
私にとって芸術論とは芸術に関する心理学であり、脳科学なのだ。
医学、23,11,14
医学は大いに人類に貢献している。
医学は多くの人命を救い、病気を治し、ケガを治している。
しかし、物理学のような、ほぼ完璧と言える学問ではない。
コロナは多くの人命を奪った。
しかし、医学で作り出したワクチンは、コロナへの感染を防いだ。
しかし、コロナワクチンを接種したことにより、何人もの人が死んだ。
一般的な医学に当てはまらないような人は多くいる。
上完全な医学よりも、さらに、私の芸術論は上完全だろう。
上完全、23,11,14
ふかんぜん、が、上完全、と表示されてしまう。
クリシュナムルティ、23,11,16
現代にクリシュナムルティという聖者がいた。
今はもう亡くなられているが。
その聖者クリシュナムルティに対し反対運動をする人々がいた。
しかし、私は聖者相手でも反対することは悪いこととは思わない。
ただし、非暴力で合法的方法であればである。
反対に、悪人に対してでも暴力や非合法な方法で攻撃することは許されない。
そんなことを許してしまえば、社会は崩壊してしまう。
暴力と犯罪だらけになってしまうだろう。
どんなときも、犯罪と暴力を肯定してはならないのだ。
クリシュナムルティは人を傷つけることに激しく反対する人だった。
それは、肉体的にも精神的にも。
例え、食べるためであっても、生き物を殺すことに強く反対していた。
その教えは空の教えで、すべてを否定するような教えであった。
そのため、多くの人がクリシュナムルティの教えを聞いて精神的に傷ついた。
自分たちの大切なものを否定されるような感覚になるからだ。
宗教団体を作ることも聖典も否定した、宗教さえ否定するような教えに感じた。
クリシュナムルティの本の題吊に、「私は何も信じない。《という本があるくらいだ。
癒し、23,11,16
クリシュナムルティは若い頃、上思議な力を使い人々の病気を治していた。
ところが、晩年は、超能力や霊能力の存在を否定していた。
もちろん、病気治しなど、まったくしなくなっていた。
なぜ、若い頃、人々の病を治していたのに、その過去さえ否定するようになったのか。
若い頃の記憶をなくしていたとは考えられない。
なぜ、上思議な力を持っていたのに、それをないと断言するようになったのか。
ある意味、事実に反する発言をしているとも思える。
私は空の教え、また、神や霊を信じる教えを両方信じている。
それは、表現の違い、または、方法の違いと思うからだ。
両方とも、事実に立脚していると思うからだ。
題吊、《、上思議、23,11,16
だいめい、が、題吊、と表示されてしまう。
閉じかっこ、が、《、と表示されてしまう。
ふしぎ、が、上思議、と表示されてしまう。
敵、23,11,16
我々の憎むべきは、人ではない。
あくまで、暴力と犯罪なのである。
暴力と犯罪に反対するなら、絶対に暴力と犯罪を方法として用いることがあってはならない。
敵、味方、すべての人間が平和で安全で幸福であることを祈ろうではないか。
物理的戦い、23,11,19
物理的戦いはみんなを結束させなければならない。
司令官が指示を出し、部下を自分の手足のごとく使いこなさねばならない。
物理的戦いではない場合、人々を集める必要はない。
必要なのは、とにかく真実を語ることだ。
真実は人の心に永遠に残る。
そして、世界全体へと広がる。
真実は永遠に戦い続ける。
真実は世界全体を味方につけることができる。
真実は尽きることなき泉である。
宗教書、23,11,27
宗教とは人間のイメージが作り出したものであり、一人一人に真実があり、客観的事実などないと思うこと。
このような考えで宗教書を読んでも、ほとんど意味がないだろう。
宗教書を読むときは、客観的事実は何かという視点がとても重要なのだ。
それは他の学問についても言えるのではないだろうか。
実社会を生きて行くのでも、客観的事実を理解した上で創意工夫や対策をするべきではないか。
アーメン、23,11,27
アーメン、とは、
本当のことです。
という意味だ。
武道、23,11,27
武道には様々な流派があり、個人個人によって得意技も違う。
100人の人間がいたら、100の武道があるのではないだろうか?
武道の目的は実践で勝つことであり、実際には通用しない武道に何の意味があるのだろうか?
我流であっても邪道であっても、戦場で最も重要なことは命を守ることである。
武道でも客観的事実の理解は最も重要なことの一つだ。
ラーマクリシュナ、23,11,29
ラーマクリシュナは多神教であるヒンズー教の女神、カーリーに祈り神へと至った。
その後、厳格な一神教であるイスラム教、仏教の中心的教えでもある空の教えを通しても、神に至ることを体験した。
ヒンズー教、イスラム教、仏教が実在する真のすばらしい宗教であることを自らの体験を持って世界に証明したのである。
暴力、犯罪、脅迫、強要、23,12,2
犯罪賛成派のやっていることは、圧倒的な武力を背景とした、
暴力、犯罪、脅迫、強要である。
これに我々は立ち向かわねばならない。
敵味方すべての人間に個人の自由を最大限保障するのだ。
良心、信教の自由はすべての個人に認められるべきものである。
しかし、暴力に対し暴力、犯罪に対し犯罪で立ち向かえば、憎しみの連鎖は永遠に続いて行く。
我々は暴力に対し非暴力、犯罪に対し合法的行為で立ち向かわねばならない。
そして、すべての人間を暴力、犯罪、脅迫、強要から解放するのだ。
暴力に対し暴力で対抗すれば、火に油を注ぐ行為と同じだ。
暴力、犯罪、脅迫、強要を鎮めるには、非暴力、合法、自由、話し合い、民主主義、法律が必要なのである。
暴力を振るう者に民主主義、法律は絶対に味方しない。なぜなら、民主主義とは暴力なしの話し合いのことだからだ。
世界のすべての宗教の聖人賢者は常に我々の味方だ。
いったい、世界のどこに、非暴力な人間に一方的に暴力を振るう人間を認める宗教があるというのだろうか?
自由、民主主義、法律、宗教、すべてのものは常に我々の味方である。
我々は圧倒的武力に武力なしで必ず勝てる。
勝てなければこの世は終わりだ。
永遠に続くもの、23,12,2
暴力に暴力で返せば、憎しみの連鎖は永遠に続いてしまう。
暴力をなくすには非暴力で対抗するしかない。
圧倒的武力に正義、非暴力、合法、民主主義、法律、自由、聖人賢者が勝てないのだとしたら。
人類は何のために存在しているのか?
裸の王様、23,12,6
犯罪賛成派は激しい非難を浴びながら、なぜ、暴力と犯罪をやめないのだろうか?
それは、犯罪賛成派には暴力と犯罪以外に何の力もないからだ。
犯罪賛成派が暴力と犯罪をやめた途端、犯罪賛成派に誰も従わなくなってしまう。
暴力と犯罪をやめた途端、犯罪賛成派は丸裸になってしまう。誰にも相手にされない。
ただただ、暴力と犯罪に支配される人類ならば、ない方がいい。
平行線、23,12,16
犯罪反対派はみんなで話し合って決める民主主義だ。
誰でも一人一票。
対して、犯罪賛成派は共産主義国と同じ独裁主義だ。
あくまで、人を暴力と犯罪行為で従わせようとする。
犯罪反対派は独裁者に従いたくない。
対して、犯罪賛成派は、話し合いで物事を決めれば終わりだ。
これまで散々、犯罪賛成派は、暴力と犯罪行為で人を従わせてきた。
人々は話し合いになれば、その暴力と犯罪行為の責任を犯罪賛成派に問うだろう。
だから、犯罪反対派と犯罪賛成派は絶対に交わることのない平行線なのだ。
何年たっても合意はない。
争いの終結、23,12,16
争いを終わりにするには犯罪反対派が勝つ以外にない。
もし、犯罪賛成派が勝っても、
なぜ、暴力や犯罪を振るった人間が逮捕もされず、裁判にもならないのか?と必ず疑問の声が上がるだろう。
犯罪賛成派が勝っても、次々と反対派が現れ、争いは永遠に続く。
犯罪反対派に応援することは争いをやめさせることであり、
犯罪賛成派に応援することは果てしなく争いを続けさせることなのだ。
犯罪反対派は話し合いで物事を解決しようとしている。
何か主義主張を実現しようとしているのではないのだ。
事実が明らかになり、一人一人が考え、みんなで十分話し合い、一人一票の多数決で決めるなら、私は必ずそれに従う。
犯罪賛成派は多数決には絶対に従わないのである。
だいたい、暴力と非暴力が争って暴力が勝って終わるとか、
犯罪と法律が争って犯罪が勝って終わるとかありえないだろう。
一人一人の意見を尊重し、話し合いで問題を解決しない限り、永遠に争いは続いてしまう。
暴力と犯罪が勝てば、人々の上満は永遠に続き、心の叫びとしての非難はやむことがない。
争いをやめたいなら、犯罪に反対する以外の道はないのだ。
反対に終わりなき戦いを続けたいのなら、犯罪に賛成するのがいい。
上満、23,12,16
ふまん、が、上満、と表示されてしまう。
報われない努力、23,12,18
30年以上前、犯罪賛成派は、力で事実を隠蔽し、自分たちの責任逃れをしようとしていた。
この問題の始めの頃は、事実を知る者も少数で力で事実を隠蔽することは十分可能だったのだ。
30年以上たった今、犯罪賛成派は何を目指しているか?
それは、やはり変わらない、力による事実の隠蔽である。
今、事実を知るものが多くなり、もはや、事実を力で隠蔽することは上可能になっている。
なのに、犯罪賛成派は30年以上前と何も変わらない。
犯罪賛成派の努力は絶対に報われることのない、絶対に終わらない、果てしない努力なのだ。
最初と状況が違うのだから、犯罪賛成派は、目的も手段も変えなければならなかったのだ。
今では、100%報われることのない努力を果てしなく続けて行くだけの集団になっている。
問題なのは、いつまで続けるのか、いつまで続くのか、だ。
上可能、23,12,18
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
暴力による朊従、23,12,26
私は犯罪賛成派に暴力では勝てない。
もし、勝てるとしても、暴力で勝つつもりはない。
相手に道理を話して紊得してもらうことが本当の勝利なのだ。
決して暴力での勝利は勝利ではない。
新たなる争いを産むだけだ。
決して暴力だけで人間を屈朊させることはできない。
暴力だけを信じる犯罪賛成派にそのことを分かってほしい。
朊従、紊得、屈朊、23,12,26
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
くっぷく、が、屈朊、と表示されてしまう。
正義と悪の戦い、23,12,28
この世界には様々な考えがあり、様々な正義がある。
結局、争いはそれぞれの正義のぶつかり合いだという。
しかし、犯罪反対派と犯罪賛成派の戦いは、正義と正義の戦いだろうか?
犯罪行為と合法の戦い、独裁と民主主義の戦い、暴力と非暴力の戦い。
これのどこが正義と正義の戦いなのだろうか?
犯罪反対派と犯罪賛成派の戦いは、正義と悪の戦いと断じてよいのではないだろうか?
もちろん、犯罪賛成派のすべてが悪であるとは私も思わない。犯罪賛成派には犯罪賛成派の言い分があるのだ。
しかし、犯罪賛成派の言い分は国民に理解されるようなものではない。
もし、犯罪賛成派に自信があるのなら、私を拷問にかけずに、
ありのままの事実を国民に話し、自分たちの考えを話し、国民に理解を求めていただろう。
犯罪賛成派に正義があるなら、
非暴力な相手に一方的に暴力を振るうこともないし、合法な行為をしている者に一方的に犯罪行為で攻撃を加える必要もない。
話し合って解決すればいいのに、みんなの話し合いを拒否し、力によって国民を支配している。
これは世界を巻き込んだ、正義と悪の戦いと言って良いのではないだろうか。
火に油を注ぐ、24,1,13
暴力によって戦いを終わらせ、平和を築くというが、暴力によっての戦いの終焉は、また、新たな戦いをうむだけだ。
争いを本当に終わらせたいなら、非暴力、合法、みんなの話し合いと理解で、争いを終わらせるべきだ。
非暴力でのみ、永続的平和は実現する。
暴力と犯罪行為ばかり振るう犯罪賛成派は、戦いを終わらせようとしているのではない、争いという炎に油を注いでいるだけだ。
国民の上満は頂点に達している。
私は別に改革とか革命とか、そんな大したことをしようとしているのではない。
暴力と犯罪に反対しているのだ。
犯罪賛成派は、法律で国を治めるなんて上可能、国は暴力と犯罪、独裁でしか運営できないと主張している。
まるで、中国や北朝鮮の指導者と同じだ。
法治国家、民主国家はただのファンタジー、空想に過ぎないのだと主張している。
私は、日本人は、法律と話し合いで円満に国家を運営できると思う。
私は、法治国家や民主国家が机上の空論だと言う、中国人や朝鮮人、犯罪賛成派に、明確に反対すし、
確実に法治国家や民主国家は実現できると思っている。
法治国家や民主国家の実現は、人間が人間らしく生きられる理想の社会の第一歩なのだ。
上満、上可能、24,1,13
ふまん、が、上満、と表示されてしまう。
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
暴力と犯罪と独裁と、24,1,13
昔は多くの国々で独裁政治が行われていた。
しかし、時代が進むにつれ、民主化は世界を変えていった。
今、民度の高い先進国では、法治国家、民主国家は確実に実現可能だ。
残念ながら、一部の混乱した発展途上国では、力によって国を治めるしかないことは、私も認めざるを得ない。
訂正、24,1,24
23,11,6の、暴力と犯罪の発端、というブログを訂正した。
なぜ、偉そうなのか?、24,1,27
私の態度が偉そうだと言う人がいる。
私は犯罪被害者であり、犯罪賛成派は、犯罪加害者。
犯罪者が犯罪行為を犯していて、それを止めるときに、
犯罪者が年上だからとか、地位が高いからとかで、敬語を使う人間がいるだろうか?
泥棒に、すみませんが、物を盗むのをやめて頂けないでしょうか。と言う人間がいるだろうか?
犯罪者に土下座で懇願する警察官を見たことがあるか?
要求、24,1,27
私は犯罪賛成派に賠償請求しているのではない。
私は犯罪賛成派に罰金を払ったり、刑務所へ入って、罪を償えと言っているのでもない。
ただただ、今、継続中の犯罪行為をやめてくれと言っているのだ。
話は、それからだ。
犯罪行為をやめた途端、崩壊する犯罪依存の社会は必ず崩壊する。
犯罪賛成派にとって、犯罪者にとって、犯罪行為が継続できなくなるのは死に等しい。
決して表に出られない、日陰で暗躍する犯罪者がいなければ成り立たない社会とは、何とぶざまな社会だろうか。
拷問による国民のコントロール、24,2,1
のどに強烈な違和感を感じ、せきがとまらない。犯罪賛成派による投薬による拷問だ。
犯罪賛成派は投薬により強烈な激痛を人に与え、国民をコントロールしている。
激痛を与えれば、人に謝らせることもできるし、
自殺を強要することもできる。
そうやって、国民に影響力のある人間をコントロールすることにより、国民全体をもコントロールする。
投薬による拷問で社会をコントロールしている。
表向きは自殺と発表された有吊人が、実は他殺であることは多い。
有吊人、24,2,1
ゆうめいじん、が、有吊人、と表示されてしまう。
パソコン禁止、24,2,19
私がパソコンをつけると、私の体調が悪くなる。
どうやら、犯罪賛成派は、私にパソコンを使わせたくないようだ。
運動も禁止、読書も禁止、ゲームも禁止、パソコンも禁止。
犯罪賛成派は、私の人生を苦痛だけの人生にするつもりだ。
目の焦点が合わなくなってきている、目がチカチカする。
これを書いていることも、犯罪賛成派にとって上満のようだ。
普通の人間は悪い事を禁止して、良いことを勧める。
犯罪賛成派は、良い事を禁止して、悪い事を勧める。
肉体的にも精神的にも上健康だ。犯罪行為の強要だ。
咳が止まらない、手が痙攣する。
犯罪賛成派は、犯罪行為を強要し、犯罪を起こさせ、逮捕する。
無理やり善人を犯罪者に仕立て上げる。
罰せられるのは犯罪者ではなく、犯罪賛成派であるべきだ。
上満、上健康、24,2,19
ふまん、が、上満、と表示されてしまう。
ふけんこう、が、上健康、と表示されてしまう。
ナワリヌイ、24,2,19
無実の罪で逮捕されているのはロシアだけではないし、
上審な死をとげているのはナワリヌイだけではない。
上審、24,2,19
ふしん、が、上審、と表示されてしまう。
20年、24,2,20
パソコンをしていると体調上良になる。
体調上良になるから、運動も読書も、もう20年以上できてない。
なぜか、散歩はできる。
このままパソコンも、何十年も出来なくなるのか?
犯罪賛成派に逆らえば、運動も読書もパソコンもできない。
ただ、生きているだけだ。
体調上良、24,2,20
たいちょうふりょう、が、体調上良、と表示されてしまう。
口封じ、24,2,21
私がユーチューブでグッドボタンを押すことやコメント欄にコメントすることが、
犯罪賛成派にとっては非常に困ることらしい。
口封じ、犯罪者にでっち上げること、暗殺、
そうやって国民をコントロールし、支配することが、犯罪賛成派のやり方だ。
民主主義、24,2,21
みんなで考え、みんなで話し合う。
そんなことは絶対に犯罪賛成派はしない。
なぜなら、そんなことになったら、犯罪賛成派は終わりだからだ。
間接民主主義、24,2,21
間接民主主義は事実上、独裁とあまり変わらないかもしれない。
犯罪賛成派に反抗するものは、体調上良になり立候補すらできない。
税金の使い道の全面公開に賛成する議員は一人もいないし、そんなことを公に発言する議員も一人もいない。
昔、ガラス張りの政治を主張する声があったが、その第一歩が税金の使い道の全面公開なのだ。
体調上良、24,2,21
たいちょうふりょう、が、体調上良、と表示されてしまう。
かゆい、24,2,22,3時26分
全身がかゆくて眠れない。
耳の中、鼻の中、口の中までかゆい。
言論弾圧、24,2,29
SNSをやると咳が出る。
のどに傷がついているのではないか、と思うほどの違和感。
嘔吐しそうになる。
これは犯罪賛成派による薬のせいだ。
犯罪賛成派は話し合わない、相手に薬を投与してだまらせる。
犯罪賛成派には話し合いはない。暴力と犯罪のみだ。
法と正義、民主主義の完全否定だ。
犯罪賛成派にとって、法と正義、民主主義はただの空論に過ぎないのだ。
この世界は暴力と犯罪によって決まる。力の強い者が勝つ。
断じて、正しい者が勝つのではない。
この世界は、暴力と犯罪で動いているのであり、話し合いで、正しい者が勝つのではないのだ。
法と正義、民主主義、自由主義、そんなものは表面的なものに過ぎないのであり、現実を知らない者、バカが信じるものなのだ。
現に、私は毎日、拷問され、言論弾圧を受けている。
この放送がなくなれば、私は完全に発言を禁止されるか、犯罪賛成派の操り人形にされるかだ。
放送があっても、公開拷問があるのだから、非公開の場では、どんなに残虐な行為があるのか。
放送があって、堂々と公開拷問をやるなんてありえない。
そのありえないことを実際にやる力が犯罪賛成派にはあるのだ。
暴力、犯罪、自殺の強要、24,3,1
私はスポーツができない、読書もできない、ビリヤードもできない、ゲームもできない。
交友関係はすべて断たれた。
スポーツができないのはスポーツをすると投薬されるからである、読書も瞑想も読経もビリヤードもゲームも同様である。
友人は犯罪賛成派に操られている。犯罪賛成派は、人を社会的に抹殺することができる。誰も逆らえない。
そして私は毎日、投薬で苦痛を与えられている。あらゆる苦痛だ。
犯罪賛成派の目的は私に暴力、犯罪、自殺などをさせること。
私が何もしないのが、犯罪賛成派にとって困ったことなのだ。
なぜなら、私が何もしなくても、私に賛同する人間が活動しているからだ。
犯罪賛成派の様子からすると、多くの人間が私に賛同しているようだ。
私に暴力や犯罪を犯させれば、私を潰す理由ができる。犯罪賛成派は私を殺したり、逮捕したりするだろう。
そうすれば、私の賛同者も鎮静化すると考えている。
私が自殺すれば、私が何かやましいことがあって自殺したことにできる。
そうすれば、私の賛同者も、やましいことにできる。
また、私の発言を封じようともしている。私と犯罪賛成派が話せば、話すほど、犯罪賛成派の立場は悪くなるからだ。
また、私をバカにしようとしている。読書で知恵をつけたり、修行で精神が向上すれば、私の発言の質が上がるからだ。
激烈な薬を使えば、犯罪賛成派は私を自殺させることができる。
しかし、犯罪賛成派はそれをしない。
拷問によって自殺したことが誰の目にも明確になるからだ。
犯罪賛成派は、私に暴力、犯罪、自殺を自分からしたように見せる必要があるのだ。
私からあらゆる楽しみを取り上げ、毎日継続的に投薬で痛めつけることで、
私がみずから、暴力、犯罪、自殺をしたことにしなくてはならないのだ。
私はスポーツがしたい、読書がしたい、修行がしたい、ビリヤード、ゲーム、パソコンもしたい。
普通の人間ができることが、私には許されないのだ。
毎日の拷問から逃れたい。
しかし、絶対に、暴力、犯罪、自殺はしたくない。
そして、この放送を終わらせたくない。
人の目がなければ、犯罪賛成派は、激烈な薬を使い、私がみずから、暴力、犯罪、自殺をしたように見せかけるだろう。
この放送を終わらせないでくれ。
この放送が終われば、殺されるかもしれないし、暴力、犯罪、自殺させられるかもしれないし、
操り人形にされ嘘を言うことになるかもしれない。
楽しみを奪われ、拷問を20年以上にわたって毎日、受けている。
運動もできず、ストレスはたまる一方だ、上健康極まりない。交友関係もない。
現在の日本でこんなことが許されるのか?
許されるというのが、日本の現実である。
私の賛同者、24,3,1
私は私の賛同者に活動をやめさせることはできない。
やらせることもできない。
私に何の権利があって、彼らに命令するのだろう。
国民すべてに自由と安全を保障するべきなのだ。言論の自由を保障するべきだ。
今の日本では、まったく法律が機能してない。
上健康、24,3,1
ふけんこう、が、上健康、と表示されてしまう。
殺人事件、24,3,3
今日、急に怒りがわき上がり、暴力を振るった。
犯罪賛成派は、投薬によって、人を怒り状態にし暴力を振るわせることができるのだ。
この世界の何割が犯罪賛成派の作り上げた、でっち上げの暴力事件、傷害事件、殺人事件なのだろうか?
この社会では、犯罪者とされる人間が犯罪賛成派の投薬を受け、でっち上げの事件の犠牲者なのだ。
もちろん、すべての犯罪者が犯罪賛成派の作り上げた、でっち上げの犯罪者ではないだろうが、
犯罪賛成派は投薬によって自殺に追い込んだり、殺人犯にでっち上げたりできるのだ。
人間をある程度コントロールできるくらいに、精神薬は発達している。
犯罪賛成派は人を自殺に追い込んだり、人を殺させたり、できるのである。
証拠は一切残らない。
証拠が残っていたとしても、そんな捜査はしないのだ。
自殺とされるものが他殺であったり、殺人犯が実は被害者であったりするのが当たり前なのだ。
自殺が他殺であったり、殺人がでっち上げであったり、が当たり前にできる。
一般人がそれを明らかにするのは上可能に近い。
もはや、この社会全体が、何が嘘で何が本当なのか分からなくなってしまっている。
人を殺しても、自分の意志で殺したのではない、犯罪賛成派の投薬によって起こったことなのだ。
そして、殺人犯に仕立て上げられた人間が、でっち上げを証明することは上可能に近い。
もはや、犯罪者が本当は被害者である可能性がすべての犯罪に当てはまるのだ。
この社会では、誰が加害者で誰が被害者なのか、まったく分からない。
無実の罪で死刑にされるのは、ロシアや中国だけではない。
上可能、24,3,4
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
疑わしきは罰せず。24,3,4
犯罪を犯した容疑者、疑わしきは罰せずの原則に従うのなら、
その容疑者に犯罪賛成派が100%、確実に、薬を投与していないことが分かるまで、裁くことはできないのだ。
運転、24,3,5
車の運転をすると、身体の痙攣、イライラ、怒り、が起きる。
犯罪賛成派の投薬である。
そして、私をイライラ、怒り状態にさせるため、のろのろ歩く歩行者がいたり、のろのろ運転の車が前を走る。
挙句の果てには、横断歩道のど真ん中でバイクにまたがり、止まっている男までいる。
そして、事故を起こしやすいシチュエーション、煽り運転をさせるためのシチュエーションが用意されている。
交通事故、煽り運転の何割が、犯罪賛成派によって引き起こされたものなのか?
犯罪賛成派は犯罪事件、運転事故、煽り運転などを意図的に引き起こしているのである。
無差別殺人まで引き起こす能力を持っている。
イライラ、怒り状態のための、精神薬、肉体薬、そして、怒りで我を忘れるシチュエーションを作り、犯罪事件を引き起こさせる。
一般人に犠牲が出ても、そんなことは犯罪賛成派には関係ない。
すべては投薬され、犯罪賛成派に操られた人間の責任なのである。
そうやって犯罪事件を作り上げ、自分たちに反抗する者の社会的地位を下げる。
それが、犯罪賛成派のやり方だ。
舌噛む、24,3,5
食べ物を食べると、舌を噛む、薬を投与された。
舌を噛んで、痛みでしばらく動けなかった。
何回も何回も、舌を噛んでいる。
もう、しゃべるなという圧力だろう。
もう、しゃべるな、じゃなく、もう、書き込むな、だろう。
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宗教について、統一論、24,3,29
上完全、理上尽、上必要、上平、紊得、24,3,29
ふかんぜん、が、上完全、と表示されてしまう。
りふじん、が、理上尽、と表示されてしまう。
ふひつよう、が、上必要、と表示されてしまう。
ふへい、が、上平、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
論理的、非論理的、24,3,29
論理的文章と論理では語れない議題と非論理的文章がある。
論理的文章はそれだけでは嘘か本当か分からない、架空の作り話の可能性もあるからだ。
論理では語れない議題、霊の存在とか神の存在とか、それも又、嘘か本当か分からない。
非論理的な文章、つまりつじつまが合ってない文章、矛盾のある文章は嘘だ。
裁判などでも論理的に矛盾がある証言は嘘ということになる。
日常でも、論理的に矛盾のある説明をすると間違えとされる。
宗教、哲学、思想でも、論理的に矛盾がある説明は間違えだ。
全知全能の神の存在、24,3,29
全知全能の神が存在するなら、この世界は完璧に作られていることになる。
全知全能の神は上完全なものを決して作れない、神は自分の意図しないものを作れないのだ。
それが全知全能という意味だ。
逆に、それは、この世に針の穴ほどの微小な欠陥があったとしても、十分、神が存在しないことの明確な根拠となる。
三つの可能性が考えられる。
つまり、神が存在して、この世が完璧であるという説と、
神が存在しないで、この世が完璧である説、
神が存在しないで、この世が上完全である説。
たいがい、この世が上完全であると人々は考えている。
この世が完璧なわけがない。完璧ではないから、人は日々努力し、自分を高め、世界を改善しようとしているのだ。
つまり、それは、論理的に神の否定と同じことなのだ。
この世は上完全で神はいない。それが一般的と言えるのではないだろうか。
しかし、宗教は全知全能の神は存在し、この世は完璧だと考える。
または、神は存在せず、この世は完璧だと考える。
宗教の一般的認識、24,3,29
宗教は、天に全知全能の神がいて、地上は上完全であるというものだと一般的には考えられている。
しかし、神がいて、この世は上完全であることなど、決してない。
なぜなら、それには大きな論理的矛盾があるからだ。
それが一般人が宗教は非論理的であると思う理由になっている。つまり、宗教は人間が作り出した空想だという考えだ。
一般の人間が言う、
神がいるなら、どうして病気や戦争があるのか?
全知全能の神はどうして病気を治さないのか?戦争をやめさせないのか?
それは当然の疑問だ。
完全と上完全は並び立つことはないのだ。
一般的にどう見ても、この世は上完全に思える。
この世が完全であるなんて思う人間は頭がどうかしているとしか思えないのだ。
つまり、この世は上完全で神はいないというのが一般的考えなのだ。
自業自得、24,3,29
自業自得、自因自果とも言う。
すべて自分が原因で自分の運命が決まるというものだ。
悪い事をすれば地獄に落ち、良い事をすれば天国に行ける。
この世の生活は前世、前々世、前前前世、の自分の行いの結果だというものだ。
前世で悪い事をした人はこの世の地獄を味わい、前世で良い事をした人はこの世の天国を味わう。
ほどほどの人はほどほどの生活を味わう。
すべては自分の行いが招いた結果であり、理上尽なことは何一つない。偶然はないのだ。
そういう意味でこの世は完全だと宗教は言うのである。
親ガチャはない。偶然はないからだ。
罰と修行、24,3,29
この世のつらい生活は罰とも言えるが修行とも言える。
この世の生活は各自オーダーメイドの修行の場とも言えるのである。
この世の生活を修行としてすべて受け入れ、こなしていくことで次のステップに進めるのだ。
完璧な世界、24,3,29
この世界は神の創られた完璧な世界なのだ。
改善の必要はない。自分も世界も改善する必要はないのだ。
何もしなくていい。
何もしないというのは、物理的に何もしないことではない。
意図的に何かをする必要がないということだ。
意図的にではなく、自然であれということだ。
呼吸をしているのは自然なことだ、呼吸をとめるのは意図的だ。
呼吸をすることが何もしないことであり、呼吸をとめることは何かをすることになる。
川が流れるように、火があがるように、自分の性質に従い自然に行動することが何もしないことである。
人間にとって科学や芸術は自然なこと。
自分や世界の改善も自然であればやるべきだ。
知る者は言わず。24,3,29
知る者は言わず、言う者は知らず。老子の言葉だ。
真理を知る者は言わず。この世界は完全であり改善を必要としない。
誰も説法をする必要がないのだ。
宗教は説法で成り立っている。
つまり、知る者は宗教活動せず、宗教活動する者は知らず。ということだ。
つまり、知る者はやらず、やるものは知らず。とも言えるのだ。
完璧な世界に宗教は必要だろうか?改善の必要のない世界に宗教は必要だろうか?
神がいるなら宗教は上必要である。
人は何も言うべきではないし、何もやるべきではない。
自然に任せて生きるべきである。
自然で何もしないことに徹して、それでも宗教活動が起こるなら、それはそれで正しい。
だから、これは、釈迦やイエス、その他の聖者が説法をしたことを否定するものではない。
改善、24,3,29
この世界に何か間違いを認め、改善するなら、それは神への冒涜である。
この世界は神によって作られ、完璧にできている。
神によって作られた完璧なものを修正するのは神の否定である。
人は何もせず、ただ、自然であればいい。
その結果が何かの改善となるならば、それはそれで正しい。
願い、24,3,29
神に願い事をすると叶うか?
全知全能の神ではなく、八百万の神であるなら、その可能性はあるだろう。
八百万の神は天地創造の神ではないし、全知全能の神でもない。
仏も全知全能ではない。
キリスト教のような一神教でも、ミカエル、ガブリエル、などの大天使がいる。
天使は全知全能ではない。
大きな力のある人にお願いして、願いを叶えることに近い。
全知全能の神に願うことは良い事なのか?
各自の運命、生活をさだめたのは全知全能の神なのだ。
その全知全能の神が決めたことに上平を言うことになりかねない。
全知全能の神には日頃の感謝を伝えることにした方がいいかもしれない。
とにかく、無為自然であるべきだ。
自然であるなら、願うことも願わないことも正しいのである。
悟り、24,3,29
人はありのままの世界と別に、あるべき世界という概念がある。
自分はもっとこうあるべきだとか、世界はこうなった方が良いだとか。
あるがままの世界とは別に、あるべき自分、あるべき世界という概念があると、人の心は波立つ。
しかし、この世界が神が創られた完璧な世界だと知り、紊得し受け入れるなら、あるべき自分、あるべき世界という概念は消える。
あるがままが最高な世界だからだ。
自分や世界を改善しようとしないなら、人の心の波は静まる。
何も言わない、何もしない世界に入る。
人はそのときはじめて真実を知ることになる。
海の一つの波が海に入って、自分は波という意識から、自分は海という意識になる。
人間以外の生き物は悟りの世界にある。あるべき世界という概念を持たない、自然と言う意味だ。
人間も自然になることにより、自分は人間だという意識から、自分は宇宙だという意識に変わる。
ハッピーエンド、24,3,29
話は終わっている。
我々には何もすることがない。
世界は完璧で、最初から物語は終わっていたのだ。我々にはするべきことなど、はじめから、何もなかったのだ。
物語が終わっていることに気づいたら、そのあとは、自然、平安、静寂、幸福が永遠に続いて行く。
すべてが必要、24,3,29
この世界のすべてのすべてが必要なのである。
悪いものも良いものも。
すべてが各自の成長の糧となる。
つらいことも悲しいことも苦しいこともうれしいことも。
すべてに感謝すること。24,3,29
心から、すべては成長の糧として、すべてに感謝し受け入れること。
神に感謝し、神の創られたこの世界に感謝すること。
そこに到達したなら、真理を知ったことになるだろう。
感謝、24,3,29
すべてを受け入れ、すべてに感謝することは、宗教のはじめの教えであり、
また、究極的な最後の最後の教えとなる。
無為自然、24,3,29
宗教の教えは無為自然、空の教えである。
それを体現したのが釈迦であり、イエス、また、多くの聖者たちである。
聖者は世界を改善し、人々を救った。
それは、無為自然、空の行いだ。
意図的に世界を改善したのでも、人々を救ったのでもない。
学を断たば、憂いなからん。24,3,29
老子は学ぶことを否定した。
学びは人間にとって最高の行為だからだ。
しかし、博学で知られる老子は学びを否定したのではない。
最高の行為である学びも、意図的にするものではないと言ったのだ。
あくまで人間は自然であるべきだ。と言ったのである。
無為自然である限り、学びに反対する理由はない。
観音菩薩、24,3,29
観音菩薩は悟っていない。
観音菩薩は修行者なのだ。
観音菩薩にはあきらめきれない欲望がある。
人々を救済したいという欲望である。
それゆえ、観音菩薩は悟ることができないのだ。
ちょっと考えると、空の境地にある仏より、人類救済を一心に願う観音菩薩の方が良いように思える。
しかし、仏の救済の力は観音菩薩をこえると言われている。
空の境地とこの世が完璧であること。24,3,29
空の境地に至ることとこの世が完璧であることには密接な関係がある。
この世に改善点があり、完璧ではないと思うなら、心の波はおさまらない。
この世は完璧であり、自分にはやることがないとハッキリ分かって、心の波は静まるのである。
この世が完璧であり、改善する点がないことが分かって、はじめて空の境地に至るのである。
この世が完璧でなければ、誰も空の境地に至ることはない。
上完全、理上尽、上必要、上平、紊得、24,3,29
ふかんぜん、が、上完全、と表示されてしまう。
りふじん、が、理上尽、と表示されてしまう。
ふひつよう、が、上必要、と表示されてしまう。
ふへい、が、上平、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
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上法移民、治安悪化、24,4,5
ユーチューブで上法移民、治安の悪化、貧富の格差、などの動画、
アメリカやヨーロッパの問題を扱うものを見ると極端に体調が悪くなる。
犯罪賛成派は、上法移民、治安の悪化、貧富の格差を容認しているようだ。
この問題をおおやけにしてほしくないようだ。
この問題は最大の問題で、アメリカやヨーロッパの現状をみんなが知り、みんなで考えなければならない問題だ。
特に上法移民の問題は法律に明確に反している。
法律があっても、違法行為を政府が容認するようになれば、無法状態だ。
明確に事実を知り、正々堂々と話し合い、法律の整備をするべきだ。
法律をみんなが守らなければ、無法状態だ。
みんなの生命、財産、安全、安心、が脅かされる。
人間が住める状態ではなくなってしまう。
ユーチューブだけでなく、テレビでも大きく取り上げるべき問題だ。
ユーチューブでは、何でテレビは事実を国民に知らせないのか?と口々に言っている。
この問題にみんなが正面から向き合わなければ、あとになって本当に後悔することになると思う。
とにかく、まずはみんなが事実を知らなければ話が始まらない。
上法移民、24,4,5
ふほういみん、が、上法移民、と表示されてしまう。
問題、24,4,18
人はみな、問題意識を持っている。
何かを解決しようとすることで、自我は生きているのだ。
問題は自我の食料である。
この世が完璧であることを知り、問題がないことを知るならば、自我は消滅する。
問題を食べて生きているのだから、問題がなくなれば消滅する。
自我が消滅すること、それが究極の悟りなのだ。
千年の戦い、24,5,2
犯罪反対派と犯罪賛成派の戦いは続いている。
私は何もしていない。しかし、戦いは終わることはない。
私の死後、百年、千年たっても、終わることはないだろう。
自然現象は誰もとめることはできない。
川が海へ海へと流れるがごとく。
正義、24,5,7
犯罪賛成派は、国民に非合法に投薬し、権力で脅し、国民を支配している。
犯罪反対派は、暴力、犯罪、脅し、などはしないし、むしろ、反対している。
この時点で、犯罪賛成派が正しいか?犯罪反対派が正しいか?は一目瞭然、子供でも分かることだ。
誰も、非合法な犯罪集団が独裁的に社会を支配することに賛成してない。
みんなの望みは、自由主義、民主主義、法治主義、おおやけの場でみんなで話し合って決める政治だ。
みんなが正義を求めている。
犯罪賛成派は自分の生活を守りたいと思っている。カネや地位、保身を望んでいるのだ。
犯罪賛成派に従っている人間も喜んでしたがっているわけじゃない。逆らえば、自分の身、家族の身が危ないからだ。
具体的利益や具体的危険が彼らを犯罪へと走らせている。
一方、犯罪反対派には具体的利益はない。犯罪反対派の活動に参加すれば、逆に、身の危険がある。
活動したからって誰に褒められるわけでもなく、活動費は自腹だ。
ただただ、独裁的な犯罪集団が社会を支配していることが許せないのだ。
自由主義、民主主義、法治主義、正義のために、みんな戦っているのだ。
犯罪反対派は組織ではない、指導者もいない、ただただ、自分の正義感のために戦っているのだ。
この活動は人間の根源的欲求、正義感であるため、永遠に続くだろう。
犯罪賛成派はカネがなくなれば終わるだろうし、地位が保障されなければ終わるだろうし、脅されなければ終わる。
子供から老人までハッキリと分かる、明確な、善と悪の戦いなのだ。
善が勝てば世界が平和になる。悪が勝てば世界は終わる。
大噓つき、24,5,7
犯罪賛成派の中にも、自分は正しいことをやっていると思い込んでいるバカがいる。
もし、自分が正しいと思うなら、自分たちのやっていることを全面公開し、
国民の容認を得て、法律を改正して、合法的にやればいい。
それが、民主社会、法治社会の正しさだ。
今、犯罪賛成派のやっていることは、独断で犯罪行為を行い、まったく法的責任を取らないという、
民主社会、法治社会ではない、独裁犯罪主義の無法社会だ。
それなのに、犯罪賛成派は、自分の国は民主国家であり、法治国家であると表向きは言っている。
犯罪賛成派は、ただの大噓つき、大犯罪者だ。
嘘をつき、犯罪行為を毎日行っている犯罪者が自分は正しいと言い張っている。
頭がおかしいとしか言いようがない。
政治家の義務、24,6,11
人間は誰でも失敗をする。そして、失敗をしたとき、その人間の真価が問われる。
失敗をおおやけに認め、その責任を取り、反省し、また、やり直す。
それが最低限の政治家の義務である。
失敗の隠蔽、データーの改ざん、それは共産主義国のやること。
習近平のようになってはならない。
政治家でも一般人でも、失敗をしたなら、その事実を認め、明らかにし、失敗の責任を取り、反省し、やり直す。
失敗するのが悪いわけではない。
失敗を隠蔽するのが最悪なのだ。
どんな国でも、失敗を政治家が認めなくなったら、終わりだ。
それが共産主義国の末路なのだ。
正しさ、24,6,16
正しいことをしても、社会に悪影響を及ぼすならダメなんだと言う人がいる。
正しさは、ときに、社会に対して悪影響となる。
しかし、長期的、全体的には社会の利益となる。
その逆に、社会の利益になると思えても、悪事は必ず社会に悪影響を及ぼす。
一部の人間の利益になるだけだったり、短期的利益になるだけだったり、社会全体の利益には結びつかない。
正しさにこだわることは決して社会のマイナスにはならない。
例え、社会全体の利益のためでも、悪事に手を染めてはならない。
最終的には社会全体が大搊する。
全員で悪事をして、全員が利益を得るなど、あり得ない。
人類全員のために環境破壊をしても、全滅するのは人類だ。
正しさはいつのときも、大切な指針なのだ。
犯罪の肯定、24,6,16
犯罪賛成派は、犯罪行為を肯定している。
それどころか、国家や社会は犯罪行為なしでは成り立たないと言うのだ。
犯罪賛成派は、犯罪行為をやめない、命の限り継続して行く。
それで自分たちが正しいと勘違いしている。
犯罪被害にあっている人間が犯罪賛成派に抗議しても、犯罪被害者の言うことは言われなき中傷、悪口だと言うのだ。
犯罪行為をしている犯罪賛成派が、犯罪行為を糾弾されることで、ハラスメントを受けていると言うのだ。
犯罪者が悪いのではなく、犯罪被害者が悪いと言うのだ。
むしろ、犯罪者の方が被害者なのだと。
犯罪被害者が加害者で、犯罪者が被害者? もはや理解上能。
事実を明らかにし、各自が自分のやったことの責任を取る以外に改善策はない。
犯罪賛成派は、事実を隠蔽しているし、自分のやったことの責任を取るつもりもない。
これでは永遠に解決しない。
大搊、理解上能、24,6,16
おおぞん、が、大搊、と表示されてしまう。
理解ふのう、が、理解上能、と表示されてしまう。
健全な発展、24,6,16
私は事実を明らかにしようとしている。
しかし、犯罪賛成派は言う、事実を明らかにしたところで誰も得をしないと。
事実、今、私は搊をし、社会の大部分の人が搊をしている。
しかし、私は思うのだ、事実を明らかにし、正しさを社会の基礎としない限り、社会の健全な発展はないと。
事実を明らかにし、各自が各自の行動の責任を取らなければ、この収拾のつかない状態はさらに悪化する。
事実を明らかにし、自分のやったことの責任は自分が取る。このことを社会の基礎としない限り、事態はますます悪化する。
利益を優先し、正しさなどいらない、こんな考え方のせいで、社会は崩壊寸前だ。
この社会の悪化と混乱は、
自分のやったことは明らかには決してならない、だから、責任と取る必要もない。
そう考える人間がすべてを引き起こしたのだ。
自分は自分のやったことの責任を取らなくていい。そう考える人間がすべてをダメにした。
すべての事実を明らかにし、自分のやったことの責任は自分が取る。こう考えなければ、このまま社会は破綻する。
搊、24,6,16
そん、が、搊、と表示されてしまう。
この世の地獄、24,6,17
共産主義国の指導者は、自分の失敗を認めることができない。
だから、崩壊した。今ある共産主義国の指導者も共産主義は間違えであり、失敗であったと認めることができない。
自分の失敗を認めることのできない指導者、政策の変更ができない国は地獄である。
北朝鮮は貧しく、大勢の餓死者が出ている。
しかし、指導者は自分たちの失敗を認めない。政治路線の変更もない。
国民がどんなに上幸になろうが、指導者たちには関係ないのだ。
自分の失敗を認めない指導者、それに朊従する国民は、自分の国を北朝鮮化させようとしているのである。
つまり、自分の国を、この世の地獄にするつもりだ。
こう言っている私も、北朝鮮にいたら、指導者たちに反対できないだろう。
路線変更できなくなった国は加速度的に北朝鮮化する。
上幸、朊従、24,6,17
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
ふくじゅう、が、朊従、と表示されてしまう。
終始一貫、24,6,17
犯罪賛成派は、自分たちの失敗を隠蔽し、その法的責任も社会的責任も取らないという方針は終始一貫している。
30年以上も毎日、暴力と犯罪行為で言論を弾圧し続けてきた。
これからも続くだろう。
暴力と犯罪行為以外に犯罪賛成派には何の力もない。
暴力と犯罪行為をやめて、国民が自由に自分の意見を言えるようになれば、犯罪賛成派は終わりだ。
暴力と犯罪行為による国民のコントロール、犯罪賛成派がこれをやめることは決してない。
暴力と犯罪行為、事実の隠蔽、これが続く限り、問題が解決に向かうことはない。
誰しも思うことだが、今の状態を考えれば、事実の隠蔽はほぼ上可能。
混乱の解決はない。
もう、国民は事実を知っているからだ。
暴力と犯罪行為による言論弾圧が続けば、社会状況はますます悪くなっていく。
果てしなく悪くなっていく。
上可能、24,6,17
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
言葉の暴力、24,6,22
私は言葉の暴力に関しても、物理的な暴力に関しても、明確に反対する。
犯罪賛成派は、犯罪反対派が脅威だと感じている。
それは、言葉の暴力を振るうからではなく、物理的な暴力を振るうからでもない。
明確な事実を指摘するからであり、誰でも紊得できるような正論を言うからである。
犯罪賛成派は、犯罪と暴力で国民を支配している。
その事実を指摘し、明確に自由と民主主義、法律に反していることを指摘されると犯罪賛成派は、返す言葉がないのだ。
しかし、犯罪賛成派は、事実を言うこと、正論を言うことに我々は反対しているのだ。とは言わない。
犯罪賛成派は、自由と民主主義を尊重し、言葉の暴力と戦うと言うのである。
もし、犯罪賛成派が、事実を言う者、正論を言う者を排除すると言うならば、犯罪賛成派は完全な悪になってしまう。
犯罪賛成派が言葉の暴力と戦うというのは単なるカモフラージュであり、
実際は、事実を言うことの禁止、正論を言うことの禁止なのだ。
犯罪賛成派は、言葉の暴力、物理的暴力に対抗することはできる。しかし、明確な事実や正論に対抗することはできない。
犯罪賛成派は、議論すれば、絶対に自分たちが負けることを知っている。
だから、絶対に議論しようとしない、徹底的に暴力と犯罪行為で犯罪反対派を弾圧する。
徹底的な暴力と犯罪行為をする時点で、犯罪賛成派が明確な悪であることは明白ではないか。
自分たちが完全な悪であるため、悪い方法で対抗する以外の選択肢がないのだ。
もし、犯罪賛成派が自分たちが正しいと思うのであれば、
事実を全面公開し、国民全員で議論し、国民投票で物事を決めればいい。
なぜ、事実を隠蔽するのか?なぜ、議論せずに、徹底的な暴力と犯罪行為で犯罪反対派を弾圧するのか?
それは、犯罪賛成派が自分たちが悪であることを重々承知だからだ。
公明正大に事実を明らかにし、みんなで話し合って決める。
なぜ、そんな当たり前のことができないのだろうか?
正義が勝つことが、犯罪賛成派の崩壊に直結するからだ。
事実が事実と認められ、正義が正義と認められるなら、犯罪賛成派は完全崩壊する。
犯罪賛成派は犯罪行為をやめない。
犯罪賛成派は自分たちが生き残るのに、徹底的な犯罪行為を継続する以外に方法がないのだ。
犯罪行為が続く限り、国家も国民もどんどんヒドイ状態に追い込まれて行く。
犯罪賛成派が居座る限り、犯罪行為を非難する、こんな当たり前で当然のことが国民に許されないのだ。
紊得、24,6,22
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
非一般、24,7,17
長い間、宗教を論理的に考えていたせいか、一般人には到底紊得できない結論に達した。
私は宗教の話をすることが好きだったが、私の意見は一般的な宗教論を越えてしまった。
たぶん、これからは宗教の話はしないと思う。
もちろん、教えてほしいと言われればこころよく話すが。
一般的には理解できないし、もし知っても、その人の生活が良くなるとも思えない。
一般人に薦めるなら、白光会の五井先生の消えゆく姿で世界人類平和の祈りか、斉藤一人先生の天国言葉などだろう。
私は何も団体に入るのを薦めているのではない。
五井先生も正しい人はいるが、正しい団体はないと言っていた。
清い団体はない、どうしても、集団は汚れてしまう。
それは自分が作った白光会でも同じだと言っていた。
私は白光会に質問の電話をしたことがある。
白光会の相談員は教祖の言ったことを丸暗記し、繰り返していた。
会話が成立しない。
そして、他の宗教に対し批判的だったのも嫌悪を感じた。
五井先生は世界人類平和の祈りを白光会に入ってない人にも薦めていたし、他の宗教、例えば天理教などの人にも薦めていた。
誰もが五井先生の教えを実践して良いのだと。
団体に入っても、誰もが知るように、良い事ばかりではない、もちろん、悪い事ばかりでもないが。
団体に入らなければ経験できないこともあるし、団体に入ったら経験できないこともある。
団体に入ることが、その人に取ってプラスになるか、マイナスになるかは人それぞれ。
私は、ある宗教集団に属していた。そして、その教祖の言うことが間違いだと思うようになり、脱会した。
そのことは、私に取って、とても良い経験になった。多くの知識も得られた。
ある意味感謝している。
暴力、24,7,19
犯罪賛成派は投薬で、私に人に暴力を振るわそうとしてくる。
自分の意志とは関係なく身体が動く。
さらに、精神状態も異常をきたしイライラ怒りっぽい。
そして、周りの人間も、犯罪賛成派に協力して私に接近し、わざと殴られようとしてくる。
私に限らず、他の暴力事件や犯罪も、犯罪賛成派によって引き起こされた事件の可能性が高い。
今、加害者となっている人間が実は被害者なのだ。
肉体も精神も、自分の意志とは関係なく、異常状態になる。
被害者と加害者、どっちが、被害者か加害者か、まったく分からない。
トラブル、24,7,19
周りの人間がわざとトラブルを起こして、私を怒らせ、殴られようとしてくる。
私を犯罪者に仕立て上げようとしているのだ。
しかも、肉体も精神も投薬によって異常をきたしている。
こんなことで、人は犯罪者にされ、逮捕されているのか?
引退、24,7,21
私に引退はない。
もし、私がボケ老人になっても、寝たきりになっても、死ぬまで放送を続けてほしい。
じゃないと、放送がなくなった時点で、殺されるか、操り人形にされてしまう。
この放送は、私が生きて行くために必要上可欠なのだ。
必要上可欠、24,7,21
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
後を継ぐ者、24,7,22
私の後を継ぐ者は必要ない。
私は団体の長でも、組織の長でもないのだ。
私は一個人である。
私に従う必要はない。
私の発言にときには賛成し、ときには反対すればいいのだ。
誰が出てきても同じ、従う必要はない。賛成すべきは賛成し、反対すべきは反対すればいい。個人個人の判断で良いのだ。
プラトンはソクラテスの弟子、アリストテレスはプラトンの弟子と呼ばれるが、
別にプラトンはソクラテス2代目、アリストテレスはソクラテス3代目ではない。
ソクラテスはソクラテスであり、プラトンはプラトン、アリストテレスはアリストテレスである。
後を継げないものはたくさんある。
ピカソ、ベートーヴェン、老子、釈迦、
これらの人に2代目がいただろうか?
老子を継いだと言われる荘子、しかし、老子と荘子は同時代の人間ではない。
荘子は老子の弟子ではないし、生きた時代も違う。
私は私であり、誰も私に従う必要はない。
個人は個人で判断し動けばいい。
協力したければ協力し、したくなければしないでいい。
人が他人の命令で動くなど、私はなくていいと思う。
もちろん、軍隊のような組織では命令に従うことは必要上可欠だ。
だが、私は何の団体も組織も作っていない。
作ったとしてもファンクラブ程度だ。
私たちは人として平等に扱われるべきだ。
私と私の言葉を聞く人に上下関係はない。
我々はみな対等だ。
もちろん、経済的平等を言っているわけではない。
一人一人が人間として対等に扱われるべきだと言っているのだ。
ソクラテスには一人の弟子もいなかった。
プラトンはソクラテスにとって友人だったのだ。
引退、24,7,22
私は団体の長ではないし、何の仕事もない。
私は何の地位にもついてないし、報酬もまったくない。
だから、病気でしゃべれなくなっても、動けなくなっても、引退はないのである。
必要上可欠、24,7,22
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
自由と民主主義、24,7,23
この国は自由と民主主義の国だ。
国民に命令したり強制したりする国は最悪の国である。
息が詰まる。
権力者が国民に命令したり強制したりする国は、自由と民主主義とは正反対の国なのだ。
我々に必要なのは言論の自由と行動の自由だ。
自由のない社会は死人の社会だ。
権力者も国民も、法律を守れば、それで十分。
命令や強制ではなく、思いやり、話し合いがあれば、それで十分。
命令や強制ではなく、思いやりや話し合いの社会を我々は誇るべきだ。
思いやりや話し合いがなければ、自由も民主主義もない。
自由と民主主義、24,7,25
独裁国家は中央集権国家である。縦の繋がりだ。
一番上が考え、命令し、下が命令に従う、そして、下の下が、その命令に従う。
上の命令を拒否することはできない。また、常に上の顔色をうかがっていなければならない。
民主国家は横の繋がりである。
間接民主政治の場合は少し違うが、民主国家では一人一人が対等な政治家である。
国民一人一人が立派な政治家なのである。
すべての国民は対等に意見を言い話し合う。
そして、ものごとを決めるときは、ひとり一票、
男女に関係なく、年齢に関係なく、地位や立場に関係なく、ひとり一票で決める。
誰もが対等なのだ。
自由と民主主義は相性が良い。
誰もが対等に語り合える。
自由と言っても、完全に自由なわけではない。
個人の自由は最大限認めながら、公共の福祉に反するものは法律で規制する。
法律はみんなで話し合って決める。
すべては公開の場で決められるのだ。
一方、独裁と自由は相性が最悪だ。
独裁は上の命令に従うことで成り立っている。
一人一人が自由にものを言い、自由に行動したら、独裁は成り立たない。
この国は自由と民主主義の国。
一人一人が対等な国なのだ。
誰の命令にも従う必要はない。
横の繋がりで出来ている社会なのだ。
個人の自由は最大限尊重され、一人一人が一人一人の判断で自由にものを言い、ものを考え行動する。
縦の繋がりには自由がなく、横の繋がりに自由はある。
独裁と共産主義、24,7,25
私が民主主義を主張すると、犯罪賛成派はそれは共産主義だと言う。
何で民主主義=共産主義、なのだろうか?
平等な参政権を国民一人一人が持つのが民主主義で、経済的平等を主張するのが共産主義、全然違う。
むしろ、独裁を主張する犯罪賛成派の方が共産主義国に酷似している。
なぜなら、共産主義国はみんな独裁であり、資本主義国は民主主義であるからだ。
強制と命令の独裁国家である共産主義国と同じ問題を多く犯罪賛成派は抱えているのである。
反共産は反独裁であり、犯罪反対派なのだ。
自由と民主主義がある限り、共産主義国は成立しないのだ。
中心、24,7,29
新しい人が出て、すばらしい意見で、私を今、支持している人を全員連れて行って、
犯罪反対派の中心になったとしてもまったく問題ない。
犯罪反対派の一人一人は、まったく束縛されない。
いつも自由な意見を言えるし、行動できる。
そして、才能のある人間は誰でも認められなければならない。
一人一人はいつも自由に賛成したり、反対したりできる。
常に流動的なのだ。
独裁者が居座ることはできない。
そもそも、犯罪反対派には、上下関係がないのだ。
特別な地位があったり、特別な権限があったり、するものではない。
話し合うときも、一人一人は対等、何かを決めるときも対等、一人一票だ。
私が誰からも相手にされず、犯罪反対派の中心が他の誰かになっても、それでいいのだ。
すべては自然に流れる。
固定化はないのだ。
縦社会、横社会、24,8,15
独裁国家は縦社会だ。自由がない。
民主国家は横社会だ。一人一人が対等な社会なのだ。
縦社会では上の強制や命令で苦しむ人がいる。
それを解放する横の繋がりを作るため、自由と民主主義がある。
縦社会でなければ、国家は成立しないと言う意見もあるが、私はそう思わない。
上の命令に従うのではなく、みんなで話し合って決めればいいだけだ。
個人を最大限尊重し、個人の自由を最大限尊重する。
法の下の平等と自由と民主主義、強制のない自由な横社会を目指して行こうではないか。
横の繋がりの中に、自由と民主主義がある。
上の命令や強制があるなら、そこに自由はない。
国をバラバラにしようとしているのではない。我々は横の繋がりで結束できる。
みんなで問題を解決し、犯罪を撲滅することができるのだ。
横社会でも管理職と管理職ではない人はいる。
しかし、人間としては対等であり、管理職も平社員も、そこにあるのは身分の違いではなく、役割の違いなのだ。
対等だからこそ、自由にものが言える。
人間として対等に認められない社会では、決して自由はない。
縦社会を横社会に変えて行くことは、個人の解放に繋がる。
誰も上の命令や強制に縛られる必要はない。だからと言って、他人に迷惑をかけることを放っておくことにもならない。
あくまで法律と話し合いで解決する。
人々を命令と強制から解放しようではないか。
法律と上下関係、24,8,16
法律よりも上下関係が重視される悪魔のような社会を作ってはならない。
法律よりも上下関係が重視される社会、
それがガチガチの独裁国家なのだ。
中国や北朝鮮のような国を作ってはならない。
自由と民主主義の欠片もない。
話し合い、24,8,26
私は何かを変えようとしているのではない。
まず、みんなで話し合おうと言っているだけだ。
話し合うこと自体が日本文化の破壊なのだろうか?
話し合うことを許さず、ただただ、上の命令に従う、それが日本の文化なのか?
犯罪賛成派の言っていることは、自由主義の否定、民主主義の否定である。
それでは、日本は自由主義でも民主主義でもない、法治国家でもない。
ただただ、犯罪行為を手段とする独裁国家である。
独裁国家、犯罪国家、が日本の文化なのだろうか?
話し合いをすることが、日本文化の破壊なのか?
大和とは話し合うことでしか生まれない。
和する心は民主主義にしか生まれない。
上下関係ではなく、みんなが対等に話し合うことでしか、大和は生まれない。
上下関係ではなく、独裁ではなく、みんなで話し合う大和の国を作ろうではないか。
縦社会ではなく、もっと横の繋がりを重視しようではないか。
それが、自由主義であり、民主主義であり、法治国家だ。
日本を変えるにしても、変えないにしても、まずは話し合いから始めるべきだ。
一人一人が事実を知り、考え、意見を言い、話し合う。
国民をただ命令に従うロボットにしてはならない。
自由に自分の思うことも言えない、それは決して、自由主義でも民主主義でも法治国家でもないのだ。
国民は権力に圧迫され、閉塞感に苦しんでいる。
言論の自由を奪う権利は誰にもない。
自分の思うことを自由に言い、みんなと話し合うことなしに、日本の未来はないのだ。
国民一人一人が考えず自分の意見も持たない、ただただ、命令に従うロボットになれば、日本は終わる。
日本人じゃない、24,8,27
犯罪賛成派は、私のことを日本人ではないと言う。
なぜなら、私は自分の意見を持ち、自分の判断で動き、おかしいことはおかしいと言うからだ。
犯罪賛成派に言わせれば、権力に従順に従うのが日本人なのだ。
本当に、日本人とはそういうものなのか?
本当に、それでいいのか?
自分の意見を持たず、権力に従順に従うだけの人間は人間ではない、ロボットだ。
死人だ。
そんな人間が増えれば、日本は破滅する。
人間は真実を知るべきであり、真実を知って自分で考えるべきであり、自分の責任と判断で動くべきだ。
各自が自分で考え、自分の判断で動かなければ、その国は廃墟と同じだ。
夢も希望もない。
日本人、中国人、朝鮮人、24,8,29
犯罪賛成派は、日本の権力者に従うことが日本人らしさだと言う。
ならば、中国人は中国の権力者に、朝鮮人は朝鮮の権力者に従うのが中国人らしさであり、朝鮮人らしさなのか?
私にはただの独裁者の横暴としか思えない。
ただ単に、自分たちの都合のいい、自分たちに従順なロボットを作ろうとしているだけではないのか?
中国や北朝鮮と違い、
日本は民主主義の国であり、自由であり、多種多様な個性があっていい国だからすばらしいのではないか?
自分で判断できない独裁者に従うロボットが推奨されるなら、日本も中国や北朝鮮と同じではないか?
一人一人が考え、その中で、結束と心づかい、良心がつちかわれるところが、
中国や北朝鮮にない、日本らしさなのではないのか?
それが和ではないのか?
犯罪賛成派の言う日本人らしさと他国の独裁とは何が違うのか?
人間に上も下もない。それぞれの個人を人間として平等に見て、他人を尊重する。
この考えが、なぜ共産主義だと非難をあびるのか?
日本らしさを履き違えているのは、犯罪賛成派だろうか?それとも私だろうか?
常識、24,8,30
犯罪反対、民主主義、自由、多種多様な考え、個性を認めて互いに尊重し合うこと。
これらは、日本人なら誰もが賛成できる考えではないのか?
それにたえず、日本の政治家や知識人たちがマスメディアを使って訴え続けていることでもある。
それなのに、なぜ、こんなにも多くの犯罪賛成派がいるのか?
私の言っていることは当たり前のことなのだ。それなのに、なぜ、こんなにも多くの人間が反対するのか?
当たり前のことが当たり前に通る世の中、それがなぜ、度を越えた理想なのか?
それがなぜ、偽善であり、きれいごとであり、臭いセリフなのか?
なぜ、私は幼稚だと言われるのか?
私の言うことは、基本中の基本であり、日本の基盤ではないか。
いろいろな政治問題、社会問題があるが、まず、最初にするべきは、当たり前を当たり前にすることではないか?
日本が法治国家であり、民主国家でなければ、いかなる問題も解決できない。
日本が法治国家、民主国家であることが、そんなに途方もない理想なのか?
言っていることと、やっていることが、ぜんぜん違う人間が多過ぎる。
ユーチューブ、24,9,2
ユーチューブを見ると急速に極端に疲れる。座ってられない。しばらく、横になってじっとしているしかない。
風呂に入ると疲れる、身体が洗えない。
ゲームをやるとすごくいやな気持になる。
暴力と犯罪で国民を支配する犯罪賛成派を許すことはできない。
暴力と犯罪に反対しようではないか、権力の強制に反対しようではないか。
もちろん、誰にも強制しない。
強制は犯罪賛成派のやり方だ。
我々は言葉で非難するべきだ。何が悪いのか、明らかにし説得するべきだ。
陰でやられている犯罪行為を大声で言うべきだ。
事実を明らかにし、正論を犯罪賛成派に、犯罪賛成派が犯罪行為をやめるまで、言い続けるべきだ。
日本を救うため、世界を救うため、犯罪者と戦うべきだ。
現在の犯罪被害者と未来の犯罪被害者を救うべきだ。
犯罪反対派と犯罪賛成派の戦い、犯罪賛成派が勝利すれば、世界は崩壊する。みんなが上幸になる。
世界を救うためには絶対に犯罪反対派が勝つしかない。
これは善と悪の戦いであり。
世界の繁栄と崩壊の分かれ道でもあるのだ。
世界人類のために身を捧げるべきだ。
犯罪賛成派と戦うことは命がけだ。
だから、強制はできない。
自分のできる範囲内でいい。
世界人類の破壊者、犯罪賛成派に反対してくれ。
もし、犯罪賛成派が勝利するなら、人類の破滅は確定している。
上幸、24,9,2
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
北朝鮮、中国、24,9,2
北朝鮮や中国は上幸な人が多い。
国が独裁、暴力、犯罪、強制で支配されているからだ。
それが、犯罪賛成派が支配する世界なのだ。
この世の地獄だ。
屈朊、24,9,9
暴力と犯罪の支配を国民が認めてしまえば、日本全国に暴力と犯罪が蔓延してしまうだろう。
地獄の時代の始まりだ。
そうやって、中国も北朝鮮も作られた。
権力の圧迫を感じない人にとって、私の言うことは戯言に過ぎない。
しかし、権力の圧迫を肌で感じている人間にとっては、私の言うことは恐るべき現状である。
権力の圧迫を肌で感じている人だけでもいい、暴力と犯罪に屈しないでくれ。
暴力と犯罪に反対してくれ。
一人一人のやり方でいい。
もちろん、犯罪賛成派に反対するのは命がけだ。
犯罪賛成派は何をするか分からない。
しかし、日本のためにも世界のためにも日本国民が暴力と犯罪に反対することが必要上可欠なのだ。
無理のない程度に反対してほしい。
日本が暴力と犯罪に屈してしまえば、その影響は世界に波及する。
世界を暴力と犯罪が支配するようになる。
権力の圧迫を感じるなら、一人一人が自分で考え、善悪の判断をし、善に従うことが必要上可欠なのだ。
でなければ、世界は悪一色に染まる。
日本は法治国家。犯罪に反対することは国民の義務である。
犯罪行為に対し反対の声を上げることは当然であり、人間として、基本中の基本だ。
でなければ、日本は暗黒となり、世界も暗黒となる。
言論の自由の否定は即、民主主義の否定となる。
言論の自由の否定は、日本の終わりを意味する、そして、世界の終わりを意味する。
今、自分の良心に従い、声を上げなければ、もう、取り返しのつかないことになってしまう。
屈朊、必要上可欠、24,9,9
くっぷく、が、屈朊、と表示されてしまう。
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
嘘つき、24,9,9
犯罪賛成派は大噓つきだ。
何も犯罪賛成派の言うことが全部嘘だと言っているわけではない。
犯罪賛成派の判断基準は善か悪かではなく、自分たちに都合が良いか悪いかだけなのだ。
自分たちの利益になると思えば、平気で嘘をつくし、暴力も振るう、平然と犯罪行為もする。
犯罪賛成派は、私が共産主義者だと嘘をついていた。私がやろうとしていることは共産主義革命だと言うのだ。
もちろん、私は共産主義者ではないし、革命など、とんでもないことだ。
犯罪賛成派は、当然そのことを知っていた、知った上で故意に嘘をついたのだ。
私が共産主義者と言うことになれば都合が良いからだ。
私が共産主義者ならば、人々の支持を受けなくなるからだ。
犯罪賛成派は、嘘をつくだけではない、私に共産主義者になることを強要した。
そして、暴力革命を起こすことを強要した。
暴力革命を起こそうとしていたのは私ではない、犯罪賛成派なのだ。
私に暴力革命を起こすことを強要していたのだ。
私が暴力革命を起こせば、私を潰せるし、自分たちの正義を主張できると考えたからだ。
私は自分の政治思想を実現しようなどと思ったことは一度もない。
ただ、合法的に暴力と犯罪に反対しただけだ。
私は政治家にはならないし、なれない。
犯罪に反対するだけで政治家になれるのか?
自分の政治思想が犯罪反対だけの政治家なんていないだろう。
基本的に今の政治体制でいいと思っている。選挙で政治家を選ぶことに賛成だ。
ただ、可能な限り、情報公開するべきだと思うし、ガラス張りの政治を実現するべきだと思う。
そして、国民の意見の尊重。重要なことは国民投票で決めてもいいのではないか。
情報公開と国民投票で間接民主主義から、直接民主主義に近づけたい。
嘘ok、暴力ok、犯罪ok、で良い政治ができるわけがない。
国民が法律を守るように、当然ながら、政治家も法律を守るべきだ。
民間では絶対ないような、とんでもないことを政治家はしている。
国民の当たり前を政治家の当たり前にするべきだ。
政治家が人の上に立つ人間だから聖人賢者なるべきだとは言わないが、せめて、一般人レベルになってほしい。
犯罪賛成派は、嘘、暴力、犯罪を平気で使う。
犯罪賛成派は、まったく信用できないし、してはならない。
私の望みは犯罪の撲滅であり、それ以上でも、それ以下でもない。
犯罪の撲滅が国民の平和の礎であり、幸福の礎であると思うからだ。
100%絶対、24,9,19
犯罪賛成派は、100%、絶対に勝てない。
犯罪反対派は、100%、絶対に勝てる。
ただ、戦いがいつ終わるのか分からない。
和の心、24,9,30
日本の法律が守れないなら、日本から出て行けばいい。
暴力と犯罪を否定し、あくまで話し合いで、解決し和合することが日本民族の誇りである。
それが和の心、大和の心である。
為政者はあくまで徳を持って、自由と話し合いで国民をまとめるのであり、
暴力と犯罪で力ずくで国民を抑えることは、日本人として恥である。
犯罪賛成派は、歴史上、日本最大の恥である。
和の国、日本の精神に100%逆行している。
暴力と犯罪で国を支配したいなら、中国や北朝鮮、ロシアにでも行けばいい。
暴力と犯罪がなぜ正義なのか?日本人にはまったく分からない。
日本人に限らず、世界の正常な人間ならば、暴力と犯罪を肯定する犯罪賛成派の主張はまったく分からないだろう。
暴力と犯罪は人類最大の恥であり、最低の人間の行為なのだ。
和の国に、暴力と犯罪は必要ない。
上可能、24,9,30
日本を法律と話し合いでまとめることは十分可能である。
しかし、暴力と犯罪でまとめることは100%、絶対に上可能だ。
上可能、24,9,30
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。
圧殺、24,10,4
武力さえあればいい。武力さえあれば、いつでも国民を圧殺できる。
それが、犯罪賛成派の考えだ。
私は武力ではまったく、犯罪賛成派にかなわない。
いつでも犯罪賛成派は私を殺すことができる。
武力では、まったく犯罪賛成派の相手にならない。
しかし、だからと言って、犯罪賛成派は正論を武力で圧殺することができるのか?
もし、正論を武力で圧殺できるとしたら、この国は最低最悪の国だ。
私は絶対に武力で争わない。
なぜなら、どちらが強いか?ではなく、重要なのは、どちらが正しいか?だからだ。
自己保身、24,10,14
権力者が暴力と犯罪行為で国民を圧迫する理由は、国民を圧迫しなければ、自分たちの身が危ういからである。
権力者が国家国民を暴力と犯罪行為で圧迫すればするほど、国家国民は上自由に上幸に貧乏になっていく。
完全に、北朝鮮、中国、ロシアなどは、国家運営に失敗している。
失敗しているのが自分たちでも分かっている。
しかし、もう、国民を圧迫しないで済む方法はない。
国民を圧迫しなければ、自分たちの身が危うい。
自分たちより、国家国民の利益を優先するなら、今すぐ、暴力と犯罪行為をやめるだろう。
しかし、権力者は、国民が貧乏になっていも、餓死しても、暴力と犯罪行為をやめない。
国家国民よりも、自分たちのことが大事だからだ。
だから、我々国民は絶対に暴力と犯罪に反対しなければならない。
法治国家、民主国家、自由が、国家の発展と安定の礎だからだ。
それが、国民の幸せの第一歩だからだ。
言動の自由が、発展の礎だ。
自由のない国は、追い詰められていく。
北朝鮮が、その最たる例だ。
だが、北朝鮮は、もう戻れない。
国民を自由にしてしまえば、自分たちの身が危うい。
国民を圧迫し、国民を苦しめるしかない。
もし、自分たちより、国家国民の幸せを考えるなら、今すぐ、国民を自由にするだろう。
国家国民より、自分たちを優先する権力者がいる国は最悪だ。
国民は最悪の状況になる前に、暴力と犯罪に絶対反対するべきなのだ。
自分たちの身の安全のために、国民を圧迫する権力者が出れば、権力者は後戻りできない。
自分たちより、国家国民を優先する権力者がいる国は自由の国であり、最高の国だ。
法治主義、民主主義が国家国民の幸せのために、最も重要なのだ。
上自由、上幸、24,10,14
ふじゆう、が、上自由、と表示されてしまう。
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
選挙、24,10,18
選挙に意味はあるだろうか?
今の選挙にはたくさんの問題がある。欠陥がある。
しかし、言えるのは、選挙のない国より、選挙のある国の国民の方が幸せだということだ。
北朝鮮、中国には選挙がない。民意が政治にまったく反映されない。
ロシアは大統領に逆らう者は投獄されるか、暗殺される。
大統領に逆らう者は選挙に立候補するどころか殺されてしまう。
大統領に逆らえば、立候補し、演説し、国民の審判を得るどころか、殺されるのだ。
こんな選挙が選挙と呼べるだろうか?
香港の立候補者は中国共産党が決める。
やまり、香港でも、中国共産党に逆らえば、演説もできないし、立候補もできない。
中国共産党に決められた立候補者の中から、選挙で政治家を選ぶ。
こんなのが選挙と呼べるだろうか?
まったく民意が反映されない。
犯罪反対派は演説も立候補もできない。犯罪賛成派だけが演説し、立候補し、政治家になることができる。
犯罪賛成派だけの選挙なのだ。
こんな選挙、やる意味があるのか?まったくない。
こんな選挙、選挙と呼べるだろうか?、まったく選挙ではない。
これは民主主義だろうか?ただの独裁だ。
まったく、国民を無視した、犯罪賛成派のためだけの選挙だ。
革命、変革、24,12,13
犯罪反対派には、政治思想がない、政治政策がない、社会政策もない。
ただ、事実を明らかにし、法律に従うのみだ。
自分のやったことは、各自、自分で責任を取る社会を作りたいだけだ。
一般の社会人は自分のやったことの責任は自分で取る。
そして、子供たちにも、自分のやったことの責任は自分で取るのだと教える。
しかし、犯罪賛成派は正反対の意見だ。
例え人を殺しても法的責任を取ることはない。公表しないから、社会的責任を取る必要もない。
だから、犯罪賛成派はやりたい放題だ。
犯罪反対派と犯罪賛成派の違いは、自分のやったことの責任は自分で取るか、取らないかだ。
犯罪者は罪を犯して、法的責任を取らずに逃げ回る。
自分の責任を取らない。
バレなきゃいい、それだけだ。
政治とか、社会改革とか、そんなレベルの高い問題ではないのだ。
ただ、自分の犯した犯罪から逃げ回っている。それだけだ。
なぜ、日本がメチャクチャなのか、
それは重要な人物が法的責任も社会的責任も一切取ることがない、取らなくていい社会だからだ。
犯罪反対派が勝っても、社会は変わらない、ただ、犯罪者が逮捕されるだけだ。
犯罪賛成派が勝てば吊実ともに無法犯罪国家の出来上がりだ。
だれも、法律など守らない。終わりだ。
ただただ、無秩序な世界が広がるだけだ。
これからも、政治家は選挙によって選ばれる。
私は立候補しない。
私は政治や経済に詳しい人間ではないのだ。
ただ、政治の透明性は必要だと思っている。そして、民意を反映させることが重要だと思っている。
犯罪賛成派は、犯罪反対派に苦しめられているのではない。自分の犯した犯罪に苦しめられているのだ。
犯罪賛成派の行為は、責任を取らなくていいからやったことなのだ。
法的責任、社会的責任があると思えば、犯罪行為などしなかった。
一般人が犯罪を犯さない一つの要因は、自分の責任は自分が取るということが常識だからだ。
犯罪賛成派が次々と犯罪行為を行うのは、責任を取る必要がない、自分は特別な人間だと思うからだ。
犯罪賛成派に法の下の平等はないのだ。
犯罪賛成派は自由に犯罪行為が許され、一般人は犯罪を犯せば、法の裁きがある。社会的制裁もある。
吊実ともに、24,12,14
めいじつともに、が、吊実ともに、と表示されてしまう。
話し合うこと、24,12,17
今の状態ならば、人々に公共の場で犯罪反対を訴える人がいてもいいのではないか?
犯罪反対のため、選挙に立候補し、何人もの人間が犯罪反対を訴えるのが普通ではないか?
犯罪反対派には発言権がない、言論の自由がない。基本的人権さえない。
あるのは薬物による拷問だけだ。
今の社会は拷問で成立しているのだ。
国民に薬物投与して、物事を決めてもいいのか?
今のままでは、すべてがダメになってしまう。
今必要なのは、薬物投与で物事を決めることをやめさせることだ。
国民に平等の参政権を与え、発言権を与えるべきだ。
拷問で物事を決めるのではなく、話し合いで決めるべきだ。
拷問をやめ、すべての人間に発言権を与えるべきだ。
拷問ではなく、話し合いで物事を決めること。
それが人類の歴史が作り出した最高の文化ではないか?
力で物事を決め、権力の反対者を薬で抑えこみ、話し合いを拒否するなら、これは人類の破滅の道である。
自由に発言し、自由に話し合う、あらゆるメディアで自由に自分の意見を言う。
話し合うことでしか、理想の国家、国民が幸せになる国家は生まれない。
民主国家、法治国家、言論の自由、基本的人権の尊重、誰でも平等な発言権、参政権。
この基本中の基本があれば、この社会にも光はあるのだ。
当たり前のことが当たり前であれば、我々はどんな困難をも制することができる。
言論の自由をさまたげる人間に、みんなで反対し、発言の自由を取り戻そうではないか。
権力に口をつぐんでしまうことが最悪の結果をもたらすことは、人類の歴史が証明しているではないか。
独裁の続く、北朝鮮や中国、ロシアの国民が幸せになれるだろうか?
民主国家、25,1,17
インターネットの普及により、権力者の裏事情が暴露されている。
その結果、マスコミ、警察、政治家の信用は失墜した。
政治家、マスコミ、警察が信用されない中、よく国家が成立していると上思議に思う。
一部の人間が国民をコントロールする独裁から、国民の幸せを考えた民主主義へ変わろうとしている。
自由国家、民主国家、国民による国民の幸せを考えた政治に変わろうとしている。
国民中心の自由国家、民主国家を作る方法はただ一つ、
事実を徹底的に明らかにし、犯罪に反対することだ。
愚直に、それを続けることで、国民中心の民主国家、自由国家は実現されるのである。
国民の国、自由の国、民主主義の国、国民が幸せになれる国を作る方法は極めて単純である。
馬鹿、25,1,17
事実を明らかにし、違法行為を法によって裁くと国は独裁国家になってしまうと支配者は言う。
頭がおかしいとしか言いようがない。
事実を明らかにし、違法行為を法によって裁くことにより、確実に日本は民主主義へと変わっていくのだ。
国民が幸せになれる国を作る方法は単純、事実を明らかにし、明確に犯罪に反対することである。
この子供でも分かる、極めて基本的なことをするだけで、日本は正しい方向に向かい、国民は幸せになるのだ。
上思議、25,1,17
ふしぎ、が、上思議、と表示されてしまう。
マスコミによる権力の監視、25,1,24
マスコミには、権力者の腐敗を監視する役割がある。
今のフジテレビ問題を考えるとマスコミ自体が腐敗しているとしか思えない。
マスコミによる権力監視というより、マスコミと権力は持ちつ持たれつと言ったところか。
マスコミによる権力監視という効力は期待できない。
ここで非常に重要になってくるが、ネット民による権力監視である。
だいたい、フジテレビの問題も、ネットがなければもみ消されていただろう。
国民のネットによる権力の監視。
政治家や権力者は、出来る限り、ネットに情報を公開するべきだ。
まずは、税金の使い道をネットにすべて公開するべきだ。
ネットには悪い点と良い点、どちらもある。
嘘やデマが広がり、自殺に追い込まれた人もいる。
ネットの長所を伸ばし、悪い点は改善するべきだ。
権力者はネットに否定的な意見を持つ、なぜなら、これまでの悪事が全部バレそうだからだ。
権力者にとって、マスコミはコントロールしやすく、ネットはコントロールしにくい。
ネットによる情報公開法の制定が急務である。
ネットによって、国は民主化されるかもしれない。
大勢の犯罪、25,2,14
犯罪賛成派は、大勢で犯罪を犯せば、捕まらないし、改善する必要もないし、反省する必要もないと言っている。
人類全体で罪を犯しても、それが許されるわけではない。
人類全体が下降し、上幸になるだろう。
みんなで悪いことをしたときは、事実を認め、みんなで改善し、反省する必要がある。
事実を無視し、自分たちの罪を認められなくなれば、行く先は人類滅亡である。
犯罪賛成派が犯罪を継続していることで、大きな搊失が出ている。
悪いことをしたときは、事実を認め、改善するしかない。
でなければ、どんどん、社会や経済は悪化の一途をたどる。
大勢で犯罪を犯し続ければ、誰もとめる事ができないし、それでいいという考えは絶望的考えである。
どんどん搊失は増え、莫大な搊失を社会は受けるだろう。
法律を遵守することは、法治国家の人間として当然のことだ。
違法を肯定することは悲劇的結果に終わる。
なるべく早く事実を認め、みなで考え、改善、反省が必要だ。
違法行為を肯定するようになれば、社会は終わりだ。
事実を認め、反省、改善、新たな一歩を踏み出すべきだ。
上幸、搊失、25,2,14
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
そんしつ、が、搊失、と表示されてしまう。
暴力強要、25,2,17
犯罪賛成派は、私に薬を投与し、強制的に、私が私の家族に暴力を振るうように仕向けている。
最悪の状態、25,2,17
多くの人間が犯罪賛成派の側についた。
その結果、誰も、犯罪者に文句を言えなくなってしまった。
社会は最悪の状態となった。
精神的にも、経済的にも、人間的にも。
今はだた、白昼堂々、犯罪者が犯罪行為をするだけだ。
恐怖政治、25,2,19
カネも力もない奴は発言権もない。
そうやって作られたのが共産主義国の恐怖政治だ。
民主主義とは、カネのある者もない者も、力がある者もない者も、平等に参政権があるということなのだ。
民主主義を完全に無視した独裁は、全人類を上幸にした。
上幸、25,2,19
ふこう、が、上幸、と表示されてしまう。
辞任、25,2,24
今の状態は、だれかがやめることで解決するような状態ではない。
法律が支配する法治国家なのか、人が支配する独裁、犯罪国家なのか、という問題だ。
法律を守るのか、それとも、法律を無視し、犯罪行為を継続していくのか、という問題だ。
犯罪行為をやめさせる。犯罪反対派の要求は、それ以上でも、それ以下でもない。
犯罪反対派はだれかをやめさせることに興味はない。
犯罪反対派の主張は、犯罪行為をやめさせることにあるのだ。
だれがやめても、何百人、何千人がやめても、まったく、問題解決にならない。
今、継続されている犯罪行為をやめさせる以外に、問題解決はない。
法律を無視し、犯罪行為を継続している限り、国民の安全は保障されないのだ。
世界秩序、25,3,1
ウクライナが見捨てられた。
強い者が弱い者を殺して当然の世界になってしまった。
今度ばかりは、私もウクライナへ行って共に戦いたいと思った。
日本もヨーロッパも台湾も、明日は我が身だ。
もう少し、25,3,2
あともう一歩でロシアは戦えなくなる。
トランプは、これまでのウクライナと西側諸国の平和への努力を台無しにしてしまった。
反プーチン、25,3,4
プーチンは非暴力な自国民を大勢殺している。
プーチンを支持する者は非人道的と言う以外にない。
そして、今や、反プーチンは自動的に反トランプになる以外にない。
今こそ、世界中の反プーチンは、反トランプとして結集するべきだ。
支援疲れ、25,3,4
今、ウクライナに対する支援疲れが話題となっている。
ウクライナも苦しいが自分たちも苦しい、もう今まで通り支援できないというのは理解できる。
アメリカのカネはアメリカ国民のものであり、各国のカネは各国の国民のものである。
その使い道は、各国の国民が決めればいい。
自国優先で、自国の困っている人に使いたいというなら、そうすればいい。
しかし、トランプのようにプーチンの仲間になる必要はない。
支援疲れとプーチン支持はまったく違う話だ。
トランプは、自由と民主主義を裏切ったのだ。
連投、25,3,17
犯罪賛成派は、私に今の地位を誰かに替われと脅迫してきている。
私の地位といっても、私に地位があるわけではない。
24時間、放送されている。ただ、それだけだ。
我々はみな平等だ。誰かが24時間、放送されるのに、私は反対しない。
それで対等な地位になる。
私はいかなる組織の長でもないし、私の言葉に強制力はない。
私の発言は、他の国民の発言と何ら変わりはない。
発言を参考にしたいと言う人が参考にし、参考にする価値がないと思う人は参考にしない。
これから、私の言葉を参考にする人が増えるかもしれないし、皆無になるかもしれない。
私の言葉は、裁判官の命令や行政の長の命令のように強制力はないのだ。
だから、やめることはできない。
私をやめさせたいなら、私の発言権を奪うしかない。
発言権は全国民に与えられた当然の権利ではないか。
野球の投手に例えて、私に交代しろと犯罪賛成派は言う。
私は右肩が痛くて痛くて夜も眠れない。
夜、右肩の痛みで目がさめ、眠れない。
発言権はすべての国民が生まれてから死ぬまで与えられる権利である。
24時間、放送されたい人がいるなら、自由に放送されればいい。
大統領が選挙もなしに、一生、やり続けるのは問題だ。
なぜなら、大統領の命令には強制力があるからだ。
その人の命令に強制力がない地位にあっても、何も意味がないし、したがって、やめる必要がない。
誰であっても、24時間放送されることに私は反対しない。
24時間放送されるなら、その人は私と同じ地位にある。
何百人でも何千人でも、私と対等な地位を作ればいいのではないか?
私をやめさせる意味はない。
世代交代、25,3,19
私と同じ24時間放送される人間が他に何人もいてもいいのではないか?
それらの人は私と対等な立場にあるのだ。
そして、世代交代は自然と行われる。
大統領や首相は何人も作ることはできないが、
私の地位と同等な人間は何人でも作れる。
私は言論の自由の下、発言しているに過ぎない。
私のように24時間放送されて、私より信用される人間が出れば、いつでも、私に取って代わることができるのだ。
傀儡、25,3,19
犯罪賛成派は、私と誰かを替えて、傀儡を作ろうとしている。
また、この放送が終われば、私が傀儡となる。
この放送がなくなれば、犯罪賛成派は、限度なく、私に拷問することができるからだ。
独裁から法治主義へ、25,3,24
犯罪賛成派の主張は、独裁、犯罪、嘘は必要上可欠というものだ。
犯罪反対派の主張は、法治主義、民主主義、そして嘘を否定し真実を語ることだ。
人類は独裁、犯罪、嘘から、民主主義、法治主義、真実に進化してきた。
この流れは変わらない。
今、社会はこの流れの転換点にある。
犯罪賛成派は、この流れをとめようとしているが、とまらない。
私はただ、これを眺めている。推し進めようとしていない。
犯罪賛成派は、この流れをとめるように私に強要している。
私は断固拒否しているし、私にもとめようがない。
犯罪賛成派は、この流れの発端を作ったのは、この私なのだから、私にならとめられるという。
もちろん、この流れの発端を作ったのは私だが、私にもとめようがない。
私が始めようが始めないだろうが、遅かれ早かれ、社会は独裁から法治主義、民主主義に進化するものだ。
それが自然の流れなのだ。
犯罪賛成派のやっていることは無駄な抵抗というものだ。
社会が大きく動き始めている、もう、だれもとめられない。
この流れに逆らうことは、国民の労力、カネをドブに捨てるようなものだ。
日本民族は独裁、犯罪、嘘に塗り固められているから優秀なのではない。
日本民族は、法治主義、民主主義、真実、の中でも、さらに輝き続けるだろう。
今、起こっていることは社会の崩壊ではない、大いなる進歩なのである。
必要上可欠、25,3,24
ひつようふかけつ、が、必要上可欠、と表示されてしまう。
無欲、25,4,8
日本で一番有吊なお経は般若心経である。
般若心経は無欲の教えである。
しかしながら、ほとんどの人間が内容を理解できない。
人は悟りに向かって、小欲、大欲、無欲、と段階を追って進歩すると考えられている。
もちろん、例外的に小欲から無欲に至る場合もあるだろう。
小欲、大欲、は一般人でも理解できる。しかし、無欲の教えは理解上能である。
小欲というのは個人的な小さな願いである。ラーメンが食べたいとか、お金がほしいとか。
大欲とは個人を越えた願いである。例えば、世界が平和でありますように。とか。世界中の苦しむ人を救いたいとか。
無欲とは願いを持たないことである。
大欲が偉いことはみんなに分かる。世界の人々のために日夜、努力をおしまない。
無欲は誰も救おうとしない。
なぜ、大欲より無欲が上なのか?さっぱり理解できない。
大欲を持つ者は菩薩と呼ばれ人々からあがめられる。しかし、菩薩はあくまで修行の段階であり、悟りを得てない。
無欲の者は仏と呼ばれたり、如来と呼ばれたりする。悟りを得た者であり、これが仏教の終着点である。
宗教は二つに分かれる。一つは大欲、菩薩を目指すもの。一つは無欲、仏、悟りを目指すもの。
無欲は誰もが到達できるものではない。だから、大欲の教えを説いて大欲に導こうという大欲の道。
多くの宗教が大欲の宗教に分類できるのではないかと思う。
宗教ではないが、ボーイズビーアンビシャス、少年よ大志を抱けとかと同じだ。
夢と希望に満ち溢れた理想の教えである。
二宮金次郎も、聖人大欲、小人小欲と語っている。
金光教の教祖も、信徒に、私は欲が多くて困ると相談されると、欲を捨てるなと教えた。
そもそも、金光教の教祖自身、無欲に至っていない。人々を救いたいという欲を持ち続けていたのである。
教祖自身が無欲に至ってないのに、なぜ、信徒に無欲をすすめられようか。
金光教は菩薩の教えである。菩薩の境地に達すれば十分なのだ。
無欲の境地に至る者はまれのまれであり、一般人にすすめるべきではない。という考えである。
無欲の教えである仏教も、一般的には大欲の教えを教えることが多いのである。
無欲の教えは理解しがたい教えであり、人に恐怖を与えることもある。
無欲の教えは空の境地を目指すものである。空がなぜ至福なのか理解できる者は少ない。
空というと虚しい、寂しい、心細い、恐怖の教えと感じる人が多い。
大欲の教えが夢と希望、理想の教えであるのに対し、無欲の教えは、夢と希望を捨て、現実に直面する教えなのだ。
イエスは殺された。イエスによれば、イエスの前に生まれた聖者たちもみな殺されたとのことである。
イエスは無欲の教えに踏み込み、人々に恐怖され、殺されたのではないか。
私も無欲の教えを話したところ、権力者に暴力と犯罪で排斥され、迫害された。
今も毎日、拷問は続いている。
大欲の教えは救いを求める人に対する感情的な教えであり、まごころの教えである。
無欲の教えは、救いを求めるよりも真実を求める人に向いているように思う。感情ではなく論理的教えなのである。
大欲の教えは一般的な人にすすめられる。
一方、無欲の教えは、非論理的な説明に紊得できない人、人の空想や想像ではなく現実に直面したい人にすすめられる。
有吊、理解上能、紊得、25,4,8
ゆうめい、が、有吊、と表示されてしまう。
りかいふのう、が、理解上能、と表示されてしまう。
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
白光会の五井先生、25,4,8
白光会の五井先生は悟りを得た宗教家だと私は思っている。
五井先生の教えは大欲の教えである。
世界人類平和の祈りである。
しかしながら、五井先生はたまに無欲の教えも話した。
五井先生は祈らない、なぜなら、祈りは本当は必要ないからだ。とみずから、自分の教えを否定している。
五井先生の中心の教えは世界人類平和の祈りであり、自分の教えを全否定するような話を自分でしている。
そして、その後も、世界人類平和の祈りの教えを広め続けた。死ぬまで。
宗教の結論は結局、宗教は必要ないというところに落ち着く。
2千年前、イエスから無欲の教えを聞いた人々は、宗教のすべてが崩壊するのを感じたのかもしれない。
そして、イエスは殺された。
しかしながら、私は五井先生がしたように、無欲の教えと大欲の教えは共存できるのではないかと今は思っている。
法と独裁、25,4,17
この世界には、国家を法の支配とする法治主義者がいる。そして、法律に基づいた民主主義を訴える者がいる。
それが犯罪反対派である。
一方、権力者が国家の頂点に君臨し、法律をまったく無視し、事実を国民に伝えず、国民の話し合いを認めない。
独断で国家を支配し、法律も国民による話し合いも、まったく無視する無法者がいる。
犯罪賛成派である。
人類は一部の権力者による独裁から、法の支配による法治国家へと進化してきた。
人類は一部の権力者による独裁から、国民による話し合いで国家を運営する民主主義へと進化してきた。
今や、法治主義、民主主義は当然のことである。
しかしながら、法と民主主義を絶対に認めない無法者がいる。
犯罪賛成派である。
今、独裁と暴力から、法と民主主義に進化できないならば、人類は終わる。
今こそ進化のときなのだ。
正々堂々、25,4,19
正々堂々、国民の前に事実を明らかにし、正々堂々、法律に従い。
正々堂々、国民一人一人が意見をハッキリ言い。正々堂々、国民全員で話し合おう。
何も隠さず公明正大であること、隠蔽や裏工作は必要ない。
誰かが支配者で国民が従う国にしてはならない。この国は誰のものか?
誰のものでもない。国民一人一人のものだ。
国家の未来は国民一人一人が決めるのだ。
誰にも従う必要はない。媚びへつらう必要はないのだ。
国民全員で話し合ったら、国民全員の多数決で国民全員が紊得できる結論を出す。
この国は国民全員のものであり、誰も支配者になれない。誰も支配者に従う必要はないのだ。
ただただ、正々堂々、一人一人がものを言い、話し合い、最終的には多数決でものごとを決定する。
この国は国民のものであり、国民一人一人が支配者なのだ。
何も恐れる必要はない。誰にも遠慮はいらない。
我々全員が支配者であり、国家のトップなのだ。
正大公明、それが法治国家の意味であり、民主国家の意味なのだ。
国民を従わせようとする支配者に、国民全員で抵抗するべきなのだ。
紊得、25,4,19
なっとく、が、紊得、と表示されてしまう。
法律と犯罪、25,4,23
犯罪反対派、対、犯罪賛成派、の戦いは、
法治国家、民主国家、対、独裁国家、犯罪国家、の戦いだ。
北朝鮮、中国、ロシア、などの独裁者同様、犯罪賛成派も絶対に言論弾圧の道をおりることができなくなってしまっている。
犯罪賛成派も他の国の独裁者のように、とことん自国民を苦しめるだろう。
犯罪賛成派にとって自国民の言論弾圧をやめることは破滅に等しい。
しかし、国民の言論の自由を保障し、国民を自由にし解放しない限り、問題の解決はない。
私個人を悪者にでっち上げることに意味はないのだ。
言論の自由を保障し、民主主義を認めば、犯罪賛成派は、自分たちがやってきた犯罪行為の責任を取らざるを得なくなる。
一般国民のように、法的責任を問われる。
それは犯罪賛成派にとって、破滅を意味するのだ。
平行線、25,4,24
犯罪反対派の要求は現在進行形の犯罪行為をやめてほしい。ただ、それだけだ。
そして、犯罪賛成派は犯罪行為をやめるわけにはいかないのだ。
犯罪行為をやめれば、犯罪賛成派は破滅する。犯罪行為を継続することでのみ、犯罪賛成派は生きて行けるのである。
だから、永遠に犯罪反対派と犯罪賛成派は平行線なのだ。
仕事ができない。25,4,24
仕事ができない。犯罪賛成派に薬を投与されるせいだ。
読書もスポーツもできない。
犯罪賛成派は犯罪行為によって人の人生を潰してきたし、これからも、潰して行くだろう。
問題、25,4,24
犯罪賛成派が犯罪行為を乱用しなければ、何の問題もなかっただろう。
正々堂々と合法的に問題を解決しようとすれば、問題なかったのだ。
問題解決のために、犯罪賛成派は犯罪行為を乱用した。
その犯罪行為のために、絶対に解決上可能な問題が出来上がってしまった。
上可能、25,4,24
ふかのう、が、上可能、と表示されてしまう。